新書太閤記 08 第八分冊 / 吉川英治

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地名一覧

川中島

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劇的の一天地を作っている。湊川、四条畷、桶狭間、川中島、高松城の一舟、松の間の廊下、雪の夜の本所松坂町、劇

江南

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の手勢は、きのうの如き寡勢でないことはもちろん、江南から不破や養老地方には、小城、土豪、散在のさむらいどもまで、羽柴家

小谷

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小谷の城の落ちた年からすでに十年になるが、お市の方はまだまだ

栖賢寺

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秀吉の休んだ禅庵は栖賢寺であったが、これと並んですこし先に広徳寺がある。彼の本陣

安芸

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まだ彼が幼少の頃、安芸の安国寺を訪れた毛利元就が、ひと目見て、

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こんどの大乱に際して、さきに旅行先の堺からあわてて本国へ帰った徳川家康の道中の難儀を、甲賀山中で扶けた

があっても、それは神戸信孝か丹羽長秀か乃至、堺に滞在中と聞いていた徳川家康などを加えた近畿合体の織田遺臣軍

摂津

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一路、摂津に入り、尼ヶ崎に着くまでは、これまでの急行軍とひとしく、落伍する者

、事実のまま、十一日のその朝から風の如く、摂津を中心に拡まった。

加えて、彼が現地を去り、姫路を経、奔転、摂津へ向けて驀進して来るあいだにも、その途上へ向けて、

筒井勢もまた同様とすれば、機先を取って彼を摂津の入口に邀撃するには、遺憾ながらお味方の兵力は不足であります。

の破竹な軍勢を防ぐに足る堅塁ではない。元々、摂津の中川、池田、高山らにたいして、万一の変あらばと、擬勢を

宇治

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伏見には家臣池田織部を。宇治には奥田庄太夫を。淀には番頭大炊助を。また勝龍寺の城に

丹波

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「この川の水も、この風も、丹波の山を越えて来たものだ」

路へむかって、急げるだけ急げ。敵の残兵の多くは丹波へ逃げたろう。それらの者が、亀山に籠って、備えをなす遑も

討ち洩らされた明智部下のうちには、領主の代った丹波へ逃げ帰るよしもなく、すがたを変えて、市の裏や橋の下に、

大徳寺

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、その手続きをこの友に依頼した。同日また五山、大徳寺その他へも多額な寄附をしたので、安土から携えて来た手許

も尨大な工事をやらせていた。寺である。大徳寺の地域のうちに、新たにもう一寺を興しているのだった。

には火屋れいがん堂など厳めしく作り、竹垣をゆへり。大徳寺より道の警固きびしく、武士どもかためたり、弟美濃守秀長奉行をなせり、

羽柴小一郎、警固ノ大将トシテ、大徳寺ヨリ千五百軒ノ間、侍三万バカリ、道ノ左右ヲ護リ、弓箙、

知恩院

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さきに二条城の戦いで負傷し、のちに知恩院に入って療養していた明智光忠も、この朝、

高松城

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美作、因幡、伯耆の五ヵ国を割譲しよう。そのかわりに高松城の囲みを解いて、清水宗治以下の城兵五千の生命は保証して欲しいと

だった。恵瓊はついに決意した。自己をふるい起して高松城へ出向いた。もちろんそれは濁水に棹さして蛙ヶ鼻から舟で渡るので

高松城の士たちは、次々に主人宗治の前へ出て死を願った。

「それへお渡りありしは、高松城の守将、清水宗治どのでございますか」

が、それは高松城の北方を抑えていた八幡山の宇喜多忠家と、龍王山麓の羽柴秀勝の二

「高松城の周囲一時に干潟と変りました。その代りに低地はすべて河と化し泥田

一天地を作っている。湊川、四条畷、桶狭間、川中島、高松城の一舟、松の間の廊下、雪の夜の本所松坂町、劇以上の劇

伊吹

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「坂田郡の七条、鳥脇などを経て、伊吹の山裾へつきあたります。すると、北国街道が横たわっておりますが、これに

おりますが、これにならわず道を横ぎって、なおも伊吹の西麓へ登ってまいるのです。――その辺まででも、お城から

は危ない。五十騎では少なすぎる。この夜道――わけて伊吹の山近くにでもなれば、なおいかなる敵勢が潜んでおるかも知れぬ

「伊吹に連なる彼方の山は国見といい、あのへんを東へ越えると、美濃の

つかれも知らない容子である。そして静かに明けて来た伊吹の西谷を行くほどに、ここはもう彼にとって母の懐かのよう

高台寺

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ただ一隅の池のほとりに、高台寺かどこかの法師達が来て石を積み重ねておいたという所に、

吉野

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に至言。世間の様態、ものに喩えて申すならば、吉野の桜、雪とけて、東風の訪れに会いたるごとく、人もみな、やがて

、このたびのこととて、めでたしといえぬこともない。吉野のさくら、時来らでは見られぬものよ。雨情を孕み、風の陽気

高槻

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わけて高槻の高山右近と茨木の中川瀬兵衛の二将は、在城の地も近いので

また、瀬兵衛は茨木の城主だし、右近は高槻の城を持っている。この領内を通らず京都へは出られないし、

思われるほど賑やかな朝餉である。そこへまた昨夜来、高槻の北方、芥川方面へ偵察に行っていた加藤作内光泰、福島市松などが

は諸方の情報を聞きあつめ、また前進をつづけ、茨木と高槻の中間、富田に陣営をさだめた。

――のみならず、一面、疾く檄を飛ばしていた高槻の高山、茨木の中川、伊丹の池田などの、わが麾下と見なしていた

「伊丹、茨木、高槻などの諸勢も、はや秀吉に款を通じおるものと見るほかありません

大坂城

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あらぬ理由を立ててしかもなお、いちど貴所の方から大坂城へ来て、ここで御軍議を固められては如何か――などと悠長

甲州

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始め安土の同僚は、手をたたいて興じ入ったが、甲州の使者は、演舞の槍先がしばしば胸元近くまで閃めいて来たので、酔

越前

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たといっていいが、さすがに海道の徳川家康と、越前の柴田勝家とは、やや積極的な動きを示していた。

で、その旧恩によって辛くも難をのがれ、これは越前の柴田勝家を頼って遠く落ちのびて行った。

、超速度の転進とは見えたが、その主隊が、越前と近江の境、柳ヶ瀬を越ゆる頃、日はすでに十五日となってい

しかしそこは越前から京都へ通ずる咽喉の要地であった。

帰国した。そして柴田勝家は、さいごの十四日夜、越前への帰国を発表し、十五日朝、清洲を立ったが、木曾川を渡っ

――江北から越前への道すじは、度々、お通りの地で、御不案内はなかろうと存ぜられる

中央舞台ではあり得ないのであるが、柴田は遠く越前にあって、もっぱら地方的勢力の結集と、岐阜や伊勢やまた、神戸信孝

四国

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とか、また、四国の長曾我部の動静がさだかでないから、一両日はなお見定めたいとか、あら

としている明智左馬介光春をも帷幕に加え、かたがた、四国の政治的変化や、信長の遺臣中にも必然起るであろう内訌と自壊作用など

清洲城

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清洲城はここ毎日、登城の列、下城の人馬で、凡ならぬ光景を見せて

当日の清洲城は、数ある間ごと間ごとが、思いきってみな開け放たれていた。この

ひとまず退いて、あくまで清洲城と三法師を擁し、秀吉の非を鳴らして、諸侯を糾合してから堂々

伊吹山

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夜はまだ明けきっていなかった。ただ目のまえの伊吹山の線がほのかな暁紅と薄浅黄の空にはっきり浮き出して見え、耳に小禽

逢坂

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そのほか、昨夜以来の配置によって、醍醐、山科、逢坂、吉田、白河、二条、七条、洛の内外いたるところも、秀吉指揮下

登れば逢坂、西は三井寺。また一方の道は柳ヶ崎の浜辺へ出る。

姉川

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、七里、めったに里人も通わぬ道を参ります。姉川の上流梓川の水は、渓をせき淵をなし、道に沿うております

叡山

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にもただならぬ武者声が聞かれたであろう。そして叡山の根本中堂あたりには、かつてこの峰々で焼き殺された無数の僧侶、碩学、

京極

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「伊吹へもだいぶ逃げこんだと聞く。その阿閉勢か京極の残兵どもであろう」

丹後

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「はてな。今のは丹後の細川家の士ではないか」

「……もし丹後の細川と大和の筒井だにこれへ加わっていたならば、日本中部を縦断

桶狭間

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最高な劇的の一天地を作っている。湊川、四条畷、桶狭間、川中島、高松城の一舟、松の間の廊下、雪の夜の本所松坂町

甲賀

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し、瀬田大橋にも火を放って、家中とともに甲賀の山中へ遁走していた。

坂本城

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光秀はやむなく、坂本城に留まって、むなしく両三日を過し、橋の急修理をおえて、ようやく

途中は坂本城で泊った。

、その他の味方へ、急使を派した。遠くは、坂本城にある従兄弟の光春へも、

ほかにもなお、小舟に乗って坂本城へ渡ったものである、などという説もある。

の矢弾の射程距離外を注意ぶかく迂回して、やがて難なく坂本城の東の浜へ、水を切って駈けあがっている――

坂本城は、明智方最後の一拠地だった。左馬介光春以下、一族とその股肱

はもう――だいぶ以前のことになるが、光秀が初めて坂本城を拝領した頃、信長公のお使いで、この筑前が祝いに参った

た。十四日の夜はまたも大雷雨であった。坂本城の余燼は消え、墨の如き湖や四明ヶ嶽の上を、夜もすがら青白い稲光

てみても、明智軍の全滅は疑う余地もなく、坂本城も陥ちたこと確実である。なお昨日今日あたりは、安土方面に炎々と黒煙

鹿野城

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「ただ今、亀井殿が鹿野城から馳せつけられました」

勢の一面を牽制するため、天正八年以来、因幡の鹿野城に拠っていたものである。秀吉はいま、彼をここに見て、

本能寺

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、一族にも皆、然るべく云いふくめてある。総じて、本能寺にみまかられた御方に従い参らすつもりで、潔くあることだ」

本能寺の余燼もまだいぶっていた六月二日の当日、未の刻(午後

六月十四日である。京都では何よりも先に本能寺の焼け跡を訪れて、亡主信長の霊を弔って、戦況を報告した。

軍馬がなお轡の音や喊の声を止めず、また本能寺方面にもただならぬ武者声が聞かれたであろう。そして叡山の根本中堂

光秀の首は本能寺の焼け跡に曝された。水色桔梗の九本旗がここの暁に鼓譟

粟田口に梟けられた斎藤利三のそれは、本能寺から移して来た光秀の首級と並べられていたが、曝されたの

六月始め、本能寺に! ――とあの乱が聞えたときにはもう長浜へも明智軍

六月以来、本能寺、山崎と打ちつづいた戦乱に、家を失い、職に離れ、なお屋根も壁

と、天は同じ運行のもとに施与していた。本能寺の日から指折っても、まる四ヵ月。――清洲の会合からすれば

徳川家康の存在であった。いや彼の意中である。本能寺以来、まったく特殊な位置に拠って、この時流奔々たる外にあった彼の

安土

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加担してのことだろうと思われまする。けれど、てまえが安土から瀬田へと急いで来る途々のうわさでは、明智の将の妻木範賢

「安土へ。安土へ」

「安土へ。安土へ」

両三日を過し、橋の急修理をおえて、ようやく安土へ襲せかけた。

五日から八日の朝まで、彼は安土にいたが、その間とて、彼はただいたずらに、庫中の金銀や

に面罵され、饗応の役を褫奪され、憤然、安土を去って、居城亀山へ去る途中、幾日もここに留まって、悶々、

大徳寺その他へも多額な寄附をしたので、安土から携えて来た手許の軍用金はすっかりなくなってしまった。そして夜は、下

ひきつれ、山科から粟田口へ押し通れ。目的は大津へ出て、安土と坂本との通路を遮断するにある」

「ここに立ってもまだ、安土へ参れば、お目にかかれそうな心地がしてならぬ……」

と観て、すぐ安土の一千余名にことごとく出軍を命じ、未明、城門を出て、陽の

で、その強さはいうまでもない。しかも、光春が安土から率いてきた手勢一千余に対して、彼は少なくもその三倍に

「安土が旺んに焼けております」

の第二子信雄)と、蒲生殿の勢が一手になって安土へ攻めよせ、城下城塁に火を放たれましたため、火は湖の風を

放たれましたため、火は湖の風をうけて、安土一円をつつんでおります。――が、すでに安土にはさしたる敵兵もおりませ

て、安土一円をつつんでおります。――が、すでに安土にはさしたる敵兵もおりませぬゆえ、合戦というほどな合戦は行われて

、金屏風も乗せた。十八日のことである。目的は安土への移動だった。

が、安土はすでに焦土である。ここに到着するや、ひとりとして、憮然とし

安土滞陣もわずか二日だった。船列はふたたび湖を北した。秀吉はいよいよ

「大津には彦右衛門をのこしてあるし、安土には神戸どのが止まっておられる。佐和山といい、この長浜といい、はや

「中国の長陣中、安土までは帰っても、長浜の家まではつい立ち寄るいとまもなかった。――

また、安土は焼失したので、安土に仮館ができるまで、三法師の座所は

また、安土は焼失したので、安土に仮館ができるまで、三法師の座所は、この岐阜としておく事

であったが、或る折、甲府の使者を迎えて、安土に大酒宴の催されたとき、主客の使者が列席の武将のなかに、

桂川

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軽捷な戦闘隊をまず丘から降ろして、桂川の上下を見張らせ、荷駄、本隊、後軍とつづいた。

ていた。山岳地方は、大雨だったにちがいない。桂川の水勢は常よりも烈しかった。

殊に、明智方の銃士は、桂川を渉るとき、驟雨のために、だいぶ装備を濡らしている。中には幾筋

鈴鹿

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(滝川一益の領地を通過し、伊勢から鈴鹿を越え、江州の西を廻って御帰国なされては……)

赤坂

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赤坂方面へとなお進む。

琉球

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日本国内では諸国共にさし合いがありましょうゆえ、願わくば琉球を賜りたいもので」

梓川

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、めったに里人も通わぬ道を参ります。姉川の上流梓川の水は、渓をせき淵をなし、道に沿うておりますが、どこ

さきに石田佐吉がいったことばの通り、梓川の渓流は、それに沿って溯っても溯っても水源らしくならなかった。

白い霧の海に、旭が映じている。梓川の渓谷に沿うて、道は狭くなってくる。騎馬の士は馬を降り

京都守護

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しかし京都守護の軍から友松へたいしてべつに召喚もなく過ぎた。為に、洛の内外

蜂須賀村

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ふたりの胸には、二十余年前の蜂須賀村の小六のやしきが思い出されていた。わけて彦右衛門正勝には、その頃、

を恵瓊が親しく知ったのも、旅の修行中、その蜂須賀村に一宿した機縁によるものであったのだ。

二条城

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さきに二条城の戦いで負傷し、のちに知恩院に入って療養していた明智光忠

信長の跡目は当然、信長に殉じて、二条城で戦死した嫡男信忠の次弟たる信雄か信孝にゆくであろうという見解に

うしろには、この遺孤の父信忠が二条城で戦死した折、信忠の遺命をうけて、敵中からこれへ遁れ落ちて

河内

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の動向については何ら知るところもなかったが、河内、摂津方面に散在する諸大名の態度には、何となく不安を感じ出し

ここは山城の綴喜郡と河内の交野郡との境をなす峠路である。光秀は旌旗を立てて、

稲葉山

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たる羽柴麾下の一将だが、その青年期までは、岐阜の稲葉山つづきの山岳中に育った自然児である。彼の眼をもって見るときは

を見た。彼は、故信長もいた旧山河、稲葉山の城を信孝に献じて、まず旧主家への誠忠を示し、つづいて、

亀山城

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に向った高山、中川の二隊は、十四日朝、亀山城を包囲していた。けれどここにはもう光秀の家族はいなかった。

坂本の城には、なお多くの家中の者と、そして亀山城から移した光秀の夫人や子達や、そのほかたくさんな老若男女の眷族が籠め

諏訪

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「諏訪は」

亀山

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とし、勝龍寺の城を左塁とし、能勢、亀山の諸峰と、小倉之池に狭められたこの京口の隘路を取って

残兵の多くは丹波へ逃げたろう。それらの者が、亀山に籠って、備えをなす遑も与えぬようにだ。時おくれると、陥す

にだ。時おくれると、陥すにも手間どろう。明日中に亀山へ迫るぶんには、苦もなく陥ちるはずだ」

淀川

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今、神戸信孝君、丹羽長秀様などの一軍が、淀川の岸まで到着されました」

と、陣門の人々へ、馬上から振り向いて、ひと言告げ、淀川の岸まで急いだ。もちろん数騎の部下はあとから駈けつづいた。

また、前々から、散陣的に、淀川の対岸から山崎方面へ出しておいた幾つかの部隊にも伝令をとばして、

さらに、脚下の淀川を見た。

ときまだ前線に着いていなかった。神戸信孝の来着を淀川に迎えていたためである。信孝や丹羽長秀などの軍を加えて、

筑前

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両川(吉川・小早川)の恥にはなるまいと思う。筑前はそう思うのだが御僧の分別はどうか」

「今日。……しかも午の刻までにせよとの筑前のことばでおざるが。午の刻までといっても、もう二刻半

「案じるな、故人へもここで誓うておく。かならず筑前が育ててみよう。以後は秀吉の養子ともなして」

多い。ここの一塁は、毛利への抑えとして、筑前が恃みおくもの。呉々、抜からぬように」

当地にいたるまで、お許らも見て来た通り、筑前は精進潔斎を守って来たが、ここ尼ヶ崎の地は、すでに敵の明智

「昼寝と申していたが、実は筑前はもう眼醒めておるのではあるまいか。何にしても、余り無愛想

「筑前も、もうよい加減に、出て来そうなものではないか」

――そして今、二人の髪の端だけを切らせ、筑前のと添えて、お位牌の前に供えて参ったが、おかげでこの暑

あるこそ輔佐のお役目であろうと。――左様に、筑前が申しおったと、あからさまに伝えてくれい」

「筑前じゃ」

であろうことを信じて疑いませぬ。……やれやれ、筑前もおすがたをここに拝して、臣下の道のひとつを完ういたしたよう

「筑前どのが、直ちに、京都へ攻め上られるため、われらの如きは、足手纏いと

「筑前は達者か」

「筑前からこの光秀へ言伝てとな? ……。おもしろい。何と云いおった

ては、自分より先に光秀に面会いたした折は、筑前がかく申しおったといえ。……そう仰せられまして」

「筑前が云いそうなことよの」

「筑前、あれにありとみえたり」

城を拝領した頃、信長公のお使いで、この筑前が祝いに参ったことがある。そのとき、光秀は下へも措かずわし

「よし、よし。みなつつがなくこれにおるな。筑前も安心いたしたぞ」

「されば、筑前がおすすめ参らせたには違いありませぬ。ぜひにと」

勝家にすればこれも苦々しい沙汰といわねばならぬ。筑前と自身とを、対等に視られることさえ、不愉快この上もないのである

年ばえの如何にあるわけではありますまい。――筑前においては、ぜひに、御筋目を正されて、三法師様をこそ

のときのことばよ。酒はのむが、大酒はようせぬ筑前じゃ。ゆるせ、ゆるせ」

「――だが、筑前。ひとつ玄蕃の腹にすえかねることがあるぞ。やい、聞け筑前。…

つ玄蕃の腹にすえかねることがあるぞ。やい、聞け筑前。……耳はないのか」

「筑前に、何かよいものをお遣りなされ。今でも、揉めといえば、

「それよ。さすがは年の功、よう察した。――筑前こと、持病に悩み、昨夜、にわかに長浜へ帰国、残念ながら御祝事には

(この筑前にも、時来って、ようやくほんとうのお勤めが与えられて来たようで

の羽振を見れば、まるで、信長の相続者は、筑前にて候といわぬばかりな……」

(筑前は、何事にも、信長の手口を真似、信長の行き方を、師と

八幡山

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が、それは高松城の北方を抑えていた八幡山の宇喜多忠家と、龍王山麓の羽柴秀勝の二軍が陣払いしたに過ぎ

加賀

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若さであるに関わらず、柴田一族の上将として加賀の尾山城に住み、ここに在る諸大名とくらべても、何ら遜色ない

伊勢

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(滝川一益の領地を通過し、伊勢から鈴鹿を越え、江州の西を廻って御帰国なされては……)

越前にあって、もっぱら地方的勢力の結集と、岐阜や伊勢やまた、神戸信孝などと何やらの暗躍にせわしく、丹羽は坂本の近くに

出雲

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「中国の事成る上は、御辺には、出雲の国を与えるであろうと、信長公にもその儀は御内諾を得て

兵庫

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「これは相違なく会同する。まだ見えぬが、自分が兵庫まで来たとき、使者をよこして、此方まで誓紙をとどけて参っておる」

池田勝入父子、大坂、尼ヶ崎、兵庫十二万石

浜松

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あったためか、徳川殿の軍は、昨日、鳴海から浜松へ引っ返されたとのことです。一方、近江境まで来ていた柴田軍

姫路城

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見えないうちに、さらに、ほかの小姓たちを派して、姫路城の金奉行、蔵奉行などを、みなここへと、呼びにやった。

姫路城の内外から立つ炊煙は一時天も賑わうほどだった。一番貝の音と

て見ると、秀吉があのような心と姿で送った姫路城の八日の晩を、光秀は同じ夜、坂本の城に、どんな感慨

高松

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美作、因幡、伯耆の五ヵ国を割譲しよう。そのかわりに高松城の囲みを解いて、清水宗治以下の城兵五千の生命は保証して

毛利高松藻屑にぞなる

、毛利は武門を立てて来たことゆえ、このたびは高松の守将清水宗治に死を与えるとも、決して両川(吉川・小早川)の恥

だった。恵瓊はついに決意した。自己をふるい起して高松城へ出向いた。もちろんそれは濁水に棹さして蛙ヶ鼻から舟で渡る

水の城、孤立の城、高松のうちには将士や農民をあわせて五千のいのちが拠っていた。

高松城の士たちは、次々に主人宗治の前へ出て死を願った

振り向くと、高松の城は、かなり後になった。ちょうど、蛙ヶ鼻と城との

「それへお渡りありしは、高松城の守将、清水宗治どのでございますか」

舟がやや揺れる。波がやや立ちさわぐ。――高松の城中にある五千の人のこれは涙か。はるか彼方の山々や岸

が、それは高松城の北方を抑えていた八幡山の宇喜多忠家と、龍王山麓の羽柴秀勝

は、すでにそこに在る必要を持たないものであった。高松の城にはもはや抗戦すべき守将もなければ精神もない。――なお

わずかずつの水量は減じ始めたとはいえ、まだ彼方の高松の城は水の中だった。

や十数ヵ所にわたる大堰を一時に切り落して、もとの高松盆地に回そうとするのである。彼は蛙ヶ鼻の岩頭に立って

「高松城の周囲一時に干潟と変りました。その代りに低地はすべて河と

頃病死していたので、幼い遺孤を守り立てて高松へ参陣していた岡山衆の心境は、いとど多感であったので

高松のあとへ殿軍として残して来た森勘八の一軍も、この

緒を結びながら、陣中の所持金を彼にただした。高松陣の経理は弥九郎の任だったからである。費い余してあるか

「先君御落命の報らせをうけて以来、高松から当地にいたるまで、お許らも見て来た通り、筑前は精進

「迅いには一驚を喫した。高松からこれまでの間、ほとんど、眠るまもなかったでござろうに。――

つを完ういたしたような心地がされまする。真実、高松以来、初めてのうれしさにござりまする」

一天地を作っている。湊川、四条畷、桶狭間、川中島、高松城の一舟、松の間の廊下、雪の夜の本所松坂町、劇以上

越中から京都への道と、備中高松からの道とでは、多少道路の嶮や距離の差に長短はある

京都

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「敵の毛利が、京都の変を知るがさいご、到底、和議はむずかしい。戦いの主導は彼の

「それがしは聖護院印可の優婆塞で、京都因幡堂に住す金井坊というものである」

毛利輝元へあてた一書を受け、二日の早朝、京都から立って来た者だ。

為に、今朝なお味方の内にすら京都の変の洩れている気はいはなかった。秀吉はそれを見届けて緩々と

はなし、その秀吉も、神ならぬ身の、何で京都の兇変を、事前に知って計ることができよう」

急速に運びすすめて来たもので、すでに昨夜あたりは、京都の兇変を、秀吉としては知っていたものに違いなく、それ

に見える。しかしなお油断はできなかった。なぜならば、京都の兇変を、今朝もまだ彼が知らないものとすれば、たとえ質子

右近は高槻の城を持っている。この領内を通らず京都へは出られないし、明智勢と接触はできない。ほとんど敵中にある

は、山崎、円明寺あたりの兵力も結集し、或いは、京都坂本方面まで後退するのではないかのような空気も見えましたが

明智光秀は、この九日の朝、坂本を立って京都へ引っ返していた。

未の刻(午後二時)頃には、彼はもう京都を去って、

もちろん京都にも部下を残して、残党狩りによる織田色の一掃に努めさせ、

つぶてである。のみならず、自分の麾下に属し、しかも京都と近接している摂津あたりの中川瀬兵衛、池田信輝、高山右近などからさえ

――明けると早暁に、白河越えを経て、京都へ向っていた。

下鳥羽の陣へ、一群の町人たちが伺候した。京都の町代表たちで、

侍座の一将は、京都市民のよろこびと、献上の粽とを、光秀の前に披露して後

けれど京都人は由来、人に接すると、そうした小事を見つけて、すぐ相手

と、下鳥羽の本陣を訪ねて来たのは、京都町民の代表者たちが、そこを辞してから間もない頃だった。

「筑前どのが、直ちに、京都へ攻め上られるため、われらの如きは、足手纏いと思し召されたのでしょう

この際、明智方としては、京都という政略上重要な地をひとまず敵に委ねても、坂本まで退いて

ば、坂本にたてこもるとも敗れ去らんは必定である。もし京都を敵に委すならば、光秀の名分は何によって立てようぞ」

。たとえ幾多の不利はあるとも、一戦も交えず、京都を明け渡すことは、彼の心事として、断然、忍び得ないものが

べき。さるを、一戦もせず、御所の地たる京都を易々として敵に渡すからには、あれみよ光秀こそは、何

、その大道に拠られたためです。山崎を退いては京都を捨てることになるからです。御心事を察しると、哭いても哭き

ここで信孝と宿営を共にし、未明に立って京都へ入った。

六月十四日である。京都では何よりも先に本能寺の焼け跡を訪れて、亡主信長の霊

(はや秀吉の馬じるしが京都に入ってきました)

十四日には、すでに熱田まで来ていた。そしてなお京都へ向って続々行軍中であった。

京都を中心とする残党の詮議なども、極めて短期間にすまされて、より大きな

ている。そしてまた光秀の場合とちがっていることは、京都に入ったからといって、すぐ地子銭の免税を布告したり、五山

しかし京都守護の軍から友松へたいしてべつに召喚もなく過ぎた。為に、洛

ある。――しかしまた、心は疾風のごとく、現地の京都へ急いでもいた。

ぞ知らん、中国で毛利と対していた秀吉は、京都の飛報を入手した点では、勝家より一日程早かったにちがい

越中から京都への道と、備中高松からの道とでは、多少道路の嶮や

ここから西すれば京都方面へ。東すれば余吾の湖を経て、江州長浜街道へつづく。

無一などという健脚な若者をすぐって、大津方面から京都あたりまで、実状の探索に放った。そして、爾後の全貌が明確にわかる

しかしそこは越前から京都へ通ずる咽喉の要地であった。

坂本は京都の関鍵だ。

京都に織田代表の四将を置く。柴田、羽柴、丹羽、池田の四家が

いないことが分ったからである。秀吉はあれ以来、京都へ上って、中央の枢機で大いにうごいている。また、山城の宝寺の

山崎の宝寺城から、彼は隔日のように京都へ出向いた。帰っては、工事を督し、出ては中央に政務を

本来、清洲会議での決議では、ここの京都政治所の閣臣は、柴田、丹羽、池田、羽柴の四人がひとしく

京都は盆地の小山水に過ぎない地だが、政治的には、全日本を俯瞰

なおまだ、一介の奉公人にすぎなかったが、秀吉は、京都政治所でする日々の時務が実に楽しかった。忙しければ忙しいほど楽しまれ

従って彼の部下も京都にあっては著しく人品を磨いていた。いやしくも恥あるを行わなかっ

、八月、宝寺城の工を起し――この間、京都政治所と山崎とのあいだを隔日に往来しつつ、朝に禁闕に伏し

岡山

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岡山の東方一里ばかり乙多見村附近で、一修験者が、検察隊に誰何さ

始めました。五つ刻(八時)頃から続々と岡山方面へ引き揚げてゆく隊伍が見られ、それは多分、宇喜多勢でないか

夜をとおして宇喜多勢は岡山へ撤退していた。けれど秀吉の本軍はまだ一兵も退いていない

半田山までくると、さきに引き揚げていた宇喜多主従が、岡山から迎えに出ていた。

そして、宇喜多忠家以下、出迎えに来ていた岡山衆へたいして、

で、幼い遺孤を守り立てて高松へ参陣していた岡山衆の心境は、いとど多感であったのである。

一族の忠家は涙をこぼした。岡山城主の直家はすでにこの一月頃病死していたので、幼い遺

だから陣輿は舟のように揺れていた。かくて岡山の城下まで来るうちに、秀吉と少年とはすっかり仲よしになっていた

ない予定なので、秀家を輿から降ろし、忠家以下の岡山衆にも別れを告げた。

福岡

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この日は七日、福岡の渡しまで来ると、河は出水に激している。沼城の者が、

福島

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腰掛にかけると、まだ乾かぬ汗を拭き拭き、小姓の古参福島市松を前に呼んで、こう軍令を口授した。

北方、芥川方面へ偵察に行っていた加藤作内光泰、福島市松などが帰って来て、

と、傍らの福島市松とほか二、三名の荒武者を選んで命じた。

荒小姓の福島市松などは、左右から彼の襟がみをつかんで、面白半分に何処かへ

神戸

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いつ大坂へ向われるか。われはともあれ、大坂表には神戸信孝様もおられ、丹羽五郎左も、貴公の来るのを待ちぬいておる

、まだ煮え切らない書面をよこしたり、返書を求めて来る神戸信孝の態度には、秀吉もこの多事と兵機を寸刻たりと、ゆるがせ

神戸信孝としては、秀吉が、尼ヶ崎まで来ていながら、大坂へ来

おる先君の御遺子のお一方ぐらいはお加え申しあげたい。神戸殿をして生涯、悔いをのこし、世上にも顔向けならぬようなお

「自分はここでもう一日、神戸殿のお出を待つ所存だ。半日一夜たりと、大事な機の刻々

「されば、神戸殿を待つにも、おのずから際限がある。――明日ともなれば、

「ただ今、神戸信孝君、丹羽長秀様などの一軍が、淀川の岸まで到着され

左右すべて彼に慴伏し、威風払わざるものはなく、たとえ神戸三七信孝たりとも、丹羽五郎左衛門長秀たりとも、全軍の指揮者たるその位置

。また秀吉も、まだ後方の富田に在って、大坂から神戸信孝の来会あるを待っていた――十三日未明――まだ暗いうち

が、秀吉はこのときまだ前線に着いていなかった。神戸信孝の来着を淀川に迎えていたためである。信孝や丹羽長秀など

加うるに、大坂表から参加した神戸信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆の総勢約八千を容れたので、総計する

蜂屋隊に代って、神戸信孝の麾下、峰信濃守、平田壱岐守が、新手を出して、明智

「さては、神戸三七信孝、自身進まれたな」

羽柴軍の全陣のうちでも、神戸隊は最も兵力の多い点で重厚だったのである。それに丹羽長秀

、大かがりを焚かせ、城門外に床几をならべて、神戸信孝と秀吉の到着を待つことにしていた。

滝川、毛利、長曾我部。なお信長の遺子たる北畠信雄とか神戸信孝とか、親族たちの意向から、さらに、その間に伏在する諸武門

秀吉と同行の神戸信孝はしきりと嘆いたが、それでもこの放火が信雄の手でなさ

「大津には彦右衛門をのこしてあるし、安土には神戸どのが止まっておられる。佐和山といい、この長浜といい、はや抑えは

使者は二人であった。ひとりは秀吉の家臣、ひとりは神戸信孝の臣。

て弔い合戦の先陣をつける者があっても、それは神戸信孝か丹羽長秀か乃至、堺に滞在中と聞いていた徳川家康など

特に神戸信孝にたいしては、きのう帰った使者に特に持たせてやった返書に追いかけ

月の末近くには、神戸信孝、北畠信雄の一門もそろい、以下、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀

殊に、柴田勝家と神戸信孝との往来は、目につくものがあった。

の声などはあり得ない。なぜなれば、彼が、神戸三七信孝を立て、すでにその信孝と事前に結託していることは、隠密

など居流れていた。もちろん、正面の上座は、一門の神戸三七信孝と、北畠信雄の二人が、席をわかっていたが、なお

その時、上座にあった神戸信孝の容子に、ふと顔いろのうごくのが見えた。勝家の眼は、

彼と神戸信孝との間には人目立つほど日々往き来が交わされていた。

、もっぱら地方的勢力の結集と、岐阜や伊勢やまた、神戸信孝などと何やらの暗躍にせわしく、丹羽は坂本の近くにあっても

ない代りに、柴田勝家からは長文の抗議が来た。神戸信孝からも嫌味たっぷりな書面が来た。共に、大不満なので

柴田勝家翼下の前田、佐々、金森、徳山の諸将、また神戸信孝一類の滝川以下、みな云いあわせたように、上洛もしなかった。

大津

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そこでも、軍勢の一半を割いて、山科から大津方面へ陣取らせた。

「御意。――夜の白まぬうちに山科、大津近くまで辿りますれば、もうお案じはございませぬ」

きった心身を引きずっている。――山科はもう程近い。大津まで出ればもう大丈夫。――と励まし合って行くものの、各※の疲労感

。……かいないお筆をお取り遊ばしますな。大津まではもう一息、そこまで辿りつけば、左馬介光春様にもお迎えに見えられ

)はただちに兵をひきつれ、山科から粟田口へ押し通れ。目的は大津へ出て、安土と坂本との通路を遮断するにある」

へ立ち寄ったのは、この日さらに、蹴上を進んで、大津にまで出る行軍の途中であった。

数里を遁れ得ていたなら、この朝、山科から大津へ出て、たとえ勝てないまでも、光春と共に最後の一戦を

一団として、颱風のごとく、旋回陣を取りながら、大津まで突破しようと試みたのだ。

しかし、その大津まで出ることに成功しても、それは決して勝利をつかんだことにも

――こうして、ようやく、大津の町の東口まで突破して来たものの、ふと炎のような息

しかし大津の町へ入ると、町屋は煙につつまれている。光春の先に

常に、居城の坂本の馬場から、この大津附近まで、水馬で渡ったことは何十遍も経験があるのである。

「大津には彦右衛門をのこしてあるし、安土には神戸どのが止まっておられる

二通とも、大津三井寺に在陣中の秀吉、信孝の手で認められてあり、日附も

源次郎、近藤無一などという健脚な若者をすぐって、大津方面から京都あたりまで、実状の探索に放った。そして、爾後の全貌が

松山

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はかなり高く嶮しく、最高二千七百尺はある。別名をこもりの松山ともいい、宝寺の山ともいう。峨々たる岩山で、全山、松

岐阜

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、錚々たる羽柴麾下の一将だが、その青年期までは、岐阜の稲葉山つづきの山岳中に育った自然児である。彼の眼をもっ

一は織田家の発祥地として、一は岐阜在城の地として、共に、適切な処置とされたが、

安土に仮館ができるまで、三法師の座所は、この岐阜としておく事。

は遠く越前にあって、もっぱら地方的勢力の結集と、岐阜や伊勢やまた、神戸信孝などと何やらの暗躍にせわしく、丹羽は坂本

甲府

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まだ信長の在世中であったが、或る折、甲府の使者を迎えて、安土に大酒宴の催されたとき、主客の使者

蒲生

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蒲生賢秀以下の留守居衆が、信長の妻子眷族をつれて悉く日野の城

明示しているものは、蒲生賢秀の如く、細川藤孝父子の如く、きっぱりと、彼の誘いを断った

陣しておられた北畠殿(信長の第二子信雄)と、蒲生殿の勢が一手になって安土へ攻めよせ、城下城塁に火を放たれ

「理由なき放火よ。信雄様はともあれ、蒲生までが、何をあわてて」

ここにあるべきはずの北畠信雄は、蒲生賢秀とともに江州の土山にたてこもり、いまなお伊勢伊賀の叛乱軍と抗戦

放火は、直接、信雄が指揮したのでもなく、蒲生賢秀の意志でもないことが同時に判明した。一部軍隊の行為に

羽柴秀吉、丹羽長秀、細川藤孝、池田信輝、筒井順慶、蒲生氏郷、蜂屋頼隆など、あらかた到着していた。

て向いあい、以下、池田勝入、細川藤孝、筒井順慶、蒲生氏郷、蜂屋頼隆など居流れていた。もちろん、正面の上座は、一門の

ている鬢づらなど、戦陣振りも頼もしげに思われる。蒲生氏郷は座中第一の若年ではあるが家柄のゆかしさ天性の気稟

丹羽、滝川、池田、蜂屋、細川、蒲生、筒井など順次に拝儀は終った。――そして人と席とは

諸侯のうちでも、細川、蒲生、池田などは、祝日のすぐ翌日、帰国の途についたが、爾余

大塚

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――きのう秀吉の本軍が富田大塚附近まで進出すると、麾下の諸将はみなまッ先に、この山に目を