私本太平記 12 湊川帖 / 吉川英治
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二日後の晩であった。彼は、人知れず清水寺へ願文をおさめていた。
彼のその願文は、秘封のままで清水寺へ納められた。内容はたれにも知らされていなかった。――彼
清水寺
涙がわいたことであろう。――だがそれを、清水寺へ納めたすぐあとでは――もう自己の分身のような直義へも、
あの願文を清水寺へ納めてからの直後の日である。
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ぞ。――かつては襲来の蒙古の外兵十万を、博多ノ浜に葬ッた例しさえある。――それを、尊氏来るの風騒
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おそらく、尊氏からも、すでに筑紫を発するまえから、あらゆる招致の手段は、すでにしつくされているであろう。
折、もし新田殿が、都へのご凱旋などなく、筑紫までもと、尊氏を追いつめて行きましたなら、御勝利は確たるものとなって
一ト筋に駈け出したのは、少弐頼尚以下の、筑紫の兵、三千余騎にちがいない。
を向けて尊氏を撃たねばならん。あとの直義や筑紫、四国勢などは、物のかずではない。はやく行け。おおそこの新兵衛
建武の頃、おもひのほかの事によりて、筑紫にくだりけるが、ほどなく帰り上りけるに、都に残しおきける女の、
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、同義照、畠山五郎、佐竹義敦などが抜きつれて、阿修羅の菊水兵を相手に火をふらして防ぎたたかい、血けむり、地ひびき、組んず
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「義貞はここの旗本、細屋、大井田、烏山、羽川、一の井、籠守沢などの手勢すべてをひきつれて、一せいに生田
そのほか、大館義氏、堀口美濃守、江田、額田、烏山、羽川、里見、岩松、武田などの宗徒の一族旗本からまた――在京の
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精兵をひッさげて、敵中をけちらし、尊氏の本営、東寺の門前までせまって、弓に矢をつがえ、
将は、すぐ再度の獲物を追う猟犬のごとく、いさんで東寺の門を出て行った。が、あとの尊氏の浮かぬ色をみた
ただひとり、馬を東寺の門で捨てるやいな、あッけにとられる兵どもをしり目に、大股
尊氏は、東寺の営からこれへ、お見舞にといって、参上した。
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法勝寺も焼け、大覚寺も焼かれた。――八条猪熊で、名和伯耆守長年が斬り死にした
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、御加勢に馳せくだって来よう。近く北国勢もくる。阿波四国の宮方からも、密牒が来ておる」
、このころ北国から四千の新手が馳せさんじ、また、阿波四国の宮方も「お味方に」と京地へ着いて、阿弥陀ヶ峰に拠っていた
なってきた中央の戦状をながめて、九州、中国、四国、紀南、北陸、全土の宮方がまた宮方へ起ちはじめ、ぞくぞく、行宮のもと
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つたえた当夜の真夜中、すでに正成の或る密命をうけて、河内からみなみの遠くへ、馬をとばしていたのだった。――一族の
素朴な祈りと生命のみが知るものだった。――また河内の山間に古い或る一つの大屋根の下の、まだ明けきらぬ閨の内
にお別れをつげるために。――また正季は、なお河内、和泉の遅れた兵を召集して、兵庫への途中で兄の正成と
と、河内を出るときから固めていた心がまえにもさらに反復をかさね、あらゆる思慮をめぐらし
はございませぬ。申さば、世病みと申しましょうか、河内におりましても、世の風騒に心も安からず、とかく人にはさよう
円のおもしろからぬ戦況など、安からぬことではある。河内、そちもいちいち耳にしておるであろうが」
「河内、そちにおいては、新田へ隔意をふくむ心は、まったくないと申すの
「河内、そちがまいるからには、たとえ足利の大軍いかほどあろうと、もはや安心いたし
、事実も証明しています。このたび発向にあたり、河内、和泉の領下一帯へ、出馬の令を触れ廻しましたが、思いのほか
聖断を晦くしたてまつるべきではない――と、これは河内を出るときからの彼のかたい胸裏であった。
兄正成よりも二日遅く、彼は河内の赤坂を立った。
すがたを胸にえがいていた。この大江山でも、河内の奥にいたときのような山荘の戸をひそと閉じておいでか
、毛利時親なのである。――この春、時親の河内の旧居においてあった蔵書一切を荷駄にして、大江へ送りとどけたとき
。遠くにかしこまって、手をつかえている。見れば、河内に残して来たはずの正行だった。
「いえ、叔父ぎみ(正季)とご一しょに河内を出ました」
。だが、連れては行かれん。そなたは明朝、河内へ帰れ」
「河内を立つ朝、よく言っておいたはず」
正成の心と違うてはおらぬはず。はやはや、今日は河内へ帰って、なぐさめてお上げせい。わけて正成が亡い後は、世にひとり
「正成が亡きあとは、旧領はおろか、河内の寸土を保つのさえ容易でなかろう。また正行のためにも、しかるべき者
しかし、殿上からの、べつな通達によると、正成は河内から直行せず、親しくみかどにお別れをつげて立ったという。そのこと
馳せ参じさえ、ちと懈怠と思われるのに、ぼッと出の河内の新守護などが、何の策を持ちましょうや。なるほど、金剛千早では
兵数だけが、われよりはるかに超えておる。それにたいする河内どのの戦法はどうか。よい奇略があるなら聞きたいものだが」
あることは、今さら瞠目するにはあたらなかった。先に河内へ密使にやった右馬介から、正成の心は、すでに聞かされていた
「なぜ泣く。正行と共に河内へ帰すべきを、きょうまでは連れて、そちの望みもかなえてやったもの
「しばらく! しばらくおとどまりを。それがしはこの春、河内へおたずね申しあげた者。あの折の右馬介と申す者。暫時、河内殿
「介……。そちならではだ。まいちど、河内へ行ってくれい」
あくる日である。まだ暗い未明のうち、彼は、ひそかに河内へ立った。
「河内のか」
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氏明、宗氏の手兵三千が、あらまし、密生した小松原のかげに潜んでいたのである。
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、久しぶりな師のすがたを胸にえがいていた。この大江山でも、河内の奥にいたときのような山荘の戸をひそと閉じ
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「ふとしたら、義貞のいる金ヶ崎城へ落ちたか、なども考えられる。若狭街道や、龍華越えへも、追手
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四国の宮方も「お味方に」と京地へ着いて、阿弥陀ヶ峰に拠っていた。
も西は山崎、鳥羽伏見。みなみは木幡、奈良ぐち、阿弥陀ヶ峰。ひがしは近江から北は若狭路にまでなって来たには理由がある
――で、まず道場坊宥覚をひきだして、阿弥陀ヶ峰のふもとで斬り、また、本間孫四郎ほか数名を、三条河原で首斬らせ
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千早籠城のさい、正成と共に、主将として、金剛山の上にこもっていた公卿なので、正成とは気心もよく知っている
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、万余の新軍勢を加え、山門の衆徒三千、さらに園城寺の大衆までをかぞえてみると、義貞すらが、
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作り、尊氏が兵庫へせまる日、かならずこなたは紀伊水道から摂津ノ沖へ出て、御加勢に加わりましょうと、その法橋どのは、かたく申しており
情報集めに放っておいた、八木弥太郎法達の部下が、摂津の昆陽野(伊丹)から馬をとばして来て、
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と疲労にまみれた惨烈なかたまりをなして、瀬田方面から逢坂をこえてきた。――近江で大勝したのである。――だ
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八幡大菩薩
の沖あいを東へすすんで行くのが見える。天照大神、八幡大菩薩と、金文字で打出した日輪旗が、中の一檣頭に燦々とかがやいて
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から望みますと、まさに数千艘といえる敵の水軍が、明石と淡路島とのあいだを、魚群のように遡ってくるのが、あざら
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「いや、尊氏を九州へ追い落したさいには、わが方にも優勢なる水軍があったはず。それ
これへ加勢に添えた一軍で、その中には、九州の菊池武重の弟、菊池武吉などもいた。つまり客将としてである
九州いらい、陸上軍の全責任をもたせて、山陽道を攻めのぼらせ、息つくひま
九州を征服し、山陽山陰を掃き、正成、義貞に勝って、思う皇を御
は、弟直義に譲ってよい。すでに、鎌倉を立ち、九州このかたも、直義へは、軍政、日常のおもなる権、あらましは彼にゆだね
慢性的な長陣となってきた中央の戦状をながめて、九州、中国、四国、紀南、北陸、全土の宮方がまた宮方へ起ちはじめ、ぞくぞく
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弥四郎と、南江備前守とで、もう一名は途中の和泉から使い先へ加わって行った――これも一族の和田修理亮助家だった
別れをつげるために。――また正季は、なお河内、和泉の遅れた兵を召集して、兵庫への途中で兄の正成と合流する
も証明しています。このたび発向にあたり、河内、和泉の領下一帯へ、出馬の令を触れ廻しましたが、思いのほか、武士
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尊氏は、別れて、やがて花山院の廃宮から外へ出ていた。外の大気は明るく、武者陣の
午後。――彼は自身で花山院の旧御所を検分に出かけ、そのもぬけの殻の状態を親しく見てから、
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安芸の人、石井七郎末忠なる者が、正成の麾下にあって戦死してい
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ときから、すでに周囲の絆は断ち、また治郎左は、伊賀の服部家の跡目も武門も、とうに捨てた決心ではなかったのか
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今朝から、六条の原に屯していた一軍がある。
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た日もあったが、やはり事むずかしく、切目ノ王子から吉野の奥へ引っ返された例さえある。
「北畠親房は、吉野で何かを策しており、四条隆資は、しきりと、和泉河内の残兵を
もちろん、これらの武士は、はやくから吉野や伊勢方面に蠢動していた宮方残党からの派遣者にちがいなく、
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その夜である。義貞は日吉の大宮権現にひとり参籠して、氷のような床に伏した。夜もすがらなに
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とはいえ、まだ、瀬田、宇治、醍醐、淀、山崎にわたる“つなぎ陣”から、一軍は近江へ出
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。まずは天道のはからいと申すべきか。いずれにせよ、畿内あたりに御座あろうが、あとは自然と叡慮のままにおまかせ申しておけば
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ところで、当の正成は、なお赤坂城へも姿をみせてはいなかった。すべては水分ノ館のおくから弟
「……でしょう。……この御本屋でも、赤坂城でも、ご出陣のせまっている今。わたくしたちの端までが、どうぞ、
橋本、神宮寺などの一族中のおもな者七、八名を赤坂城へよびにやった。――いや正季、季綱などは、この夕、すでに
彼も一部将として、とうに赤坂城の武者溜りの内に詰め、いつでもと、出陣を待機していた
ところはなかったのであろう。軽い駒足はたちまち彼を赤坂城の門へ運んでいた。
力は、せいぜい千二、三百人にすぎないのであり、赤坂城の合戦から千早籠城のさいに見ても、実勢力の限界は、わかって
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「新田どのの軍勢は、白旗城のかこみを捨て、加古川の陣も抛って、ぞくぞく兵庫へひきあげ中のよし。何せい、諸所の崩れ
なく、どこか澱みがあるのはぜひもない。――加古川を総退却していらい、よく眠ったのは、ゆうべが久しぶりなのだった
この兵庫へ入ったのは、昨二十三日のこと。加古川からは多くの負傷者をかかえ、悪天候には、はばまれ、秩序もなく、なだれこん
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と、攻勢に転じだした。一面は内野から、一面は高野川、加茂川原づたいに、洛中を焼きたて、市街戦に入ることも何十度。――
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たなどの秘事は、お耳に入っておりましょうが、伊勢、吉野方面などの、けわしいうごきは、直義もつい昨夜知ったばかりですから」
和泉河内の残兵をかりあつめ、また親房の一子顕信も、伊勢で戦備をすすめているということです。そのほか、諸国にわたって、皇子
ものだ。北国ばかりでなく、伊賀甲賀の奥まで捜せ。伊勢へ落ちたと見られんこともない」
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田辺が持つ熊野水軍
熊野水軍の向背は、どっちとも、これを俄に予断することはむずかしい。
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。――一切は、弟直義に譲ってよい。すでに、鎌倉を立ち、九州このかたも、直義へは、軍政、日常のおもなる権、あらまし
「すぐる年、鎌倉の牢獄で、大塔ノ宮を暗々と虐殺しまいらせた者は、ほかなら
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物見の情報も聞きたい。――義助をはじめ、堀口、大館、江口、世良田、居あわす者はみな寄れと申せ」
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ちょうど、それはいま、明石海峡をひがしへ出離れ、一ノ谷、須磨の沖あいあたりで、一せいに、いかりを下ろしているらしくおもわれる。
床に扇のさきで曲線を描いてみせた。――須磨から駒ヶ林の浜、和田ノ岬、また湊川口と――守備の要地要地に
進軍令と同時に、磯の垂水――塩谷――須磨――妙法寺川――へと行動をおこしていた陸勢の三万余騎
た乱波(しのび)の仕事であったらしい。この古街道を敵が須磨から迂回してくるものと想定すれば、当然、大日堂から妙泉寺へかけ
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と、附近の木蔭で兵馬を休めた。長田神社の森だった。
まもなく、長田神社を出て、その兵馬は依然、南へ潜行をつづけていた。すると
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。まず、結論からさきに申すなれば、急遽、ここの皇居を、もいちど、都の外に遷し、主上には叡山へ御動座あら
そのなかには正成の姿が見えた。――花山院の皇居からたったいま退出して、これに待っていた一勢と、ひとつに
山上の大講堂文珠楼のあたりまで攪乱して、山門の皇居をさえ脅かしたことすらある。
一年余でしかございません。……変りはてたこの皇居のさま。わけてもおん窶れのはなはだしさ。……胸いたむのみにございまする。
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の金剛寺前に住んでいる仮面打ちの老人で――越前の遠くから移住してきた者だと、この道にくわしい卯木夫婦から聞い
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、忝しと、心骨に忠誠を誓ッてからは、関東の野には、屍を積み、西国の風雨には、あらゆる惨苦をなめ、
はございませぬ。――わけて、たまたまの風雲に乗じ、関東の野より、俄に、中原へ兵馬を張って出た私への、かずかず
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兄正成よりも二日遅く、彼は河内の赤坂を立った。
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冬、幾万の死者が出ようも知れぬ。かつはまた、丹波の奥、梅迫の山家に難を避けておられる兄弟の母上、わしの
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勝てば、負けではない。数日前、はや密かに四条、北畠の二名をここから落して大和へ走らせ、北陸へも、あらかじめ
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きた中央の戦状をながめて、九州、中国、四国、紀南、北陸、全土の宮方がまた宮方へ起ちはじめ、ぞくぞく、行宮のもとへ馳せ
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あれから夕方まで、生田川の川原では、正成の部下がみな裸になって、みそぎするように汗
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松尾季綱らにさしずしていた。そして、居ながら金剛、葛城の山波が望まれる彼の居室は、いつものようなひそけさで
金剛から水越峠の遠山が、くっきりと、晨の線を描いていた。
「はアて? ……。千早、金剛では、あの小勢で数万の寄手をさえ、寄せつけなかった楠木兵衛ノ尉
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ノ宮が、御潜行中の身を、いちどは、熊野にかくそうとなされた日もあったが、やはり事むずかしく、切目ノ王子から
助家殿(和田)が行っておりますことゆえ、もし熊野の水軍が、お味方の援けに、海上へ見えたとあれば、早馬を
も、召にこたえて来る船はありませぬ。せめて、熊野の水軍でも、ご加勢にまいればと存じますが」
「来よう。かならず、熊野の船手は」
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、一味同心だけをすぐって、一船陣を作り、尊氏が兵庫へせまる日、かならずこなたは紀伊水道から摂津ノ沖へ出て、御加勢に
お願いせい。……御一族あますなく、挙げて、兵庫の難へ。しかも、聞きおよぶところでは、足利方は数万の大兵のよし
は、なお河内、和泉の遅れた兵を召集して、兵庫への途中で兄の正成と合流する約になっていた。
同日、その場からただちに兵庫へ出勢すべしとの朝命とみてまちがいはない。もとより万端の準備に欠け
白旗城のかこみを捨て、加古川の陣も抛って、ぞくぞく兵庫へひきあげ中のよし。何せい、諸所の崩れ、尋常ではありません」
「地の利? 兵庫は味方にとってさほど不利か」
「兵庫とはかぎらず、いずこにてもあれ、このさい、彼の大兵をふせぎ得る地
うごきをたしかめるため、ゆうべの風雨の中も、須磨口から兵庫の浜にとどまっていた。彼の姿を欠いた軍議は、とかく根本の
この兵庫へ入ったのは、昨二十三日のこと。加古川からは多くの負傷者をかかえ
、呟いていた。しかしその目はなおも、和田、兵庫、生田、西ノ宮の長い汀にわたる明日の攻防修羅の作戦図をじっと思いえがいて
方面へたいして、司令によい所といえば……。まず兵庫の中を一条まっすぐに通っておる西国街道のほどよき辺か」
駒を遊ばせて、ざっと懐紙に写しとってまいった、兵庫の地の見取り図ですが」
すべて舳艫を、敵の和田ノ岬から兵庫へ向けて、左方の陸地を望みながら、徐々に、接岸をさぐッて行く
敵の一部は、兵庫へあがる姿勢にあるが、また一半の分裂船隊は、和田、兵庫の岸も
あがる姿勢にあるが、また一半の分裂船隊は、和田、兵庫の岸もすててはるかひがしの――義貞の位置からすれば――ずっと後方
――いちど沖へ去った水軍の二大船団が、兵庫、生田方面へ、上陸態勢をみせだしたので、義貞は愕然、後ろを
おなじ日、尊氏は、兵庫の全軍を再編成して、魚見堂を立ち、いよいよ、都へむかって進発
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を、もいちど、都の外に遷し、主上には叡山へ御動座あらせられますよう、伏しておすすめ申しあげます」
で皇居を出られ、途中で輿にお乗り換えあって、叡山へ、というお手順とか。いずれお姉宮へも、武者どもが輿
政令、すべてはここからという形をととのえ、後醍醐の大本営叡山と、その対峙を真ッ向にしたものだった。
叡山の行宮から発しられた諸国への大号令が、ようやく、こたえをなして来
でいた軍兵の列もみな石の兵みたいだった。叡山の上は俄に寂寞な冬を来たし、風は霏々と肌を刺した。
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正成は、即日ここを立って、まず京都へ向った。天皇にお別れをつげるために。――また正季は、
。十数万人にのぼる人間が、敵味方にわかれ、京都という一小盆地の底で、夏じゅう、明けても暮れても、
幕府ヲ京都ニ置ク
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「ツヅイテ、日輪ノ旗ヲ中ニ、本軍ハ紺辺(神戸)ノ東ヘ突進スベシ。シカシソレニハ一切、加勢無用」と。
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ひろがり、範囲も西は山崎、鳥羽伏見。みなみは木幡、奈良ぐち、阿弥陀ヶ峰。ひがしは近江から北は若狭路にまでなって来たに
「木幡、奈良街道。……宇治川すじ、淀川一帯。さっそくに、手配は抜かッておるまい
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の二、三や、菊池肥後守が脱走して逃げ、宇都宮も出家に化けて遁れ去ったとあるではないか。――それらは
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「昨夜じゅう、今か今かと待っていたが、住吉からは、何の連絡も来なかったな。――ついに切目の法橋の
「住吉へは、助家殿(和田)が行っておりますことゆえ、もし熊野
の早打ちと行きちがうやもしれぬ。――で、そちは住吉へ駈け、もし熊野水軍の来援がわかったなら、すぐ西国街道の途中へ
語、そう呟いたきりだった。――この助家は住吉にとどまって、なお執拗に、紀州の切目ノ法橋との連絡をもちつづけ
「休むがいい。そしてもう、住吉にも戻るにはおよばん」
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に青く、大気は澄み、西は鉄拐山、横尾山、高尾、再度山、ひがしは摩耶、六甲まで眉にせまるほど近くに見える。その
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その夜である。義貞は日吉の大宮権現にひとり参籠して、氷のような床に伏した。夜もすがらなにか