随筆 新平家 / 吉川英治
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熱海にいても、つい近くの伊豆山神社には一度も行っていない。頼朝と政子を書いたころには、九州
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ないが、熊野川数十キロの水は、どこか、中華の江南にも似て、Kさん、Oさんのジャーナリスト神経も、ここでは居眠るほか
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。とにかく、愛すべき飯盛山のお婆さんではあった。若松市の名物婆さんとして市は可愛がってあげるがいい。
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たちの専門家的知識に傾聴する。まず、純紀州犬は和歌山県にも近来何匹もいなくなったという話。鑑識法としては
峡の絶壁は三断していて、奈良県、三重県、和歌山県の三県が、一水をへだてて対い合っているのだとある。だから旅館
。だから旅館も、母屋は奈良県、奥の別館は、和歌山県だ。ぼくらは、奈良県の間で弁当をつかう。
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氏やほか数氏と、平家史蹟巡りの旅行の途中、厳島神社で例の平家納経を見、また清盛、頼盛両筆の無量寿経に、彼の
でおもしろいと思ったのは、あんな山岳中の山岳に、厳島神社が村社として祭られているということである。平家の氏ノ社で
に、荷物をおいて、お茶をひと口、すぐにまた厳島神社へと歩く。明朝の時間がないからとのこと。権宮司の田島仲康氏
も、ひとつの僥倖があった。両軍のあいだに、厳島神社の周辺を、平和地区と規定する条約が交換されたのである。社殿、
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それに何万本とも知れない大根が干してあった。伊勢平野の夕日に染んでそれは壮観でさえある。“大根干し”の季題をおもい出し
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十二月の歌舞伎座では、その清盛を寿海が演る。こんどは「ちげぐさの巻」の
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は急に、平家の氏神とする厳島参詣に出かけた。加茂もあれば男山もある。それをはるばる厳島まで行って参籠し、厳島の
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従来の古典や戯曲だと、須磨ノ浦で熊谷直実と組んで討たれたあの一章にしか敦盛の名は出て
なくぼくらの自動車は、神戸駅発の夜行へ急いだ。須磨、舞子は墨のような松風だった。ぼくは時々、氷砂糖のかけらを口
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、彼の父忠盛の所領も、また、みな播磨だの安芸だの備後だの、ほとんど、西国の海道にあったからだ。当然、清盛
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塩釜、松島を経、石巻から小汽船で金華山に渡り、帰路は山鳥の渡しをこえて牡鹿半島を縦断し、本線へ出
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にいて、自然児ぶりを振舞っていた源九郎義経は、熊野の新宮に叔父がいるのを知って、牡鹿の港から熊野通いの船に
も、紅白二つの地でない所は尺地もない。熊野も平家勢力と地下源氏の相剋の外にある仙境などではあり得ません
北会津でも、北越でも、熊野、その他の渓谷でも、平家村といわれるところ、近来、すべてといっ
、熊野史の方に見られるのであります。行家が熊野出身の人物ですから、郷土史のその項に、三河蒲郡の居城をもったこと
熊野をひきあいに出したのは、梛の大木を見たからである。新宮の
兄の維盛は、屋島を脱出して、高野をさすらい、熊野の海で投身した。歌よみの才媛、右京大夫ノ局(以前、建礼
これは旧冬、伊勢、志摩、南紀、熊野、那智、大阪、神戸界隈までを誌上にすませた先の史蹟紀行の後半を
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熊野川を渡る。長橋を堺として、都会の屋根。新宮市は、もう、宵の灯、賑わし。
このクリスマス休戦は、もちろん堺の宣教師が、両軍中の切支丹武士に呼びかけて、あっせんの労をとったもの
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月末、大阪へ行く途中、名古屋にも寄る約束になっている。やはり朝日主催の同地における茶道文化方面
▼名古屋では、杉本氏のアトリエの新築が成ったので、それかたがたお伺いし
氏、O氏。東京駅を発、その日の午後に、名古屋の朝日新聞名古屋支社で挿画の杉本健吉画伯が「ふわァっ、は、は、は」と特徴
て、例のごとく名古屋文化是々非々談、二時間ばかり。この名古屋には今、平家琵琶の古曲を語る日本でただ二人のうちの一人という
ない。「あいつ、ほんまに、しょうべんをしよった」と名古屋の海潮音氏が、紙面の海潮音の欄で毒筆をふるわないうち、先
は昼もおろして、しんと眠っているような田舎町ばかり。名古屋、東京の音響や時潮を頭にえがいて見て行く。こういう旅を
このフレッシュな洋画家には、名古屋の家に、まだ健吉画伯を健坊としている老母がいて、こんど
名古屋から車窓の近江路
けれど、翌日の五月三十日の名古屋は予想外な好天気にめぐまれ、朝日主催の中京各流の茶道大会は、鶴舞
名古屋には平家琵琶の井野川検校が古典を伝えている。この日も古式の服装
梅雨雲や名古屋は五分間停車
名古屋は健吉さんの郷里なので、市の図書館の壁画から駅長室の壁間と
幾年か前に志賀直哉氏が名古屋へ来たとき「名古屋って、ひどく暑いところだね」といったのを、
幾年か前に志賀直哉氏が名古屋へ来たとき「名古屋って、ひどく暑いところだね」といったのを、いまだに気に病んで
を、いまだに気に病んでいて「あの日は、名古屋だけがなにも暑かったわけじゃなかったのに」と、弁解に努めるほどな
一としきり、本誌の“日本拝見”でもうすんでいる名古屋雑感になっていた。
「ひと口にいうと、名古屋は途方もなく平べったい都市だな。その平べったい名古屋に、例のお城が失くなっ
いうと、名古屋は途方もなく平べったい都市だな。その平べったい名古屋に、例のお城が失くなったのは、へんに淋しくない?」と、
「そうです。名古屋のヘソが失くなったようなもんです。名古屋のヘソは、あの象徴でしたから
「そうです。名古屋のヘソが失くなったようなもんです。名古屋のヘソは、あの象徴でしたからね」
しかし春海氏にいわせると「名古屋は焼け効いがあった」そうである。「東京は戦後の道路政策に無能
ある。「東京は戦後の道路政策に無能だったが、名古屋を見給え、百メートル道路など、道路だけは東洋に冠たるものにした
美術館とならんであれだけは自慢できると思いますよ。よく名古屋の知性度を低いと人はいいますがね」
と、パチンコ産業のみが名古屋にあらざるの弁を一しょになって振ってやまない。
の統計でしたが、なんでも、抹茶の使用量は、名古屋だけで、一日五十貫ということでしたが」と、松尾宗匠の話
これの好評に気をよくしたものか、名古屋からの車中でも、春海宗匠はしきりに駄句を案じては、ぼくらの同好
のストックを作るため、体に無理をして出るし、名古屋の疲れも加わっていた。また、胃腸は年来の弱点なので、夏
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に院宣をうけ、同月の中旬頃には、義経はもう摂津の渡辺(大阪)まで、行動を起こしているはずだが、それから約一
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の慣いでさえあった。法性寺関白、河原左大臣、宇治の平等院など例は枚挙にいとまもない。
その頼政越えは、劇作家で宇治にいる林悌三氏が先に調べて、当年の史料を辿り、絵図面まで作っ
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切らせ「さ、降りるんですよ、ここ、ここ」と大倉山下の宵の人を避けて立つ。サントスのドアを押す。煙草のけむりもう
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も、義仲を繞る女性は四人もかぞえられる。ほかに上野国で獲た若菜という女性を誌す地方史もあるが、どうであろうか。
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も、庶民の持つ物語的な夢は尊重しましょうよ。須磨海岸には、須磨寺も風致の一つですし、そこの浪音には、熊谷
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〔有盛〕小松資盛の弟、丹波の少将とよばる。
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だといっても、近ごろの石造美術マニヤときては、大同、雲崗あたりの石仏の首すら運んでくる。大事にしてくださいと、よけい
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てきた。県境であり、山道中第一の高地、山王峠で、二十分間休憩。
山王峠の紅葉には、瞠目した。特筆に値するものだが、さて紅葉なんて
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この峡谷から奥日光へかけて、平家の落人が住んだという伝えがあり、それで来た
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遠景や藤原信房を大将とした鎌倉勢が、九州から鬼界ヶ島へ残党討伐に派遣されたりしているのである。平家は亡んだが
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けれど、当夜はまだ覚らず、帰りは途中から歩いて、三条、京極とあの辺を、子供のお土産にと約束した京の絵日傘を探し
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たのか想像もできない。殊に、それだけの人員やら熊野三山の大衆がこの地方にあふれた時、どんな景観が、この狭い山間に現出し
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らしい。今年は安徳天皇の入水七百七十年祭にあたり、先ごろ下関の赤間宮で大祭があったとか。平家が長門の壇ノ浦で亡んだ後
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、白雲のまま、流水のまま、弟子西住と別れて、みちのくの旅から、この秋、都へ出ていました。
ここにまた、一年余りを、みちのく平泉の藤原秀衡の庇護の下にいて、自然児ぶりを振舞っていた源九郎
ふつうの東北方面への旅行を除いて、いわゆる“みちのく”らしい旅を味わったのは、前後二回であった。一度は菊池寛
七巻には、鞍馬の牛若が、京を離れて、みちのくの平泉へ行きつくまでの経路が主題をしめているが、今、装幀され
この巻の見返しの色刷り、京からみちのくまでの図は、杉本画伯に、二度も描き直してもらった。読者の代弁
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大物ノ浦の遭難後、追捕の兵に追われて、吉野の奥にかくれ、そしてまた、別れるまでの約七日間、二人は完全に二人
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佇む。六甲、摩耶などの山つづきである。麓に、祇園神社があるわけもうなずかれる。視野を、清盛が経営した大輪田ノ泊の築港
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また奥州の金商人吉次(一書ニハ五条橘次末春)という人間の素姓も不明で
奥州の藤原秀衡にしても、理由なく、牛若の成人まで留めておいたと
鞍馬から奥州まで、一抹の航跡を曳いて、また忽然と、熊野船で、紀州方面へ
春、金売り吉次に誘われて、山を脱走し、ついに奥州へ奔ってゆく。
平家の筆者も持っていた。それはそれ以前の、奥州の安倍貞任を捕虜として殿上人が庭へすえたとき、梅の花を
の彼はここで頼朝から足止めをくい、数年後、奥州で最期をとげると、死してはまた、その首を美酒に漬けられて
は、よほどでないと、歴史面に出ていない。奥州の藤原秀衡の許へ、鞍馬の牛若を連れ去ったという金売り吉次などの名
村の福昌寺に、例の、都から義経を奥州へ連れて行って、藤原秀衡にひきあわせたという――盛衰記や義経記で
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宿命といえば宿命、彼も頼朝のために、一ノ谷、屋島、壇ノ浦までも、先駆を勤めなければならなくなる。けれど、義経のばあいは
代官として義経の中央進出、義仲の最期、一ノ谷、屋島と展開が待っているので、ここだけに精写を尽しきれないので
平家」は、軍記が主ではないから、やがて一ノ谷、屋島、壇ノ浦と書きすすむにしても、ただちに次回から一ノ谷を書くようなことはない
と思う。ぼくは従来の定石を破って、逆に、屋島の平家側から、一ノ谷、鵯越えを書いてみたいと思っている。つまり
屋島は、要するに平家の「玉」囲イといっていい。玉将はいうまで
帝である。一ノ谷で前線を破られた形だが、屋島の玉囲イは入念を極めた。宗盛以下の金銀桂香までがかためており
がまったく乏しい。断然、水軍では平家がすぐれている。屋島へ懸るにもカカリ手がない立場に義経はあった。当然、彼は自分
けれど、じっさいの合戦は、一ノ谷でも屋島でも、また壇ノ浦でも、事実、二日か三日の短い戦闘に過ぎ
なぜ、といえば、一ノ谷でも屋島でも、平家はいつも源氏の引っ立て役に出て、敗ける道具にしか使われ
たとしてその勇気や決断を讃えてやまないが、屋島にも同じ台風があったという同情はちっとも書かれていない。
、あの通りとは考えられないことである。そのため、屋島前後は、ほとんど、ぼくの創意をもって創作として書いた。しかし、
、小松重盛の次男。新三位中将。兄の維盛は、屋島を脱出して、高野をさすらい、熊野の海で投身した。歌よみの
、またひっ返して、高松から今度は反対な方向へ一走、屋島、壇ノ浦その他を歩き、夜の十一時に、別府行き“こがね丸”へ
ひとまず帰る。みな、お腹がへっているのと、これから屋島、檀ノ浦をひかえている時間の忙しさに、一つ寄せ鍋を囲みながら、宿
頃は寿永二年の平家都落ちから始まって元暦二年の屋島、壇ノ浦までの戦史を、読むように、しかも、歴史に誤謬はあろうと、
、平家の人々が、歴史に示されているように、屋島や壇ノ浦や、また赤間ヶ関あたりの海底へ、一門ことごとく、死に果てたものとは
、人間の生命を基底としての社会を観るなら、屋島、壇ノ浦は、決して平家の消滅ではないのである。ただ、その生態を
一門が都の落去も、福原の焼亡も、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の末路も、あわれとも、優しいとも、人間宿業のかなしさとも、
なものはない。たれか、富士川の平家を笑い、屋島の宗盛をあなずる者ぞ。
平家の終りには、種直はその水軍を派して、屋島に参戦し、さいごの長門壇ノ浦に敗れ、後、捕まって鎌倉へ送られた
もっぱら雑談。――屋島の檀ノ浦と、ここの壇ノ浦と、ダンの字の相違如何、などという中学
そこで結論を報告すると、屋島のダンは、木ヘンの檀。こっちのダンは、土ヘンの壇。こういう
が壇ノ浦は、木にも土にも反りようはない。屋島は木、ここは土としておこう。一つにしてももちろん異存は
も明白なように、彼らは、この地を守るべく屋島から行動して出たのではなかった。あわよくば、都へ進撃し、洛中
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―」とばかり石段を下りかける。すると、御陵管守が「白峯寺は、上の道ですが」と注意してくれる。御陵の横をまた少し
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いるが、江戸中期前は、土ヘンの坂だった。大坂城が余り落雷の厄に遭うので、宝暦ごろかに「これは坂の字
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蘇我ノ蝦夷、平群ノ鮪、蘇我ノ赤魚、押返ノ毛屎、阿曇ノ蛍
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そのほか遊歴中の事蹟は、不明である。しかしやがて、神護寺再興の発願のことから院庭で乱暴を働き、伊豆へ流されてから以後
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それでも、とにかくやっと探しあてたのが、目的の普賢院寂光寺。俗に、江口の君堂といっている遊女古蹟であった。
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ある。そして小屋の婆さんに訊くと、これから先の高尾山から藍那、淡河といった山中までも、まだまだ登り続きだそうである。
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へ掻き消えた牛若の義経が、時代の惑星であるし、房総半島から、武蔵野あたりに出没する草の実党の若い仲間も、まだ地表の物
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熱海で、仕事をしているが、たとえば、この附近の伊東、真鶴、石橋山、また箱根一つ向うの三島、北条といった附近に
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一週に二度ぐらいは、軽井沢の新コースをクラブをかついでまわっているが、病後の体は、特に腰
な虫声の闇と、落葉の音があるだけだった。軽井沢の町も、夏過ぎると、たちまち、旧中山道の一宿場みたいな淋しさに
この二た月ほどは、また軽井沢で仕事をしている。ここでの起居は半裸生活みたいなものだ。バンガロー
もう軽井沢も、夏場のそれではない。町の商店もみな閉まってしまい、撤退し
の切れっぱしのようだ。いや原住民の灯と落葉は、中山道軽井沢の宿である。原住民のほかに、喪家の犬もいる、わが家の灯一
て来る。いつか池島信平氏が、日本の位置と、軽井沢の犬とをむすびつけて、名文を書いたが、毎年の寒さをまえに
二度もこの地方の晩秋を見たので、何か軽井沢の書屋と「新・平家」とは宿縁のふかい気がしてきた。
いうと、近所隣も、みな空家ばかりだが、夏の軽井沢は、人間離れどころではない。ジャーナリズム網も張られているので、雑魚
と御子息が、ことし山荘を訪ねてくだすった日は、軽井沢特有な霧小雨の日で、実彦氏の生前ばなしが出るたびに、未亡人の
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、国府あたりから、ようやく、山近く狭ばみ合ってくる。綾川の南の丘を指さして「鼓ヶ岡が見えます」と、川六の
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怪奇そのものだ。東国をはじめ、木曾、美濃、紀州、四国、九州など、まるで清盛の死期を予知していたかのようである。
わずかなまに、平家一門は、九州太宰府を落ち、四国へ移り、鎌倉の頼朝も、第三勢力の鋭鋒をあらわし、院の後白河は
うると思い、九州山陽の遠征軍に全力をそそぎ、おりおり、四国の河野一族などに呼びかける奇手を試みたりしていたのである。――
ちと旧事だが、十一月半ば、菊池寛の郷里の四国へ行った。高松市民協賛の下に氏の銅像が建ち、その除幕式に出
〔付記〕この稿、四国、九州、厳島などの全旅行のあとを書くつもりのところ、旅情童心、とかく
四国白峯の巻
歩いたのは十二月の中旬で、神戸から先は四国、九州地方だが、それでも雪を見たり凩に吹かれたりの、
行く予定の白峯や、屋島寺などを、眼にもとめる。四国という一陸体の全姿の上半身に、いちめん、雪雲が懸っている。
が、今は四国人でもあると自称する。それほど四国が好きですという。どうやら、ぼくらの方がよほど旅人らしい。そこで
「雨月物語」の筆者の上田秋成も、こんぴら詣りか、四国巡りの旅すがら、この白峯へ登ったことがあるように思われる。
夜空から白いものがちらついてくる。雪花らしい。雪花は四国の名物なのかしら。途中でアベックの二組三組に会う。こっちに、
俳人ということだ。カメラ風土記の取材では、足跡九州四国にあまねしという脚歴をもっている。「西部圏内なら、掌
有益以上、仕事の息ヌキにもなるところから、紀州、四国、九州、上方地方にひきつづき、その後また、会津北越巡り、伊豆半島散策、それ
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幸い、この五月三十一日には、大阪の朝日会館で恒例の愛読者大会がある。自分もそこで何か話すこと
月末、大阪へ行く途中、名古屋にも寄る約束になっている。やはり朝日主催の同地に
、同月の中旬頃には、義経はもう摂津の渡辺(大阪)まで、行動を起こしているはずだが、それから約一ヵ月余は、
させられている。たとえば、大風浪の中を、今の大阪から阿波の小松島市附近まで、わずか四時間で着いたことになっているが、
途中、中川駅まで同車して、大阪行に乗り換えた海潮音氏は、降りる間際まで「しょうべん、忘れては、あき
ッ仔は、まだ持っているか」「いやあれは、大阪へ四万円で売れたがな」「ほう。うちのは共進会で賞牌を
しばしば見、またよく蜜柑を食べ、五時何分かに、大阪の天王寺駅に降りる。社のY氏、H氏などと、ラッシュアワーの中で、
大阪の市街は、東京よりも、なぜか暗い気がした。通った街の
街の騒音にも性格がある。大阪の音と、東京の音とでは、何かちがう。朝、旅館の壁
朝、旅館の壁の中で、眼をさましても、大阪の音が、すぐ、耳へ混み入ってくる。
の音性までが、交響楽的に、東京ではなく、大阪の朝の音である。
Oさんは、午前中留守番。Kさん、大阪での会議すまして即日、東京へ帰る。そこで車内のうしろ側は、杉本画伯
だろう。市外の北郊へ向かっているのは確実だ。大阪特有な煙突とスス色の庶民街が、みぞれ曇りの下に見わたされる。朝
食べる方にも気をとられ、きょうの遺蹟順礼は、大阪近郊ではまず「江口の君の跡」一ヵ所にとどめ、午後は日いっぱい
あんな田舎が大阪の中に残っていたのも意外だが、こんな静かな、足利水墨画の
老いればとにかく、年下の尼さんなど、堤へ出れば、大阪も見えるのに――などと客たちの心もヒビアカギレに沁みてくる。
これは旧冬、伊勢、志摩、南紀、熊野、那智、大阪、神戸界隈までを誌上にすませた先の史蹟紀行の後半を成すものである
また、同行五人のうち、Kさんは大阪で抜け、あとは一行四名となる。すなわち杉本画伯、嘉治さん、Oさん
大阪発、宇野行き列車が、ゆうべ雨の中を遊び歩いた神戸駅のホームを今ゆるやか
と、ダンは木ヘン土ヘン、いずれでもいいわけだ。大阪のサカは、今ではコザトヘンと決まったようになっているが、江戸中期
国内程度では、地面が変った気がするだけで、大阪へ来た、九州へ着いた、という気もしない。巴里まで行ったら
が、いずれも一笑にだに値せずであった。そして大阪へ近づくにつれ、たれもそろそろ、会場の方が気がかりになり始めた様子に
発見はいいが、話題は一向まとまらない。そのまにもう大阪へ着いてしまいそうである。会場へ臨んでからではもういけないのだ
飲んではしゃぎ始めたものである。春海宗匠とても同様、まず大阪の一任をすましたというゆとりも出たせいか、
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、上陸直後、戦闘に移って、そのまま徹宵で今の高松市の近傍まで駈けつけ、またすぐ戦闘に移ったという点なども、肉体的、時間的
一路、自動車は、高松市へ引っ返す。ジープが道づれなので、こっちも快速が出る。所要およそ一時間
見晴し台に出る。そこの茶店から望まれる遠い高松市はもう街の灯だった。小松原の坦道を足にまかせてテクテク歩く。
崖の松木立を透かして、遠くの地表から迫ってくる高松市の灯の海のきれいさといったらない。なるほど、恋人と語るによいケーブル
人のいい抜け目と、情にもろい一面があった。高松市で会った酒好きのマックラウド氏が、杯を手に自身のことを「少しクリスチャン
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伊吹山らしい山影がうっすら遠くに見え始める。関ヶ原附近である。この辺の史蹟群は
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平泉の秀衡へ身を寄せてから後、義経は、熊野船で紀州の那智へ
専門史学家の間でも、義経が平泉から再上京して、洛内附近に潜み、今でいうゲリラ的な行動に出
ここにまた、一年余りを、みちのく平泉の藤原秀衡の庇護の下にいて、自然児ぶりを振舞っていた源九郎義経
この晩秋、杉本画伯は、平泉の中尊寺へ画材を探りに出かけた。自分は平泉地方は十年ほど前に
には、鞍馬の牛若が、京を離れて、みちのくの平泉へ行きつくまでの経路が主題をしめているが、今、装幀された一
中古東北文化を見直したくらいである。よく騒がれている平泉の中尊寺をめぐる藤原文化だって、ここにさえ、これ程な物があった
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頼朝は、伊豆に。牛若は鞍馬に。――今は平家勃興時代にみえて、また、
萌芽は刻々と、東方の野に兆し初めている。たとえば伊豆にある頼朝の成人です。また同じ伊豆へことし配流された僧文覚です
初めている。たとえば伊豆にある頼朝の成人です。また同じ伊豆へことし配流された僧文覚です。――さらにここにまた鞍馬の遮那
ふつう、平家の爛熟、凋落を機として、伊豆の頼朝が起ってからの源平時代となるのが、古典の定型となって
時潮の兆しと、人間たちの動きがあったか、伊豆から中央へ、視野を移すわけである。
頼朝をめぐる伊豆の一年は、ここに配流となって以来の彼が、十八年の青春
決行などで、ひとまず平家や都の方は筆を休め、伊豆に移って、頼朝の旗挙げが、ここ数回のテーマになる。
伊豆の挙兵は、もちろん頼朝が主題人物だが、政子という女性や、舅の
伊豆の頼朝が、二十年の配所生活を破って、東国の野に、源氏の
頼朝は平家に捕われて、伊豆の配所に二十年の歳月を、行い澄まし、北条時政の娘、政子に眼を
伊豆に頼朝が起ち、木曾に義仲の挙兵を見、富士川対陣の序戦におい
伊豆、木曾の同時旗挙げ。――後白河法皇と清盛との政治的争覇。木曾入洛。
神護寺再興の発願のことから院庭で乱暴を働き、伊豆へ流されてから以後は、また忽然と、史上にその事蹟をはっきりさせ
ちょうど、今春から、週刊誌上では、伊豆の頼朝と並んでその文覚を書きつつあるし、この陽春には、朝日新聞
自分は、今春以来、伊豆の熱海で、仕事をしているが、たとえば、この附近の伊東、真鶴、
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から神戸に入る。山手を東へ、生田区を一巡、生田神社で車を下りる。
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敦賀、倶利伽羅、安宅ノ関あたり、それらの北陸平家史蹟は、一昨年の秋
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、仕事をしているが、たとえば、この附近の伊東、真鶴、石橋山、また箱根一つ向うの三島、北条といった附近にも、
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この恵日寺にも、南都や比叡とおなじように、当時、数千の僧兵がいたものらしい。寿永元年、越後
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この晩秋、杉本画伯は、平泉の中尊寺へ画材を探りに出かけた。自分は平泉地方は十年ほど前にてくてくひとり
文化を見直したくらいである。よく騒がれている平泉の中尊寺をめぐる藤原文化だって、ここにさえ、これ程な物があったとすれ
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ものだ。東国をはじめ、木曾、美濃、紀州、四国、九州など、まるで清盛の死期を予知していたかのようである。彼の
わずかなまに、平家一門は、九州太宰府を落ち、四国へ移り、鎌倉の頼朝も、第三勢力の鋭鋒をあらわし
行っていない。頼朝と政子を書いたころには、九州や裏日本の平家村などよく歩きまわっていて、つい来そびれてしまった
、天野遠景や藤原信房を大将とした鎌倉勢が、九州から鬼界ヶ島へ残党討伐に派遣されたりしているのである。平家は亡ん
は立証されており、傍証としてなら、なお、九州の臼杵党や尾形党の分族が、当地方に移住しておることなど
〔付記〕この稿、四国、九州、厳島などの全旅行のあとを書くつもりのところ、旅情童心、とかく、道
南は、九州の山岳地帯、北は東北、北陸にまで、ままその末裔一族という小社会
恐縮する。この夜初めて、いやこの冬初めて、燈下に、九州名物の河豚を見る。東京を立つときから「九州へ行ったら」という約束
に、九州名物の河豚を見る。東京を立つときから「九州へ行ったら」という約束のフグだけに、たとえば逢曳の彼女の常ならぬ
の俳人ということだ。カメラ風土記の取材では、足跡九州四国にあまねしという脚歴をもっている。「西部圏内なら、
古城址だろうか。とすれば平ノ知盛が拠って、九州での再起を案じた所である。どうして平家が九州経略を主目的
たし、晩年には日宋貿易の上からも、彼と九州とは、唇歯の関係もただならぬものであったのに。
ある。事実、京都と宋国との交渉には、この九州の地に、何かのそうした機関と人材がないことには、到底
、仕事の息ヌキにもなるところから、紀州、四国、九州、上方地方にひきつづき、その後また、会津北越巡り、伊豆半島散策、それから伊那
地面が変った気がするだけで、大阪へ来た、九州へ着いた、という気もしない。巴里まで行ったら、さあ、どうだ
、その重要さは、ずっと後の延元元年、足利尊氏が九州に再起して東上のさい、楠正成が湊川を後ろに、この会下山から
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汽車時間までの間を、市中近郊一巡ときめ、まず若松城の城跡へ行く。
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たそがれ近く、京都へ入った足で、桂離宮を拝観する。茶家遠州の細心も、二度三度と見かさねると、やや
を逍遥する。ここだけは、戦災のあとなし。京都の桂離宮と、どこか造庭の手ぐちが似ている。桂離宮もほんとは小堀遠州
桂離宮と、どこか造庭の手ぐちが似ている。桂離宮もほんとは小堀遠州の造庭ではないから、桂式とでもいうのだろう
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大仏殿では、久しぶり観音院の上司さんにお目にかかる。大仏の肌に汗の見える日は雨の
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、寒雀みたいに一つ炬燵へ起き揃う。健吉画伯ひとり、室生寺へスケッチに行くため、早朝にもう出かけたとある。ここの支局長から、
鳥羽の海べの旅館に泊る。健吉画伯、室生寺辺は、かなりな雪だったという話。嘉治さんも東京以来かぜひき、健吉
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しれない。はからずも一軒家のあるじから、シャンハイ、ソヴィエト、ハノイなんて語を聞くと、何かあたりが見まわされる。思えば、ここの御亭主
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手初めに、同行数名と、叡山へ登り、将門と純友みたいに、洛中の屋根や山川を俯瞰してみた
いる。野性が武力を持ったら、どんなものになるか、叡山の山法師は、好見本である。
は、院、武門、旧勢力の公卿などのほかに、叡山や奈良に割拠する武装僧団という厄介なものがある。――この中に
だから、叡山といい南都といい、教団の中の生活も、じつはそうした人々が
しかし、一昨日は、叡山にゆき、三千院をたずね、大原の寂光院までたどって、清盛のむすめで
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においては、早くも平家の総敗退となった。鎌倉の新府には、手斧初めの声高く、黄瀬川の夕べ、奥州平泉から
“時代の流れ”におくことをおろそかにしまいと思う。鎌倉の頼朝、義経、そして木曾義仲と書いて、一転、また都にかえって来
役の行家が、もうこの状態ですから、たちまち、木曾と鎌倉の仲には、もう分裂が兆し始めている。やがて頼朝が、同列の盟友
また、長門本平家物語だと、義仲が子の義高を鎌倉へ質子にやるとき、諸将士の妻女を召してわけを語ると、衆
異例でもなかったのである。平家の陣もしかり、鎌倉の頼朝の陣にも、同例があったのではなかろうか。
義仲の洛中突入を見ながら、鎌倉の頼朝が、二年余も、うごかずにいたのは、賢明である
頼朝のためにやっている下仕事に過ぎず、頼朝はなお鎌倉にいて「やらせておけ」と見ているだけの男であった。
に、平家一門は、九州太宰府を落ち、四国へ移り、鎌倉の頼朝も、第三勢力の鋭鋒をあらわし、院の後白河は、義仲、行家
巴は、後に捕虜となって、鎌倉へ曳かれ、和田義盛へ再婚する。これは吾妻鏡にもあるので、
、巴の東下説(盛衰記などにある美濃路へ落ちて鎌倉へ行ったという説)は信じられない。義仲と大津で別れ、北陸へ落ち
は、つまり丁の字を三ツ組み合せた巴の隠語で鎌倉を憚ったものであろうと考えられる、と。
前掲のように一人で北陸へ落ちたというのや、鎌倉へ曳かれたというのやら、幾種類にも異っている。
の異説も、終りは妙に一致している。後日、鎌倉の森五郎に預けられ、頼朝は死を宣したが、和田義盛が彼女の
父性もない人間に書かれてきた。夫婦共に、鎌倉へ人質として取られている一子の志水冠者義高(十二歳)の
の出来事だったが、この大捷報が、即刻、京から鎌倉へ早打ちされたことはいうまでもない。
吾妻鏡によると、この飛脚が、鎌倉へ着いたのは、一月二十七日の未ノ刻(午後二時)と
、彼が知りながら見遁してやったため、後に、鎌倉へ召されて重用された人物である。
――当然、義経との不和が生じ、また、讒言が鎌倉へ飛ぶということにもなる。
なぜならば、鎌倉同僚間の彼の不人望がそれを証しているし、頼朝が死んだ後
なかった。――とにかく、義仲を仆して、都入りした鎌倉の勢力にも、もうその日から、後の非業や亡兆が約束され
あるが、公達として、生きて都に送られ、鎌倉の頼朝の面前にまで曳かれた人は、平家方の大将ではこの重衡
源氏側の“王さま”は、もちろん鎌倉の頼朝である。この“王さま”は序盤からちっともその位置がうごいてい
、鵯越えで戦死。盛国自身は壇ノ浦で虜となり、鎌倉に曳かれ、後、絶食して死す。
ていたのである。――後、静は捕われて鎌倉へ曳かれ、鶴ヶ岡神前の舞で気を吐くが、そのときすでに妊娠っており
た社会の出だが、義経以外の男性は知らない。鎌倉に監禁されている間、一夕酒の座に侍らせられ、梶原のドラ息子
人も知る鶴ヶ岡では、頼朝夫妻から鎌倉大小名のまえで、義経を恋いに恋う想いを、怯みもなく舞って歌う
妻以上な者だった。だのに、その静が、鎌倉に囚われているのに、救い出すことも出来なかったのだから、男とし
。なぜといえば、義経の衆望と力は、充分、鎌倉と戦いうるだけの地歩は占めていたし、また、機会もなくはなかっ
ない。しかし、月日などはともかく、この事実は、当時の鎌倉にも、景茂みたいな戦後派が、もう簇生していたことがよく分かって
三三一回の「非情有情」の章である。▼静が鎌倉で産んだ子は、男子であったため、頼朝が、これを殺させた
鎌倉を中心とする頼朝その他の源氏がわの遺蹟は、京、近畿、西国の
文化の差であろう。文化においては、平家文化は鎌倉のそれよりも、たしかに、ずば抜けた遺産を歴史の土壌へこぼして行った
仏心即商魂は、なるほど辰野さんの随筆になりそうだ。鎌倉の久米先生、今先生、小島先生などみな来たって文字どおり酒池肉林の煩悩を
青葱を入れながらここの仲居さんたちがおうわさする。ただし鎌倉の悪源太や老武者たちも、この平家発祥の地においては、やはり余り
た。ところが、たれか知らん、しかも同日、法皇は鎌倉にある頼朝にも優詔を与えて、これをお召しになっておられ
に参戦し、さいごの長門壇ノ浦に敗れ、後、捕まって鎌倉へ送られたが、十二年後に、頼朝から赦されて郷里へ帰った
もなかなか楽しいことであろうと思われる。聞けば、前に鎌倉にいて、鎌倉文化人のたれかれには、旧知の人も多いという。
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源氏の族党の多い――そして源氏の地盤ともいえる関東地方などへ流してやる必要はないということだ。この厳島へでも持って
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紀南の都市は、例の大震火災で、ここも戦災復興の最中かとまちがわれる
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この初旬、病後の初旅を吉野山へこころみた。ちょうど小説の執筆も近く義経と静の吉野隠れに入るので
、八年前、花は見ていたが、青葉の吉野山は初めてでもある。それと六月二日の大阪朝日会館における読者
における読者大会への出席をかね、奈良附近、吉野山、京都というスケジュールで六日間の旅だった。
彼女の受胎日のころを考察してみると、二人が吉野山に隠れていた七日間以外には、その契りのあった機会は考えられ
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。そして京阪間を駈け巡り、屋島、壇ノ浦、別府、下ノ関、厳島とあるき、終りは、音戸の瀬戸の清盛塚という長旅行であるそうな
にも、とりどり男女の情事もなかったとは限らない。厳島の“厳島の内侍”といったような熊野巫女もたくさんにいたので
とりどり男女の情事もなかったとは限らない。厳島の“厳島の内侍”といったような熊野巫女もたくさんにいたのである。煙村
男山もある。それをはるばる厳島まで行って参籠し、厳島の内侍たちを巧くつかって、自分の失意悲嘆が、遠まわしに清盛の耳へ
は、なんと文化的な楽園の海に変ったことだろう。厳島の構想は、いまでも世界的なものだが、じつは百鬼跳梁の海に
ここの厳島の内侍を、清盛は福原の別業へまで連れて行っている。眉目美き
などと見えるあたり、厳島参詣の一つの魅力は、この内侍にあったにちがいない。
日ごろに、厳島の美と価値とが、彼ら武人にも、正しく映じていたことが
が、厳島ほどな“美”をぼくらの世間で創造できるだろうか。それは出来も
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当夜はまだ覚らず、帰りは途中から歩いて、三条、京極とあの辺を、子供のお土産にと約束した京の絵日傘を探して歩い
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ほどの価値があるかないか」「田染へ行ったら、由布院へは、行かれませんが」
た敗軍平家の一群があったら、山を越えて、この由布院へも入って来たろう。そして九重を経、五箇ノ庄や椎葉方面などへ
・平家物語」について各家の各評を伺う。由布院の自慢ばなしもさっそく出る。瀬戸内海と平家との関係に話題は傾く。中で
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以仁王と頼政の宇治川の敗れ。また、清盛の福原遷都の決行などで、ひとまず平家や都の方
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た後も、格別な待遇をうけたり、助命されて能登に生涯を終わっている点など見ても、彼が壇ノ浦で、内侍所(三
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その武吉さんから馬史の古写本など送ってくれた。神楽坂の松ヶ枝女史と共に、近ごろの消息はとんと聞かない。聞くときは
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塩釜、松島を経、石巻から小汽船で金華山に渡り、帰路は山鳥の渡しをこえ
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の関係は、種直が北九州の豪族であり、また代々、大宰府の吏であったことを思えば、当然、親しい交渉をもったであろう。
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植民地の切れっぱしのようだ。いや原住民の灯と落葉は、中山道軽井沢の宿である。原住民のほかに、喪家の犬もいる、わが家の灯
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大阪朝日の学芸部長ころ、連載中の貝殻一平を書きつつ高野山の高室院にいたことがある。ある日、寺僧が庭のぼたん杏を
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。しばらく動かず。外套の襟に首をすくめながら夜空の朝熊山を見て佇む。十余年前、武蔵を書いていたころ、登ったこと
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ここで峡の絶壁は三断していて、奈良県、三重県、和歌山県の三県が、一水をへだてて対い合っているのだとある。だ
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三笠宮さまも毎年借家のようではあったが、ことしは三笠山の中腹に三、四十坪の学究の書屋らしい建物を作られた。そこへ
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たもので、横浜のアメリカン・カラーとはおよそ対蹠的な関内の美妓が座をあっせんしてくれた。老先生は、六十余年横浜の
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伽羅村の浅井孝雄氏から報らせてくれた。金沢市や富山市あたりから日帰りのハイクコースにもいいので、当日は近郷中の雑踏をみせ
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大原の寂光院をたずねてゆく。ぼくの住む吉野村ではもう散り終えた梅が、大原
中宮、幼帝安徳天皇ノ母)が壇ノ浦の後、ここの寂光院に、三十の若さを送ったのは、あわれである。与謝野晶子女史の
おととし一遊した大原の寂光院の小松智光尼から便りをいただいた。建礼門院のゆかりもあるせいか、ひどく
一昨日は、叡山にゆき、三千院をたずね、大原の寂光院までたどって、清盛のむすめであり、また、安徳天皇の御母であった
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のだそうである。源如というのは、きっと、道成寺の釣鐘の中へ逃げこんだような、きれいな若僧だったのだろうと思う。
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一五二六年(大永六年)のクリスマスには、堺市の内外で長年、対戦中の三好党と松永党の両軍が、まる二日間、
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に殺されたという口碑と墓のある土地は、不破郡関ヶ原村山中の峠口の北にあたる路傍らしい。その墓は、先に尾崎士郎氏が
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のお問合せがありましたが、蒲冠者範頼のいた浜松市近郊の遠江の蒲村とはちがいます。よく混同されますが、三河の
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のことであろう。――道はやや高原をゆき、やがて由布院盆地へ降りてゆく。その降りへかかりながら、捏山、太郎嶽などの内ぶところを
由布院盆地の聚落は、また温泉聚落といってもよい。田にも川にも沢
も真似る。「ほんとだ。ちょうどいい」――もって、由布院盆地の人情、経済、この旅館の居ごこちなど、およそ卜すに足りるといったら、
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大家族部落と、合掌づくりの屋根で名だかい白川村へ行った。白川の一夜など、忘れがたいものがある。
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ここの常設美術館の建築を参考に見てゆくという。名古屋市でもいまその懸案があるための由。ぼくらはお先に出て公園
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、鹿ヶ谷事件の露顕した後、俊寛僧都と一しょに、薩摩の孤島へ流されたが、都の老母をわすれかねて、千本の卒都婆を
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と、ここで峡の絶壁は三断していて、奈良県、三重県、和歌山県の三県が、一水をへだてて対い合っているのだとある
対い合っているのだとある。だから旅館も、母屋は奈良県、奥の別館は、和歌山県だ。ぼくらは、奈良県の間で弁当をつかう
は奈良県、奥の別館は、和歌山県だ。ぼくらは、奈良県の間で弁当をつかう。
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、サキニ信頼ヲ寵シテ平治ニ乱アリ、マタ成親等ヲシテ鹿ヶ谷ニ会セシメ、今マタコノ事ヲ見ル、禍乱止マルベカラズ、清盛ノ跋扈モヤムヲ
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白川村から富山県へ抜ける五箇山のコースは、旅行者はまだほとんど通らないコースである。ちょうど、椿原
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平家重代の刀、抜丸烏丸の名刀は、忠盛が、鈴鹿の山賊を討って、賊から獲たものだと伝説じみているが、史書
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、妓王と仏御前との一情話が、今もある祇王寺の遺蹟と共に、名高いものに聞えております。けれど、古典のそれは
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対岸の高松が見えてくる。明日行く予定の白峯や、屋島寺などを、眼にもとめる。四国という一陸体の全姿の上半身に、
屋島寺から壇ノ浦の巻
屋島寺を訪う。
風花にちら/\帰る屋島寺
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た。去年はぼくが帰った後も、梅原氏はまだ浅間の雪と紅葉を見つつ居残っていたらしい。ことしは、どっちが、しんがり
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が、この辺はもう武蔵野のつき当りといってもいいほど秩父、多摩山岳へ寄っているので、中央沿線や都心の文化とは、まったく
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浜の市と並び称された牛馬の市で、そこの賀茂神社には、いけずきを繋いだカヤの木もあり、旧長州藩主の、いけずきを
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鈴鹿山、関附近の山地から、伊賀へかけても、平家の一族は、多かったらしい。平家重代の刀、抜
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通って、例の大家族部落と、合掌づくりの屋根で名だかい白川村へ行った。白川の一夜など、忘れがたいものがある。
白川村から富山県へ抜ける五箇山のコースは、旅行者はまだほとんど通らないコースである。ちょうど
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たが、他は意にも介しない彼でした。すでに福原の開地は着工させ、大輪田ノ泊の築港を計画し、日宋貿易を将来
がしたくなって来たらしい。古典・平家物語では福原落去から壇ノ浦の終わりあたりにならなければ、都以外に余り話が出て
荒涼として、飢民の土小屋に煙さえ立たず、福原の雪ノ御所なる入道相国の夢も、夜々、安からぬ風浪の上であっ
神戸市内の史蹟は、三年ほど前、清盛の福原創業を書く前に、一巡したことがあるが、こんどは、京都から義経
のそうした半面は、ほとんど、没却されている。福原の雪ノ御所は、彼の単なる逸楽と、政治的な逃避場所にしか書かれ
ほど、内容は、東国の頼朝中心のうごきと、京、福原における平家晩鐘の中の話とが、ちょうど、半々になっている。
彼の一門一族はみなここの傾斜地に門をならべた。福原の都市設計は、その規模では、京都より小さかったが、そのころの風光
ある。そして彼の将来は、淀の河尻にも、この福原の地にも、別邸を構え、ずいぶん外交的手腕もふるったらしい。おそらく、想像
まいか。だからこそ、一門が都の落去も、福原の焼亡も、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の末路も、あわれとも、優しいとも、人間
ここの厳島の内侍を、清盛は福原の別業へまで連れて行っている。眉目美きひとりは、彼の寵姫で
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巴女のことに就いても、松本市の熊沢利吉氏やその他数氏から寄書をいただいた。熊沢氏のは特に
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さらに、山頂、飯盛山から市街一帯を望むところ、休み茶屋、お土産物屋があり、おもちゃの竹刀を売って
いる。香華をひさぎ、また、かたわら遊覧客を具して、飯盛山の一端に立ち、旧若松城から、スリ鉢底の会津平野を指さして一場の白虎
長い封建のせいにするかもしれない。とにかく、愛すべき飯盛山のお婆さんではあった。若松市の名物婆さんとして市は可愛がっ
飯盛山から猪苗代湖へ急ぐぼくら二台の車も、ばくばくと、ほこりをかぶりあって行く
それになお、いけなかったのは、前日、飯盛山の名物婆さんにお目にかかっていたことだった。お婆さんが声涙
飯盛山のお婆さんの話も半分は分からなかったが、この二古老の訛りはもっと
騒ぎまわらなかったという俚話が伝わっている。どうも、飯盛山のお婆さんといい、ここの二古老といい、今もって、何かそう
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清盛以下、平家のほかにはありません。――やがて六波羅の入道平相国となり彼の咲き誇らせた地上わずか十余年の間こそ―
“一門栄花”とかいわれた春が、一ぺんに六波羅へ来たわけではありません。この回の現在、清盛は四十四歳、
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車は狭い町幅を市街の北方の山へ向かってゆく。長田神社の横を、宮川に添い、明泉寺からは登るばかりで、やがて黄昏近くに
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戻され、義経も範頼も、能登守教経も、敦盛も熊谷も、みなパチンコ機械の中をグルグル巡りまわる一個一個の玉みたいに、
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、亡友三上於菟吉である。これも正月のことだが、赤坂の料亭で、史話猥談チャンポンの果て、「君イ。勉強はお互いにしよう
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の茶店から望まれる遠い高松市はもう街の灯だった。小松原の坦道を足にまかせてテクテク歩く。南嶺の東北端だという断崖の
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俵の借りがあった。そのころ、太田君一家も、奥多摩に疎開しており、窮余の策、山林関係の同君から、炭をまわして
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再興に燃える一群の天狗どもがあり、その天狗たちは、鞍馬の一稚子を擁して、ここ毎夜毎夜、僧正ヶ谷の闇へ誘い出している
鞍馬から奥州まで、一抹の航跡を曳いて、また忽然と、熊野船で、紀州
こんどの第七巻には、鞍馬の牛若が、京を離れて、みちのくの平泉へ行きつくまでの経路が主題を
面に出ていない。奥州の藤原秀衡の許へ、鞍馬の牛若を連れ去ったという金売り吉次などの名は、史上稀有な存在である
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敦賀、倶利伽羅、安宅ノ関あたり、それらの北陸平家史蹟は、一昨年の秋、ひと
倶利伽羅の第二次戦は、その安宅ノ関附近が戦場になるが、現今とは
を歩いた果ての嘆息であったろう。芭蕉ならずとも、倶利伽羅に立ち、安宅からこの辺を訪えば、たれもが、おなじ思いを抱くに
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。たとえば、大風浪の中を、今の大阪から阿波の小松島市附近まで、わずか四時間で着いたことになっているが、いくら追風でも
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やその他の諸本にしても、わりあいに、当時の関東は書かれていない。いまの東京都などは、まだほとんど、海浜か、沼沢
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、浅間山麓の地方で書いた。仕事の寸暇には、浅間高原だの碓氷へも登ったりした。時々こういう所に立って呼吸するの
やっと浅間高原にも、蝉の声が高い。今年は蝉も歌い出しが遅かったが、これ
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終戦後、金閣寺を焼いた一青年に、世間は、ぞっとしたが、その愚は、まだ
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範頼といえる。義経は、一ノ谷以後約一年ぢかく、京都守護の予備にとどめられ、角将といった役割に措かれている。
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、乃至、死所と称する地はじつに多い。京都以西、東北地方にまでわたっている。ところが、常磐御前には、再婚以後の消息もほとんど
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年増の女中氏、まめやかに、よく行き届く。嘉治さんの知人長岡の駒形氏をよく知っていた。この先の旅程でいずれお世話になるお人
ことで、宵の灯の下には、山後支局長やら長岡からわざわざ出て来られた反町栄一氏などが、あすのコース準備や、地方
、反町さんを東道に、次の越後路巡りを、まず長岡へ向う。
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京の雷と有馬の河鹿
さんの顔さえろくに見もせず、車に乗って、有馬へ急いだ。有馬では明朝、鵯越えから一ノ谷の史蹟案内をしてくださる
見もせず、車に乗って、有馬へ急いだ。有馬では明朝、鵯越えから一ノ谷の史蹟案内をしてくださるために、神戸市史
雨後の山坂を、ゆられゆられ、有馬の御所坊へ着いたのは、もう十一時近くであり、それでも、
障子越し硝子越しに有馬の河鹿哉
、朝とともに、内湯の温泉ツボへ行って沈みこむ。有馬特有なあの鉄泥色の湯にひたっている間は、うすら眠くなり、気分も
下痢を起こし、翌一日も止まないので、高野から有馬へ来、真夜中、有馬の湯の脱衣場の大鏡に自分のゲッソリした蒼白な
日も止まないので、高野から有馬へ来、真夜中、有馬の湯の脱衣場の大鏡に自分のゲッソリした蒼白な面を映して「これ
での笑い話だが、川辺氏はもちろんぼくら一行が、有馬を起点とし、丹波境から椅鹿、淡河、藍那などの山岳地を踏破
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なスケジュールである。――翁島からまた山野を飛ばして、磐梯山の東麓、大寺という山村にたどりついたころ、もう、どっぷり、日いっぱい。
なども、その組である。ここへ来て、初めて、磐梯山のすそにも、平安朝初期にこんな大規模な堂塔経営があったのかと、
振返ると、磐梯山と猫間ヶ嶽の山稜に、ほんのぽっちり、夕陽の色が、暮れ残っていた。
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熊野川を渡る。長橋を堺として、都会の屋根。新宮市は、もう、宵の灯、賑わし。
新宮市は、灯ともしころ。雨の中を約束の速玉神社へ駆けつける。社家の
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石川県倶伽羅村の浅井孝雄氏から報らせてくれた。金沢市や富山市あたりから日帰りのハイクコースにもいいので、当日は近郷中の雑踏
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また、義経、範頼たちの源軍が、生田川や鵯越えから、なだれ入った当時も、なおカムベの民は住んでいたろう
来たが、ほんとは、一ノ谷、須磨海岸から、駒ヶ林、生田川、そして山手の刈藻川流域一帯を、当日の戦場と見なすべきである。
(東方)生田川を中心とする源平両陣の衝突。
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塩釜、松島を経、石巻から小汽船で金華山に渡り、帰路は山鳥の渡し
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も、山姿すべて鮮らかである。雨後の朝陽が、市街の山の手から、一ノ谷、内裏跡、戦の浜などまで、手にとるように見せて
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良人、渡は、人の忌む凶相の名馬を飼って、仁和寺の行幸競馬に一瞬の功を夢み、ひとり則清は、沈吟黙想、交わりつつ、
すでに、新院は、仁和寺にかくれて、剃髪され、左大臣頼長は流れ矢に斃れ、日々数十人の
「ある人の、様変へて、仁和寺の奥なる所にあるを」「ある所の女房、世をのがれて西山に
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があるが、こんどは、京都から義経が進路とした亀山、篠山、小野原、三草などのいわゆる丹波路の裏を歩いてみたい考え
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淀川から神戸界隈の巻
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。松浦党は平家方であった。肥後の菊池隆直、筑前の原田種直、長門の紀光季など、有力な味方はある。殊に、清盛と
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た大輪田ノ泊の築港にまで馳せて、そのころの「福原京」の屋並や交通路などを、いまの神戸市の上においてみる。
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神戸市に一笑話が残っている。神戸港は平安朝時代に“大輪田ノ泊”と
神戸開港の恩人であるとして、昭和八年かの神戸市主催の「みなと祭」の仮装行列には、第一に、仮装の清盛を
ちょうど、滞在中の四月十三日には、神戸市で清盛祭が行われる。神戸の開港記念何十年祭かに当るらしい。
ころの「福原京」の屋並や交通路などを、いまの神戸市の上においてみる。
、会下山も再度山も鉢伏も鷹取山もみんな一連の神戸市背後の屏風としか見えない。
史話などを抹殺したら、それは大変なことですよ。神戸市の名所旧蹟が幾つ減るかわかりませんからな。はははは」
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侘しさにとらわれてくる。家郷千里ほどでもないが、熊野川数十キロの水は、どこか、中華の江南にも似て、Kさん、
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に大敗しているが、前の三井本家と共に、江戸から近世へかけて、伊勢商人ののれんを全国的に売った伊藤松坂屋などの祖
白峯紀行の西行法師のほかに、時代は江戸に下るが、「雨月物語」の筆者の上田秋成も、こんぴら詣りか、四国
話はちがうが、江戸初期のころ、家康が江戸へ入城したという風説が聞こえたときも、この地方では「家康が
いう風説が聞こえたときも、この地方では「家康が江戸までサ来なされても、会津退治に、ここサ来なされたら、その
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物語的な夢は尊重しましょうよ。須磨海岸には、須磨寺も風致の一つですし、そこの浪音には、熊谷と敦盛の連想
一ノ谷に来ていながら、一ノ谷を踏まないことだが、須磨寺はまず見ずともよしと思う。そして会下山と鵯越えときのうの展望を瞼
須磨寺へは行かないでもすむように、小説を書くのになにもいちいち実地を
氏、春海氏、Kさん、みんな帰って来たらしい。須磨寺の案内僧は、川辺氏の姿を見、「川辺さんがおいでなら、
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伊勢から熊野路の巻
、早朝にもう出かけたとある。ここの支局長から、伊勢と平家史蹟の関係など訊かれる。特に、行って見るほどな史蹟は伊勢に
の関係など訊かれる。特に、行って見るほどな史蹟は伊勢に求められないが、清盛の父忠盛は、伊勢の国産品村の出生といわ
史蹟は伊勢に求められないが、清盛の父忠盛は、伊勢の国産品村の出生といわれているし、祖父正盛も、その先の維衡
伊藤武者景綱だの伊藤五忠清などというのは、みな伊勢の古市の人々で、いまの宇治山田市の附近は、当時、平家色の
勘当され、しばらく、謹慎を命ぜられていた田舎も伊勢であったし、関の近くの三日ノ城址も、平家一族がいた
の三日ノ城址も、平家一族がいた所で、伊勢と平氏の関係は、優に一課題になるほどである。けれど、ぼくら
、豊原、斎宮などという町の家並が過ぎてゆく。伊勢らしい在所風景、どの家も、商家らしいのに、戸は昼もおろして、
いたことを考えると、驚くべき長コースで、志摩、伊勢をA字形に自動車と汽車で縦横走して、今夜中に、紀伊半島
ているように楽しい。ここで、ぼくらの車は、伊勢から紀伊へ跨いだわけだ。南へ向かって急速度に降りてゆく。お
これは旧冬、伊勢、志摩、南紀、熊野、那智、大阪、神戸界隈までを誌上にすませた先
人々を見ていると、これまで歩いて来た志摩、伊勢、紀州のどこの地方よりも、服装もよく、生活弾力ももっている。
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て来たらしい。古典・平家物語では福原落去から壇ノ浦の終わりあたりにならなければ、都以外に余り話が出てゆかない。いわば
建礼門院、高倉帝ノ中宮、幼帝安徳天皇ノ母)が壇ノ浦の後、ここの寂光院に、三十の若さを送ったのは、あわれ
その安徳天皇も、都落ちの時がお六ツであり壇ノ浦の入水はお八ツであった。「劇」だの「語り物」だの
途々には、手を焼かせていたことだろうし、壇ノ浦ではすでに八歳にもおなりだったから、「海の底には龍宮
いえば宿命、彼も頼朝のために、一ノ谷、屋島、壇ノ浦までも、先駆を勤めなければならなくなる。けれど、義経のばあいは、義仲
は、軍記が主ではないから、やがて一ノ谷、屋島、壇ノ浦と書きすすむにしても、ただちに次回から一ノ谷を書くようなことはない。一ノ谷
詩とも古来いわれている所だ。常識的によくいわれる壇ノ浦が、この「新・平家」の終りでないことだけはいっておいても
ついてのお知らせが多くなっている。これはきっと「もう壇ノ浦も近いのじゃないか」という読者の推読から来た現象であろうとおもう
ぼくは研究家でなく作家である。やがて壇ノ浦を書いても、そんな神秘な世界までは書かない。御神体めいた遺物の
なにしろ、壇ノ浦までは、まだまだ、だいぶぼくの風雪の道もかかるとおもう。ゆっくり読んでいただき
けれど、じっさいの合戦は、一ノ谷でも屋島でも、また壇ノ浦でも、事実、二日か三日の短い戦闘に過ぎないのだった。
の赤間宮で大祭があったとか。平家が長門の壇ノ浦で亡んだ後、女官たちが民間に落ちてさまざまな生き方をした風俗
屋島落ちの平家が、壇ノ浦に亡ぶ前、その途中、厳島へ立ち寄ったにちがいないということは、初め
中にその確かな史料を見出して近ごろ密かにうれしかった。壇ノ浦に近づくが、ひとり平家にかぎらず、人の末路を描くのは、胸傷む
というたれかの表現があった。この回以後、その壇ノ浦へ入るが、古来伝承のような「詩」として描くか、リアルな
壇ノ浦描写となるであろう。こんな不必要をあえてしゃべるのは、壇ノ浦の場面などは、将来、十人の作家がおのおのの角度から十種の作品を
を書いてもきっと面白いだろうと思われるからだ。それほど壇ノ浦は、つまり小説的歴史である。人間劇場の舞台に、時の最高な俳優
いってしまうことになるが、平大納言時忠の一女は、壇ノ浦の戦後、義経の室(妾)へ入っている。これは史実である。
能登に生涯を終わっている点など見ても、彼が壇ノ浦で、内侍所(三種の神器)の奉還に内応したといううわさが当時
平家の名は壇ノ浦で終わっているが、ほんとは亡び果ててはいない。一門ちりぢりながら、どこそこ
いる。――だのに、なぜ古来から、安徳帝は壇ノ浦で死んだものとして書かれているのか。貴下の「新・平家
生ましている旧日本兵の父親も現実にあるのである。壇ノ浦の平家人が、一門海のもくずになったなどと考えるのは、それ自体
」を書くほかはなく、秋燈の下に、今、壇ノ浦の前夜を描くにあたって、自分の中にも燈火の四辺にも、何
たれの兄弟という風に註をしてきたが、壇ノ浦では一門すべて寄り合うので、読者もその識別に煩われるものとみえる。
一子越中前司盛俊は、鵯越えで戦死。盛国自身は壇ノ浦で虜となり、鎌倉に曳かれ、後、絶食して死す。
壇ノ浦の顛末はこの回でやっと終わった。じつは新春早々悲愁な場面もどうか
その初志とは、壇ノ浦の使命終わって後、もう、二度とは、戦を避けたいと、ひそか
の象徴の中では、義経がいちばん書くに捉え難い。壇ノ浦までの彼と、後半の彼とでは、意気進退、別人の観がある
「新・平家物語」のさいごの場面は、やはり壇ノ浦ですかとは、よく人に訊かれることであるが、自分の今の考え
訊かれることであるが、自分の今の考えでは、壇ノ浦以後、椎葉山中のような平家村の生態までを、そしてある一時代に、
に生した幼帝安徳天皇を抱いて、争乱の世を、壇ノ浦まで追われたという女の生涯を、蒼古としてなお仄白い顔容の
山から那智にあるらしい。そして京阪間を駈け巡り、屋島、壇ノ浦、別府、下ノ関、厳島とあるき、終りは、音戸の瀬戸の清盛塚という
ひっ返して、高松から今度は反対な方向へ一走、屋島、壇ノ浦その他を歩き、夜の十一時に、別府行き“こがね丸”へ乗ると
屋島寺から壇ノ浦の巻
寿永二年の平家都落ちから始まって元暦二年の屋島、壇ノ浦までの戦史を、読むように、しかも、歴史に誤謬はあろうと、山容水
の人々が、歴史に示されているように、屋島や壇ノ浦や、また赤間ヶ関あたりの海底へ、一門ことごとく、死に果てたものとは、ぼく
に違いないと思う。元暦二年三月二十四日の長門壇ノ浦までを、平家時代とし、すぐ翌日から源氏の鎌倉時代とページを更える
の生命を基底としての社会を観るなら、屋島、壇ノ浦は、決して平家の消滅ではないのである。ただ、その生態を、社会
北陸、東北、近畿あたりの平家部落は、もちろん壇ノ浦の落武者ではあるまい。政権の一変と、以後の支配者の圧迫による地方
都の落去も、福原の焼亡も、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の末路も、あわれとも、優しいとも、人間宿業のかなしさとも、何か
飛沫を上げなくて、ぼくらも救われた。所は壇ノ浦の近く、とんだ建礼門院様に、アプアプお見送りをされたかもしれない
。門司市外の和布刈神社から、速鞆ノ瀬戸や壇ノ浦附近を、日の暮れないうちに見ようというわけである。
長門の壇ノ浦は、すぐ対岸だ。そこの岬とここの岬とで、海峡中、いちばん
が満珠島です。この対岸から、あの辺までを一帯に壇ノ浦といったのでしょうな。田ノ浦ですか。田ノ浦は、長門側にも、こっち
どうして平家が九州経略を主目的とせずに、壇ノ浦の殲滅をみすみす求めてしまったか。疑問の余地がないでもない。松浦
はその水軍を派して、屋島に参戦し、さいごの長門壇ノ浦に敗れ、後、捕まって鎌倉へ送られたが、十二年後に、頼朝
もっぱら雑談。――屋島の檀ノ浦と、ここの壇ノ浦と、ダンの字の相違如何、などという中学試験問題みたいな話もわく
防人の団がおかれていたものであろう。だから壇ノ浦のそばには火山(のろし山)の名もある。
、以後、コザトヘンの阪に革めたものである。だが壇ノ浦は、木にも土にも反りようはない。屋島は木、ここは土
が見まわされる。思えば、ここの御亭主も、亜細亜の壇ノ浦から山へ隠れこんだ一人にはちがいない。今様な落人殿に会ったと
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開港地横浜の千歳町にあった私立山内尋常高等小学校というのがそれである。奥様
、山内先生は教育界に努められること六十八年、いまも横浜の山手に、横浜女学園と小学校を営んでおられる。――残り少ない学窓
。席は、神奈川新聞社の好意で設けられたもので、横浜のアメリカン・カラーとはおよそ対蹠的な関内の美妓が座をあっせんしてくれ
座をあっせんしてくれた。老先生は、六十余年横浜の教育界にあって育英につくされて来たが、関内芸妓をあげて
はほんとに心配顔をする。なお訊くと、戦時中、横浜で戦災にあい、良人に死なれ、子をだいて、郷里の尾鷲へ帰家
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なり始めると、真っ黒に空が曇って来た。いったい、京都盆地の夕立雲には、一種特有な凄さがある。どう街が近代化され
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、ミス神戸たちこそ、災難である。程なく出て、栄町をあるく。
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えない源氏党が蟄伏していたそれらの山村の武蔵野の果ての部落を行くと、何か、強すぎるほどな野性が今でも
村を通り、山越えして来たが、この辺はもう武蔵野のつき当りといってもいいほど秩父、多摩山岳へ寄っているので、中央
のアスファルトは固すぎるし、京阪の郊外は粗すぎるし、武蔵野の土は露じめりの日はよいが乾くとホコリ立ち、降ると名物の
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なんといっても、治承四年に、平氏と南都の興福寺とが、ここで戦ったのは、双方共に、いい歴史をのこしたもの
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。居合わせた六、七十歳の老漁夫と老海女から、志摩名物の海女の生活をいろいろ聞く。終戦後一しきりの海女の稼ぎはまったく海底の
。ハハアとこっちもうなずかれた。けれど伊勢の宮柱のある志摩の国だけにこういう人を見るのはなんだか皮肉である。あるいはかつて
賢島にいたことを考えると、驚くべき長コースで、志摩、伊勢をA字形に自動車と汽車で縦横走して、今夜中に、
らの人々を見ていると、これまで歩いて来た志摩、伊勢、紀州のどこの地方よりも、服装もよく、生活弾力ももって
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に働く人影も、小庭に古りた竹のすがたも、みな道頓堀の名女形といわれた主のかたみかと、なんとなく朝寒のいじらしい。
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塩釜、松島を経、石巻から小汽船で金華山に渡り、帰路は山鳥の渡しをこえて牡鹿半島を
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東大寺の大仏殿の前に、花御堂が作られてある。少年の日から何十年ぶり
晩年、彼が南都の東大寺を焼き払ったことなども、後世、信長が叡山焼打ちをやったのと同一筆法
望まれる宗務所の一室で、薄茶を一碗いただいた後、東大寺の花の雨に濡れながら山門を出た。(昭和二十七年四月九日
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コースは人の通わないところである。滝ノ沢峠をこえ、温川の一軒家に、十一日間ほどいて原稿を書き、黒石街道を歩いて、弘前
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されていたことは、概目、文献にも記載がある。けれど両国の文化水準から見ても、当然、入超数字になったであろうことは明らかだし
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は、赤坂表町に住んでいたころに書き、親鸞は芝公園で、三国志はその両方で、そしてどれも、旅先の仮の机で
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の清盛甲冑姿の像、山城六波羅蜜寺の法体像、京都曼殊院の束帯像など幾種となくありますが、いずれも端正な美
「都」という字がよく出てくる。あれは、京都と書くと、感じが出ない。意識的に、「都」をつかっている
京都へは、何べん来たことかわからない。そのくせ「都」を書く
「都」というのは、今の京都のこと。
義仲を繞る女には、巴、葵、山吹があり、京都では関白基房の女を入れて正妻ともしている。また若菜御前(上州
御前の墓、乃至、死所と称する地はじつに多い。京都以西、東北地方にまでわたっている。ところが、常磐御前には、再婚
書く前に、一巡したことがあるが、こんどは、京都から義経が進路とした亀山、篠山、小野原、三草などのいわゆる丹波
月末、京都へちょっと行くが、京都の底冷えはよくいわれる。この回に、寿永三年の年暮の雪
月末、京都へちょっと行くが、京都の底冷えはよくいわれる。この回に、寿永三
範頼といえる。義経は、一ノ谷以後約一年ぢかく、京都守護の予備にとどめられ、角将といった役割に措かれている。
は、たわごとみたいで、都会の人へすまなく思うが、京都の三日もこたえてやや暑さあたりの気味である。しかしようやく、この
る読者大会への出席をかね、奈良附近、吉野山、京都というスケジュールで六日間の旅だった。
たそがれ近く、京都へ入った足で、桂離宮を拝観する。茶家遠州の細心も、二
の原稿を一、二回書きためたりして、ぼくは、京都へ出かけた。雑多な私用だの、史蹟歩きの目的を持って、十
京都からそこへ行く途中を利用して、やがてこれから書く以仁王の謀反、
の公卿百官から従者まで、数百名にのぼる行旅がえんえんと京都からこの山岳地まで二十日がかりで来たわけだ。
では、京都より小さかったが、そのころの風光は、京都の比ではなかったろう。もちろん、清盛の構想は、花鳥風月にあるので
をならべた。福原の都市設計は、その規模では、京都より小さかったが、そのころの風光は、京都の比ではなかったろう。
。――義経、範頼たちが、一ノ谷へ急襲するため、京都を立つさい、法皇は、源氏が総攻撃にかかる前日、わざと修理大夫親信から
て公園を逍遥する。ここだけは、戦災のあとなし。京都の桂離宮と、どこか造庭の手ぐちが似ている。桂離宮も
局の役割をもったに違いないからである。事実、京都と宋国との交渉には、この九州の地に、何かのそう
東北の文化財地蹟となると、とかく奈良京都のようなわけにゆかない。ここも近年一部の研究家には、重視さ
永享七年銘の鉄鉢、磐梯明神田植絵巻などという奈良京都の列へ持ち出しても遜色のない歴乎とした寺宝のこけんにかかわる
大阪朝日会館の読者大会はあすだが、今夜の泊りは京都とのこと。駅からまっすぐに旅館の大文字家へ行く。
もあるが、京の特色のあるあの絵日傘はもう近ごろの京都では売っている店もない。
なり始めると、真っ黒に空が曇って来た。いったい、京都盆地の夕立雲には、一種特有な凄さがある。どう街が近代化
もなく、東北の声でもない。どうしても、京都の少女の口からでなければ出ないキャアーッという、まろい、きれいな
はさっそく二万五千分ノ一地図を卓いっぱいに拡げた。そして京都から義経軍の潜行したいわゆる、鵯越え間道”の径路を、その豊か
けれど彼が京都を立つ数日前は、都では降雪があった。丹波路は残ん
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会の日でもあった。雨をついて、車で奈良へ走る。
院、武門、旧勢力の公卿などのほかに、叡山や奈良に割拠する武装僧団という厄介なものがある。――この中に住む
大阪朝日会館における読者大会への出席をかね、奈良附近、吉野山、京都というスケジュールで六日間の旅だった。
にも見える弥助鮨の楼上に休んで鮎ずしを食う。奈良では、薬師寺の塔を見に詣る。前日、寺のあるじの橋本凝胤
ぶりばかりでなく、院宣なる物や、法皇の本心や、奈良叡山のうごきや、何喰わぬ顔しつつ常に何かを策する公卿輩
たし、桜も夜来の雨で、一ぺんに開き、奈良も人出がなくて、あちこち、静かに見られたのは倖せだった。
の帰途、丹羽文雄氏や出版局のKさんと一しょに、奈良の中宮寺と法華寺へまわった。
”といっている山間だの部落ばかりを通って自動車で奈良へ行くことにした。
―井手ノ玉川から丹羽氏の車は引っ返して、先に奈良へ急いで行った。
東北の文化財地蹟となると、とかく奈良京都のようなわけにゆかない。ここも近年一部の研究家には、重視
、永享七年銘の鉄鉢、磐梯明神田植絵巻などという奈良京都の列へ持ち出しても遜色のない歴乎とした寺宝のこけんに
奈良に来ても伊勢路に来ても見れば
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流域、飯田から山越えで、木曾谷へ出、馬籠附近、福島、駒ヶ嶽山麓、あのあたりの往古木曾道中をやって、松本へ戻っ
いたからである。名物の桜ンぼが実るころ、福島競馬も始まり、友達はみな自動車で行くのだが、ぼくは人力車を雇っ
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たが、そこを越えて、金沢へはいった。――金沢へ着く夜の夕方は、おりふし夕月の倶利伽羅谷を過ぎたので、車
は、容易でないと聞いたが、そこを越えて、金沢へはいった。――金沢へ着く夜の夕方は、おりふし夕月の倶利伽羅谷
金沢から北陸沿海を一走、山越えで琵琶湖の湖北へ出て帰京した。汽車
たように、この初冬には、木曾、飛騨、富山、金沢地方へかけて、長途の史蹟旅行をやり、途上で得た史話、口碑
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鎌倉へ行ったという説)は信じられない。義仲と大津で別れ、北陸へ落ちたと見る方が正しいようだといわれるので
に指さすのだった。といっているまに、列車は大津の駅に入っていた。
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巴が落ちのびた地は富山であり、後、糸魚川に移り、木曾へ帰る機をうかがっていたが
という御好意がよく書いてあった。中には、富山の一読者として、「貴君の生命だがまた、貴君だけの生命
ちょっと書いたように、この初冬には、木曾、飛騨、富山、金沢地方へかけて、長途の史蹟旅行をやり、途上で得た史話
巡り、伊豆半島散策、それから伊那、木曾谷、飛騨、富山など、おりあるごとに清遊濁遊をかね歩いておりましたが、
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でもあった故川合直次氏の研究に詳しい。しかし、新潟郷土博物館長の斎藤秀平氏は否定説の方であった。けれど、巴
向かう七日間の予定で、鬼怒川上流を経、北会津から新潟、北越から北信濃へ、というコースで旅立ったわけ。
午前中、新潟行の汽車時間までの間を、市中近郊一巡ときめ、まず若松城
市中の支局に立寄り、十一時四十五分発、新潟行へ乗る。星野、平山、山口氏などに、礼をのべ、駅頭で
新潟“白浪抄”
阿賀野川に夕陽赤く、窓外はようやく新潟平野らしい。たしか新津駅だったと思う。にわかに、車中は混み合い、魚臭く
芭蕉の奥の細道に「新潟といへるあたりに宿かりて」とあって、その一章の句に
ほしいままにしていたが、それから二年後、ことし新潟警察署で挙げられた犯人は、みじん浪漫気のない商売人であったそうだ
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ノ御所跡を探すために、寒い冬小雨の中を、神戸の町の灯ともるころまで、歩きまわったこともある。探し当てたと思っ
だから清盛は、神戸開港の恩人であるとして、昭和八年かの神戸市主催の「みなと
の巻」も、説明しては、おもしろくなくなるが、神戸開港の先駆をなした清盛の経ヶ島港のくだりを、巻の名とし
四月十三日には、神戸市で清盛祭が行われる。神戸の開港記念何十年祭かに当るらしい。
淀川から神戸界隈の巻
江口の君の跡」一ヵ所にとどめ、午後は日いっぱい神戸附近をと、ひとりぎめしていたのである。そのため、砕花氏
阪急電車で、神戸へ。
「まわれますとも、神戸はまとまっていますよ。ね、神戸はしかも私の散歩地域だ」
片にすぎないものとして砕花老「まわれますとも、神戸はまとまっていますよ。ね、神戸はしかも私の散歩地域だ」
よもう」「やあ、江口で時間をとりすぎた」「神戸の史蹟、まわれますかなあ」われらの会話を、杞憂一片にすぎ
て展望したいのが、ぼくの希望。なにしろ、清盛と神戸の関係、また遺蹟などといったら、余りに膨大で、旅すがらの、
神戸らしい山の手住宅街。坂の下から歩く。だいぶ登って、右側をのぞくと、
顕著だった事蹟であるが、もっと若いころから、清盛と神戸とは、非常な親しみがあったといえよう。それは、彼の父忠盛
史家にいわせると、清盛は神戸の恩人といってよいという。清盛が手がけた経ヶ島から旧兵庫が生まれ
に熱心で、宋船との交渉地を、早くからこの神戸においたのもおもしろい。
町を歩く。元町のモダーン寺の近所と聞く。ぼく、神戸は終戦後、初めての夜歩き。ガード下といわれても、なんと聞い
から愍笑を買う。西銀座、土橋界隈とくらべて、やはり神戸を感じる。けれど、何がというほど、こういう文化を語るセンスがぼく
マダム不在。みなアルコール気のないカクテルという註文に、ミス神戸たちから愍笑を買う。西銀座、土橋界隈とくらべて、やはり神戸を感じる
こんなことを考えられていては、ミス神戸たちこそ、災難である。程なく出て、栄町をあるく。
の自慢する洋館にはいりこむ。貫一氏カンカンと放談放笑。神戸の名物インテリといわれる所以を五分間で客にうなずかせてしまう。
。書架のもの、そこここの彫刻、絵画、御亭主は、神戸の一奇珍にちがいない。
は旧冬、伊勢、志摩、南紀、熊野、那智、大阪、神戸界隈までを誌上にすませた先の史蹟紀行の後半を成すものである。
歩いたのは十二月の中旬で、神戸から先は四国、九州地方だが、それでも雪を見たり凩に
会下山は眼のまえだ。摩耶、鉄拐、鉢伏など、神戸から須磨明石へかけて、市街の背光をなしている低山群も、山姿
これは横着な見物の仕方にちがいない。「なぜおまえは神戸まで来ながら、一ノ谷へ行かないか。鉢伏や鉄拐ヶ嶺にも登って
見物に行きませんか」と誘ってあげたところ、「神戸の桟橋へ行ってみたい」というので、花森氏がひとの母親
は、花森氏、扇谷氏などと、仕事のことで、神戸で一しょになり、信平息子は、前夜の疲れで宿屋で昼寝してしまっ
ところ、戦後、信平氏の弟の遺骨を迎えたのが神戸埠頭だったので、老母はもいちどそこに立って、いまは世
、内心おどおど、多くを口に入れず、そのうちに、神戸の市史編纂にたずさわる川辺賢武氏が早くも来訪される。
。だが今はとてもそれほどな元気もない。「ともかく神戸まで出ようじゃありませんか、その上で」と、ただなんとなく腰
有馬道から神戸に入る。山手を東へ、生田区を一巡、生田神社で車を下りる
神戸だ」とすぐ答えられるであろう程、四方の視野が神戸をそっくり展望させているからだ。
、空からいきなりこの山上に降ろされても、「ここは神戸だ」とすぐ答えられるであろう程、四方の視野が神戸をそっくり展望さ
。いま通ってきた生田方面から埠頭の景観なども、神戸以外なものではない。
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近ごろでの朗報は(朝日、長野県版)北アルプスの水晶岳にある大東鉱山の労務者に、その経営者が、航空会社
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、十一月半ば、菊池寛の郷里の四国へ行った。高松市民協賛の下に氏の銅像が建ち、その除幕式に出たのである
は、また手帖の旅程表に首をひねる。「あしたは、高松行きですが、朝、早いですよまた。起きられますか」と、左右
ゆくころ、雪はやみ、サロンの船窓に、すぐ対岸の高松が見えてくる。明日行く予定の白峯や、屋島寺などを、眼に
高松産の知人二人が思い出された。菊池寛氏と三木武吉氏である。
外西方五、六里の白峯へ行き、またひっ返して、高松から今度は反対な方向へ一走、屋島、壇ノ浦その他を歩き、夜の
帰らない。後で聞くと、旧友氏に誘われ、ミス高松などと、珈琲か何かで、さざめいて来たらしい。この優等生、翌日
支局のH氏、高松NHKの人、郷土新聞の記者たちなど、この間に、出つ入りつ
ていることである。戦後現象の一つかと思う。高松などの市街地でも、じつに多くの女たちが、もっこや、こん棒や
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一人で出かけたわけである。仙台までは列車でゆき、仙台を振り出しに、あとは大部分(本線の長い距離はもちろん乗ったが)細い
方にあったので、一人で出かけたわけである。仙台までは列車でゆき、仙台を振り出しに、あとは大部分(本線の長い距離
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汽笛一声新橋を――”を合唱しだした。それを静岡辺まで覚えていたのは、ぼくら生徒でなくて、なんと、
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東の崖道を降りてゆく。宝物館。ここで松山村の村長、青年団の方たち、館長など、ぼくらを待っていて
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その時の旅行目的は、熊本を中心に、武蔵に関する史料蒐集にあったのだが、もっぱら郊外の
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お対岸の地御前の灯、五日市あたりの灯、かすかに、広島の方にも灯が見える。
広島の灯は、またたいている。あの無数な光のまたたきは、何を哭く
だめである。――ただ問う、石の清盛氏よ、広島の灯を見て君はどう思うか。君の今の感を聞かれ
旅行予定のさいごは、あとの一日で終わった。翌日、広島の孤児たちが、保育されている童心寺を訪ねて、五人の
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来た、九州へ着いた、という気もしない。巴里まで行ったら、さあ、どうだか。
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さげ橋の宿について馬を休め、衣川を渡り、宇都宮大明神をふし拝む”などの一節も思い出される。
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をさまようであろうが、自分のいまいる西多摩地方を始め、東京近県の地は、名にしおう武蔵七党の発祥地であり、どこを歩い
師走の空に、子供たちの揚げている凧が見えた。東京では郊外でさえ近ごろめったに見ないが、ぼくらの少年時代には
その原稿を持って東京へ出る車中で、菊村の女将さんにぶつかった。この人、お婆さん
地方へ来ると、自然、地方新聞に親しむ。東京では気づかれない興味深い記事が時々ある。ぼくは、地方新聞の愛読者
正月中、快晴な日が実によくつづいた。東京では近年おぼえがない。
辺り出版局の人が、単行二十二巻の見本を持って、東京から来るかもしれない。一巻を重ねるごとにわれながら意外に長くなった
群書類従は、正続二百冊という厄介物なので、東京へ引っ越しのさい、吉野村の家の書庫に置き残して来たのだった
し、武蔵野界隈は、いま自分のいる吉野村から車で東京へ出たり、ゴルフ場へ行くときなど、のべつ縦横に通る所である。村山
ラジオ東京の連続放送“新・平家物語”も回を趁っている。まだ本で
たのは当然で、やがて昭和二十三年になって雑誌「東京」に“色は匂へど”を四月ほど書き、読売に「高山右近
もおろして、しんと眠っているような田舎町ばかり。名古屋、東京の音響や時潮を頭にえがいて見て行く。こういう旅をし
辺は、かなりな雪だったという話。嘉治さんも東京以来かぜひき、健吉さんもその雪でしきりにゴホンゴホン。ぼくも少し怪しくなる
五十九もおしまいになる。来年は六十。記念すべき杖、東京まで持って帰ろうなどと考え考えやっとのことで登りきる。
あずまやの四階に坐りこむ。きょうもよく歩いたもの。東京を出てまだ五日目。都会神経を絶縁されると、こうもポカン
」の挿画は、今夜、描いておいていただかないと、東京便に間に合わないとそのOさんが催促する。昼は医薬を与え、夜
大阪の市街は、東京よりも、なぜか暗い気がした。通った街のせいかとも
街の騒音にも性格がある。大阪の音と、東京の音とでは、何かちがう。朝、旅館の壁の中で、
の会話だのスリッパの音性までが、交響楽的に、東京ではなく、大阪の朝の音である。
午前中留守番。Kさん、大阪での会議すまして即日、東京へ帰る。そこで車内のうしろ側は、杉本画伯、嘉治さん、ぼく。
風の野菜を主とした肉入りスープ)の味、東京にも、こんな一軒が、どこかにあったらいいなあと思うほど、
いやこの冬初めて、燈下に、九州名物の河豚を見る。東京を立つときから「九州へ行ったら」という約束のフグだけに、たとえば
まで、大急ぎで、旅館の縁で散髪をしてもらう。東京以来、耳にかぶさっていた頭髪が鋏に落ちるのを見ると長サ
「きのうから東京へ出て、お待ちしておりましたんで」と、見知らぬ夫妻
飢餓電力に悩む東京では、おてんとう様では、恨み相手にできないので「政治サボ
勉学の資もままにならなかった。ところが、戦後の東京では、元宮邸という料理屋もめずらしくはない。ここの湖畔の宮邸は
たいとかの希望をしゃべりぬく。うつら、うつら、ぼくは東京の戦後情態などをはなして、まあ、まあと、あんま氏の壮年客気を
、オールバックの美青年。ぼくを揉みながら、しきりに、東京へ遊学したいとかの希望をしゃべりぬく。うつら、うつら、ぼくは東京
と「名古屋は焼け効いがあった」そうである。「東京は戦後の道路政策に無能だったが、名古屋を見給え、百メートル道路
文壇人などの文化人のお陣屋みたいな定宿である。東京を出る前日、今日出海氏から「小林秀雄が大熱を起こして大文字家で
いう声の余韻が、ひどくぼくらの耳に残った。東京の声でもなく、東北の声でもない。どうしても、京都
そのため、ハイキング支度で来られたそうだし、ぼくも東京を出るときは、そのつもりで、ズックのゴルフ靴など携えては来た
、春海さんの酒盃解禁という妙な私的記念日にあたり、東京からの約束だったので、諸兄が膳についた時だけ寝床を出
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も、義仲を繞る女性は四人もかぞえられる。ほかに上野国で獲た若菜という女性を誌す地方史もあるが、どうであろう
いる。また、忠盛が一日、河芸郡の別保(いまの上野)の浦へ遊び、漁師たちが、人魚を網に上げたものを見
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また一夕、人に招かれて銀座のハゲ天の奥に坐ると、白い割烹着で座敷天ぷらの長箸を使い
カクテルという註文に、ミス神戸たちから愍笑を買う。西銀座、土橋界隈とくらべて、やはり神戸を感じる。けれど、何がというほど
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というのだ。そこで老先生を打ち囲み“汽笛一声新橋を――”を合唱しだした。それを静岡辺まで覚えていた
どうも、ぼくら明治の子は、やはり汽笛一声新橋式に、精煉の悪い煤煙にいぶされて、車窓初めて旅情を感じる習性が
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朝の紙クズは、浅草名物といってもいい。やたらに紙クズが舞う街頭から松屋デパートのホームへ
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蒲生氏郷から上杉景勝、松平容保までの城址として、残り少ない日本中の
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義高ヲ源頼朝ニ送リテ和ヲ請フ」という信濃千曲川の対陣のころから、伏線的に、巴の母性も、義仲の若い父性
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ヵ月目に初産する。頼朝は命じて、その子を、由比ヶ浜に投げ捨てさせる。――という史実はあきらかなのだ。ところで、吾妻
子は、吾妻鏡だと“――台命ニ依ツテ由比ヶ浜ニ棄テシム”となっている。が私は、静の身柄一切を預け
たことは吾妻鏡にも“――台命ニ依ツテ由比ヶ浜ニ棄テシム”とあるので、ちょっと、うごかし難い史実と取れる。けれど、
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限りの長汀曲浦と、ここの松々々の磯松原は、湘南にも、裏日本にも、ちょっと比肩しうる地を思い出せない。枯れ芒