新書太閤記 03 第三分冊 / 吉川英治
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とばかり信長は、いよいよ上洛の軍をすすめ、逢坂山をこえた。
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、東福寺を出て諸国を巡錫し、乞われて、しばらく駿府の家人の第宅にいたが、義元の死後、内政ぶりもおもしろくないし、
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観音寺には、江南の豪族、佐々木承禎がいたし、箕作城には、その子の佐々木六角
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王族より出て、但馬の豪族となり、足利尊氏を扶けて、後、越前一国を領し、文明
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軍旅の費えにと、義昭もたっていうので、大津、草津、泉州境のすこしばかりな飛地を、信長はうけた。
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の飯尾隠岐守、岐阜城の物頭早川大膳、篠田右近、春日井郡から馳せ加わった下方左近将監――などがある。
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この客僧の恵瓊というのは、字は瑶甫、安芸の国沼田の産れで、京都東福寺に入って僧となった者である。
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この一月頃から、冬の海をのり越えて、続々、堺の浦へ上陸した兵は、いつのまにか、大漁の魚のよう
戦争の跫音だった。――足弱の避難につづいて、堺の財貨は、日々、堺の外へ搬出されて行った。
―足弱の避難につづいて、堺の財貨は、日々、堺の外へ搬出されて行った。
――とはいえ、由来、堺の町人には、大きな誇りと、権威のあったものである。
室町幕府も、衰微につれて、幾たびとなく、堺から金子を借りなければならなかった。その都度、それと交換条件に、租税
。この納屋持ちの豪商たちを納屋貸衆といって、堺では指折りの家とされている。その内から、十人衆という者
堺の今は、昼も夜半のようで、今にも戦火につつまれるかの
で、その看板以上、堺の町では通り者であった。変り者には違いない。
戦争が始まる、織田軍が侵入してくると、昼ながら堺の殷賑もまるで墓場のようにさびれているのに、塗師の亭主だけは、
の産とかいうはなしだが、いずれにしても、堺に住み馴れてからだいぶ古い。
「堺の町の運命も、どうなるやら知れぬというのに、わしの父も
。――一般の町の衆とちがい、自分は日頃から堺の町政にあずかる者、こういう場合に、町の衆の信望を裏切っては
ものでござる。お互いが、茶の幽寂の中から、堺の町を、どうしたら救い出せるか。冷静に、考え合ってみる時ではない
「今は、堺の町全体が、どうなるかという別れ目です。堺港が灰となるの
と、宗易は、声をひそめて、堺の町を救うについて、ここに一策があるがと、自分の考えを
「今思うと、この堺は、去年織田殿の軍が、入洛した当時に、みずから作ってしまった
。――あの折、織田殿の名をもって、この堺へも、二万金の賦課がいい渡されたのです。それを、背後にある
果たして、織田殿は二度目の上洛を機として、堺へ軍をすすめて来ました。……考えてみると、嗤うべき不明と
みずから滅亡を招いている愚者は、かくいう宗易をはじめ、堺の十人衆というものではありますまいか」
――では、どうして、危急に迫った堺を兵火の禍いから救うかと問われて、宗易は、直ちにいった。
二万金を船積みして、ひそかに、港を脱け出して、堺の町民は異心のない旨をちかい、何とか、兵火にかかることだけは
、去年も騒いだが、その時は、来なかった。堺など、眼の中にもないように、岐阜へ帰ってしまったのである
各※の私財から会所の公有金、そのほか悉皆、堺の現金を寄せあつめて、密かに、船へ移した。
から、誰か上陸って、信長の陣へ駈け込む。――堺の領民のほんとの総意を訴え出る。
われながら別人のように思えた。きのうの身はなお、堺の町の運命を案じると、死にきれない焦躁を覚えた。
堺の町も、九分どおり兵火はまぬかれるものと、安心していた。今日
、安心していた。今日にも、信長の軍勢は堺へ殺到しよう。身を潜めたゆうべの十人衆の仲間は、それと共に
宗易は、何ものも見えない暗黒の中に、やがて近づく堺の黎明と、同時に、自分の死とを見つめていた。
織田軍は、堺へ突入して来たらしい。
堺の平和は還って来た。――続々と町民の女や老幼も、近郷
同時に、信長は、堺の町政、自治の制度などを、すべて改変して自分の手に収め、堺
の制度などを、すべて改変して自分の手に収め、堺の代表者たちからは、謝罪文と誓紙とを入れさせて、なお、向後の
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一族の織田勘解由も、名古屋因幡守も。――佐久間も、丹羽も。
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なら帰します。彼はいやしくも一城の主、若年ながら摂津の尼ヶ崎に拠って、よく士気を治め、畿内の老雄に呼びかけ、胆斗の
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永禄十三年の正月、家康は、岡崎の城に、竹千代をおいて、自分は遠州の浜松のほうへ移った。
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をつれたのみで、道もない山間や渓谷を伝い、熊川から朽木谷方面へ、夜どおし逃げた。
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それでも足りないで、半兵衛は京都の大徳寺へ度々参禅した。――そして、戦と聞くや、いつも早馬で帰って
に通わせました。また、弱年からの禅学の師、大徳寺の笑嶺様も、与四郎も茶をやるか、それはよい、ぜひぜひつづけさせる
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「光秀。――桑名の滝川一益より、頻々、援軍の催促である。そちも、出向いて、ひと
そうでもない。あの智者――武勇もある一益が、桑名、蟹江の二城の兵力で、伊勢の北八郡、南五郡の北畠の
滝川一益は、桑名、蟹江の二城を指揮して、早くから伊勢と対峙していたこの
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養老の峰々は、江州との国境をなし、伊吹の山には、たえず雲が去来していた。
袖無を羽織り、朱房の鞭を手にして――伊吹の牧へよく乗りまわしに出るのだった。
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伊丹、池田、芥川、小清水、高槻などの諸城も、次々に織田の掃討軍の威力に整理されていった
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徳川家康に座を譲らせ、関白秀吉にさえ憚られ、奥州の独眼龍政宗を、僻地に封じこめた智謀雄略の風流武人、蒲生氏郷は、
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声であろう。竣工移館の盛宴の席で、彼はみずから銚子を捧げて、
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、刻々、沈んでゆく落日の大悲光こそ、さながら、やがて大坂城に、雄図の多恨と身辺の情恨を遺して、人寿の命ずるところ、遂に
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両三年前から、東福寺を出て諸国を巡錫し、乞われて、しばらく駿府の家人の第宅にい
本陣の東福寺へ突き出すと、信長は、よくしたといって、兵の具足を奪りあげ
東福寺の門前は、日々、夥しい往来だった。多くは京都の豪商や公卿たちで
東福寺の庭は佳い。泉石の奥は紅葉でまっ赤だった。
、彼は依然として変らない彼であるのに、東福寺へ参候して帰る人間といえば、争って、信長を賞めることを、
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甲州
独力ではなく、織田家とむすぶ一方、彼もまた、甲州の武田信玄と款を通じて、
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城を、龍興に返し、何もいわずに、越前の浅井家へ去ってしまったのである。しばらく、そこに食客してい
「越前より参ってござる。この岐阜城のお内に、縁故の者がおりますゆえ
。明智殿にはそも、何の御用で、はるばる、越前からこの御城下へは?」
「越前の朝倉家には、元より極秘。――途々の諸大名にも覚られて
若狭から越前へ移って、そこの朝倉義景へ身を寄せたところ、ここに、朝倉家
火中に失って、従兄弟の弥平治光春と、ふたりきりで越前へ落ちて行ったものである。そこの穴馬在では、数年の間
も出、長曾我部氏の兵法も窺ったろう。――そして再び越前の貧屋へ帰ってみると、糟糠の妻は留守のまに病死し、
家こそは、お味方として、必ず起とう。若狭、越前の二州が参ずれば、北陸の諸豪は、競って旗下に馳せ加わろう」
ことは、察していたので、むしろよい機と、越前から近江へ越え、浅井長政の小谷城へ一行と共に身を寄せて、
「越前の朝倉家について」
江州高島郡から若狭の熊川をこえて、越前の敦賀をさして進むのだった。行く行く、敵の砦や関を焼き立て
「そちは、越前に永く住いしていたこともあり、わけてこの地方から朝倉家の本城一乗谷
「この一城を陥したところで、越前が亡ぶわけではありません。この一城を抜いたところで、にわかに
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十六ぐらいな、腕白の殿と見申したが、今日、小牧のお城へ来て、一瞥いたすに、士規整然として、以前の
驚くべき大軍が、小牧を発し、洲股を陣地として、美濃へ向けられたのは夏だっ
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海外の天地も、海を隔てて想像したろう。海路、四国へも出、長曾我部氏の兵法も窺ったろう。――そして再び越前の貧屋
これは阿波三好党とよぶ四国の兵で、去年、京都から駆逐された十河一族が中心である。都落ち
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その朝、彼は衣服を正して、清洲城のうしろの林へ歩んだ。霜ふかい木の間道には、莚を敷き通し
その松平元康は三河から清洲城へ会見に来る予定になっている。信長は大いに歓待に努めようとその日を
清洲城へ参向あるという三河岡崎の松平元康を出迎えるためにであった。
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濠の唐橋は、焼け落ちていた。やがて一人の部将が大手門のわきから筏を出させ、十名ばかりの兵を乗せて迎えに来て
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江州高島郡から若狭の熊川をこえて、越前の敦賀をさして進むのだった。行く行く、敵の砦や関を焼き立て、山
を焼き立て、山また山をこえて、月のうちに、敦賀まで攻め入った。
すでに、信長は敦賀まで来た、と聞いた時も、まだ義景は、
敦賀を陥した織田軍は、そこを根拠地として、金ヶ崎と、手筒の二
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、若年ながら摂津の尼ヶ崎に拠って、よく士気を治め、畿内の老雄に呼びかけ、胆斗の如き男です。お味方にとって最も怖るべき
岐阜へ早打ちが着いた。本国寺の変や、畿内にうごく残党軍の状態が報じられたのである。
彼の鉄軍は、洛外から畿内へわたって、ふたたび時の氏神の威力を示した。
畿内の繁栄地は、その人口や経済力に応じて、それぞれ上納をいいつけられた。
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同時に、岐阜と改め、城も、岐阜城と呼び改めた。
稲葉山は、岐阜と改め、信長は岐阜城にすわった。
むしろ、岐阜城へすわってからは、寛々たる春日を送っていた。以前のように、
「実は、岐阜城の信長様から、今夕御書面が到来。はて、何事やらんと、拝披い
をお帰しあって後、折を見て、直々に、岐阜城へ御献策あるがよろしかろうと存ぜられます」
客殿に煌々と燭が燈っていた。岐阜城の使者を上座に、母堂や奥方の寧子などもいて、客をもてなして
藤吉郎は夏から信長の岐阜城へ出仕のままで留守だった。で、半兵衛が、
と、問うと、主人自身が、岐阜城から書面をよこしての指図だという。
の一族とも、婚約政策がむすばれた。――で、岐阜城はここ両三年、ほとんど、祝い事で忙しかった。心なき侍は、もう自分
「……岐阜城の?」
から間もなく、光秀を案内者とし、人数をさし送り、岐阜城へ迎え入れた。
熱田の加藤図書、愛知郡の飯尾隠岐守、岐阜城の物頭早川大膳、篠田右近、春日井郡から馳せ加わった下方左近将監――など
岐阜城まで、早馬をとばせば、日数とても幾らもかかるまい。高岡へ攻めかかるにして
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「日暮れ近くのこと、これにいる堀越殿が、長良川の辺りで、一名の怪しげな武芸者ていの男を捕えて参りました
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て、その間に、半兵衛重治以下、十三名ほどは、井口城の胸突坂を駈け上り、二の丸門も同様な手段で突破し、本丸の中門まで
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信長は、東福寺に陣し、義昭は東山の清水寺へはいった。
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それよりも、遥かに悪い状態ではないか。それが桶狭間の敗戦後、わずか満二年と経たない間に――戦捷国の織田家
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そして、敵の高岡城へ、もう四、五里という辺りまで来てみると、いちめん空は黒
、穀倉を封じ、城内への通路へ柵を結い、すべて高岡城を繞るものを取払って、孤立にする作戦の下に働いています」
六昼夜も燃えつづいた火に、高岡城はまったくの裸城となった。城外の田野民屋、みな焼け野原と化してしまっ
そして、当面の高岡城へは、
把らせ、ただ一名、焼け野原をトコトコ駈けて、高岡城の濠際まで来た。
敵の高岡城をそこに仰ぐと、藤吉郎は、駒を降りて、郎党の手に手綱を
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寺院は、わけて多額な賦課を割りあてられ、石山本願寺だけで五千貫、奈良は三千貫も徴発された。
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また、それに呼応して、甲賀の山地から、先に信長のために敗亡を喫した佐々木六角も起って、
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、むしろよい機と、越前から近江へ越え、浅井長政の小谷城へ一行と共に身を寄せて、光秀からの吉報を待っていた。
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「ご承知とぞんずるが――厚見郡鏡島の城主、安藤伊賀守範俊」
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ゆえ、宛名は封の下に認しておいたが、海東郡の蜂須賀村までだ」
内と心得ておるかしらぬが、蜂須賀村はおろか、海東郡のあらましは、小六正勝の手で治まっているのだ。その小六は祖先累代
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眼顔でささやき合っていた。この川すじ数里の上流にある鵜沼城の主将で――美濃の猛将といわれている大沢治郎左衛門なのである
ただ上流では鵜沼城の大沢治郎左衛門の兵だけが、彼の総攻めの計に応じなかった。
藤吉郎の書簡をもって、蜂須賀彦右衛門は、ひそかに鵜沼城を訪れた。
「さらにまた、仰せらるるには――鵜沼城の大沢こそは、多年のあいだ国境の将として、美濃を守りとおし、
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、先鋒は愛知川を押し渉っていた。そして翌朝はもう観音寺の城と、箕作城の二つへ攻めかけていた。
観音寺には、江南の豪族、佐々木承禎がいたし、箕作城には、その
の守備を、吉田出雲守にあずけ、自分は父のいる観音寺に合体して、そこを本営として、和田、日野その他、領土の
「これぞ天の与えというもの。――観音寺、箕作の両城は、尠なくも、一ヵ月はきっと支え得る。そのまに松永
黄昏に近づくと、観音寺の城の方面に、黒煙があがった。木下藤吉郎、その他の手勢が、
信長も陣をうつし、箕作その他の全軍も、一せいに観音寺へ押しつめた。
観音寺の城は、本丸で焼け止まった。信長は入城すると、すぐ、
近江へ突入して、観音寺や箕作へ攻めかかったのが十二日。――そして二十五日にはもう信長の
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和歌のはなしから始まって、国学に及び、文学を語り、飛鳥、奈良朝あたりの仏教美術から近頃わけて流行の茶事を評し、一転して、
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南之荘の南宗寺を本営とし、市中の役所を軍政所として、阿波三好党は
「南宗寺のお坊さまが、青くなって、知らせに駈けつけて来てくれましたの
「南宗寺? ……。あそこは今、阿波三好党の大将の十河讃岐守様が
何しても、由々しい御心配。……この上は、南宗寺の和尚のお力にでも縋ってみるほかは、よい思案もあるまいが
南宗寺の南縁へ彼は曳かれていった。
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「猿。――そういえば、自分でも、日吉で分らなければ、猿とお告げくださいなどといっていましたが」
日吉が、光明寺の小僧にやられた時、この叔母は、すぐ下の藪山の
――けれどあの頃は、日吉にとっては、決して温かい叔母さんではなかった。
日吉が、茶わん屋を出されて、藪山のやしきへ、叔母を頼って行った
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でござるな。実は、上人にお会いした折、金ヶ崎の御城下へ参られたら、ぜひ、明智殿とお会いなされと、其許
敦賀を陥した織田軍は、そこを根拠地として、金ヶ崎と、手筒の二城へ、攻略の手をのばした。
金ヶ崎の城には、朝倉義景の一族の朝倉景恒が踏みとどまっている。景恒は、
しかも、金ヶ崎の城は、その夕べも、大きな夏の月の下に、厳然と、不抜
「だが、金ヶ崎を突破せずに、前へ進むことはなるまい。左様な無謀は、好ん
金ヶ崎を捨てて退陣した朝倉景恒は、一乗谷の本城に合して、ふたたび信長の
その途中で、朝倉義景が、二万の兵をひいて、金ヶ崎の救援に駈けつけて来るのと出会った。
、退口を取った後も、わずかな手勢と共に、金ヶ崎の孤塁に残った藤吉郎であった。
首尾よく味方の全軍を、死地から脱出させ終ると、金ヶ崎の城に籠って、
、寡兵な木下方は、さんざんに敗れて、逸はやく、金ヶ崎の城中へ、逃げこんでしまった形勢である。
そして、七左衛門の叱咤したとおり、夜明けと共に、金ヶ崎を陥した。
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先陣が江州の柏原に着いても、後陣はまだ垂井や赤坂を通っているほどその列は長かった。
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ひとりは鹿苑寺の周※で、これも三好、松永の党に殺された。もう一名
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ここは遠い大内氏の時代から、南蛮、中国、琉球などとの交易の要港で、経済的には、旧くから日本のどこの都会より
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「――と、先にいわれると申し難いが、この大沢も上流の地ながら一方の固めは受け持っておる。鵜沼口のみ守ればいいと
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は封の下に認しておいたが、海東郡の蜂須賀村までだ」
「蜂須賀村へ」
にいたしました。――御存じやも知れませぬが、蜂須賀村の小六と申す者の屋敷に、わずかながら下僕働きしていた縁故なども
君命をうけるとすぐ、手飼のごんぞに馬を与え、蜂須賀村へ使いに飛ばせたそうじゃの」
としたか知らぬが、おぬしの書状に対して、蜂須賀村の野武士の頭目は、うんと承諾の旨を答えて来たのか」
「汝の主人信長は、この蜂須賀村も、領土の内と心得ておるかしらぬが、蜂須賀村はおろか、海東
村も、領土の内と心得ておるかしらぬが、蜂須賀村はおろか、海東郡のあらましは、小六正勝の手で治まっているのだ。
藤吉郎も同感でおざる。――しかし不届きなのは、蜂須賀村ならおれの領土だという、あなたのお考えだ。間違っている!」
「蜂須賀村はおろか、尾張一国はおろか、津々浦々、いかなる辺土たりとも、一尺の
盟約を結んでおりますぞ。斎藤家崩壊の時、この蜂須賀村にいて、今川家を頼らんか、三河の遮断あり、伊勢を恃まん
「叔父御に叛いて、蜂須賀村を出奔して以後、久しく甲斐の武田家に身を寄せ、乱波の者(
を詫びて、ただ日頃、叔父御へ合わせる顔もない。蜂須賀村へ帰るには、ただ平然と、以前の面をさげては帰れぬと、
稀れなので、いつの頃か、そこを去り、折ふし蜂須賀村へ来たところ、小六正勝の家に法要があったので、そのまま半月
夜であった。藤吉郎が蜂須賀村を訪れたその日の夜である。
二騎に、口取の男が一人、闇をついて、蜂須賀村から清洲へ走って行った。
小六の手書が、蜂須賀村から八方へ飛んだ。
蜂須賀村を発つ時の二千の野武士は、ここへ来ると五、六千になってい
蜂須賀村にいた頃の小六正勝とちがって、彼は、礼儀正しかった。
彦右衛門はふと、自分が、蜂須賀村で説破された時の、藤吉郎の熱意と弁舌を思いうかべた。
ないのである。――すると身寄りのうちで、いっそ蜂須賀村の彦右衛門様にお願いしてはとすすめる者があった。
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二条城の焼け跡に、大工事が始まった。濠を深くし、石を起し、東北
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で、大井川を境に、駿河一円は、武田家の有となり、遠州は、徳川家
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城に池田筑後守とか、尼ヶ崎の荒木村重とか、河内の三好下野、同笑岩入道とか、遠くは大和の信貴山の多門城に、
泉州から河内の奥あたりで、三好の残党がまた騒いでいると噂はあったが、
河内から泉州辺に、斎藤龍興が姿を見せ始めた。重臣の長井隼人が側
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虎が来た――といえば、稲葉山の城下でも泣く子もだまるというくらい、恐い者の代名詞になってい
六千の兵を配置して、その指揮作戦の一切を、稲葉山の本城から命ぜられている不破平四郎種賢だった。
「稲葉山のおさしずはそうあった。けれど、敵を知らぬ危うい作戦。治郎左衛門に
けれど、敵の本城、稲葉山から遠い飛領などは斬り取りできても、さて一水を隔てた斎藤家の本領
「ただ今でも、稲葉山の城下に仕えておると思いますが」
いうまでもなく、目的地は、敵国の本拠地――稲葉山の城下にある。
(鵜沼の城地も、没収をくうだろう。――稲葉山へ、虎を呼びよせておいてから)
稲葉山の斎藤龍興からは、先頃からしきりと、
一族も家臣も、彼が、それに応じて稲葉山へ行くことを惧れていたが、治郎左衛門自身も、病と称して、
重治は、この辺に生れた。――生れたのは稲葉山だというが、幼少から、その多くは伊吹山麓の岩手で育った。
美濃の各将は、稲葉山の城へのぼって、主将斎藤龍興に、例年のとおり拝賀の礼を執った
(祝賀の席上、稲葉山に滅亡の影が迫っているなどとは。……慮外も慮外。……
龍興の命に、日根野備中は、すぐ稲葉山の兵をひいて、不破郡の岩手へ向った。
立てて詫びを入れ、弟の竹中久作を人質として稲葉山へ渡し、飽くまで従順な証をみせた。
(稲葉山の城を、この手に取ってみせん)
稲葉山にはいっている人質の弟久作から、持病再発、家伝の薬を持たせて
、如月の寒夜をいんいんと鳴り渡った鐘と共に、稲葉山の山下を十重二十重にかこんだ兵は、半兵衛重治の手勢千余と舅
夜に入ると、もうこの稲葉山から見える距離まで、戦いの火は西進して来た。――攻め入るに従っ
はやくも月の七日頃には、敵の本城地、稲葉山へ近く迫った。
短気にかかって兵を損じるのも不策。いかにせば稲葉山の天嶮を墜すことができるか」
はさしても思わなかったが、藤吉郎の胸には、稲葉山の正面にある味方との間に、諜し合わせてある戦機がある。明日の
およそ知れたもの。怖るるに足らぬが、怖いのは、稲葉山へ合図をされることだ。狼火場があれば、いずれ小屋の近くゆえ、
稲葉山の城下は――長良の水も、町屋の辻も、すぐ眼の下だっ
随所に、相当な激戦はあったけれど、脆くも、稲葉山は半日のまに陥落してしまった。
こうして、稲葉山は落ちた。美濃の泰山北斗といわれた城は落ちた。
小牧山から稲葉山へ、信長は三度目の城を移した。
稲葉山は、岐阜と改め、信長は岐阜城にすわった。
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信長は、それに保護の兵をつけて、海西郡まで送って放ち、龍興の弟新五郎を立てるならば、後日、斎藤家の祭祠
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高槻城には入江左近。
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、てまえ少年の頃、食を求めて、美濃、近江、伊勢――また御領内の近傍など、諸国どこ晦くなく漂泊い歩きましたうち
いて、今川家を頼らんか、三河の遮断あり、伊勢を恃まんか、織田の包囲があって、あなたは、誰を幹とし
伊勢である。北畠一族の勢力であった。
きた。――もしもこの際、斎藤家と近江なり伊勢なりと連絡をとって、背後を襲う者があらわれたら、一万の屍は、
伊勢からの早打ちがつづいた。
もある一益が、桑名、蟹江の二城の兵力で、伊勢の北八郡、南五郡の北畠の大軍と対峙するので、もう支えきれ
「それに、何といっても、敵は、伊勢の国司として、顕家以来の旧い名族だ。――今の大納言具教
――伊勢に赴け。
行った旧友や新参の明智などと伍して、彼も、伊勢に戦うこととはなったのである。
「自信がある。わしが征けば、伊勢は三月か四月で片づこう。夏はまた、ここへ戻ってみえる。なに
は、桑名、蟹江の二城を指揮して、早くから伊勢と対峙していたこの方面の主将であるから、彼の決裁に待って
論争は、ここ二十日ほどの間に、前後して、伊勢の戦野に参加した新鋭の援軍の将たちの間に闘わされて、一部
「伊勢の南を先に席巻して高岡の城は、後にすべし」
「一挙、伊勢を併合せん」
孤立の城兵は、上下みな死を決しています。まして伊勢の俊傑、城将山路弾正は、よく兵を用い、武略に長け、誓って、
一城の堅固な御意志、織田方にても、さすがに伊勢にも武士ありと、みな感じ合って、お噂は高うござる」
は、諸国を武者修行して歩いていた当時から、伊勢の内部が、小党分立で、神戸の北畠家を中心に固まっている内容の
と、たて続けに、伊勢の土豪の名を云いならべた。
彼を囲んだ兵は、伊勢の家中の士ではなく、土豪の兵だったので、臨機にそういっ
伊勢はこうして、席巻された。自国の過半を、またたく間に失って
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七本槍のひとりにも名が見えるし、晩年には出雲、隠岐の二ヵ国二十四万石を領し、六十九歳で世を終るまでの四十余
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、岡崎の城に、竹千代をおいて、自分は遠州の浜松のほうへ移った。
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たのであるが、地勢水利の悪い清洲をすてて、小牧山へ居城を移したことである。
も、みな信長について、新城の膝下へ移転し、小牧山には新しい町屋が旺んに興りつつあった。
後詰の出兵をひかえたのみでなく、一応兵をのこらず小牧山へ退いて、その年は、待とうとした。
彼の呼び起そうとする大兵は、小牧山になく、洲股になく、彼の胸三寸のうちに住んでいた。
の兵も知らないうちに、即日、彼を伴って、小牧山へ向った。
告げず、その夜は、自分が歓待役となって、小牧山に一夜を明かし、
「彼を、小牧山へ長く滞留させおくことも、味方の内状を存分に探らせておくよう
。藤吉郎、進退ここにきわまったここちでござる。それゆえ、小牧山からもどる途中も、途々、怏々と心も楽しまず、さだめし御不審に
する。いざ、後ともいわず、拙者の首を、小牧山へお持ちあるがよい」
清洲から小牧山へ、信長が城を移したと見ると、北畠一族の蠢動が目立ってき
将士みな口をむすんだまま憂暗な顔をもって、小牧山へ帰って来た。
洗われていても、頭は、洲股へ駈け、小牧山へ通い、血は風雲に沸々と騒いでいる。まったくここの「寂」と
七月の盂蘭盆会をすぎるとすぐ聞えてきた。小牧山から尾張の各郡への飛札の使いが頻々と飛ぶ。
と、小牧山の城下から帰って来た諜報の者も、確たる自信はないようなことを
小牧山から稲葉山へ、信長は三度目の城を移した。
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て、そこに水脈縦横のだだッ広い洲が見渡される。濃尾両国の州界である。
尾濃両国は、いずれも守備をかため、雪と木枯らしに、この冬はまかせていた。
信長はまた、嫡男の信忠に、信玄の第六女を娶って、両国のくさびを弛めまいと努めた。
光秀は、旧知の勝恵に会って、諄々と、両国の合戦が、北畠家に不利であることを説いた。また、無辜の百姓たちを徒ら
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断たなかった。むしろ反織田の気勢を昂め、近年では犬山城の下野守信清と通じて、暗に信長への離反を扶け、織田領内
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彼はそうして霜に坐る例をみずから立てた。そして京都のほうへ向って伏し拝んだ。
は、字は瑶甫、安芸の国沼田の産れで、京都東福寺に入って僧となった者である。
それでも足りないで、半兵衛は京都の大徳寺へ度々参禅した。――そして、戦と聞くや、いつも
玩ぶ時でもありますまい。――他日、近く旗を京都に上せ、諸州の群雄どもをしずめ、上の御宸襟をやすめ奉った上
後に、それを聞いた、京都の人たちの間では、
ぞ知らん――。わずかそれから三年後には、京都の足利義昭将軍は、もう信長を頼らなければならなくなっていた。
そのうちに、旅人の口から、京都の大変がここへも伝わって来た。
京都の大乱は、天下の大乱である。当然、主家にも、余波があろう
「乱賊どもを、京都から追い、家職の権を奪り回すため準備の御微行である」
です。何分、かくいう私などは、身長く紛乱の京都にあって、時勢の中心にはおりながら、かえって魚に河が見えないよう
京都へ、京都へと。
京都へ、京都へと。
両所のお心も明らかにお酌みできぬゆえ、信長が京都の陣門へお訪ねあらば、いつにても会おうとお伝えおかれよ」
「いずれ、返辞は、信長が京都へ上った節にいたす。書中にては、三好松永の両所のお心も
東福寺の門前は、日々、夥しい往来だった。多くは京都の豪商や公卿たちであった。また、社寺の使い、用度の品を
京都警護の兵だけを残して、その月の二十八日には、信長はもう
――突然、京都の町なかで、喊声が起った。
そのまま京都の土であった。国乱のあるたび、京都は兵燹に見舞われた。
いるものはない。国家の治乱興亡の灰燼は、そのまま京都の土であった。国乱のあるたび、京都は兵燹に見舞われた
京都の市民ほど戦禍をなめているものはない。国家の治乱興亡の灰燼は
予算一万貫、工人二万、京都の富豪たちにも、賦課を申しつけた。――そして彼は虎の毛皮
名、武略あって、平時の護りにも足る器量人を、京都守備の将として、留めておかれたい」
「京都守備の重任にとは」
これは阿波三好党とよぶ四国の兵で、去年、京都から駆逐された十河一族が中心である。都落ちの時、病人の足利
ていたので、富豪が軒をならべていた。京都や諸国の城下では見られない異色のある文化も、ここにだけ爛漫
あろう。わしにも確とは見えていない。けれど昨年来、京都に進軍して来ている織田殿の仕方を見ると、織田殿こそ、
信長の気性、激怒したにちがいない。一挙、京都から襲せて来るかと、去年も騒いだが、その時は、来
信長の京都進出以来、天下の耳目は、彼の行動にばかり気をとられてい
、その月の二十五日、家康は、信長の誘いで、京都へ上ることになった。――洛中の春を愛でながら、花の下
信長と家康が着京の日、京都守備の任にある木下藤吉郎は、大津までそれを迎えに出た。
京都に落着くと、信長は第一に、改修中の御所の工事を督励に
もしなかった。――そして四日目の夕方ようやく、京都へ帰りついたが、何しろほとんどの者が、半病人のように疲れはてて
喊呼して、翌る日は、京都へはいった。しかし、信長の館に近づくと、一人として、槍
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の兵には、厳として軍律を立て、また、岐阜の町々、近郷にわたっては、
同時に、岐阜と改め、城も、岐阜城と呼び改めた。
同時に、岐阜と改め、城も、岐阜城と呼び改めた。
稲葉山は、岐阜と改め、信長は岐阜城にすわった。
稲葉山は、岐阜と改め、信長は岐阜城にすわった。
岐阜城第一に迎えた春の献賀にと、丹波長谷の城主赤沢加賀
むしろ、岐阜城へすわってからは、寛々たる春日を送っていた。以前のよう
お使者の小旗を立てた舟が、江を渡って、岐阜よりお城の門へ着いたようじゃと」
「岐阜より殿へ御状があったとすれば、いつどんな御用の起らぬ
「実は、岐阜城の信長様から、今夕御書面が到来。はて、何事やらんと、
小閑、岐阜ニ得ルモ忽チ倦ム
「岐阜を得られて、今年は内政を整え、兵馬を養うて、さらに他日を
をお帰しあって後、折を見て、直々に、岐阜城へ御献策あるがよろしかろうと存ぜられます」
客殿に煌々と燭が燈っていた。岐阜城の使者を上座に、母堂や奥方の寧子などもいて、客を
藤吉郎は夏から信長の岐阜城へ出仕のままで留守だった。で、半兵衛が、
と、問うと、主人自身が、岐阜城から書面をよこしての指図だという。
一面、岐阜の方の動きを見ると、藤吉郎の献策が用いられた結果か、いわゆる
の一族とも、婚約政策がむすばれた。――で、岐阜城はここ両三年、ほとんど、祝い事で忙しかった。心なき侍は、
岐阜の釜座町の辻で、彼は、中食などすまして出て行った。頻り
仰ぐと、町のどこからでも、岐阜城の巍然たる城壁が見える。――笠の縁に手をかけると、
「越前より参ってござる。この岐阜城のお内に、縁故の者がおりますゆえ、会う伝手を求めて
――光秀は、藤孝と知った機縁から、この岐阜城下へ、密書を帯びて来るまでになった事情を、
「……岐阜城の?」
――こうして、光秀は、岐阜の城下へはいって来たわけだった。将軍義昭の親書をふところに、
で、光秀の登城となり、彼と信長とが、岐阜城中で、初めて対面した日であった。
から間もなく、光秀を案内者とし、人数をさし送り、岐阜城へ迎え入れた。
から、もしやと思っていました。――先頃、岐阜の御城下へ着いたその日に、御尊父の邸へわらじを解き、
熱田の加藤図書、愛知郡の飯尾隠岐守、岐阜城の物頭早川大膳、篠田右近、春日井郡から馳せ加わった下方左近将監―
岐阜城まで、早馬をとばせば、日数とても幾らもかかるまい。高岡へ攻めかかるに
そして急使の馬が、岐阜へ数騎急いだ。
ながら、むしろ冷やかに見ていたが、そのうちに、岐阜本城から早打ちが戻って来て、
「孝行はむずかしいのう。……そのうちにまたすぐ、岐阜のお召しが参ろう。こうしているのも束の間、どれ、きょうは一日
信長に身を寄せた漂泊の将軍家義昭は、その後、岐阜の城下西ノ店の立正寺を宿所と定められて、一行はそこに起き臥しし
ふたたび都へ帰って天下に立つお望みもすてて、この岐阜の景勝の地に、悠々、巨館を造営して、生涯を信長の
約三万の軍旅は整え終った。そして七日にはもう岐阜から続々と、出発していた。
「義昭公を、岐阜よりお迎え申して、守山にお置きするがよい」
岐阜を発したのが九月七日――それからわずか二十一日目には
中にもたくさん潜伏していた。信長の本軍が、岐阜へ帰ると、
岐阜へ早打ちが着いた。本国寺の変や、畿内にうごく残党軍の状態
やがて近いうちには、信長も岐阜へ帰国するであろうという噂を聞いて、将軍家は、あわてて信長へ
なかった。堺など、眼の中にもないように、岐阜へ帰ってしまったのである。――が、今度、再度の上洛に
信長が、堺の始末もつけて、再度、岐阜へ帰ってから、ふと、
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はなしから始まって、国学に及び、文学を語り、飛鳥、奈良朝あたりの仏教美術から近頃わけて流行の茶事を評し、一転して、笛
わけて多額な賦課を割りあてられ、石山本願寺だけで五千貫、奈良は三千貫も徴発された。
宗巴、銭屋宗納が、使いとして乗った。奈良の浪人、土門源八郎も、附き添って行った。暗い波騒の真夜半、
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が、わずか一城に懸って、日を過すうちに、神戸、一色の敵軍が、退路を断って、包囲して来たら何と召さ
伊勢を攻め奪って、一挙、神戸の本城をとり囲めば、神戸御一族は、失礼ながら、網の中から魚を獲るようなものと、
、北伊勢は崩れ、北伊勢を攻め奪って、一挙、神戸の本城をとり囲めば、神戸御一族は、失礼ながら、網の中から魚
ていた当時から、伊勢の内部が、小党分立で、神戸の北畠家を中心に固まっている内容の脆弱を見ぬいていた。
信雄を、北畠家へ養子に入れ、三男の信孝を、神戸具盛の後継ぎにすえ、伊勢八郡は名実ともに、彼の版図に収められ
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市松の親も、以前は侍で、信濃福島の出であった。
やがて、桶屋の子は、先祖の旧姓を名乗って、福島市松とよばれていた。
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代官等に任じて、翌々日は、もう湖水を渡って、大津へ進軍する兵船の準備や、諸般の命令に、食事も忘れているほど
と、琵琶湖の東岸から兵船をそろえて、大津へ出立していた。
が、軍旅の費えにと、義昭もたっていうので、大津、草津、泉州境のすこしばかりな飛地を、信長はうけた。
が着京の日、京都守備の任にある木下藤吉郎は、大津までそれを迎えに出た。
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でも、かねて勇名の聞えていた日野城の主、蒲生賢秀どの。――また、側にひかえているのは、御嫡子鶴千代
「ほ。蒲生どのか」
独眼龍政宗を、僻地に封じこめた智謀雄略の風流武人、蒲生氏郷は、実にこの子だった。この鶴千代だったのである。
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へ出向いて、将軍家に謁を乞う――と、執事の上野中務大輔まで申し出た。