剣の四君子 02 柳生石舟斎 / 吉川英治
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年で加藤家を辞し、その足で彼は九州中国から北陸地方を遊歴していたのである。
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大坂城、聚楽、洛内などの、地震御見舞として、関東より上られ、ここしばらく、京都紫竹村の鷹ヶ峰に、王城御警固の任に
野津の仮屋におられましたが、いよいよ、近日には関東へお帰りとあって、一しお御催促が急なのでござりまする。―
併せて伏見城に秀吉の安否を見舞って、彼は近く関東に帰る予定であったが、なお、ここに野陣している間も、
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一掃して、革新陣の先頭にあった織田信長も、本能寺一夜の兵燹裡に歿し去っている。
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「四国を経、九州へ渡ろうと思う」
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「……まず、但馬もあれで」
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遙か、坂下の大手門のそばで、孫の兵庫が手招きしていた。石舟斎は、自分の早
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たが、後にまた、本領を回復し、後醍醐天皇が笠置山に行幸遊ばされて、官軍を召し募られた折には、柳生一族からも
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――彼もまた流浪して、伯耆国の横田内膳の飯山城に身をよせていたが、偶※、その内膳は、主筋にあたる中村
その内膳は、主筋にあたる中村伯耆守に殺害され、飯山城は伯耆守の手勢にとり囲まれるところとなった。
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「四国を経、九州へ渡ろうと思う」
伊勢守は、九州へ立つ日取を遽に変更して、柳生城へ臨んだ。
その後、大和に在りながら、九州の大友宗麟に属して、金子で三千石の扶持を送られてたが、その
、わずか二年で加藤家を辞し、その足で彼は九州中国から北陸地方を遊歴していたのである。
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とはいえ、その五郎右衛門といい、宗矩といい、おそらく畿内の剣人では、比肩し得る者はなかった。
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ば、老先生のおうわさに及び、長政のみならず、大徳寺の和尚も、その他の人々も、天下の剣道の名人といえば、上泉
近くの地には、紫野の大徳寺とか、その他、宿舎として恰好な建物がないではないが、
その辺りのたたずまいでは、今し方まで、家康の主従と、大徳寺の僧などが、そこで茶を喫していたらしく思える。
らしい客が二、三名、ほかに天海とよぶ僧、大徳寺の和尚などが座にあった。武将は各※武装しているが、座談
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て、遠路、老体をわずらわしたが、実を申せば、江戸にある嫡子秀忠に、剣の良師を求めておる。早速であるが、徳川
ていた。真心は面にあふれ、やはり愛児の将来を江戸の地にいつも想う家康には、その気もちが分りすぎるほどよく分った。
もおよそその言葉で察せらるる。では宗矩を、今日より江戸の秀忠へ、奉公に差出すこと、異存ないな」
で、かれは初めて、江戸に一家を興し、江戸柳生家の基礎をたてた。
で、かれは初めて、江戸に一家を興し、江戸柳生家の基礎をたてた。
伝血の望みは嘱されていたが、それも江戸常住となって、稀※の便りが、せめての楽しみであった。
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洛内守護の任を果し、併せて伏見城に秀吉の安否を見舞って、彼は近く関東に帰る予定であったが、
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は、頑強に落ちなかったので、筒井順昭は、自身伊賀を発して、忍辱山に陣を取り、
懶惰で底意地がわるい。順昭の歿後、領土をうけて、伊賀に本城を移し、筒井順慶と称したのは、この藤勝であった。
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、宗矩もこれへ来い。……孫はおらぬか、兵庫も呼べ」
孫の兵庫は、その子である。
「兵庫は、たのもしいやつ」
龍石舟斎も、眼のうちにも入れたそうな程、兵庫は愛していた。
兵庫の天稟の才を愛したのである。事実、十六歳の兵庫は、すでに
馬の口輪は兵庫が把る。
五郎右衛門の居眠りも、兵庫の無遠慮も、石舟斎は、これがありのままの若者と、許しているかのよう
兄の厳勝の子――兵庫はちょうど何処からか帰って来たところだった。以前とすこしも変らない小柳
「……ああ、それを聞いて、ひとつは安心。兵庫、先に行って、お耳に入れい。宗矩が立帰りましたと」
兵庫は、奥の丸へ、駈込んで行った。
ていた。石舟斎は、その内側に立っていた。兵庫のことばでは、お変りもないといったが、四年ぶりに仰いだ
「兵庫はいつ帰るのじゃ?」
清正から、彼と昵懇な黒田長政を介して、正式に兵庫をその家中へ懇望して来た折も、
「兵庫事は、天性、御奉公を懈怠いたすようなものではござらぬが、何
これを見ても、石舟斎が、どれほど兵庫を熱愛していたかがわかる。しかしまた、その無理な条件をも容れ
「……兵庫はまだ帰らぬか」
「ただいま戻りました。兵庫でございまする」
「兵庫、こちらへ来い」
嗽水、手水までつかって、奥の一室へ、孫の兵庫を呼び入れた。
兵庫は泣き出した。二十八の――しかも千五百石で求められるほどな武士の偉材
流相伝の書」「新陰絵目録」の三つをことごとく兵庫に授けたのだった。
を享くる者の任はゆえに重い……たのむぞ、兵庫」
名づけられるもの。……一太刀、把って、宗矩にも兵庫にも示したいが……」
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「折ふしこの度は、大坂城、聚楽、洛内などの、地震御見舞として、関東より上られ、ここしばらく
しかも、征韓の大役にかかってからとみに落陽寂寞の感ある大坂城の老太閤に比して、今や次の時代を負う人と目されている
聯合は、俄然、活溌な行動を起し、この機会に、大坂城以外の関東勢力を一掃せんものと、すでに大きな陣容のうごきが、京、
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彼の豪勇ぶりは、中国地方に、一躍、柳生流の名を高からしめた。――けれど石舟斎は、その
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(例)大和国神戸
大和国神戸ノ庄、小柳生城の主、柳生美作守家厳の嫡男として生れ
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声が渓川伝いに聞えてきた。――折から、奈良の宝蔵院の僧を案内として、柳生村へ入って来た一行
「奈良の宝蔵院」の住職で、胤栄という変った法師がある。宝蔵院流と
―あの北畠具教卿を訪ねられ、具教卿より、奈良へ渡られたら、胤栄という変な坊主といちど会って御覧なされと
「おお……奈良はあの森よな。月ヶ瀬は、南の方か。ああ暢びやか
たが、家臣三名に松明を持たせて、ここから奈良まで二里足らずの道を、送って行くようにいいつけた。
「奈良まで」
「奈良から何処へおまわりですか」
見えた日は、病室には談笑の声さえ聞えた。奈良の宝蔵院胤栄は、かれよりも十数年まえに歿していた。
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、長野信濃守に仕えて一方の将となり、その主家長野氏も武田信玄に攻略されたので、以来、甲州武田家に随身
「もと上州大胡の城主であったが、後、長野信濃守に仕えて一方の将となり、その主家長野氏も武田信玄に
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ござりまする。――枉げて、御苦労には存じますが、京都までお運び下さいますよう。長政の面目も立ちまする。かくの通り、おねがい
、地震御見舞として、関東より上られ、ここしばらく、京都紫竹村の鷹ヶ峰に、王城御警固の任につかれ、野津の仮屋に
せい。これよりわしと共に、長政殿の案内で、京都にある徳川公の御陣所まで罷り出る。――各※、手足を洗うて
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その人々もみな、紀州家へ、仙台家へ、浅野家へ、各※仕官して一流一派をもう立てている