新書太閤記 09 第九分冊 / 吉川英治
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天地はすでに夏に入り、江南の駅路や、平野の城市はもう暑さを覚える頃だが、その山上も
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にその勢望を加えており、彼の与国は、播州、但馬、摂津、丹後、大和を始め、他の幾州に股がって高二百六十万石に
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“右軍”――安土ヲ発シ、草津、水口ヲ経、安楽越エヲ行ク。兵三万。
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モト尾張国春日井郡ノ人ナリ、十二歳ニシテ勝家ニ仕へ、後、扈従頭トナル。
元来、佐々は、尾張春日井郡平井の城主で、門地からいっても、秀吉の比ではない。
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勢望を加えており、彼の与国は、播州、但馬、摂津、丹後、大和を始め、他の幾州に股がって高二百六十万石に及び、
「――われら、摂津茨木の郷より身を起し、元亀元年、和田伊賀守を討ち、家の子郎党、
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が招いたからといって、この際、物欲しげに、岡崎までのこのこ出かけて行った彼の気持は、およそ面目とか個性とかの尊ば
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にはここへさらに細川藤孝、忠興父子が麾下を率いて丹波から来会した。
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当時、女性でも禅に参ずるものが多く、彼女も、大徳寺玉室の室に参じ、後には、芳春院と称されている。――
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やがて南降を示し、かねての作戦にもとづいて、目標の桑名、長島附近に合流した。滝川一益はここにいる。
右、小林直八、玉井彦三などの旗本精兵をひっさげて、桑名の城に拠ったのであった。
当てるであろう。さらに、以上の諸城へ攻撃を向け、この桑名へも迫ろうとするとなれば、当然、寄手の兵力は分散され、たとえ
桑名へ迫るに先だって、鈴鹿郡川崎村の峰ノ城へ、一部兵力を抑え
すぐそこに見えていた桑名の城すら見えなくなった。辻は火の跳舞と、家々の残骸と
桑名も、秀吉軍が迫る前に、疾く城内から領民へ、
桑名の攻囲には、単に城を攻囲しているだけの兵力を残して、忽ち
桑名へ取りかかったときとここでは、まるで気魄が異っていた。
滝川殿とも、こうして会う日が近いであろう。桑名にも立ち寄って、ありのまま、伝えおかれよ」
だった。信孝が起つことによって、滝川一益も、桑名の城から積極的攻撃に移り、ここに初めて、勝家の考えていることが戦略上
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富山城にある佐々成政がそれである。彼こそ、無二の柴田党で無二の秀吉
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「伊吹、北国路もあの通り。途中さだめし大雪に悩まれたろうに」
冬の不破越えは、伊吹を左に、名だたる難行だった。関ヶ原あたりの風雪はわけてひどい。
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銚子が来ると、快く一献酌み、おそらくこれが別れであろうと、利家父子に
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境を切って信州へ入った。大部は信州海野口から甲州を南下した。――奪るべし、と思うだけの領分を、遠慮なく線
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越前はもう積雪の国だった。
が、如何せん、越前の山野は、鬼将軍の夜も鏘々と鳴る心事に反し、十月末は
「どうであろ。このまま、越前へ帰って、主君へおこたえ申しあぐるにも、何がな、筑前どのの墨付
越前から柴田勝家の使いが、荷駄行装に北国の雪をかぶって、遥々これへ
は、いつでも遥かに超えていた。この一行が越前へ帰った頃には、つい前月の口約もやぶられ、初春迫る年越しを前
越前へ援兵を求めるにも、積雪のために、到底、それは望んでも望み
と罵りぬいているという取沙汰なども、越前に在る家中の家族の便りなどから勝豊の耳にも入っていた。
「――越前に家族を残されてある人々は、越前へ帰らるるもよし、また、勝豊
「――越前に家族を残されてある人々は、越前へ帰らるるもよし、また、勝豊様と共に留まって、以後、筑前殿
その夜、主従義別の杯が酌まれた。しかし、越前へ帰った者は、家中の十分の一ほどもなかった。
岐阜へも、越前へも、事態の急を早馬しておき、長島の城には、一族の
「越前の先鋒、柳ヶ瀬を経、一部は早や江北へ攻め入りて候う」と。
もし地をかえて、秀吉が越前にあるものならば、この時機に、出動したろうか。おそらく非常な相違が
だけのものでしかない。――この時において、越前の柴田軍が嵎を負う虎の如く、柳ヶ瀬越えの境から大挙南進して
国許へ帰れ。そして、丹後宮津一円の兵船を挙げて、越前の敵沿海を脅かせ」
に及び、この細川軍の一手は、水軍をもって、越前の領海を水上から襲撃したのであった。
の蔭で、われら兄弟を見ておられましょう。きょう越前へ向って歩く足は私も持っていません」
の脳裡に感銘を与えたものとみえ、後、彼が越前に軍を進めて、その平定を見た日、勝助の母と、毛受家
玄蕃允は、二十二日の夜、自身の知行所たる越前の山中で、百姓たちの手で捕われ、秀吉の陣所に曳かれて来た
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「この山陽に坐したまま、西国四国までを睨まえて動かさぬほどな者。御辺をおいて、誰かある」
備えは、そこの一面だけに止まらない。中国も阿波も四国も近畿もである。
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やがて、大手門からこれへ、幾組も幾組も、武者の群が静かに進んで来
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に、鞭を上げて走るもあり、玉村の追分から、伊吹山の裾を見ながら、狭い間道をとって、急ぎに急ぐ人々もある。
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秀吉は、利家の友誼に酬ゆるに、加賀の石川、河北の二郡を附したほか、子息の利長にも、松任四万石を与え、
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二十一日の府中城はこうして暮れかけていた。――時に、秀吉の羽柴軍は
府中城の将士は、さきに村井又兵衛長頼が、いたく叱責された噂を耳に
「昨夜中、府中城のうごきは、どうあったか」
府中城の大手に向って、奔河の羽柴勢は、鶴翼のひらきを示した。そして
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に過ぎなかった。こんどの軍の目標は飽くまで神戸信孝の岐阜城にあるはいうまでもない。
即刻、人質を安土に送り、つづいて岐阜城内におかれていた三法師の身を受け取って、これまた安土へ移し
氏家広行などの先鋒は、各地に放火し、またたくまに岐阜城を取詰めんの猛勢を示しおるとも聞え、このたび筑前が決意と動きは
その後、岐阜城は専ら、稲葉一鉄らの兵が、攻撃を続行していたが、柴田
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(――明日は、府中の城下にかかるが、さしずめ、前田のひと挨拶、どう出るか、どう受けるか
がっていうにもかかわらず、万一の変を思って、府中の町屋端れまで、送って来た。
府中までは一刻を要さない。秀吉は久太郎秀政を先駆させて、先鋒のうち
府中から北ノ庄までは、行程わずか五里余りである。当日午後にはもう越前第
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「又左の所領、能登七尾の十九万石も、子息利長の領地越前府中の三万石も、共に
出しては利家を試していたのは自分だった。能登にいても、隅にはいない利家である。中央の情勢にも
とよろこぶことかぎりなく、やがて利家が越府を辞して、能登の居城へ帰った後、極く腹心の輩に、密かにこう囁いていた
柴田方は、越前北ノ庄を主力に、能登の前田、加賀尾山の佐久間盛政、越前大野の金森長近、加賀松任の徳山則秀
も、その原因は、玄蕃允にあった。また、かつて能登の戦場では、前田利家に向ってさえ、おもしろからぬ、不遜な行為が
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、直ちにここを陣払いして、国許へ帰れ。そして、丹後宮津一円の兵船を挙げて、越前の敵沿海を脅かせ」
加えており、彼の与国は、播州、但馬、摂津、丹後、大和を始め、他の幾州に股がって高二百六十万石に及び、兵力六万七千
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移り、翌十七日には、すでに湖岸の道を蜿蜒と北江州へ前進してゆく金瓢の馬簾や夥しい旌旗の中に、馬上、春風に面
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甲賀でも、滝川姓の族は、みな由緒ある家すじだった。一益もその
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事態、かくの如き上は、このまま、坂本へ引っ返し、坂本城にお籠りあるが上策ではないかと思考されまする」
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「なに。美濃路から火の列じゃと? ……」
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小伜は、当時、わが上杉家の一将として、魚津城に拠り、織田どのの遠征軍たる――柴田一族、佐々、前田などの大軍を
殊に、魚津城の竹股三河守の遺子と聞いて、衆目は一そうその少年の姿にひかれ
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(信孝は今もって三法師君を安土へ移し参らせず、岐阜の自城に抑留している)
白波をひいて湖心から東北に舳艫をすすめ、陸上軍は安土その他に三晩の宿営を経て、十日、佐和山城に達してい
おかれていた三法師の身を受け取って、これまた安土へ移した。
。同夜宝寺城に着、七日すでに入朝し、翌日は安土に到り、九日、三法師に謁した。
に。――彼は、腹心わずか十数騎を連れ、安土から湖北へ繞って、江越国境の山地を忍びで歩いていた。
“右軍”――安土ヲ発シ、草津、水口ヲ経、安楽越エヲ行ク。兵三万。
折も折、江北から急使が着いた。長浜、佐和山、安土などから前後して報じて来たのである。
「長浜を発つに先だって、かねて安土に籠めおいた神戸殿の質子はみな討ち果したということでおざる
秀吉は安土へ立ち、十一日は坂本に駐まった。
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敵大軍も、数量いかにも物々しくは聞ゆるが、三国、鈴鹿などの尾甲山脈の嶮を越えて来た長途の兵だ。軍需、食糧
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が望まれた。踏みとどまった柴田勢には、新たに、佐久間の一隊が援けに加わったものらしく、猛追の拍車をかけて蔽いかかった秀吉
の陣は、茂山から旗を返して、遠く帰北し、佐久間の残兵も、一応踏みとどまって抗戦を試みたが、支え得べくもなく、再び
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と対馬がそこの幕を上げたのと出あい頭に、やあと、いう者があっ
「対馬。確かめて来い」
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は動かし得る。――それに織田信雄の尾張、伊勢、伊賀に散在する兵や備前の宇喜多その他を合わせれば、無慮十万に上るであろう
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都府、北ノ庄の城下は、九頭龍川の畔にも、足羽山の要地にも、秀吉方の兵馬を充満していたのであった。
秀吉は、足羽山に陣し、水も漏らさぬさしずを下して、北ノ庄城を完全に包囲させ
秀吉は、夕刻、足羽山の本陣を、さらにすすめて、市街の一端、九頭龍川をうしろに、床几場
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往時、浅間山が大噴火すると、麓の村々は、一夜にすがたを消し、地物はみな灰の
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て、実に突として、一彪の軍馬が、相国寺の門前にかたまったかと思うと、さらに、西、南、北から相流れ寄る
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に海を環らし、一面の市外には丘陵を持つ桑名城は、長島よりは守るによく、敵を撃つに利がある。
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た戦図を拡げた。――それには、堂木、神明の二砦のほか、余吾ノ湖の東方に隔っている岩崎山、大岩山
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法斎は、そうだと答えた。河内は、たたみかけて訊ねた。
と法斎が、いぶかると、河内は、きッと改まった。
ものかな。その折の朱具足の武者こそは、この河内にて候う。仰せには、突き廻されて、引取ったりと聞えたが、迷惑な
ところへ、河内の一子、生年十七歳の若者が、台所を手伝っていたので
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不在中、家中の岩間三太夫らが、隙に乗じて、亀山城を乗っ奪り、滝川一益のさしずを仰ぎ、一益の軍、また長島を出て
日から、まずこの地方の小城寨の主塁と目される亀山城へ攻めかかっていた。
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(一益ともあろう老巧が、亀山や峰の小城など奪るに、何で時も計らず粗相に兵を動かしおっ
の山地から鈴鹿口へかけて、峰、国府、関、亀山などの諸城が散在している。敵の六万余も、その一部は、岐阜
亀山の城は、その夜、陥ちた。
亀山の落城は、三月三日で、秀吉は翌四日、虜将佐治新助
峰は、亀山以下の小城だ。そこに立籠っている兵も千二百ぐらいな小勢でしかない
今、亀山も陥し、国府も収めたといえ、それらは要するに地方的な端城
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「たしか、筑前は余り、飲けなかったの」
「筑前。ああ、あれは弱い。すぐ赤うなって、酒には意気地ござらぬ」
「近頃も、筑前とは、よほど御入魂なことであろうの」
「いや、お許と筑前とは、もっと深い交わりと存じ、おり入って、一事を托し申したいと思う
「筑前との喧嘩なら、利家、一番槍は御免こうむる。和談なれば、先陣なとお
みはった。――が、よく考えてみると、最初から筑前筑前と話題に出しては利家を試していたのは自分だった。能登
た。――が、よく考えてみると、最初から筑前筑前と話題に出しては利家を試していたのは自分だった。能登に
「さればよ。何も筑前を相手どって、此方は喧嘩している気もないが、世上の取沙汰
「喧嘩もせぬ筑前へ、和談の使いもおかしいが、三七信孝様も、また滝川からも、ぜひ
(筑前こそ、清洲以後は幼君のお傅りも怠って、ただ偏に、私利私慾の
「筑前に落度はない。故に、云い条を立てれば、山ほどあるが、御辺
あるが、御辺のようにいわれてみると、ちと、筑前のやり過ぎはあったようだ。いや大いにあったな。悪かった。その点、
ようだ。いや大いにあったな。悪かった。その点、筑前が悪い。……前田殿、まかせる。あつこうてくれい」
「無用無用、それを腹に溜めて、黙っておるこの筑前かよ。云いたいことは、とくに申し尽しておる……神戸殿へも、
「三七信孝様にも、同様、筑前の歯に衣きせぬ云い条を見られた後の和談のおすすめと読まれ
とかく意地の悪い怖かった角だったからの。殊に、この筑前など、時には、信長様のお気色より、鬼の角のほうが怖かっ
帰って、主君へおこたえ申しあぐるにも、何がな、筑前どのの墨付でもなければ、頼りない気がいたしはすまいか」
「大儀大儀。筑前も、お汝らが使いに来てくれて心が軽うなった。とかくひと
「筑前。きょうは、どちらか」
真心はむだではない。その熱意を見たればこそ、筑前も大いに心をうごかされたことでおざった。何も申さず和談にもお
「おことばにあまえて、そうなさいませ。筑前どの、おたのみ申す」
はいい。末楽しみがありそうじゃ。又左衛門、この童、筑前にくれぬか」
「先々、冬中は筑前を騙りおいて、明春、雪解けの頃を待ち、一挙に宿敵を屠り去ろうぞ。
あれば知らぬこと、柴田なぞが、愚意をもって筑前を謀らんなどは笑止の沙汰じゃ。見ておれ。蟷螂の斧とは、
ました。このことは、遅い程であると仰せられ、筑前が岐阜へ出馬あれば、自身も陣に立つとまでいわれて、却って、
。ひとりは浜松の徳川家康、もう一名はまぎれもなく筑前守秀吉である)――と。
(病にかこつけて、筑前のもてなしに甘え、幾日も羽柴の城下に遊び過ごして帰るなど、言語に
「しらを切り召さることよ。さりとは筑前どの、水臭かろ」
(筑前、檄を飛ばし、伊勢攻略の企てあり。滝川また頻りにうごく)
「いかぬわい。さすがは筑前、疾くに夜討を備えておる。なに、どうしてそれが分ったという
「どうじゃ、早かろう。筑前、まだ年は老らぬな」
「与一、筑前に、馬を一頭おくれぬか」
は、士らしい物惜しみ、そうありてよしと思うたゆえ、筑前が帰陣までの用達しには、駄馬にてよけれと、わざと駄馬を選んだの
いう憂き目を見すること、戦乱の世の常といえ、筑前、民の上に立ちながら、民に頼まれ効もないこと。しかも不時に
「筑前の所在は、味方内でも、常に極秘にされておりまする。砦
しかし、ここ数日の御猶予あらば、なお仔細に、筑前の動静をお耳に達し得られましょう。……長浜表にはなお、それがし
はみな討ち果したということでおざる。もって、筑前めが、岐阜へ向った決意のほども窺われ申す。……また、昨
城を取詰めんの猛勢を示しおるとも聞え、このたび筑前が決意と動きは、これを、なお余日ありなどと、悠やかに観る
の達見は、たしかに敵の虚を衝いたものじゃ。筑前に泡吹かすは、その一策を措いてはあるまい」
「さては、筑前か」
このたびは、是も非もなく、どうしても、筑前どのを敵とせねば、武門の立たぬものでございましょうか)
は、人数をまとめ、敵に備えろ。――脚早な筑前、間は措かぬぞ」
立寄りあるは、またなき倖せ、討ち止めて、その首級を、筑前どのへお送りあらば、御当家と羽柴家とのお仲も、難なく御
「ふうむ、固めておるか。筑前との一戦必至と」
「たれぞ、馬印を持って筑前の行く前を、十間ばかり隔てて、真ッすぐに先へ駈けよ。―
「筑前を、見知らぬか」
「又左の御前。又左の御前。……筑前じゃ。顔をお見せなされ」
て、城を出よとは、むしろお情けないおことばです。筑前の陣門へ頼って、いのちを助からんなどは、思いもよらぬこと――
「姫たち、怖がることはない。これからは、この筑前と遊ぼうぞ」
「爾今は北陸探題として、筑前を扶けられよ」
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に拠って八方破りの堅陣を示し、その附近から奥の中尾山まで、新しい幅二間道路を切り拓いて、中尾の頂上までつづけ、ここに総
間道だ。しかも柴田軍の主陣地をなす行市山から中尾山の警備区域内でもある。果たして耳ざとい哨兵の一群が、突如、木蔭を排し
従いて来い。すぐ兄者人へお目にかけ、また、中尾山の御本陣へも急達して、およろこびの顔を見よう」
彼方から曳かせ、武者十名ほど具して、そこから直ちに中尾山の本陣へ向って行った。
中尾山の本陣は幾柵にも囲まれている。彼は木戸へかかるたびに、
さらに、総大将柴田勝家も、同時刻、中尾山の本営を出たこというまでもない。この中軍兵力は約七千である。
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加賀の尾山城(金沢)は、きのうまで、佐久間玄蕃允の領だった所で
に移した。秀吉は、利家の友誼に酬ゆるに、加賀の石川、河北の二郡を附したほか、子息の利長にも、松任四万
加賀の江沼を、溝口秀勝に。能美郡を、旧どおり村上義明に。――総じて
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桑名へ迫るに先だって、鈴鹿郡川崎村の峰ノ城へ、一部兵力を抑えに残し、神戸、白子などの
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画策の秘策を施しつつ冬に入ったのであった。伊勢の滝川一益をしては、辺界の小城小城を余すなく結束させ、
となると、何よりは、岐阜の信孝の孤立化と、伊勢の滝川の分裂などが、大きな不安となってくるのであった。
に仕えていたが、夙に、誼みを秀吉に通じ、伊勢ではかくれもない“異心のある者”と見られていた。
そこへ早馬が来たのだった。伊勢からである。盛信父子へ伝えていう。
兵力六万七千は動かし得る。――それに織田信雄の尾張、伊勢、伊賀に散在する兵や備前の宇喜多その他を合わせれば、無慮十万に上る
――これに美濃、伊勢の信孝、一益の国力を加え、ようやく、ほぼ敵と拮抗し得る六万二千人の
機の熟す日を待つこと久しいのであった。かたがた、伊勢の滝川一益も攻勢に転じ、勢濃二州がこぞって秀吉の背後を脅威する
伊勢の滝川一益も、やがて遂に降った。
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と、あっさり浜松へ引揚げてしまったのである。
、同時に、徳川家康も、何を思うか、急遽、浜松へひきあげを開始していた。
、今の世において二人まで見ている。ひとりは浜松の徳川家康、もう一名はまぎれもなく筑前守秀吉である)――と
送り、毛利をして西国より動かしめんと努め、一方、浜松の徳川家康へも使いを立て、極力一方の援けを求めつつあったらしい。
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家と上杉とは、数年間にわたる血戦に一奪一譲を続け、両国麾下の士には解くに解けない骨肉の宿怨が累として横たわっている。今や勝
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かくて、石田村、十条、南郷をまたたく間に駈け、やがて並木越しに、湖が見えて来た。
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「岐阜、清洲などとちがい、彼の地に、菜の花が咲き、桜も散る頃
、明春まで、動かせないとなると、何よりは、岐阜の信孝の孤立化と、伊勢の滝川の分裂などが、大きな不安となって
は今もって三法師君を安土へ移し参らせず、岐阜の自城に抑留している)
。このことは、遅い程であると仰せられ、筑前が岐阜へ出馬あれば、自身も陣に立つとまでいわれて、却って、稟議
に過ぎなかった。こんどの軍の目標は飽くまで神戸信孝の岐阜城にあるはいうまでもない。
はすんだ。が、このことは秀吉にとっては、岐阜への行きがけの一仕事に過ぎなかった。こんどの軍の目標は飽くまで神戸
勝豊に命じ、本領安堵の墨付を与え、転じてさらに、岐阜へ前進したのであった。
急は岐阜へ報じられ、信孝はここ数日来、まったく狼狽あるのみで、防戦の
即刻、人質を安土に送り、つづいて岐阜城内におかれていた三法師の身を受け取って、これまた安土
岡本重政がやはり睨まれていたし、かたがた神戸信孝の岐阜失陥にも衝動されて、同国の形勢は、頓に騒然たるものがあっ
岐阜落城。長浜の叛離。神戸信孝、秀吉の軍門に降る、等々の報。
岐阜へも、越前へも、事態の急を早馬しておき、長島の城
散在している。敵の六万余も、その一部は、岐阜方面の抑えに割かねばならず、長島へも幾部隊かを当てるで
に撃ち、機を計って、信孝を再蹶起せしめ、岐阜の兵を合わせて長浜へ殺出せん)
しかも、岐阜、勢州方面などの事態が起ると、到底、その予定も保持して
長浜の柴田勝豊を誘降したのもその一手であり、岐阜攻略も急速な先手だった。敵の出動路にあたる江北の各要地を
持駒としているのは――いうまでもなく岐阜の神戸信孝だった。信孝が起つことによって、滝川一益も、桑名
侵攻を方略としていないのである。神戸信孝の岐阜軍が蹶起の機の熟す日を待つこと久しいのであった。かたがた、
すでに、岐阜の信孝からは、
長浜にいるものなら、秀吉は早やその気配を察知して岐阜、柳ヶ瀬の両面に備えているものと見てよい。そしてこちらも充分その
ここ久しく陣地に見ませぬ。恐らく長浜にいて、一面岐阜に備え、一面当所の動きを見、変に応じる所存かと考えられます
したこと確実にござりまする。――申すまでもなく、岐阜の神戸殿を、一撃に砕き、後顧を断って、忽ちにその全力を
氏家広行などの先鋒は、各地に放火し、またたくまに岐阜城を取詰めんの猛勢を示しおるとも聞え、このたび筑前が決意と
たということでおざる。もって、筑前めが、岐阜へ向った決意のほども窺われ申す。……また、昨十八
敵の岩崎山砦と、大岩山砦の二塁を攻め、遠く、岐阜の神戸殿に呼応の火の手を示すと共に、秀吉の急なるに劣ら
なぜならば、十七日以来、秀吉が大垣へ発して、岐阜へ作戦中のことを知っていた彼には、敵がこれを偵知
注進が着くのも夜にかかろう。また、そう急には岐阜の陣地を離れ得るものでもない。その転進をよほど早目に予想して
昨夜にかけて、美濃方面は豪雨だったとみえ、大垣岐阜間の合渡川も呂久川も氾濫していた。
である。――予定としては、昨十九日、岐阜城へ向って、一挙に総攻撃を開始するところであったのが、豪雨
「いや、お汝は、大垣に残っておれ。――岐阜の抑えに」
氏家広行は大垣の城主で、いわゆる地侍の頭目である。岐阜の抑えとして、その氏家だけを留めておくのは、不安な上
秀吉は、その間に、岐阜方面の始末を聴取した。
その後、岐阜城は専ら、稲葉一鉄らの兵が、攻撃を続行していたが
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ては、辺界の小城小城を余すなく結束させ、神戸信孝の手からは、蒲生氏郷を説かせ、丹羽長秀へ加担の申し入れ、
神戸殿や北ノ庄殿の立場にもなって見給え。一方は御失意、一方
かよ。云いたいことは、とくに申し尽しておる……神戸殿へも、柴田殿へも。――長い長い書面をもって、逐一
の一仕事に過ぎなかった。こんどの軍の目標は飽くまで神戸信孝の岐阜城にあるはいうまでもない。
これは伊勢亀山の城主で、神戸信孝に仕えていたが、夙に、誼みを秀吉に通じ、伊勢では
峰ノ城代岡本重政がやはり睨まれていたし、かたがた神戸信孝の岐阜失陥にも衝動されて、同国の形勢は、頓に騒然たる
岐阜落城。長浜の叛離。神戸信孝、秀吉の軍門に降る、等々の報。
の者や一族の頭には、何といってもまだ神戸信孝の存在や、柴田勝家の勢力などが、よほど重大視されてい
川崎村の峰ノ城へ、一部兵力を抑えに残し、神戸、白子などの民屋を焼き立てて、途々小邀撃してくる敵を鎧袖一触
健在である。ひとたびは秀吉の陣門に詫証文を入れた神戸信孝の美濃勢力も「勝家南下す」と知れば立ちどころに豹変して
持駒としているのは――いうまでもなく岐阜の神戸信孝だった。信孝が起つことによって、滝川一益も、桑名の城
はあくまで一方的侵攻を方略としていないのである。神戸信孝の岐阜軍が蹶起の機の熟す日を待つこと久しいのであった
こと確実にござりまする。――申すまでもなく、岐阜の神戸殿を、一撃に砕き、後顧を断って、忽ちにその全力を挙げ、
「長浜を発つに先だって、かねて安土に籠めおいた神戸殿の質子はみな討ち果したということでおざる。もって、
岩崎山砦と、大岩山砦の二塁を攻め、遠く、岐阜の神戸殿に呼応の火の手を示すと共に、秀吉の急なるに劣らず、
だけを留めておくのは、不安な上に、或いは、神戸信孝と通じて、離叛せぬ限りもない。――そう秀吉は疑った
続行していたが、柴田の大敗が聞えてから、神戸信孝以下、城兵の士気はまったく沮喪し、加うるに、城中には、
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こういう間に、京都では、秀吉施主のもとに、盛大未曾有の信長法要が着々と行われ
一行は騎馬だったが、病人は肩輿に助けられて、京都に入り、同夜は洛中に一泊し、翌日、山崎天王山の宝寺城
前夜、京都からあらかじめ聯絡はしてあったことである。一行は、直接宝寺城へ
「常のように、京都へまいる」
よい。薬餌や手当も万全を尽させよう。その間に、京都表の者にいいつけ、湖上の船も充分良いのを支度させて置く
そこで秀吉は、これから京都の政治所へ出向くのでと、忙しさを告げて、病間を辞した
その帰るに際しても、秀吉は京都まで同道して、みずから途中の世話を見、大津までは加藤光泰、片桐
勝豊を見送って、さて以後の約半月は、城普請も京都表のことも、ほとんど顧みぬかたちで、何やら目に見えぬ他方面
姫路ではその暇もなかったが、久しくいた長浜や京都政事所では、吏と共に法務を処した場合もある。
が代って指揮に当っていた。(勝豊は程なく京都にて病死す)
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大津から先、一行は騎馬だったが、病人は肩輿に助けられて、京都
秀吉は京都まで同道して、みずから途中の世話を見、大津までは加藤光泰、片桐助作などに護らせた。また特別仕立の湖
「あれは大津か黒田村のあたりで、百姓が何か焚いておるのじゃろ」
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、脇坂などの部将。小姓には加藤、片桐、石田、福島などの輩。みな領民には見覚えのある人たちである。
いる。秀吉はそれをボソボソ噛みながら小姓組の石田佐吉、福島市松、片桐助作などと何やら語らっていたが、自分がまだ半分
福島市松が、二十四。
福島市松、加藤虎之助、奥村半平、大谷平馬、加藤孫六、石川兵助、石田佐吉
中でも、福島市松は、
「福島市松も、浅井吉兵衛を討ッたりと、呼ばわっていた。おぬしの如き
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一去、高松攻めの兵を撤し、一鞭山崎をさして、故信長の弔い合戦に向っ
「高松退陣以後、まだ半年と遊んじゃおらぬではないか」
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盛政、越前大野の金森長近、加賀松任の徳山則秀、越中富山の佐々成政などを併わせ、百七十余万石、動員兵力量四万四、五千に
富山城にある佐々成政がそれである。彼こそ、無二の柴田党で無二
と上杉家との間に、友好関係の見られる限り、富山の佐々成政が抗戦をもくろむ余地はまったくない。成政は、志を偽って
四月二十五日、彼は、富山の城中で、慰労の宴を催した。いよいよ軍を還すためである。
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兵助は、年まだ十八に過ぎなかったが、秋田助右衛門と共に、旗奉行を任ぜられていたほどで、こんなとき、断じ
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加賀の尾山城(金沢)は、きのうまで、佐久間玄蕃允の領だった所である。
尾山の城(金沢)は、前田利家経営に移した。秀吉は、利家の友誼に酬ゆる
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小城を余すなく結束させ、神戸信孝の手からは、蒲生氏郷を説かせ、丹羽長秀へ加担の申し入れ、また、勝家自身として
きれなかった。しかのみならず、信孝から当ってみた蒲生氏郷父子は、秀吉へ随身を明らかにし、丹羽長秀は、
というても、織田家の直臣じゃ。羽柴、池田、蒲生、佐々などと同列の遺臣のひとりじゃ。久しく、北国の陣にあって
討議されていた事実でもよく分るのである。蒲生賢秀、氏郷の父子でさえ、その際には、思案を決しかねて、
ここには、三法師付きの衆臣もい、蒲生氏郷もいた。――関盛信、一致の父子も姫路から従って来
わけて蒲生氏郷の妹は、盛信の子一致に嫁している。両家は姻戚だ。
右軍、羽柴秀吉は、秀勝を伴うほか、丹羽、蒲生、細川、森、蜂屋など合力衆を始め、蜂須賀、黒田、浅野、堀
蒲生氏郷、森長可は、すぐ立って、各※、麾下のいる方へ駈け
、勢州方面の、爾後作戦は、これを織田信雄と蒲生氏郷の二将にゆだねて、その麾下には、関盛信、山岡景隆、
同様に、馬印の方も、誰彼一致せず、蒲生飛騨守の兵士長原孫右衛門が獲たという説もあり、なお一説には、
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澗なうちに人を圧す声である。さらに、本多、大久保、榊原、井伊、岡部などの諸臣が眸をそろえて二使を見すえ
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「大崎殿をお呼び下さい」
です。怪しい者ではありませぬ。ここの木戸組頭、大崎宇右衛門殿に、柵までお顔を拝借いたしたい。この通りお願い申す」
ことばである。番士は頷き合っていたが、やがて部将の大崎宇右衛門へ通じたらしい。宇右衛門が近づいて来た。
「大崎殿ですか」
「いかにも、大崎だが」
大崎宇右衛門は膝を寄せて、自己の考えを述べてみた。勝次郎の考慮
待つ人の姿は見えず、やがて大崎宇右衛門が、隼人佑の手紙を齎して来た。断り手紙である。―
大金、木下の二群は、麓まで行く間に、大崎宇右衛門の手勢に待ち伏せられて寸断され、残る者どもと、池ノ原の大松
同じ帷中に、手枕で眠っていた大崎対馬守が、刎ね起きたとき、玄蕃允もまた立って、無意識に小姓
大崎対馬守は程なく馬を打って帰って来た。清水谷、蜂ヶ峰
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「事態は急変。お許にも、飯浦坂の堀切を捨て、早々、峰道を西へとり川並、足海峠のあたりまで、
「飯浦、堀切の谷あいを、西へ攀じ越え、総勢、峰づたいに、足海、権現坂
の麾下は、それぞれの旗幟と組頭の行くを目あてに、堀切の崖を、道も選ばず攀じ登り出した。灌木帯の浅みどりも、
堀切とよばれる名にも想像されるように、ここの谷あいは、谷と
彼の麾下三千が、遽かに、飯浦坂を去って、堀切から西の峰へ退き始めたことを、逸早く偵知した羽柴方の大
を取らせておいたのである。そして敵勢の大部分が堀切の登りへかかった背並を狙って、この手の鉄砲が、一斉に
戦態にあったが、獅子児一群の奮迅が、忽ち堀切のタテを踏みのぼり、彼が中軍の幾将を槍先に梟けるにいたる
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つがえて、勝助を射たものは、小川佐平次の家来、大塚彦兵衛だった。