折々の記 / 吉川英治
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にしてみますと、東京に徳川家康が入つて、江戸城が開かれて、この街が開拓されて今日にいたるまでよりも、もう
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なものをつくつたわけ。さうすると勃然として舊水戸藩出身の者を中心とし、幕末時代の勤皇派の人達から反對論が
たしかである。美術倶樂部の展觀品中に、水戸藩關係の古書類、手簡、日記、書畫什器などが※まつて出たの
不用な古反古も入り交つてゐるが、皆多少なり水戸藩の掃き屑だし、それに何より欲しかつたのは、その中に、
多分に藝術的な良心と、又當然にあの事變前後の水戸藩の誰もが持つてゐた熱意がそこに潜んでゐたはずである。
自分が美術倶樂部で、水戸藩關係のものを入札したことといへば、後にも前にもそれしか
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の旅は費やさねばなるまい。だが、福島縣の須賀川では、つい、おつくうも先に立つ。
しかし、須賀川へは、いつかと、再遊をそゝられてゐる。牡丹の種類は
京大阪、どこでも聞くが、夜牡丹の人出は、須賀川だけであらう。牡丹祭りの提灯の田舍町を、靜な人影がぞろぞろ行く。
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項が隨所に多い。神泉苑の競馬、仁和寺の競馬、加茂の競馬。時には、公卿の邸地でも、都の大路でも、臨時
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ちやうど五月の暴風雨あと、仙臺石ノ卷から、金華山へ小汽船で渡つたときである。荒海にもてあそばれ、船中、ゲロゲロの慘状
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河内山、三輪晁勢氏の綱渡り、中澤申庵老分の謠曲熊野など、ホテルに歸つた後までも、瞼にあつた程である。だが
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茶羽織には、堺の文化人も考へさうな、茶意織が、よく出てゐた。―
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水の味は、たいへん佳い。名古屋といひ、京都といひ、町でいたゞく茶には、まま水道の殺菌劑か
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調べますと椎葉村も平家の子孫で、嚴島神社――瀬戸内海の中にある嚴島神社が、その椎葉の山中の山の高い所に祀つてあり古い
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歩いてをります。九州の果、四國、山陰、山陽、北海道、青森縣、東北、北陸、全部を能ふ限り脚で歩いてゐます。
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高槻へ行つてみた。ジユスト高山右近の舊城地なので、そこの郷土史家
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はなるほど、尤もだと思ひました。その時は水戸から土浦へ行く、といふので、途中、東京でエノケンでも觀て行つてはと
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夜櫻は、京大阪、どこでも聞くが、夜牡丹の人出は、須賀川だけであらう。牡丹祭り
大阪の市街に泊ると、朝、ぼくらには、大阪特有な“大阪の音
大阪の市街に泊ると、朝、ぼくらには、大阪特有な“大阪の音”があることに氣がつく。
に泊ると、朝、ぼくらには、大阪特有な“大阪の音”があることに氣がつく。
東京にも“東京の音”がある。大阪のそれよりは、もつと複雜で風速的な光りさへ覺える。稀れに
先頃、徳川夢聲君が木村對升田の勝負を大阪で見て歸つてから頻りに「ゆめにも子どもは勝負師にはさせたく
メーデー事件と大阪夏の陣
いふものは何の役に立つものぢやない。かつて自分が大阪の陣に參加した時の樣子はかうだつた。兩軍が段々と殺氣
ばこの間のメーデーです。或ひは今日(三十一日)京都から大阪へくる途中においても辻々に立つてゐる巡査の姿(五・三〇事件
ところが、この日の道づれは、朝日新聞社の大阪、東京のジヤーナリストばかり五人づれ。それにぼくの山妻である。由來、知識人
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伊豆バスの遊覽案内にも、頼朝遺蹟は少くない。伊豆は頼朝の地元である。ところが、どうも彼には庶民的關心も人氣
をたどると、こんどは保元、平治の時代にむすびついて、伊豆の狩野川にゐた狩野介光茂となり、どうやらこの光茂が狩野家の
光茂は伊豆の住人だつた關係から、保元の亂後に捕はれた鎭西八郎爲朝が
たしか、あれは、伊豆の湯ヶ島でしたか‥‥、旅館の廊下で運惡く、誰だつたかな
みつけて生命を投出さうとしてゐる人々、その中に伊豆に頼朝あり、漂泊の子として義經がある。そして、これらの源氏
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敷地などでも、その爲に轉々とするんですよ。愛宕山へ建てようとすると駄目になり、楠正成の銅像のあつたところへ建てようとし
石もあつて、中には、むかし先代の五平老が愛宕山の谷から酒一升で運ばせたといふ平たい石も一つある。人よんで
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へが、つまり寫樂繪の骨格である。彼の郷里、徳島市の本行寺にある墓碑には、上の院號は忘れたが、たしか下
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、とにかく終戰翌年から今日迄、まだ歩いてをります。九州の果、四國、山陰、山陽、北海道、青森縣、東北、北陸、全部を
。平家村など各地を歩いたあの旅行中であります。九州で稗搗節といふ歌を聞いたのです。歌詞も古く非常に古雅で
古く非常に古雅で内容がおもしろい。壇ノ浦で敗れた平家が九州の山奧へ逃げこむ。その一群は、宮崎縣と熊本縣にまたがる五箇ノ庄と
をしたのでありますが、ひとたび、その世間からあの九州の山奧のやうな大自然の中にゆけば、そこには、平家も源氏も
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村ではもう散り了へた頃なのにと思ふ。三千院の門前で、色紙短册をひさいでゐる老女の俳人は、道づれのH氏
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自然だが、あゝ血みどろな骨肉の殺し合ひをやつた鎌倉の末路のあとは、何とも、いやである。苔の花まで、可愛く
そのため追討の手もゆるんだでせうが、當然、鎌倉へ歸らなければ、那須一族は頼朝から罰せられます。で、むなしく戀人に
林寺の快川などがやつて有名であり、女でも鎌倉の惠春尼のやうな美僧さへやつて見せてゐるが、立定では
覇府鎌倉はほろび、北條の政策もまだ人心を安めるには足らず、文化は低落
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一昨年の十一月三日だつた。府中の競馬場へゆく途中、朝早めに吉野村を出て、朝霜の寒さに
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ました。そこでちやうど大和地方の春でしたから、吉野山へ行つてみようといふ事になり、丹波市から車で吉野山へ行きました
山へ行つてみようといふ事になり、丹波市から車で吉野山へ行きました。終戰後二年しかたつてゐないのに、花見電車
まつたく、吉野山らしい景觀です。ぼくらも車を降り、何も忘れて佇みました。
振り返つてゐたにちがひありません。谷間をへだてた吉野山の花を前に、じつは、自分たち二人の歴史を二人で讀み合つ
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また、小松谷の上を越して、視野は清水寺の堂塔まで遠望される。その邊りの櫻が、雨後のせゐか、
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奧多摩といつてよく、吉野村にも名水が多い。御嶽にも、古里にも日原の道にも、名水とよんでいい水がいたる
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丹後の宮津へは二度行つた。いちどは釣に。いちどは夏季大學
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芝浦にレツスン倶樂部があつた頃である。夕飯後、よくヘタ球を打つ
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追ひつめられ、どうしても書けないので、福島縣の飯坂温泉に行つたことがあります。が、そこへ來ても書けない。七日間
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高野山の水原堯榮氏の「邪教立川流の研究」にそれらは詳論され
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ひの飛脚がこの椿事を同月十六日に京都へ報じ、美濃路で積雪三寸の餘と云つてゐる。
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寂光院の尼さんが、冷やゝかな室で、冷やゝかにたてゝくれた茶は
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の讀賣や朝日の紙上に、「翁は近く疎開先から四谷の舊地へひきあげる、新築の家は、無名の義人が、翁にも默
富士山を默つて眺めあつた。その年八十八だつたから、四谷の新居で、今年は九十を無事に迎へられたことゝおもふ。
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箱根、熱海には、埋れ木細工が、以前はよく名産屋の店頭に見えた。
かう云つたら、箱根のある温泉宿のおかみさんが「いゝえ、だめ。だつてうちからお嫁
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、それから三、四百年もたつた、しかもあの東京の丸の内の眞ん中で、文化施設の眞ん中で、文化人といひ、現代人
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洗馬氏の遺骸を、この愛馬の背にのせ、芝の増上寺まで、友人たちが交々、手綱をひいて行つたさうである。眞に馬
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ぼくも若年の頃、夕刊紙の一記者として、よく赤坂の婦人矯風會など訪れたものだつた。矢島楫子女史が主宰のこの會
やはり都會へ歸つてしまつた。村に行く前、赤坂で半燒けの厄にあつたとき、半分燒けん、を洒落て戯れに「
して電話のベルが鳴りぬく。私もその頃は、赤坂に住み、徹夜や夜ふかしはのべつだつたので、すぐ電話へ出てみると
でもよかつたが、考へてみると、芝公園から赤坂へ越したのも八、九年目、赤坂から吉野村へ疎開したの
芝公園から赤坂へ越したのも八、九年目、赤坂から吉野村へ疎開したのも九年目、こんど東京へ引つ越すやう
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法隆寺、金閣寺、出雲大社門、近江神社の火災などは、みなアプレの所業であり
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法隆寺、金閣寺、出雲大社門、近江神社の火災などは、みなアプレの所業であり、雷神の
金閣寺に放火したお小僧でも、大學教授の老父をすてゝ強盜青年
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夕方、ぽかんと降りたのが、相生町の停留場である。木賃宿へ泊るつもりだつた。ところが、相生町の裏通りに、
の停留場である。木賃宿へ泊るつもりだつた。ところが、相生町の裏通りに、ガラス障子をたてた、ふつうのしもたやなのに、職業紹介所と
ゐるガマ口なので、青山南町二丁目まで歩くときめた。相生町を、夕方に出て、日比谷までゆくと、もうだいぶ更けかけてきた。
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覽給ふ」の項が隨所に多い。神泉苑の競馬、仁和寺の競馬、加茂の競馬。時には、公卿の邸地でも、都の大路
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の名所なんだ、いや大して古いことはないらしいね、小金井の櫻は徳川吉宗時代の植林だが、もつと新しいんだ。小金井といへ
は徳川吉宗時代の植林だが、もつと新しいんだ。小金井といへば勿體ないな、あの櫻は。終戰後、花見る人もない
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江戸のチヨン髷西洋畫家、亞歐堂田善はこゝの生れである。畫僧白雲も
戰後が初モノの走りではない。大正、明治、江戸、いつでもあつたことである。たゞ時の法律に保護色をとつて
取材の範圍を中古へ擴げてゆくでせうな。江戸、幕末も餘りに漁りつくされたかたちだし。それに飛鳥、平安時代まで
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も父にも、とめられてゐたが、思ひきつて、青山の伯父の家をたづねる決心をした。母の姉なる人は、もう死ん
を、巡査に訊くと、どの巡査も、「あれが、青山行きだ」と、電車を教へてくれる。
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つて、何か書き出した。和歌かと思ひのほか、富士山をよんだ都々逸であつた。そして「今日は十一月三日だね、君
十一月三日だね、君」と云つた。主客、富士山を默つて眺めあつた。その年八十八だつたから、四谷の新居で、今年
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のことでした。初めはかう長くは書くつもりでなく、壇ノ浦あたりからと思つたのです。壇ノ浦の後、勝者の源氏方の陣營から
は書くつもりでなく、壇ノ浦あたりからと思つたのです。壇ノ浦の後、勝者の源氏方の陣營から幾多の人々が法然上人の門へ
はいつもあたまにえがいてをります。古典の平家物語では壇ノ浦が終りですが、私はもう少しその先まで書いてみたいと思つてをり
たのです。歌詞も古く非常に古雅で内容がおもしろい。壇ノ浦で敗れた平家が九州の山奧へ逃げこむ。その一群は、宮崎縣と熊本縣
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似た興趣で、それとはまつたく反對なのが、ハワイの二世三世諸孃の踊りであつた。ハワイの月下に、ハワイの
、ハワイの二世三世諸孃の踊りであつた。ハワイの月下に、ハワイの人々の働いたあとの歡びといふやうなものが
三世諸孃の踊りであつた。ハワイの月下に、ハワイの人々の働いたあとの歡びといふやうなものがそのダンスには感じ
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大老の銅像の議が初めて起つた。井伊大老家の舊彦根藩の系統の人から、井伊直弼といふ人は非常に先見の明があつた
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ヘソを取られたら、ぼくが清盛入道になり代つて、東大寺へでも何處へでも、取り返しに行つてやる。考へてみる迄もない
町の古壁に、初櫻がほころびてゐるのを見る。東大寺のほとり、煙る雨に、人は少なく、花は今咲いたやうな顏。
を、筆にふくませ、一箇の茶碗の中に、東大寺で見た花見堂の誕生佛を小さく描いた。これは金泥に。
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むかしぼくは、芝公園に借家してゐた。家はお寺の一部なので、古池が
、家も二度まで移轉し、その時住んでゐた芝公園の僕の家といふのが、所詮、半双の屏風にも席を與へ
そのどつちでもよかつたが、考へてみると、芝公園から赤坂へ越したのも八、九年目、赤坂から吉野村へ疎開
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それでも、夜の十一時頃、やつと、青山墓地近くの齋藤家を、訪ねた。叔父は、英文學者であつたが
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に吉野村を出て、朝霜の寒さにふるへながら、千葉胤明翁を訪ねたことがある。いまは知る人も少いであらうが、
あの時分は桃井春藏、齋藤彌九郎、千葉周作など、劍道の撩亂期を呈したんですな。維新革命の世相
何か中華の美人畫を想ひ出したことである。また千葉胤明氏の子息の結婚式でテーブルの向ひ側にをられた梨本氏夫人
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競馬は、宮廷が最初の主催者である。奈良朝の文武帝に始まるといふから、佛教と前後して渡つた事か
また、興亡史からみても、奈良朝、平安朝の良血人種は、地方官になつてゆき、山間僻地
藤をこよなく愛したのは、王朝の公卿たちであらう。奈良付近にはそのせゐか藤が多い。いや先頃、北越を旅行中の
奈良のかみなり
奈良のかみなりばかり心配してゐるのだ。あいにくと又、奈良地方はかみなりが多いときてゐる。
すむことなのに」と、毎年、今頃になると、奈良のかみなりばかり心配してゐるのだ。あいにくと又、奈良地方はかみなりが
誰よりも奈良を愛してゐる人だけに「どうも、奈良には避雷針が少ないです。避雷針があるのは、大佛殿と廊門、
口ぐせに云つてゐる。奈良にアトリエをおき、誰よりも奈良を愛してゐる人だけに「どうも、奈良には避雷針が少ないです。
と、友人の杉本健吉君は、口ぐせに云つてゐる。奈良にアトリエをおき、誰よりも奈良を愛してゐる人だけに「どうも
アプレの所業であり、雷神の災害ではない。で、奈良のお坊さんたちは、「えらいもンで、當寺などは、千年
だけど、ぼくが云つたなんて、書かんでくださいね。奈良を追ン出されたら、弱りますからなあ」と本氣で云ひ足した。
避雷針一本の工事ですむものを、奈良の文化財聚落に住む人々は、いまでも“かんなり陣”で守らう
書いてしまつた。けれど、もし健吉さんがそのため、奈良の法師にヘソを取られたら、ぼくが清盛入道になり代つて、東
せう、三條天皇なども好資料でせう。ことに奈良朝などは朝廷、貴族といつても生活ぶりがオープンだつたし、
ゐる。うす紅梅、ほの紫、青磁色といつたやうな奈良朝以來の、植物的な、匂やかさをもつ色では、もう今日の
白鳳、奈良朝の佛像のおん手には、笑靨がちりばめてある。佛師は
小雨の中を、奈良へ車で走つた朝である。
櫻の蕾はかたかつたが、夜來のひと雨で、奈良の町の古壁に、初櫻がほころびてゐるのを見る。東大寺のほとり
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巴里の紅バラ
巴里の路傍に、汚ない廢人が、物乞ひしてゐた。第一次世界
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志賀、廣津、福島繁太郎氏などの古顏は、まるで市會みたいに山形市長をいぢめぬく。
時間の汽車の旅は費やさねばなるまい。だが、福島縣の須賀川では、つい、おつくうも先に立つ。
、仕事に追ひつめられ、どうしても書けないので、福島縣の飯坂温泉に行つたことがあります。が、そこへ來ても
野菜を積んだ車が、健康な太陽の下を朝早く福島の町をめざしてどんどん通つて行く、それを眺めては、一字
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ところが、ぼくの連想には、もう一人の徳島人が結びついてゐる。すでに故人となつたが、伊上凡骨といふ木版彫刻家
の事蹟を殘しておきたいが、といふ問合せが、徳島縣からあつたが、その後、どうなつたか、結果を聞いてゐ
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すつぽんといへば、京都の大市か、そのほか、殘り少くなつたが、東京にも京橋にまるや
ゐた信長の部下の羽柴筑前守秀吉といふ人が、京都へ引返して行くさうだ、といふことを聞いて、人混みにまじつて
の城下で秀吉を見た事が書いてある。ちやうど京都に政變が起つたときで、織田殿が明知光秀に殺されたさう
茶人といふよりは頑固な感じのする人ださうだ。京都の千家に木像があるが、怖い顏をしてゐると聞いた。觀
ピンとこないとおもはれますが、大體、桓武帝が京都に都をたてられたときから安徳天皇までの四百年間を平安朝といふ
その日の汽車で、僕は、豐太閤三百五十年祭の京都へ來た。そして隨所に豐公時代の文化色と、かれへの昂
どうしても行かなければならない羽目になりまして、京都から大和地方へ、講演に行くことになりました。初め、交渉に來
、美濃がよひの飛脚がこの椿事を同月十六日に京都へ報じ、美濃路で積雪三寸の餘と云つてゐる。
あたりで、雪まじりの雨や雹が降つたとある。また京都の町では、老人の定家の日記に、
、また八、九月には大暴風雨があつて、京都では加茂川の大はんらんが起り、全國の河川田畑の損亡は耳目もこれ
官位のある者ですらかうなつた。必然、京都の民家は、各戸に武器を購入し、各自の力で身をまもる方法
、この實際はどうであつたらうか? 第一に京都のやうな盆地、しかも日當りの惡い宮廷生活においては女性たちに
例へばこの間のメーデーです。或ひは今日(三十一日)京都から大阪へくる途中においても辻々に立つてゐる巡査の姿(五
この四月、蓮如上人四百五十年忌がいとなまれ、京都が久しぶりに、佛都的な色めきをなしてゐるのは、そのため
、さだめし數萬、或ひは十數萬もの人々が、京都へ詣るであらう。だが、それは物質的に、また、境遇からも、
新・平家物語の史蹟調べもあるしと、急に、京都へ飛んで來た所以である。
水の味は、たいへん佳い。名古屋といひ、京都といひ、町でいたゞく茶には、まま水道の殺菌劑か何かの
一とさしの舞が、まことに、壓卷と思つた。京都の女流といふものや、その家風とか町の傳統までを、旅の
京都の例會が月々あるので、席の名は夙に伺つてゐた。
である。やなぎ櫻と、大宮人は云つたが、松の京都といつてもよい。
て、これは灘のものよりのめるとあつて、以來久しく京都にありながらこれを送つてもらつて愛飮してゐたといふこと
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新潟縣のどこかに、里子村といふのがあつたと、記憶する。
や杉本健吉氏などと、新平家物語の史蹟をあるき、新潟のさる旅館に泊つたとき、手際の凄い白浪氏に襲はれたが、
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佐久間象山や一茶の僞筆の名人といはれた長野の中寅といふ經師屋などは、他家へ行つて、眞物を見る
の刑事みたいな人が來て、「毎日ハイヤーに乘つて長野方面を遊興してをられるさうだけれども、御商賣はなんで、
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熊本地方を旅行中、亡友野口駿尾氏と、一日亭に四、五
平家が九州の山奧へ逃げこむ。その一群は、宮崎縣と熊本縣にまたがる五箇ノ庄といふ有名な平家部落を作りましたが、その
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に染められたものである。戰後の横濱、東京、神戸などの外人生活には、なぜかそんな餘裕は見えない。
。思ひ出したのは僕の知人のO氏です。もと神戸あたりで、ネーブル(へそ)――といふ眞面目な喫茶店をやつてゐ
嬉しいといふO氏を私は見まもりました。この人は神戸の陋巷に住んでゐて、子供が三、四人あります。奧さん
ことは、大きい活眼だと思ふのであります。今日の神戸が港として開かれたことが實例であり、あの地方一帶に
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ないが、百合には、ぼくもコリたことがある。岡山縣の宮本村地方を旅行したときだ。小雨ふる日を、佐用、
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はまだこゝに移らない前に書いた作品さ。さう、水戸光圀の行状記です。光圀も梅が好きだつたんでせうが、
なものをつくつたわけ。さうすると勃然として舊水戸藩出身の者を中心とし、幕末時代の勤皇派の人達から反對
後ですが見たことを憶えてゐる。新聞にはやはり水戸方のした事だと傳へてゐたやうです。表面の歴史は、
。私はなるほど、尤もだと思ひました。その時は水戸から土浦へ行く、といふので、途中、東京でエノケンでも觀て
たしかである。美術倶樂部の展觀品中に、水戸藩關係の古書類、手簡、日記、書畫什器などが※まつて出
に參加した關鐵之助や大關和七郎などのいはゆる水戸浪士十七名の肖像畫があつて、しかもその筆者が、同藩の士で
不用な古反古も入り交つてゐるが、皆多少なり水戸藩の掃き屑だし、それに何より欲しかつたのは、その中
多分に藝術的な良心と、又當然にあの事變前後の水戸藩の誰もが持つてゐた熱意がそこに潜んでゐたはずで
水戸浪士のうちでも佐野鐵之助とか、その他二、三者の肖像は
自分が美術倶樂部で、水戸藩關係のものを入札したことといへば、後にも前にも
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をります。九州の果、四國、山陰、山陽、北海道、青森縣、東北、北陸、全部を能ふ限り脚で歩いてゐます。最低
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島の名はわすれたが――年をとつたら郷里高松の何とか島に暮して釣でもしてゐたい、と私に
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な點では、去年の夏頃、永田氏や僕などと福岡へ旅行した船中で、船室で例の將棋をさしながら、菊池さんが
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――この間、秋田の賣物があるからといふので、買出しに行きましてね、その荷物
にこれらしいよ。平福君に話したら、どうしてそんな秋田の方へ行つて又、東京へ流れて來たのだらうつて不審が
それから四日目に、百穗氏は郷里の秋田へ歸國して、ぽつくり病死してしまつた。そして、それにびつくり
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すべて東京を下といひ、上とはいはない。古くから甲府を都心の觀念として來てゐるのである。
、それらの家では、むかしからみな家屋の正面は甲府の方へ向けて建て、多摩川の上下をいふにも、土地の方向
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ゐた前海軍大將の子息が、へうへうと、八王子市に現はれたと出てゐた。あの仲間にも、いろんな人々がゐるに
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東京の基地、立川市にも、かつては、すごく頭のいゝ教祖が出現したことがある。
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ぼくもまた、馳出し記者時代には、牛めし、深川めし、三好野の強飯など迄、およそ、いかに安く、うまく、かつ滿腹する
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を離れてよそに假の書齋をもつたので、東京との間を、伊東線で往復する日がまゝ多い。
たい、だれがあんな地獄列車を仕立てたのか、と今さら東京裁判みたいなことを云つてみても始まるまい。裁判人がいつまた特急
としたわけで、休みに兄弟二人をつれて村から東京へ遊びに出かけた。
東京の下町にも、とんと、牡丹は見なくなつた。四ツ目の牡丹
過ぎた東京の夢でなく、もう一ぺん、四ツ目に勝る牡丹園の花の奢り
、京都の大市か、そのほか、殘り少くなつたが、東京にも京橋にまるやといふのが、以前はあつた。與謝野晶子女史の
の花に染められたものである。戰後の横濱、東京、神戸などの外人生活には、なぜかそんな餘裕は見えない。
東京の基地、立川市にも、かつては、すごく頭のいゝ教祖が出現した
東京にも“東京の音”がある。大阪のそれよりは、もつと複雜で風速的
東京にも“東京の音”がある。大阪のそれよりは、もつと複
が、全身をくるむ音響にはすぐ馴れるものである。“東京を聽く”フレツシユな感覺も、自分を雜閙の中に溶けこますと、
滿腹するかに、苦心經營したものだつた。東京中の一品屋のライスカレーを食ひくらべ、どこの屋臺が最も安くて
氣狂ひじみた騷音の東京は、近年、日本迷所の一つらしい。
歸りでもないが、子供らの巣立ちにひかれて、東京へ居を移した。
花見る人もないんぢやないか。花時、ぼくはよく東京から車で歸るとき、夜櫻を見たりしたが、人影もないほど
たしか東京から大隈重信、その他の大官が除幕式へ來て、祝辭を讀んだり
の年も僕の年も判つてしまひますが――東京毎夕新聞の駈け出し記者として、家庭部兼學藝部に二年ほど
思ふんです。ずつと古い話ですが、大正何年かに東京に大洪水があつたことがありますが、月島で洪水に遇つた人の
てをります。御亭主は今もつて歩いてをります。東京をよぎる時に、どうかして私の所へ一晩泊るんですが
「Oさん、疲れたんぢやないか。あんた、折角、東京を通るんだから、何か自分で希望してゐることでもないか
時は水戸から土浦へ行く、といふので、途中、東京でエノケンでも觀て行つてはと、切符かなんか用意してやりまして
いふのであります。この東京にしてみますと、東京に徳川家康が入つて、江戸城が開かれて、この街が開拓さ
までの四百年間を平安朝といふのであります。この東京にしてみますと、東京に徳川家康が入つて、江戸城が開か
茶室に坐つて、ふと思つたことだが「ああ、東京にも、こんな靜けさがある」と氣がついたことである。
、ぼく自身にも、經驗がある。きのふも、久しぶりで東京に出、博物館の田山方南氏や友人のO氏などと梅露庵の
てゐないのである。たとへば、私のゐる村は、東京近郊の國電で二時間ぐらゐな所だが、新制小、中學ぐらゐの
早曉の急行列車に乘らうとおもひ、朝寒の東京驛前の廣場に立つてゐると、どこから起き出して來たか、もう三々
阿彌陀ヶ峯のいただきへ登り、ふと、東京驛の浮浪兒たちをおもひ出した。そして、秀吉もまたあの年頃には
は家族連れの行樂の列でたいへんな賑はひです。東京とは違ふなあ、とその風景に感心して、越えて來た數
震災のとき、ぼくは東京毎夕新聞といふ社の編輯部にゐた。家庭部と學藝記者を
も病父も、いたくお世話になつたらしい。ぼくは、やがて東京毎夕に勤めるやうになつた頃、しきりと、この小島さん夫婦がなつかしまれ
東京裁判の判決についての、新聞記事、社説、また各方面の文化人たち
ました。ところが、この子はあの三月十日の東京大空襲のさい、女學校から女子挺進隊にとられてゐて私の
ない‥‥(吉川氏嗚咽‥滿座肅然、東京會館ウエーター君まで貰ひ泣き)‥‥このうれしい機會をめぐんで下さいまし
話と、それから三、四百年もたつた、しかもあの東京の丸の内の眞ん中で、文化施設の眞ん中で、文化人と
話したら、どうしてそんな秋田の方へ行つて又、東京へ流れて來たのだらうつて不審がつてゐた。第一あれほど喧しく
は、おもしろかつた。京洛人の多藝もさる事ながら、東京では見ない隱し藝をいくつか拜見した。たとへば、初瀬川松太郎氏
ところが、この日の道づれは、朝日新聞社の大阪、東京のジヤーナリストばかり五人づれ。それにぼくの山妻である。由來、知識人ほど
、殆ど、木は土地のものでやつたのである。東京から仕入れたのは應接間の床の間の松一本と、天井にならべた
上下をいふにも、土地の方向をいふにも、すべて東京を下といひ、上とはいはない。古くから甲府を都心の觀念と
が何分にも、この地方は“石どころ”で、東京への庭石は、むかしから殆どこの附近より送り出してゐたほどである。
は田ンぼや森や田舍家ばかりだつたが、今は東京とくツついてしまつた。“故郷忘じ難し”の感慨もないゆゑん
があつた。明けても暮れても、苦學しに東京へ、といふ夢にとりつかれてゐたものだつた。
でも、東京が遙けくおもはれ、勉強するなら、東京でなければならないやうに思惟し、その頃の青年の胸には、
。十九の暮まで、横濱にゐた。それでも、東京が遙けくおもはれ、勉強するなら、東京でなければならないやうに
家に歸つた翌日「もう、居ない者と思つて、東京へやつてください」と、頼んだ。この奇禍が、轉機を作つて
、横濱の鐵の橋のすぐそば、吉田町の家から、東京へ出るといふのに、その朝、母は、小豆のはいつた赤
、そんな中の、一年半餘の生活をあとに、東京行きの汽車の中では、ずゐぶん長い、多量な感慨が、十九のぼく
考へてみると、もうその頃すでに、地方から東京を目ざしての苦學夢遊病者には、どの先輩も、もて餘して
である。工場地帶のサイレンと煤煙の朝ぐもりに「ああ、東京へ越したんだな」と、あらためて思つたりする。
赤坂から吉野村へ疎開したのも九年目、こんど東京へ引つ越すやうになつたのも、どうやら九年目ぐらゐ。偶然
人に落されたのである。それがドツクをやめて東京へ出てくるぼくの轉機でもあつた。もし落ちなかつたら、まだ何
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また先頃の都下版には、よく銀座にゐた前海軍大將の子息が、へうへうと、八王子市に現はれ
唇に沁みついてゐる。――季節のバラの花を銀座の店頭に見初めると、人混みの中でも思ひ出されるのである。
人の年齡も知られるといふものである。ぼくは、銀座の花卉店に、鉢植ゑ牡丹が出はじめると、亡友鈴木文史朗の武勇傳
などは、われながらいゝ圖ではない。また、夕方の銀座ほど「やあ」「やあ」と、知つた顏が流れてゆく時刻でも
奇蹟だ、飮みませうや」と、握手して、銀座へ出、その晩一しよに歩き廻つたが、さいごの酒場を出たとたん
今月の「文藝首都」に、菊岡久利氏が、西銀座の並木横丁で、十人の青年をおき、牛めし屋を開業したとか
た。折々、これはそも、何の前兆かと、銀座の人ごみでも、眼をみはることがある。
が、今、ここにゐる花嫁でございます。家計のため銀座へ働きには出てゐましたが、まだ西も東もわからない乙女
で、前の家内と離婚後の二、三年は、よく銀座裏を放浪してゐたものですが、ある折、「ああ、こいつだ
日前、私が病床を見舞ふと、ちやうどその日は銀座のレバンテで、故横光利一氏と故鈴木氏享氏との追悼會が
の城市と、けふ自分の歩いて來た上野の秋や銀座に近い街などを、あたまのどこかで比較しながら、且つぼんやりと明人
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におもしろい。今上皇帝、女院、公卿、秀吉、淀君、蒲生氏郷などの生理的症状も、打診できる。
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如き文字を、墨痕りんりと書いてゐるが「あゝ、巣鴨帖」と、思はず、卷を閉ぢずにゐられない。
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身を托してゐるやうなものだ。ある夜、その自動車が新宿の雜閙で止まつてゐるあひだ、ふと、横を見ると、ゼイ竹
や少年たちが、背に一俵、二俵づつ背負つて新宿迄くると日當になつたのも當然でせう。
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ところへ建てようとして駄目、櫻田門に建てることも、日比谷のどこかに建てようとしてもみんな駄目になり、終ひに閣議で
二日目に、日比谷近くの、パン屋へ、連れて行つてくれたが、ぼくに苦學希望
二丁目まで歩くときめた。相生町を、夕方に出て、日比谷までゆくと、もうだいぶ更けかけてきた。道を、巡査に訊くと
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伊賀上野の人で山田道庵といふ、その時代の畫家がゐる。その道庵
士官がリードして、奧多摩かどこかへたて籠らう、上野の彰義隊、といふことになつたんです。例が古すぎますが
彼が矜持してゐた苦節とか氣概とか、上野の森を中心とするりんりたる美校男子の水々しさも誇りもない。
一切出なかつた。ひとの話をよそ事にして、上野に一個の床几と葭簀とをもち出して、軒なみのスイトン屋牛めし屋さん
したのである。ぼくは、わづか二ヶ月ばかりで、上野を去り、そして信州の角間温泉に、その冬を籠つて、初めて、
何年ぶりだらう。私は上野の秋に佇んだ。日展を觀るためであつたが、半分は、
たびに必ず一日は散歩したあの頃の上野といまの上野とはちがつてゐる。妻子とともにどこかで握り飯を解かうと
の秋といふたびに必ず一日は散歩したあの頃の上野といまの上野とはちがつてゐる。妻子とともにどこかで握り飯
ひ歩いた南昌の城市と、けふ自分の歩いて來た上野の秋や銀座に近い街などを、あたまのどこかで比較しながら、
死後、たしかをとゝしの春だつたかと思ふ。上野の美術協會で、同氏の遺墨展覽會がひらかれる事になつた。
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に暮れてをつたのであります。途方に暮れると、目白女子大の井上さんの所へ行つた。すると何か話してくれました
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になつた家で、有島生馬さんが住んでをられた麹町六番町の舊旗本の大きな屋敷なんです。應接の隣りの書庫の
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、罐詰、煙草、武器彈藥などを、各々が持ち出して、八王子附近の丘陵の横穴へ隱しまして、最後の一戰をやるといふ
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年かに東京に大洪水があつたことがありますが、月島で洪水に遇つた人の話が丁度これと似てゐるんです。高潮
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して、歡呼亂杯。こゝへは、招かずして新橋、柳ばしの美妓が群れ集まり、わが世の五月を謳歌した一夜が
葬儀の日、築地の本願寺から近い新橋文化クラブに知人を待たせておいたので立寄り、そこでもみな菊五郎
新橋で降りるのを、品川驛で降りてしまつた。そして、何のあて
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家は、向島の植木畑にあり、よく通る道の右側に、幸田露伴翁の住居の
た。履歴書をふところに、毎日、下駄を平たくして、向島から出歩いてゐた。母がゐて、また、ぼくより下の弟妹が
。意識的に、つねに、微笑をもつことに心がけた。向島のその借家は、家賃は安かつたが、隱宅むきな古雅な家で
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定家は、八月八日の午後二時頃、訪客の大宮三位を送り出してから間もなく大風襲來で邸内の樹木も折れ出し
祈願にお出ましになつてをられる。ところが行幸のお道すがら大宮大路までくると、道に死骸や病者が充滿してゐて、お
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人形町の水天宮前に、おもしろい男だけにいつも貧乏ばかりしてゐる百和堂と
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頼みもしないのに凡骨が又、ご苦勞樣にも幡ヶ谷の百穗氏まで確めに行つたものらしい。もつとも、彼の話に
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新橋で降りるのを、品川驛で降りてしまつた。そして、何のあてもなく、電車に乘
いゝ小鳥たちの聲にくるまれたものだが、新居は品川區の一端である。工場地帶のサイレンと煤煙の朝ぐもりに「ああ、東京
中で過去へ逆廻りしてゆくのである。おそらく、品川の空の中でも高い方のこの煙突や濃度物凄い煤煙を、かう愛しみ
何を書かうとしたのだらう。品川新居雜感なら、こゝの二階からもちよつぴり海の切れ端は見えるし
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大市か、そのほか、殘り少くなつたが、東京にも京橋にまるやといふのが、以前はあつた。與謝野晶子女史の一派や當時
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と云つてよいほど、農家の暮しは、樂でない。湘南地方の農村にくらべれば、何倍も働いて、何倍も苦しいので
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だの、自分にとつても、青年頃の濱町河岸や隅田川べりに、遊び呆ふけてゐた春日が連想されてくる。然し、