新書太閤記 05 第五分冊 / 吉川英治
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「川中島へ信玄を誘き出したのもあの手であろう。何しろ精悍な人だとみえる。
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こういう中で、岡崎城の家中近藤平六は、新規御加増となった。
小石を投げながら、男の影は、逃げるように、岡崎城のほうへ駈けて行った。
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大賀のやしきには、倉地、小谷などの一味が来合わせて、やがて山田八蔵が、又四郎を連れて来るであろうと
倉地、小谷のふたりは、ついに逃げおわせて、敵の――いや彼らにとっては
河を泳いで逃げのびて来た、倉地、小谷のふたりから、それと知ったときの勝頼が、はたと困惑につつまれた容子
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、備後、備中、美作、出雲、伯耆、隠岐、因幡、但馬――など約十二ヵ国にまたがっている。
播州、但馬、伯耆などにわたる中国の大名小族たちは、いまやその帰趨に迷いぬい
因幡、伯耆、出雲、石見の兵をひきい、行く行く丹波、但馬の兵も合して、一挙、京畿に進み、本願寺と呼応して直ちに、信長
上月を去って、いったんは、その方向を但馬へとって進むかのように思われたが――急に、播州の加古川
但馬からここへのあいだ、行軍中に豪雨の日がつづいた。その無理が出
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客として行ったのであり、病半兵衛もまた、八幡山城の明石飛騨守景親を説きに赴いたものであること、いうまでもない。
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(いや、すでに春日山を発し、陣中で)
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兵庫の花隈城へ対してなど、不断に攻撃をつづけ、須磨、一ノ谷、六甲あたりの寺院でも村々でも仮借なく焼きたてた。どんな些細
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は宇喜多、北部の波多野一族などあって、その勢力圏は、安芸、周防、長門、備後、備中、美作、出雲、伯耆、隠岐、因幡、但馬
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ておる。寺にはかなわん。財力がある。また、堺に接し、地の利を得ている」
月に入ると、信長は、妙心寺で茶会などひらいた。堺や京の数寄者が大勢集まった。いつか秀吉が、信長にささやいて、
といった堺の宗易――利休も来て、茶を点てた。
。日々、公卿、武人、茶家、文雅の輩、浪華、堺などの商賈の者まで、訪問客は市をなした。
の伴天連だった。平戸、長崎あたりはいうまでもなく、堺、安土、京都、畿内のいたる処にも無数の宣教師が日本に渡ってい
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に工事をすすめています。――なおまた、播磨、摂津の海上には、七百余艘の兵船を遊弋させ、後詰の兵や糧食
「摂津の荒木どのと組して、当城もまた織田家にそむき、毛利方へ随身せり
「どうだ、摂津。この辺で、よいほどにしておかれては」
「悪態は無用。尋常に話そうではないか。なあ摂津」
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三郎信康も、はや十七となった。信康のほうは、岡崎に在城している。
坊の声がよくすることである。その頃、浜松、岡崎を通る旅人がきっということは、
おそらく浜松にも岡崎にも、大賀弥四郎ほどな屋敷を構えていたものはなかったろう。
でもないが、一歩邸内にはいると、ここばかりは岡崎ではないようだった。
来たり、酒間をとりなす召使の女にしても、岡崎や浜松の女の肌目ではなかった。わざわざ京都から抱え入れたものらしい。
が来て飲んでいた。これも大賀と同様に、岡崎の家中で羽ぶりのよい山田八蔵という御蔵方随一の出頭人だった。
た。ここばかりは、百難克服、挙藩一致の窮乏岡崎の城下ながら、岡崎の外のようだった。豊かなる「物」と貪慾な
、百難克服、挙藩一致の窮乏岡崎の城下ながら、岡崎の外のようだった。豊かなる「物」と貪慾な精神とが、門
聞けい。……そちも忘れてはいまい。わしが岡崎に在城の頃、或る年、田を見廻りに行くと、泥田の中に、
、跡部大炊から聞くがよい――このたびこそはきっと、岡崎の城を手に入れ、浜松を衝き、積年の望みを遂げてみせる。―
家康の子、徳川信康がいま守っている岡崎の財吏に、大賀弥四郎なる者がいる。
三河に出て、作手あたりまで攻めて来るなら、大賀は岡崎にあって、内部を攪乱し、城門をひらいて甲州勢を迎え入れよう。――
「敵――岡崎の城は、もうわが手の物」
きのう、岡崎の家中近藤平六が、目通りをねがい出て、
「夕方、岡崎の方へ、馬をとばして逃げて行った」
だが、岡崎にも、すぐ通牒がまわったので、彼の所在は、きびしく詮議され
大賀弥四郎と並んで、岡崎の御蔵方支配をしている山田八蔵のやしきへ、そこの裏門をどうのり越え
浜松でも岡崎でも、隠れないうわさにのぼっている又四郎の境遇である。
かねて岡崎の奉行とも聯絡はあったらしい。又四郎は彼を引っ縛ると、その
。――こうして浜松中を曝されたあげく、さらに岡崎へ行って同じように城下を引き廻された。
大賀弥四郎の内応一つにあった。作戦、目標、すべて岡崎の内部から、攪乱と呼応のあることを、かたく期して来たのである
幾日をつなぎ得よう。――危急は迫ると、疾く、岡崎へ向って、援軍の後詰を仰いではあるが、なんとしたか、
「いま岡崎にお在す殿の許へ、わしの書状をもって、後詰の催促にまいっ
微禄なので、平常の貧乏は、岡崎にいても、城下で指折りのほうである。内職もやる、百姓仕事も
「そちが、身支度をととのえるあいだに、岡崎の兄貞能へ宛ててつぶさに書面を認めておく。なお城中の切迫している
や幼子のことなど必ず案じるなよ。三九郎貞昌より、岡崎の殿へ申しあげ、われらすべてここに討死いたすとも、きっとそちの子はお
発したのが十三日。――十四日には全軍すべて岡崎へ着いていた。
岡崎の城下はそのためにごった返していた。何しろ狭い町に岐阜から来た三万
わけても第一の惧れは多分にある。家康を始め岡崎の将士は、長篠にある兵数や防備の微弱を知りぬいているので、
これでも岡崎としては五十石がらみの侍が住む組長屋だった。以て日頃の窮乏ぶり
岡崎の城下を発した兵馬は実に夥しい数であった。
「岡崎の大賀一味が裏切りの策も齟齬し、また、長篠の城内へ、信長の
「主人貞昌の書面を携え、岡崎の御城中まで参りました」
家康は無慈悲ではないか。――この重囲を脱し、岡崎へ使いしたほどな忠義者を、ふたたび城へ帰すとは。――まるで
の槍にも足りませんが、織田どのの援軍も、岡崎の後詰も、すでにこれへ近く参ると告げれば、城中の士気はいちどに
上より、大音にてこう申せ。――使命をおびて、岡崎までは参ったれど、家康には甲軍に取り詰められて、牛久保の塁も一
は、先夜お別れを告げた鳥居強右衛門勝商でござる。岡崎への使いの御返事、ここより申そう程に、耳をそばだてて聞き給えや―
今になってはっきり分ったことは、岐阜の兵が、岡崎を立つ時から、全軍すべての兵に、各※一本の杭と縄と
決まった。もちろん信長は岐阜へひきあげ、家康もひとまず兵を岡崎へ納めることに決ったのである。
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よく守られて来た。けれど、年々その忌日には、恵林寺をはじめ諸山の法燈は秘林の奥にゆらいで、万部経を誦み
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丹後には一色左京を。また丹波には明智光秀を。
光秀は、主君とわかれて、ここから丹波の領地へ帰る予定である。――で、明るいうちにと、自分の宿舎
た。このたびは、惟任の氏を賜わり、さきには丹波の御領地を加えられ、ここおよろこびが打ち続いておられる。積年御奉公の
「丹波をいただいても、御承知のとおり、あの地方は、旧将軍家の所領で、いま
移るやいな、細川藤孝、忠興の御父子とともに、丹波へ進まれ、亀山の守将内藤一族を軍門に降して、着々、実績をあげ
自分は因幡、伯耆、出雲、石見の兵をひきい、行く行く丹波、但馬の兵も合して、一挙、京畿に進み、本願寺と呼応して直ちに
忽ち播州にもひびき、大坂表にも動揺を与え、なお丹波、山陰地方にまで、一波万波を生ずるの様相をあらわして来た。
丹波には、波多野秀治の一族が、やはり今を「潮時」として、しきり
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極楽寺山は設楽ヶ原いちめんを前に、遠くは敵の鳶ヶ巣、清井田、有海ヶ
極楽寺山の織田の本陣では、山上の伽藍のうちで、織徳両家の宿将が
。約束の烽火にも及ばず、二ヵ所の黒煙は、極楽寺山の味方の本陣からも、早あきらかに観て取れたに違いない。
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それに溺れない自己をいつも持っていた。相国寺へ三条、烏丸、飛鳥井の諸卿を招いて、蹴鞠を催したときである。
摂家、三条、水無瀬の二卿。
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伊吹の麓まで来ると、さむらいの一人が訊いた。秀吉はつねに先駆しながら
平野へ下るのかと思うと、七尾村から伊吹へ向って、山道を登りはじめた。
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と、昔から鎮西に名高い名族の氏姓をゆるして、臣下のそれぞれに名のらせた。
、四国九州の統一が考えられていたのである。鎮西の名族の姓を家名に頂かせ、やがて西征の轡を競う日のあるべき
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「村重にしたがって、高槻の高山右近も、茨木の中川清秀も、義をとなえ、ともに叛旗をひるがえし
「茨木の中川瀬兵衛と。――高槻の高山右近か」
不破、前田、佐々、金森などの諸隊が結びあって、高槻の高山右近を包囲する。
伊丹、高槻、茨木の三城を対象として、その包囲形は、
「高槻の高山飛騨守が伜……あれは十四歳の頃から切支丹に帰依した熱心
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近畿の諸大名たちであった。――上洛中という奥州の伊達輝宗も来ていた。そして、南部の名馬と、鷹を贈った
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ぴたりと坐って、銚子のつるを持ちながら、
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そして、信長の本塁は天野山におかれた。こう壮観な布陣を展開しながら、彼はなお、衂ら
にもかかわらず、天野山の本陣からは、いっこうに「かかれ!」の令が出なかった。諸陣、
認めい。自身、出て参れと。時をうつさず、天野山へ参れと」
聞えると、オルガンチノは、右近を伴って南蛮寺を出、天野山の陣へ行って、信長に謁した。
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立たなくなりました。……で、米価は刎ね上がり、大坂城の粮米は欠乏を極めておりますため、これに米を密売すれば、莫大
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まず、上月城とお味方との通路を遮断するため、高倉山のふもとや、村々の谷あいに長い空壕を鑿ち、低地にも兵をかくし
待って、本軍に加え、総勢、上月城の東――高倉山へ陣を移していた。
高倉山から三日月山の附近――峰谷々にわたって、旺んなる火焔をあげさせ
小早川隆景の兵は、高倉山のうしろを迂回して、夜襲して来た。
で、秀吉は、高倉山へ帰陣すると、丹羽、滝川、明智などの諸将を集め、
彼は、高倉山を去る間際まで、何度もそれを訊ねていた。
も、何の異変が見えないため――ついに諦めて、高倉山を去ったのであった。
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生々たる朝だ。かつて三方ヶ原の戦いのときでも、この浜松城の門を開け放しにして、敵の包囲軍を前に、大鼾で眠って
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と、令をさけぶと、たちまち天地を震撼して、かつて甲州の将士の耳には、聞いたこともない轟音が、城の数ヵ所から火
「甲州の智者にも抜け目があるの。これは偽手紙とはっきりと云い断れる。なぜ
そしてにわかに、身支度へとりかかった。甲州の坑掘り人夫に扮装して、いく度か、自分の衣髪に苦慮を
すでに堤の一部を切られたも同様で、到底、長く甲州の進出をふせぎきれないことは瞭らかです。――信玄亡きあとの現状
から、一切を諦めておりましたが……ただ今、甲州へ随身なせば、生命も助け、高禄もやるというおことばを、耳に
「見られよ。きょうこそは、甲州の敵どもを寄せつけて、練雲雀のようにして見せ申さむ」
救い出した。――これを敵方から見れば、明らかに、甲州の中軍は、算をみだして、潰走し出したものといえよう。
それを感じた。何となれば、信玄の死後も、甲州の軍馬が健全なうちは京畿に向って、そのほかの反信長の諸国に
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もちろん信長からで、越前へ――の再征令であった。
そこを越えて、越前へはいった信長軍の主力は、丹羽五郎左衛門長秀と、羽柴筑前守秀吉。
けれど、一月もすぎると、またふたたび越前の領内には、騒然たる空気があがっていた。
朝倉家亡んでも、越前は失くならない。越前の主権者は変っても、庶民の中に根を張って
越前の平定は、あらまし八月中に終った。
―これが叡山を焼き、武田を討ち、ついきのうは、越前から加賀まで震撼させてきた猛将だろうかと思うのである。
総じて、中国軍の兵器は、越前や北国や甲信の敵の比ではない。強力な火薬や、まだ見た
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まみるるならば――ここ鳴りをひそめている近畿、四国の敵ども、また本願寺一類の悉くも、それ、織田どの躓きが見えた
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大手門のまえに、幾ヵ所も、井楼を構築し始めたのである。
や油布へ分銅をつけて、火の鳥のように、大手門の内へ投げこんだ。
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と、彼はすぐ京都へ向って出発した。そして、安土城の中で信長に目通りした。
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夜明けとともに城を出て、伊吹山のほうへ駈けて行った。狩猟にということであったが、鷹も
せがんで云った。秀吉は馬を立てて、眉に迫る伊吹山を仰ぐ。さむらい達もみな手綱をやすめ、各※、汗ばんだ顔を山巒
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伊丹城を討つべきか。
「では、安土から慰撫の使者が参れば、伊丹城は、事なく鎮まろうか」
「さすれば、伊丹城へ使いを向けても、徒労というか」
敵の眼をくぐって、彼の陣中に、また国もとの伊丹城へ、しきりと往来し出したのは、決して招かざるの客ではなく、
伊丹城の老職たちは、主人の荒木村重にたいして、
子松寿丸を、すぐ打首にして、父官兵衛のおる伊丹城へ送ってやれ――と」
、彼は荒木村重の謀叛に与して、二人の子を伊丹城へ質子となし、共にこの信長へ故なき弓を弾かんとして
片づいた――という意味であろう。信長は伊丹城をながめて云った。
その伊丹城は、完全に孤立化したが、まだ陥落はしていない。しかし信長の
質子を、打っておらないのか。その首を、伊丹城におる黒田官兵衛のところへ、送ってもおらないのか。そうなので
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儀ではありません。――近年、御定住と聞く安芸国で、安国寺という伽藍を」
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八月十二日、岐阜を出て、十四日敦賀に入ると同時に開始された越前門徒一揆の討伐だった。
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「九州を略し、九州に居城しましょう」
「九州を略し、九州に居城しましょう」
聞けば、こんどの中国戦を聞きつけて、遠く九州の平戸や博多あたりから、多くの武器商人が入りこんでいたらしい。それら
が、東国をも陸奥の果てをも、また北陸や中国九州までも、満潮の干潟を浸してゆくように、余すところなく漲ってゆくで
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も、細密な注意を払った。――荒木村重以下、畿内の将が、信長を離反したり、この播磨においても、それと共
たまたま、信忠や他の将が、援軍に参っても、畿内や京地のうしろに不安があって、長居もできぬ有様ではないか。
ていた荒木村重が、一転して毛利家と通じ、畿内の情勢をくつがえしたことに徴しても、織田家の前途は卜されよう。
、中国や関東方面や北越をべつとしても、この畿内においてすでに、非常に危ない複雑さをもっている。――能うかぎりは
、長崎あたりはいうまでもなく、堺、安土、京都、畿内のいたる処にも無数の宣教師が日本に渡っていた。その中でも
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として使節に来た奥平貞昌と酒井忠次とを岐阜城の奥へひいて、
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と、常識的なうわさもあり、そうかと思うと、春日山城内で、厠にゆくところを、刺客のために殺された――などと
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高松山の一丘には、徳川方の旌旗が満ちている。大久保七郎右衛門、同苗
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それからすぐ後の二月ほど後には、もうかつての叡山の殺戮以上、残忍極まる血の巷を、事もなげに歩いている信長
こういう時、誰をも疑わせた。――これが叡山を焼き、武田を討ち、ついきのうは、越前から加賀まで震撼させてき
という先例を、叡山の焼討ちに見、長嶋の討伐に見、あらゆる政策の上でも、常に
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彼は北ノ庄から府中へ、陣を移し、そして二十六日頃には、すべてを終って、岐阜へ
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京、大坂はもちろん、遠くは西国から、また関東地方や北陸からも、各※、弟子や職人を連れて来る工匠たちが、陸続
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「おうッ、八尾か」
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丹後には一色左京を。また丹波には明智光秀を。
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大坂の石山本願寺も、三好笑岩と松井友閑を使者として、ともあれ、友好的な辞と、
、その軍事的価値に、もっとも大きな関心をいだいたものは、石山本願寺であり、また中国の毛利輝元であり、北越の上杉謙信などであった。
――中国の毛利と、大坂の石山本願寺、こう二大敵国を繞って、それに連鎖する山陰の波多野一族や、播磨の
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何しろ、京都の帰りに、安土に列をとめて、信長がそこらの山や冬田や草原を一瞥して
「安土は将来、途方もない大城下になるぞ」
一城を持たせなければならない時期へ来ている。安土への進出は、そういう意味でも、織田一門の繁栄を加えた。
「安土は、越後から京都の道を遮断した」
しかし、信長もまた、一部の兵と共に、さっさと安土へ帰って来て、謙信の古風な果し状を思い出しながら、にやにや笑っていた
「ただ今、御城門へ、安土からのお使いとして、前田又左衛門様、野々村三十郎様、おふた方、
「にわかに、安土へ参る。又左衛門に伴われてじゃ。――留守をたのむぞ」
「そうそう、忘れた。――安土へのおみやげを」
と見て、引き揚げてしまった。また越後の謙信は、安土を重視して、容易に無謀な上洛は断行しない。
ど長浜へ立ち帰って出陣いたすか。それとも、即刻、安土から立つか」
を尼子一党に預け、但馬播磨の掃討を片づけると、ひとまず安土へ凱旋した。明けて天正六年の一月、湖南の春色は若かった
、京畿に進み、本願寺と呼応して直ちに、信長の本拠安土を衝こう」
しかも、彼らは、その悪宣伝をさらに拡大して、安土の信長へも、書を飛ばし、
安土の経営は今なお緒についたばかりである。信長は、彼らの
筑前の書面によれば、近日、宇喜多直家を伴って、安土へまいるとあるが、たとえ直家が参っても、目通りはゆるさぬ。いや、
また、礼儀としても、直家はみずから安土へ出向いて、一度は信長へ拝礼を遂げ、以後のさしずを仰ぐのが順序
安土へ着いた。
私に命じてお後を慕わせました。急いで、安土までお戻り下さいますまいか」
秀吉は、安土へ急ぎながら、己れをも責めていた。
「やあ、もう見える。安土の御城下はあれ。急ごう、於蘭どの」
秀吉は、安土を退城った。
安土の城廓では、そこの色彩に消されてしまう秀吉の装いも、この簡素
抗戦をさせ、そのため、播磨にあるお味方なり、安土の御本営なりが、ようやく疲れて来たと見れば――忽ち虚にのっ
安土の大軍は、三手にわかれた――一手は、滝川一益、明智光秀、
だった。平戸、長崎あたりはいうまでもなく、堺、安土、京都、畿内のいたる処にも無数の宣教師が日本に渡っていた。
味方の包囲陣をのこして、彼は急に、安土へ帰ってしまった。十二月の二十五日という歳末である。
「正月は安土で」
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香木は聖武天皇の御代、中国から渡来したもので、正倉院に封じられて、勅許がなければ、観ることすらゆるされないものだった。
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今暁、毛利の水軍が、兵庫の海辺へ夥しく寄って、荒木村重の属城、花隈城のうちへ兵を入れた」
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―また将来の進出を考えている地形としては、難波の地、大坂にあったが、そこには頑強な反信長の法城本願寺が
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「明智、佐久間などの徒は、村重が叛いたと聞くからに、手をたたいて、歓ん
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聞けば、こんどの中国戦を聞きつけて、遠く九州の平戸や博多あたりから、多くの武器商人が入りこんでいたらしい。それらの商人
オルガンチノは伊太利生れの伴天連だった。平戸、長崎あたりはいうまでもなく、堺、安土、京都、畿内のいたる処に
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なれば、この際、遮二無二、一夜か半日の間に、長篠城を陥れ、しかる後に、織田、徳川を迎えるべきでしょう」
強右衛門の体は、長篠城の方へ向って、高々と宙に掲げられた。――遠く竹楯や
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に着手していた。美濃、尾張、三河、伊勢、伊賀、近江、山城をつらぬく国道である。
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能美、江沼、檜屋、大聖寺の諸郡に、それぞれ守備をおき、まず将来への基点としておいて、
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参謀のすすめに従って、三月初旬、その本陣を、加古川から書写山のうえに移した。
かのように思われたが――急に、播州の加古川へ迂回して出て、ここで織田信忠の軍三万と合した。
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城一城攻め取って行った。たとえば、長篠の戦後すぐ、足助城をやぶり、六月には、作手、田峰などを攻略し、七月には
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遊んでもそれに溺れない自己をいつも持っていた。相国寺へ三条、烏丸、飛鳥井の諸卿を招いて、蹴鞠を催したときである
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勘次郎とは旧交というほどではないが、京都の南禅寺に参禅中、二度ばかり会ったことがあるからである。
手筈をいいつけ、自身は蹴上の下から道を曲って、南禅寺へ立ち寄った。
やがて秀吉は、従者の列をしたがえて、南禅寺の山門から見送られて立った。――時、日もすでに暮れかけて、
「竹中重治はいま、京の南禅寺に引き籠って、病気を療養中とか聞いたが、まだそれにおるのか」
と、それから伊丹の包囲陣地まで帰る途中、わざわざ駒を南禅寺の門外に繋いで、
雪にでもなりそうな空もよいである。昼ながら南禅寺の山陰はしんしんと寒かった。
を仰いで、信盛は急に立ち去った。そのうしろ姿と、南禅寺の大屋根を斜めにかすめて、降る雪の斑が白々と眼に沁みた。
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「ずいぶん久しいことでおざった。蜂須賀村の小六どのの宅で」
「いや、いずれまた、いつかお訪ねしましょう。蜂須賀村の小六どのに――いや当時は彦右衛門といってあなたの幕下におられる由
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にまみれた軍装と、髯の伸びた垢面のまま、すぐ二条城へ上って、
とのことだったので、彼はさっそく、二条城へ登って、信長に謁し、秀吉の書を呈したうえ、ありのまま、報告し
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方を繞っている。しかも、西北も西南も、狼山や太平山の嶮に囲まれ、近寄る術はないのである。
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着々、実績をあげておられるではないか。――亀山に入るに、いかが入られるか、よそながら、興をもって、拝見して
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「おう、筑前か」
「筑前、酒をすこしくれぬか。陣所にあるかな?」
「筑前。また他日会おう」
「おう、筑前か」
(筑前に、からかわれたな)
「ほうッ……これは。……筑前どのでおわしたか」
羽柴筑前事、御届ケニモ及バズ、勝手ニ帰陣仕リ候段、言語道断ノ曲事
「事実、筑前は、長浜へ帰っておるのか」
「よいのか、筑前」
「筑前。――来たか」
「筑前、聞いたであろう。折檻はゆるしおく。……はいれ。ずっとすすむがよい
「筑前。そちが予へ見せようとするのは、茄子ではあるまい、干ぬ間
「其許が、つねに聞き及ぶ、筑前どのか」
面目ないところをお目にかけたな。お笑いあれ、筑前とは、かくの如く、よく主君から叱られてばかりおる男でござる」
と――熱心に希望しておった。……どうだ筑前征くか」
「筑前、いちど長浜へ立ち帰って出陣いたすか。それとも、即刻、安土から立つ
羽柴とも、筑前ともいわず、あれがかといって、傍人に口汚く嗤ったそうである
ものと、涙ぐましき努力をいたしておりまする。どうか、筑前どのにも、特に、お目をかけ下さるように」
筑前どの、諸政横逆、御味方にて、恨みをふくむ者多し。右大臣家(
「よし。この上は、自身出馬して、筑前を励ましてくりょう」
「筑前にござります」
「筑前か」
「筑前」
「こうせい! 筑前」
われらのことは、御懸念なく、お引き払いあるよう、筑前どのへ、お伝えたまわりたい」
「筑前、急には参るまいの」
「いったい、それはたれの指図によっていたしたか。筑前の命とあれば、筑前に詰問せん。――かりそめにも備前、美作
指図によっていたしたか。筑前の命とあれば、筑前に詰問せん。――かりそめにも備前、美作二州の処分を、独断
の処分を、独断にて取りきめるなど、僭上至極。立ち帰って、筑前に左様申せ」
「筑前の書面によれば、近日、宇喜多直家を伴って、安土へまいるとあるが
も、目通りはゆるさぬ。いや、直家は当然のこと、筑前にも、会わぬぞと申し伝えい」
とも窺われませぬ。たとえ宇喜多直家が出て参ろうと、筑前が詫びに来ようと、目通りはゆるさぬとも仰せられていましたが」
羽柴筑前、播州ヨリ罷リ越サレ、宇喜多御赦免ノ筋合申シ合セ候間、
「筑前を呼べ」
「筑前も、はや、そこは通れまい――」
「どういたしたものかな。筑前、そちの所存は」
「いや、筑前にも、一半の責任はありまする。副将として自分の部下にあった
ますが、播磨表の動揺も心もとなく存ぜられますゆえ……筑前はすぐお暇を」
「実は、筑前からも、再三、書状を以てわしを諫めて来ておる。彼の友誼
て参ったが、みなはっきりと拒絶した。で、今さら筑前のことばにも従えぬ」
「いや、そんなことはあるまい。筑前どのにおまかせあれば、信長公へのお執りなしはいかようにも計らわれよう。御自分
ではどうにもならん。播磨へ立ち帰ったら、くれぐれも筑前へ、悪しゅう思うてくれるなと伝えてくれ」
彼の意見を聞こうためではない。かかる失態を醸した筑前の責めを問うのだ。――信盛、はやく使いに立て」
「なに、筑前が?」
筑前来たかとも、信長はいわなかった。
「……筑前。何しに来た?」
「はて? ……。ではその後、筑前からも、半兵衛からも、なんのお届けもいたして参りませぬか」
「播磨にある筑前どのから、近ごろ何か御消息があったか」
まいな。そう疑われる怖れもある。御立腹を蒙ったら筑前どのとてどんな迷惑をうけるやも知れぬ。重ねて申し遺すが、くれぐれも黒田
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明石景親は、宇喜多家の被官で、八幡山の城をかため、たとえ三木城は陥し得ても、次の大敵たることは
の攻略にある。半兵衛の計を容れて、ひそかに、八幡山の明石一族へ、書を送ったり、使いを求めたり、あらゆる外交折衝をこころみ
「なに、一滴の血もながさず、八幡山が手に入ったとか。よういたした」
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容易に帰って来ない。かかるうちにも、伊丹方面や高槻城あたりから、物見の報告は頻々とはいってくる。
間もなく十数騎の兵に護られて、彼は高槻城への道に向った。
行ったと思っていた。けれど信長に頤使されて高槻城へ向ったオルガンチノも心のなかで、
と、称して、高槻城からもどると、その足で京都へ帰ってしまった。
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は、徹底主義な信長の令に、余勢を駆って、加賀へまで攻め進んだが、
が叡山を焼き、武田を討ち、ついきのうは、越前から加賀まで震撼させてきた猛将だろうかと思うのである。
四年から五年の夏へかけて、謙信の兵馬は加賀、能登方面にうごいて、しきりと織田の境を脅かした。
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や架橋に着手していた。美濃、尾張、三河、伊勢、伊賀、近江、山城をつらぬく国道である。
長嶋を平定して、まず東海道から伊勢にわたる多年の大患をとりのぞくと、翌天正三年の二月二十七日には
味方に走ってくることは疑いもない。家康はきっと、伊勢か美濃路へでも逃げ退くことになろう。
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勢力圏は、安芸、周防、長門、備後、備中、美作、出雲、伯耆、隠岐、因幡、但馬――など約十二ヵ国にまたがっている。
見る信義のつよい漢でござる。ここ十年来、隠岐、出雲、鳥取など、各地を転戦また流浪しつつ、つねに寡兵をもって毛利を
協せて、上月を攻められい。自分は因幡、伯耆、出雲、石見の兵をひきい、行く行く丹波、但馬の兵も合して、一挙、京畿
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にもひびき、大坂表にも動揺を与え、なお丹波、山陰地方にまで、一波万波を生ずるの様相をあらわして来た。
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それより前。――秀吉は播州に下って、加古川城を営とし、日夜、軍議をこらしていたが、彼が率いて来
叔父の賀相、老臣の三宅治忠を名代として、加古川城へつかわし、いろいろ献策したところ、秀吉は、われわれ土着の城主の意見など耳
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「――今暁、毛利の水軍が、兵庫の海辺へ夥しく寄って、荒木村重の属城、花隈城のうちへ兵を入れ
花隈城の下、西ノ宮から兵庫の海道辺は、京都大坂から播州へ通う唯一の交通路である。
たとえば、荒木と毛利の両軍が聯合してたて籠っている兵庫の花隈城へ対してなど、不断に攻撃をつづけ、須磨、一ノ谷、六甲あたり
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徳川家康は、ことし三十四歳、その後は、浜松の城にいた。
嬰ン坊の声がよくすることである。その頃、浜松、岡崎を通る旅人がきっということは、
おそらく浜松にも岡崎にも、大賀弥四郎ほどな屋敷を構えていたものはなかったろう
、酒間をとりなす召使の女にしても、岡崎や浜松の女の肌目ではなかった。わざわざ京都から抱え入れたものらしい。
手続は取りようがない。強ってお断りするなら、自身浜松へ罷り出て、直接申し上げるがいい」
のである。ところが数日の後、近藤平六はのこのこ浜松へ行って、家康へ目通りを乞い、ありのままを君前で披瀝した。
―このたびこそはきっと、岡崎の城を手に入れ、浜松を衝き、積年の望みを遂げてみせる。――そう確信あってのこと。
徳川方の家族を人質に捕えて、そこを足場に、浜松を攻めれば――浜松の将士もまた、続々降を乞うて、味方に走っ
に捕えて、そこを足場に、浜松を攻めれば――浜松の将士もまた、続々降を乞うて、味方に走ってくることは疑いも
浜松でも岡崎でも、隠れないうわさにのぼっている又四郎の境遇である。
「実は、かようでござります。浜松の大殿と、象戯のうえで、つい雑言を吐き、無礼者めがと、
「待て待て。……では、浜松を逐電いたして、御詮議中とかいうのは、貴公のことだったか
「いったい、浜松の殿は、御名君の質ではあるが、どこか冷やかだ。ときに
「まったく貴様は上意をうけて来たのか。――浜松から御詮議をうけている身が」
さきに又四郎の手で縛られた山田は、すぐ浜松へ廻送され、一切を自白したかどで、一命はゆるされたが、
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丹羽五郎左衛門などの諸部隊をもって編制され、これは茨木城の中川瀬兵衛清秀をとりかこむ。
は、突然城を出て信長へ帰伏してしまった。茨木城は開城されたのである。
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また、内奏をとげて、南都の東大寺に秘蔵伝来されている蘭奢待の名香を截るおゆるしをうけた。
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客殿は両国の重臣でいっぱいだった。その上段の席に、家康と信長の顔が見える。
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「姫路城の方へは」
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福島市松がいる。加藤虎之助がいる。仙石権兵衛がいる。芋の子やら雀
。たれも止めないのでいい気になってやる。大きな福島市松などが、よく鼻血を出して、鼻の穴に紙で栓をか
ここでは、福島市松が年上で、また一番の古顔として、その下に平野権平だ
両方一しょに立ちかけた。ほかの小姓はあわてて止める。福島市松が逸まって、片桐助作のあたまを撲ってしまう。仲裁人を撲るやつ
小姓組の堀尾茂助、福島市松など、秀吉にせがんで云った。秀吉は馬を立てて、眉に
先に、麓の小部落へ駈け入っていた福島市松が、すこし駒を返して来て、曲り道で手を振っていた
て来たのは、みな年少の小姓輩であった。福島市松はその中にいない。いま免しが出たので朋輩と裸体
堀尾茂助と福島市松をそこから先発させて、
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十分に事足りていよう。名誉や空名を欲するなら、かれは京都へむかって或る運動もできる立場と位置にある。領界の不安を除く
て改修を命じておいた国道も、はや完成して一路京都につづいていた。
も、岡崎や浜松の女の肌目ではなかった。わざわざ京都から抱え入れたものらしい。
手紙とはっきりと云い断れる。なぜならば、信長はつねに京都へ出入りし、公卿たちと文事のやりとりもあろうに、筆墨に心を用い
くらむばかり仰山な旅行陣であった。一個の信長が京都へ上るため、随行としては、宿将、旗本、小姓衆から銃隊弓隊
自身も、そうしているらしく思われる。こうして、京都への上洛は、もう何回になるか知れなかったが、彼の心裡を
家郷の親へよろこびを告げにゆくように――彼は京都へ上っては、陛下に伏して身を低うするときの赤子の情を
一地方の戦いが終ると、その役後、彼はかならず京都へ上洛した。そして平定の次第を上奏し、叡慮を安めたてまつることを
信長が京都への往復に、いつもこの近辺で眼につくのは、乞食の多いこと
胸に四隣を圧しる武威を大列に耀かして、しかも京都への栄えある途中にあるのである。――誰か、その信長が
駅々の町屋のなかも、また湖畔に沿うても、一路京都まで通じていた。
信長が滞在しているということだけで、京都はさながら毎日が祭りか正月のようであった。民衆のなかにこぼれて
とかくして、京都の滞留は、長くなった。彼の旅舎は、もと足利義昭のいた
京都が彼を引きとめるのか、彼が京都を去りがてに思うのか、もう時雨する日は寒々と冬めいて
京都が彼を引きとめるのか、彼が京都を去りがてに思うのか、
は、室町将軍の愚を学んで、輦轂の下、京都に幕府的な旧態を構成しようなどとは思いもしない。しかも政治的な
何しろ、京都の帰りに、安土に列をとめて、信長がそこらの山や冬田
「毛利殿のお使いに加わって、京都に逗留していました。お使者はすでに帰国されたが、急ぐ
「安土は、越後から京都の道を遮断した」
年半はかかる。あれが完成しては、もはや越後と京都の道はないといっていい。討つならいまが絶好の機)
、明智光秀――そして筒井順慶などの援軍およそ二万が、京都を発して播州へ着いたのは、もう五月の初めだった。
「京都まで行ってまいる」
すでに二度病に倒れていた。秀吉は憂うるの余り京都に良医があるということを口実にして、強いて陣中を去らせた
「ぜひ、無理をなさらずに、この秋は、京都の寺院にでも引き籠り、名医を求めて、御養生ねがいたい。友人と
「おことばに従い、しばし京都へ去って身の養生に努めましょう。……が、ひとつ、その前
「病のため、しばらく賜暇を願って、京都へ療養に赴く」
勘次郎とは旧交というほどではないが、京都の南禅寺に参禅中、二度ばかり会ったことがあるからである。
、面目を施して、洛外の宿へ退った。そこは京都南禅寺の末院らしい一房だった。
と、彼はすぐ京都へ向って出発した。そして、安土城の中で信長に目通りした
上洛の用もあって、その後、信忠はまもなく京都へ出て来た。
花隈城の下、西ノ宮から兵庫の海道辺は、京都大坂から播州へ通う唯一の交通路である。
その夜は三井寺の房に一泊し、あくる日、京都へ向った。
「京都は、冬の訪れも早い。わけて朝夕は冷えるという。どこぞなと
信長の使者もまた京都へ向って急いでいた。使者は四条坊門の南蛮寺を訪れて、
。平戸、長崎あたりはいうまでもなく、堺、安土、京都、畿内のいたる処にも無数の宣教師が日本に渡っていた。その
も、供人の中に、この黒奴を加えていた。京都へも連れて行った。
、この信長に、嘆願書を出しておったな。――京都、近畿において、宗門屋敷を構え持つこと、また耶蘇教をひろめる自由を許可
ないのだ。いや伴天連ほど喰えないものはないとは、京都の庶民などがよく知っていていうことである。
と、称して、高槻城からもどると、その足で京都へ帰ってしまった。
の罪、捨ておかれません。――自分帰陣の途中、京都へ立ち寄って、しかと半兵衛に質してみます。いかが致したかと」
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のために、この盛儀が執り行われたばかりか、ために奈良の町といい近郷の伽藍や名所といい、諸国から集まって来た人出
若い奈良法師たちのうわさを聞くと、そういう者もあるし、またこういう者
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。出陣を触れる貝が、日の出までに、幾たびか、甲府の町々を呼びさましていた。
燦々と国境の彼方へさして流れてゆくのを見た甲府の人々の眼には、依然として、信玄在世の頃とすこしも
わけてこんどの出陣には充分の画策がある。――甲府を発したのは五月一日であった。遠江から平山越えにかかり、
(この機を逸せず、甲府まで攻め入るべし)
徳川どのには、この機会に、武田領を席巻し、甲府までも、一挙に屠り去らんなどと御主張あったが――それは徳川
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この二月以来、信長は入洛していて、岐阜は留守だし、加うるにその以前、信長が長嶋門徒の剿滅にかかっ
して、ふたたび奪取する機を待たれるように、という岐阜の信長からの来状だった。
十日前後から、この岐阜表へ、徳川家からの早馬は、日に何度となく着いている。
岐阜城中の空気もすでに並ならぬ緊張を見せていた。
、勢い当り難い甲軍に、その優位を与えたとき、わが岐阜本城の安泰がどうしてあり得ましょう」
岐阜を発したのが十三日。――十四日には全軍すべて岡崎へ着い
の城下はそのためにごった返していた。何しろ狭い町に岐阜から来た三万人の将士が宿泊して、戸ごとに馬を繋ぎ、
岐阜の援軍が来るとしても、せいぜい、五、六千であろうとは、
「ああ。あなた方は岐阜の御家中でございますな。援軍に……徳川勢の援軍に……
参ってくれたな。……が、安んじてよいぞ。岐阜の援軍も来着、家康も夜明けとともに立つであろう。長篠へ到るは
「――まず! 岐阜の信長どのには、すでに御出馬あって、三万余の大軍、陸続と
と、信長もなにもいわなかった。しかし岐阜から連れて来た銃手五百人を分けて、それに金森長近、佐藤政秀
けれど今になってはっきり分ったことは、岐阜の兵が、岡崎を立つ時から、全軍すべての兵に、各※一
の方針は、その夜の評議で決まった。もちろん信長は岐阜へひきあげ、家康もひとまず兵を岡崎へ納めることに決ったのである。
とすぐ、五月二十五日、長篠の陣々を払って、岐阜へひきあげた。
として使節に来た奥平貞昌と酒井忠次とを岐阜城の奥へひいて、
六月の二日、岐阜を出た信長の列は、いま美濃から近江の境――山中越えに
「小左衛門。――岐阜を出る折にいいつけておいた木綿は、荷駄へつけて来たか」
にあるのである。――誰か、その信長が、岐阜を立つときからすでにこんな路傍の飢民にまで、心をかけていたなど
八月十二日、岐阜を出て、十四日敦賀に入ると同時に開始された越前門徒一揆
を移し、そして二十六日頃には、すべてを終って、岐阜へ凱旋していたのである。
侍部屋でも、旅装に忙しい。晴雨にかかわらずあすは岐阜へ下向と、今し方、信長の側近から達しがあった。
彼の現在いる岐阜は、もう彼の居城として、やや地方的に偏している。
そして、二月末には、信長はもう岐阜を引き払って、移転して来た。
岐阜の家督は、一子信忠に譲った。
と事きまる上は、そちに任せて、儂は一時、岐阜表へ立ち帰ることにいたす」
「急攻の見込みなくば、いったん岐阜へ引揚げよと、父の信長よりさしずが参っておる。持久策と事きまる
次の日。――岐阜中将信忠は、諸将をひきつれて、戦場を引き払った。残るは、秀吉麾下
秀吉は急遽岐阜へ使いを出していた。岐阜中将信忠の扱いを仰いで、信長の心をなだめようとしたのである
秀吉は急遽岐阜へ使いを出していた。岐阜中将信忠の扱いを仰いで、信長の
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松山越えにかかるため、一同は麓の寺院にかくれて、みな鎧を脱ぎ、
。――吉川元春は美作から、また毛利輝元も、備中松山に陣をすすめ、四月近くには、全軍、播磨へ向って、行軍
日をかさねて、備中路へ入り、松山の麓、阿部の渡しへかかった時である。
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高松山の一丘には、徳川方の旌旗が満ちている。大久保七郎右衛門
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のつよい漢でござる。ここ十年来、隠岐、出雲、鳥取など、各地を転戦また流浪しつつ、つねに寡兵をもって毛利を苦しめ
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蘭丸は、馬で勢田村をすぎ、大津をこえ、三井寺の下でようやく秀吉の列に追いついた。
の者に帆船を出させた。安土の下から船で大津へ渡った。
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オルガンチノは伊太利生れの伴天連だった。平戸、長崎あたりはいうまでもなく、堺、安土、京都、畿内のいたる処にも
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飲ませたもの、ここに大賀弥四郎があり、後に、大久保長安がある。
の嫡子信康をはじめ、松平家忠、家次、本多、酒井、大久保、牧野、石川、榊原などの諸将――奥平貞能なども、もとより行軍の
は、そのための誘いであろう、佐久間信盛の一隊と、大久保忠世の銃隊の一部は、柵外に出て、敵を待ちうけていた。
跡部、小笠原の諸隊は、猛然と、柵外の佐久間信盛と大久保忠世の手勢へ、襲いかかって来たのである。
加うるに、それと見て、柵外の敵大久保隊が、横ざまに鉄砲を撃ちかけて来た。
の子のようになった山県勢は、急転して、大久保の銃隊へ、
勢も織田兵も、まったく一たまりもなかったのである。大久保隊はたちまちのうちに、惨たる潰滅をうけてしまった。
――が、この大久保隊も、もう一隊の佐久間勢も、柵外に出ている目的は、敵
信長方では、それまでの戦闘を、柵外の佐久間、大久保の二隊にまかせて、茶磨山全山の陣々、寂としていた
の一丘には、徳川方の旌旗が満ちている。大久保七郎右衛門、同苗治左衛門の兄弟も、その中に陣していた。
待機していた大久保兄弟は、
「やはりお味方に相違なく、徳川どのの直臣、大久保七郎右衛門忠世どのに、御舎弟治左衛門忠佐どのにござりました」
をば持たれたものかな。――あれ見よ、二人の大久保を。べったり、敵へ貼りついたまま、雷鳴が落ちても離れそうもない
「なに、両名とも、三河の衆か。酒井といい、大久保兄弟といい、さてさて、徳川どのには、良い家臣をば持たれたものか
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しては嫡子信忠、弟の信雄も行った。水野、蒲生、森、稲葉一鉄なども従って行く。
見まもっていたが、やがてうしろの旗本衆を顧みて、蒲生忠三郎氏郷を呼びたてた。
と、小姓組のうちの蒲生忠三郎を呼び、
蒲生忠三郎氏郷も、ことしもう二十歳になっていた。何事か主君の意は
そこへ、蒲生忠三郎が、名主らしい者と、郷の老人たち五、六名を従れ