三国志 07 赤壁の巻 / 吉川英治

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江蘇省

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は遠い以前となったが、玄徳が旗挙げ早々、広陵(江蘇省・揚州市)のあたりで兵員も軍用金も乏しく困窮していた頃――

河北

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実に数えきれぬほど、輩出しております。わけても河北の袁紹などは、そのうちでも強大な最有力であったでしょう。――

「丞相の威名と、仁慈は、河北においてこそ、あまねく知られておりますが、――この地方の民心は

「おそれながら、君ご自身と、河北に亡んだ袁紹とを、ご比較遊ばしてみて下さい」

「あの袁紹においてすら、あの河北の強大をもってすら、曹操には破られたではございませぬか。

戦乱の地から移ってきた知人のはなしに、曹操は河北の平定後、※河のほとりに楼台を築いて、これを銅雀台と名づけ

湖北省

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、出征の要に迫られた。荊州の配下、江夏(湖北省・武昌)の城にある黄祖を攻めるためだった。

でしょう。しかし、入るべからずです。道をかえて江陵(湖北省・沙市、揚子江岸)へ行きましょう」

ために玄徳は、長坂橋(湖北省・当陽、宜昌の東十里)附近でもさんざんに痛めつけられ、漢江の渡口

長江

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益州(四川省)はどうかといえば、要害堅固で、長江の深流、万山のふところには、沃野広く、ここも将来を約されている

が、長江の水だけは、千里を通じている。

兵船をそろえ、兵を満載して、呉軍は長江をさかのぼってゆく。

、甘寧を両翼の副将として、呉軍十万は、長江をさかのぼって江夏へおしよせた。

、さして不義なく、その勢力は江東江南六郡にまたがり、長江の要害を擁しているにおいては、いかにお力をもってしても

、呉は富強にして山川沃地広く、兵馬は逞しく、長江の守りは嶮。然るにです、その国政にたずさわる諸卿らは、一身の

いやいやそれは、懦弱な輩のすぐ口にする口実です。長江の嶮に拠って、ひとたび恥を知り恩を知る呉の精猛が、一体

「孔明は如何にせしか」と、長江の水に思慕を託し、また仰いでは、

春去り、夏を迎え、秋を送り、冬を待ち、長江の水と空ゆく雲をながめ、朝夕の風を測って暮していたよう

「これは心外な仰せです。われらは長江のほとりに育ち、舟を操ること、水を潜ること、平地も異なりません

と、相励ましながら、さらに、長江の岸まで駈けた。

漢江

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、宜昌の東十里)附近でもさんざんに痛めつけられ、漢江の渡口まで追いつめられてきた頃は、進退まったくきわまって、

を借りることに成功して夜を日についで馳けつけ、漢江の近くでようやく玄徳に追いついてきたものであった。

江南

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「いや。なおここで、江南から江東地方をみる要があります。ここは孫権の地で、呉主すでに

充実をはかりながら、北支・中支のうごき、また、江西・江南の時の流れを、きわめて慎重にながめていたのであった。

江南の春は芽ぐみ、朗天は日々つづく。

下さい。われわれ兄弟の父母の墳は、みな江北にあって江南にはありません。他日、朝廷の逆臣を排し、劉玄徳の君をし

「呉の向背や如何に?」と、江南の雲に安からぬ眸を凝らしていた。

らの心をなだめ、また利と栄達をもって励まし、江南へ放って、呉軍へ騙って降伏させます。――敵はかならず信じ

おびただしい庶民が災害に会っています。いま仰せをうけて江南に帰るに際し、なにか丞相のお墨付でも拝領できれば、小家の一族も

んという肚に相違ない。――何でこのまま、江南に放してよいものか。さあもう一度中軍へ戻れ」

すすめ、ひるがえって遼東を定む。いま天下に縦横し、ここ江南に臨んで強大の呉を一挙に粉砕せんとし、感慨尽きないものが

四川省

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も、凡庸頼むに足りないものばかりです。――益州(四川省)はどうかといえば、要害堅固で、長江の深流、万山のふところに

両国

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呉とは、決して、対曹操のごときものではない。故に、両国の好誼を傷つけんことをおそれて、敢て、最前から放たずにいるのだ。この