梅里先生行状記 / 吉川英治
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だらしがないようです。たとえば、江戸表の彰考館――小石川のおやしきの史館などには、大日本史編纂のお係りとして、
その年、史寮を移して、小石川の邸内のほうへ、新たに「彰考館」をたてた。
「でも旦那は、これから真っすぐに、水戸様の小石川のおやしきへおいでになるんじゃございませんか」
係りの佐々介三郎なる者が、先頃、西山への帰途、小石川のお館にも立ち寄って、委細報告して帰りましたが、それによる
小石川の本邸でさえ、その不意打にうろたえた程だった。西山を出た老公
城を退って、小石川のやしきへ、老公の駕籠がもどって来たのは、まだ陽の高い頃
べつに、一挺の塗駕籠は、小石川の邸から添えられている。馬の背に疲れたらそれへ移ればよいわけ
「ゆうべ、先に、早馬で立った。――小石川へお先ぶれに」
江戸表に着いて、小石川のやしきに入ると、老公は、風邪ごこちやら、多少つかれ気味ともいわれ
と、小石川の家臣たちは、お下婢や小者の端にいたるまで、忙しさをみな歓ん
小石川の邸内には、以前から一閣をなしている能舞台がある。
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かすると、この太平記読の小屋が、上方でも関東でも見かけられたが、太平記読の声がするところ、かならず貧乏人のにおい
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。……いまでも覚えておるが、五歳、はじめて水戸城に入り、七歳、冠をうけて、将軍家に謁し、晴れて世子となっ
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特に、領内の鹿島神宮には、生前何十遍、参拝されたかしれない。
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と、各※、大坂や堺のわが家へひきあげて行った。
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茨城郡の一村に、弥作という愚鈍がいた。たれにいわせても、
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で、光圀がかれを登庸して、三百石、五百石、千石と加増して行っても、藩中不平の声などはなかった。
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(はからずも、河内の一院で、楠公の神牌を拝しました。それには贈三位左中将
て少ない中に、よく三、四千の小勢をもって、河内の小盆地にたてこもり、正行、正時の成人を待っていた十二年間の苦節
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、正時の兄弟は、父の遺訓にもとづいて、前の年から四天王寺や和泉のさかいで大捷を博し、転じて、八尾の城を屠り、誉田の
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「潰走する足利の大軍を追いかけ追いかけして、その頃の難波津から渡辺橋のあたりまでよせて来たのが十一月の末、二十六日の
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の古材木の端に腰を正しくすえて、昼ならば筑波の見えるほうの空へ心もち頭を下げてからいった。
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拾ったというと語弊があるが、彼が箱根で山駕にのると先棒をかついでいたのが、この勘太で若くて
「箱根のむこうさ」
さがしておりました。が、いい奉公口も見あたらず、箱根に来て、駕かきの仲間にはいっているところを……実あ旦那に
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行状に顕著な変化を来したのは、父と共に鎌倉へ旅行した寛永二十年の夏がさかいではなかったかと思われる。
祖母の一周忌に参列するため、父や家来と共に鎌倉の英勝寺へ詣でた。まことの母にもまさるほど、かれを愛してくれ
それがこんど二度目に、鎌倉の寺へ詣でて、夏木立につつまれた伽藍のなかで、じっと、衆僧
一つの思い出であり、東海道筋では、幼年のとき鎌倉の菩提寺へ参詣したことがある限りじゃ。――この老齢にいたるまで、
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の兄弟は、父の遺訓にもとづいて、前の年から四天王寺や和泉のさかいで大捷を博し、転じて、八尾の城を屠り、誉田の森で
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前の年から四天王寺や和泉のさかいで大捷を博し、転じて、八尾の城を屠り、誉田の森では、足利がたの細川勢を粉砕したり
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に遊楽に暮したかろう。――世はいま元禄五年、江戸も京も、他領の国々も、なべてそういう風潮の世であるものを。
心にもなく、さるお方の義理にひかれて、江戸へ行くことになるだろうとかいうおうわさで」
苦学して、江戸に出、林羅山にまなび京の縉紳にまで知られた。
生前、多くは、史業のため、かれは江戸の史館や私邸にいたが、光圀が国許にいるあいだは、卜幽
たが、そこでおれの決心はただ一つしかない。江戸へ出て、柳沢吉保に近づき正理を説いて、かれの自決をせまる。もちろん
て、流産してくれよ……と、泣いていいふくめ、江戸のやしきより水戸の三木仁兵衛が家に身を預けられたものじゃ」
真髄を明示されてから、断然、髪をたくわえて、江戸にのぼりました。――三十歳ごろですそれが。……いや壮気満々の
佐々介三郎が江戸へ寄ったのは、もう二月にはいっていた。兵庫からこう日数の
裏町であるが、片側は柳や桐の火よけ地で、江戸の中だが田舎びている。家は小さく、客もすくない。二人はそこに
。寛永元和の戦国期にわかれを告げて六十年余、江戸の文化は、芳醇な新酒のように醗酵して来た。いや元禄にはいっ
場合や、軽蔑の意味につかい始めて来たのも、江戸に住む近頃の小市民からであった。
にも、一年あまりか没頭して、京、大坂や江戸の世相を――いやその裏面をふかく観られる機会も少ないため、いわば世俗の
袷を着、風も秋めくと、毎日のように、江戸のどこかしらで、笛太鼓の音の聞えない日はない。わけて浅草界隈は
江戸に来てから、転々、住居も定らないでいる頃、お次が使いの
この江戸へ来て落命することはなかったろうに。
で、どなたにお仕え申して、また、なんの為に江戸へ来たか、何も知るまい。……が、それは順にはなそう」
ているのだったが……ついに駄目だった。おれは江戸へ来た」
いたとおりの女子だ。更にもう少し深く分って欲しい。江戸に来てからのわしは、わしの信念を強めるばかりとなった。悪政の
……お次さん、おれは捨石になる覚悟だ。それが江戸に来たわしの望みだ。わかるかい、さむらいのこんな気もちが」
ふたりが身を旅すがたにつつんで、江戸から府外へ脱け出して来るまでにも、実に一方ならない苦心があった。
老職たる藤井紋太夫であり、以後、母は紋太夫の江戸のやしきに囚われ、自分の身は柳沢家へ一個の贈り物として、
「以上は、お蕗とお次とが、辛くも江戸をのがれて来て、このうえは老公のお力にまつほかはないと、
介三郎は、湊川の工を終って、その帰るさ、江戸、藩邸に立寄って、当主の綱条に謁し、綱条から篤と、
「なに。貴様も江戸から?」
「両女が江戸からこれへ参るまで、何事もなかれと、実は、見えかくれに守って来まし
ました。……そしてすぐ自分は、ご城下に立ち入り、江戸の藤井と呼応して、怪しからぬ企みをなしている藩中の賊臣二、三
「では蕗どのが何を告げるため江戸からこれへ参ったかそれも?」
「この際、にわかに、老公には、江戸へご出府あると聞いて、愕然、近側の其許まで、自分の考え
がよい。――いや、このたびこそは、たとえ西山から江戸までの途すがら、いかなる障壁、いかなる危害が、待ちもうけておろうとも、光圀はかならず
「ご隠居さまが、江戸へお上がりじゃそうな」
不意打にうろたえた程だった。西山を出た老公が江戸へ向われたとは、早速、水戸の藩庁から通告はあったが、道中
存じ、きょうは田爺光圀がいささかご学問をおすすめ申しあげる。江戸の俗でいう野暮とやらでおざろうがすこしお我慢なさい」
こう三人は、老公が江戸を立つ朝、時刻をはかって、府外のさかいに待ちあわせていたので
それかあらぬか、老公が西山へ帰ってのちも、江戸にあった藤井紋太夫は、およそ二十日余りも、病気ととなえて自分の
その勘太は、介三郎がここへ帰山した当時、過って江戸で人を殺し、自首して出たということを聞いている。
お次の親たちが江戸から来て、いとも質素に、内祝言をすましたのは、晩春汁講のあっ
れては黙しておれぬ。――では訊くが、江戸で会った折、そういったおれを止めたのは誰だ。諫めたの
「ない。断じてない。……おぬしはその後の江戸の事情を知るまいが、この春、藤井紋太夫が改悛を誓ったのは
人見又四郎も鬢の毛をそそけさせていた。江戸に着くまで、彼と介三郎のあいだにも、もう一言の論争もなかった。
就いては、このたびを江戸への出納めとし、また家中の子弟どもへもそれとなく名残を告げ
という気持がおこり、急に江戸へ出て来て、佐々介三郎をたずね、その通りな心を訴えてみた
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くわしくいえば、尼ヶ崎の城主青山家の領内で、兵庫の坂本村の畠地であるが、すぐ西南四、五町ほどさきに、湊川
をさせてくれというので、断ると、では兵庫とやら碑をお建てになる場所で、土かつぎでも、職人の手つだい
へ寄ったのは、もう二月にはいっていた。兵庫からこう日数のかかるわけもないが、途中何かと公私の用を果して
「西山の隠居には、昨年から、兵庫の湊川とやらに、楠公の碑を建てにかかっておるとか聞いたが
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与平はすぐ銚子のつるを持って横にさし向け、
酒部屋から新たに温めた銚子が運ばれてくる。雪乃母娘は、
と、各※のほうへ、あいさつを兼ねて、銚子を持ってまわった。
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「おう、もう来たぜ、門前町へ。こん夜は広厳寺で、おれたちを振舞ってくれるってな」
門前町といっても四、五十戸にすぎない部落である。広厳寺がその
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一周忌に参列するため、父や家来と共に鎌倉の英勝寺へ詣でた。まことの母にもまさるほど、かれを愛してくれたひとで
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たことももちろんであるが、大奥の女性を経て、護持院の建立とか、そのほか無用な喜捨享楽に投ぜられた額も莫大であっ
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の代にも、たびたび発しられている奢侈禁止令が、桂昌院を中心とする大奥や、綱吉自身のまわりから、まるでその正反対なものを爛漫
桂昌院も、光圀はきらいであったし、大奥の女性群はほとんど、光圀の国策
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江戸小石川のやしきの裏、ひろい後楽園のわきに、桜の馬場がある。
後楽園のさくらや、常盤木をこえて、富士がよく見えた。江戸城も南
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西山荘の主といえば、いうまでもなく、水戸家のご隠居、さきの権中納言光圀とは、この人のはずである
ここから水戸の城下までは五里ほどある。老公の健脚にしても半日では
なべてそういう風潮の世であるものを。……ひとりわが水戸だけがそうでない。厳として、芽を踏まれておる。それ
朝まだき、水戸の上市下市は、もう喧騒な庶民風景につつまれていた。馬
たが、光圀が国許にいるあいだは、卜幽もよく水戸にいた。
膝下よりそだてて労苦をともにし、いま綱条に仕えおる水戸の臣に、奸賊などと名づくるものはおらぬ」
(水戸どのには、よいお娯みがあってよい。なかなかご財力はかかろうが
藩財をお費いなさらなければ、なにもこの富饒な水戸が、いま頃、窮乏していることはないのだ。かえすがえすも老公のご
そんな者が、うろついておりますか。もっともこの辺は、水戸様の前は佐竹領で、いまだに佐竹家からたしかに陰扶持をもらっ
。――しかもご退隠以後、眼に見えない圧力が、水戸を、老公を、押しつめている。このあやうい今を、おれは坐視して
この風は、いわゆる水戸風である。おのずから老公を慕う若いもののあいだに生れた風である。
そうした弊風に荒みきっていた。もちろん時代風紀は水戸にも蝕い入っていたが、からくもその濁風にみじん染まない
もちろんこの人々の胸にもつ盟いは水戸という一国土だったが、その国土を象として一身にもつ主君
「……なんじゃ、泣きおるのか。はてさて、水戸の若侍には、泣き虫が多いの。又四郎ひとりかと思うていたら」
た。五郎八も哭いた。この景助も哭きます。……水戸の若ざむらいが泣虫なのは、ご老公、あなた様がお悪いのだっ
まえの白菊の歌は、老公がかつて水戸の丸山に十景を選んで、淵明堂を建て、また、園をひらい
めいたことばに、おのずからな節をつけて、三々五々、水戸の城下を横刀闊歩、一頃は高唱して憚らなかったこともある。
よ……と、泣いていいふくめ、江戸のやしきより水戸の三木仁兵衛が家に身を預けられたものじゃ」
。……いまでも覚えておるが、五歳、はじめて水戸城に入り、七歳、冠をうけて、将軍家に謁し、晴れて世子
が、その頼重をおいて、かれは幼少の時すでに、水戸家の世子と定められていた。
自分に兄というものがありながら、兄をしのいで、水戸家を継いでいる矛盾と不当な立場に、つよい自責を感じだした。
から費用? ……費用のことはよくわからぬが、水戸三十余万石を傾けても足らないほどか?)
なら、わしに奉行はできんが、皇国のためなら、水戸一藩が、稗粟を喰い、百姓にのぞんでは、不愍と思うこと
に将軍家へたいして、ご異端かとぞんぜられます。まさしく、水戸三十余万石のご浮沈にかかわりましょう。幸いにも、まだご世子、
(よしやそのため、水戸一藩が破滅に遭遇するならば、これは世の中の間違い事と申すもの
つでも、みな深く秘蔵している重宝であるから、水戸家の名と、光圀の真心をもってしても、目的をとげるまで
ことを奔走して、いまも工事の監督にあたっている水戸家の臣、佐々介三郎なのである。
でひきうけるかと、おはなしにお越しなすったときは、水戸さまと聞いて、あいては大名、これは取り放題のうまい仕事がころげこん
くれていることは、先ごろ書状のうちにもしたためて、水戸の西山荘においであそばすお方へも達しておいたぞ」
――じゃ旦那は水戸ですね。
「水戸の百姓侍だそうだ」
「水戸か。なるほど」
「もと水戸家の臣、佐々介三郎でござる。よんどころなく」
「水戸家のご隠居が寄進とかお物好きとか聞いておるが、この
「その頃、水戸のご当主、いまの西山荘の老公には、大日本史のご編修を
あからさまに恥ずかしいお訊ねをいたすが、それほどな貴方、また水戸の老公ほどなお方が、碑をたて、世に顕そうとまで、崇拝
じッと見つめていたご老人がある。なんと、それが、水戸のご隠居さまじゃあねえか……」
――ところがついこの春、水戸のご城下で、初めて怖い世間にぶつかった。多寡が菓子屋のおやじだが
のか、初めはよく分らなかったが、やがてかれが、水戸の城下に近い那珂川の生れで、那珂川の勘太というお菰だったこと
「さては、おまえは水戸の者だったか」
「ご領民でございます。水戸のお名を汚すような」
来ていた。祭がすむとともに、ここからすぐ水戸の西山荘へ帰るべく、一切の準備をすましていたのである。
介三郎も止めようとはしなかった。ともあれ初志をつらぬいて、水戸の菓子屋の主人にも、人なみの客と扱われるまでにならないうち
「でも旦那は、これから真っすぐに、水戸様の小石川のおやしきへおいでになるんじゃございませんか」
「おい、水戸様のご隠居様が、この頃、気が狂ったッてよ。気狂え
「水戸のご隠居が気が狂ったということも、ご家来衆の口から
御意にかなわないために、おととし急にご隠居なすって、水戸の片田舎に、世盛りの中納言さまとは、まるでちがった暮しをしている
そうでございます。おはなしを聞いていましたところ、水戸様のご隠居が」
万民のため、かれを刺す。つづいてかれと結んで、水戸家のうちに、自己の野望をもくろんでおる不敵な賊臣――藤井紋太
「その禍いのないようにおれはすでに水戸の臣籍から浪人している」
「水戸浪人と聞くだけでも、吉保はおぞ気をふるう。おれのあとに
、大してわけもありません。ただ、銭湯の中で、水戸のご隠居さまが近ごろ気が狂ったと、うわさしている男がい
といっている。藤井紋太夫、あれがいればこそ、水戸家の財政は、光圀があんなに費いちらしても持ちこたえているのである
夕方から数寄屋のほうには、ぽつねんとひとりの客――水戸家の藤井紋太夫が来て待っているというのに――ここの
「水戸の……ほれ、あれじゃ」
「失礼でございますが、水戸家における柳沢侯じゃという評をなす者などございます。おそらくあなた
世上に聞えているうわさでは、水戸の副将軍が退いたのも、吉保の策謀だという。
のである。将軍家がおきらいなのだ。ために、水戸さまは致仕し、身を西山におかくしになったものだ。そう伝える
いや水戸さまと綱吉将軍とは、元来がご気性があわないのである。将軍家
「水戸家の藤井か。……どうせ夜に入ったことじゃ。まあよかろう」
水戸家の臣、藤井紋太夫は、遠く夜を囁くものの気配に、吉保
「さればこそ、水戸家だけでも菲才には重荷にすぎる身を、こうして、ご当家
「いや、いや。不満どころではない。水戸殿をして、隠居のほかなき窮地へまで追い陥したのも、内部
「水戸のご隠居には、ご在職中から、甲府綱豊さまを擁し、あなたの
「――すでにてまえは、水戸家の重職にありながら、先主光圀公を、将軍家の君側からも、大奥
「……惜しい男だ。紋太夫、そちが水戸家の老臣でなかったら、いまでも、もっと要職へ登用してやれたろう
「隠居の考えのあるところは。――水戸の田舎にひき籠って、鍬など持っているかと聞けば、古文書や
「――そうして、水戸どのが若い頃には、頭巾組などという影武者をおいて、諸国を
「でも、水戸は三家の一、また黄門光圀は、権現さまのお孫でないか
ことが世の中にはままある。柳沢家の奥ふかくに、水戸で行方知れずになった佳人がいるなど、ふしぎというほかはないが
たところ、案のじょう見覚えのある者でした。――曲者は水戸の者です。しかも西山荘のお側近くに仕えていたさむらいの一
て、よく気づくので、愛していた若い小者が、水戸のご隠居の直臣であると聞いては、自失するほど愕いたのも
連れて来たわけでもなかろう。ただあの男の――水戸の江橋林助とか申したの――身がらは此方に申しうけるからそのつもりで
老公の家臣が、水戸のひとが捕われている。ということを知っただけでも、彼女の
水戸出奔のときから生死を誓っている江橋林助を、弟と称えて、お
。そこまで読めていたか。ではいう、わしは水戸のものだよ」
やがて、水戸家に対して、重大抗議をなすべき生証拠として、殺されず
水戸の当主綱条は病弱、老公は乱心か叛心か、いずれにしてもその
(当然、水戸へ)
の加護といおうか、何事もなく、かの女たちは、水戸領に入ってからはすっかり安心して、途々、雲雀の声を仰ぎ
を出た老公が江戸へ向われたとは、早速、水戸の藩庁から通告はあったが、道中の日程を計ると、その到着は
。何ご不自由もない柳営へ持ち参らするような産物は水戸にもない。そこでこの田爺が持つものしか差上げられぬわけじゃが
「どこから出た虚説やら、ひと頃、水戸どののご隠居には乱心されたそうな、さてもお気のどくよと、
石を給され、今日、当主の輔佐に任ぜられて、水戸一藩の切りまわしを、その双肩に担うようになったのも、みなそち
いわしめ、他より養子を迎えておのれの功となし、水戸一藩を気ままにせん下心なりなどと――もっぱら真しやかに憂うる
「明朝、水戸へお立帰りの真際まで、何とぞ、お暇をたまわりますように」
ぬまに、花の道中を、次の日はもううららかに、水戸へさして帰っていた。
渡辺格外のほかには、何者やらいっこう知れなかったが、水戸にはいって後、誰にも分った。
なり、勘太は、介三郎のあとを慕うて、その後、水戸に帰っていた。
介三郎に諭されて、その後は水戸の町にとどまり、以来問屋場の駅夫のなかに交じって、黙々、真面目に
先生は常州、水戸の産なり、その伯疾み、その仲は夭す。先生夙夜膝下に
圧え得るものはたれもない。――やんぬるかな、水戸の内政は、正邪相搏って、瓦崩玉砕するか。眼をねむって
「いかになりゆくやら。――要するに水戸も腐えた時代の外ではあり得ないというに尽きる。世は元禄
断るまでもなく、みな水戸家の臣だ。家宅捜索でも行ったらしく書院などに、反古やら調度
水戸表でもこんどの老公の出府に不審をいだく者がすくなくない。
の木賃に落ちつき、二、三日は見物でもして水戸へ帰ろうかと思っていると、今朝早く、介三郎がふいにたずねて来
老公の唱える大義の武を解するものはやはりおぬしだった。水戸士道もわれらの学問も、そこを泉として湧きあふるるものでなけれ
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微細にわたれば、綱吉将軍のお世つぎに、老公は甲府どのをおすすめになり、将軍家のご意中では、紀伊どのを望んでおら
「水戸のご隠居には、ご在職中から、甲府綱豊さまを擁し、あなたのご意中は、紀伊綱教さまにありました」
、将軍家のお世嗣として立てたいお方は――甲府どのでも、紀伊どのでもございますまい」
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十竹だの、吉弘元常などは、史料蒐集のために、奈良を中心に各地を歩いてもいた。
この春の初めから、ここへ来たり奈良へ行ったり、住吉方面へ碑の石をさがしに行ったり、建碑の起工
奈良茂、紀文、難波屋、淀屋などという黄金の城廓によるものが、
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ではあるが、光圀の書面をたずさえた大串元善は、京都の菊亭内府を訪れて、宮中の秘庫につたわる貴重な文書や書籍の
わざわざ京都から萩原なにがしという神道家を招いて、神道の研究にもふかく心を入れ
といえば、武佐子は、三木家に嫁ぐまえまで、京都で宮仕えしていたのである。後陽成天皇の中宮の院に召しつかわ
からとどいたので、石屋の権三郎親方は、新たに京都からよんだ六人の石工を督して、それを注連小屋のうちで、
このあいだに、佐々介三郎は、京都や大坂などへ、幾たびか出かけていたが、いつも数日で帰っ
しておりませんが、養家の貧したため十五歳で京都の妙心寺に小僧にやられ、名を十竹ともらい、笈を負うて、
れるものの、これもぜひなき時勢の濁りだろう。早々、京都に帰って、元の主人に忠勤するがいい。また、この中には
には孫にあたる――吉孚の夫人八重姫は、京都の鷹司家から嫁いていた。大奥には由来、京出身の女性が
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那珂郡の山形村に、武右衛門という百姓がいた。両親は老い、また兄も
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明暦三年、かれの三十歳頃、ようやく具体化されて駒込の下屋敷に修史館をひらき、当時の名ある学者を史寮に網羅し
ところが、その後、駒込辺の一寺院に、似ているというもおろか、実にそっくりな女性
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この春の初めから、ここへ来たり奈良へ行ったり、住吉方面へ碑の石をさがしに行ったり、建碑の起工から一切のことを
と思って、そこから荷持として伴い、以来、住吉の石権へたのんで、手伝い人夫に使ってきた勘太であった。
太平記二十六巻の住吉合戦の条らしい。
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と、供の勘太はそれが苦になるらしく、日本橋の雑鬧を見ても、どこか淋しそうだった。
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浅草門まで来ると、
浅草門から横へはいった裏町であるが、片側は柳や桐の火よけ地
かしらで、笛太鼓の音の聞えない日はない。わけて浅草界隈は、祭というと、裏店まで綺羅美やかに賑わう。
あっさり断られたので、この前、泊ったことのある浅草見附の木賃に落ちつき、二、三日は見物でもして水戸へ帰ろう
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し、もっと贅沢に、湯よりも遊ぼうというつもりなら、神田のほうへ向いて、ぶらぶら行ってごらん。丁字風呂だの、何風呂だ
「仕事場かい。神田橋内さ」
「神田河岸で、植木職の安をころして逃げたさっきの暴れ者たあ、まるでちがう」
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大久保加賀守忠朝が、ふと大廊下でそのすがたを見かけ、挨拶をのべたあと
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暴風雨のあとで、隅田川の濁流は岸をひたし、壊れた家の材木だの、ひとや家畜の
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に、逃げまどった勘太は、刃を鞘にもどすひまもなく神田川の堤から河の洲へととび降り石垣の陰へ、船虫のように貼りつい