私本太平記 06 八荒帖 / 吉川英治
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彼の黒表にのぼっていたおもなる大族は菊池、阿蘇、少弐、大友の四家だった。
宮の令旨をうけたのだ。そして、それいらい両者は阿蘇の麓でじっと雌伏していた。ところへ、つい数日前、さらに船上
ない。また下賜されたのは菊池武時だけでなく、阿蘇、少弐、大友の三家も同様であった。――探題の北条修理亮
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かりて、日ごろ怪しいと見ている武門たちを、いちど博多に呼びあつめ、その真意を確かめておこうとした。――彼の黒表にのぼっ
もしめしあわせ、まず彼のみ家の子郎党三百余騎をつれて、博多へ出た。そして息ノ浜に宿営した。
博多の探題邸は一城郭のおもむきをなしていた。いわば筑紫九ヵ国の鎮台
英時は、この博多でもう在職十年からになる。
なにしても、この良覚法師は、偶然にも、博多に来ていて、三月十三日の博多合戦を、目のあたりに見てい
「女は二人連れと申すが、博多の者か、よそ者かの」
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はない。――伯耆から来た名和悪四郎泰長、出雲からきた富士名二郎義綱。また土着の島武士では、近藤弥四郎、
皇女である。――去年、都から父皇を慕って出雲まで来たが、会うこともかなわず、絶望のあまり米子の安養寺に入っ
の能登も呼ばれて行ったんですって。……いや出雲の守護の塩冶高貞もよばれて、島後へ渡ったと、話していまし
出雲の塩冶高貞が、そこへ会同したというのもおかしい。――さきに
説いて、宮方へ引き入れる自信があるとかいって、たしか出雲の簸川城へ塩冶をたずねて行ったはずである。
に“唐梅紋”とわかる海賊旗をたてた親船が、出雲の日ノ御碕や多古の沖を出没している」
出雲の人煙である。美保ヶ関の松である。また、伯耆の大山である
まして、出雲ノ守護塩冶高貞は、敵性とわかっている。
「富士名ノ二郎義綱が見えました。――出雲の守護職、塩冶判官高貞をつれ、御陣の下へ、高貞の降伏を
で、高貞の帰順は容れられた。なんといっても出雲の守護高貞の投降は、山陰道の風靡をここに決定づけた。
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「筑紫(九州)の探題からも一、二報まいっております」
「まだしも、蒙古の襲兵は、筑紫の一局でございましたが」
「筑紫は火の国だ、血の気が多い。……気をつけぬと」
ゆらい九州は統治にむずかしい所とされていた。筑紫の強豪一藩一藩はどれ一つ生やさしい族党ではない。その筑紫で
藩一藩はどれ一つ生やさしい族党ではない。その筑紫で十年以上も探題をつとめあげてきた英時には、ただの官僚の才
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かつての年、楠木正季らの手に捕まって、加賀田の隠者毛利時親の山荘へと引ッたてられてゆく途中、あまりあばれたの
、権三。……それからずっと、おれはいま言った加賀田の隠者に飼われて来たんだよ。意気地のねえはなしだが」
「たしか加賀田の隠者ってえのは、正成、正季に兵法を教えた師匠だとかいうこっ
「とにかく、その加賀田の隠者は、おれには命の恩人だった。あぶなく楠木正季らに殺される
「そしてだ。三年が間も、おとなしく加賀田の山荘に仕えてきたんだ。――だからこの大蔵はすッかり改心し
「こんど、吉野から帰って来たのも、加賀田の隠者へ、報告かたがた、千早のうちへも、べつな一ト役をおび
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いた大塔ノ宮護良親王は、先頃来、こつねんと吉野山の愛染宝塔に拠って砦をきずき、諸国へむかって、公然、
だよ。……じつあ、ついこの間じゅうまでは、吉野山の愛染宝塔を根じろにたてこもっていた大塔ノ宮の御陣中にいた
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四国の河野党も怪しい。九州の菊池党も、どうやら、あぶない。なお疑えば
「吉野、赤坂、金剛山。そのほか、畿内、中国、四国にも」
勢。――また西国では、安芸、長門、周防、四国の伊予にまでも、このたびは、お下知のまいらぬ国はありません
「そうです。岩松経家の直書をもって、はるか四国の阿波からこれへ、ことばに絶する苦労をして、昨夜辿りついた者でござり
それにひきかえ、先ごろ四国の阿波からここへ来ていた海賊岩松の使者へは、大きな御期待の
「四国の阿波を領したわけは」
中国、四国、九州の宮方は、いよいよ旺に、日にまし勢威を加えているとも
は九州だけでなく、山陰山陽から四国にまで発せられ、それの応えも恐ろしく早かったことに見ても、なにか
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などを仔細におたずねあって、河内の戦況には、特に関心の強さをしめされた。
彼と阿蘇惟直とは、鎌倉の令で河内の千早攻めに参戦を命ぜられていた。で、備前の鞆ノ津まで
そしてまたその地熱は、地底をとおして、河内の千早城、金剛山の噴煙ともつながっていた。
摂津、和泉、紀伊、大和。わけて河内は中心といってよい。
の二階堂道蘊の荷駄隊へ軍夫となってまぎれこみ、一しょに河内へひきあげて来たというわけなんだ」
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――また西国では、安芸、長門、周防、四国の伊予にまでも、このたびは、お下知のまいらぬ国はありません」
そのころ四国方面では、伊予の河野党が、一族をあげて、
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大塔ノ宮の旗上げ、その吉野城と、金剛山との結びつき、四国九州にわたる宮方の危険な兆し、それらを、茂時は事務
「吉野、赤坂、金剛山。そのほか、畿内、中国、四国にも」
ですし、かえりみてもいられませぬ。かつ、吉野や金剛山の宮方を、絶滅するには、このさい、思いきり大量な兵を投じて、余り
もし阿波へ御動座あれば、楠木の金剛山、大塔ノ宮の吉野とも近く、京畿の宮方はふるいたつに違いない。――
またその地熱は、地底をとおして、河内の千早城、金剛山の噴煙ともつながっていた。
それにせよ金剛山をめぐるわずかな一地方に、五万余という人口の急増率は、山河の形貌も
この公示は、各地に建てられたものだろうが、朝夕、金剛山をすぐ目の前にしている河内石川、錦織、三日市あたりの住民には、
開いていた――。それは軍虱のように、金剛山への寄手五万の兵にくッついて歩き、その数は何十ヵ所かしれず、軍
「何だか、こうやってると、天気はいいし、金剛山の楠木勢の眼からここの二人が見えるような気がしますぜ」
ゆらい敵の金剛山には、
楠木勢の前線のかなめ、すなわち金剛山の中腹の堅城、上赤坂ノ城を攻めつぶし、牙の一つを抜いたのだった。
山とはもちろん金剛山のことでしかない。けれど金剛十方の裾はひろい。麓の村々から上へ越え出
「来てるじゃねえかよ。ここはもう金剛山の内、桐山の大根田部落だ。……ム、どこかそこらの峰で一
「上赤坂は、金剛山のヘソ城だ。あれが陥ちては素人眼にさえもう上の千早城も長い寿命
「上赤坂は金剛山の臍だ」
道の稜線で、そこを南へのぼりつめれば、修道寺から金剛山の頂へ出る。
北山砦と金剛山の背面へ、搦手の守備約二百。
ただ以上のほか、金剛山の絶頂にある転法輪寺では、公卿の四条隆資が指揮をとって、そこの
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、高時が、浜御所に入るやいな、そこには、六波羅からの早打ちが、五騎も六騎も昨日から待っていた。
もし首尾よく果せば、後日、恩賞の領土を加えて、六波羅の一員にも列せしめよう、というありがたいご内約だが……しかし、それに
六波羅の獄いらい、おそろしい心をかくして、帝をあざむきつづけて来たが、ほか
「それは六波羅の獄舎にいたころから察していた。いまさらゆるすもゆるさぬもない」
の信頼感も一度に冷めはてたことであろう。終始、ついに六波羅からは一軍の派遣もなく、加勢も見ずにしまったのだ。
として寄手に拠った多くの地方武者をみすみす中央の六波羅は見ごろしに見すてていたようなものである。
敦賀へ落ちたが、以後いくらもたたないうちに、また六波羅の没落に会し、江州番場の辻堂で、さいごには腹掻き切って死んだと
六波羅ではあわてて一万騎の新手を急派し、また阿波の小笠原勢三千もそれ
「両六波羅へも、都の内へも、ほどなく赤松円心の兵が、一番乗りを名のる
地を踏むことをゆるしたら、それこそ北条氏総司令部たる六波羅の府は、たちどころな大混乱におちいってしまうほかはない。
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「なんの、武者所の簿を繰れば、まだまだ鎌倉山の将は綺羅星だ。わけて、当然出陣せねばならん者が、軍勢発向
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摂津、和泉、紀伊、大和。わけて河内は中心といってよい。
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「この上は、探題英時の首をあげ、九州の北条城を枕に討死をとげよう。落ちたい者は落ちるがいい。武時は身の本分
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四国の河野党も怪しい。九州の菊池党も、どうやら、あぶない。なお疑えば、あなたこなたに、宮方色
「筑紫(九州)の探題からも一、二報まいっております」
中国、四国、九州の宮方は、いよいよ旺に、日にまし勢威を加えているともある。
時直はやぶれて、闇夜に関門海峡を逃げわたり、一時九州へかくれたが、その九州もまた、昨今、八荒兵乱の相だった。
に関門海峡を逃げわたり、一時九州へかくれたが、その九州もまた、昨今、八荒兵乱の相だった。
九州での、世にいう“博多合戦”なるものは、そのとし元弘三年三
は九州だけでなく、山陰山陽から四国にまで発せられ、それの応えも恐ろしく早かった
九州探題の北条修理亮英時は、伯耆から次々と入ってくる船上山の情報
このときの九州探題は、さきにもいったが、北条修理亮英時といった。
ゆらい九州は統治にむずかしい所とされていた。筑紫の強豪一藩一藩は
して、楠木正成や新田義貞にもやぶられ、長駆、九州へ逃げ落ちて行ったさい、たちまち鎮西の大勢力が、彼の麾下にあつまって
「この上は、探題英時の首をあげ、九州の北条城を枕に討死をとげよう。落ちたい者は落ちるがいい。武時は
当時、良覚という坊さんが九州のどこかにいた。
しかし、以上の事柄だけでも、九州における武門の胎動がほぼどんな形で世間に口火を切りだしたかはよく
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於呂知は、銚子のつるを把って、左の指を持ち添え、わざと師直のそばへすり寄った。
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なく、余人を近づけ奉るべからずという厳令をやぶって、鰐淵寺の僧頼源や二、三の土着武士を帝にお会わせしたことまで
「オオ美田院(現、美田尻)の浦に、鰐淵寺の寺船が着いておるぞ」
「たとえ鰐淵寺の船であろうが大社船であろうが、かまえて許可なく島前に着けさす
かつは鰐淵寺は、都の比叡山延暦寺の有力な末寺であり、元徳三年のころ、
その瓊子もよそながら、以後は鰐淵寺の僧都の庇護の下にあるのであろう。そこで僧都頼源のたよりに託し
と、すでに彼らはこの島前の内へ潜入し、鰐淵寺の僧徒や、海賊岩松の党とも、連絡をとって、はや、それのため
それが、不成功に終ったことは、さきに鰐淵寺の僧都の暗文書簡にもみえていた。――富士名が持ちかけて
海賊岩松の船手が期して待つとある。陸には、鰐淵寺をはじめ、日ノ御碕の神職土屋一族、大社の国造孝時などの宮方。
「鰐淵寺の僧都、心ある島武士。またかねてから宮方の成田、名和。そのほか、
が、鰐淵寺の寺船を介して、海賊岩松の党とむすびつき、また能登ノ介が、
たのは、大社の孝時、日ノ御碕の検校、鰐淵寺の頼源などの下に不気味な宮方同心の層があるのを知っていた
また鰐淵寺の頼源や大社の孝時らの、つまり武士でない社寺側と船上山との
でなければ、それ以前に、鰐淵寺などのうちで、いつでもという準備がなされていたものか、
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摂津、和泉、紀伊、大和。わけて河内は中心といってよい。
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。なんといっても出雲の守護高貞の投降は、山陰道の風靡をここに決定づけた。
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彼は、この六月、愛知川の宿で、生前の北畠具行から、もっと多くの“宮方連判”の名を
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の海抜四千尺から、前面の石川平野、大和川、住吉、堺までを作戦地域とし、搦手は紀伊、葛城山脈などの山波を擁し、いたる
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いわば筑紫九ヵ国の鎮台だ。少弐、大友、島津をはじめ鎮西の諸豪はみなもう駒をつないでいる風だった。
もやぶられ、長駆、九州へ逃げ落ちて行ったさい、たちまち鎮西の大勢力が、彼の麾下にあつまって来たことだ。それは、時運
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源氏。北陸七ヵ国の勢。――また西国では、安芸、長門、周防、四国の伊予にまでも、このたびは、お下知のまいら
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末吉真吾はさっそくに日野川の上まで使いに出す。おぬしは加茂にお待たせしてある千種殿をつれて、頃合いよく出直せい」
がお船にあるこそ良けれ、日暮れを待って、近くの加茂の村社へお迎えいたし、そこでお身支度のうえ、ここより東二里余の
「……奥方、ちょっと加茂の梶岡入道の家まで行ってくるぞ。留守のまに、一族の者から
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「吉野、赤坂、金剛山。そのほか、畿内、中国、四国にも」
は禁物ですし、かえりみてもいられませぬ。かつ、吉野や金剛山の宮方を、絶滅するには、このさい、思いきり大量な兵を投じ
「吉野、金剛、中国、そのほか各地は大動乱だと聞えている。もし一朝、
にて、上野の新田義貞殿も出兵を命ぜられ、金剛、吉野の攻略に参加しておりまする」
。たかをくくっていた金剛、千早もなかなか落ちず、吉野も強く、播磨では播磨の豪族赤松円心が、宮方に拠って起ち、四国
阿波へ御動座あれば、楠木の金剛山、大塔ノ宮の吉野とも近く、京畿の宮方はふるいたつに違いない。――その供奉のために
ノ宮の御陣中にいたが、この二月初め、吉野は陥ち、宮は高野へ落ちのびてしまったので、こんどは土民に化けて
「こんど、吉野から帰って来たのも、加賀田の隠者へ、報告かたがた、千早のうちへ
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「吉野、赤坂、金剛山。そのほか、畿内、中国、四国にも」
と呼んでさえいるのである。どうして畿内の武士があげて正成の麾下にあつまるだろうか。よしまた摂河泉すべての守護地頭
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多すぎた。そのあげくに、あの熱病死。そして一門も壇ノ浦のあわれを見たわさ……」
「鶴亀、鶴亀。……壇ノ浦とは、地形がちがう。鎌倉の海では、さはさせん。たとえ
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者でもおざる。まかせられい、奥方のほうは、この能登に」
「何の取り越し苦労を。これより能登も甲ノ尾へ御同道いたしましょう。諸事の段取りは、手前の胸におまかせ
をも下に見つけている眼ざしなのである。だから能登の反抗にみちた眼気も、帝には蟇ほどな感もある容子で
能登はかえって、底知れぬ淵へ吸いこまれそうな気さえしたので、あわて
「能登とやら」
「能登!」
ご腹蔵の底を洩らされておられたのだ。いまさら能登にだけ隠してみても始まらない。
言明どおり、能登は朝に夕に、いや時刻さだめず、黒木の御所を見廻りにくる。時
能登は気が気でなくなっていた。
事が事である。――いかに我武者羅な能登でも、島後から「いざ」という一使がやって来ぬうちは
彼の住む別府ノ館を今日も出て行く。それも能登の役目のひとつなのだ。黒木の御所の丘からずっと下がった所の
腹はわからぬが、とにかく能登は、彼からすすめて、小宰相ノ局にのみ、その夕から翌朝まで、
だいぶ話し込んだと自分でも気がついてか、能登は、やっと縁先を離れかけて。
いかにもと、能登はなんどもその猪首でうなずきながら。
「この能登も、ここで一つの功を立てれば、いずれは地方(本土)に二
「それには、能登を怒らせず、上手にあしろうて行かねばならぬ。わけておそろしい機会を待ちかまえ
能登は、聞くと、
能登は、一応合点したが。
能登は耳をとがらせて。
「それも能登が取次いで進ぜる。ともあれ、黒木の御所へ通すことはできん。お帰んなさい
能登は衝きあげられたように、急に馬へのって、使僧のあとを追ッ
それについて、能登はここでも二人の使僧をさんざん厳問した。
自問自答、やっと、能登は呑みこみ顔をみせて。
柵へもどった能登は、すぐ人なき所で、検閲を始めていた。さきの使僧から託さ
書物はみな難しくて、能登には解らぬものである。――が、童女人形についていた紙札
童女人形も書冊も、能登には、そう見えただけのことらしく、
島後へ行った能登は、翌々日となっても、柵へ帰って来たらしい様子はなかった。
この童僕は従来、ひどく甲ノ尾の館や能登を恐れて、何を訊いても唖のようだったが「都へ連れて
偉い人がやってきて、それの相談事でここの能登も呼ばれて行ったんですって。……いや出雲の守護の塩冶高貞も
「能登が帰ったかどうかとおもって、町へ探りに行ってみたら、一
「能登は帰ったのか」
「ならば、能登の留守を、いちばい堅固にと、島後から加勢の兵が渡ってき
「能登が帰ってまいりました。まだ帰るまいと思ッていた能登が、今日に
が帰ってまいりました。まだ帰るまいと思ッていた能登が、今日にかぎッて、下の柵門に来ております」
能登が島後から帰ったのは、まったくは、昨夜うちだった。
島後の会合では、何事が謀られたのか。能登の顔つきは恐ろしく研げていた。屯の部下たちですら彼のいつにない
能登は、耳打していた。
能登はもう丘へ向っていた。左の手を大太刀の鯉口に当て、右手
いた塩冶高貞なども、大いそぎで出雲へ帰ってゆき、能登もまた帰るやいな、ここの浦々の巡視を、まッ先にしていたわけ
――となして鎌倉の特使もかねての最後手段を、能登へいそがせたものだろう。能登はもとより「こころえたり」と、ふくんで帰って
もかねての最後手段を、能登へいそがせたものだろう。能登はもとより「こころえたり」と、ふくんで帰って来たものにちがいない。
能登は、狐のようにキョトついた。根気よく、帝座の灯のあたりをうかがい
と、能登の狼狽をどこかで見ているような落着いた言い方でもある。
能登は身を起した。しかし、どういうものか、せつなをつかんで抜打ちに跳びかかる
「能登、能登。……まだ早い。逸まらぬが身のためぞ」
「能登、能登。……まだ早い。逸まらぬが身のためぞ」
根にお腰をすえてしまった風なのである。能登にはいよいよ相手がわからなくなっていた。何もかも知りぬいている
能登もまた、肩で大きな呼吸をみせた。
能登は眼を研ぎすました。
「能登。どこを見ておるのだ、そちの眼は」
能登は、気をのまれてつい、
「能登。残念か」
火の手があがって、夜空を焦がしていたのである。能登はそれを知るとおどり起って、牛のようにあばれかけた。
この策もほぼ図に中った。いや何も知らなかった能登にとってはただ仰天のほかはなかった。彼がここへのぞむ以前に、
あとからやっと覚りえたことだった。わかったときは、能登も、もうどうしようもなかったのだ。
その能登は、十数人の宮方武士にとりかこまれて、
宮方の面々は、すべて抜刀していたが、能登は丸腰だった。小刀までも取り上げられていたのである。
、五町来ると、一人が言い、ほかの白刃も、能登をかこんだまま後の方を振り向いた。
悪四郎たちに囲まれていた能登は、誰よりは複雑な眼で、彼女の通過を、むなしく見ていた
へ、この変をしらせるだけでなく、しきりに主将の能登の姿をも、求めていたのであったが、
走せに来た由良弥惣次、菱浦五郎などは、みな能登の肉親の者である。彼を叱ッて、兵を一手にまとめ、
「能登の身内と、柵守の衆だな」
が捜している能登ノ介清秋はここにおる。いま、能登の口から直接なにか話があるだろう。はやまって、主人の一命に、とどめ
「能登。申せ」
悪四郎がそういって、彼の背を小突くと、能登は二、三歩よろめき出て、さてそれから、泥土のようなその面を、
をまたず、島後のお館へもすぐ知らせろ。能登はみかどへ降伏して地方(本土)へお供し去っておざると。そして
ほどなく、さいごの成田や名和も、能登を拉して、追ッついて来た。
幾つかの船関があり、そのたび速舟のへさきから能登の影が、
「番所の者、怪しむまい。おれは別府の能登だ。昨夜にひきつづき、こよいも浦々を巡視してゆく」
隠岐の陸影もうしろに薄れると、名和悪四郎は、ただちに能登の体を縄目にくくし上げて、帆ばしらの根にくくってしまった。
、山上から逃げ落ちて来た。島から捕われて行ったあの能登ではあるまいか」
「能登といえば、わが叔父御にちがいありません。どこへ来ていますか
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堂上などに、眷恋はせぬ。京にも負けぬ、鎌倉の京をここに築いて見しょう。あらゆる工芸の粋をあつめ、万華鎌倉の
「鶴亀、鶴亀。……壇ノ浦とは、地形がちがう。鎌倉の海では、さはさせん。たとえ敵が来るとも、さはさ
な船列は、海中の一ノ大鳥居の下を通って、鎌倉の浜についていた。
事実、早馬早打ちには、鎌倉の上下とも、麻痺していた。
そうだったが、笠置、赤坂の一挙のため、かえって、鎌倉は逆にかたまったといえる現状になっていた。
また。とかくこの鎌倉では「名もない土豪の小さかしい野心沙汰」と見て、軽視の風
「鎌倉は累卵の危うさ」
踊る宗教といわれる時宗の流行は、ついに上方からこの鎌倉にもおよんでいる。
彼の出入だけを見ていては、鎌倉の苦悩のなにもわからない。現に、幕府の営中は、それどころでない空気
のみ、お耳にいれ、恐縮にござりまするが、いまは鎌倉の存亡にもかかわる大事と見えますれば、なにとぞ、ご勇断のもとに、さいご
の灯もあかつきを知らなかった。そして須臾のまに、鎌倉の府も、海道口も、日々秋霜の軍馬で埋まった。
ゆく軍馬の流れを見ぬ日はない。その馬糞が、鎌倉から都まで、一条につづいているとなす童心の空想は、
宮方の“裏切り公卿”としてである。――この鎌倉で、まっさきに、宮方の張本として首斬られた日野俊基などは、
なども、道誉には的確にまだつかめていない。この鎌倉に多い谷の洞穴みたいにそれは不気味な感なので、
驚いた。白龍とは、柳営へもしばしば呼ばれてくる鎌倉でも一流の白拍子なのである。
も出ない有様を見て高時がよろこぶとこから、自然、鎌倉の妓ほど、東国武人を手玉にとり馴れているものはなかった。
、征途に去る者、残る者の悲壮もよそに、折々鎌倉の夜の闇を、妖しくゆする鉦の音だった。しかも何百人が、幾
をおゆるししたのはいかなるわけか。――また、鎌倉の許可なく、余人を近づけ奉るべからずという厳令をやぶって、鰐淵寺の
帝のおそばの典侍のひとり、小宰相ノ局は元々鎌倉のまわし者だ」
ございません。しかし島のことです。どうあっても、鎌倉へ内報の手だてはないはずでございましたが」
一切近づけるな。……そのうちには、宮方勝つか、鎌倉が持ち直すか、天下の傾きようも次第に形勢明らかとなってくるだろう。…
とだけ、家中へ伝言をたのんで、鎌倉を離れ去った。
鎌倉の召喚をからくもすませて、出雲から海上まる一日を揺られて来た彼の
鎌倉へ喚ばれたからには、何か重大な密命があったにちがいない、
浮橋は、鎌倉から帰ってからの良人が、人がかわったように無口になって、とじこもっ
と割りきってもいない島武士だったが、たまたま京や鎌倉へ出てみては、滔々たる一般の風潮に驚きをうけて「世の中は変っ
鎌倉の枢機で※かれたその一言が、いまでも彼には、鉛を呑ん
と言い出したのは、その鎌倉の密命に従って、後醍醐を亡いたてまつるにせよ、帝の周囲も、つねに
「鎌倉からは、とうに帰っていたものですが」
役に加わってきた島外武士のひとりなのだが、鎌倉の目的とは逆に、いつか後醍醐の侍者に説かれて、ひそかに、
「御侍者、清高でござる。鎌倉より立ち帰り、時おくれましたが、ごあいさつに罷り出ました」
「お。いつ鎌倉からお帰りか」
余の儀でもありませんが、じつはこの清高、鎌倉へ召喚ばれて、このたび、きついご叱責をうけて帰りました」
「どうもここの朝夕を、内々、鎌倉へ通じていた者があったに相違ありません」
、土地の支配者の権限に委せられているし、かつは鎌倉の示唆にも「その策と手段は島の実状にてらして、臨機応変におこなえ
であり、また地方武士にしろその十中八九までは、鎌倉の鼻息をおそれる者でしかない。そこで彼らは次の日、近くの大満寺
そのほか各地は大動乱だと聞えている。もし一朝、鎌倉の旗いろが悪いとなったら、やぶれかぶれの鎌倉はどんな暴でもやりかねん。
もし一朝、鎌倉の旗いろが悪いとなったら、やぶれかぶれの鎌倉はどんな暴でもやりかねん。配所がえは、その準備であろ。まずおれ
それだけではございませぬ。……じつは去年いらいの鎌倉の動員にて、上野の新田義貞殿も出兵を命ぜられ、金剛、吉野の攻略
「それも鎌倉のさしずとか」
ところまで行く世の波は断れぬ。あわれな奴だ。鎌倉の飼犬でなくば、ゆくすえ禁門の一将ともしてとらせんに、不愍や、
をゆすぶっている。どうッと地鳴りが響いたら一朝のまに鎌倉の大廈は世にあるまい」
これについては、判官ノ清高も鎌倉の確約を取っていたわけではない。「北条幕府への忠節」と
小心な判官ノ清高は、さっそく、配所がえの処置を鎌倉へ報じ、そしてもいちど、最後の断についての命を待っ
てしまったが、小宰相どの、近ごろ何ぞ、京か鎌倉の便りがお手に入りましたかな? ……。いろんな噂は島
「もとより鎌倉の秘命だが、まださいごの一令は言って来ぬ。とかく煮えきらぬ
いる肉親たちがあまたおります。もし私が心変りして、鎌倉どのの密命を裏切れば、その者たちの破滅ではござりませぬか」
擁して、吉野城に旗上げされた大塔ノ宮も、鎌倉の大軍にかこまれて、いまは命旦夕の危急にあるなどという情況も
この時局に、鎌倉の特使が渡島したとあれば、よも、ただの配所検分などではある
おそらく清高の島後の館では、彼も鎌倉の特使にじきじき会っていただろう。それが急遽、別府へ帰されてき
とも、べつな警告は告げていた。――で、鎌倉の特使と会同していた塩冶高貞なども、大いそぎで出雲へ帰ってゆき
禍根は黒木の御所のお人にある――となして鎌倉の特使もかねての最後手段を、能登へいそがせたものだろう。能登はもとより
…こうなっては早や同族のよしみもない。名和長年は鎌倉どのの反逆人、この永観にとっても敵だ。すぐ出馬の用意をせよ
急を告げる早馬は、六波羅や鎌倉へ、狂気のようなムチを打ちつづける。
彼と阿蘇惟直とは、鎌倉の令で河内の千早攻めに参戦を命ぜられていた。で、備前の
人柄といえば。――彼は、一時鎌倉の執権職にもついた赤橋守時の実弟なのだ。赤橋家のひとりな
諸豪のあいだには、いまは廃れたと見なされている鎌倉的な武士気質がいぜん隆々と弓矢に存していたこともよく窺われよう。
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赤茶けた山火事の禿げあとに、上赤坂城の残骸が、峰から沢へかけて望まれる。
上赤坂城に、楠木正季、平野将監以下の約三百人。
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後の八尾川ぐちへ入って、島第一の高峰、大満寺山を夕空に見つつ帆ぐるまの綱を解いていたが、
二人は船を出た。出るとすぐ大満寺山の雲が異様に目についた。
おそれる者でしかない。そこで彼らは次の日、近くの大満寺山へのぼって、なんの気がねもない青天井の下で、天狗の集会のよう
しかし、大満寺山の集会でも、さいごまで「おれは島を離れぬ。帝がお還りの
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帰ったあげく、本国の島民からも追われて、ぜひなく越前の敦賀へ落ちたが、以後いくらもたたないうちに、また六波羅の没落に
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「じたい、量見のおせまい天皇以下、事ごとに、関東を忌み恐れ、またこの高時を清盛に輪をかけた乱暴者と誤まっておる。
老躯の、しかも大納言ともある身で、こんなさい、関東のまッただ中へ、しのび下向を踏み切って来るなど、よほどな勇気と目的で
て、吉致の兄、岩松経家が、あれからすぐ関東へ急下して行った由を、つたえて。
ことでございまする。……もしそれが実をむすべば、関東のかたちは一変して、幕府は足もとからたちまち瓦解の物音をあわただしく始めるに相違
「いや、あの毛利時親ッてえ爺さんには、宮方も関東もねえんだよ。……ただの学者さ、兵学者だ。……家に
そのほか、関東の大族、結城、宇都宮、千葉、三浦、武田、伊東、河越、工藤など
の光があり、錦の旗があったにしろ、すでに関東の大兵が山野をうずめ、それも新朝廷をいただいて、逆に楠木をさし
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ここが武力の発火点にもなりそうだったが、笠置、赤坂の一挙のため、かえって、鎌倉は逆にかたまったといえる現状になってい
沙汰」と見て、軽視の風がある楠木正成も、赤坂から千早への築城を完了し、金剛山一帯は、今やひとつの連鎖陣地
「吉野、赤坂、金剛山。そのほか、畿内、中国、四国にも」
吉野、赤坂、金剛山
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ここまでには、もちろん寺元村の木戸、観心寺の柵、下赤坂の陣地など、すでに七、八ヵ所の寄手の軍区域は
これが、遠くは麓の観心寺や佐備、天野から、なお視界の外の裏金剛の抜ケ道にまである
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北日本の平和は一夜に様相を変えていた。
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しているのだろう。それならそれで大いに話せる。こっちも伊吹の蛇ではある。
にぎっているし、また、京鎌倉の間の要地に、伊吹ノ城をも持っている。どっちへころんでも高氏は正面切ッてこの自分を
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―西施、小観音、小槌、おだまき、獅子丸、於呂知、箱根、沖波などという白拍子名をそれぞれに持っており、わけて於呂知というの
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「吉野、金剛、中国、そのほか各地は大動乱だと聞えている。もし一朝、鎌倉の
の動員にて、上野の新田義貞殿も出兵を命ぜられ、金剛、吉野の攻略に参加しておりまする」
一方には難攻の千早、金剛をひかえながら、また一方には、破竹の赤松勢を、洛外桂川の一線で
八枚はすべて鬼六が配下にさぐらせて蒐めた千早、金剛の貯水池の図や埋樋(隠し水の水路)の資料であった。
から峰がるいるいと重なっていて、どの辺が千早、金剛の主峰なのやらも、ふと、山ふところでは分らなくなるのであった。
、葛城山脈などの山波を擁し、いたるところの前哨陣地から金剛の山ふところまで、数十の城砦を配していたことになる。だがそれに
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そしてまたその地熱は、地底をとおして、河内の千早城、金剛山の噴煙ともつながっていた。
ちゃいられねえんです。へい。……本庄鬼六さまから、千早城の真下にいる寄手の、名越遠江守さまのお手許まで届けろといわれて、
のが成功したものである。……で、次の千早城へもまた、同じ作戦が、寄手によって考えられぬことはない。
出で、楠木正季は脱出して、からくも兄正成の千早城へ入ったのだった。
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そして敦賀から便船で、出雲美保ヶ関へゆき、そこで待っていた自家の船便
あげく、本国の島民からも追われて、ぜひなく越前の敦賀へ落ちたが、以後いくらもたたないうちに、また六波羅の没落に会し、
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の有力な末寺であり、元徳三年のころ、ときの叡山の座主大塔ノ宮のおはからいで、勅願所ともなっている関係から、
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「さようです。清盛公は、福原から厳島へ、月詣でもしたとのこと」
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高時はいちど、執権職を退いて、職は金沢貞顕にゆずり、またまもなく、赤橋守時に代っていたはずだった
へは、一族の名越、普恩寺、赤橋、大仏、江馬、金沢、常葉などの、日ごろには営中に見えない門族の顔やら、四職
金沢右馬助の数千騎
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で、彼を盲愛する生母の覚海尼公も、後見の長崎円喜らも、たまりかねて、その栄座から、ひっ込めたものであっ
彼が恐い人は、妻の舅の長崎円喜と、生母の覚海未亡人であったようだ。
少弼、名越遠江守、大仏陸奥守、伊具ノ右近大夫、長崎四郎左衛門」
には、総大将の阿曾弾正少弼。――軍奉行、長崎悪四郎高真の陣所などが、せい然と見える。
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千葉ノ大介、宇都宮三河守、小山政朝、武田伊豆ノ三郎、小笠原彦五郎、土岐伯耆、芦名ノ
そのほか、関東の大族、結城、宇都宮、千葉、三浦、武田、伊東、河越、工藤なども陣々数十ヵ所にわかれ
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千葉ノ大介、宇都宮三河守、小山政朝、武田伊豆ノ三郎、小笠原彦五郎、土岐
そのほか、関東の大族、結城、宇都宮、千葉、三浦、武田、伊東、河越、工藤なども陣々数十ヵ所にわかれて、
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、美作を越えて山陰へ出るのが順路だが、すでに大津以西は、東国勢の軍馬でいたるところ大変だと聞き、清高は近江から
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あわせ、途中いくたびとなく六波羅勢を撃破しつつ、ついに京都のまぢかへまで迫っていた。
僧籍は京都東福寺の法師。
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七郎、小田の常陸ノ前司、長江弥六左衛門、長沼駿河守、渋谷遠江守、伊東前司、狩野七郎、宇佐美摂津ノ判官、安保の左衛門、南部
七ヶ瀬に桜田三河守。渋谷安芸。さらに本間山城守は吉年村近傍に。
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――そして配所の帝――後醍醐の行宮には、その国分寺の一部を修理して宛て、外には柵をまわし、警固には、
住み古してきた代々の家だった。北の彼方に、国分寺の址がある。――そして配所の帝――後醍醐の行宮には、
ほんらいなら、帰島と共に、国分寺の配所へは、さっそくにも出向いて、
そのかみの国分寺の址はおもかげもなく荒れ廃れていた。その一部は帝の配所と
策だったのはいうまでもなかろう。帝の配所がこの国分寺にあっては、手の下しようがない。
国分寺の行宮には、妃のうちのたれかはきっと御寝に侍っていた
たが、すでに判官ノ清高には、こうならぬ前に国分寺では、かなりご腹蔵の底を洩らされておられたのだ。いまさら
八月十九日、みゆるしを得て、島後へわたり、国分寺の御配所にて、したしく帝にお目にかかって、御幽居をお見舞い申しあげ
「ええ、国分寺の柵にいた頃」
「いいえ、漁夫のような人でした。けれど国分寺の柵にいた成田、富士名、名和などの人をみな知っている
そこへ会同したというのもおかしい。――さきに国分寺の柵守から解任された宮方の一人富士名ノ二郎義綱は、
「去年、国分寺の御配所へまかりました岩松経家の舎弟吉致です。お迎えにまいり
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、次男の兼正がおりますが、これは母系の一族、上野ノ国の新田義貞殿の領内、岩松と申す地に久しく在住でございまする
ませぬ。……じつは去年いらいの鎌倉の動員にて、上野の新田義貞殿も出兵を命ぜられ、金剛、吉野の攻略に参加して
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河内金剛山の海抜四千尺から、前面の石川平野、大和川、住吉、堺までを作戦地域とし、搦手は紀伊、葛城山脈などの山波を
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北条高時は江ノ島の弁財天へ参籠して、船で浜御所へもどる海上の途にあった
「茂時どのが申されたのは、今日の江ノ島詣りと、平相国の厳島詣でとが、さも似たりと、仰っしゃった
不信心らしい。ははあ、それでか。……それで過日、江ノ島弁財天の夢見などしたわけよな」
に仰ぐわけなので「――ともあれ、ご参籠先の江ノ島へ、早舟でお知らせだけでも」という動議も出たが、結局、