新書太閤記 06 第六分冊 / 吉川英治
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の山沢に飛躍したものであり、それに反して、江南の国呉の兵士は、大江の水に馴れ、南海の潮に鍛えられた
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、毛利の大軍をそこに喰いとめておかれよ。秀吉、但馬、播磨のうちの諸般にわたり、一掃除すました上は、直ちに、第二
の陥落以後、急速に、秀吉の軍威は振って、但馬、播磨、因幡、伯耆の四ヵ国はいまや完全に新しき勢力下に置かれる
すでに、その地盤の一角、播磨から但馬、伯耆にわたるまで、秀吉の進攻に、刻々、削り取られているところへ―
「筑前には、但馬、因幡などの陣中でも、折ふしには、茶をいたされておられるか
播州、但馬、美作、因幡などの占領下の諸将は、入り代り立ち代り姫路を中心に去来
播磨、因幡、但馬に散陣していた秀吉の麾下は、二月中に、はやくも姫路
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官兵衛から、時到れりと、鳥取城の弱まった情報を手にすると、秀吉は初めて、軍をうごかして、敵
かくて、山陰第一の要塞を誇っていた鳥取城も、自焚全滅か、開城降伏のほかはなくなった。
「主人筑前守には、この鳥取城のお守りを、よくこれまでお支えなされたと、口を極めて、われ
抱いていたのである。到底、持ち支えようはない鳥取城の守将として彼の信念した肚のものは、
秀吉が、鳥取城を占領すると、まっ先に手をつけたのが、城中の飢民と、城外
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、これを、安土の信長に供え、遺物の種々は、安芸の吉川元春の許へ送り届けてやった。
吉川元春は、自身、安芸を発し、同じ頃、秀吉は、占領地を宮部善性坊、木下重堅の
吉川元春もまた、安芸へ引っ返しながら、独り喞っていたということである。
――一挙備中に入り、高松城を占め、進んで安芸の本城吉田山に肉薄して、否やなく毛利をして、城下の盟を
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なる。信長が、斎藤義龍の岐阜を攻めるに当って、金華山の峰つづきを、その裏山から攀じて奇襲したとき、山中で道案内をし
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右馬允嘉隆は、信長から水軍の建設をいいつかると、鳥羽、熊野などの船大工や、多年海上で動作に馴れた水夫などを糾合して、
(多寡のしれた伊勢や熊野の漁夫兵、大国毛利の水軍の面目にかけても揉み潰せ)
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このことは、堺、大坂の耳目を震駭させた。信長の勢威を知っても、なお毛利
船飾りをほどこし、一日、近衛公やそのほかの公卿を堺へ招いて船御覧の催しをした。もちろん彼は民衆を忘れない。貴賤
僧俗、男女老幼、すべての者へも船見物をゆるし、堺の数日を船祭に沸きたたせた。
は、目につく者がひとり召し呼ばれていた。堺の千宗易である。茶道衆のひとりとして、茶事があればかならず趣向
だから自然に、茶事の往来も聞かれず、堺や京都を中心として、いわゆる「茶家」と呼ばれている者の門戸
初めに、その紹鴎がお導き申しあげたが、近ごろは、堺の千宗易が伺って、お磨きをかけておる。されば、御上達はあたりまえ
「織田の軍が、初めて、堺へお討入りのせつ、どこやらの家で、お茶をあがられ、その折
「堺の南之荘の辻に、塗師宗祐というものがおります。宗祐では
、どことなく、物腰までも変ったのう。その後は、堺の宗易の門に入って、茶道修行に身を入れておるそうな。秀吉
いわんや堺、平戸そのほかの海港と、呂宋、安南、暹羅、満剌加、南支那一帯
日に着用する信長ひとりの装束のため、京都、奈良、堺などの唐綾、唐錦、唐刺繍の類から、まだ一般には珍しいゴブラン、印度
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――今もって、毛利に属する英賀城に三木通秋、山崎城に宇野祐清、朝水山城に宇野政頼など――あちこちに、うるさいのが、頑張っ
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摂津の花隈城陥落の日、この船手勢は、思いもうけぬ海上から霧を
摂津の伊丹、花隈の二城がくずれ、大坂本願寺が滅去してから、頓に増兵
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お手に入り、積年の禍根はのぞかれ、こうして宇治の清流を、爽やかにそれへ向って御入城あろうという――かかる日に
名ニシオフ宇治ノ山辺ノ坂口ニ、御屋形ヲ立、ココニテ一献進上。花沢ノ古城、
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はまた信玄がふかく心契していた道の師、恵林寺の快川和尚が筆になるものとは、どんな者でも知っていた。
やり場のない心を訴えようとしたのか、彼は、恵林寺の快川和尚を呼び迎えた。
信玄に聘されて、甲斐の恵林寺に来る前の快川和尚は、京都の妙心寺に出世し、美濃の崇福寺に
目標は、恵林寺だった。
ところがその夜半に、恵林寺の裏山づたいに、そっと脱け出したものがある。三人の法師だという。
織田九郎次、関十郎、数千の兵は、山門裏門から恵林寺へなだれ入った。
その夜、恵林寺に屯した数千の兵は、大半、快川の夢をみた。いや夢
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作戦をこらし、東は遠く北条、武田に呼びかけ、北は丹波の波多野一族から裏日本の諸豪を誘導し、全日本にわたる鉄のごとき反信長陣
(裏日本からは、丹波の波多野を始め、越前の残党も、あわせてふるい立ち、驕児信長を、中央に
丹波・丹後
細川藤孝を副将として、丹波、丹後の敵性を、一城一城、攻め陥して行ったのである。
さらに、ここは自分の働き場所――丹波の役であるという責任感もある。惟任日向守たるの誇りもある。断じ
その細川藤孝と、隣国丹波の明智光秀とは、親戚以上の親睦をつづけている。
また討たれ、播州の三木城、伊丹城の荒木村重、丹波の波多野一族までが――相次いで、征伐をうけ、本願寺からながめている
近畿にも、丹波、丹後にも、恃む味方は次々と倒れてしまい、いまは織田氏の圧力
、張合いが持てて、何となく励みがつく。――丹波、丹後、そのほか畿内も、住むにはもう安心だが、陽陰と陽な
に、あなたのことをば、きんか頭とよく呼ばれる。丹波のきんか頭(禿頭という方言)が負けずにやりおるわ――など
今夕、丹波へ帰国するので、ちょっとお顔を見に御門前まで立ち寄った――と
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すると、高松城の守将、清水長左衛門宗治だけは、ひとりその挨拶を欠いて、自分だけは
――一挙備中に入り、高松城を占め、進んで安芸の本城吉田山に肉薄して、否やなく毛利をし
、秀吉は蜂須賀彦右衛門と黒田官兵衛とを使いにたてて、高松城の城主清水宗治に、降伏をすすめた。
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と思われる時代は、この国内にだいぶ続いた。たとえば、吉野の宮の時代、足利幕府の初期、つづいて応仁の乱、義満、義政など
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三名が、首を揃えて、恐縮すると、秀吉は銚子をつきつけて、
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を数倍も大きくしたような構想をもった、かの大坂城の出現であろうとは。
もっと、誰にも予想できなかったであろうことは、その大坂城に君臨するものが、いま中国の一隅にあるところの、筑前守秀吉なりと
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それは、年久しく、甲州に質子として養われていた末子の五男御坊丸が、甲州の
として養われていた末子の五男御坊丸が、甲州の使者に伴われて、安土へ送り還されて来たことである。
それを――その御坊丸の身を、わざわざ甲州から送還して来たのであるから――信長のよろこびは、秀吉から於次
を与えただけで、あとは家臣と一しょになって、甲州の使者を歓待する宴席へ臨み、自身、酒をすすめてばかりいる。
程なく、甲州の使者たちは、満足して還った。信長はそのあとで直ぐ、
「甲州の勢いも、はや落日の褪色をあらわして来たではないか。――
ぬ質子を、送りかえして来たことは、われに寄せる甲州の媚態でなくて何であろうぞ。この一事によって見るも、甲軍の
日ごろ、信長が手もとに蒐めている甲州の近状やら、こんどの使者の言などを綜合して、もう一つ、信長
などを綜合して、もう一つ、信長をして、甲州の亡兆を確信させたものは、武田勝頼が、この夏の七月
「きびしい遠慮じゃの。……そうそう、久しく甲州に取られていた五男御坊丸が、武田家から送りかえして来たことを
さっそく、明春には、山路の雪の解けるとともに、甲州へ討ち入ろうとおもう……が、どうだな」
「わが君が甲州へお入りの頃には、秀吉の兵馬も、備中へ乗り入れ、芸州の毛利
「甲州と、中国と、その攻略はいずれが早かろうか」
「むろん甲州がお早く片づきましょう」
「甲州はまだ強国だ」
いや、敵国ばかりではない。甲州の中においてすら、ややもすると、
ひいては、信玄時代には、上下一般の信条だった――甲州ノ四境ハ一歩モ敵ニ踏マセタル例ナシ――という誇りにも、
と、甲州の将来に見通しをつけ出したことに始まっている。彼は、美濃の苗木
よりまだ八年。どうして、かくも急激に、わが甲州の武将どもは、かつての節義を失ったのでしょうか」
上杉謙信にすら、川中島以南、一歩も踏みこえさせなかった甲州の一族や武将のすることでしょうか。いったい、かかる士風の頽廃は、世の中の
一事だが、また信長の万事ともいえる。当然じゃ。甲州ならずとも、割拠の群雄に属するものが、みな帰するところへ帰してゆくの
した快川の心境から、世勢の大きなうごきと、この甲州の推移をながめていると、今、勝頼の痛切な質問にたいして答え得るもの
などの合流軍も、燎原の火のように、次々と甲州の外廓を攻めつぶして進んだ。
――こんどは甲州も保てぬ。
世変転化は、落花と倶に行く春の移りも早く、甲州の山野は信長の領下に染められ、右府信長の征旅は日程のとおりすすんだ
たか。――われら、骨折りたる効あって、この甲州に織田家の兵馬が充満ちて見ゆるは、まことにめでたい日であると
「画師の海北友松どのが、ちょうどこの甲州に旅しておられ、他は訪れぬまでも、殿にはちょっとでも
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帷幕に参じて、姉川の戦、長篠の戦い、さては越前へ、大坂へ、また伊勢路へと、御合戦のやむ間もない年々を
(裏日本からは、丹波の波多野を始め、越前の残党も、あわせてふるい立ち、驕児信長を、中央につつんで、ふくろ叩きと
まだ光秀が時にも主にもめぐまれず、越前の朝倉家に客となって、訪う人もない浪宅に微禄していた
と見極めて、共に、越前を脱して、将来の計を岐阜城に説き、以来、款を通じて、
、片翼をもがれたようなものだったし、つづいて越前の朝倉、江州の浅井、伊勢の長嶋門派の殄滅をうけたことなど――
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革まるとはいえないでしょう。中国を征し、九州を略し、四国を治め、陸奥を伐つとも、それのみで、上朝廷を安んじ奉り、四民を
、断じて姫路が優っている。なお、中国の攻略、四国の征定など、将来の大計を考えれば、姫路城に拠点をおくことの
四国へ渡海する考えを持っていた。なぜならば、これより前に、黒田
寄手の陣から後退して、急に、淡路へ渡り、四国に散在している雑然たる敵性の烏合に、しらみつぶしの剿滅を加えていた
四国に勢力を持って、頑然、信長に対抗している敵は、由来、
「四国の急へ」
とっては、飽くまで、中国攻略が経営の根幹であり、四国は、傍系にすぎない。
を安穏ならしめ、その須本城に仙石権兵衛を入れて、四国の抑えを命じると、また直ちに、官兵衛を連れて、姫路へ帰って来た
――折角、この身、日本に生れ、やわか、中国、四国、九州ぐらい見物して、それで生涯の満足ができましょうや。君には
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たうえは、それに懸る気残りもなし、同時に、安土城へ伺って、御処分を待たねばならぬ科もござれば、きょうこそ病褥
およそ、安土城が創まって以来の出来事にちがいない。山麓から目の下まで、かなり長い
まい。信長でさえ、眼に見たは初めてじゃ。この安土城の門をすら、筑前めは、狭くいたしおる。無双な大気者よ」
正月早々、年始の客は、こんなふうに安土城へ押しかけたものとみえる。ひとりの信長へ、ひと口の年賀をのべるために、
こえて、感激にひれ伏したのは、はからずも、この安土城のうちにかつてありとも聞いていなかった「御幸の間」を、この日
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とのことに、彼女もすくなからず驚いた。去年から伊丹城の中に囚われて監禁されているとか、荒木の同類になって立て籠っ
た。――もう改めていうまでもなく、今宵のひとりは伊丹城から脱出して来た黒田官兵衛孝高だったのである。
に対して、冷やかな感情の空虚を覚えた。単身、伊丹城へ入って、九死の中から一生をひろって帰って来たようなこの苦心
伊丹城から脱出した晩、暗夜のなかで、何者とも知れぬ敵に一太刀
「――かつて、わしが伊丹城の獄中に囚われていたとき、獄舎の窓に、藤の花が咲いて
久左衛門たち一族は、持て余したか、うろたえたか、伊丹城へも戻らず、尼ヶ崎を乗り取る術もなく、
織田信長の寄手の一軍は、機をすかさず、伊丹城へ入って、これを占拠してしまった。
一方、伊丹城を始め、花隈や尼ヶ崎の支城を捨てて諸所へ逃げかくれた男らしからぬ男ども
てしまった。松永久秀また討たれ、播州の三木城、伊丹城の荒木村重、丹波の波多野一族までが――相次いで、征伐をうけ、
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一剣護国の難にあたらせ、民ことごとくの憤怒が、筑紫の大捷となった時の如きは、それの最も歴然たるものだ。十万の
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かへ書いて与えた詩に、亀山城の北にある愛宕山を、周山に擬らえ、御自身を周の武王に比し、信長公を殷の
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の第五子、御坊丸というのは、ずっと以前、美濃の岩村城の城主遠山景任へ、養子にやった子であった。
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宇内のすべてが革まるとはいえないでしょう。中国を征し、九州を略し、四国を治め、陸奥を伐つとも、それのみで、上朝廷を安んじ
折角、この身、日本に生れ、やわか、中国、四国、九州ぐらい見物して、それで生涯の満足ができましょうや。君には、如何
信長は不審な顔をした。九州はまだ彼の勢力下でない。九州の諸大名と海外との交友や通商
顔をした。九州はまだ彼の勢力下でない。九州の諸大名と海外との交友や通商には、彼も尠なからぬ神経を
ほとんどが、九州の大藩の子弟だった。伊東義益の甥伊東アンシオの名もその中に
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大坂石山本願寺の頑強な交戦力は、信長がいかに畿内の陸上から包囲しても、その交通路を遮断しても、すこしも衰えるふう
何となく励みがつく。――丹波、丹後、そのほか畿内も、住むにはもう安心だが、陽陰と陽なたほどな違いがある
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見極めて、共に、越前を脱して、将来の計を岐阜城に説き、以来、款を通じて、今日までその志を、信長に託して
織田中将信忠の岐阜城へ、蘭丸が使いした用件というのは、かねてそこの金蔵に入れて
が、なんぞはからん、その後伝えられたところによると、岐阜城の金は間もなく、続々金蔵から搬出されて、世の陽の目を見
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たちまち御快方に向うと、秀吉さまの帷幕に参じて、姉川の戦、長篠の戦い、さては越前へ、大坂へ、また伊勢路へと
姉川の戦いにも、またその以後も、殊勲のあるたびに竹中半兵衛は信長から
とは、かつて、姉川の役に、半兵衛の殊勲が聞えたとき、直接、信長から彼にもたらした
姉川、長篠の戦いなどの時からみると、こんどの甲州討入りは、まるでわが畑
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なって、敵の大軍をみなごろしにするのだ、叡山の焼討ちだなどと、肌着の大掃除をやっていたところでございます」
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由であるが、信長としては、三河、近江、和泉、紀州、そのほか根来衆など、七ヵ国の在郷に、人力、兵糧、何事に
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細川藤孝を副将として、丹波、丹後の敵性を、一城一城、攻め陥して行ったのである。
細川藤孝は、丹後の一色義直を亡ぼして、その田辺の城を、信長に献じ、信長から、
近畿にも、丹波、丹後にも、恃む味方は次々と倒れてしまい、いまは織田氏の圧力を、
「わしは丹後から移って来た」
が持てて、何となく励みがつく。――丹波、丹後、そのほか畿内も、住むにはもう安心だが、陽陰と陽なたほど
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石山本願寺、西国の毛利、こう両面の二つの旧大勢力こそ、まさしく信長の敵
大坂石山本願寺の頑強な交戦力は、信長がいかに畿内の陸上から包囲しても、その
と、号令一下すれば、石山本願寺を中心とする全大坂の教団街は、一挙に、灰ともなし得るほど
の一丘に、巍然たる特異な法城を構えていた石山本願寺も、もう以前ほどな実力はなくなっていた。
みなければならない。どう楽観的にみても、いまや石山本願寺は、あらゆる外勢力と絶縁された無援の島であった。
こうして極めて合法的に石山本願寺の空け渡しはすんだが、そのあとで、一炬、全山の堂塔伽藍と、
信盛父子は、ここ五年ばかり、石山本願寺に対する寄手の大将として、大坂の抑え城に在番していたの
それ、これ、思い合わせれば、石山本願寺の滅散後、鈴木重行が、何かの縁をたよって、明智光秀に恃み
か世間に出て、信長のため薩摩に使いしたり、石山本願寺との交渉に出向いたり、そしてことし二月、太政大臣の重職を拝してい
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劃期をさがすならば、彼が光秀へ感謝するの余り、坂本城を与え、亀山の本城を持たせ、惟任の姓をさずけ、むすめの嫁入りに
が、海北友松は、江州堅田の人。つまり光秀の領する坂本城の近くに生まれた由縁をもっている。
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秀吉は、その前に、鹿野城を陥したとき、多くの降人の中から山名豊国のむすめを見出して、
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午前八時)の頃としなれば、遠く、下京の本能寺から、貝の音は聞えて、――一番隊、二番隊、三
群集から、さらに大きな歓声をもって送られながら、宿所の本能寺へもどって行った。
こよい四月十九日から、わずか四十余日の後には、本能寺の猛火の中に、その肉体を一塊の灰となしていた信長だった
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を立って、美濃の国許へまかり越え、その足ですぐ安土へ伺い、信長公の御処分をうけようと思う。――貴公のことは、
「――では、安土へ行くと仰せあるは、信長公に謁して、その罪を自首する思し召です
の座へすえられよう。その儀なれば、黒田官兵衛自身、安土へ参上して、一切を申しひらく。あなたは、ここにおいで下さい」
すぐ旅立ちのお支度を遊ばして半兵衛重治様とともに、安土へおいでになるのです」
「安土へゆくのだ。ここの殿とご一しょに、旅へ立つのじゃそうな
も目通りも、直臣の格に扱われていた。いま安土の城へのぼって来た半兵衛重治は、側に、官兵衛孝高の嫡子於松を
あくる朝、播磨へ向うべく、安土を早く立った。京都を通った。南禅寺の屋根は蹴上からその森を見下ろし
をおこさぬ限りもない。ここからすぐ御同伴申すゆえ、安土へ参って、信長公に直接お会いなされては如何」
。そして灯ともし頃、ここで身支度をして、すぐ安土へ出発となった。
織田信澄らの味方へも、まず面目を保ったし、安土へ対して、勝軍を報じることができたが――彼の心中には、
例によって、秀吉は、何かにつけ、いちいち安土の信長へ使いを派していた。
首は函送して、これを、安土の信長に供え、遺物の種々は、安芸の吉川元春の許へ送り届けてやっ
て、その使者にえらび、即日、手書を持たせて、安土へやった。もちろん右府信長へ宛ててである。
末子の五男御坊丸が、甲州の使者に伴われて、安土へ送り還されて来たことである。
中国の総督、羽柴筑前守秀吉、安土へ上府す――と公然に称えて、彼は、その任地播州姫路からものものしく
そして安土へ、着くと、
また、少し見ない間にも、安土の町とその文化が、長足な進歩を遂げているには驚いた――
――今朝、その宗易は、疾くから、安土の園内の茶室に入って、ひとりの茶弟子を手伝いに、しきりと室内の
陽がこぼれている。いま茶席の柴折門を辞して、安土の庭を戻ってくる秀吉の影を慕って、
時、年暮なので、歳暮の祝儀を述べるため、安土へ参向の諸侯が期せずして集まっているせいもある。あすは北陸の
三ヵ国の宣教師しかおりませんでした。けれど近頃、この安土の町に住んでいる異国人の種類はたいへんです。皆が皆、宣教師では
黒奴については、秀吉はそう瞠目もしなかった。安土の城内で度々見かけていたし、また宣教師から薦めたものということも
。いや、それを聞いて、安心いたした。つい間近の安土まで参りながら、ちょっとの暇に、顔ぐらいは、見せに来てもよさそう
がお見えなされて、久しぶりのことである、筑前が安土に参っておるゆえ、寧子様を伴い、ちょっとわが城へ来て対面して
お答えには、中国の役すら、まだ半途と聞く、安土に来たのも、公の御用、こちらから婆や妻などが会いになど
ゆうべ安土へ暇乞いに登ったとき、信長から拝領物の目録を賜わった。その品々を
、桑実寺の門前町から流れ出てゆく時、使者の蘭丸もまた安土の城門へむかって帰っていたが、何ぞ知らん、この地上におけ
、麾下の将士に、こんな訓示をしたのも、こんど安土から姫路に帰ってくる途中、船中で彼自身が大いに覚ったことが要因と
中国陣の秀吉と、安土にある信長とは。
すでに、数日前から、安土の町々に旅舎をとって、待ちかまえていた大小名や、或いは、有資格者
は間もなく奉行の手から城下の役所へ下げ渡され、安土の町々に窮民を尋ねて、この正月をぽかんとしていた貧民を戸
信長は安土を出た。供の衆は前夜からきまっていたが、ちょうど参り合わせた
その時の帰り途である。鷹狩の列は安土の町へ入って来た。――と、信長は駒を停めて、木立
て来ない。信長は大きな意義を文化に賭して、この安土の一区劃にも、南蛮寺やその学校を許していたが、さてこう
洞察している。その二つをあわせて、信長は、安土の城にもある地球儀を、いつも眺めているのである。
久兵衛を介して、もう二年も前からひそかに款を安土の信長に通じていたのであった。
「安土の信長、織田麾下へ、急に出動の令を発し、すでに、信長自身も
――親切をこめて、わざわざこちらから信長の質子を安土へ送り返してやったのは。
、ようやく世人に認められて来ていたが、なぜか安土の襖絵を信長から委嘱されたときには、病気と云い立てて、乞い
立って、甲府に向う。そしてさらに、東海道を経て、安土へ凱旋という予定。
「右府には、富士見物をしながら東海道を経て、安土へ御凱旋とうけたまわるが、予も共々、同道してよかろうか。何のお
こうしていよいよ彼が安土へ着いたのは、黄昏れ早めの時刻であったが、城下全体はこの日
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を趁うと、またいつか世間に出て、信長のため薩摩に使いしたり、石山本願寺との交渉に出向いたり、そしてことし二月、太政
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をつけ出したことに始まっている。彼は、美濃の苗木城の遠山久兵衛を介して、もう二年も前からひそかに款を安土の信長
もう敵国の中に、敵ならぬ味方がいた。苗木城の苗木久兵衛も、木曾福島の木曾義昌も、彼の旗を、ひたすら待って
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叡覧にそなえ奉る曠の日にてあるぞ。明国、南蛮、西夷の国々へまで聞えわたるわが国振の武家式事ぞ。心いっぱい豪壮せよ、美術
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いわんや堺、平戸そのほかの海港と、呂宋、安南、暹羅、満剌加、南支那一帯の諸港
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は、世間のうたがい、物笑い、日本にとどまらず、明国、高麗、天竺、南蛮までの恥さらしである」
で朝鮮まで行けるやとのお訊ねでございましたが、高麗、大明はおろか、安南、柬埔寨、婆羅納、暹羅、高砂、呂宋、
「幸いに、高麗も明も、元ほどな威を、彼もその時代は、持たなかったから
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なおなかなか骨が折れよう。――今もって、毛利に属する英賀城に三木通秋、山崎城に宇野祐清、朝水山城に宇野政頼など――あちこちに
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候わず、高砂、屋島などへの通いもよく、市川、加古川、伊保川などの河川をめぐらし、書写山、増位山などの嶮を負い、中国
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「石山の法城を中心に、方八町の門前町、そのほか浪華三里の内の町屋、港、橋々などを、兵火にかけて
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がした。兵馬倥偬の中に、武人として、伊勢神宮を修理したり、禁裡の築土の荒れたのをなげいて、御料を献じ
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六条の河原では、やがてそれらの可憐しい和子たちや女房たちの打首が執行
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爪哇、満剌加はいうに及ばず、遠くは奥南蛮から喜望峰の岬をめぐり、大西洋へ出て、西班牙、葡萄牙、羅馬、どこへで
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勝頼の叔父逍遥軒すら、伊那郡の一城をすてて逃げたほどである。一条右衛門大夫、武田上野介、同
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梅が咲く。――南禅寺の山門あたりにも、この草庵の軒ば近くにも。
南禅寺の鐘はのどかに午をつげている。戦国とはいえ、梅が咲けば
その兄の立つのを、おゆうは南禅寺の門前で泣きながら見送った。もうふたたび帰って来ない兄と思うて泣くの
畏まってすぐあとへ駈けて行った。半兵衛はもういちど南禅寺の境内を見下ろしていたが、
へ向うべく、安土を早く立った。京都を通った。南禅寺の屋根は蹴上からその森を見下ろしただけで、遂に立ち寄らなかった。
跛行の男は、数日前、南禅寺の一庵で、竹中半兵衛とわかれて来た官兵衛孝高なのである。―
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は、信長はもう去って京都へ移っていたが、二条城に入るや否、彼はまたまた、宿老の林佐渡守通勝や、安藤伊賀守
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有馬の温泉町は暮れかけている。池之坊橘右衛門の湯宿へ、いま、ふたりの
、道をかえた。――それにしても、この有馬の温泉町へはいるには、細心な警戒を要した。何分にも、
に行くと仰っしゃいましたが、どうして、この有馬も油断はなりません。強って、てまえがお止め申して、実は瀬ぶみ
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すぎてお在でたからじゃ。五年余の間、天王寺に在陣中も、茶之湯ばかりに凝られて、陣務はいっこう怠って
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信長は、払暁すでに、大宮を立って、浮島ヶ原から愛鷹山を左に見て進んでいた。旅行中も、寝るには晩く、
四月十三日。払暁ニ大宮ヲ立タセラレ、愛鷹山ヲ左ニ御覧ジ、富士川ヲ乗越サセラレ、蒲原ニ御茶屋ヲ構ヘ、一
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通れようとは考えられぬ。如かずこの上は、郡内の岩殿山にひとまず御籠城遊ばし、その上の御思案。そのまにはなお、四散し
残る問題は、上州吾妻へ遁れて行くか、岩殿山方面にたて籠るかの二つだった。しかしそのいずれにしても、この新府
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大井川は、馬で渉った。
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稲葉山の新緑に、また、ここは信忠の城でもあるし、信長はもうわが家
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が、何かの縁をたよって、明智光秀に恃み、亀山城の家中に、姓名を変えて、なお生きているということは、蘭丸
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諏訪の高原から木曾福島へ、甲軍の部隊は、幾筋にもわかれて行った。
けれど、日を経て、諏訪之上原の本陣へ聞えて来る戦況は、一として、武田四郎勝頼父子に、
所詮、この程度どころでない大悲報が諏訪へはいって来た。このときの混乱と騒擾と、武田方の生色を奪っ
小山田信茂やその他のすすめで、勝頼はにわかに諏訪之上原から引っ返した。さあれ何たる寂寥さだろう。二万余人と数えられた兵数
木曾口や伊那を攻めた兵もやがて続々諏訪に集結した。諏訪は信長の軍勢であふれた。
や伊那を攻めた兵もやがて続々諏訪に集結した。諏訪は信長の軍勢であふれた。
客は、海北友松という画人。この諏訪の人ではない。
は、宿舎の割当てがつかないため、一部の将は、諏訪の町家に分宿していた。
を待っていた。今朝、法養寺に勢揃いし、諏訪を立って、甲府に向う。そしてさらに、東海道を経て、安土へ凱旋と
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、彼が光秀へ感謝するの余り、坂本城を与え、亀山の本城を持たせ、惟任の姓をさずけ、むすめの嫁入りにまで世話をやき
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おったのだ。なんと、わしは邪推ぶかい漢よ。筑前に対しても、官兵衛孝高に対しても間のわるいことではある。―
「半兵衛……。わかるか。秀吉じゃ、筑前じゃ、どうだの、気分は」
「筑前と日向とは、まず、織田軍の双璧であろう。いずれも錚々、いずれも
「誰が、いつ、降伏致すと申しやったかな。筑前のひとり呑込みであろ。筑前が望みは、城中の難民やわが士卒の生命で
致すと申しやったかな。筑前のひとり呑込みであろ。筑前が望みは、城中の難民やわが士卒の生命ではあるまい。鳥取の城
「開城のこと、同意いたすであろう。立ち帰って、筑前どのへ、そう伝えてくれい」
「――だが、あわせて、この儀も慥と、筑前どのへ御念を押しておかれたい。山名の二臣は、飽くまで馘る
を、非常なおたのしみとしておらるるらしく、明朝、筑前が登城のみぎりには、こう饗応せい、こうもてなせと、御自身、おさし
「なに、筑前が見えたと」
「久太郎、九右衛門。……筑前はどこに通っておるか」
「筑前らしいわ。気も軽々と見えたもの哉、せっかくのこと、会わずに帰す
もこよいは実に軽々と見うけられた。――それ、筑前に褥をとらせよ、寒いから手炉を与えよ、茶よりも、酒がよかろう
いたが、思いのほか、却って、若やぎて見ゆる。筑前、ひと頃よりは若うなったのう」
「筑前」
「ムム、そうか。筑前も旅装を解いたのみであったな。さだめし疲れていたろうに」
「そうそう、これは筑前が落度でござった。では、お後にでも」
「筑前が心をこめての献上品、篤と見てやらねば、彼の誠意に
、夥しい進物の台の数ではないか。あれがみな筑前の手みやげなりと彼は云いおる。中国入りのしるしまでに、携えて来た
に見たは初めてじゃ。この安土城の門をすら、筑前めは、狭くいたしおる。無双な大気者よ」
「筑前には、但馬、因幡などの陣中でも、折ふしには、茶をいたされ
「いや、そうはいえません。これは筑前どのに限ったことで」
、ここの御亭主がよく仰せられるおことばにも――筑前は大気、宗易は名器、一対の者と、一しおお目にかけ
「筑前には、その後、宗易とも久しゅう会わぬことであろうの」
「そうですか。それを聞いて、何やらこの筑前までが、ほっと安心いたした。中村にいた頃からの幼友達ですからな。
「思い出した。その於福とやらのことで思い出した。筑前がさい前、得意になって話された大明の知識は、於福が幼少の
客どのに恥をかかせんなどという気はなかったが、筑前にも、海外の事どもに、さる関心を持っておるやと、心から
がまず十中八九といってよい。――然るに、筑前には、茶席において唐物茶入れ一つ見るにも、異国の茶わん一つ
気にとめぬがよろしい。僭越とお叱りなくば、この筑前のごとく、物事にちと無神経でおられたら――と申しあげたい」
「筑前。何をさがしているのか」
「筑前、筑前。そんな所をいくら見ていても日本はないぞ。その辺りは
「筑前、筑前。そんな所をいくら見ていても日本はないぞ。その辺りは、羅馬
「筑前。見よ」
の使いがお見えなされて、久しぶりのことである、筑前が安土に参っておるゆえ、寧子様を伴い、ちょっとわが城へ来て対面
非常な御不首尾でお帰りなされた。きっとその鬱を筑前どのに聞いて戴こうと思っていたにちがいない」
、いよいよ剣槍を研ぐべしと叱咤するだろう。これ決して、筑前が求めるに非ず、信長公が強いるのでもない。天地の命だ、
その奉行におわし、秀吉はそのお手先の一人たり。いま筑前その任をおびて、この中国に軍をすすめ、毛利を討つも、毛利に
「筑前の老母は息災か」
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鷹之尾、八幡山などの、敵の支塁も、夕靄につつまれていた。
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嘉隆は、伊勢の産だとあり、その一子は、鳥羽の城主原監物の聟でも
(多寡のしれた伊勢や熊野の漁夫兵、大国毛利の水軍の面目にかけても揉み潰せ)
ものだったし、つづいて越前の朝倉、江州の浅井、伊勢の長嶋門派の殄滅をうけたことなど――満身創痍の傷手だったといっ
信長が、伊勢へ出馬したとき、その留守に、甲州軍を引き入れようと計ったらしい形跡が
しかも、その金はみな、陸輸海運などで、みな伊勢へ送り出されていた。
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伸ばして来た信長は、まったく、ことし四十九の今日まで、富士山を見ていなかった。
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と、驚かれるばかり、この城下の様相は一変して、山陰地方の離民を吸収した。
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うわさには、花隈から兵庫の浜へ出て、船をひろい、備後の尾道へ落ちて行ったとある
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という軽視は充分に残していたし、浜松の徳川家康に対してはなおさらのこと、
大天龍には船橋が架けられてあった。やがて浜松に入る。浜松は家康の居城ではあり、同盟国の城下なので、その
には船橋が架けられてあった。やがて浜松に入る。浜松は家康の居城ではあり、同盟国の城下なので、その歓迎には、
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と、武蔵野に狩猟して獲たという雉子五百羽を贈って来た。
北条氏政が、苦労して、武蔵野の雉子や、相模の名馬をあつめ、これをうやうやしく献上に出ても、
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「丹波国にある惟任日向守の働きをみろ、天下に面目をほどこしているではない
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攻略、四国の征定など、将来の大計を考えれば、姫路城に拠点をおくことの利は、議論の余地もない。
鳥取を始末し、馬之山に対陣し、姫路城へ帰るとすぐ、
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夜は這い出て、道ばたの堂にやすんだりして、やっと京都まで参りました」
わざと寄手のお味方へ救いを乞うことを避けて、この京都までやって来た。何はともあれ、貴公のお顔も見たいと思っ
あくる朝、播磨へ向うべく、安土を早く立った。京都を通った。南禅寺の屋根は蹴上からその森を見下ろしただけで、遂に
な、彼女はすぐわずかな従者をつれて危険も思わず京都を立ち、
七、八人ずつ乗せ、それを幾輛もつらねて、京都の町々を引き廻しにして曝した。
八年の二月、大挙して、京都へ出た信長は、その夥しい人数と行装の威を誇示しながら、山崎
五日、その月十七日には、信長はもう去って京都へ移っていたが、二条城に入るや否、彼はまたまた、宿老
だから自然に、茶事の往来も聞かれず、堺や京都を中心として、いわゆる「茶家」と呼ばれている者の門戸まで
「京都の六角堂の隣に住む武野紹鴎のことです」
が訪い、市橋九郎右衛門と不破河内守が同道して見え、京都の貴顕から使いやら、近郷の僧俗から、種々の物を持って、
「いやいや、お急ぎ下さるには及ばぬ。いずれ一夜は京都のつもりですから」
京都
秀吉は京都に一泊した。
京都。――京都のすがたは実に一変した。
京都。――京都のすがたは実に一変した。
ている者はみなそういう。二十年、三十年前の京都を見ている人々はなおのこと、隔世の感なきを得ないという
わずか十年前の京都を知っている者はみなそういう。二十年、三十年前の京都を
のある――あの富士の秀麗な山容を――今の京都にふと思いあわせた。
(――今の京都は、晴れた日の富士のようだ)
着用する蜀江の小袖の袖口につかう金縒を捜すため、京都中を奔走してようやく適当な品を見出したというほど、金力と人力
もっとも、この日に着用する信長ひとりの装束のため、京都、奈良、堺などの唐綾、唐錦、唐刺繍の類から、まだ一般に
秀吉は今、京都を通過しながらその日を偲び、また主君の一日の偉大を考え、ひいては
しても、それを安土で観ようとなると、江州、京都、浪華そのほかの遠国からも千五百人からの相撲取をあつめて興行したり
「ワリニヤーニは、そのため、去年京都を去る折、口惜しげに申しておりました。安土の主君様の御
れて、甲斐の恵林寺に来る前の快川和尚は、京都の妙心寺に出世し、美濃の崇福寺にいたのである。
いま京都に家を持っているが、海北友松は、江州堅田の人。つまり光秀
で、室町幕府からも妙な眼で見られたらしい。京都へ帰るとまもなく職を削られ、前久自身は、失踪してしばらく
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――で、岐阜以来、登城も目通りも、直臣の格に扱われていた。いま安土
見極めて、共に、越前を脱して、将来の計を岐阜城に説き、以来、款を通じて、今日までその志を、信長に
、もう十数年前になる。信長が、斎藤義龍の岐阜を攻めるに当って、金華山の峰つづきを、その裏山から攀じて奇襲
さて、この曠世な大演武には、信長の一族、岐阜中将信忠、北畠中将信雄、織田三七信孝、柴田、前田、明智、細川、
使いに派遣されていたが、公務を果して、岐阜の城から帰って来た。
「岐阜の御金蔵の鳥目一万六千貫、のこりなく束ね直して参りました」
織田中将信忠の岐阜城へ、蘭丸が使いした用件というのは、かねてそこの金蔵に
が、なんぞはからん、その後伝えられたところによると、岐阜城の金は間もなく、続々金蔵から搬出されて、世の陽の目
と、いって、かねて有事の備えにとしてあった岐阜蔵の金子をそれに捧げたのである。信長のケチはこうした
、川尻与兵衛、毛利河内守、水野監物、滝川左近などの岐阜から岩村へ入った軍勢など、その行くところ敵なしという有様だった。
のみならず友松は、以前、武人として、岐阜の斎藤家に禄仕していたことがあるので、その頃から
、浪人後、画人生活に入って行ったのには、岐阜の滅亡という理由が進退を明らかにしているが、利三が、故主
二十日は、岐阜に着く。
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こういう者もあるし、また福島市松なども、この三木城攻めには、別所随一の剛勇と聞えた末石弥太郎
「市松だッ、羽柴の家来、福島ッ――市松ッ」
、幕打ち廻したそこの玄関へ訪れると、中小姓の福島市松と加藤虎之助のふたりが、出迎えに出て、
近状を問い、自分の健康をも告げて、加藤虎之助と福島市松のふたりに、使いとしてそれを持たせてやった。
福島市松と加藤虎之助は、この出発間際の寸暇を見て、秀吉の前へ
木曾福島を守る木曾義昌が、信玄のむすめ婿でありながら、方向一転を計り出した
諏訪の高原から木曾福島へ、甲軍の部隊は、幾筋にもわかれて行った。
「福島の嶮岨を擁し、難所に奇計をもうけ、お味方の先鋒もまだそれへ
ならぬ味方がいた。苗木城の苗木久兵衛も、木曾福島の木曾義昌も、彼の旗を、ひたすら待っていた者に過ぎない
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れるようにたのみ申すのだ。何分たのむ。――そして岡山の宇喜多直家と聯絡をとられ、児島地方に砦をかためて、一先ずは
堂々、岡山城に着く。
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「まず、鳥取の城を」
官兵衛は、若狭方面へ潜行して、その船舶を買い占め、鳥取地方に散在している食糧という食糧は、あらゆる手段をつくして他へ
官兵衛から、時到れりと、鳥取城の弱まった情報を手にすると、秀吉は初めて、軍をうごかして
鳥取の城には、初め、山名豊国がたて籠っていた。
上に戴くのでなければ、士気の程も心もとないという鳥取からの要請に、吉川経家が新手八百余人をひきつれて、城へ入っ
秀吉は、鳥取城外の帝釈山に陣し、水ももらさぬ包囲陣を布いていた。
かくて、山陰第一の要塞を誇っていた鳥取城も、自焚全滅か、開城降伏のほかはなくなった。
七月中でさえ、鳥取城のうちには、もはや一粒の糧もなく、兵のうちにも
「主人筑前守には、この鳥取城のお守りを、よくこれまでお支えなされたと、口を極めて
は、城中の難民やわが士卒の生命ではあるまい。鳥取の城であろう。そうはやすく参らん。これには、経家が住ん
抱いていたのである。到底、持ち支えようはない鳥取城の守将として彼の信念した肚のものは、
秀吉が、鳥取城を占領すると、まっ先に手をつけたのが、城中の飢民と
「これからは鳥取も、羽柴筑前守様の治下になる」
それはともかく、鳥取陥落の報に、毛利方のうけた衝撃はいうまでもない。
鳥取を始末し、馬之山に対陣し、姫路城へ帰るとすぐ、
なぜならば、これより前に、黒田官兵衛の手勢は、鳥取城の陥落も見ずに、寄手の陣から後退して、急に、
なくなった。急は、秀吉に通報され、秀吉は、鳥取攻城中の兵力を割いて、黒田官兵衛に仙石権兵衛を添え、
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味方の諜者が、苦心して写しとって来た甲府の躑躅ヶ崎の絵図面である。これを世上一般では甲館と称したり、
わかろう。――しかしすでに、子の勝頼となっては、甲府、韮崎のみしか、彼の城でない」
なども、出どころは、ひょっとしたら先頃帰国したという甲府筋の者ではないかな。――それが人に火のついた
と、武田勝頼は、父祖数代の古府――甲府の躑躅ヶ崎からこの新府へ――年暮の二十四日というのに、引き移っ
甲府の領民は、誰もがそんな哀愁に似た感じを抱いた。そしてこの
ているからでしょう。――ここを一まずおいて、先に甲府、韮崎を攻むるのも一策ですが、そうするには全体的な作戦
「ともあれ、四面すでに敵、甲府は盆地なので、一度敵の侵攻に会っては、湖の底
小山田信茂が城を恃んで、甲府の旧館もよそに見ながら、山へ山へと、めざして行くので
の民家までも黒煙としながら、残兵を狩り立てつつ韮崎、甲府へ向って夜も日もなく急進して来るという。
。今朝、法養寺に勢揃いし、諏訪を立って、甲府に向う。そしてさらに、東海道を経て、安土へ凱旋という予定。
信長はもう甲府にいた。
こともあったりして、信長はその月十日、いよいよ甲府を出発し、待望の「富士見物」をしながら凱旋の途についた
彼の全軍が、甲府を出る朝の町々は、この盆地の城府がひらかれて以来の賑いだっ
、北条氏政の仕方は、心のそこが見え透いておる。甲府から大宮までの道すがらにも、随所に氏政の手勢が働き様は、この
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、この日に着用する信長ひとりの装束のため、京都、奈良、堺などの唐綾、唐錦、唐刺繍の類から、まだ一般には珍しい
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「長崎から媽港あたりまでですと、順風でおよそ十四、五日には着きましょう
ついこのお正月までは、日本におりましたが、もう長崎を立って、媽港から印度のほうへ帰ったかもしれません。
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備中高松の城主、宮路山の城主、冠山の城主――加茂、日幡、松島、
すると、高松城の守将、清水長左衛門宗治だけは、ひとりその挨拶を欠いて、自分
――一挙備中に入り、高松城を占め、進んで安芸の本城吉田山に肉薄して、否やなく毛利
、秀吉は蜂須賀彦右衛門と黒田官兵衛とを使いにたてて、高松城の城主清水宗治に、降伏をすすめた。
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神官達の案内で、頼朝の狩倉のあとを質し、白糸の滝を見物し、また、しばし浮島ヶ原に馬を立てて、舂く夕富士にわかれ
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神戸三七信孝が来てひかえていたのである。信孝は、四国攻めの
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このほか、大崎藤蔵とか、黄母衣組の古田吉左衛門とか、蜂須賀彦右衛門の子家政とか
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(――まるでこの世のお方とも見えない。住吉明神の御影向でも仰ぐようだ)
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ぐらいな年賀税は徴してもよろしかろう。――堀久太郎、蒲生右兵衛、ふたりして明日は奉行せい」
(堀久太郎と蒲生忠三郎。ふたりして相撲え)
忠三郎とは、後の蒲生氏郷。久太郎とは音に聞ゆる堀秀政である。こういう一世の人物や
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廿三日。滝川一益を、上野信州の二郡に封じ、関東管領の重職にのぼす。
上野ヶ原、井手野、富士の裾野の平らかな限りを、駈けに駈け、狂い
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ところへ、大宮神社の神官、社僧などが、大勢して、出迎えに見えた。信長は
馬を立てて、舂く夕富士にわかれを告げながら、やがて大宮の宿駅へさしてこの行軍はゆるやかに流れていた。
だが、一歩大宮に入ると、軒ごとに万燈をともし、幕をもって壁をかこい、
、徳川家康は、自身、譜代の家臣とともに、この大宮に待ちあわせて信長の迎えに出ていた。信長一行がここへ着いた
その夜の泊りは、大宮神社の社内だった。本殿、拝殿をのぞく以外は、すべて信長一行のため
氏政の仕方は、心のそこが見え透いておる。甲府から大宮までの道すがらにも、随所に氏政の手勢が働き様は、この眼で
なっていたが、北条勢の働いたのは、この大宮近傍から裾野の寒村あたりを焼き払っただけで、さして重要な所には少し
信長は、払暁すでに、大宮を立って、浮島ヶ原から愛鷹山を左に見て進んでいた。旅行
四月十三日。払暁ニ大宮ヲ立タセラレ、愛鷹山ヲ左ニ御覧ジ、富士川ヲ乗越サセラレ、蒲原