私本太平記 02 婆娑羅帖 / 吉川英治
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は白い手に持ち捧げられていた。君立ち川、六条などの遊君や白拍子たちだった。月例、欠かさぬ二次会なので、
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散所屋敷とよぶよりは、むしろ、石川城といった方がふさわしい。
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僧では、聖護院ノ法印玄基。ほか数名。
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「これ見よ。関東の府にそむかば、きのうまでの朝臣たりとて、かくの如きものぞ」
資朝、俊基が関東の囚われとなった後も、中央における事変の余震は、一日たり
うちでも、召さるるはいつも、この身ばかり。わけて、関東へのお憤りに、公卿集議の日ごとのお疲れにも、わらわだけは
「これでは、あたかも関東への詫び状か、上が臣下へ、誓書を与えるようなものに似る」
ノ大納言宣房は、七十ぢかい老躯をもって、関東下向の旅についた。
「とはいえ、勅使をして、わざわざ関東へ降されたものを」
まず僧団勢力を、味方にひきいれておくことは、対関東の作戦上には、欠くことのできない策である。――で、天皇
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、寿永、治承の大戦のさいでも、都の北山、嵯峨野のおくには、平家のきずなや権門を遁れ出た無髪の女性たちには
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て、紀州の高野山、播磨の大山寺、伯耆の大社、越前の平泉寺――この地方四大社寺へたいしても、一朝のさいには、
は、これより紀州高野、播磨大山寺、伯耆の大社、越前の平泉寺などへ、内々の綸旨をおびて、忍びやかに御廻国のよし。私
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高氏は一人、ぶらんぶらんと、馬の気まかせに道を扇ヶ谷の方へ歩かせていた。
「かたじけないが、じつは、扇ヶ谷までまいる途中。いずれ後日にでもまた」
扇ヶ谷では、中門から玄関へ打水して、憲房自身、出迎えていた。
と、覚一を伴って、扇ヶ谷の方へ移って行った。
持てと、さっそく試されるに相違ございません。こよいは、扇ヶ谷のお人々も留守、お母あさま、久しぶり、覚一の稽古をお聞きくださいます
母子の来意は、扇ヶ谷からも、すでに通っていたのであろう。折ふし、高氏は不在だった
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、やっと切上げつけて、日野俊基を館まで送り届け、それから四条のわが屋敷へ帰って来たのは、もう夜明け近かった。
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送られた後、機を見て、この一書を、河内国のさる人の許へ、しかと、届けてもらいたいが」
「河内国金剛山の西、水分山のほとりに住む、楠木多聞兵衛正成と申す者」
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その後も、下野国における新田、足利間の小ゼリあいは、何かと、鎌倉表に
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といえば。――晩年、安芸の吉田へ移って、郡山城の芸州毛利家の基礎をなした最初の人が、この時親だったせいで
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「堀川のさる家よ。万珠、ちょっと、いつもの家へ立寄って、もう一献、
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やがて千余人、わざと五条大橋は渡らず、ひそやかに、加茂の下流をこえて行った。
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と、花夜叉の組が申しあわせて、こよいの最終に“天王寺の弱法師”と称する一法師と天狗群の大舞を演ずるための扮装だった。
――天王寺の弱法師
天王寺の
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なぜといえば。――晩年、安芸の吉田へ移って、郡山城の芸州毛利家の基礎をなした最初の人
であろう。――ただ彼が、河内の加賀田をすてて安芸へ下った年代となると、それはいつ頃ともしれないが、おそらくは、
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宮方同心の者みな、暗澹な思いにくれましたが、佐渡へ流され給うたは、資朝卿おひとりにて、あなた様には、解かれ
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も、あれ御覧ぜられませい。かしこの農家の辺りにも、桂川の岸べにも、あのように武者どもが、屯しておりまする」
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もう数ヵ月前から、摂津ノ葛葉地方に、地頭と土民の紛争が起っており、それがなかなか下火になりそうも
、書状などひかえているのでございましょう。――昨今、摂津ノ住吉辺に、小店を構えて、武具馬具の修繕いなどを、表むきの生業と
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これは平家都落ちの夜、仁和寺ノ宮が平ノ経正へ賜わった惜別の歌だった。
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「たとえば、時を待って、河内の楠木多聞兵衛正成をたずねて行け。かならず、そちによい死に場所を与えてくれよう
俊基が鎌倉へ曳かれた折、主から見込まれて、河内の楠木正成宛の一書を托され、それは首尾よく、その人の手
「……とすれば、これから河内へ入るのだし、途中、楠木殿との御対面なども、お胸の
、ここは生き長らえて、よい死に場所をほかに問え。もし、河内の楠木多聞兵衛に会わば、そちに、よい死に場所を与えてくれよう」と、
一朝には、そこまでのお運びにはいたらぬ。この河内はもとより近畿一帯、ひでりの雨を待つように、世の世直しを望む風は
あがめられ、富財も積んでまいりましたが、祖先に河内源氏石川ノ義基を持つ武門のほこりは色褪せてしまい、これでよいのかと
「お心はうれしいが、いざ一朝のせつは、この河内、大和は王軍にとってたいせつな穀倉の地、また後詰のお味方の地
穀倉の地、また後詰のお味方の地。……その河内においても、内々とくに頼みと思し召されておる武門は三家しかない。
さらには、おなじような土豪的勢力をこの河内の山野にもっている錦部郷の錦織の判官代、また金剛山のふもと赤坂の
小半日はつい歩いた。なんといっても、紀州高野と河内との往還である。いざと二人が眼くばせ交わすと、そのたび、何か往き来
そんな根拠のないことなら、大江時親なる兵学者が、当時、河内の山間に住んでいたというのも、あてにならない仮説ではない
、この時親だったせいであろう。――ただ彼が、河内の加賀田をすてて安芸へ下った年代となると、それはいつ頃ともしれ
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かけて、高氏は、供の郎党たちと共に、鎌倉府内へさして帰る途々、馬上の黙想は、いつか、道誉一人のこと
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ふたりを乗せた駒音は、愉しむごとく、トボトボ行く。――宝戒寺の並木、滑川の水音、大蔵への道はだんだんに暗かった。
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終日、生駒山を右に見つつ歩いた奈良街道は、やがて、河内平野の無数な川すじと、
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と、あらためて、屋の後ろの岩湧山や、前面の金剛、葛城の峰々を見まわした。
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表むきの生業として、それを手ヅルに南都、叡山の僧兵やら、諸家へも出入りして、宮方のおうごきなどを、密と
この三月中には、さらに叡山へ行幸され、大講堂の御供養とか、日吉社参とかの、御
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な男らしい。かつは裕福であり、何の不平が、鎌倉にたいしてあるか」
……みんな頼朝になりたいのだ。北条に代って、鎌倉の開祖頼朝なるものに、なってみたいという野望が彼にもある。
骨髄からの鎌倉御家人で生涯して来たこの老武士は、こめかみに、青筋をふとらせて
さきに宮中御産祈祷の件で、その真相調べのため、鎌倉から派遣されていた武者所の雑賀隼人、長井遠江守。
ついに南ノ探題、大仏維貞の東下となり、鎌倉の“断”を仰ぐに至ったわけだが、それも遷延に遷延、今
昼、すでに鎌倉へは、早馬も飛ばしてある。「――はや猶予はなりがたい。探題の
声に聴け。ときの外道は、執権どのを繞って、鎌倉の谷々にこそみな住むわと、人のいうぞ。外道の手下の小外道
多くを語ることも要るまい。俊基の身も、明日は鎌倉に送られる。……今日は別れに帰って来たぞ」
「では、鎌倉へ。……曳かれておいでなされまするか」
明くれば囚人輿での鎌倉下り。――惜しむ夜はもう更けかけていた。
「余の儀でないが、俊基が鎌倉へ送られた後、機を見て、この一書を、河内国のさる
選んだのは、敵を計るためでもある。わしが鎌倉へ曳かれた後には、さっそく六波羅兵がこれへ臨んで、家探しをなし
「さような儀は、鎌倉のみゆるし得ねば、一存での計らいなど思いもよらぬ。……が、
の方が上卿(上官)であり、年上でもある。鎌倉の司断も、おそらく張本人は、この資朝と見るだろう。もし貴公が、主謀
鎌倉の裁きに屈せず、貴公はあくまで言い抜けろ。友を売るなどという小義に
えなかった。日ならずして、護送の列は、鎌倉の府に入る。
「……では、鎌倉へつかわすその御告文とやらを、大炊どのが、ただ今、したためておるの
が違う。もし執権の一蹴に会ったらそれまでだ。すでに鎌倉では、現帝の後醍醐に、御出家をすすめるべきであるとか、いっそ
つまらぬ作為である。当時、彼も鎌倉へは来ていたが、それは日野資朝、俊基の審議に加わるためだっ
およそ、鎌倉御家人の、みな一と癖二た癖もある中にあっては、彼の
「つねに近江と鎌倉の間を往き来しておるため、ついお目にかかる折もなかったが、
を妻に持とうと、なんで初志を変えようぞ。むしろ、鎌倉御家人どもの眼をあざむくにも、徐々に大事を計ってゆくにも、よい
ないでも、そなたに教えて給もるお師が、この鎌倉にないこともあるまいに」
「いえ、鎌倉には、良い師はあるまいと、人も言いますし、ここは長く住む
…妙なことを、お言いやる。……なんで、この鎌倉の府が」
のすべては名だたる武族のみである。――足利ノ庄や鎌倉にいては、いやでも、その人たちの修羅の業と輪廻を共
ついにその場で子の覚一へ約束した。――この鎌倉まで来ている機を幸いに、高氏どのの華燭のお祝いがすみ次第、
お母あさま。そう伺ったら、もう何だか、ここは鎌倉でもなく、都の隅で、今宵を二人で過ごしているような気が
「眉目はよし、芸もよし。鎌倉の白拍子、田楽女数千といわるるが、かほどな者はよもおるまい。道誉
、過ぐる年にも、近江田楽の花夜叉一座を、鎌倉へ連れ下って来たではないか」
であろう。あの女性を末始終よう持つほどな者は、鎌倉御家人あまたな中にもあるまいが、もしあれば、その男の顔見たい
私を、古い平家の女人や平安の女性に比して、鎌倉の世が鋳て生んだ鎌倉型の女子じゃなぞとも」
あの直後。――自分は大番に上り、高氏は鎌倉にとどまり、彼の消息も、噂だけには聞いているが、今では
―近ごろ、北条高時の生母覚海夫人が、やっと捜し求めて鎌倉に請じ、それでしばらくは、ここに留まっているものの、都からも、
京、鎌倉の間は、ふつう十三、四日とされているのに、ふたりはまだ
「いや、鎌倉御家人、一般をいっているのだ。阿呆な主人が、ふた言めには
「ほんに、そなた程も母は知らぬの。鎌倉から西は初めての旅」
「まこと、鎌倉の御繁昌と比べては、思いも及ばぬことばかりよの」
ございますよ。……でも、お母あさん、その鎌倉の内を、まずはようやくのがれ出して、いくらかホッとなすったでしょう。遅かれ早かれ
はようやくのがれ出して、いくらかホッとなすったでしょう。遅かれ早かれ鎌倉の府は、今にきっと、兵馬の巷にならずにいません。あの
「……もしや、おふたり様は、鎌倉の足利殿に、お由縁のあるお方ではございませぬか」
御苦労な。……自分事は、花山院家の雑色なれど、鎌倉へのお使いをすまし、都へ急ぎ帰る途中の者でおざる」
今上、後醍醐のお動きはいよいよ活溌で、鎌倉など、はや御眼中にありともみえぬ。といっても、雲の上の
な気概は、昂まりこそすれ、怯んでなどいなかった。鎌倉の喚問に遭って帰った後は、むしろ一ばい、その反幕精神は、熾烈
彼は、俊基が鎌倉へ曳かれた折、主から見込まれて、河内の楠木正成宛の一書
すでに自分が鎌倉から生還したことは、河内赤坂の僻地にいる正成といえ、聞きおよんでいる
寺院の訴訟だったりだが、なにしろ、朝廷の記録所も、鎌倉の裁きも、いまや訴訟などは、まるきり頼りにならない現状なので、
「鎌倉。鎌倉たアどこだい」
「鎌倉。鎌倉たアどこだい」
毛利時親は、大江氏の族である。だから都や鎌倉では、
しかし、六波羅の評定衆に加えられ、その才はほどなく、鎌倉の執権代長崎高資の一族泰綱にみとめられた。そして泰綱のむすめを妻に
てしまった。鎌倉住居は性に合わぬといって、鎌倉にも行かず、越後の本領は、長兄が継いでいるので越後にも
、はや世に亡いお方とはいえ、御内室は、鎌倉の執権代長崎高資の御一族でおわせられるとか。……さすれば、
、とうに薄れ去っておるし、日ごろのお口ぶりからも、鎌倉の悪政には、事ごと、お憤りをもらしておられる」
口には出したことはない。しかし、われら皆、鎌倉には服していず、事あれば宮方へも馳せ参じよう意気込みでおる者とは
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七里ヶ浜の“大馬揃い”は、恒例、正月二十日だった。
七里ヶ浜大馬揃いの盛観の中にあって、直義もゆうべのことなど、行事の指揮
「当日には、ほど近い七里ヶ浜より、高氏どのを拉し来って、一別以来の御両所に、ここで打ち溶け
ところが、七里ヶ浜のその日、午さがり頃。
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「かつて、伊吹の城で、見とどけておりまする。家柄こそは、正しい源家の裔といえます
「拙者の眼とは、えらく違いますなあ、伊吹の夜では、酒の上とは申せ、お抱えの田楽女に手を
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――ほどなく、峠も越えると、安倍川の西だった。手越ヶ原の官道に添って、両側の並木を綴る賑やか
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。――ここから先にも、清見潟、黄瀬川、足柄、大磯小磯、そして鎌倉口の仮粧坂まで、ほとんど道の辺の花を見かけない宿場は
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「吉野、大峰、葛城、そのほか諸山にわたって、ちと、内々のおくすりが効きすぎた結果で
「なるほど、ここはよい眺めよの。――葛城の峰々、河内平野の水、えもいわれぬ」
わけて、ここ古市は、和泉野の流れや、葛城、生駒の水が落ち合い、曠野の水郷をなしていた。不毛の地だらけ
、あらためて、屋の後ろの岩湧山や、前面の金剛、葛城の峰々を見まわした。
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京極ノ為兼が、武家の迫害にあい、六波羅武士の手に捕われて曳かれた
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…。祇園精舎の初語りもよし、小督、忠度都落ち、宇治川、敦盛、扇ノ与一。どれも嫌いなものはないの」
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本名忍ノ大蔵という者だ。忍というからには伊賀の産。――鎌倉殿から格別なお扱いをいただいて、三百ぢかい
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「河内国金剛山の西、水分山のほとりに住む、楠木多聞兵衛正成と申す者」
の山野にもっている錦部郷の錦織の判官代、また金剛山のふもと赤坂の水分に住む楠木正成といえ、その意味ではみな、相似たる
ともしれないが、おそらくは、やがてこの地方の千早、金剛山から洛中洛外も戦火となって、大乱の険悪さが、ついには閑人の閑居も
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「が、奥州の騒乱は、まだ片づきますまい」
れた彼国の王族のお末裔であり、八幡殿の奥州の役に武功をあげて、かくれなき名誉のお家柄となったもの……
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年つづきの法勝寺行幸やら、また、このたびの東大寺、興福寺、春日御社参といったような車駕のお忙しさは、そも何の
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の本心とは思えませぬ。どうぞ、父上さまから、六波羅ノ庁へ、おとりなし下さいませ。……そのお縋りを仰ぐこそ良人のため
対朝廷の難しさもだが、その僧団扱いにも、六波羅ノ庁は、つねに周到な細心と、惧れをもって、当らねばなら
その維貞も、歯がゆかろうが、ここ六波羅に在って、朝夕に、眼に余る実状を見つつある常盤範貞にすれ
六波羅ノ庁は、公然と、在京中の武家や、大番の士にたいして、
「それこそ、世迷い言よ。証拠はいくらでも六波羅ノ庁にあがっている。わけて、なんじの弟船木頼春の妻が、親の
そのうえ護送の列は、すぐ東海道へは下らず、六波羅の内へ入ってしまった。
一輛の牛車を押ッ包んで来て、それをも六波羅の一門へ追込んだ。
なおこの頃までも、日野の二朝臣は、六波羅の内に、室を分かって、拘禁されたままだったのである。
卯ノ下刻(午前七時)に六波羅を出た二つの囚人輿は、まだ晩秋の木々や町屋の屋根の露
「そちとは、都の六波羅で、別れたきりよの」
「上杉どのから、六波羅の御内人へ、よい伝手を計らわせ給えと、細やかなお添状。……
礼をいわずばなるまいて。したが、礼は六波羅の白洲でいおう。そして日野俊基も、一つ白洲で会わせてやる。主
しかし、六波羅の評定衆に加えられ、その才はほどなく、鎌倉の執権代長崎高資の一族
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ここ三年つづきの法勝寺行幸やら、また、このたびの東大寺、興福寺、春日御社参といったような車駕のお忙しさは、そ
「して、あなた様には、東大寺行幸の御帰洛にも供奉なされず、軽いお身装で、そもいずこへ
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もっている錦部郷の錦織の判官代、また金剛山のふもと赤坂の水分に住む楠木正成といえ、その意味ではみな、相似たる
はやく、時親の門をたたいたのは、ここから遠からぬ赤坂の水分に住む楠木家の一冠者だった。つまり正季の兄、正成である
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時親だったせいであろう。――ただ彼が、河内の加賀田をすてて安芸へ下った年代となると、それはいつ頃ともしれないが
とにかく、それまでは、加賀田の一隠者として、この地にいた時親なので、彼と正成
二人にすれば、加賀田の隠者、毛利時親をここで知ったのは、一つの大きな発見だった
への志もなくなるものか、ここ数年は、とんとこの加賀田へもお見えはない」
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である。――で、天皇行幸とあわせて、紀州の高野山、播磨の大山寺、伯耆の大社、越前の平泉寺――この地方四大社寺
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ている路傍の石から、春の梢霞を越えて、法隆寺の塔が、頃あいな距離で眺められる。
法隆寺の塔をうしろに、この主従の遊山めいた足は、龍田から河内へ向っ
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、そなたも都の水で磨いて、美しい輿にのせ、奈良も見せよう、男山へも共に詣ろうなどと、お上手なことばかり仰っしゃって
龍田の道ばた――つまり奈良河内街道である。
――で、この二人もたちまち声を消して、奈良街道を、西と東に別れ去ってしまったが、おなじ路傍に脚を休め
聖武の帝の御願いらいな車駕の盛事といわれ、奈良の霞も、埃に黄ばんだ程だった。もちろん、供奉の公卿百官
終日、生駒山を右に見つつ歩いた奈良街道は、やがて、河内平野の無数な川すじと、川に拠って営みし
「きのうすでに、奈良街道にて、後になり先になりしていた白犬があった。その
、そもそもそッちの落度だったのだろう。――きのう奈良街道で俊基朝臣が、おれの面を、似絵(似顔絵)に描いてやる
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で、勅の告文は、秋田城ノ介が代って拝受し、一行は、ひとまず定められた宿所に入っ
「あいや、秋田、待て」
秋田城ノ介は、三方を押しいただいて、広間の中央へ戻って坐っ
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次代執権は、金沢貞顕ときめられたが、何か内紛の結果だろうか、四月に入る
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評定衆に加えられ、その才はほどなく、鎌倉の執権代長崎高資の一族泰綱にみとめられた。そして泰綱のむすめを妻に娶った。
亡いお方とはいえ、御内室は、鎌倉の執権代長崎高資の御一族でおわせられるとか。……さすれば、北条氏と
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高尾も、鞍馬も。
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掬いだし、遊女や白拍子のする“屏風隠れ”も“住吉拳”も、また男の赤裸趣味や社交性とひとしく、数百年の変化も
などひかえているのでございましょう。――昨今、摂津ノ住吉辺に、小店を構えて、武具馬具の修繕いなどを、表むきの
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は執権高時の御病気伺いなどもすまし、それから郷里上野ノ世良田へ帰ろうという急がぬ解番のからだなので、つい引きとめられ