私本太平記 10 風花帖 / 吉川英治
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「そちはたしか、熊野山の別当法橋道有が乙子(末子)であったな」
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なく、官軍は川の東へ、総ひきあげを呼び交わし、加茂の上流、糺のへんへかたまった。そして徐々に、叡山山麓の西がわ――
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を降り、明石の大蔵谷へ行きつくと、この方面、垂水、須磨、兵庫へかけては、たくさんな味方が落ち合っているのがわかった。高ノ
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さらに安芸には、桃井、小早川一族を差し置く。周防には大島義政、大内豊前守
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「戦前ですが、仁和寺の尼長屋に、佐渡で亡くなられた資朝卿の後家の君が隠れ住んでおりました」
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日)の情報によれば、官軍は西山峰ノ堂から大江山ぐちまでは追ってきたが、以後は見えないとのことだった。さらば
「ほ。そのことなら義貞も聞いていました。さきごろ大江山より道誉が使いを出して、あなたの御門へ、降参のおとりなしを、
京を通らねば近江へも行くことならず、途中の大江山で立ち往生をしているのでしょう。……そしてくるしまぎれに、准后へすがり、
尊氏の敗戦で脱陣したものでございましょう。さきごろ来、大江山に立ち往生して、進みもせず、もどりもせぬ一陣の兵がいる
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摂津の戦場で、兵に捕われて来た旅の母子があり、見ると、それ
歩くうち、こう仰せられておりました。……和泉、摂津の浜は、なべて楠木勢の持ち場だが、欲しい船がたくさんにはない。
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宇治方面、五千騎 楠木左衛門尉正成
宇治平等院の宝蔵仏閣
の手にあずけ、自身は中軍の精兵一万余をひきいて宇治へ向った。
「宇治もやぶれた……」
「もう急ぐことはない。むしろ宇治、大渡、丹波口などに、なお、うごめく敵へそなえて、味方をかためろ」
また。宇治の手の楠木も、千種、脇屋、名和などもそれいぜんにみな行宮の守り
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、足利軍は総敗北におち、一時、北野から七条、九条へ遠く退いた。
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一土豪にすぎなかった頃の比ではない。そして千早金剛で鳴らした往年の勇名だけはなお生き生きと全土の武者の記憶にふかくのこって
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、みじめな残軍をかきあつめては、これをひきつれて、丹波の篠村へ落ちのびていた。――ここの篠村八幡は、彼が弱冠の
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片瀬、七里ヶ浜
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それにしても、殿のご意中もようたださず、伊吹へ帰って、ご軍勢の通過を待つなどという先廻りは」
いまでは越前ノ前と申しあげ、以後ずっとお変りなく、伊吹の城に、今日を待っておられました。ひと目会うておあげなされませ
越前ノ前と名をかえて不知哉丸とともにつつがなく伊吹の城にいるという。あれいらい三年になる。不知哉丸もはや十三か
「近江へもどれとの御意はそれか。伊吹には越前の前(藤夜叉)と御一子不知哉丸とが残して
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みちのくの山はすべてまッ白だった。行軍は明け暮れ吹雪になやまされた。
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なら、這奴は一族の斯波家長なるものを、私に、奥州管領となし、ひそかに奥州へ下向せしめたと聞いておる。――これ
家長なるものを、私に、奥州管領となし、ひそかに奥州へ下向せしめたと聞いておる。――これなども、事をあぐる
時をあわせ、奥州からは北畠顕家が一路南下の予定である。――この両翼を心にえがき
かねがね、予測はされていたことだが、奥州の北畠顕家が、北の精兵七千騎をひきつれ、長途、王軍をたすけるべく疾風迅雷
佐竹ノ楯。亘理郡の相馬一族。またさきに尊氏から、奥州管領の名で東北に派遣されていた斯波家長の党などが、
と、奥州出発いらい、およそ二十八、九日めに、やっと近江愛知川の湖畔に着いた。
「奥州の猛卒猛将」
奥州も、てんやわんやだ。北畠顕家が留守となった東北の乱脈さなどわけて想像に
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水上生活者の協力がなければできないことだった。古来、堅田や焼津には、叡山勢力下の船持ちがたくさんに部落していて“
とまれ、奥州軍七千は、湖東と堅田の間を幾往復もくりかえして、十三日から十四、十五の三日間にわたり
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の旨を内外に触れ、浄光明寺のうち深くに籠ってしまったのだった。
諸政を弟の直義に託し、身は謹慎を表するため、浄光明寺に入ったままふかくつつしんでいると申す。――そして以後は、元弘におけ
鎌倉泉ヶ谷の浄光明寺は、ほんの一堂に庫裡があるだけの、草寺だった。
いる者がある。朝だが、まだ星があって、浄光明寺の内はまっ暗だった。
本堂前には大焚火が焚かれた。浄光明寺のうちも外もたちまち活気と人ざわめきの坩堝と変り、尊氏は、あらためて方丈
それはさきに、尊氏の密命をうけて、浄光明寺の門から、旅の一雲水に化けて、どこへともなく立去ってい
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ざッと五、六千騎で、行く行く信濃の反軍を揉みつぶし、甲州を掃いて、鎌倉武蔵口へせまる作戦。
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藤夜叉は、越前ノ前と名をかえて不知哉丸とともにつつがなく伊吹の城にいると
その間。おそらくは不知哉丸と越前ノ前は、柏原の陣屋のほとりか、寺院の門の蔭にでもい
「近江へもどれとの御意はそれか。伊吹には越前の前(藤夜叉)と御一子不知哉丸とが残してある。お
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五畿、七道、四国九州、全土の朝敵
。――現に、刻々と兵庫、摂津方面からせまって来る四国の細川定禅(足利一族)、山陽、山陰の武族など、みなそれの呼応
展開された。――しかし細川定禅、赤松円心らの四国、中国勢は、すでに洛内の一角に入っていた。――義貞の一万
尊氏の行くての先は兵庫であった。山陽道と四国をむすぶ兵庫を無視して勝目はないとしていたからだ。
四国の宮方、得能一族や土居の軍勢だったのである。それが海路の途中
せきたてた。このさい、時をかせば、官軍方にも四国の兵船二百余そうがいたのである。海上で包囲されるおそれも多分
そして四国は、細川阿波守や細川定禅の軍で固め、山陰にも仁木、上杉の
「仰せのように、山陽、山陰、四国へまで、ここの御軍勢を分けて留めおかれましては、筑紫へ渡らせられる
の尊氏は、須臾のまに、西国の諸豪を手なずけ、四国、山陽山陰の与類をあわせ、おそくも年内には、大挙、ふたたび闕下へ
そちの案じすぎぞ。筑紫にも誠忠の士は多い。四国、中国とても同様。そのうえに、義貞もくだってゆく。何条、尊氏の
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筑紫の大友左近将監
出雲の塩冶は元々佐々木一族だし、筑紫の大友は、初めから信じ難いふしがあるので後陣においた者である
「まずは筑紫(九州)までも、海上、物に困らぬだけのお支度は、ととのい終っ
さいごの評議をすまし、そしてこよい、尊氏はここを出航、筑紫へさして行くというかねてからの計画だった。
、強豪な聞えが高い。尊氏はまだ六波羅のころから、筑紫の少弐や大友の族党へはいちばい恩義をかけていた。そのほか
へまで、ここの御軍勢を分けて留めおかれましては、筑紫へ渡らせられる宰相のおん供には、どれほどな兵力がお付添いできましょう
ならともかく、執事のそちが知ってないはずはない。かねがね筑紫の武者どもへは、他日のため、何くれとなく手を打っておいたこと
そしてすぐ全軍の船へつたえろ。終ったらすぐ纜解いて、筑紫へくだるぞ」
筑紫の少弐貞経の子、頼尚兄弟が大宰府から一族五百余人をひきつれて、
た東北の乱脈さなどわけて想像に難くない。さらに思いが筑紫に飛べばなおゾッとした。――彼のさぐり知るところでは、尊氏は
「叔父上のおことばでは、たとえ一時は筑紫へ逃げた尊氏でも、いまにきっと大軍で攻めのぼって来るぞ、と仰っしゃっ
。御軍は兵庫に大捷を博しており、尊氏は遠く筑紫へ落ちのびている敗軍の人。……さればこそまた、いまが絶好なときで
をおいてはありませぬ。……もし時移せば、筑紫の尊氏は、須臾のまに、西国の諸豪を手なずけ、四国、山陽山陰の
「正成。……それはそちの案じすぎぞ。筑紫にも誠忠の士は多い。四国、中国とても同様。そのうえに、義貞も
いくたび窮地に立ち、いくたび破れながらも、なお彼の筑紫落ちには、あまたな武士が、付き従うなど――尊氏が赴くところ、何せい
、もし正成にみゆるしを給わるなら、正成自身、即刻、筑紫へ下向いたし、尊氏に会うて、きっと古今の弊を論じ、また、おろか
。そして、その御使には、自分が尊氏を説きに筑紫へ行ってもよいとまで望むのか」
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から退いた名越式部の死にもの狂いな兵を中心に、伊豆の伊東祐持や、三浦、諏訪などの新手を加え、頑強にふせぎ戦って一
それもあり、また伊豆や海道筋からも味方の相当数が「尊氏出馬」の声から声をつたえ聞い
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五畿、七道、四国九州、全土の朝敵
「ご安心なされませ。つづいては九州の大友、相良、島津らの後陣も馳せさんずるにちがいなく――それにこの
「まずは筑紫(九州)までも、海上、物に困らぬだけのお支度は、ととのい終ってござり
ゆらい、九州の武族は、強豪な聞えが高い。尊氏はまだ六波羅のころから、筑紫
――わけて尊氏はまだ茫洋な感だったろう。行くての九州に、なお何が待つかも、予知はできない。
の流亡軍が、筑前芦屋ノ浦へつき、ここに初めて九州の地をふんでいたころ――
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が、都の西の八幡、山崎はもっと重要である。畿内、西国街道へののどくびなのだ。
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いま向ふ方は明石の
山路を降り、明石の大蔵谷へ行きつくと、この方面、垂水、須磨、兵庫へかけては、たくさん
明石の陣は、一夜にすぎず、尊氏は次の日さっそくその陣所を兵庫(現・
――するうちに、この日、明石の沖あいに、大小数百そうの兵船群が列をなして見えてきた。
あなたこなた、逃げさまよい、火にも追われ、ぜひなく、明石の知る辺をたよって、淀の西をまいる途中、新田殿の御陣に捕まり
「明石の、何処へ」
「明石の浦に、和歌のお師、冷泉為定さまの古いお家がありますので
好みませぬ。またふと、巷で行き会うた右馬介も、明石へ行くことがよいとすすめますゆえ、ならばと、思い切って都を出て
い。そして、よういたわり取らせたうえ、さらに二人のたずねる明石の冷泉殿の家まで兵を添えてとどけてやれ。心ききたる兵数名を
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もとよりここは花山院の今内裏(仮の皇居)だが、天皇のおわすところ、どこでもそこ
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の地方軍はもちろんのこと、公卿指揮者、滝口の兵、叡山の僧兵までをあげて都門の東西にそそぎこみ、
の、御評議もまたたくまだった。――主上には叡山へ御落去あるぞ! ――と声大きく触れ出された瞬間からの
むかし、木曾義仲の侵入にあたって、一時、後白河法皇が叡山へ難をお避けになったあれ以来のことである。しかも後白河のばあいは
四明ヶ岳の樹氷、湖水を研ぐ北風。叡山東坂本の行宮は、寒烈、そんな一語ではつくせない。言語に絶する寒
「もし叡山が、足利がたへ傾いたら?」
。――つい嶺の南、大津の三井寺は、由来、叡山とは何事につけても反目していた。幾世にわたって対峙して
して、坂本へ襲せる気勢をみせているという。叡山もまた、当然に、城塞化した。
におちていた。――しかるに尊氏軍は刻々と叡山一点にその重包囲を圧縮しつつある状だった。東坂本の下からも、
「船はないか。叡山はここから見えるが、瀬田、大津は敵の陣地だ。一刻も早く、これ
ばできないことだった。古来、堅田や焼津には、叡山勢力下の船持ちがたくさんに部落していて“堅田湖族”などと
が、叡山は嶮だし、伝教以来のゆゆしい御山でもあるとして、尊氏が
の君まで、すべて過日の内裏落去のさい、共に叡山の上へ、いやおうなしにお座所変えを強いられて行ったものと考えるしか
これに、三千の僧兵も、向きを変えて、叡山の布陣は、すべてここに、
義貞も、また行宮も、叡山をすてて、一時北陸へ避ける用意らしいという風聞なのである。
ときは敵もまた苦しいのだ。兵力の底はつき、叡山の兵糧も乏しくなったに相違ない」
は、「――尊氏、退く」と聞き給うやすぐ、叡山の行宮をひきはらって、
のご警戒きびしく、当時、持明院統のおかたも、みな叡山へ移され、近づきまいらせる手がかりなどはまったくなかった。――そしてやがて御帰洛
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以上な重任が考えられていたはずである。――鎌倉から救出して連れていた成良親王・みだい所の登子・またとくに若
尊氏の下向を待ちつつ、また一面、奪回された鎌倉を、さらに再度奪回するの策やら準備におこたりなかった。
「こと火急。鎌倉は無勢。みずから馳せくだって弟直義をたすけねば」
するうちに、鎌倉の放抛、直義の敗走、つづいて大塔ノ宮がその幽所で何者か
鎌倉をのがれ出た成良親王をして“征夷大将軍トスル”という補任の令である。
尊氏、直義の兄弟軍は、もうそこを発して、ただちに鎌倉へさしていた。
鎌倉を奪りかえした北条遺臣の寄合軍は、統一上、
、行くところで勝ち、十九日、尊氏の馬は、もう鎌倉の内へ突き入っていたのである。
とまれ、鎌倉はまた、足利方の下に回った。
ふたたび元の残党境界の陽かげにひそんだ。この先代軍が鎌倉を占領していたのはわずか二十日間に過ぎなかったので、世上これ
これで、鎌倉の地は、高時いらい、わずかな年月に、四たび主をかえたことに
なくとも、夙にわれから上洛すべきでしたが、戦後なお鎌倉は乱離の状です。なにとぞ、ここ数日のご猶予をばお願い申しあげまする」
「鎌倉の留守の方がむしろ心配でな。ご勅使への返答も迫っておるが
かへ憤慨したりした。そして一時的ではあるが、鎌倉は冴えない景色のうちにあった。
叛旗とみるや、諸家の武門を脱走して、ぞくぞく、鎌倉さして行く兵も少なくないとか」
憂えるほどなことでもない。事態の急に、京から鎌倉へと、身の処置をきめて行くのもある代りに、また都に祗候
それは何かといえば。鎌倉から発した檄――すなわち足利家による――諸国への軍勢催促状なの
すすめるのみでなく、北の奥羽からも官軍を攻めのぼらせて鎌倉を挟撃させようとの兵略にほかならなかった。しかし鎮守府将軍の官位は
鎌倉の海もここの山も、冬を忘れたような小春日だった。右
「はい。兄の三郎盛高は、鎌倉の亡ぶ日まで、御先代(高時)の近侍の内の一人でした。そして
そして鎌倉の焦土に“犬神憑き”という奇病が流行っていた頃のこととか
わずか二十日の間でしかなかったが、一時にせよこの鎌倉の府を奪回した先代軍の大将は――その亀寿さまが名をかえ
直義どの以下を追い落し、ふたたび、亀寿さまをいただいて、この鎌倉へ入ったときの、一族方のよろこびは、ことばにも言いつくせません。
軍勢は今朝立ったが、佐々木道誉らの先鋒は、すでに鎌倉を立っておる。――その佐々木の陣へ、秘命をつたえに行って欲しい
鎌倉をややおくれて出た足利直義の本軍は、手越で味方の退却とひとつ
を加えていたら、直義は危なかったかもしれず、鎌倉も一挙に義貞の馬蹄の下であったかもしれない。だが官軍も
鎌倉をお立出で……
「されば。いちど鎌倉へひきあげて地固めするか。または、このまま義貞を追ッて都へ迫るか
「鎌倉などは欲しいものにくれてやれ。直義、中原とは真ん中のことだ」
鎌倉までとしても半月の余はかかる。彼は父の親房にはかって、
追躡(尾行してくる攻撃)も執拗なので、鎌倉を横に見捨て、ひたむき、東海道を急いだが、ついにあの――箱根竹ノ下合戦
、よく人心収攬のご器量があるものなれば、さきに鎌倉を陥し、また勅宣の御軍をひきいて治平の帥にあたりながら、今日
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正成の手勢だった。――いまはこの人も河内、和泉の守護職である。――その勢力もかつての南河内の一土豪にすぎなかっ
見て歩くうち、こう仰せられておりました。……和泉、摂津の浜は、なべて楠木勢の持ち場だが、欲しい船がたくさんには
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果てなく戦場の地域はひろがっていた。函南の裾野から足柄、愛鷹のふもとへかけ十里は人馬のとどろきといってよい。
さきの箱根、足柄の苦杯を彼は忘れ難い。あのときの戦略的な“読ミ”の不足は
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――脇屋義助、義治をはじめ、堀口、綿打、里見、烏山、細屋、大井田、大島、籠守沢、額田、世良田、羽川、一の井など
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宮城県宮城郡多賀城町市川、岩切駅の東一里で、仙台から松島へ行く塩釜街道の途中にあたる小山である。
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筑紫の少弐貞経の子、頼尚兄弟が大宰府から一族五百余人をひきつれて、
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なす北畠顕家の万余の兵も、すべて、昆陽野から芦屋へと、前進をみせている。
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十日の昼合戦は、伏見、鳥羽、桂川の沿岸など、長い戦線で展開された。――しかし細川定禅、赤松円心
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悪いことを、母がさせておくはずはない。あいかわらず観心寺の御坊の許へ通って、勉強はしているのであろうが」
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「四天王寺を中心に、難波、住吉を二日ほど見て歩くうち、こう仰せられて
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にうごき出すと、鼓を合せて、白川越えの上や鹿ヶ谷のふところでも山を裂くような武者声がわきあがった。新田義貞、義助の
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は敗走の足利兵がひきもきらず、直義はやがて、箱根の水飲(三島口の山中)に拠って、味方をまとめていると聞えた
をも、お見殺しになさるお腹でございましょうか。いまや箱根の孤塁には、譜代の御一族の全生命が、ただ一つのお救い
「また直義さまも、孤軍の味方も、箱根の一塁を枕に、立ち腹切るか、斬り死にか、いずれともみな最期の
箱根、竹の下合戦
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いやそのような暴状はここだけでなく、石山寺の宝蔵もこのときに破壊され、淀、八幡、山崎へかけても同様
戦線は瀬田川の川床だった。上流は石山寺辺りから湖水口へかけてまで、折々にわあッと喊声をあげている。
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楠木正成は、神崎川から難波の浜をひだりに御影街道へ急進をしめしており、脇屋、宇都宮の二軍
「四天王寺を中心に、難波、住吉を二日ほど見て歩くうち、こう仰せられておりました。…
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いるのを知っていた。――やがて地蔵堂を経、金時山の北を峠越えに出ると、南へのぞむすぐ目のさきに、
さえ踏みとどまらせる力にはならなかった。――敵は、金時山を負って、逆落しに、猛火は山風を孕んで、これも味方のあたまから
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つとに敗軍の報がひっきりなしに朝廷へも六波羅へもはいっていた。
高ノ師直はいま、どこからか、馬で六波羅へ飛んで帰って来たばかりである。
すでに直義は東国でやぶれた敗残の将、尊氏は六波羅をすてて途中にある無拠地の旅軍、これを追ッて討つのは
であろう。されば尊氏には、一日も早く帰洛し、六波羅にもどって、逐一の報告を親しく上聞に達しおわられよ」
やがありましょう。さきごろ、みゆるしも待たず、急遽、六波羅を出てまいりましたのも、もしその果断を取らなかったら、今日の勝利
「いや尼前、六波羅にいた頃とは、大変りだ。其許たちの目から見たら、
九州の武族は、強豪な聞えが高い。尊氏はまだ六波羅のころから、筑紫の少弐や大友の族党へはいちばい恩義をかけて
。元々、佐々木道誉なる者は、元弘の年、みかどが六波羅の獄から隠岐へ流され給うた日の出雲路まで、その御警固にあたっ
ん。笠置落城後、あまたな公卿は斬られ、みかどは六波羅ノ獄に囚われ給うなどの日においてさえ、彼は北条の目をぬすん
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の左近は、さすが何か、ただ事ならじと察したらしく、六条の門から不安そうな眼ざしでいつまでも見送っていた。
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園城寺、すなわち三井寺の炎上を見たのはこの日のことである。この正月十六
「園城寺だ、三井寺の方ではないか」
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遊軍、山徒の僧兵千余人 延暦寺ノ僧、道場坊宥覚
家々に札を打って宿所にそなえ、軍需として、延暦寺からは銭貨六万貫、米穀七千石を提供した。
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陸羽の奥はまだ蝦夷地のままといってよい。乱妨、反乱、同族の闘いなど、絶えまもない。
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阿蘇ノ大宮司惟時、出雲の宇佐兵衛ノ尉助景の手の者が、まっさきに来て
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新田軍は三島を捨てた。ぜひなく、愛鷹山の根に沿った西への道を、幾段にもなって、落ちて
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鎮守府の柵、多賀城のあった地は、いまの宮城県宮城郡多賀城町市川、岩切駅の東一里で、仙台から松島へ行く塩釜街道の途中
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やがて手越、大井川と一路東海の道は足利色に風靡されて行った。
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「戦前ですが、仁和寺の尼長屋に、佐渡で亡くなられた資朝卿の後家の君が隠れ住んでおり
どこぞへ散り去ったかもわかりません。……けれど仁和寺のあたりへ行けば、知れぬことはございますまい。また資朝卿の後家ぎみ
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杜絶していた。楠木の別動隊が淀の水路や河内、摂津口をさまたげているためだという。――先に細川定禅の軍
た楠木正成の手勢だった。――いまはこの人も河内、和泉の守護職である。――その勢力もかつての南河内の一土豪に
れたふうなのである。――或る説では、河内へひきあげてしまったなどの噂すらあった。
も大きく昇進したはずだが、暮らし方はいぜんむかしの河内の一豪族とさして変った風もなかった。あたかもこれを家憲として
河内のつくね芋殿
矢たけびのなかに明け暮れのおすごしとあるのに、河内の奥は何事ものう、正月は正月の真似びもしたり、この頃の麦踏み
「ですが父上。河内の奥にばかりいると、無性に正行は遠くが知りたくなって来ます。
「日本じゅうが戦争なのに、河内の奥で自分だけがこんなにしていていいのかしらと思うのです」
の土産も買って、やがていそいそ、従者十騎と共に河内へ帰って行った。
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「信濃の諏訪です」
「ではその折から、兄や父のいる諏訪へ帰って、亡君のわすれがたみ、亀寿さまのおそばに、再び仕えてい
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、公卿色がつよく、侍大将では、島津、江田、筑前の前司ら、二十余家の旗がみえる。兵力はざッと五、六千騎で
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八幡、山崎の線を死守していた武田信武は、ついに官軍の大兵にもみつぶさ
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出雲の塩冶は元々佐々木一族だし、筑紫の大友は、初めから信じ難いふしが
阿蘇ノ大宮司惟時、出雲の宇佐兵衛ノ尉助景の手の者が、まっさきに来て、ご警固に付き
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けれど洛民の恐怖はそれだけのものでなかった。べつに兵庫、摂津方面からも西国の反官軍が尊氏に呼応し、淀、山崎の口
に似ていたのである。――現に、刻々と兵庫、摂津方面からせまって来る四国の細川定禅(足利一族)、山陽、山陰の
尊氏の行くての先は兵庫であった。山陽道と四国をむすぶ兵庫を無視して勝目はないとし
ての先は兵庫であった。山陽道と四国をむすぶ兵庫を無視して勝目はないとしていたからだ。
その兵庫への道を、彼の落ちてゆく残軍は、裏丹波の三草へ
、明石の大蔵谷へ行きつくと、この方面、垂水、須磨、兵庫へかけては、たくさんな味方が落ち合っているのがわかった。高ノ師直、
と、これを兵庫から播磨境までの諸所へわたって触れわたした。
陣は、一夜にすぎず、尊氏は次の日さっそくその陣所を兵庫(現・神戸市)へすすめた。――港にちかい逆瀬川の川ぐち、魚見
兵庫は建武の初年いらい楠木正成の勢力範囲にはいっている。が、正成の代官も
をなして見えてきた。これがわかると陸では兵庫から生田、御影へかけて狂喜の歓呼がうねりのようにつたえられ、
「この二人を馬に乗せ、兵庫の魚見堂まで送らせい。そして、よういたわり取らせたうえ、さらに二人の
あるという。――ようやく、負けいくさの手勢を合して、兵庫の魚見堂へ、一族の諸将が落ち合ったのは、乱軍四日めのこと
「病のため、兵庫から御陣を離れて、近江へ帰るのだと申す道誉が、途中、双
だらけな洛内なのだ。――その中へ過日来の兵庫からの凱旋軍が、何万となく入りこんで、各※勝手屯に、空地や
の才覚。またぞろ尊氏の非運をみるや、尊氏をすてて兵庫から脱陣したものの、京を通らねば近江へも行くことならず、
の目に、さようなことに映りましょうか。御軍は兵庫に大捷を博しており、尊氏は遠く筑紫へ落ちのびている敗軍の人。…
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春倫の一隊が味方にはせ加わり、どうやら月の末、三河国の矢矧についた。
のこと、京都発足いらい七日目の八月八日、三河国に着いた。
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「いやいや、それが大津越えにかかる頃は、尊氏を慕うてあとより追っかけ加わる勢もおびただしく、いつ
後陣はまだ大津相坂の関
由来、洛内攻めには、いつも近江路と大津の中間、瀬田川の瀬田ノ大橋、また宇治川が、攻守決戦の境になる
陣小屋。たちまちそこは火の海となり、官軍はぞくぞく大津、坂本方面へと退却し出した。しかしこのむりな突破に払った足利
だろうが避けてはいない。――つい嶺の南、大津の三井寺は、由来、叡山とは何事につけても反目していた
「船はないか。叡山はここから見えるが、瀬田、大津は敵の陣地だ。一刻も早く、これを彼方の行宮へ知らせたい
はこの日のことである。この正月十六日合戦は、大津合戦とも当時呼ばれた激戦だった。
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ひかない川の渡河になやんだ。が、ようやくのこと、京都発足いらい七日目の八月八日、三河国に着いた。
「梅松論」がいう――当夜、矢矧ニ御着アツテ、京都鎌倉ノ両大将御対面、久々ナル御物語リ、尽クトモ見エズ――
がどうかしている所だ。兄者を待つ窮地とは京都のことでしかない。そんな危地へわれらの棟梁をやってはならん
京都へ赴くあり
たのだ。九州諸党の多くは朝廷の召しに応じて京都へ出ていた。――大友貞載、上島惟頼、阿蘇惟時、菊池
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千葉ノ介貞胤
、まっさきに来て、ご警固に付き、新田の諸侍、千葉、宇都宮、そのほか戦線から脱落していた軍兵なども、北白川から志賀
はや三井寺には黒煙があがっている。――一番、千葉ノ介高胤、二番、北畠顕家、三番、結城宗広。四番、
では、新田の重臣、船田ノ入道義昌が戦死し、千葉ノ介高胤、由良新左衛門なども、巷に仆れた。
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宇都宮公綱
に来て、ご警固に付き、新田の諸侍、千葉、宇都宮、そのほか戦線から脱落していた軍兵なども、北白川から志賀越えへ
浜をひだりに御影街道へ急進をしめしており、脇屋、宇都宮の二軍も伊丹野から西へうごき出で、さらにそのうしろには、
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いまの宮城県宮城郡多賀城町市川、岩切駅の東一里で、仙台から松島へ行く塩釜街道の途中にあたる小山である。
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「ここはよい。ここはよいから上野(太郎頼勝)の隊と、仁木(三郎太義照)の隊は、川の
鎌倉口まで先陣をつづけたが、しかしその道誉には、上野と仁木の二部隊が付いていた。軍監として、彼を督戦
一つ 臣義貞が上野の旗上ゲは五月八日であり、尊氏が宮方へ返り忠して六波羅
世良田、羽川、一の井などの諸将いずれも越後から坂東上野の出生者だった。
大族があり、やがて白河を越え、雪もうすらぐと、上野地方から新田与党の参陣もみえて、兵は五千余騎に達してい
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大宮の彼岸所に御座あれど
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脅威的なものは、有馬越えから六甲の中腹を通って住吉川へ出て来ようとする一軍の敵もみえていたことである
泰、師泰。山の手へ向え。おおっ、細川定禅も、住吉、岡本の辺を踏んまえて、有馬ぐちの敵をふせげ」
「四天王寺を中心に、難波、住吉を二日ほど見て歩くうち、こう仰せられておりました。……
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直義の軍勢が、今朝、由比ヶ浜から西へ立つはずである。それだな、とすぐ覚る。
かくて由比ヶ浜を西へこの一勢が急いだときは、老兵童卒を加えおよそ六
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新田義貞が鎌倉攻めのさいに稲村ヶ崎で剣を龍神へむかって投じたという、いわゆる“龍神伝説”は、