私本太平記 08 新田帖 / 吉川英治
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鎌倉がたの代官がいる群馬郷の国府(現・前橋市と高崎市の中間、元総社と呼ぶ地)をうしろに、それを措いて南進するの
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は引っ返して、由比ヶ浜で奮戦して果て、思元は、扇ヶ谷方面で討死にした。
北は雪之下、扇ヶ谷、南は、きのうからの前浜一向堂へんから佐々目ヶ谷、塔ノ辻
高時は、扇ヶ谷の方をさして。
「いかがでしょう。――扇ヶ谷の、元、上杉憲房どのがおられた家は」
「扇ヶ谷は、ここより地の小高い場所になるな」
千寿王を奉じて、その日のうちに、足利方は扇ヶ谷のほうへ移った。
焼けあとに野屯していた諸国の勢の大半が、みな扇ヶ谷へ従いて行ってしまったのだ。という報を、その晩、弟の
ともあれ、扇ヶ谷へは、招かずして、諸家の家の子郎党が移ってしまった。彼ら
駒を曳いてついて来る後ろの従者たちを、先へ扇ヶ谷へ返してから、ふたたび兄のそばへ来て肩をならべた。
戦火で焼けるその日まで、扇ヶ谷の二位どの御所(高時の側室)に仕えていた小女房の棗と
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「あのあたり、阿弥陀ヶ峰まで、いやもう難民の群れでたいへんでございまする。見るもお気のどく。さっそくこれ
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公卿百官が、こぞって避難してきたため、大内の皇居はいまや、そのままここに移された恰好だった。
に、ご籠城をねがわしゅうぞんじます。万一にも、ここの皇居に混乱が生じましては、はや収拾もつかぬことに立ちいたりますれば」
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半島の一角で待機していた船団がある。伊勢、熊野などの海党も交じっていて、三木俊連がそれの束ねであった
先に大塔ノ宮のさしずで、三木俊連が伊勢、熊野の遠くからひきつれて来た加勢である。
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しかもまた、六波羅陥落を知ると同時に、難波、住吉、堺あたりにいた宮方の遊撃部隊や、和泉の一端からも急進して来た
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から利根の上流を望んだころも、まだ夜は明けず赤城山も見えそめていなかったろう。
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二将は、わざとおくれて、手の者三、四百をまとめ、大江山の麓からどっと元の道へ駈け去ったのだ。そのため、これを動機に
篠村へ着くのである。すなわち足利家の飛び領で、大江山そのものも、篠村領に入っている。
こう、つたえ聞いて、大江山の陣場は、日ごとに人数を加えていた。
篠村八幡に勢揃いの貝が鳴った。大江山諸所の兵は、ここ一つところに集められた。
大江山をまだきに降りた高氏の一手は、山崎へ出ず、桂川を渡っ
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摂津の人、奴可四郎は、戦友の中吉十郎を押しとめて、俄に、おもての
前には、数千の降兵と、また和泉、紀伊、摂津の各地から呼応してきた味方とに、
「摂津ノ宮内高親でございまする。ただいま、てまえのそばで、明石ノ入道忍阿
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八幡、山崎、竹田、宇治、勢多、深草、法勝寺などにわたる夜来からの赤い空は、ただまっ黒な
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円心入道の子、律師則祐などの豪の者が多く、九条から西八条一帯の民家へところきらわず火をかけたうえ、農家や牛飼町の
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上野国の新田義貞が、郷土生品明神の社前で、旗上げを宣言していた。
のふたりが、上野国新田ノ庄へ急いで行ったことでもその関心のほどが知れよう。がこの
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”ともよばせていたが、関東の空、千早金剛の方面、そのほか彼にはまだ当面、安からぬものが山ほどだった。
ないのは、河内方面の急である。千早のどよめき、金剛いったいの寄手の崩れだ。
葛城、金剛、それに和泉山脈の一端がのびている。
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高麗郡の一端をさらに南へ、女影ヶ原、広瀬、入間川という順に、いよいよ、武蔵野の青と五月の雲をのぞんでいた
“古道”であった。――で、その宿々にあたる入間川、所沢(古くは野老沢とも書く)、恋ヶ窪などには、例外なく、
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の先陣をつとめろ。――すぐ腰越から七里ヶ浜を駈けて、極楽寺の下へせまるのだ」
また、極楽寺方面へは、大仏陸奥守貞直を将とし、ここへは兵力も一万以上
が陣した仮粧坂方面も、右翼軍が迫った腰越、極楽寺の方にも、まだなんのうごきはなかった。ただ刻々が不気味なほどの
附近の田鍋谷から北へ入って、長谷山へ出て、極楽寺の敵の背後へ突き出でまする」
新田勢はそれに乗じて、干潟を駈け抜け、極楽寺下、前浜あたりへ、一せいに駈け上がったが、郭内の防衛陣は、もう四
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「七郎、大手への先陣をつとめろ。――すぐ腰越から七里ヶ浜を駈けて、極楽寺の下へせまるのだ」
、丑ノ刻(午前二時)ごろにもなると、七里ヶ浜の渚も、稲村ヶ崎の岬の磯も、目立って、干潟の砂を、刻々
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と、うろたえている三条、鷲尾、坊城などの諸公卿へ、くれぐれ、皇后のおからだをお頼みで
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伊吹では、道誉が、加盟の証にと、自己の兵二百を加勢にさし出し
領であり、すぐ隣郡には、同族の佐々木道誉が伊吹の城をかまえている。
「そうだ、この難行も、ともあれ伊吹へ着くまでのことだ」
、小野、四十九院、摺針、番場、醒ヶ井、柏原。そして、伊吹のふもとまで、つつがなければもう近い。しかし、遠いここちでもあった。
伊吹までは、あと一日半か二日路である。伊吹の城にさえたどりつけ
伊吹までは、あと一日半か二日路である。伊吹の城にさえたどりつけばと、とくに仲時は細心であったが、やはりこの
あげ出していたし、一方、仲時が恃みとする伊吹の城からは、まだ何の音沙汰も加勢もない。
ここから伊吹の城はいくらの距離でもないはずだ。二里余の彼方にすぎない
伊吹からは一兵の援けも来ない。この期となってもなお見えない。夜明け
見えない。夜明け前にやった使いの反応もさらにない。伊吹の空は、つんぼのような太陽にかんと澄み、伊吹山は、白い雲に
奸計に陥ちていたのだ。六角を力とたのみ、伊吹の城を救いの城と見たなどは、あやまりだった。世路のけわしさ
伊吹の西の麓、伊吹山太平護国寺はたんに、太平寺ともいわれ、佐々木道誉
こうした洛内へ、やがて伊吹の太平護国寺からは、光厳帝をはじめ、後伏見、花園たちの囚われ輿が、
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捕われて、六波羅監禁をうけ、その監視を破って宮の吉野、十津川の挙兵に奔り、いまは信貴山にいて、大塔軍随一の、股肱
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そこへ、お妻ノ局と小女房が、銚子をもって来た。酒は、なみなみと銀※に注がせ、三献ほど
と、杯をささげて、彼の前へ銚子を持って進んだ者がある。
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と見えるから、それが下野、上野あたりへわかったのは、おそくも五月五日以内であったに
これを諸書には、下野に隠れたとあるが、足利の国元へはすぐ追捕が廻っていたろうこと
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――愛知川、小野、四十九院、摺針、番場、醒ヶ井、柏原。そして、伊吹のふもとまで、
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寺院とてあらましは瓦礫となり果て、火をまぬがれた円覚、建長寺などへは、五山の僧が、ひしと詰まって、兵馬を入れる余地はございませ
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伊吹の空は、つんぼのような太陽にかんと澄み、伊吹山は、白い雲に、顔をかくしているだけである。
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、六波羅監禁をうけ、その監視を破って宮の吉野、十津川の挙兵に奔り、いまは信貴山にいて、大塔軍随一の、股肱の将
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「それも、叔父御の法師にお預けとなり、伊豆の寺に閉じこめられているそうな」
ひとりは伊豆の天野経顕。
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「大館(宗氏)、大館」
「大館(宗氏)、大館」
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「暦のうえも忘れて来た。おおあれは三上山、そのてまえは鏡山だな。するとここらは天智天皇が御猟のあと
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「うしろで、赤城の山も見送っている」
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ソレ八幡大菩薩ハ
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。よう聞けよ。近くのいくさは終ったが、まだまだ遠い九州や東国では、合戦の最中なのじゃ。そこで今のうちに、赤坂
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この日、十二日、初めて両軍は久米川(所沢附近の南方)をはさんで矢合せの序戦を切った。
いた新田軍は、十二日朝のまだ暗いうちに、久米川の敵陣へ朝討ちをかけた。
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ここでもさかんに用いられて――「大塔ノ宮が叡山を下りた」、「洛中にも敵が入った」、「いやいや、味方の
にまず途中の難にもあわなかった。じつは内心、叡山にある大塔ノ宮一味からの襲撃をなにより怖れていたのである。
いて、大塔軍随一の、股肱の将と評判のある叡山の巨頭である。さっそく高氏が会って、来意をきいてみると、
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こんな手順は、彼の鎌倉出発いぜんに取られていたのはいうまでもないが、その仲介者はたれ
とくに彼がおそれていたのは、鎌倉の再援軍でもなく、六波羅固めの逆茂木でもなかった。――千早を
として、自分は元々、北条一族の者である、鎌倉へ問い合せみよ、と大言を払って怯まなかった。
軍や頑将をうごかすには、どうしても、いちいち鎌倉の府を通し、鎌倉の指令としなければ行われぬような状態にあっ
には、どうしても、いちいち鎌倉の府を通し、鎌倉の指令としなければ行われぬような状態にあったのだ。しかもいま
鎌倉の大蔵屋敷に留守としておいて来た設楽五郎左衛門の子、権之助であっ
ません。金剛方面には、なおつつがなき数万騎をひかえ、鎌倉までの途中とて、諸国には、頼みあるお味方も少なしといたしませぬ」
「鎌倉へ行くのか」
、ためらいなどはしていない。何としても、鎌倉へ行きつくまでは、主上両院のおからだに、いささかなお怪我もさせては
寝ざめの悪さもあったであろうが、四隣の聞えや鎌倉の方へも気をくばっていたものとおもわれる。むりはなかった。
新田軍は早や鎌倉への急進をみせ、鎌倉勢はこれを武蔵野にむかえ撃ッて、いまや東国
もちろん高氏以外に、鎌倉からの援軍は刻々増派されているものと観、まったく、ここをすてて
どっちにしろ、鎌倉の錚々十二大将が、ただひとりの楠木正成を、こうまで持てあましてきた帰結
ない。六波羅の失陥は、即、都の喪失である。鎌倉との連絡もこれからはおぼつかない。
結局。――彼らも今は、鎌倉へ落ちようにも行く道なく、やがてはみな、首を揃えて降伏に出る
強要にささげてはいたが、もうどこかには、この鎌倉の運命を感じとっている顔つきばかりなのである。
は、過ぐる三月下旬ごろ、たった二、三日この鎌倉にいたことがある。
からそのまま帰国の途をとらず、病中なのにわざわざ鎌倉へ立寄って、正しい届け出での手続きに出たことを、
「鎌倉の?」
「鎌倉から」
「はて鎌倉のご上使なら、前もってお館へ、何らかの触れもあるはずですが
それだけの物を徴発して行こう。さもなくば、むなしく鎌倉へも立帰れぬ」
彼らのなすがままにさせておいたほうが、鎌倉の目へは“紛れ”となって、よい都合かと存ぜられます」
根じろに、大塔ノ宮との連絡にあたったり、さらに鎌倉へも忍んで、幾たびか、足利高氏を訪い、高氏と義貞との
みつぎ倉”へ運びこまれ、やがて牛馬車の列になって鎌倉ノ府へ輸送されていたのであったが、こんどはちがう。鎌倉幕府直々
上のいきさつは、もとより彼らに分ろうはずもない。ただ鎌倉の御用ときかされ、また、陀羅尼院に滞在中の徴税使や、国府役人
は声もなかった。その眠りのなかで領民たちは、鎌倉の吏の苛烈を怨むより以上に、世良田ノ館をうらんでいた。どう
鎌倉下向の、黒沼彦四郎と明石出雲介のふたりだったが、出雲介だけは、
だが、鎌倉は真南だ。
と、即時にその進路を、鎌倉の方向へ、向けかえていたものとみてまちがいない。
クサビに他日のふくみを打ちこんでいた。――子を鎌倉の質子として去る親の立場から、その千寿王の生命を、義貞
兵五万騎を派すと号された。しかしそんな余力は鎌倉にない。時間的にもまにあわない。一万余でもたいへんである。ただその速さ
疾風迅雷、鎌倉の不意を突く。
「五左衛門。馳せ加わる味方はなお、刻々ふえるのみだろう。鎌倉入りは、新田、足利、轡を並べて、果たすもの。いずれが主、いずれ
自身も、はや他日の将軍の栄えを身に擬して半ば鎌倉を呑んでいた。一日ごとに地位の一階段をのぼってゆく自分に
ていたのではない。――二日おくれて鎌倉を出た幕軍の第二軍三軍がすでに合していたものだった。
高貞、城ノ越後守などの幾十将をえらび出し、およそいまある鎌倉の府の人材と現兵力とを傾けつくして来たともいえる大軍であっ
箱根以西はみな宮方に降伏したというぞ。余すは鎌倉の府のみ。余命いくらもない鎌倉に手間暇かすな」
というぞ。余すは鎌倉の府のみ。余命いくらもない鎌倉に手間暇かすな」
のだわ。泰家、何の面目をさげて、このまま鎌倉へ逃げ帰れようか」
朝廷では、この人を、鎌倉の司権にすえておくことが、なんにつけても、都合がよかった
「ぜひなき仕儀となって、総崩れを来たし、急遽、鎌倉さして、おひきあげと聞えまする」
ことでもない。……わけて世は裏切り流行だ。この鎌倉も落日とみて、裏切らぬやつは、近頃、ばかみたいなものだからの
が、近ごろ武門は寝返り流行とか。遠慮はないぞ。鎌倉を出たい者はこのさい新田へ走るがいい。――さきには足利、
で戦う。高時にはほかへ逃げて行く国もない。鎌倉はわが祖先の地だし、わしが当代の工匠どもをあつめて地上の浄土
があれば、高時とて坐視していられぬ。高時と鎌倉とは一つものだ。守って見せる。見せいでか」
に接するやいな、兵船九隻に、兵千七百を乗せ、鎌倉の海へさして船出なされました」
左翼の一軍は、堀口貞満、大島守之がひきいて、鎌倉の北ノ口、小袋坂方面へ。
江田行義が将となって、さきに新田蔵人が急いだ鎌倉の大手、極楽寺の切通し口へ。
濡れてきた連戦の兵が、眠りもとらず、すぐ鎌倉へ肉薄するはずもない。――などと府内へ報じていた物見隊
沸くような騒ぎに落ちた。一面の海をのぞけば、鎌倉の街そのものが釜の底といってよい。その中で煮られる豆みたい
なかへ駈け入っていたのであろう。なにしても、鎌倉の北の口はこれで突破され、越後新田党の猛兵や、堀口
仮粧坂は、どの攻め口よりも、鎌倉の腹部に近い。だが、幕府もここへは大兵を当て、道には
かけてはまた、諸方の火の手もますますふえ、くるまれた鎌倉の府の屋根は、海までも、薄墨いろの底だった。
義貞は令した。もう鎌倉そのものは、袋の中と見たのである。
これで鎌倉の守りは、
「なにをいう。長いことなら知らず、鎌倉の運命もきょう限りのこと。夕にはあの世の辻でまたすぐ会えようものを
亡くなるとすぐ、仏国禅師の禅門に入り、また疎石和尚を鎌倉へ請じるなどのことにも熱心だったひとで、女性ながら五山の叢林でも
「何の、鎌倉の滅亡は、てまえどもには、世の終りもおなじことでございまする。父祖
「くやしゅうございます。御所さまも世にいなくなり、この鎌倉も灰かと思えば、私どもも、もう生きるささえはございませぬ」
「みんなここへ寄れ。鎌倉の終りもほぼ見とどけた。このうえは、高時の身の処置いたす。高時が
をチリヂリに見せたが、中でも長崎次郎高重は、鎌倉最後の日をかざった一条の若い虹だったといってよい。
鎌倉の烏は言ふよ
これは、ひと頃、鎌倉の辻で、童謡にまで流行った“天王寺の妖霊星……”を、
この鎌倉にも百八の谷あり
鎌倉の一法師高時
そして新たな“時の人”新田義貞の名が、焦土鎌倉を産土として、はや次代の人心に、すぐ大きく映りはじめている――
もちろんまだ、後醍醐には、鎌倉がほろんだなどのことは、ご存知もなかったが、すでに六波羅陥落の報に
鎌倉には、妻の登子を残していた。また、新田軍のうちには
はよい。ここは一トかたづきした。おぬしは急遽、鎌倉へくだって行き、千寿王を補佐してくれい」
「わけて鎌倉は」
中山越えにかかった日である、一人の旅人は、ついに鎌倉も陥ちたと言った。
、箱根路へかかって、ひがしを眺めますと、なるほど、鎌倉の方は、いちめん墨のようで、江ノ島の影も、相模の海も、
「これは仰せをうけて鎌倉へくだる細川一族の者でおざる。して、あなたがたは」
かくて和氏が、鎌倉へ着き、そして義貞と会ったのは、瓦礫の余燼も、やや冷めてい
「めでたく、鎌倉入りの御本懐をとげられて、大慶至極にぞんじまする。――在京中の
「わが足利家は都の戦後を。新田殿にはここ鎌倉を。――これからは車の両輪、わだちを揃えて、天下の処理に
「義貞について、鎌倉入りした武士どもも、味気ない鎌倉には安心しておちつきえず、その面も心も、いずれは皆、西向き
鎌倉の戦後には、それに類した病症の男女が焦土の巷にいくらも見
「妙に、死後この鎌倉では、高時公というと、一様にみな涙を寄せているらしいの」
のか、わからない。――われに返ったときは、鎌倉はなく、見るのは敵軍の兵だけだった。その敵兵に色を売って
無残な鎌倉の焦土が、ひとりの乙女のなかに、こんな不敵な眸を作っていた
へ行き、亀寿さまをお育てして、もいちど、鎌倉へ帰ってみせる。そういう気もちになったのです」
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に、鎌倉軍一万以上の大兵が、多摩川を押し渡り、府中、立川をこえて北上中との聞えです」
「義助義助。府中へ物見を入れてみたか」
府中の六所神社で義貞は願文をあげた。また千寿王へは、全軍が
一方、府中の六所神社にいた足利千寿王とその随身たちも、合戦の悪化に
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難波、住吉、堺あたりにいた宮方の遊撃部隊や、和泉の一端からも急進して来た武族があって、東国勢の逃げなだれ
菊水の旗の前には、数千の降兵と、また和泉、紀伊、摂津の各地から呼応してきた味方とに、
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さらに信濃川流域の小千谷、十日町の地方まで、魚沼郡の三郡ほとんどは、新田の党が、古くから耕してきた土だった。
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大井田経隆をはじめ、羽川、烏山などの諸将である。また、その使いを首尾よくした岩松吉致たちで
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朝兵糧をとったとしても、ひる頃には、本庄から武蔵ノ国児玉郡へ入っていたはず。そして比企郡の将軍沢、須賀谷を経
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。――それも四隣すべて北条勢力圏とみられていた関東平野のまん中から起ったのだ。
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の天正年間に、桔梗の旗を、西にあらず、本能寺へ行けと、京のあかつきへ指さした光秀も、ここ老ノ坂を踏み、
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そしてあくる日、桂川の一端へ、兵馬をならべ立てたが、なお高氏はうごかなかった。
からめ手の大将 足利殿は桂川の西の端に下り居て 酒もりしてぞ おはしける
五千の人馬は、橋みたいに、桂川を二つに見せた。
越えた。ひがしには大きな日輪が霧の海を敷き、桂川も洛中も、白い霧の下でしかない。ただ目をさえぎるものは、この
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偶然ではあろうが。和泉国の松尾寺では、かねがね北条退治の如意輪ノ法を修していたところ、ちょうど
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さまも、ここ幾夜もお嘆きでございましたが、はや東慶寺の御門も危うくなりましたので、今暁、五山の僧衆に守られて
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たしかに、東勝寺五大堂の上にそびえている五重ノ塔の三層目あたりにも、ピラと
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宮は偽者かもしれませんが、おととい以来、伊賀、鈴鹿、美濃ざかいの野伏山賊のたぐいが呼びおうてここにむらがり、お道をはばま
は、この賊徒なるものをたんに「――近江、伊賀、鈴鹿、この界隈までの強盗山賊あぶれども」としかその質を言っていないが
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しかもまた、六波羅陥落を知ると同時に、難波、住吉、堺あたりにいた宮方の遊撃部隊や、和泉の一端からも急進
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は、古来“武蔵七党”の山野であり、熊谷、秩父などの無数の古源氏が蟠踞しているところである。――だから越後
不足だったに相違ない。そして、武蔵野一帯から、多摩、秩父の山波にもひそまっている不気味な古源氏の武族が、
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あるいは、宮は偽者かもしれませんが、おととい以来、伊賀、鈴鹿、美濃ざかいの野伏山賊のたぐいが呼びおうてここにむらがり、お道
古典には、この賊徒なるものをたんに「――近江、伊賀、鈴鹿、この界隈までの強盗山賊あぶれども」としかその質を言ってい
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六波羅からは、さっそく両探題の名で、着陣のよろこびを言って来た。
淀、山崎方面の赤松勢も、いぜん執拗にくいさがって、六波羅ノ守備を、ほとんど手薄にさせている。
からくも、それは撃退しえたものの、いくたび、六波羅側は、同様な危機に瀕していたことやらしれない。
と、尾張守は高氏を誘い、その日は共に六波羅に出向いた。
看破しているとしたら? ――兄高氏は六波羅の内で手もなく逮捕されてしまうにちがいない。そう案じられたの
房や三河党の面々とも計って、夜すがら、対岸の六波羅を、注視していた。
、高氏は、つつがなく川向うから帰ってきた。――六波羅での軍議は、夜どおしであったと語り、万端の打合せもすんだと言っ
ひらいた。どうやら、これまでのことは、名越軍も六波羅でも、まったく感知していないらしい。天のたすけぞと思われた。
あいだに、高氏ならぬべつな離反者が出て、六波羅側を、てんどうさせていたことだった。
、毎日のように逃亡兵が出ていたので、六波羅から関東勢のうけた衝撃は、一にも二にも、
逆にここの六波羅の府は、颱風の目をおもわせるようなひそまりをたたえ、夜来、人も
の御一名を上にいただき、小幡、竹田方面から、六波羅の背後を突くかたちと見て間違いない。
「阿呆やな、もし六波羅が落ちたら、どうなるのじゃ。六波羅はいま、新帝(光厳帝)の皇居
「これによって、河内の二万余騎は、すぐ六波羅の援けに引っ返しましょう。そのあいだ、あるいは敵影の近々とせまることもございましょうが
勅をおびた六波羅の密使は、大和口から金剛山のふもとへ早馬を飛ばして行った。――
神祇官(太政官の一庁)附近において、東南遠くの六波羅の府にたいし、すでに戦闘態勢に入ったということであった。
。――二条大宮から下七条へまで充満していた六波羅の陶山備中、斎藤玄基、河野対馬守などの諸将は、
、小幡方面の千種軍まで、はや南の大和大路一ノ橋から六波羅のうしろへ迫っているらしく思われた。
六波羅数万の兵は、各戦線から急激に減っていた。
。とはいえ、すでに残骸の姿にひとしい五条の一橋と六波羅総門のふせぎぐらいが、よくこの頽勢をもり返しうるものとは今は誰にも
、野伏山賊のなかまに擁せられているなどはいぶかしいぞ。六波羅にいるうちにも、かつて五ノ宮とは聞いたこともない」
言を、いまさらのように思い出していたのである。六波羅の陥落と遠い東国の蜂起とが、日まで、符節を合わしたごとくおこなわれ
六波羅松原はあるが、六波羅の府は変った。
そして高氏は、六波羅の府に、そのまま残った。
ていた。見廻りの途中だったのである。南北両六波羅の広い地域だ。一回の巡視もなかなかそれは容易でなかった。
洛内へもどるがよいと。そして何事によれ、訴え事は六波羅へ持って来い。また夜昼の物騒も、われらが守ってつかわすゆえ、
増派されているものと観、まったく、ここをすてて六波羅の救援に駈けつけるなどの戦法は度外視していたのである。というより
さっぱり呑みこめないことばかりである。古記録のいずれもが、六波羅の敗亡を知るやいな、寄手の十数万騎、見えもなく、なだれを
けれど、それにせよ、ただ六波羅の悲報ひとつで、こんなにまでの、俄なみにくい総くずれをおこしたと
そんな祈りをもっていた彼らなので、ひとたび、六波羅の敗亡を聞き、今日の寄手崩れを、寸前に知ると、
「このうえは、洛中へ出て六波羅を奪り回さん」
「しかもそれも、六波羅へ向った宮方とは、わけがちがう。楠木勢だけの一手じゃった」
「まだ聞かぬ者は聞け。六波羅は陥ち、箱根以西はみな宮方に降伏したというぞ。余すは鎌倉の
石川義光など、一族して投じてきた。上方では六波羅の滅亡、東国では新田軍の優勢と、いまや幕府の悲境は、諸州
の局が、むせびあげて。「ほんとは、たったいま、六波羅の御合戦から近江番場のくわしいことが、さる御僧の文知らせで、
「もっとも、われらが六波羅を出てくる折、殿(高氏)が申された一言はある」
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「ただいま熊谷から早馬が飛んでまいりまして」
比企地方は、古来“武蔵七党”の山野であり、熊谷、秩父などの無数の古源氏が蟠踞しているところである。――だ
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「それもこころえました。して、赤坂へはいつ?」
、合戦の最中なのじゃ。そこで今のうちに、赤坂の館をこしらえ直して、母者やおまえたちを、元の住居へ返したり、
「うれしい。赤坂へ返るんだとさ」
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頃年 北条高時入道
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また。千早、金剛の楠木も、関東の数万騎を引きよせたまま、いよいよゆるぎもせぬという。
固めの逆茂木でもなかった。――千早をかこんでいる関東の二万余騎が、千早をすてて、河内野からうしろへ廻ってくることだ
みずからそれを“御教書”ともよばせていたが、関東の空、千早金剛の方面、そのほか彼にはまだ当面、安からぬものが
だから関東の兵馬とみれば、日ごろから怨嗟の的で、散所では、女子供までが
ここにいたってはもう、当初、二万余といわれた関東の寄手も、ただ支離滅裂な叫喚に落ち、吹き捲かれる枯葉のような、無力
「関東の大軍を。……」
経営の府が根こそぎ崩れ去ってみると、こことて、ただの関東の一海浜で、しかもあわれな瓦礫の町にすぎない。
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と、顔を阿修羅にして、むらがるなかへ、吠えつつ駈けこんで行った者は、すべてそれきり
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「これによって、河内の二万余騎は、すぐ六波羅の援けに引っ返しましょう。そのあいだ、あるいは敵影の
と、俄に、宮方へなびいた近国の武者どもが、河内一円にひしめき出していることだ。よほど統御がむずかしい」
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女影ヶ原――いまの川越市の西北方面――まで進んでくると、とつぜん、前哨隊の騎兵が、
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さらに信濃川流域の小千谷、十日町の地方まで、魚沼郡の三郡ほとんどは、新田の
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しているところである。――だから越後兵以外、奥武蔵の郷武者ばらも馳せ参じて、
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葛城、金剛、それに和泉山脈の一端がのびている。
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り引別れて、伊勢の方
、三河半島の一角で待機していた船団がある。伊勢、熊野などの海党も交じっていて、三木俊連がそれの束ねで
先に大塔ノ宮のさしずで、三木俊連が伊勢、熊野の遠くからひきつれて来た加勢である。
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「売女だろう。壇ノ浦のむかしに似て、北条氏の諸家の奥に仕えていた女たちが
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……なぜ勅命を仰がぬか。勅を唱えて、金剛山の囲みを解かせ、そこの二万余騎を一せいに、河内野から洛中へ振向け、
なにぶんにも、金剛山の寄手にある諸大将は、みな北条幕府の歴々たちであるために、六波羅の
「火急、金剛山にある寄手にたいし、勅令をお発しねがいとうぞんじまする。――即刻そこの囲み
勅をおびた六波羅の密使は、大和口から金剛山のふもとへ早馬を飛ばして行った。――すでにもう陽は高まりかけ、六波羅諸門
なんと言った! かならずここは保ちささえますゆえ、ただ金剛山の寄手へたいし、勅をくだし賜われと、それを請うてまいったのも、つい
の報が金剛山のふもとを驚かせたのは、おそくも九日か、十日も朝のうち
に討たれてしまった。――それゆえ後々までも、金剛山のふもと、東条谷のあたりには、矢の穴や刀創のある髑髏が、いつの
をとげた。いかに衆をたのんでいたものにしろ、金剛山の下に埋まった白骨のみが、いたずらにそんな周章狼狽だけの犬死をとげたなど
らに何の理解があるわけでもないが、朝夕に金剛山の空を見ては、楠木一族の孤塁を思い、この大軍の包囲によくも
という称えで、金剛山の攻囲軍のうちから、暇を願って、郷里へ帰る途中であった。
「――さればこそ、わが家においても、さきには金剛山の寄手にも加わり、一倉、二倉とあるかぎりな蓄備の稲も税物にささげ
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軍は早や鎌倉への急進をみせ、鎌倉勢はこれを武蔵野にむかえ撃ッて、いまや東国の天地も両軍の激戦場と化しつつある。
、女影ヶ原、広瀬、入間川という順に、いよいよ、武蔵野の青と五月の雲をのぞんでいた。
て、しきりに振りぬいている様子なのだ。――武蔵野の紫草にちなんで、それを目じるしに――とはかねて義貞と義助だけが
草ばかりな武蔵野の空の下である。薙ぎられた芒のあとは義貞の茵と千寿王
たにちがいない。――だがこの、幼い一本の武蔵野の草をわが畑へ入れたことが、どんな結果をまねくにいたるか、そこ
た。まもなく、義貞以下、全軍の人馬は、また武蔵野の野路を分けて、南へ南へ、さぐるように、えんえんと流れて行っ
原より出でて原に入る――といわれる武蔵野の陽は、大きく赤く、西にうすずきかけていた。
なやました敵もまた少しではない。それらは、ひろい武蔵野の雑木林や丘や部落などの遮蔽物をめぐって、終日、頑強な抵抗を
ほど前、それは風浪の高い日でございましたが、武蔵野からの早打ちに接するやいな、兵船九隻に、兵千七百を乗せ、鎌倉の
ともしたにちがいない。とにかく、上方でも武蔵野でも連敗は喫してきたが、なおそれくらいな意気はあった。また
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が、それは以後ひきつづいて、敗残の鎌倉諸将を、興福寺へ狩り立てるための行動だったに相違ない。
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楠木が暴れ出よう、追討ちかけよう。また寄手の十二大将、阿曾、金沢、大仏、淡河、二階堂道蘊などは、みな北条歴々の大将ゆえ、指令に
それは、廊の外へきていた金沢ノ入道崇顕の声だった。が、目もくれずに。
だからこの金沢ノ老大夫には、ことし三十一歳となった人の恐れる相模入道高時
衆臣の畏伏や美言をそのまま信じている高時が、金沢ノ老大夫には一そうあわれでならなかったのだ。
「気をしっかり持てというのか。これ金沢の爺、わしのどこが取り乱している」
みたいなものだからの。はははは、そうじゃあるまいか、金沢の爺」
「みな聞け。いまも金沢ノ大夫に申したが、近ごろ武門は寝返り流行とか。遠慮はないぞ
彼に添って、ぞろぞろ、庭上へ降りてきた金沢ノ大夫以下、同族の武将の群れをふりむいて、そう話しかけなどしている
三街道の口と見られ、仮粧坂のかためには、金沢左近大夫有時を大将に。
いやここには足利若御料もおる。万一、正面の敵金沢有時の知るところとなったら、味方は分断され、勝目のほどもおぼつかない
また、仮粧坂口では、そこの守将、金沢貞将が討死をとげ、脇屋義助の手勢は、同朝、府内へ突入
もない。さきには赤橋守時がある。また大仏貞直や金沢武蔵守のような華々しい者もあった。とくに長崎一族は、みなよく戦っ
て、金沢の爺の息子、武蔵守貞将を破り、はや金沢街道を塞ぎ止めたというではないか」
方面は、寝返りの将、千葉貞胤が新田に付いて、金沢の爺の息子、武蔵守貞将を破り、はや金沢街道を塞ぎ止めたという
「いや、さきに金沢ノ崇顕がおすすめ申し上げましたごとく、小壺ノ浦には、日ごろの御遊船
「崇顕。……金沢の爺。爺はいないか」
「オ。金沢の爺。あれを見い、あの炎を」
念をおされると、金沢の崇顕は、それにも、あとのことばが出なかった。
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していたのである。というよりも、阿曾、長崎、大仏、二階堂の諸大将二万余騎ともいわれるここの大軍は、
を、彼らは、いくさ奉行長崎四郎左衛門ノ尉を中心に、その日、悲壮なまでに、こらしあっ
これでみれば、歴々の大将たちは、長崎以下すべて、もっとも早く、またもっとも無事な逃げ口をとって奈良方面へなだれ落ちた
、二万の軍も、雲散霧消のていだった。阿曾、長崎らの諸大将は、ひとまず南都興福寺に拠って、残兵をかりあつめ、
然る間、当国ノ守護、長崎孫四郎左衛門、すぐさま馳せ向つて、合戦におよぶといへども……
索莫たるひとみで、味方の陣をながめわたし、そばにいる長崎時光、城ノ越後守、安東高貞、安保ノ道勘、塩田陸奥守らの副将たち
近習の長崎新右衛門を見て。
しずかに。……いかなる事態が迫りましょうと、この崇顕から長崎、伊具、普恩寺らのたくさんな御一族も、おそばにおりますことなれ
これは、島津四郎といって、長崎円喜の烏帽子子といわれ、相模入道高時にも、日ごろ可愛がら
貞直や金沢武蔵守のような華々しい者もあった。とくに長崎一族は、みなよく戦って、北条最期の日に殉じた。
長崎ノ入道思元と、その子、為基のふたりも、辻の一手を防い
ッて、墓場のような沈黙におちていた周囲から、長崎ノ入道円喜が、彼の床几へ、再度の諫めをこころみていた
「円喜、一つことを、一体なんど繰返すのだ。長崎の息子、甥ども、いずれもよく戦って、これへ返ってくる者が
「いや、ただいま戦場のまッただ中から、長崎次郎高重が、喘ぎあえぎ、山門まで馳せもどってまいりました」
持ち方とその閃光をチリヂリに見せたが、中でも長崎次郎高重は、鎌倉最後の日をかざった一条の若い虹だったといっ
たり。これは高時公の侍臣、円喜入道が孫、長崎次郎っ」
と、小姓の長崎新右衛門をふりむいて言った。新右は十五歳、次郎高重の弟な
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長崎以下すべて、もっとも早く、またもっとも無事な逃げ口をとって奈良方面へなだれ落ちたとしか考えられない。
その東国勢は。軍のすがたもなく、ちりぢり、奈良へ逃げ込んだようだった。
の、もう昔日の士気はない。それにここでも、奈良の土民の眼は冷たかった。また僧団側も、食糧の協力をさえ、
保暦間記」には、五月中、なおしばしば、奈良近傍に宮方の出撃あり、とみえるが、それは以後ひきつづいて、敗残
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に敗れて逃げたとあるばかりである。思うに現今の前橋、高崎附近で遭遇戦となり、新田軍は、これをかど出の一撃に
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「その方面は、寝返りの将、千葉貞胤が新田に付いて、金沢の爺の息子、武蔵守貞将を破り、
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母の秋田氏、覚海夫人は、高時の父貞時が亡くなるとすぐ、仏国禅師の
「秋田の延明。城ノ介延明はいるか」
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その朝。――二条大宮から下七条へまで充満していた六波羅の陶山備中、斎藤玄基、
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伊吹山太平護国寺ニ幸シ
伊吹の西の麓、伊吹山太平護国寺はたんに、太平寺ともいわれ、佐々木道誉の城府とは、ほとんど森
こうした洛内へ、やがて伊吹の太平護国寺からは、光厳帝をはじめ、後伏見、花園たちの囚われ輿が、佐々木家
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上野国の新田義貞が、郷土生品明神の社前で、旗上げを宣言してい
へなされていたので、その妻と共に、上野へ帰って行った。
のふたりが、上野国新田ノ庄へ急いで行ったことでもその関心のほどが知れよう。
と見えるから、それが下野、上野あたりへわかったのは、おそくも五月五日以内であったにちがい
「ここは上野の僻地だが、天下、戦にあえいでいる今だというのに」
よい。――とすれば、次の七日には、上野と越後との国境、三国山脈をも、はや踏みかけていたの
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しかもまた、六波羅陥落を知ると同時に、難波、住吉、堺あたりにいた宮方の遊撃部隊や、和泉の一端からも急進し
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疾風は駈けた。義貞は先頭だった。そしておそらくいまの伊勢崎から利根の上流を望んだころも、まだ夜は明けず赤城山も見えそめ
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、義貞すらも住居に困った。――で、鶴ヶ岡の鶯谷一帯にわたる神官や僧侶の邸宅をたちのかせて、当座の本営として
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「まいっております。江ノ島の島蔭まで」
と、なるほど、鎌倉の方は、いちめん墨のようで、江ノ島の影も、相模の海も、見えたものではございませぬ。…
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みれば、北の山ノ内、仮粧坂の隘路、大手の浜道稲村ヶ崎、三方面どこも地の利は味方にある。
稲村ヶ崎
大館宗氏の一隊が、この朝の引潮どきを狙ッて、稲村ヶ崎の干潟を伝い、敵中突入への“抜け駈け”に出たのであっ
気づいていたならば、「ここよりは」と、まず稲村ヶ崎の突端の防禦と、干潮時の時刻とに、最大な注意を払って
午前二時)ごろにもなると、七里ヶ浜の渚も、稲村ヶ崎の岬の磯も、目立って、干潟の砂を、刻々にあらわしてき
は、またその本軍の大部隊は、大きく急旋回して、稲村ヶ崎の磯根づたいに、岬廻りの道へ向い出していたのであった
けれど古来、この新田義貞の稲村ヶ崎駈け渡りの事は、古典から伝説化されて、例の有名な史話
前々、干る事もなかりし稲村ヶ崎
歴史画の画題などにも取り上げられ、新田義貞といえば、稲村ヶ崎の龍神祈りが、かつての童幼がいだく唯一の影像にもなってい
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分五裂となっていた。――稲瀬川をこえ、由比ヶ浜の一ノ鳥居方面へ。――あるいは、大仏下の山ノ手づたいに、黒
山の下、無量寺谷のへんに、陣場をすすめて、由比ヶ浜から、町の内までを、一望に見ていた。
為基は引っ返して、由比ヶ浜で奮戦して果て、思元は、扇ヶ谷方面で討死にした。
由比ヶ浜の波は、そうした犬神憑きの死骸を、もう幾十体呑み去って
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炎々数日らいの湘南の兵火は、昨日までのあらゆる権力のあとを焼きつくして、時の空