私本太平記 09 建武らくがき帖 / 吉川英治
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大半以上が、都を見るのも初めてだった。だから逢坂山を経、山科をこえ、やがて洛中の屋根が一ト目に見えだすと、
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が合流しあって、一手は碓氷峠をこえ、一手は甲州を席巻し、もう武蔵野へなだれ出ていた。
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たらふく食ッて飲んで立った三人づれの侍は、もう六条の往来中を、もつれあって歩いていた。
「六条の飲屋のおやじだ」
堀川、六条、紅梅ノ辻子、そのほか方々の妓家からよび集められた一流の遊君たちが
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成良親王(義良の兄)を、関東の管領とし、足利直義朝臣を相模守に任じ、その補佐とする――
でない。文観の名をうたって、彼の弟子どもが関東にくだり、武蔵野の立川とやら申す所に邪教の道場をひらき、それがまた
犬、田楽は関東の
関東、奥羽の一ゑん
関東とは、いうまでもなく、現下、足利直義のいる鎌倉の府である。
ので、それからの西園寺家は、朝廷にあっては関東の出店役をなし、関東へ向っては朝廷の代弁者として、いわゆる共存
家は、朝廷にあっては関東の出店役をなし、関東へ向っては朝廷の代弁者として、いわゆる共存共栄の利を代々幕府と
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手越の宿は、駿府(現・静岡)の西で、直義たちは、渡河を敵にさまたげられ、
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、何やら、ご家中の血気者が物具取って、扇ヶ谷へ仕返しに行くとか、いや先から襲せて来るとか、ただ事ならぬ
「扇ヶ谷の細川三兄弟が、三人打ちそろって、これへまいる様子です」
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「まもなく五条、二条へかけ、ここら町中までも、合戦の巷になろうぞ」
見て、大和口へ一手をそなえ、また二条方面から五条へかけては、明け方までに、数千騎を配置して、
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――戦乱二年、吉野の奥から高野、十津川と、山野に臥して、郷士竹原六郎の娘を妃とし、野武士や山伏
にそれらは、かつての熊野山伏の徒だの、また十津川、吉野いらいの、木寺相模、矢田彦七、平賀三郎、野長七郎、岡本三河坊
はよく洛外へ狩猟に出た。供にはいつも吉野、十津川いらいの猛者を大勢つれていた。
ある。宮は必死になった。かつては吉野の奥、十津川の原始林をとりでとして豼貅を叱※した生命の持ちぬしでもある。
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らしい。失敗はしたが、六月七日事件は、南禅寺の参禅の直後におこしたものだった。
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はあり、馬匹の供給源でもあった。――かたがた、平泉の藤原三代の府は亡んでも、あれいらいの伊達、佐竹、結城その
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「いや心得申した。きのうも筑紫から少弐、大友、菊池、松浦などの党が上洛いたし、それらの武士の
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おなじような例が、おなじ宵、堀川の妓家でもあった。昼ごろから出たり入ったりしていた一座の
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千が露ばらいして進み、六月五日の夕、東寺に着いた。
東寺から二条里内裏までの行列は、荘厳をきわめていた。
加茂へも、東寺へも、それはあったが、しげしげのお出ましは、おおむね二条高倉の新地
二日目におこなわれる供養の大導師は、東寺ノ長者道意であったから、それの一行もたいへんな人員だった。導師の
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こんなあいだにも、二条の皇居は、日々入る吉報にのみ酔っていた。
皇居も古くからの大内とはちがい、かりの里内裏なので、規模は小さかっ
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に、修理やら増築もして、庭の泉石には、加茂の水まで引き入れてあるほどだった。そのうえ近くには、馬場、弓の
加茂へも、東寺へも、それはあったが、しげしげのお出ましは、おおむね二
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また、楠木正成には、摂津、和泉の一部と、河内守への叙任がみられ、また船上山いらい忠勤
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宇治や鳥羽の川舟が一切止まったとかで、市に着く荷が、その夕
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「じつは、たそがれ、俄に九条殿からお召があって、やむなく、お出ましでございまする」
のご発表が、いよいよ朝議一決を見、それについて九条殿へ召された次第。悪く取って給うな」
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「ただいま、行く手の先に、河内の楠木多聞兵衛正成が、家の子郎党をつれ、お迎えにと、これへ馳せ参じて
「なに。河内の正成がこれまで来たとか。……車を止めい。そして、まず
も知っていたが、何も口に出なかった。河内の片すみにある一土豪に過ぎぬ身が、伝奏も経ず、じきじきなお
「河内の秋の物でございます。山の芋、栗、甘柿、野葡萄、松茸などの山
「そちはこの者を、いぜん河内の龍泉で見ているといったな。むかし馴じみだ。よく話しあってやるが
かねがね彼は、河内の正成ひとりは、どうあっても、敵にまわしてはならぬものとし
ぬゆえ、出仕止めを命じたのだ。まもなく、河内の奥へ悄々として帰ったそうな」
「……さては、正成は河内へ帰ってしまいましたか」
は立たぬ。なんといたせ、ちと変り者だ。あれはやはり河内の奥で柿作りのかたわら寺普請の奉行でもさせておくのが一番
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中の少弐頼尚や宗像大宮司氏範らをさしむけて、豊前、筑後、肥後の兵を催させていたが、それらの将にたいする尊氏の
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旗上げは諏訪の入道昭雲が主となって、高時のわすれがたみ北条時行(亀寿丸)
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九州からの早馬は、五月の末、九州探題の北条英時が、少弐、大友
九州からの早馬は、五月の末、九州探題の北条英時が、少弐、大友の兵に攻められて滅亡をとげたと
が、東北では、出羽や磐城地方に叛乱しだし、九州でも、筑前から薩摩方面で、あなどりがたい猛威をふるい、畿内の近くでさえ
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西は、長門だの伊予地方に。北は信濃、上野国にも。そのほか飛び飛びに近畿から東北まで、いわば野火か山火事のように、
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西の宮から先、鹵簿は、正成以下の畿内の兵数千が露ばらいして進み、六月五日の夕、東寺に着い
でも、筑前から薩摩方面で、あなどりがたい猛威をふるい、畿内の近くでさえ、紀伊の飯盛山に叛徒がこもって「世を前代に回せ」
宇治舟がとだえたのは、その方面から、楠木正成が畿内の兵を動員しているものと見て、大和口へ一手をそなえ、また
決断所では役にもたたぬ仁でおざるが、畿内の兵を狩りだすには、あれもなくてはならぬ一人ですが」
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は、出羽や磐城地方に叛乱しだし、九州でも、筑前から薩摩方面で、あなどりがたい猛威をふるい、畿内の近くでさえ、紀伊の飯盛山
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まもなく、宗良親王は、叡山へ上って、元の天台座主につき、願いどおり墨染の身に返った。
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だった。誌すべきことが余りに多い。――で、鎌倉をしばらく措く。――そしてここはまだ天下混沌といっていいところだが、
「鎌倉は陥ちた!」
もこれに表現されていたといえよう。こうも早く鎌倉が陥ちるとは、まだまだ予期されていなかったことである。配所の一
ぼつぼつ、小屋がけも見え出しているが、鎌倉はいぜん広い焦土の炎天だった。
「高氏の? 高氏はこの鎌倉にはおりますまいが」
。……高氏にすれば、この義貞をいつまでも鎌倉へおいて、自身中央にある位置を利とし、すべての功を、おのれ
「でも、せっかくお手に入れた鎌倉をむざと捨てても?」
「いや、いまは鎌倉などにいる時ではない。時局の機微も中央へ出てみなければ分ら
「安閑と、今を、鎌倉などにいて、うかうか過ごすべきではない」
そのあとの鎌倉は急に兵馬も騒音も減っていた。――自然、足利若御料だけ
も減っていた。――自然、足利若御料だけの鎌倉になり、なんのことはない、結果的には足利勢一手で鎌倉入りを仕遂げ
、すぐ都へのぼれとは告げてやらなかった。元の鎌倉へ帰れと命じ、そして幼い身で鎌倉にいる子(千寿王)のために
なかった。元の鎌倉へ帰れと命じ、そして幼い身で鎌倉にいる子(千寿王)のために、母としてそばに居てやる
「はい。鎌倉では、いくたびとなく、よそながら」
「お辺は鎌倉入りの殊勲者、かつは足利ともならぶ立派なお家柄でもあることだ
よい機に、御出頭あったものといってよい。もし鎌倉においでたら、恩賞にあずかっても、それら枢要の職につくことは
彼は、自分の鎌倉の功名と、余一の扇の的とをむすびつけて、祝福感にひたりながら
。――で義貞も顔色を直して、何かと、鎌倉いらいの戦談に、興をわかした。
不気味な武力と潜勢力の保持者である。――これが鎌倉に在る足利千寿王の翼下に収められないうちに、まず両者間を断ちき
、御馬などを賜わって、千里のさき奥羽の中心地に、鎌倉とも匹敵しうるほどな公武合体の小幕府をあらたに創るべく発足して
幕府は亡んでも、鎌倉そのものは、まだ生きている。
直義は、命をうけて、いよいよ鎌倉へ下るという日の朝、尊氏の部屋へひとり来て、
あとは心配するな。むしろ心配はそちの身にある。鎌倉へ赴任のうえは、まいどの言だが、控え目をくずすなよ。諸政、
、切れ者だのといって、いたく恐れられております。鎌倉では、当分、呆けておりましょう」
「斟酌におよばん。母子は従来どおり鎌倉におくとしよう」
かくて奥羽にも鎌倉にも、幕府でない、新政体下の民政府ができ、一応、形は
周囲を、これが庶民暮らしの今日だと嘆き、また、鎌倉の世の頃には、まだ多少は礼儀作法の品のあった武士も、さてさて
だ。尊氏が片腕とたのむ弟直義も、去年引き裂いて、鎌倉へ追いやってあれば、六波羅にいま在る勢は、主従あわせても知れた数
諸国との往来文書、鎌倉にいる直義との連絡時務など、山ほどな用を一おう整理して
道誉とは、まだ鎌倉のころ、滑川の妓家で、双方、極道の面をさらけ合って、飲ん
まするが、主人道誉の仰せもあって、かねがね、六波羅と鎌倉との使者往来に注意しておりましたところ、はからず極秘の一札を手
文意は、鎌倉の直義へあてて、近日中に京都で異変があるむねを予報している
鎌倉殺到はほぼ近日に候らはん
ていたうえ、隣国同士、喧嘩のしのぎもけずりあい、鎌倉入りには味方ともなって、両軍、くつわをならべて攻め入った仲でも
ない帰結となっている。ばかなはなしである。今日の鎌倉の主人は足利直義なのだ。朝廷もみとめ、世間もそれをあやしんでい
関東とは、いうまでもなく、現下、足利直義のいる鎌倉の府である。――すでに冬も荒涼な十一月十五日――尊氏の
彼ら北条遺臣のめざすところは、あくまで北条旧縁の府、鎌倉の奪回にあったのだ。
もちろん、鎌倉の足利直義は、これを坐視してはいない。
鎌倉は危殆にひんした。あたかもこれ、かつて北条高時が、新田義貞の猛攻撃の
ついに、足利直義は、ささえきれず、鎌倉をすてて西へ逃げ落ちる腹をきめた。
直義の鎌倉放擲は、直接鎌倉から逃げたのではない。
倍といってもきくまい。ぜひないことだ。一時、鎌倉をくれてやろう。そして、三河の矢矧まで退き、ちと面目ないが、兄上
だが、鎌倉はすてるにせよ、放擲できないものがある。
そのため、吉良、細川の二将は別れて、急遽、鎌倉へ駈けもどった。
「……察しる。つらい役だ。しかし鎌倉を明け渡すのやむなきにいたった今、あの宮までを連れてはあるけぬ。しかも
た。――明けまぢかに、山ノ内街道をこえ、そっと、鎌倉へもどっていた。
)までが西走して落ちたとも知らされず、早や鎌倉も空っぽとはつゆ覚らず、なお、むなしい死守を六浦街道や武蔵口などの
業のふかい者であったとみえる。主命もだしがたく、鎌倉へまぎれ返り、その日は疲労と困憊に、ぬしなき屋敷の厩舎で馬と
と外で車座で飲みはじめた。寂寥、まるで無人のごとき鎌倉だ。波の声、山の音。どうかすると遠い遠いところで、あらし
直義に代って、鎌倉へなだれこんで来る次のものは、かつての高時の遺臣らだが、彼ら
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また、楠木正成には、摂津、和泉の一部と、河内守への叙任がみられ、また船上山いらい忠勤の名和
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とげ、小手指ヶ原では、今川範満が討死するし、かさねて府中における大激戦でも、小山秀朝と一族数百人、かばねを並べての
入間川、小手指ヶ原、府中、分倍河原、関戸――と前線いたるところでやぶれ、岩松経家など、おも
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直義は、六波羅へ。義貞の人馬は、三条の仮橋を西へ渡って、二条へ折れた。――宿所の指定地は
、また下手人は仮借なく挙げてもいたが、なお三条、七条河原などに、夜陰、落首をたてて世を皮肉る者がたえなかった
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として、ご籠城のみぎり、賊軍のため焼亡した笠置寺へ、さきごろ造営再建のありがたい勅が降されましたので。……それの
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おる者の手兵だけでも……。いや、雑賀隼人、加賀の前司信宗、土佐守兼光らなど、指を折ればまだまだ多い。味方は万
越中、加賀、能登の方面には、名越太郎時兼らが、近来強大な一勢力をなし
「ときを合せて、加賀、能登、越中の賊兵も、名越太郎時兼の麾下に、善光寺平へ打って
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「伊予の乱もまずは」
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……ま、長くなるから、それはともかく、道誉さまは伊吹のご城主だし、近江田楽はそのご領下のものなんだよ。中
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さらには高台寺の高嶺から望むと、六波羅の南北、車大路、大和口までも、たいへんな
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――戦乱二年、吉野の奥から高野、十津川と、山野に臥して、郷士竹原六郎の娘を妃
らは、かつての熊野山伏の徒だの、また十津川、吉野いらいの、木寺相模、矢田彦七、平賀三郎、野長七郎、岡本三河坊といっ
、宮はよく洛外へ狩猟に出た。供にはいつも吉野、十津川いらいの猛者を大勢つれていた。
、皇子らも遠い配所の月だった。大塔ノ宮は吉野の孤塁に、千早は敵の重囲のなかで、明日の望みはおろか、一命
れたことがある。宮は必死になった。かつては吉野の奥、十津川の原始林をとりでとして豼貅を叱※した生命の持ちぬし
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出雲の守護、塩冶判官高貞も、国元兵をつれて、前駆の役をつとめて
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越中、加賀、能登の方面には、名越太郎時兼らが、近来強大な一勢力をなしてき
「ときを合せて、加賀、能登、越中の賊兵も、名越太郎時兼の麾下に、善光寺平へ打って出て
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「おう、忘れていた。伊賀、伊賀、これへ来い」
「おう、忘れていた。伊賀、伊賀、これへ来い」
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行幸され、あとは一路いそいで月のすえ三十日、兵庫の福厳寺につき、ここで中一日は御休息あったとある。
わけである。――そして朝霧もまだほの白いうち、兵庫をはなれて来たときだった。前駆の塩冶判官が、駒を返して来
またがり、赤地錦の直垂に、緋おどしのよろいを着、兵庫グサリの丸鞘の太刀をはき、重籐の弓をお手に、鵠の羽
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、執権高時のじつの弟、北条左近大夫泰家は、奥州へのがれていたが、ほとぼりもさめた頃と、京都へ入りこみ、旧縁を
「奥州に武者も多いが、そちは真っ向二心を持たぬ奥州ざむらい。そう見込んだが
、僧門に送ったというもの。また、宮を助けて奥州へ下ったとなす“大塔ノ宮生存説”などもあって、宮の墓
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―をたずさえた急使、長井六郎、大和田小四郎のふたりは、福原(神戸)の道で鹵簿の列に会し、思わず供奉の前列へ走りよって
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の名をうたって、彼の弟子どもが関東にくだり、武蔵野の立川とやら申す所に邪教の道場をひらき、それがまたおそろしい勢いで世間
一手は碓氷峠をこえ、一手は甲州を席巻し、もう武蔵野へなだれ出ていた。
即時、武蔵野に迎え撃った。
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お見せした。――そしてこれは、去年、播州の加古川から船で讃岐へ送り渡される朝、兼好という法師に仕えている童から
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、あなどりがたい猛威をふるい、畿内の近くでさえ、紀伊の飯盛山に叛徒がこもって「世を前代に回せ」と騒ぎだしている。
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ある。――高氏の名代として、弟直義が六波羅から来ていたのであった。
直義は、六波羅へ。義貞の人馬は、三条の仮橋を西へ渡って、二条へ折れた
――こう六波羅の高氏から招きがあって、義貞は、その夕、
あるまい。そちや船田ノ入道は、すでに公務のうえで六波羅へはいくたびとなく参っておるゆえ、こよいは義貞ひとりを客に呼び、
の一勢は、朝廷へも届け出ず、ただ一書を六波羅の高氏へ投じたのみで、憤然、京をひきはらって国元へ帰ってしまっ
「高氏。――以来、六波羅にあって、治安の難に当るやら雑訴を見るなど、くつろぐまもあるまい
で、彼は六波羅へ帰ると、
六波羅の広場では、はや人馬が整列を作っていた。直義について鎌倉
の敵を一掃する火と血の祭りだ。夜半すぎ、六波羅の方を見ておれ」
弟直義も、去年引き裂いて、鎌倉へ追いやってあれば、六波羅にいま在る勢は、主従あわせても知れた数」
もそのような世事話はしたことがない。では六波羅の内におるのか」
それでも尊氏は六波羅までのあいだに、この者たちの態度や騎馬法などを見て、なるほどこれ
今暁らい、六波羅には武士の参集が続々のぞまれ、五条大橋は、朝の巳ノ刻以降
さらには高台寺の高嶺から望むと、六波羅の南北、車大路、大和口までも、たいへんな馬数がみえ、さだかに
「今暁からの六波羅の人集まりは、軍兵の催しではないように自分は聞いておりまする」
「六波羅の内で、尊氏が、父貞氏の法要を執り行い、足利有縁の武士をひろく
までは、何ら変った報もなく、加茂川をはさんで六波羅の岸もこなたの町も、朝からの降りしく雪に、ひッそりかんと
尊氏はおとといの夜半からきのうの夜半まで、六波羅内の寺院で盛大な亡父の供養をいとなみ、かねがね、主上と准后の廉子から
「さればどうやら、六波羅の軍兵集めとする取沙汰は、やはり虚伝で、法要のいとなみが、真実の
「その尊氏が六波羅にあるものならばだが、禁中へ兵を入れるわけにはゆくまい」
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いう蔭口もございまする。したがこの良忠は、笠置、赤坂、千早など、多年にわたって見てまいりましたゆえ、さような人物とは
いるほどだった。それはきのう今日の思いではない。赤坂、千早における楠木一族なるものに遠くから注目しだした頃からの慕念
を見て、なるほどこれくらいな者が千もいれば、赤坂、千早の戦いもできえたろうと思われた。兵をみればその主将の
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「なにも鞍馬とはかぎらん。都の内でも時々には、塵芥焼きをする必要が
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湧いた大小いくつもの乱軍が合流しあって、一手は碓氷峠をこえ、一手は甲州を席巻し、もう武蔵野へなだれ出ていた。
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だった。天皇、准后、侍者の忠顕などを送って、出雲国まで付いて行ったことでもある。――その道中では、彼は、
出雲国へ流罪
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、また船上山いらい忠勤の名和長年には、因幡、伯耆の両国があたえられた。
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たずさえた急使、長井六郎、大和田小四郎のふたりは、福原(神戸)の道で鹵簿の列に会し、思わず供奉の前列へ走りよって、
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谷の隠れ穴から山づたいに六浦の方へさまよい出て、武州金沢の称名寺へかくれていた。――だが、そこもまた両軍の
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の首将や侍大将たちで、そのご奈良へ逃げ籠り、また奈良で敗れて、ついに宮方へ降参に出ていた面々だった。――
ていた鎌倉方の首将や侍大将たちで、そのご奈良へ逃げ籠り、また奈良で敗れて、ついに宮方へ降参に出ていた面々
将軍が密々な令を廻したとき、楠木の手勢は、奈良から宇治口をとって、あきらかに六波羅の背後へうごきを見せたもので
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が首斬られた。もと鎌倉の幕臣、阿曾ノ弾正時治、長崎高真、佐介貞俊、以下いずれも、去年の千早包囲軍をひきいていた
入れておいた降将たちの処分だった。阿曾、大仏、長崎、佐介など、北条遺臣中でも歴々な輩を、いつまで未処分に
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でいたので、その女子だけは、良人と共に京都へ移り、時の一条能保と肩をならべて、かなり一ト頃は羽振り
が、この公佐もまもなく京都で失脚している。そして子孫は朝廷に仕えてきたが「尊卑分脈
文意は、鎌倉の直義へあてて、近日中に京都で異変があるむねを予報しているものであった。
奥州へのがれていたが、ほとぼりもさめた頃と、京都へ入りこみ、旧縁をたよって、いつからか西園寺の内に寄食し、名
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「新田義貞はじめ、武田、塩冶、結城、宇都宮、名和そのほか、これにおる者の手兵だけでも……。いや、
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手越の宿は、駿府(現・静岡)の西で、直義たちは、渡河を敵にさまたげられ、数日の
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たがどうした。いまのごとき広言を吠ざくなら、鶯谷(義貞の陣営所)へ来て吠ざくがいい」
から歩けというのだ。その不服を聞いてやるから、鶯谷のご陣所まで来いというのが分らんか。……どうした、
ここの鶯谷は日蔭が早い。鶴ヶ岡の元神官屋敷そのままの営所で、まだ新田の
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元年としているのはまちがいで、彼の出した“上野ノ国宣”や任官日時などからみても、鎌倉占領後からまも
ノ下、右衛門佐に叙し、越後守とし、あわせて上野、播磨を下さる。
西は、長門だの伊予地方に。北は信濃、上野国にも。そのほか飛び飛びに近畿から東北まで、いわば野火か山火事のよう
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ない所はなく、戦災で焼け落ちた五条大橋も、いつか新橋の粧いを成しかけている。
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山上護国寺にて大供養。
同日中に還幸。――というのが、時の「護国寺供養記」に誌された“行幸次第書き”だった。
に、うんざりさせられたせいだろう。――だが、護国寺宝塔院のさいごの夜も無事に終了して、賜酒の酔いを頬
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て出て、ために土地の守護国司らの官軍は、千曲川そのほかの戦場でことごとく打ち破られ、はや、手のくだしようもありません