私本太平記 11 筑紫帖 / 吉川英治
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「愚衲らの心にある常識では、およそ関東の武家方は、武弁殺伐……ただそれだけの者としかつい心得ており
将軍(尊氏)は、執事の高ノ師直や関東いらいの宿老をつれて、水軍のお座船(旗艦)へ。
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におあずかり申していた、不知哉丸の君も、越前ノ前(藤夜叉)も、いまはご心配にはおよびません。――
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その勢いを駆ッて、陸上軍は、大安寺(岡山市の西)の松田一族を打ち、すすんで三石城(船坂峠)に
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大きいのはいずれ四国か西国船であろう。いまやこのへんは都の食糧輸送路として活溌
正成は披いて、黙然と見終った。それは四国、山陽などの足利方の水軍の間に用いられているらしい水路の関所札
尊氏も、今夏か秋のころまでには、九州、四国、山陽のお味方をこぞッて、再び上洛のご予定にて、着々、後図を
「早や尊氏はここまで来ているぞ。九州、四国も挙げてわが麾下にあれば、不日、ごく近々には馳せのぼらん。それまで
、高松の細川定禅など、かねがね今日を待機していた四国の味方だったのである。しかも、その船力は数百そうの兵で、
但馬には細川、仁木。播州には赤松。そのほか、四国、山陽の諸所の要々にはキメ石を打って、退いていた。―
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逃げたのではない。丹波には久下一族をのこし、但馬には細川、仁木。播州には赤松。そのほか、四国、山陽の諸所の
それだけでなく。北の但馬や美作地方から、いくらでも後詰(応援)のできる強味もある。
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関(現・上ノ関)で、尊氏はここから安芸の厳島神社へ代参の使い舟を派し、
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「肥後の菊池武敏、阿蘇の大宮司惟直などの宮方が、太宰府の手うすを知って、水木の渡しをこえ
をつけながら「なかなか気丈な老父でございます。たとえ菊池、阿蘇、どれほどな大軍に囲まれましょうとも、宰相のお顔を拝すまではと
なおぞくぞく前進中と聞えていた菊池武敏を主力とする阿蘇、秋月、黒木などの九州宮方の大軍は、今暁早や、博多箱崎の地点に
た少弐妙恵と大友の入道具簡も、こんどは、阿蘇、菊池の諸豪に伍して、共に、探題攻め包囲軍中にいたの
の奮起を呼びおこしていたのである。肥後の山河、阿蘇の噴煙が、ただならず揺るぎ出したのは、まだ尊氏が、芦屋ノ浦
隣郡の阿蘇一族も、変らない宮方だった。阿蘇ノ大宮司惟直、惟澄も、ともに兵をすすめたので、あわせると、すでに
「――敵の主たるものは菊池党と阿蘇、秋月の二、三党にすぎぬ。が、九州はひろいのだ。筑紫
前面に在る敵は、菊池方の阿蘇ノ大宮司惟直の軍勢だった。弟の惟成、いとこの惟澄、みな一陣らしい。
また、浜の手方面の阿蘇ノ大宮司一族の軍も、箱崎方面へと一散になだれ立ち、なお、とどまる所
など、ほとんどが菊池、阿蘇の協同者だった。そして英時を屠ったのだ。――それらすべて
――尊氏が九州を離れたと知るや、菊池、阿蘇の両党が、日向の伊東祐広、肥後八代ノ庄の内河彦太郎などと
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に、筑後川をわたり、博浪一撃の下にと、博多の北条探題邸の襲撃にむかった。
余波はすぐ九州へもおよび、博多の地に過去十年余の業績と人柄を称えられていた九州探題の
「南無……。これで先の年、博多において、少弐、大友らのため騙かられて無念の死をとげた
と、武敏の令で、全軍はその日、博多へ殺到した。
だ、わが十分の一以下だ。それに、太宰府や博多の要衝もこう抑えたからには、これ以上、尊氏方へ転ぶ馬鹿もある
しかし大軍である、この二万余騎の軍馬が、すべて博多の巷を出切るまでには、重たい熔鉄の流れに似て、勢いかなりな
てはおらん。しかし一条その道は明るいぞ、ここから博多までのあいだに、みなの運も、わしの運も、また、天下いずれに
山はこれから西へ三、四里ですが、きのう、博多の鎮西屋敷をひき払った大友近江守(具簡入道)どの、島津道鑑どの
たが、きのう以来、大混雑の様だった。――博多から父の近江守貞宗(具簡)をはじめ、島津道鑑だの、また
「すぐ博多へ襲せてゆく」
「昨夜らい、敵も博多へ入っており、きょうは兵をととのえて、北へ進撃して出るものと
が、この時刻ごろにはまだ菊池勢は博多を出たかどうかの頃であり、その先鋒すらなお、箱崎附近に見え
は、残敵を掃蕩しながら、その日の午後にはもう博多の内へ入っていた。
「ここが博多か」
乾坤一擲、勝って、博多の土をふんだのだ。そして、妻の兄英時が、あえなく滅亡を
「ここ博多の探題所は、英時どの滅亡のあと、大友、島津、少弐の三家
「博多から太宰府まで、五里の道、もう敵の残軍は一兵もおりませぬ
博多、箱崎に抑えをとどめて、本軍はその日、太宰府へ転進した。
の油断ならぬ老武族のこころをもよくつかんで、博多から太宰府に入ったあとでも、いかにそれらの“他郷の他人”で―
船を、また、それに要する手馴れの水夫楫取たちを、博多の一ヵ所に集めさせることだった。――大挙して、ふたたび上洛の
そのため、博多には、一色ノ禅門範氏をおいて、それらの運びを総攬させ、
尊氏とはべつに、博多を発した九ヵ国の九州軍も、ぞくぞく、赤間ヶ関を見過ごして、海峡をひがし
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「兵糧にはお困りなさるまいが、筑紫といっても、武具や打物には調達にもかぎりがある、また急場に
「筑紫からおいでなすったんでは、まだ御存知もないでしょうが――都にい
「もちろん、主君尊氏のお胸をそのままうけたまわって、筑紫の御陣から差向けられて参った次第にござりまする」
どのと自分とは、まったく両極。――もし足利勢が筑紫より大挙上洛の日には、正成もまた小ながら、河内の奥からただちに討っ
「介どの。まずは真っすぐ筑紫へ帰る気か」
「はや筑紫へ帰るのか」
も、日はあとへもどり、同時にその天地もここで筑紫の一角へ移るとする。
にも、率先、国難にあたってきた。要するに、筑紫のくさわけでもあり徹底した防人精神のうえにその家風も弓矢も伝承
をはかり、またあらゆる好意を送っていた。で事々、筑紫の武族間には、
「尊氏に筑紫を踏ますな。――遁亡の将尊氏ごときに、一歩でも九州
氏や宇都宮氏のように、尊氏の将にしてこの筑紫に領地のある者もいたので、当然、それらも馳せ参じた。
法会につらなった筑紫の諸将は、犠牲者への心からな傷みを尊氏の姿に見て、「
師泰を旗本頭とし、少弐ノ頼尚を先陣に、筑紫、長門、周防、安芸、備前、備中の兵をこぞッて陸上を行く。
なぜ義貞も水軍を編成して、一路、筑紫へ向わなかったかという謎である。が、おそらくは兵庫合戦以後、宮方
大友、少弐の船にのっていた筑紫の船頭
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釜戸ノ関(現・上ノ関)で、尊氏はここから安芸の厳島神社へ代参の使い舟を派し、
し、少弐ノ頼尚を先陣に、筑紫、長門、周防、安芸、備前、備中の兵をこぞッて陸上を行く。
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れては。ここらだけではあるまいが、住吉、堺、そのほか諸所の鍛冶屋千軒、具足師すべてが、みな家蔵たててゆく一方、
かぎりがある、また急場にもまにあわねえ。そこで住吉、堺の鍛冶、具足師から買上げて、ごっそり船へというお使いじゃねえんです
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て、正成殿をはじめ、御台所や和子たちにも、河内和泉の御守護らしく、ここへお城住居を仰ごうと申しあげるのだが、それも
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遠くは、薩摩、日向から。もちろん豊前、肥前の沿海からも徴集し、しかもそれは戦艦と
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「とるにたらぬ河内の一守護。聞きますまい」
「しかし武器の調達などではない。極秘裡に、河内の楠木どのに会うため渡って来たわけだ」
「河内の本拠へか」
も、新田将軍の追討軍からのぞかれて、いまでは河内の奥に御屏居だっていうこってすぜ」
。じつはこれが頼みだ。ひとつおれと一しょに、河内へ行ってくれないか。密々に正成どのへ近づきたい」
ておられます。とかく兄君はお身軽すぎる、和泉、河内の御守護、もちっと、重々しゅうしていただきたいと」
「えらくお身軽なもんだな。河内の殿さまは」
お顔。……この正季にも、四天王寺を引払って、河内へ帰れとのおさしずであったには、むっとして、何でそのよう
「そして中頃では、具足師柳斎とも名のり、この河内にも、しばらくいたこともあったの」
、妹の卯木夫婦の者は、お辺に救われて河内を脱し、そして以後の幾十日も、住吉のお宅で厚いお世話になったと
、尊氏さまには、かつてまだ鎌倉においでの頃から、河内に楠木氏と呼ぶ御一族のあることを、深くお胸に銘じてはおら
「身の面目よの。身は河内の一小武門。足利殿といえば、人も知る御名門だ。それさえ
筑紫より大挙上洛の日には、正成もまた小ながら、河内の奥からただちに討って出て、戦陣の間にまみえ申そう。ご返辞はこれ
「そちだけは、ここを去って、河内の楠木ノ兵衛に会うて来い」
頃である。――ある日、一色右馬介が、遠い河内の使いから帰って来た。そして、さっそく、太宰府の営に、主君尊氏
「して。河内の方は」
「河内では親しく正成に会うたか。また、首尾はどうであったぞ」
「じつは、河内の水分へまぎれ入ッて、当の河内どのへ近づくにも、さまざま、心を
「身は河内の一小武門。足利殿といえば天下の武家中の名門。さるを、
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すえには、播州加古川に本陣をすえ、すすんでは、斑鳩へ前線司令部をおいた。そしてまず序戦、赤松円心則村の居城、白旗城
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「筑後さま。遅うございました。太宰府は今暁、菊池勢に攻めおとされ、大殿の妙
菊池武敏は、そのご、四散した味方をよびあつめて、筑後の黒木城に拠り、戦力の再編成に他念もない。
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御奇特は一再でない。さきにも天野山金剛寺や観心寺やまた久米田寺などへも、同様な納経をしておいでになった。
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その勢いを駆ッて、陸上軍は、大安寺(岡山市の西)の松田一族を打ち、すすんで三石城(船坂峠)に突ッ
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「たしか近くの四天王寺には、正成どのの御舎弟が陣所を構えていたはずだな」
なるが、たれ知らぬまであった。だが、つづいて四天王寺の正季もひきあげて来たことから、がぜん四隣の族党のあいだでは、
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ある主君尊氏も、今夏か秋のころまでには、九州、四国、山陽のお味方をこぞッて、再び上洛のご予定にて、着々、
これまでの九州は、いわば中央争覇の圏外だった。ここも武家宮方の両派に別れてい
尊氏の九州くだりは、俄然、颱風の進路が一変、急角度に筑紫九ヵ国の空をおおっ
が、もしここで、九州の地をふんだばかりの出ばなにおいて、太宰府の失陥やら、大宰の少弐
には鉾はあったが、槍はなかった、槍は九州の菊池党がつかい出したのが濫觴であるというのである。
時の後醍醐が、この九州菊池党へ、秘勅をくだして、早くから筑紫無二のお味方と恃まれ
「まず第一に、九州では菊池の党へ」
余波はすぐ九州へもおよび、博多の地に過去十年余の業績と人柄を称えられて
に過去十年余の業績と人柄を称えられていた九州探題の北条英時も、たちまち、四面楚歌の包囲中におかれ、鎌倉滅亡
それが未見の尊氏へ、どうして、こうつよい信頼を九州では高めていたのか。
焦点となるにつれ、はしなくも尊氏という人物が、この九州では、特に大きく、彼らの意識にのぼって来た。
九州探題英時は他人でない。妻の兄だ。この九州と尊氏との宿縁もまた、浅くはない。
「いつかは、この九州へ、お手をかける日もあるにちがいない」
で寝返り、義貞を離れて尊氏の手へついてから、九州でもふたたび、宮方と足利方とは、真二つに割れ、ここは大
ほどな恩賞をうけた例はほかにない。同時に、九州における菊池党の位置もここへきてすばらしい勢威を増していた。
、この家のことであり、朝廷の意向も「――九州の抑えは菊池を要に」と恃むところにあったであろう。
。――遁亡の将尊氏ごときに、一歩でも九州を踏み荒させてなるものか」
「朝敵第一の賊尊氏が九州へやって来たのは、招かずして、わが菊池家の門へ、
恩賞を附すもよいとしていることだし、ゆらい、九州の豪族間ではまた豪族同士で、この狭い領土を侵し合って、すきあら
道鑑、大隅忠能、そのほか河田、渋谷の徒、つまり九州足利方のあらましが加わったとみても、たかだか千か千二、三百人。
「それはそうだろう。この九州へ上がったものの、這奴らの運命は、自滅のほかはありえない」
と阿蘇、秋月の二、三党にすぎぬ。が、九州はひろいのだ。筑紫九ヵ国は数十党の力と地盤のうえにたもたれ
畿、山陰山陽、武家の不平の声なき所はなく、九州とても鬱勃は久しかろう。――それらが挙げて尊氏を迎えぬはずはない。
目で見ねば、なかなか来り投じまい。一定、ここは九州のわけめ、いや天下のわかれ目だ。進んで戦うほかはない」
わけのものではなかろう。尊氏にすれば、すでに身を九州の一角においた以上、そう出る積極以外、勝機をつかむ途なしと信じて
のあと、大友、島津、少弐の三家が寄合にて、九州の国事を視て来たというが」
おなじ「鎮西要略」には、尊氏がこれと同時に、九州の諸武士へ、勧賞していたこともみえる。――戦場でいのちを
仁木義長と上野頼兼の両大将をさしむけ、九州では松浦党をその先鋒として攻略に急がせた。すでに三月も
「なんで、尊氏ごときに、九州を思いのままにさせてなろうか」
いたのは、すでにもう尊氏の心のうちでは、九州の地を去って、再挙、ひがしへ軍を回すの用意が――ひそかに
それのよく行われてゆく実力とをみて、いまは九州の各地にひっそくしていた武士もみな出て来て、尊氏の軍門へ
ひとり中央といわず、この九州でも、武族間における離反雷同のあさましさは、いやというほど
われながら、尊氏はいま、薄れゆく九州の地をかえりみて、船上からそう思う。
さきに赤間ヶ関(現・下ノ関)から九州へ渡ったのは二月二十日。――そしていま、芦屋ノ浦からその
軍勢でも、なお足らないと観たのであった。九州は彼にとって多分な冒険であり、俗諺にもある――運と岩茸
「早や尊氏はここまで来ているぞ。九州、四国も挙げてわが麾下にあれば、不日、ごく近々には馳せのぼらん。
尊氏の心裏をうたがい初めていた。――なぜなれば九州ではあれほど迅速な行動をみせていた尊氏が、
ここに果たして、尊氏が気にかけていた一報が九州から聞えた。
――尊氏が九州を離れたと知るや、菊池、阿蘇の両党が、日向の伊東祐広、
おそれていたのは、前でなく、後ろだった。九州の再燃にあったのだ。彼はすぐ、少なからぬ船と兵力を割いて
もし九州の再燃が悪化して、菊池以下の宮方が、東上の軍を追ッて来
いや九州ばかりか。
そのはず。――尊氏は九州へ落ちるにもただ逃げたのではない。丹波には久下一族をのこし、
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赤間ヶ関をはなれ、海上一日の航路をへて、たそがれ、筑前の芦屋ノ浦へただよい着いた日にあたっていた。
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ただちに蟄居の一寺から上洛の兵をすすめて、両者、箱根の奇勝に拠って、雌雄を争ったあのときの戦である。
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「まだ物忘れする年ではあるまい。過ぐる千早金剛の大戦中、ここもあぶなくなって、お師の時親さまには、ついに山
機会は今だったと、足を早めて、彼はたちまち金剛の山上をさして急いでいた。
川の水音もうしろに消え、下赤坂もはるか下だった。金剛の長い山裾は石川から河内平へかけてまで、模糊と、すべて天地いちめんが
がからむ気だるい野趣をおびた民楽だが、遠くには、金剛や葛城の山波が横たわり、空には昼の月があった。いわばそれら
、それ以前のことに属し、従って介が、下赤坂や金剛の峰をうろついていた時よりも、日はあとへもどり、同時にその
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尊氏は九州へ落ちるにもただ逃げたのではない。丹波には久下一族をのこし、但馬には細川、仁木。播州には赤松。その
あらかじめ、今日あることを察して、丹波に強力な味方を潜ませて行った。
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「――かつて鎌倉の探題がいた探題屋敷はどのへんか」
「鎌倉最後の探題、赤橋修理ノ亮英時(北条英時)どのが御自害の地は
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「師直。船はこのまま府中(現・長府)までやれ。串崎をめぐッて、そこへじかに」
「赤間から府中までは、わずか東へ一里少々。かくべつ、彼らの当惑にも相なる
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仰っしゃっておられます。とかく兄君はお身軽すぎる、和泉、河内の御守護、もちっと、重々しゅうしていただきたいと」
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で尊氏を待っていたのは、讃岐の土岐一族、伊予の河野党、高松の細川定禅など、かねがね今日を待機していた四国の
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手紙には、るると、以後の伊吹の城やまた足利家の根拠地――三河国におこった必然なともいえる―
しかし万一を恐れた道誉は、変を聞くと、ただちに伊吹から援兵を送って、三河のさる所にひそんでいた尊氏の母上杉清子
の、それも宮方の動向如何では、いつ「――伊吹をも、ふみつぶせ」と、新田方の兵が、攻めかかって来ないとはかぎ
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気だるい野趣をおびた民楽だが、遠くには、金剛や葛城の山波が横たわり、空には昼の月があった。いわばそれらが舞台
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と、密詔の檄は、どこよりもはやく、肥後の菊池城へとどけられていた。
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河口に船体を隠していた数十そうが、いちどに遠賀川の水面にみなその船影をあらわした。そして、えいえいと、川すじを深くのぼって
と、尊氏を遠賀川の船上にのこして、岸へかけあがって行った少弐の太郎頼尚の胸には
捜し出されたのは十数名の太宰府からの落武者と、遠賀川のやや上流で、焚火をあげていた一団四、五十名の味方が発見
どっぷりと遠賀川は夜になっていた。
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ている。――というのは、源九郎義経が平家を壇ノ浦に討ったさい、その水案内にはここの串崎船が先陣をつとめ、その
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顕家の奥州軍は、はや、都をひきはらって、みちのくへ帰る――と町ではさかんに沙汰されているのに、
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「後に、おかたみは、承天寺の一僧がたずさえて、英時殿のお妹にあたらせられる東国の御方へ
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ふたたび、あの乱だった。高徳は七条口でよく戦い、兵庫にも参戦したが、日ごろ千種忠顕と折合いがわるかったので、それを
もなりません。もし尊氏の水軍がさきを越えて、兵庫へでも揚がってしまったが最後、お味方は腹背の敵にくるまれましょう
「兵庫へ」
「ひとまず兵庫へ」
幾万の予備もあるとしている官軍だった。かつは兵庫の海、兵庫の山。そこは歴戦、官軍が勝利をえてきた吉祥の地
「……では、兵庫御上陸の日も目前のこと。兵庫の戦場において、またお目に
……では、兵庫御上陸の日も目前のこと。兵庫の戦場において、またお目にかかりまする」
敵の義貞の覚悟のほどもわからなくはない。必然、兵庫の要地に拠って、さらに予備の大軍を都からよびあつめ、陣をかため直して
月二十四日の暮れがたには、明石海峡を通過し、兵庫の沖に、その群影をみせていた。
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つけ、何か、第二の故郷でもあるように、金剛山が振向かれた。
「金剛山の人なき場所で、まったく、ただ二人きりでおはなし申すよい機会に恵まれましたなれ
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位階はもちろん、鎮守府大将軍の号に昇格され、ちかく奥州の府へ帰任することになっている。
この間に朝廷が、北畠顕家の奥州軍を、元の奥州へ返してしまったなどの安易感にこそ、より大きな落度がある。
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。――いやそんな御奇特は一再でない。さきにも天野山金剛寺や観心寺やまた久米田寺などへも、同様な納経をしてお
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と、以後の伊吹の城やまた足利家の根拠地――三河国におこった必然なともいえる――一変事を告げていた。
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でない。さきにも天野山金剛寺や観心寺やまた久米田寺などへも、同様な納経をしておいでになった。――すべてそれ
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のは、きのうや今日のことではない。まだ尊氏が六波羅にいて、六波羅奉行の腕をふるっていた建武初年の頃からであっ
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播州加古川へぞくぞく落ちて行くと聞え渡った。要するに、加古川は、総大将義貞のいる宮方勢の総本陣と、自然、大きく分ってき
、さらに後門の狼にもそなえを外せず、ついにさいごまで加古川の陣地を払うことができなかった。自身の床几は、はるか斑鳩あたりまで進め
床几は、はるか斑鳩あたりまで進めながらなお、むだな兵力を加古川におかないわけにゆかなかったのだ。
「いまは加古川もよい陣地ではない」
直義の陸の大部隊は、はやぞくぞく、敵の去った加古川へ入っていた。
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郎党八、九人に馬をひかせ、自身も騎馬で加賀田の山道をいそいでいた。
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「留守か。では爺、そちが下赤坂の城へひきつれて行け。そして物具奉行の佐備正安へ渡すがよい。さき
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ている。備中福山ノ城もあぶないといわれ、笠岡、玉島の辺にはすでに敵、新田方の先駆が、見えつつあるとの情報も
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春柳 葛城山に
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した不安も尊氏には告げていなかっただけに、芦屋の岸へあがるやいな、彼は、
陸上何ら異状はございませぬ。ひとまず宰相の御座所は、芦屋の一寺に用意いたしおきました。お船をつけ、いずれもこの辺より
兵三百名が加わったので、やや意を強うし、なお芦屋ノ浦では、数倍の九州軍が参加あるはずと観ていたので
やがて、同勢が着いたところは、芦屋から小一里奥の、※の一寺だった。
が、ただならず揺るぎ出したのは、まだ尊氏が、芦屋ノ浦へも上陸ッて来ない前からのことだった。
勢、およそ五、六百、少弐頼尚の案内にて、昨夕、芦屋へ上陸したとのことにございまする」
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などの大族の系類もあり、また、千葉氏や宇都宮氏のように、尊氏の将にしてこの筑紫に領地のある者も
宇都宮弾正大弼
と、少弐の兵、大友の部下、宇都宮弾正らも、自陣をすてて、救援にはせつけた。――しかし
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、杉党などの大族の系類もあり、また、千葉氏や宇都宮氏のように、尊氏の将にしてこの筑紫に領地の
と退いたのもまたなおまずかった。敵の仁木義長、千葉大隅らの兵に追い打ちをかけられて、みるまに阿蘇惟成は負傷し
千葉大隅守
足利方の千葉大隅守だった。
千葉大隅守の船の船頭
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いたのは、讃岐の土岐一族、伊予の河野党、高松の細川定禅など、かねがね今日を待機していた四国の味方だったの
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。雷があばれ、大雨が翔け狂い、明けてみると、住吉の燈明台はまず無事でいたが、倒れた松の数は知れない
そう祈られては。ここらだけではあるまいが、住吉、堺、そのほか諸所の鍛冶屋千軒、具足師すべてが、みな家蔵たてて
にもかぎりがある、また急場にもまにあわねえ。そこで住吉、堺の鍛冶、具足師から買上げて、ごっそり船へというお使いじゃ
「はい。住吉の打物屋鳶七と申すのが、お頼みうけていた武具繕いの
たが。……いや、その左近でおもい出した、きのう、住吉の打物屋鳶七が、これへ十人ほどの下職を連れて到着して
「これもきのうのこと。住吉から新たに十人ほどの具足師が来て加わりましたので」
「忙しげに、すぐ住吉へ立帰りました。龍泉殿へは何とぞよろしくと、申しまして」
「どうたって、てめえは住吉から来た具足職人のはずじゃあねえか。どうしてこんな所へ用が
に救われて河内を脱し、そして以後の幾十日も、住吉のお宅で厚いお世話になったと後に聞きました。――介どの
組の者の手で、介どのの身をつつがなきよう、住吉の浦までお送り申せ。わしの領内でもし危害を加える者などあったら
「確と、この者は住吉の浦まで送りつけまする。が、すぐこれより立ちますので」
の小六をよんで、介にもそれを見せ、それから住吉へ送って行けと、いいつけた。
「では、ただいまから、住吉の浦へ立ちまする。ほかに何か御用は」
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大友具簡、島津道鑑、大隅忠能、そのほか河田、渋谷の徒、つまり九州足利方のあらましが加わったとみても、たかだか千
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党などを両翼に、少しさがっては、松浦党だの神田党など、どっちをみても、味方の軍勢で、野も海辺も埋め
だ! 松浦党だッ。――裏切りは松浦党と神田党だぞ」
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仁木義長と上野頼兼の両大将をさしむけ、九州では松浦党をその先鋒として攻略