三国志 10 出師の巻 / 吉川英治
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かり王威をかざして覇道を行くもの魏の曹操であり、江南の富強と士馬精鋭を蓄えて常に溯上を計るもの建業(現今の
に燃ゆる蜀の輩、堤を切った怒濤のごとく、この江南、江東を席巻してしまうでしょう」と、声を大にして告げた。
を発せられましょうとも、世人はそれを見て、魏は江南の富や美女を掠めんとするものであると口を揃えて非を鳴らすでしょう
た。そして近く魏へ帰国する日となると、呉王は江南の善を尽し美を尽した別宴をひらき、席上、おびただしい土産ものを山と積ん
率いて、同時に江北の岸へ上陸する。周泰は江南の岸へ攻めかかれ。そのほかの手勢は臨機に我輩のさしずを待て。かくて明夜
「おおそこに徐盛こそいたか。もし汝が江南の守りに身をもって当るというなら、何をか憂えんやである。
の龍艦を、河口から長江へ出し、船楼に上って江南を見た。
ときに兀突骨と孟獲は、いちど江南に退いて、大いに驕りながらも、お互いに軽挙を戒め合っていた。
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蒙疆の遠くを侵し、南は今日の雲南から仏印地方(インドシナ半島)にまでわたるという黄土大陸全体の大旋風期であった。大乱世の
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「この附近に、青城山という霊峰があります。そこに棲む李意という一仙士は、天文地利
陳震はさっそく青城山へ上って行った。やがて山路へさしかかると、なるほど世人のうわさの如く、清雲
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建寧(雲南省・昆明)の太守は雍※という者であったが、彼はすでに反蜀
も南蛮国王だぞ。おれの都は先祖以来銀坑山(雲南省)にあって三江の要害と重関をめぐらしている。そこでおれを
ビルマのサルウィン河の上流などは、共に遠くその源流を雲南省、西康省、西蔵東麓地方から発して、ちょうど孔明の遠征した当時の蛮界
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(四川省・巫山)へ、陸路の軍は※帰(湖北省・※帰)あたりまで進出した。
かくて呉軍五万は、宜都(湖北省・宜都)までいそいだ。朱然は右都督、孫桓は左都督として
焼かれて、無念のまなじりをあげながらやむなく夷陵の城(湖北省・宜都、宜昌の東北)へ退却した。
軍をひきいて、凍る帝旗を、さらに、※亭(湖北省・宜都の西方)まで進めた。
沙摩柯の射た矢に肩を射られ、富池口(湖北省・公安の南)までひとり逃げたが、最期をさとったとみえて、馬
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「さればです。いまこそわが呉は長江の天与を利し、荊州をとって、蜀魏の侵略に、永遠の国境を
とりのぞかれ、魏呉友好をむすんで、呉の大艦船が長江を溯り、荊州を圧そうなどとは夢想もできない転変だったにちがいない。
逆まく長江の波、頻々、伝わる上流の戦雲に対し、呉は、
第三路は。――呉の孫権が長江をのぼって峡口から両川へ攻め入るもの。
掲げて軍事同盟を促してくるにきまっている。――長江の水は下るに速し、かりに蜀軍の水陸軍が魏の乞いを
「呉の守りは、長江を生命としています。水軍を主となして、強力な艦船を持た
水路は長江によらず、蔡・潁から湖北の淮水へ出て、寿春、広陵にい
では何か、汝は敵の曹丕が大艦を連ねて長江を渡ってこないうちに、こちらから駈け向って彼を伐たんという意見
と云って、旗艦の龍艦を、河口から長江へ出し、船楼に上って江南を見た。
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に一奇禍が起った。張飛はその頃、※中(四川省※中)にいたが、車騎将軍領司隷校尉に叙封され、また
、蜀帝玄徳は、すでに大軍をすすめて、※関(四川省・奉節)に着き、その地の白帝城を大本営として、先陣は川口の
全軍の戦気すでに呉を呑み、水路の軍船は巫口(四川省・巫山)へ、陸路の軍は※帰(湖北省・※帰)あたりまで
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異論なく、叡帝またその志を壮なりとして、関西の軍馬二十万馬を与え、以て、孔明を粉砕すべしと、印綬をゆるした
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蛮族一流の防寨を見た刹那にである。それは中国地方の科学的構造とは甚だ趣を異にしているが、堅固な点では
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静という一老僧がいる。これはもと、※水関の鎮国寺にいた僧で、関羽とは若い時代から知っていた師であり心友
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すすめに従って蜀の成都に漢中王を称えた。そして魏呉両国に境する荊州には関羽をおいて、しばらくは内政拡充に努めていたのである
あいだに進んで、内に呉を破り、外に蜀を攻めるなら、両国もたち所に崩壊を現すでしょう。それを余りにはっきりと呉に援けを約され
「蜀も難し、呉も難し……。要は両国の虚を計るしかありません。しかし陛下の天威、かならずお望みを達する日
「最前、大王が仰っしゃった通り、蜀呉両国の修交を求めに来ました」
箇の功のためにこの言を吐くものではありません。一に両国の平和をねがい、蜀のため、呉のために、必死となって申し上げたのです。
程なく、蜀呉同盟は成立を見、両国間に正式の文書が取りかわされた。