私本太平記 03 みなかみ帖 / 吉川英治
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。家士のうちには旧知の朋輩がたくさんいる。で、浅間山を左方に見ながし、三国山脈をこえ、信濃川の水戸口(現・新潟附近)
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「さて? 古市の出屋敷や、石川城へ当るには」
前、日野俊基の消息をたずさえた高野の一僧が、石川城へ連絡に来た。
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「祈祷は僧の勤め。なぜ悪い。ただし関東の呪詛ではない」
えた噂によれば、東伐の大事を割ッて、関東へそれを密告した者は、みかどの乳父、吉田大納言定房である
元々、吉田大納言定房は、宮廷における“関東御用取扱い役”であった。鎌倉との接触は、いやでも多いわけ
とすれば、待望の季節であった。しきりに密使を関東へやり、早くも後醍醐の譲位を暗に策動しだした。
と、裏面から、さまざま関東を突ッついた。だが、正中ノ変によっても露呈された
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、第一に紀州高野へ、次に伯耆の大山寺、越前の平泉寺と、順次にめぐって、やがて帰洛もいそがねばならぬ身」
もせずに、いちど越後柿崎の港へ寄り、やがて越前の敦賀へ上がった。
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追い風だった。舟は難波ノ津(大阪)の平沙や芦やまばら屋根を横に見つつ、まだ午まえも早目に
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次の日。――初瀬の旅籠を立って、三輪の追分の方へ行く三名の姿が見られた。
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上人を引ッ縛って、獄へ持ち込み、南条左衛門は、東寺を襲って、文観僧正を、捕縛して来た。
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の指揮のもとに、約三十人ほどの捕兵が、加茂の東からちりぢりとなって、対岸二条の辺へ、徒渉りに渡ってい
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女は、その間に、伊賀国で亡き人になっていた。――また、まもなく正中の元年、
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元成は、妻の卯木を、音羽の奥に隠し、その夕、食べ物など提げて帰って来た途中だった。
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佐渡へ
「えっ、佐渡へ。――佐渡へ行けと仰っしゃいますか」
「えっ、佐渡へ。――佐渡へ行けと仰っしゃいますか」
、俊基のいう、も一つの「――我が死を佐渡の配所にある資朝卿へ告げて給え。鎌倉表にて、かくかくの事情にて死
「右馬介、そうしたわけだ。佐渡へ行ってくれい」
高氏は、言った。それだけでなく、このさい佐渡の日野資朝と或る気脈を結んでおくには、絶好な機会とみて、
「そうだ。……ここまで申したらもう分るだろう。佐渡へ渡って、密かに、本間入道の手にある資朝卿へ近づきまいらせ、
「佐渡へ」
(現・新潟附近)から、弥彦ノ庄へ入って、佐渡への便船を待つことにした。
、彼は聞き捨てならぬことを耳にした。先ごろ、佐渡の本間入道の手で、配所のお公卿が、密々殺されたという噂
「……佐渡へ渡ってもぜひないことだ。すでに、資朝卿も亡い後では」と
、どのていど信じていいかは分らない。先の月、佐渡から帰った商人や羽黒の山伏らが、寺泊の或る一僧に、そっと話し
ろくな仕事はしていまい。どうだろう、わしも、せっかく佐渡まで来たこと。一ト冬ぐらいは送ってみたいが、ただいるのは
「では、いつまでも、わが身を、佐渡へおくつもりかしら」
、また会いましょうね。どんな日がやッて来ても、佐渡にいるつもりで、元気にお暮しなさいよ。負けずにね」
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としたので、持明院統とよばれ、亀山は、大覚寺にお住みだったので、大覚寺統と世間がいった。
後伏見の弟、富仁を擬していたところ、これがまた大覚寺の後宇多上皇の御気色にさわり、一ト悶着をみたが、関東方で
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まするか。ここは川ノ辻です。西へ下れば、摂津の墨ノ江。北へ行けば、淀川へ出てしまいますが」
た都を遠く去るほどな勇もなく、その流浪も、摂津、和泉、河内の辺にとどまっていた。
とも存じましたが、ちょうど明朝はおいとまいたして、摂津ノ住吉へ立ち帰る身。……それで、じつは」
、まだそんな時ではない。――右馬介。そちは摂津の住吉で名も具足師の柳斎と変え、都の情勢を窺ッては
「わしは、摂津ノ住吉の住、具足師の柳斎という者じゃが」
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「さあ、御武辺のことはよう分りませぬが、敦賀ノ津や越後の国府には、よい鍛冶や具足師もいるそうで、みんな
ずに、いちど越後柿崎の港へ寄り、やがて越前の敦賀へ上がった。
敦賀ノ津からは、陸路近江に入って、はや比良や比叡を望み、京の
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「――阿新さま。仁和寺のお家の門まで、お送り申そうと思いましたが、この騒乱では、
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だし、心外でもあったようだ。けれど、彼が河内へ出ているあいだに、従来の強硬な六波羅的な武断主義が、鎌倉の
はもいちど、山門の空の遠くを見やった。この河内で橘の紋を用いている家は、楠木家しかないのである。
、お願いしようし、また、卯木の親もとたる玄恵法印や、河内の実家方などへも、万端、円満な計らいをつけてつかわす――。成輔
「されば、卯木の河内の実家方、楠木家と、わが家とは、遠い姻戚にあたるのでな」
「さっそく、河内へ書状をやって、玄恵の養育のいたらざりしを、詫びねばなるまい
成輔は、自邸へ帰ると、すぐさま使いを河内の水分へ派して、失踪の男女が立ち廻ったか否かを、ただし
去るほどな勇もなく、その流浪も、摂津、和泉、河内の辺にとどまっていた。
元成と卯木は、当麻越えに出て、翌る日からは、河内へ入った。――六月に入ってもまだ一ト粒の雨すらみせ
しかし、彼はその中に、河内の楠木一族をかぞえることはしなかった。石川の散所ノ太夫義辰は加えて
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「大塔ノ宮は、山門にあって、比叡の大衆を手兵としてお堅めです。めッたに手出しはなりますまい
敦賀ノ津からは、陸路近江に入って、はや比良や比叡を望み、京の口へはもう一歩と、ほっとしたのが九月
叡山一帯は今や物々しい戦備の中にあるらしい。街道の比叡ノ辻では、柵を結んでいちいち往来を検問しているし、日吉ノ社に
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家の御兄弟――正成、正季どのも師事され、奥河内の若い郷党輩からも、お師として、慕われておるのを見
「住吉の具足師柳斎という者です。じつはこの奥河内のお武家や龍泉どのにも、毎度御用を伺っておりますので、先ごろ
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持明院を御所としたので、持明院統とよばれ、亀山は、大覚寺にお住みだったので、大覚寺統と世間がいった
「もとより亀山の御系統にありました」と、答えた。
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言いのこすと、兼好は、すぐ立ち去った。豊山長谷寺を上り下りする数千の男女と同様、彼の姿にも、なんの屈托らし
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へ下れば、摂津の墨ノ江。北へ行けば、淀川へ出てしまいますが」
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は、柵を結んでいちいち往来を検問しているし、日吉ノ社には、僧兵の陣が、湖を望んで、なにかどよめきをあげている
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の山館として、いいぶんのないほど広い。表は金剛への、山街道に面し、裏は深い断層をなした崖下を、千早川
。――だからそこの書院では、いながらに、金剛、葛城、そして峰つづきの水越峠までが、対坐のすがたで、一望に眺め
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領家から、かなりな量の註文が出そうなので、丹波まで行って来たい。大急ぎで帰って来るつもりだが、京のとくい先も
「ええ、急な御商用で、丹波まで行って来るとか仰っしゃって」
「それがおかしいんだ。丹波と言ったかね、ほんとうに」
「丹波の領家なんて、お花客すじにも、心当りはないんだが。まあいい
んだが。まあいいや、独り者の柳斎旦那だ。丹波であろうと、江口、神崎であろうと、そのうちにゃ帰って来なさるだろうて
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で、浅間山を左方に見ながし、三国山脈をこえ、信濃川の水戸口(現・新潟附近)から、弥彦ノ庄へ入って、佐渡への
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。――なんでも、神崎の遊女をひかせて、難波の合邦ノ辻あたりに囲っており、そこから通っているのだと、長屋
出るには大ごとです。夜が明ければ、出見ノ浜から難波へ通う乗合舟がある。それにお乗りなされては」
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天皇の第三皇子で、嘉暦二年以来、叡山に入っておられる前ノ天台の座主、尊雲法親王(大塔ノ宮)と、
当時、大塔ノ宮のおられた叡山は宮方なので、そんな趣向に書いたのだろうが、夢ばなしでは、
を。――高野もある、伯耆の大山寺もある。叡山、奈良はいうまでもない。
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いちどは鎌倉に囚われた前科の身だ。絶体絶命とみたら、いつでも護持する綸旨を
いるあいだに、従来の強硬な六波羅的な武断主義が、鎌倉の方針によって大きく修正され、同時に、探題以下の大更迭が、
たら、一味の公卿同盟には大ヒビが入るし、対鎌倉の面でも、危険な機ッかけを呼ぶものとなりかねないので、
さまで大判事章房が、反対だとすると、事、鎌倉に洩れる惧れもある。そこで「……いッそのこと」という処置が
はたせるかな、事漏れて、その朝臣は、鎌倉へ曳かれたが、どう言いのがれたか、この春、ふたたび河内辺に姿を
よ、天皇さまの御謀反だってえ騒ぎだ。しかも、鎌倉へ密告したのは、宮方の大官とやらで、疑いは寸分もないと
の越後守北条仲時、両探題もそろッて、急遽、鎌倉から派遣されてきた二階堂下野ノ判官、長井遠江守らの面々と、
交じっており、なんとそれが、だんだん問いただしてみると、鎌倉の現執権、北条守時様の義弟、足利又太郎高氏どのの御縁者だと
。――多少の犠牲は忍んでも、いまのうちに鎌倉の手をかりて、宮廷の癌を剔抉してしまうに如くはない、と
に置かれてあるものだ。――その上にも、鎌倉からは、長井遠江守、長崎孫四郎、南条高直、雑賀隼人ノ佐らが、
「鎌倉へ引ッ立て申すぞ」
、見事な悪僧である。もう金輪際、口は開くまい。鎌倉へ差し下す口書だけはまず充分と、両探題は座を立った。
子にせがまれて、五年前、しいて鎌倉の兄上杉殿に別れて海道を上り、途中、連れていた郎従の悪心
までは、御厨ノ伝次が送ってくれた。そして伝次は鎌倉へすぐ帰った。
までぞ。ならば、汝らの功もむだとなり、鎌倉の譴責はのがれ得まいが」
後醍醐には、今なお、乳父の吉田が、鎌倉へ密告したなどとは、どうあっても、信じられてはいない。
宮廷における“関東御用取扱い役”であった。鎌倉との接触は、いやでも多いわけだった。
方も正し、王政を延喜、天暦の古制に還して、鎌倉のごとき醜武者の府は、これを一掃せねばならぬ」
など、早くも乱兆の火の一葉となって、鎌倉へ送られて行く現状だった。
鎌倉の府も騒ぎだった。
土用過ぎだが、鎌倉特有な暑さだった。座敷牢の内は、昼も蚊うなりが耳につく
頼んでいた者には、かくの如く裏切られ、かえって鎌倉の御内たるおん身から、かかる情けにあずかろうとは」
途々、俊基は荒涼たる鎌倉のすがたを見た。――過ぐる日の大地震の惨害もあるが、もっと
、表面は勘当の身とて、大蔵へも伺えず、この鎌倉へ来ても空しくおるうち、ふと、刀鍛冶の後藤助光を見かけました。そして
これまでの消極的な、事勿れ主義一方では、鎌倉の安泰も保持しきれないことを、近来、幕府自体もさとって来ている
北条九代、百五十年、鎌倉の府の政治や文化も、それに倦んだ人心も、はや生脈のない
、いずれにせよ、具足師柳斎は、しばし京にも鎌倉にもおらぬ方がよいぞ。どこぞへ、姿を消しておれ」
本間入道の手にある資朝卿へ近づきまいらせ、そして、鎌倉より処刑の使いが行きつかぬさきに、資朝卿を助け出し、いずこへなりと、
蛭ヶ島の一流人から起って、平家を亡ぼし、この鎌倉に新しい時代を創始した源ノ頼朝こそは、本心、彼の理想像だった
。――自分は小さくとも足利ノ庄の守護であり、鎌倉では、前執権守時の弟ともいわれている。
聞きはしなかった。じつにただ平和なのである。鎌倉の不安も、京の非常事態も、また富士山頂の噴煙も、ここには何
折も折、鎌倉からは、処刑の使者が、はや雑太ノ城へ来ていたので
一部があって、意のままにならぬうち、三郎は鎌倉の使者と日取りをきめ、ただ阿新丸がたずさえて来た黄門どのの北の方
ところが、何の手違いか、つづいて鎌倉から追ッかけの使者がみえ「――資朝卿の処刑はしばし見合すべし」
本間三郎から「……父の卿に会わせるには、鎌倉どののおゆるしを得ねばならん。それの来る日まで、城内にい
なぜか、鎌倉の令はこのところ二途から出ていた。一使は「資朝卿を
を奉じており、息子の本間三郎と家臣の一部は、鎌倉へ忠節をちかっている。だから、日野中納言資朝の処刑なども、第一
馬匹などを陸上げさせている様子だ。右馬介は、鎌倉で別れたときの高氏の言を、とたんに思い出して、
、檄だ。檄をうけた武士の内には、すぐ鎌倉へそれを逆報した者もあった。――すでに鎌倉でも予想さ
へそれを逆報した者もあった。――すでに鎌倉でも予想されていたことである。ただちに軍勢を発し、その大軍は
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を遠く去るほどな勇もなく、その流浪も、摂津、和泉、河内の辺にとどまっていた。
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一つ、ここより天野山金剛寺の裏岳を越え、葛城から粉河へ出る細道のみでございますが」
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以後は出仕もせず、引き籠っている風だが、まま清水寺の社参には詣るよし。いや狙えば、いくらでも窺う機会はあろう。首尾
十二月の下旬。清水寺の下、三年坂での騒ぎだった。
――つい今し方、清水寺から降りて来た公卿風な人がある。坂下に輿か馬でも待た
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――富士山、数千尺崩ル
次の脱皮への地殻の身支度にほかならない。――富士山ですら、それをする時には、三日三夜も火を噴き地を爛
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代前までは、平家の小松殿の身内だったが、壇ノ浦このかた落ちぶれて」と、いうのもあるし。「おれどもの家は、木曾
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「すると、伊賀だの。伊賀の一ノ宮には、古くから山田申楽の座がある由。そちも山田申楽の
この奇異な旅法師は、伊賀の名張から大和へ出る唯一の山街道を初瀬川にそって、長谷寺の麓へ
若死にしましたわい。こんどの旅も、まったくは、伊賀にある女の墓へ、会いに行った帰り途なのでしてな」
れたものか。それにまた、元成どののお国も伊賀だし、卯木どのが、幼少から養われた都の御縁家、玄恵法印と
女は、中宮仕えの少弁ノ局といい、伊賀の権守橘ノ成忠の娘だった。
に、おぞ毛をふるッて、ついに娘を、自領の伊賀の田舎へ移してしまった。――兼好が北面を辞して、姿を消し
「伊賀の女の墓へは、その後、何度となく詣っておる。ふと、女
となく詣っておる。ふと、女に会いとうなると、伊賀へ行くわけでおざるわ」
元成は、伊賀ノ国小馬田の小領主、上島入道の次男だが、同族の服部家へ、養子と
伊賀の服部、上島、太田などの族党は、平家の世頃、一門と共
また、元成自身も、伊賀の養家を、とうに忘れかけていた。
だが、天性、彼は舞楽が好きだった。――伊賀の一ノ宮、その他の社には、自然発生的な神楽めいた今様舞踊が
男の治郎左衛門元成の国もと、伊賀へも人をやってみた。
伊賀ノ国へは、いまさら帰ってゆく顔もない。
「……まして、お好きな道じゃ。それになお、伊賀に興りつつある山田申楽。御縁すじの手づるもあろう。座首の小美濃をたずね
「はい。伊賀の小美濃太夫とやらの申楽能は、どんなかと思いましてね」
「伊賀の山田申楽、春日の大和申楽。あのような由緒ある座に入って修行を
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それは高槻を過ぎたせつな。
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の曠野は陽蔭もなく、涸れ川のみなかみを見やれば、金剛山の巨大な胸に眼がつきあたる。卯木が十三、四の頃までいたふるさとの
ここは金剛山の西の麓だ。中腹の千早、赤坂などより、ずっと下だが、もう山裾
「いやいや。そんな無理解なお告げでもない。――金剛山を水源とする、この水分川の要地に拠って、先祖代々、川下の河内平野
思わず、坐り直した。雷鳴は、唖の金剛山が物を言い出したように轟き鳴ッている。――いまここで、一ト
一方の空は、灰色の膜に星も消されて、金剛山からソヨめく冷たい雨気に、いつになく、身ぢかな草木が急に表情をかえてい
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円観は、奥州の結城入道へ、終身預けに。
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ずに、高野へ参るには、ただ一つ、ここより天野山金剛寺の裏岳を越え、葛城から粉河へ出る細道のみでございますが」
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が、今夕のは、ただ事でなかった。出屋敷をつつむ六波羅の捕吏と、散所民との間に起ったものである。
いちど、崩れた捕手方も、たった今、六波羅からの増援が着いたと聞いて、また気勢をもりかえしている。だが、
血をみるまでは熄まなかった。だから近国の地頭や六波羅でさえ、
はすぐ解いて帰してやる。さもなくば、夫婦とも、六波羅ノ庁まで差し立てて、白洲の糺問を受けねばならんぞ」
やらで、疑いは寸分もないとか。――それッと六波羅の軍兵が、今暁から手分けにかかり、御謀反組の僧だの公卿を、
かくて。――意外な大事に驚いた幕府は、即刻、六波羅へ秘使を飛ばし、宮方の討幕計画を未然に突いて、その主謀と関係者
ところで、六波羅の検察陣も、山門には手が出せなかった。で、それは後日の
しかし六波羅常備の探題以下、千余の東国武人は、一朝、こんな際のために置かれ
数珠ツナギに、日ごと五条大橋の上を追われて、六波羅総門の内へ送りこまれた。
先ごろ、突如、六波羅の大検挙が一せいにおこなわれた日には、彼は運よく、家に
へ曳かれてゆく一味の消息やら、こんどこそは本腰らしい六波羅部内の噂などを聞くにつけ、彼は、じっとしていられなかった。
「六波羅の検断所へ」
人ともに腹切って死んでいた。――その死骸を六波羅へ舁いで行ったのはもう朝がたで、街は黒山の見物だった。
、この僧正の憎まれ方は一ト通りではない。六波羅から廻ってきた口書の心証も悪かったし、柳営の白洲でも、言い
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「……が、事々残念ばかりでもございません。加賀田の山奥では、やがては宮方のお力にもなろうかと思われる一隠者
「じつは、加賀田のお師のお言伝けで、帰りを、ここへ廻って来たわけ。
で今後、気象の上に、雨気近しと見えたら、すぐ加賀田から知らせるゆえ、その日より雨乞いにかかれ。ヘタな祈祷をやって、領主
、それも「――兵法を知らぬものだ」と、加賀田の隠者時親は、嘲っているというではないか。
そして、中院ノ俊秀と天見ノ五郎を使いとして、加賀田の毛利時親が、わざわざ忠言してよこした計を、ざっと伝えた。
と、短兵急に、加賀田の時親の忠言をつたえて、兄の同意を求めた。そしてすぐ、雨乞い延期
「加賀田の山荘へは、この頃も、皆、足しげく通っておるのか?」
兄上が、青年期を通じて、よく通ったのは、加賀田の山荘ではありませぬか」
「さすれば、加賀田の毛利時親どのは、あなたにも、恩師のはずだ」
千万と申すほかありませんな。――正季どのより、加賀田のお師のお智恵を、おつたえしておいたが、ついにお採り上げ
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ここは金剛山の西の麓だ。中腹の千早、赤坂などより、ずっと下だが、もう山裾の一端にはかかっている。
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鞍馬の峰道へかかると、右馬介は急に、こう二人へ別れを告げた
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と、彼はもう夢中らしい。子供の眼つきそっくりである。門前町から沿道の露店やら大道芸人やら立売りなどまで、見洩らすまじと、人に揉ま
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「どうせのことだ。長野あたりまで、妹の行った先途を見とどけ、その後に、水分へ帰ろうよ。
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が。その権力や地位の大は、江戸期の奉行や京都守護などの比ではない、――そして平家いらい、宿命の府六波羅は
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――その上にも、鎌倉からは、長井遠江守、長崎孫四郎、南条高直、雑賀隼人ノ佐らが、ぞくぞく応援のため、軍兵を
てその権をにぎっている。――それに内管領の長崎高資らとの暗闘がもつれて、幕府のうちでも今や、ささえ難い
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――高野もある、伯耆の大山寺もある。叡山、奈良はいうまでもない。
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見ながし、三国山脈をこえ、信濃川の水戸口(現・新潟附近)から、弥彦ノ庄へ入って、佐渡への便船を待つことに
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「住吉の具足師柳斎という者です。じつはこの奥河内のお武家や龍泉
たのは、先頃からここに滞在仕事をしていた住吉の具足師柳斎だった。
、雨乞い祭りの霊験だった。ちょうど虫干し武具の修理に、住吉から来ていた柳斎という者が、先夜、水分の社の下
具足師柳斎である。――虫干しも終り、あすは住吉へ帰るというので、慰労の酒をのませ、路銀手間代など与えて
暗がりを見廻すと、宵に、母屋で馳走した住吉の具足師柳斎である。――虫干しも終り、あすは住吉へ帰る
存じましたが、ちょうど明朝はおいとまいたして、摂津ノ住吉へ立ち帰る身。……それで、じつは」
「どうせ、住吉まで帰る体、住吉辺りまでは、この柳斎が、きっと、御無事にお守りしてまいります
「どうせ、住吉まで帰る体、住吉辺りまでは、この柳斎が、きっと、御無事に
「いかがでしょう。ちょうど住吉まで帰る具足師が、夫婦に供してまいりたいと申しておりますが」
具の手入れなどさせている柳斎という実直者。住吉の店へも、両三度立ち寄ったこともあり、その辺は、心配
「なるほど、面だましい、頼もしげな男ではあるの。住吉まで帰るのか」
住吉ノ浦は、住吉四座の境内から敷津、粉浜まで、ほとんど松ばかりの砂地だが、摂河泉
住吉ノ浦は、住吉四座の境内から敷津、粉浜まで、ほとんど松ばかりの
見られたな。なアにね、ここの二階から眺められる住吉の高燈籠や澪木など、えもいわれぬ景色なので、柄
は気をつけておりまする。卯木と二人で、稀れに住吉の浜を歩くぐらいで、まだ天王寺へも詣ってはおりません」
元成のことばにまかせて、母子は、住吉ノ浦で朝を待ち、舟から舟の便で、京へ帰ろうと、
浜の入江には、住吉神社の献火と、海上標識のための、高い潮見燈籠が、いつも不断
、数年前に、鎌倉表から姿を消して、この住吉辺にいるということだけは聞き知っておりました。……けれど
「尼前、……よいことを伺った。じつは、住吉の家もつかのま、またも流浪をつづけるしかなく、しょせん、多年の志など
「のう卯木。……所も住吉の御前、今朝のことを、忘れまいぞ」
そんな時ではない。――右馬介。そちは摂津の住吉で名も具足師の柳斎と変え、都の情勢を窺ッては、
「はや具足師柳斎の隠れ蓑も、住吉の店もあぶなくなりましたので、御領家の丹波篠村(しのむら
「わしは、摂津ノ住吉の住、具足師の柳斎という者じゃが」
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すると、大宮院ノ※子は、一も二もなく、
脱って、つねの武者烏帽子になっていた。扇ヶ谷や大宮の遠くには、はや灯が見える。彼は俄に、駒をいそがしかけ