大岡越前 / 吉川英治

大岡越前のword cloud

地名一覧

駿河台

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ある。要するに、役名は一お庭番にすぎないが、駿河台の伊賀組甲賀組はみな彼の手足だし、時には、老中や若年寄

越前

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「越前はまだか。遅いではないか」

、江戸城のうちで、そちと会うとは……。越前、よほど、縁があるな」

にあずかり、何をもって、おこたえ申し上げんやと、越前、身のほどもおそろしく存じまする」

「が、越前。江戸ではだいぶ不評を聞くぞ」

話は、そんなものだった。吉宗は、もう越前の職にはふれず、茶をのむかとたずね、のみますと彼が答える

「ときに越前。堺町はこの頃、どんな賑わいじゃな。知らぬか」

市川義平太と、目安方の小林勘蔵のふたりだけは、越前の用部屋に、燭をそなえて、待っていた。

「あれ程、越前の虚心を、いっておいたが、まだそち達には、解りきれぬもの

「越前の再生の恩人でござる。いまはいずこにおらるるやら……慕わしさに、

「決して適材とも存ぜぬが、越前も、なしうる最善はつくす所存でござる」

「楽翁を追いかけて、いま越前に示した印籠を、受け取って来い。……もし、あくまで渡さぬときは、

「やはり、北町奉行の輩が、越前を追い陥すため、誇大にいいふらしおるせいか」

などの噂を通じ、それとなく、吉宗の耳へ、越前の過去の非行を、大げさに伝えてくる者は、常に、越前を功名

の非行を、大げさに伝えてくる者は、常に、越前を功名争いの敵としておる北町奉行の輩と思わるるが」

「禅師。……白洲へのぞむ前に、何か、越前へ一言、御叱咤を下さいませ」

「越前には、腑におちかねるが」

毎、諸所の高札を仆して歩いたのは、そちが越前に、それをいいたいためであったか。袖、どうじゃ」

「そなたを信じて、いっておく。越前にも、最後の日が来た。明朝は、別れになるぞよ」

「なんの。御老人。越前ごときに、一命を賭しての御庇護、御知己、身に過ぎて、かたじけない

、ここのお寄合いは、何の為でございまするか。越前には、とんと不審で、御挨拶のいたしようもござらぬが」

「せっかくの、御好誼には、越前も、越前個人として、ありがたくお受けはしますが、江戸町奉行の職

「せっかくの、御好誼には、越前も、越前個人として、ありがたくお受けはしますが、江戸町奉行の職において

「あいや、大和どの、お怒りをしずめられい。越前が尊ぶのは、やはりそこです。法とは、すでに、いささかの“私”

吹上のお茶亭へお渡りになり、ただお一人で、越前はまだかと、再三の御催促なので」

「――越前。坐らぬか」

が、その越前を、朝暮に、胸にうかべながら、ここ数ヵ月は、令をもって、招き

これが、越前の嗟嘆だった。職悩職苦だった。そしてその遂行に行きづまったとき、法

、阿修羅にもなれと思った。きょうの彼は、阿修羅越前になって、吉宗にぶつかって来たのである。

「越前」

「越前」

「いまから、生れたと思えばよい。越前も、古典はあまり詳しゅうないから、やがて、源氏物語でも読むようになったら

弁天島

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池の端から弁天島の灯のそよぎは、夕方からの夏景色だが、まだ陽が高いし、

江戸城

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い。ううむ……。その兵九郎のやしきへ行って、江戸城のお金蔵の絵図面をひとつ持って来てくれねえか。なあに、あるさ

地方の人々から惜しまれて、江戸へ帰った。――江戸城へ一書院番として仕えてから、十二年目のことである。

江戸城の金蔵絵図を手に入れて、根気よく、機会をうかがい、ついに城内から莫大

ばかりしておった。――そして、はからずもまた、江戸城のうちで、そちと会うとは……。越前、よほど、縁があるな

うちに、驚くべし、このふしぎな人物は、堂々と、江戸城の一門から、奥ふかい城中へ通ってしまった。

例の、江戸城本丸の深苑、吹上の奥のお茶屋で、将軍吉宗は、紀州部屋住み時代からの

、必ず、見えない供の者が、従いて歩いた。江戸城の隠し目付藪田助八に、手となり足となる助力者が附随して

や、あとの要心を、楽翁に托して、ひそかに、江戸城の吉宗へ、会いに行った。

濠端へ出た。水辺にけむる葉柳の上に、江戸城の天主の白壁が、駕籠の内からも透いて見える。

その日、越前守は、例の江戸城内の人気ない吹上の深苑で、折入って、将軍家に拝謁を得たい―

助八と目付二人は、かれの駕籠を挟んで、江戸城の隠し門ともいうべき牛ヶ淵の鬱蒼につつまれている橋を渡った。ここ

相模国

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寺に一宿し、次の朝、三名はうち連れて、相模国高座郷堤村の浄見寺へ旅立った。

豊川稲荷

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そのせいか、赤坂のやしきの地内には、昔から豊川稲荷を勧請してあった。秋も末頃となり、木々の落葉がふるい落ちると

本所

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あくる日は、芝の神明。次の日は、本所のどこと、毎日つづいた。市十郎は、同苦のそばを離れなかった。―

寛永寺

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、気をつけな、お燕ちゃん。今朝も出がけに、寛永寺の横で、同心くせえ奴が目明しを連れて歩いていた。こいつア、

遠くもない鐘の音が聞えた、寛永寺の鐘だ。とすれば、ここはやはり上野に近い御隠殿あたりだろう。あの

すべてが、寛永寺の輪王寺宮に附属し、宮家をかさに、特権をもっている。

寛永寺の森だった。暗さと、下草の茂りに、ふたりは幾たびも、

寛永寺の僧や寺侍のうちには、不伝ばかりでなく、知った者は幾人

「ここを何処と思う。寛永寺の境内であるぞ。輪王寺の宮のおそば近くへ、不浄役人が十手を

「ここは俗称、寛永寺の森とはいっているが、まだ、山内の御門内ではあるまい。

「――これにおる同僚が、先夜、上野の寛永寺の森で、たしかに、其許がお燕を駕籠へのせて逃がしたの

というのでおざるか。たれかは知らぬが、寛永寺の帰途、救いをさけぶ女があったので、不愍と、助けて、連れもどっ

「それ、いつぞやのお話の、寛永寺の別院へ」

、すれば、その後、御隠殿下の手入れの夜、寛永寺の森へ追いつめられた母子のひとり――お燕がそれにちがいない。

「この寛永寺の別院に匿われている、私の母を、お訪ね下さるのでございましょう

藪田助八は、お燕の采女をうしろに連れ、寛永寺の正門を、ずっと、通った。

彼は急ぎ足で、寛永寺の門を出た。

「いや、よせよせ。どうせ其奴は寛永寺の追放者。捕えたところで、足手まといだ。押ッ放してしまえ」

大江戸

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秋の澄んだ空の下には、大江戸の町々の屋根が、また橋や大川や小舟や両岸の柳までが、湖

赤城

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牛込の赤城下に抜ける坂の途中。この辺には崖へ倚って、小普請組の小屋敷

赤城下の叔父の屋敷を窺ってみると、ここも同様、昼なのに門

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あられ降る飢餓の町のさまよいを――あの堺の抜け裏の雑鬧を、おもい出した。

根岸

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暗い田ン圃道を渡って、根岸から三輪へ出た。

駕籠は、下谷から根岸の里へ。――根岸もずっと淋しい寛永寺裏の一軒の小屋敷、まず、

駕籠は、下谷から根岸の里へ。――根岸もずっと淋しい寛永寺裏の一軒の小屋敷、まず、上野の寺侍の住みそうな

に、すべて知った。左右太が、堀の茶漬屋から、根岸の御隠殿下へいそがせたことも。――そしてまた、そこの寺やしき

が、寛永寺坂の森近くまで来ると、ここらは、根岸へ抜ける稀な人影のほか、往来人もめッたにない。

輪王寺

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だから、輪王寺の寺侍の株は、ふつうの御家人株の売買よりも、はるかに高値い。

「なあに、心配おしでない。大内不伝様は輪王寺の宮の御家来だから、その不伝様に頼んで、別院のどこかへ

ここは幕府の祈願所であり、輪王寺の宮が座主としている格式から、すべて別格扱いになっている。お

「ここを何処と思う。寛永寺の境内であるぞ。輪王寺の宮のおそば近くへ、不浄役人が十手をたずさえて立ち入るなどは、以てのほかだ

たとえば、絶対な不可侵境といわれている大奥でも、輪王寺の宮の内事にでも、かれが刺を通じて、質問にのぞむ場合は

「その通りだ。輪王寺の宮の寺侍、大内不伝という者が、お袖を匿っていると分っ

そして、輪王寺の宮の、別院を訪れ、

と、名刺を示し、すぐ次に、輪王寺の執事から取って来た、不伝への追放状を見せた。

宇治

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中山殿や、折ふし、寺社奉行の牧野殿をたずねて、宇治より入府中の鉄淵禅師を加えて、昨夜、深更まで、協議をこらした

折、職の護符と信じたるものでござりまする。また、宇治の鉄淵禅師にも、折々、叱咤をいただき、

訪ねて来て、彼女を連れ出した旅僧がある。――宇治の鉄淵の弟子で、鉄雲という僧。いうまでもなく、越前守の

……では、私は、ここでお別れします。宇治から出て来たら、またお訪ねしましょう。そして、そのたび、二人でここ

雷門

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一年中の人出だ。浅草の観音堂を中心に、雷門も、横丁横丁も、人間の波、波、波である。

牛ヶ淵

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かれの駕籠を挟んで、江戸城の隠し門ともいうべき牛ヶ淵の鬱蒼につつまれている橋を渡った。ここの門は常時、閉めた

四谷

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お犬小屋は、大久保、四谷、その他、府外数ヵ所にあったが、中野が最も規模が大きかった。

に押しこんで、丘の裏から夜の町へ担ぎ出した。四谷の窪をひた走りに駈け、茗荷畑、市ヶ谷並木――なお止まらずに駈けて

た。その不自由な足をひきずりひきずり、権田原を抜けて、四谷の灯の方へ歩いた。

八丁堀

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た二丁駕籠の灯をつらねて、ゆうべ晩く、この八丁堀の家へついたのであった。

の下から、ただならない人声がわき起っている。そして、八丁堀の往来へ向って、わらわらと駈けてゆく跫音がつづく。時々、廂の雪

たら、そんなことをいっていた。そればかりじゃねえ。八丁堀のお島に可愛がられて、お島の情夫の赤螺三平に、あぶなく叩ッ斬ら

「たれかと思ったら、むかし八丁堀にいたスリのお島さんだね」

江戸

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の大奥にすら、不良少女不良老女がたくさんにいる事実を江戸の人々は知っている。

江戸の庶民は、法の重圧や、疾苦を、こんな冗戯や洒落でまぎらす術

て、高百石について一石ずつの犬扶持を課し、江戸の町民へは、一町ごとに、玄米五斗六升の割で、徴発

、途中、夜に乗じて、遠島船から海へとびこみ、江戸へ舞いもどって以来、自暴自棄な野性の生活力を逞うしている男だった。

上洛るのだと称して、上方へ行って散財し、江戸では、導引暮らしの分を守り、決して尻ッ尾をあらわさない。

うすい縁者をあてになどして散らかったが、亀次郎はすぐ江戸へ舞いもどった。もちろん、容貌をすっかり変えて。

この辺には、江戸の商家や吉原の楼主の寮が多い。ここもその一軒か、船板塀

、大施粥を行って来た。それがすむと、江戸から姿が見えなくなり、盆になるとまた全市の浮浪者へ、粥や

、粥や薬を施して、どこへ帰るのか、ふたたび江戸にいなくなった。

を投じて、買えるだけの米を買い、大坂、京都、江戸の三都で、飢民を救った。

をつづけ、その布施を蓄えては、盆正月ごとに、江戸にあらわれ、貧しき人々をあたためて、また諸国へ去るのであった。

「江戸から墓参に――」

「では、おさしず通り、即刻、江戸へ急ぎます故」

早駕籠を雇い、江戸へ帰ったのである。――そして、まず赤坂の大岡忠右衛門を訪い、また

、その辞令をうけ、山田地方の人々から惜しまれて、江戸へ帰った。――江戸城へ一書院番として仕えてから、十二年

江戸の警備には、江戸三十六門と俗にいう見附や城門のほか、市中

「何かあったのかッて。べら棒め、江戸の丑満時に、事件のねえ晩などが一晩だってあるものか。

首一ツ落ちぬ夜はなし江戸の春

―その四十七士が切腹したあとで、日本橋を始め、江戸の要所に立っていた御制札が、どこのも、泥や墨で塗りつぶさ

北町奉行の中山出雲守様は、いよいよ凄腕を揮って、江戸の悪党をちぢみ上がらせている」

として、伊勢山田から栄転してきて、ここに江戸の治安陣を双璧することとなった。

こう必死に働いても、南が、ああ無能じゃ、とても江戸の悪党は、狩り尽くせめえぜ。女の悪党までが、南を甘く見て

「なるほど、悠長なお白洲で、江戸の悪党には、ありがたいお奉行様にちげえねえや」

出かければ、千両箱の二つは欠かすこッちゃあねえ。……江戸の御金蔵からさえ、千両箱の四つも担ぎ出した刑部だが、ああ、病気

「が、越前。江戸ではだいぶ不評を聞くぞ」

かれは、何とかして、江戸に火災をなくしたいと、考えた。

「火事は江戸の花」――などというものの、明暦の大火には、全市の

江戸“いろは”四十八組の創案は――このときからといわれている。

中に一通、享保初年調べの、江戸の人口表もある。

それによると、いま、江戸の総人口は、

「そうかなあ。そんなにまで、江戸の男と女の数が、片ちんばだとはおもわなかった。――なるほど、

ても、参覲交代制で、常時に、二十万人以上は、江戸にいることはたしかだ。それがみんな、妻子は国元だから――それら

国元だから――それらを計算すると、ざっと、江戸の男と女は、男三倍、女三分の一ぐらいになる」

実際――江戸の夜の暗さのように、その頃の、風紀の紊乱というものは

「もう江戸もよい程に見限りをつけて、いつも親分が、時節が来たらと、口ぐせ

とるなよ。あの仲間の頭領というのは、ケチな江戸や浪華を稼ぎ場としているのとはちがって、ちっとケタちがいの大物だ」

その点で、この頃は、江戸の町名主や五人組の町年寄たちのあいだに、

「それがしの家の紋も、三ツ鱗だ。江戸中に、三ツ鱗は、あの医者一軒でもあるまい」

(やはり江戸には美い男が多いね)

江戸の町々には、毎夜、奇怪な事件が、幾つも起った。

江戸の蝙蝠

や禁令の“べからず”を箇条書きした高札は、江戸の橋々や見附や盛り場の辻などには、必ず立っている。

十数年前、年ごとに、江戸の窮民の群れの中に姿をあらわして、大釜に粥を焚き、無数の

、西国方面の密貿易者や浪人どもの野望とむすんで、江戸表の秩序人心の破壊をたくみ、ひいては、幕府の御治世をくつがえそうとして

「遠島の身を、何としてか、江戸へ逃げ帰っていたが、先頃、義理の妹にあたる石焼豆腐のお次を

化物刑部は、江戸におけるその一員だった。彼の任は、江戸にある不平、無頼、

、江戸におけるその一員だった。彼の任は、江戸にある不平、無頼、野望、自暴、の徒を駆って、さなきだに悪政

な、暢ンびりした田舎においでられたから、江戸、柳営などの、事情に精通されないのもご尤もじゃが、政治に

番町

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「おい。番町まで」と、お燕を抱いて、一しょに乗ってしまった。

「番町まで? ……。はて、番町までといったようだが」

「番町まで? ……。はて、番町までといったようだが」

彼はふと、番町の一角に、馬を立てて、思うまいとしても、思わずにい

…もう一ぺんそういっておくれ。遠い以前だが、番町でちょいちょいお目にかかったお島でございますがとね」

いや、越前守の調書には、初め、刑部はそちを番町の土蔵二階に監禁し、恫喝と暴力のもとに従わせ、そちは抱え

小田原町

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は、三組に分れ、荒布橋方面や、安針町、小田原町の方へも、狩立てに散って行った。そして剣助は、残る七

湯島

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あろう。お袖もお燕も、ひたと身を寄せ合って、湯島の切通し坂を登っていた。

青山

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四谷塩町から出火し、下町は火の海、山の手も、青山、赤坂、麻布と焼け、芝浦まで焼け抜けた。家屋の倒潰は数知れない

伊勢

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伊勢の山田奉行であった時から、すでに二、三の事件で、御三家たる紀州

牛込

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牛込の赤城下に抜ける坂の途中。この辺には崖へ倚って、小普請組

「牛込の市川楽翁の家……義平太の父のやしきだ。きょうは二人とも、

お次も乗せて、牛込の柳町へいそがせた。

「いいえ。牛込の矢来ですから、そんなにも……」

伊賀

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藪田助八の支配する伊賀、甲賀組の者。また、ごく特殊な場合の、公儀目付の者ぐらいに

日暮里村

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ことは、お袖の父までの、代々の墓所のある日暮里村の湧泉寺で、過去帳をしらべ、和尚にただし、また遠い縁家などをさがし歩いて

佐賀町

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大釜をそこへおくと、同苦坊は、またすぐ深川の佐賀町の米問屋まで、幾俵かの米を取りに行った。

島原

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「まだまだ島原の孤城に、十字架旗をたてて、天下の軍勢をひきうけるのがいたり、

では、白昼、晴れて金費いもできず、祇園、島原で大尽遊びも、すぐ足がつく。

堺町

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、阿能十、あれ見ねえ。こんな御府外からでも、堺町の夜空がぼうっと赤く見える」

いっている。――あっしも、足元の明るいうちに、堺町の盛り場へ行き、楽屋者の中へまぎれこんでいますから、もし二人がここ

芝居小屋の多い堺町に近い抜け道――

「そうだよ。盗んだ物じゃあない。堺町の抜け裏で、紫頭巾をなすった立派なお若衆からいただいたんだ」

の、さる老中の息子らしく、これも微行姿で、よく堺町へ来るが、いつも大自慢の土佐犬を、銀の鎖でつなぎ、わざと、盛り場

まだ部屋住み頃には、堺町の盛り場などもよく歩いていた彼。祖父大納言頼宣に似て、剛毅で

「ときに越前。堺町はこの頃、どんな賑わいじゃな。知らぬか」

の職にも、甚だ、馴れませぬ故、つい近頃の堺町を見ておりませぬ」と、答えた。

お袖とお燕が、堺町の歌舞伎見物にゆくというので、大亀や阿能十や赤螺三平などで、

「なんの、堺町の芝居見だもの、まだまだ二番狂言という頃、駕籠で帰っても、

お袖とお燕であった。堺町の歌舞伎飴のみやげを持って、星と火との、散りまじる夜空を仰い

芝浦

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火の海、山の手も、青山、赤坂、麻布と焼け、芝浦まで焼け抜けた。家屋の倒潰は数知れないし、津波もあり、火死

護持院

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護持院の七堂伽藍は、彼女が黄金にあかせて、寄進したものである

赤坂

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そのせいか、赤坂のやしきの地内には、昔から豊川稲荷を勧請してあった。秋

、それじゃあ嘘ではありますまい。あのお若衆は、赤坂のおやしきからよくお微行で町へお出でなさる紀州様のお三男、徳川

「――主殿。赤坂へは、折々、訪れてくれておるか」

養父の忠右衛門や、許嫁のお縫もおいて、赤坂のやしきを出て行った市十郎の――あの悪魔に憑かれた市十郎の姿

わしは達者だが、公務のひまがあったら、折々、赤坂を見舞ってやってくれよ」

、なぜ、秋の末頃、わたしがお燕を抱いて、赤坂の豊川さんの丘まで会いに行ったときに、ひと目、会ってくれなかった

に気が変るあてにならない男ともおもわず、あの赤坂の屋敷まで、おまえに会いに行ったのが、魔の辻やら、夢の

の子を見ればお燕を考え出す。――そしてまた、赤坂の養父を思い、お縫にもすまないと思い、心で掌を合せたり

…ともあれ、この兄の屋敷へつれ戻る。そして、……赤坂の忠右衛門殿。そのほか一族の御意見をきかねばならぬ。……わし

雇い、江戸へ帰ったのである。――そして、まず赤坂の大岡忠右衛門を訪い、また同族の主なる人々に集まってもらって、親族会議

定日の非番ごとに、彼は、赤坂の家庭へきちんと帰った。

から出火し、下町は火の海、山の手も、青山、赤坂、麻布と焼け、芝浦まで焼け抜けた。家屋の倒潰は数知れないし、

うちへ、身をかくした。そして、駕籠の中から、赤坂へやれ、といったような声を、義平太は耳にした。

「赤坂へ?」――義平太は小首をかしげ「はてな? ……」と、

家庭の一私人として、気まま気楽にいる間は、赤坂のわが家のほかにはございません。――ここは、南町奉行の役宅です

労を詫びて、自身もやっと駕籠に移り、間もなく赤坂の私邸へ帰って行った。

なかろうか。……そうそう、其許がお出かけなら、手前も赤坂のおやしきへ、お小さいのを、往診に参っておこう」

「赤坂の御病人とは」

「きのうは、赤坂のやしきを見舞われたか」

越前守は、ここ十日余りも、赤坂の邸へも帰らず、役宅に泊りづめで、

「ときに、きょうお伺いしたのは、赤坂のおやしきの方のことじゃが」

高野山

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のお暇を願って、叔父御さまの御遺骨を、高野山へ納めに行くと仰っしゃって、つい両三日前、お旅立ちなさいました

桂昌院

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べき偶然事だった。かれの献策は、まず迷信家の桂昌院を信じさせ、桂昌院は将軍を説いて、ついに法令化となったので

湯島天神

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湯島天神の縁日でもあろうか。切通しの森を透いて、紅提灯や虫売り

きのうの出先から昨夜までの始末を――そして湯島天神の辻で、ふと、そのお袖の姿を見失い、ついに空しく探しあぐねて

秋田

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秋田淡路守の下屋敷の軽輩が、吹矢で燕を射たことが発覚し、

お袖のまことの父は、秋田淡路守の家来で、わずか五十石暮らしの軽輩だった。お袖がまだ

「お袖の父親、今村要人は、秋田淡路守の家中で、禄五十石、役はお徒士。性は温良で実篤

「調書に依れば、そちの両親は、小石川水道端の秋田淡路守どののお長屋に住み、徒士を勤め、禄五十石。――父

「あの……秋田淡路守様の御家来で、今村要人とかいう人ですって」

下谷

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軒端に立った。――それもなるべく人目立たぬ浅草、下谷あたりの職人町などをえらんであるいた。

その日の場所は、下谷の広徳寺前で、ここは歓楽街の吉原裏に近いのに、なぜか

「まだ一つ、この頃、聞いたことがある。下谷辺の魚屋が、八軒もの寺へ、貸しが溜り、どう責めても

へは立つ。――すると、訴人便所の壁に、下谷の魚屋の帳面づらが、何寺へは、何月何日に、いくらいくら貸売

駕籠は、下谷から根岸の里へ。――根岸もずっと淋しい寛永寺裏の一軒の小屋敷

上野を追放になった寺侍の大内不伝は、さっそく、下谷の練塀小路の裏に借家して、その日のうちに、蓮見茶屋

京都

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の浄財を投じて、買えるだけの米を買い、大坂、京都、江戸の三都で、飢民を救った。

な保存法を朝廷や幕府の援護にも、仰ぐため、京都にゆき、次いで江戸表に出て、要路の人々を説きあるいていた。

佐賀

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大釜をそこへおくと、同苦坊は、またすぐ深川の佐賀町の米問屋まで、幾俵かの米を取りに行った。

――それが十年以上もつづいているので、佐賀忠とよぶここの主人も、彼の帰依者のひとりとなって、大

その佐賀忠に、市十郎はたずねられた。

車に、米を積み終って、佐賀忠と同苦坊が、茶のみばなしをしている間に、車のそば

深川

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親は深川の味噌問屋だったが、古金銀の隠匿で闕所になり、浮浪の仲間

で、両国橋は通れないので、本所一ツ目から深川へ入り、お船蔵前から永代橋を渡って、次に、稲荷橋、湊町

は、もう十年以上も、毎年の正月には、この深川八幡の境内を初め、市中の諸所で、大施粥を行って来

らい。だが、施粥を楽しみにしてる者は、深川八幡だけにいるんじゃないぞ。江戸中にゃ、何万人いるやら知れや

大釜をそこへおくと、同苦坊は、またすぐ深川の佐賀町の米問屋まで、幾俵かの米を取りに行った。

大久保

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随一のきけ者といわれ、同じ老中の酒井、阿部、大久保、土屋などをも、意のまま操縦しているという柳沢吉保なども

お犬小屋は、大久保、四谷、その他、府外数ヵ所にあったが、中野が最も規模が

、鰯十俵、薪五十六束という記録がある。その大久保の所用地面積は、二万五千坪で、中野は十六万坪もあったという

ちがうがこの程度である。だから中野より規模が狭かった大久保小屋の消費高でも、犬に喰わせる一日料の米、三百三十石

護国寺

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には、そこの御能見物や、美酒美女よりも、護国寺詣りのほうが、はるかに興味があったらしい。虚栄と、迷信と、

「あいにくまた、その日が、将軍家の御生母様が、護国寺へ仏参の日にもあたり、燕を黒焼にし、子に服ませた

館林

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の若年の名は、右馬頭といっていたし、館林侯から出て、将軍家を継いだ天和二年も、戌の年だった

市ヶ谷

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へ担ぎ出した。四谷の窪をひた走りに駈け、茗荷畑、市ヶ谷並木――なお止まらずに駈けてゆく。

神田

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ここは神田辺の汚ない風呂屋の裏二階なのである。湯女がいて、三味線

そっと、廊下から隙見してみると、男は、いつか神田の丁字風呂で、大亀と一しょに溺遊していたとき、自分たちへ

神田の丁字風呂で、市十郎に置き去りを食わせて以来の対面である。だ

浅草

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人の軒端に立った。――それもなるべく人目立たぬ浅草、下谷あたりの職人町などをえらんであるいた。

きょうも“鉢の木”の一節を流しながら、鳥越から浅草見附の方へ出てくると、わらわらっと町中に人の跫音が沸き、

歳の市は、一年中の人出だ。浅草の観音堂を中心に、雷門も、横丁横丁も、人間の波、波

年暮のうち、あの浅草観音堂裏や、市中の諸所に、黒々といた浮浪者の群れとは

上野

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「四十何人とかですとさ。ええ、松坂町でしょう、吉良上野様のおやしきはね。えらいこッてすなあ、どうも」

―根岸もずっと淋しい寛永寺裏の一軒の小屋敷、まず、上野の寺侍の住みそうな門のまえで降ろされた。

て出るが、近所の者は、怪しみもしなかった。上野ばかりでなく、僧院に、男か女かわからない者が出入りするのは

駕籠は、上野の山裏の方へ、いそいでいた。

、連れだって、坂をのぼり、鶯橋に姿を見せ、上野の寛永寺裏の方へ渡ってゆく。

美しい母子の日傘は、もう向うがわの上野裏の坂へ、のぼりかけている。

た、寛永寺の鐘だ。とすれば、ここはやはり上野に近い御隠殿あたりだろう。あの化物刑部の寺屋敷か。そうだ、そんな

急に、もとの上野の裏山の方へ、走りかけた。

上野は東叡山三十六坊といわれている。ふかい木々と夜霧のあなたに、

「――これにおる同僚が、先夜、上野の寛永寺の森で、たしかに、其許がお燕を駕籠へのせ

「ウム。せがれ采女にも支度させ、ともかく、上野あたりまで」

よ。今日はな、日和もよし、わしと一緒に、上野でも、ぶらつこうと思ってな。――はやく身支度をしておいで」

「え。上野へ……ですか」

の駕籠に乗って、藪八と采女は、牛込柳町から上野へ向った。

いろは茶屋とも呼ばれている。客の多くは、上野の坊さん達だった。そして寺侍の株持もあり、夜となれば

上野を追放になった寺侍の大内不伝は、さっそく、下谷の練塀小路の裏

日本橋

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道楽はし尽したあげく、吉原の花魁と心中し損ね、日本橋のたもとで晒し者にまでされたこともある――ということなどを

からな。――その四十七士が切腹したあとで、日本橋を始め、江戸の要所に立っていた御制札が、どこのも、

春はあけぼの。――その頃やっと、江戸橋、日本橋の欄干に、ほんのり、暁けの紅が染まりかけていた。

蔵前

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「さて。あしたは蔵前の不動堂か」

市十郎は、その後を押して行った。――蔵前の不動堂についたのは、夕方ちかくであった。

やッと、蔵前へもどり着いた。――

浜町

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宵の内に、帰らしていただくつもりだったんですが、浜町まで送って行ったお客様に、またおやしきでひきとめられ、お酒をのま

鶯谷

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、いやな勘がするがと、道を更えて、鶯谷へもどって来ると、またあの辺でも、羽織裏に、十手の見える

鶯谷の御隠殿ちかくへ来た。

、寺屋敷の門から出てゆくのを尾けて――鶯谷の橋の上までさしかかったとき――その刹那からの記憶がプツンと断れ

お燕と一緒に、坂を下って、鶯谷の橋袂まで来ると、かの女の六感は、何かをもう覚った

麹町

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麹町の町医者、市川楽翁は、役宅に勤めている与力の市川義平太の実父

日暮里

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ことは、お袖の父までの、代々の墓所のある日暮里村の湧泉寺で、過去帳をしらべ、和尚にただし、また遠い縁家などを

京橋

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で、京橋尻の河岸ぞいなどは、一時はさびれ果てたものだが、近頃では

―久助と申す者で、以前は、味噌屋のせがれ、京橋尻の梅賀さんのお家などで、チョイチョイお目にかかっていた者だ

京橋尻の、もと梅賀がいた家の近くに、河に添って広い空地

永代橋

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で、本所一ツ目から深川へ入り、お船蔵前から永代橋を渡って、次に、稲荷橋、湊町、南八丁堀――と、こういう

両国橋

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、きょうは柳営の御礼日にあたるとかッてんで、両国橋は通れないので、本所一ツ目から深川へ入り、お船蔵前から

。――ええと、お乗合の衆、舟はただ今、両国橋の下をすぎて、首尾の松へさしかかっておりますよ。そろそろお上がり