私本太平記 07 千早帖 / 吉川英治
地名一覧
地名をクリックすると地図が表示されます
れ、鎌倉幕府の聞えも、もちろん、かんばしくない。本拠の石川城をすら外されて、こんな後方陣地に引きさげられているのも、そのせいだ
地名をクリックすると地図が表示されます
、もし、みかどの脱島が成功したとすれば、関東の令は、この千早一城に、こんな大兵を釘付けにされている状態を
けれど、ひとたび、関東の大兵にせまられると、あまりにもその落城は早かった。
しかし、関東の大兵を千早の下にひきつけて、時をかせぐを目的としていた
したような鈍な子だった。それがいまは、関東の大兵を苦しめている千早の大将と聞いて、いやはや、隔世の感だ。
も長くはあざむけまいが、今後十日のうちには、関東の野から、べつに叛旗をひるがえす者があらわれる。それまでの時を稼げば
地名をクリックすると地図が表示されます
しばらくは眼を、西の京から東の京へ、また加茂川や丹波ざかいの山波へまでさまよわせる。
地名をクリックすると地図が表示されます
早や槍らしき武器はつかわれていた。――で、千早城の防ぎにも、当然、弓に次ぐ新武器となっていたろうし、さらに
守兵は、郷士山僧などの混成で、ほぼ千早城と同数ぐらいはいたのであるが、すべてその用兵から作戦まで、正成の
が、明けるやいな、彼の一隊は率先して、千早城のひがし寄り北谷(金剛谷ともよぶ)の断崖へ胸をあてていた
千早城の大手、千早谷をへだてて赤滝山がある。
な誓いを践み、親の義辰にもそむいて、はやくから千早城の内にはいっている。
地名をクリックすると地図が表示されます
まもなく、高ノ師直は帰って来た。扇ヶ谷の上杉憲房もかけつけてくる。
「こころえ申した。たしかな者を添えて、一時扇ヶ谷へ匿い、お国元の足利ノ庄へ送らせましょう。ご安心あるがよい」
地名をクリックすると地図が表示されます
。それにこたえて、今日まで雌伏していた九州、四国、中国の宮方どもも一せいにふるい起つ。――で、当然なのは、
の長陣となっている地方武者。中には、九州、四国、中国などの武門もだいぶおりますから」
地名をクリックすると地図が表示されます
なにも」――と大蔵は立って、急に近くの阿弥陀ヶ峰や東山を見まわして言った。「このあたりだって、寺はいくらもあります
地名をクリックすると地図が表示されます
、笠置のあといらい。宮のありかは、熊野、伊勢、十津川の奥、高野の上、さまざまに沙汰されていたが、去年の夏ごろ
十津川の郷士竹原八郎一族を帷幕に加えて、熊野三山から高野、根来の衆徒
地名をクリックすると地図が表示されます
槍なども筑紫の菊池千本槍が使用の始めともいわれるが、宋朝水滸伝には槍の
地名をクリックすると地図が表示されます
「あのあたりで、鈴ヶ滝の水を堰止め、機をはかって堰を切れば、城下の敵勢は一挙に
地名をクリックすると地図が表示されます
一時は桂川、東寺の線をつき破り、大宮、猪隈、堀川、油小路いちめん、火の海だったそうですよ。都のすがたもまるで変って
地名をクリックすると地図が表示されます
は、その赤松勢のほうが勝ち色で、一時は桂川、東寺の線をつき破り、大宮、猪隈、堀川、油小路いちめん、火の海だった
「その夕のこと。東寺のへんで不知哉丸さまがお一人で、迷子になって泣いていた
地名をクリックすると地図が表示されます
おととし、笠置のあといらい。宮のありかは、熊野、伊勢、十津川の奥、高野の上、さまざまに沙汰されていたが
大峰山脈の一帯をとりでと見なして、外洋では伊勢、熊野の海賊をつかい、また前衛には、楠木の金剛山をあてておく、という
なるほど熊野、高野、いずこも朝廷との縁はあさくないが、衆徒の衆論はまちまちで
地名をクリックすると地図が表示されます
右馬介は、佐渡で会った阿新丸との縁で、そのごもしげしげここを見舞っていた。
地名をクリックすると地図が表示されます
「堺へ出ますか。それとも」
「堺や天王寺辺は、関東勢で、うっかり野宿も出来はしません。安全なの
地名をクリックすると地図が表示されます
月には、その赤松勢のほうが勝ち色で、一時は桂川、東寺の線をつき破り、大宮、猪隈、堀川、油小路いちめん、火の海
「桂川か、七条辺か、あっちではもう合戦じゃありませんか。今朝も
桂川をやぶって赤松勢がなだれこんだ合戦の日には、洛内数十ヵ所から兵火が
変則な奇景をいまは呈している。――それも桂川から丹波ざかいはあぶないので、嵯峨から北、衣笠からひがし、いたるところの山野
地名をクリックすると地図が表示されます
彼の旅は寸陰のまも惜しんで、ほどなく海道の名古屋、岡崎から幡豆郡へはいり、故郷三河の一色村へついていた。
地名をクリックすると地図が表示されます
和泉国の御家人
地名をクリックすると地図が表示されます
「それがなんでこのような河内の山深くに」
地名をクリックすると地図が表示されます
「長野、観心寺、中津原口、三道ともにうごいていますし、遠くの東条、石川の空
地名をクリックすると地図が表示されます
旅は寸陰のまも惜しんで、ほどなく海道の名古屋、岡崎から幡豆郡へはいり、故郷三河の一色村へついていた。
地名をクリックすると地図が表示されます
四天王寺の大鳥居の左の柱には、たれの業か墨匂わしく「花咲かぬ
。なぜ正成は姿を見せぬ。これは去年、渡辺橋から四天王寺へかけて楠木を取り逃がした宇都宮公綱だ。東国一の剛公綱があらためて見参を
地名をクリックすると地図が表示されます
へ飛ぶ。それにこたえて、今日まで雌伏していた九州、四国、中国の宮方どもも一せいにふるい起つ。――で、当然なの
こえての長陣となっている地方武者。中には、九州、四国、中国などの武門もだいぶおりますから」
地名をクリックすると地図が表示されます
上野国の新田からも早馬の密使が来た。これはさきに鎌倉で別れた岩
「む。新田が起つ。上野国の新田小太郎義貞も、その遠くは、足利と同祖の家。――これまで
地名をクリックすると地図が表示されます
「畿内の戦場へ共に出よとは決して申さぬ。ただ高氏の質子をこれ
地名をクリックすると地図が表示されます
鎌倉一流の白拍子たちである。西施、小観音、おだまき、箱根、小槌、獅子丸などどれひとり道誉と馴じみ少ないものはない。わけて白拍子茶屋の
なり、また街道の荷持のような風態にやつして、箱根をさかいに、もとの方へ、引っ返して行ったのだった。
地名をクリックすると地図が表示されます
「あいかわらず、机に坐って、金剛の山絵図やら兵書をひろげ、毎日、首っ引きでございますよ」
千早、金剛の戦雲もよそに、法門の徒は、一切軍事にあずからずとして、
しょせん、金剛のすそから石川平野は、関東勢の陣圏内であろうから、通行もやっかいに
へ入れて、太刀や酒を賜うことなどあるが、千早金剛の急いらい、そういう古式も略されていた。道誉もそれに倣って
なしにとどいた。六波羅のもよう、赤松勢の進退、千早金剛の戦況、伯耆大山以後の後醍醐軍のうごきなどまで、ほぼ、把握してい
地名をクリックすると地図が表示されます
ない気がした。――つい数日まえには、丹波の篠村へ行き、そこの飛び領の代官や引田妙源などと会い、きたる
時機をみたら、一同はすばやくここの世帯をたたんで、丹波の篠村に結集していろと、あとの策をさずけていた。そして、
地名をクリックすると地図が表示されます
もそんな傍観者ぶりではあるけなかった。夕ちかく、道は八幡のへんにかかっていたが、対岸の美豆や山崎あたりの空はまっ赤だ
地名をクリックすると地図が表示されます
裏から楠木勢を扶けているが、宮ご自身は、もう叡山へ入って、ほかの策にかかっているなんどと部下の者は言ってい
らしいのだ。――宮が千早に入ろうとせず、叡山に入ったということがほんととすれば、その意図は、叡山の大衆を
入ったということがほんととすれば、その意図は、叡山の大衆をつかって、直接、六波羅を奇襲し、洛中そのものを、関東勢力
地名をクリックすると地図が表示されます
にも、妙覚院の主僧、横川ノ覚範が、鎌倉の恩賞に欲心をおこして、義経を追いおとしたことがある。
本土脱出に成功したその日に――その早飛脚が鎌倉、六波羅をおどろかせたとたんに、がぜん、大咆哮をあげだすにちがいない。
ていたが、敵にそんな色が現われたのは、鎌倉六波羅共に、それの衝撃をうけ、ここの寄手を叱咤してきたこと
も、これには手をやくだけだった。彼は、鎌倉の内管領、長崎円喜の子で、北条氏の族親ではない。
「鎌倉の聞えもある。遊宴は相ならず」
動揺はそれぞれな国元から直報があったためで、遠く鎌倉を迂回してきた情報より早かったのは当然で、長崎も今やあわて
が、一つ陣幕のうちに首をあつめたのは、鎌倉の大令がここへとどいた直後であり、同日の午後にはまた、六波羅から
いた者どもなのだ。そのてまえもあり、大きくは鎌倉の急令、全軍の猛気は、きのうまでの比でなかった。
狂語と聞け。だが、わしの亡妻は、さきの鎌倉の執権代の長崎高資の兄、泰綱のむすめじゃった。内管領の円喜入
「ずいぶん長くかかっていらっしゃいましたね。鎌倉の伯母(高氏の母、草心尼の姉)さまへですか」
「ところが、かわいそうに、高氏さまはすげなく鎌倉へおひきあげになってしもうた……。そしてそれからのことでしたろ」
。……私たちが都へのぼる日、お餞別にと、鎌倉の姉ぎみ(高氏の母)が、ご自分で画いた千日供養の地蔵
「鎌倉へお帰りか」
いた。――また去年――高氏が羅刹谷から鎌倉へ帰る折には、日野俊基の美しい若後家、小右京の身を高氏
「右馬介も行ってごらん。いまね、鎌倉のお使いが速舟で浜へ着いたのだって。そして、いよいよみんな戦
「ま、お待ちなされませ。大蔵(鎌倉の邸)の御宗家からきたお使いならやがてここへ見えましょう。若ぎみ
七郷の足利党は、西に戦雲をながめ、ひがしに鎌倉の空を見て、
も、ずっと鎌倉表にいた。だから彼の出陣は鎌倉から立たねばならない。ところがその高氏すら腰を上げないうちに、
昨今、鎌倉は軍都でしかない。しかし北条九代、とくに今の高時の代では、
や行列などは、ただの往来人のように見あきている鎌倉の住民なのだが、
ますな。二た股者くさい大将は黒表に上げて、鎌倉へご内報におよぶわけでございまするか。なるほど、なるほど」
いたな。いちばん上の不知哉丸とか、これも鎌倉へまとめておこう。そうだ。儂の侍臣三、四名を三河一色村へ
帰邸のうえ、沐浴して神文を相したため、明朝、鎌倉表出発のみぎり、自身、台下へささげ奉りましょう」
「仰せには、出陣と共に妻子を質として鎌倉へのこして行け。また、誓書の神文を出せと、こう、二ヵ条のお
質子を求められ、巴御前との仲の一子を鎌倉へ送って、都入りを果たされた」
りんりんな毛づやの映えを見せ、それぞれのタテ髪を鎌倉のさくら若葉が吹きなでていた。
「ごらんなされませ、鎌倉の府もはや遠くになりました」
はいろいろ多いな。よくぞ、きょうまで住まわせてくれた鎌倉だった」
自分を宗家とあがめている同族にほかならないので、鎌倉の府とちがい、わが家の領土へ入ったようなあたたかさだった。
の新田からも早馬の密使が来た。これはさきに鎌倉で別れた岩松吉致がもたらした何らかの諜し合せであったらしいが
藤夜叉もきっと高氏の室に入れてつかわすと、かつて鎌倉の小壺ノ浦で、殿はかたいお約束をつがえておいでなされます」
「今日にも、鎌倉の使いがあれば、質子として、引渡さねばならぬよしは、
「じつは、師直も聞かされておりまする。鎌倉での酒の座でな。たくさんな白拍子のなかでおざった。さも自慢げ
「お。鎌倉の質といえば」
て使者に渡せ――という高時の下状をたずさえた鎌倉の二使が、
と、鎌倉の二使は、恐縮のていだった。
のお身は、なんとあろうと、渡しかねる。断じて鎌倉へは差出さぬ。
だ。おめおめ渡してたまろうか。殿のお立場にしろ、鎌倉の内なら知らず、もう上洛途上の野ッ原である。執権との一
のほかおざるまい。そも、いかなる策をお持ちで鎌倉の二使にたいするお考えでございますな」
「ここは鎌倉と都との、ちょうど海道のまん中にあたる。鎌倉へ知れる頃には、軍旅
ここは鎌倉と都との、ちょうど海道のまん中にあたる。鎌倉へ知れる頃には、軍旅、ましぐらに、われらは早や都のうちだ」
仁木義勝、石堂綱丸、畠山大伍らの各隊は、すぐ鎌倉の二使が泊っている宿所へと駈け向ッて、ふいに夜討の火を
「使者鏖殺の変が、鎌倉へ知れるまでには、なお数日のまがありましょう。よしまた、ご謀反
弟として幼少からよく知っていたつもりだが、鎌倉をはなれていらい、どうもおぬしは少しいぜんの直義とは、ちがって来て
たが、ぐずぐずしていれば、道誉は気負う、後ろから鎌倉の討手がかかる。われらはここで立ち往生だ。自滅のほかはあります
、不破の道を断ッて、わが足利勢に思い知らせ、鎌倉への忠義だてを、誇っているのでございましょうに。……ともあれ、
、道誉は館の奥へ消えこんだ。――東海、鎌倉はもう薄暑の候だが、伊吹の裾はようやく春闌けた早みどりの深み
その名越軍は、高氏より数日おくれて、鎌倉を立つべき予定となっている。――とすれば、高氏がもし一
と、功を鎌倉にほこり、なおしばらく天下の情勢を見ていよう。道誉は、どっちにころんで
「すると、源中納言具行卿を、六波羅から鎌倉へ差下すさい、伊吹のふもとで首斬ッたのも、武士のなさけか。
地名をクリックすると地図が表示されます
洗い坂の府門を出て、稲村ヶ崎もすぎ、ようやく、七里ヶ浜のへんでは、その歩調もすこしゆるやかだった。
ここでも、七里ヶ浜の波に交ぜて、誰からともない鬨の声がどっとあがった。執権邸の前でし
地名をクリックすると地図が表示されます
十津川の郷士竹原八郎一族を帷幕に加えて、熊野三山から高野、根来の衆徒をひきいれ、大峰山脈の一帯をとりでと見なして、外洋
地名をクリックすると地図が表示されます
「む、もしあの若入道めが、阻むならば、伊吹の城も蹴やぶって通るまでだ」
「この四千余騎。佐々木ごときが何であろう。むしろ伊吹を攻めて、あの要害と地の利を占め、そこにおいて、家祖八幡
「そうだ、そのまに高氏自身、伊吹の城へ行くとする」
、ご真意のほど、相わかりませぬ。殿ご自身が、伊吹へまいって、道誉と話し合わんなどは、火中の栗を拾うに似たもの
「いざどうぞ。……わが殿には、伊吹のお館の方ですが、さっそくそこへ伝令いたしおきましたゆえ、どうぞ伊吹
方ですが、さっそくそこへ伝令いたしおきましたゆえ、どうぞ伊吹の御門の方へ」
伊吹の城は、なお不破から北へ、一里余の奥にある。高氏
の奥にある。高氏は道の辺の木々にも、仰ぐ伊吹にも、思い出が深かった。ここを通るのは十一年目であった。
の春。その帰国の途で、忘れがたい一夜をすごした伊吹の城だ。
本道はいま、足利高氏の主従一列のものが、不破から伊吹の城へ向っている。
そこで道誉は、高氏の先を越して、伊吹の館で、彼を待つつもりらしいが、その行動も意図も依然、彼は
春の遅い伊吹は小鳥たちの目ざめもまだ新鮮だった。遠い山脈の襞に雪を見て
「足利殿っ、ここは伊吹の城中だぞ」
源中納言具行卿を、六波羅から鎌倉へ差下すさい、伊吹のふもとで首斬ッたのも、武士のなさけか。なるほど、その前夜、愛知川
氏の質子をこれへ留めおくゆえ、お身はこのまま伊吹にあって、素知らぬ顔で見ていてくれ。高氏のする仕事を」
、高氏とて、すこしは大人になり申そう。それにこの伊吹へまいると、なぜか大酔がしたくなる。かつまた、今日は二人の間
地名をクリックすると地図が表示されます
吉野山も嶮である。
地名をクリックすると地図が表示されます
もちろん合戦のすきにも、葛城の尾根や、間道をたどって、外部から蟻が穴へ持ち込むようなことは
地名をクリックすると地図が表示されます
おととし、笠置のあといらい。宮のありかは、熊野、伊勢、十津川の奥、高野の上、さまざまに沙汰されていたが、去年
ひきいれ、大峰山脈の一帯をとりでと見なして、外洋では伊勢、熊野の海賊をつかい、また前衛には、楠木の金剛山をあてておく、
お味方したてまつると、天下へ公にしたならば、伊勢、美濃、飛騨にわたる不平どもも、争ッて馳せ参じるは疑いもない」
地名をクリックすると地図が表示されます
つ”と聞えても、味方による確報ではなく、吉野からの落人はまだ一人も、ここへはたどりついていなかった。
さまざまに沙汰されていたが、去年の夏ごろから、吉野築城の事実が関東方にも、やっと、はっきりつかめていた。
正成とのしめしあわせでそれは進められていたものの、吉野築城はそうした危ない輿論のうえに敢行されたもので、そもそもムリな
しかし宮は、吉野を宮方の総本城とし、ご自身、全土の総司令官をもって任じ、いわゆる
かつ、吉野城そのものは、吉野の愛染宝塔を軍寨化して、衆徒の輿論もふんぷんのなかに築かれ
た供は幾人もない。そして幾昼夜を逃げさまよい、吉野から高野まで、徒歩二日路の山間を、七日余りもついやして、やっと
地名をクリックすると地図が表示されます
冬ごろから伊賀の国中も平穏でなく、服部治郎左衛門と卯木の夫婦も、正成を義兄に持つ
「あっしは元々、伊賀生れの忍の人間だ」
地名をクリックすると地図が表示されます
千早の本曲輪から金剛山の最頂上へ出るには、一たん道を下りて途中のせまい地頸部を越え、そして
小馬田ノ庄にも居られなくなり、おなじことならと、金剛山のとりでへ落ちて来たのである。――そして正成の陣中の家庭にい
伊勢、熊野の海賊をつかい、また前衛には、楠木の金剛山をあてておく、という大構想であるようだ。
つまり正面の金剛山でない裏金剛にあたる所。――そこの紀伊見越え、行者杉越え、千早
千早の孤塁をたすけ、何とか突破口を見いだして、金剛山との合流をはかっておられるのではなかろうか。
東西深く切れて、人の登るべきやうもなし、南北は金剛山につづきて峰そばだち……
ところがございません。宮の党は大和にあって、金剛山の裏から楠木勢を扶けているが、宮ご自身は、もう叡山へ入って、
の千人針を持たないで征ったひとは、みな千早とやら金剛山とやらで死んでおりますよ。――と。囀りぬく。
地名をクリックすると地図が表示されます
へ別れ別れに群れをくずした。昼の澄んだ空に、鎌倉山は森としていた。黒い大きな鎌倉蝶も飛ぶ季節である。
地名をクリックすると地図が表示されます
正慶二年(北朝年号)二月二日、赤坂城へ向つて、武恩に報ぜんがため、討死仕つり畢んぬ
地名をクリックすると地図が表示されます
第四次の召集令は、鎌倉近傍だけでなく、遠くは房総から、甲信の方面にまでわたっていた。それも、
地名をクリックすると地図が表示されます
後日、寄手の大将二階堂道蘊が、その首を六波羅まで送り届けてから、
に成功したその日に――その早飛脚が鎌倉、六波羅をおどろかせたとたんに、がぜん、大咆哮をあげだすにちがいない。
ば、その意図は、叡山の大衆をつかって、直接、六波羅を奇襲し、洛中そのものを、関東勢力から宮方の軍治下に、奪いとって
、主上をみくるまにお乗せして、黒煙のちまたを六波羅へと移しまいらせ、つづいては、院、法皇、東宮、みきさき、女房
――持明院統のかたがたすべても――りくぞくとして六波羅へ避難してきた。そのため六波羅では北殿から界隈いちめんの武家やしきまで
りくぞくとして六波羅へ避難してきた。そのため六波羅では北殿から界隈いちめんの武家やしきまでをそれの収容にあてて、いまも
、大蔵はこころえ顔に「――小寺ですが、てまえが六波羅にいたじぶん親しくしていた和尚がいまも鳥部野にいるはずです。もし
「おれはどこまで親切者さ。じつは六波羅の検断所へ、かくかくの人物がここにおりますと、密訴しに行って
勢の洛内乱入のせいだった。――新帝以下、すべて六波羅へ疎開され、そのおびただしい方々のお住居には、探題邸をも明けね
あるのか。いやいや、いまは新帝以下の公卿女院もみな六波羅の北に御疎開なのだから、御所のあとにもぞくぞく入るにちがいない
朝廷すらも六波羅へ御疎開となった情勢では、一般市民がみな家もすてて山野へ
「そうか、それでは六波羅もさらに援軍を求めずにいられぬな。そして高氏さまの御出兵もこんど
昨今は、それどころではありませぬ。みかども公卿も六波羅へご疎開の騒ぎですし、草心尼さま母子も、羅刹谷のおくへ
「すると、源中納言具行卿を、六波羅から鎌倉へ差下すさい、伊吹のふもとで首斬ッたのも、武士のなさけ
地名をクリックすると地図が表示されます
強げな大将でないし、智者ともみえない。あの加賀田の隠者のほうが、よほど学問もありそうで眼もするどい。
「世間では、加賀田の隠者と申しあげているよしですから、ごめいわくは察しられますが、まげてひと
「加賀田の山奥に、えたいの知れぬ兵学者がいる」
「これは加賀田の老先生、どちらへおいでになりますか」
は、楠木正季らの若い仲間のひとりで、戦前には加賀田の山荘にもまま顔をみせていた冠者だった。――行ってみる
「おう、やはり加賀田の老先生でござったな」
「わしもそれが知りたい、と思って、加賀田にこらえていたが、このぶんではいつ大戦が果てるともみえん。
なんと、いやなまずいことを言ったものだろう。加賀田の隠者時親は、長いこと兵法の神のごとく山では思われていた
親にも反き去ッたのは当然である。そのほか加賀田の山荘にかよっていたいくたの若者らはすべてといっていいくらい今は
てしまったろう。――その「お師」たるものが、加賀田を古巣として捨て去り、また戦乱の帰結も「神でもない身には
番作は途中で加賀田へ帰してやり、あくる日の二人は、淀の堤を北へあるいていた
地名をクリックすると地図が表示されます
赤坂攻めにかかる前か。
門輩のひとりだった。南河内に兵火があがるやいな、赤坂、千早の一員となって、親にも反き去ッたのは当然である
地名をクリックすると地図が表示されます
、じつはほかの予定もあったことらしい。その日、下野から国元の人数およそ百五十騎が追ッついて来た。そのうえ高氏は
地名をクリックすると地図が表示されます
ッたのも、武士のなさけか。なるほど、その前夜、愛知川の宿では、具行卿をよろこばせ、おなさけぶかいことでおざった。はははは」
地名をクリックすると地図が表示されます
高野山そのものは、表面かたく中立をとっていた。
地名をクリックすると地図が表示されます
軍奉行、長崎四郎左衛門ノ尉、実検シケルニ、執筆十二人ニテ、昼夜三日ノ間モ
いくさ奉行の長崎悪四郎ノ尉高真は、おもてに朱をそそいで、どこかの使番の
いまとなってから、長崎は後悔していた。
それに憤激して、いちいち告げてくる伝令へ、長崎は唾するように言った。
手をやくだけだった。彼は、鎌倉の内管領、長崎円喜の子で、北条氏の族親ではない。
いくさ奉行長崎四郎左衛門ノ尉も、これには手をやくだけだった。彼は、
連歌、闘茶の娯楽などは公然な風だったので、長崎は、たびたび、
長崎は一驚した。
を迂回してきた情報より早かったのは当然で、長崎も今やあわてずにはいられなかった。
いくさ奉行長崎や各軍の大将たちは、鎌倉表からの軍令奉書をまえにこう誓いあった
「は。てまえは千早攻めのいくさ奉行長崎四郎左衛門ノ尉殿の旗もとで、足立源五と申す者にござりまするが
「それでけっこうです。主君長崎どののお旨をうけて参上つかまつッた。寸時、ご談合いただけます
「いかがでしょうか。主人長崎殿から、さきにもお願い申してあることですが」
「じたい、長崎殿の陣中へ出向いて、わしに兵法の講義をしろとは、まるではなし
いくさ奉行長崎は、迂かつではなかったのである。ひょっとしたら、千早を陥すいい
偏窟ぶりを勘左衛門からいろいろ聞かされたことだった。で、長崎も苦笑に終り、いつか陣務の忙しさに、それは忘れてい
へ足を運んで来るのが、いちばん話が早分りじゃろう。長崎に来いと申せ」
「いや、さほどわしに会いたくば、いくさ奉行の長崎自身、ここへ足を運んで来るのが、いちばん話が早分りじゃろう。長崎
「その申し開きは、長崎殿の御陣へ行って、申しあげろ」
の、ゆるし乞いなどする気はない。かりにもわしは長崎四郎左衛門ノ尉には、目上の血縁にあたる者だ」
だが、わしの亡妻は、さきの鎌倉の執権代の長崎高資の兄、泰綱のむすめじゃった。内管領の円喜入道とも、浅から
の古束ねがここにある。……これを持ち帰って、長崎へ見せるがいい。思い出すことだろう」
いくさ奉行長崎の名代、長崎与三種長が、ここへ見えたのは翌日だった。すでに隠者は
いくさ奉行長崎の名代、長崎与三種長が、ここへ見えたのは翌日だった
「その日が来たのだ。いくさ奉行長崎に体を持って行かれてはたまらんからな」
の間いッぱい、ゆゆしい顔が居ながれていた。長崎円喜、金沢ノ大夫宗顕、佐介ノ前司宗直、小町の中務、秋田城
高時はだまった。あとは長崎円喜にいわせようとするのらしい。が、老獪な円喜はすまして
地名をクリックすると地図が表示されます
「長野、観心寺、中津原口、三道ともにうごいていますし、遠くの東条
地名をクリックすると地図が表示されます
ところがここの陣々にある阿曾、名越、大仏、佐介、金沢、塩田などの諸将はみな北条の一族やら譜代大名なので、とも
ぱい、ゆゆしい顔が居ながれていた。長崎円喜、金沢ノ大夫宗顕、佐介ノ前司宗直、小町の中務、秋田城ノ介、越後
、老獪な円喜はすましていた。常葉範貞、金沢ノ大夫なども同様である。張りつめたままな空間に高時の眼だけが
地名をクリックすると地図が表示されます
「宇都宮治部大輔公綱でおざる。公綱、ご加勢に参陣!」
を競わせるためなのはあきらかだった。――就中、宇都宮公綱といえば、東国随一の剛の者で、かつて渡辺橋の合戦では、楠木
「宇都宮ひとりに手柄をほこらすな」
。これは去年、渡辺橋から四天王寺へかけて楠木を取り逃がした宇都宮公綱だ。東国一の剛公綱があらためて見参を申しいれる。卑怯者と笑われ
朝がたには、宇都宮公綱の先駆けを、なすがままさせておいて、それみたかと
地名をクリックすると地図が表示されます
「千葉大介の一勢」
地名をクリックすると地図が表示されます
「そうだ、守護のひとり、越後の任地から、京都へ移り、しばらくは六波羅につとめていた」
地名をクリックすると地図が表示されます
、金沢ノ大夫宗顕、佐介ノ前司宗直、小町の中務、秋田城ノ介、越後守有時、右馬ノ頭茂時、相模の高基、刈田式部、
地名をクリックすると地図が表示されます
上野ノ国の住人、新田小太郎義貞も、ここの寄手に加わっていたが
――病のために」と触れて、いつはやく自領上野ノ国へ引きあげ去ったのも、この吉致が、ひそかに彼を陣地
立去った。その足で彼は飛ぶごとく、新田義貞の領地上野へ急いでいたのであった。
上野国の新田からも早馬の密使が来た。これはさきに鎌倉で別れ
「む。新田が起つ。上野国の新田小太郎義貞も、その遠くは、足利と同祖の家。――
地名をクリックすると地図が表示されます
ほうが勝ち色で、一時は桂川、東寺の線をつき破り、大宮、猪隈、堀川、油小路いちめん、火の海だったそうですよ。都
地名をクリックすると地図が表示されます
小ぜまい男世帯の仕事場をもっていた。それも住吉の時代とちがい、みな一色村から呼びよせた腹心の者であり、具足師
地名をクリックすると地図が表示されます
倣って外門の礼だけですぐ立った。そして大町口から稲村ヶ崎、金洗い坂と、やがて府内との関門も後ろの遠くにした
勢の影は、金洗い坂の府門を出て、稲村ヶ崎もすぎ、ようやく、七里ヶ浜のへんでは、その歩調もすこしゆるやかだった。