平の将門 / 吉川英治
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、五十余日を費やして、やっと、京都のすぐてまえの、逢坂山まで、たどりついた。
相馬の小次郎が、昼、初めて、逢坂山の高所から眺め知った平安の都は、決して、彼の幻覚ではない。
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好きである。猿島も葛飾も、筑波や結城も、この豊田郡も、何かといえば祭りだった。
すでに彼は、豊田郡の本拠を、占領して、狼藉、掠奪、破壊、やりたい放題なことは
に倍するほどな人数が、山川草木まで、焼けいぶっている豊田郡へ集まって来た。
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京都に入る第一歩を、あの高い所において、加茂川や、大内裏や、柳桜の、折ふし春の都を、一望して、
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人は、烏丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、
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た。市街の中央部には、遠くからでも明らかに皇居の大内裏十二門の一劃とわかる官衙殿堂が、孔雀色の甍や丹塗の門
、下総国、亭南の地とする。南面して、皇居を作り奉らん」
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燕が川を擦るような迅さを見せて、たちまち、加茂の向うへ渡って行った。
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が、道に平伏していた。郡司や府官は、堺まで出迎え、宿舎には、砂を撒き、白木の御所を調え、ここでも
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――と。その頃、赤城山の裾から遠くない阿蘇ノ庄田沼に、東山道の駅路を扼して、館、砦
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、足もとの若草にだけ見えるが、遠い視界の山々は、八ヶ岳でも、吾妻山脈でも、雪のない影はない。
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と、たくさんな海賊兵は、もう瀬戸内を上って、摂津、難波ノ津あたりに時を窺っている」
死人は、穴彦に送られて、淀から小舟で、摂津へ下って行った。
きたので、近頃は、四国の北東から、淡路、摂津の近海まで、悠々と横行したり、そして時には、この淀川尻の、
将門に大乱を起させ、海上からは、純友一党が、摂津に上陸して、本格的な革命行動へ持って行こうというのが、この仲間
彼がつねに気脈を通じている藤原純友が、海上から摂津に上陸しようという計画である。
「純友の平定には、さらに、援兵を急派し、摂津から兵船百艘をさし向けました。……が、将門には。……やはり
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てゆく右大臣家は、小一条のお館だけれど、九条にも御別荘があるし、河原の石水亭も、お住居のひとつな
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郎党をつれて、丘づたいに、多摩河原を辿って、調布にのがれ、府中の国庁には、異変はないと知ったので、府中へ
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「何しろ、碓氷越えは物騒です。佐久あたりまで、お連れください」
、途々、何度も耳にした事だし、また佐久ノ御牧でも今、
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と、また生活関心は、未開土の東国などよりは、難波津から瀬戸の海につづく南海方面のほうが、はるかに、身ぢかなものだった
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「御子が、蝦夷の娘と、馬糧倉の中で、昼間から、歌垣のように、交く
、正しく、帝系を汲んでいるが、そのあいだに、蝦夷の女の血も、濃く、交じったであろうことは、いうまでもない。
山岳で、つねに、平野の豪族たちに反抗している蝦夷ばかりの柵の者が、乱を起したという早馬が来、国香、良正
だ、貴様は。桓武天皇からの血を辱めやがって、蝦夷の奴婢と、交くわるなどとは、あきれた呆痴者だ。――死ん
後には依然、小次郎を取囲んで、はなしにのみ聞く、蝦夷の子でも見るように、好奇な眼と、疑惑とを、露骨にあびせ
「おぬしは、まるで蝦夷の子みたいな、都上りの童だった。あれから何年たったろう。……
までが、蝦夷萩と、そっくりである。やはり、東国の蝦夷の血をもっていたのかと、小次郎は、愛着に、燃えるような
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留守におき、自身は将平以下、一族郎党を数多ひきつれて、深大寺の境内に、宿営していた。
彼は、深大寺まで迎え出て来た武蔵権守の興世王と介ノ経基へ、そういった。
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下総、上総、常陸、下野、武蔵――と見わたしても、これほどな馬数と、また、豊かな
土豪で、俵藤太秀郷というのが、なんでも、下野ノ牧の馬やら、たくさんな土産物をもって、お礼に上ってくるとか
「下野の秀郷の名は、私の郷のほうへも聞えています。けれど、
「それが、一昨年、赦免になって、下野に帰っていたのだ。一年は、謹慎していたが、もう
かれの居館が、下野の田沼に近い田原にあるところから田原ノ藤太ともいわれ、俵藤太と
通達された範囲は、武蔵、安房、上総、常陸、下野の国々である。ところが、偶然にも、同じその年十一月末に、
と、それの督促に、常陸、下野、上総、安房、武蔵などを、歴訪している彼であった。
しかし、貞盛はなおこれから、下野、上野の諸国を廻り、田沼の田原藤太秀郷にも会う予定であるといっ
「されば、私としては、武蔵、下野、常陸、安房、上総と、国々を歴訪して、官命にこたえ、各※
彼は、それをさらに確証づけるために、武蔵、上野、下野、常陸、下総など、五ヵ国の国衙から、解文(官庁の証明)を
「ここから遠くない下野の田沼におります。あなたとは、姓も同じ藤原氏ですが、所の
。その折の彼の語気で、彼は決して、今の下野の押領使ぐらいで、満足しているものではないことを見抜いています。
貞盛は、常陸から山越えをしては、幾たびか、下野の田沼へ往来していたのであったが、将門方には、まだ
な意気を描いて、「――これから山越えして、下野の田沼へ参ろう。かねてお味方を頼み入れてある田原藤太秀郷どのに、急を
「旅だ、旅だ。山越えして、下野の田沼へ行くぞ。大急ぎで、旅装をせい」
国庁の兵火を見捨てて、山づたいに、常陸から下野へ逃げ奔った貞盛の主従が、秀郷を頼って、やがて赤城山麓の田原の
これを対岸の火災と見てはいなかった。いつ、下野へ火の粉が飛んでくるかもしれないと警戒していたし、また、
なって、十二月十一日、豊田の館を発向し、下野の国府へ攻めて行ったのが、彼として、今や公然たる叛軍
下野の国府へ、軍勢が着くと、一戦を交じえる者もなく、勅司藤原
、為憲を追い、転じて、破竹の勢いで、上野、下野、相模、武蔵、伊豆、上総と、いたる所の国庁を占領し、降人を
は、押領使秀郷が、檄を発して、その一族と、下野一円にわたる兵力を、田沼へ召集するのを見届けてから、
「貞盛に、呼応して、田沼の藤原秀郷が、下野の兵四千をひっさげて、山越えに進軍してくる」
、彼は見得もなくあわて出した。秀郷の老練や、下野の武力には、脅威も抱いている。また、押領使たる彼の地位へ
斬り死にした者、百九十七人というのが、後に、下野の国庁から都へ報告された数である。
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丸に訊くと、それは利根川の入江になっている土浦の市だという。
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、お身の生れた下総の豊田郷から程遠くない常陸の笠間だ」
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奪り返しをやったりし出して、いよいよ、純友の名は、四国では、英雄視されていた。
歌人で地方官吏だった紀貫之も、任地の四国から都へ帰る途中、ここを通って、水村の遊里の繁昌を、「土佐
という説を主張したが、それでは、浪華から四国への船便に、また七日も待たねばならぬ。いずれまた、上洛する
おまけに、比較的、被害のない四国、九州などの西海地方では、海賊の蜂起が、頻々として、聞え
の無力さがだんだん分ってきたので、近頃は、四国の北東から、淡路、摂津の近海まで、悠々と横行したり、そして時に
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「平泉の人買いに、誘拐かされたか、野盗の群れに、攫われたやら
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も、知らない者はなかった。今から十三年前、筑紫の配所で死んで以来、なぜなのか、神格化されて、崇めねば
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等――すべて十八人、重罪により配流といい渡され、伊豆の南端へ、流されたのであった。
て、破竹の勢いで、上野、下野、相模、武蔵、伊豆、上総と、いたる所の国庁を占領し、降人を容れ、軍の威容を
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。その後、大工事をさせている。以前にまさる大館が、もう八分どおり竣工しかけていた。門前町も、復興してい
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まぢかに、赤城の長い山裾が、くっきりと夏空を劃して見えた。田沼の宿は、東山道
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「いや、王城は、下総国、亭南の地とする。南面して、皇居を作り奉らん」
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、一日中、杯を離しません。都はおろか、九州の果てから、この坂東地方の事まで、じつによく何でも知っている
おまけに、比較的、被害のない四国、九州などの西海地方では、海賊の蜂起が、頻々として、聞えた。
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すべてに亘っている。――禁門外の京中はもちろん、畿内、全国の司法も視、地方には地方の検非違使を任命してある。
帝の皇紀一五九〇年という時代の日本のうちでは、畿内のそとはもう“外国”といったものである。東国といい坂東といえ
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筑波の歌垣のように、夜もすがらの神前で、かがりも焚かず、他の人妻と
荘園があった。景行は、父の遺骨をもって、筑波のふもとに祀り、そのまま、住みついて、地方官吏の余生を送っている者
「将文は。……筑波の叔父(良正)の所へ、行ったわけか」
た。大叔父の国香は、風邪ぎみといって来ず、筑波の叔父も、旅行といって、姿が見えない。上総介良正だけが、
「筑波の郎党たちです」
鬼怒川)の大河であり、新治、常陸の平野と、筑波の山が、彼方に見える。
、お館にも、知らずにとはいわないで、筑波への通り道に、わざわざ立ち寄ったと仰っしゃって下さい」
この大水郷を繞って、結城、新治、筑波、豊田、猿島、相馬、信太、真壁の諸郡があり、その田領の多く
泊るものと、独りぎめして、そう訊いた。――筑波の叔父共のやしきへ、と将門が答えると、
どれも皆、筑波を背にした麓の人里だ。
の眼は、眼の底から、無意識に燃えだした。筑波の山影を、はるかに、振りむいて、しばらく、ものもいわなかった。
良兼、良正を、筑波に訪ねて、彼が肚にもって帰ったものは、それだった。いや
郷土は祭り好きである。猿島も葛飾も、筑波や結城も、この豊田郡も、何かといえば祭りだった。
二月。筑波の風はまだ冷たいが、宏大な館の築土にも、中門の籬に
ついに翌日も翌々日も、敵地を荒しつづけ、その範囲は、筑波、真壁、新治の三郡に及んだ。
しかし、常陸源氏や筑波の良正、良兼などから見れば、事態は坐視できないものであった。殊に
さんざんな目を見て、水守のやしきへ帰ると、すぐ筑波の兄良兼の所へ行って、うらみをいった。
「ゆうべ晩く、筑波の者が、門を叩いて、告げに来てくれたのです。――
――察するところ、羽鳥の叔父は、昨夜のうちに、筑波を発し、水守の兵を合せて、この豊田へさして急いでいるにちがい
悪鬼の跳躍をほしいままにして、その日の夜半頃、筑波へひきあげた。
陽も高くなった頃、筑波、常陸、水守の兵をあわせた大軍が、えんえんと、長蛇の影を見せ
、おいおいと手放しで泣き、洟水をすすりあい、そして遥かに筑波の山影を望んで、
三郎将頼や四郎将平たちは、叔父の良兼勢が、筑波へ帰ると、ただちにまた、豊田の焦土へ、帰って来た。
将門は、兵千八百人をつれて、筑波へ立った。なお六、七百の兵を、石井の営に残して、弟
と、一族をつれ、逸早く、筑波をこえて、弓袋山へ逃げ籠ってしまった。
もそれぞれ届いているはずだ。なぜ、兵を出して、筑波に拠り、良兼殿を助けないか)
国庁は蜂の巣のような存在になり、貞盛が意図した筑波への出兵などは、到底、望みもされないてんやわんやに陥ち入ってしまった
筑波の麓の柵に、同族を糾合して、羽鳥の良兼は、石井ノ柵
、その時、馬子や百姓の中に交じって、柵の内へ筑波の兵をお入れになれば、内と外との両攻めに会わせて
など、東国の守や介が、任命され、そのほか筑波の羽鳥の良兼、良正の子や甥など――あの平公連、公雅といっ
昼も消えぬ霜の蘆荻の白々とした上に、筑波の山を――遠くをふり返れば、富士も見えた。
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純友が二度目に上洛したとき、将門は、彼と叡山の一角へ登った。酒を酌みながら、共に、青年客気の夢に酔い
純友とが、杯をあげて誓ったとかいう――叡山の約だ」
なのだ。酔えば必ず出る語気や涕涙であって、叡山の日と限ったことではない。ひとつの慷慨癖だろうくらいに将門は
、そんな酔中に、あっさり結ぶわけもない。それを「叡山の約」などと、物々しく、今ごろ持ちこまれては、まごつかざるを得なかった
、おれは、その事かと聞いていたのだ。叡山の約とは、何をさすのだろうか」
「おれにそんな力はない。叡山の約束なら、あれはもう反古にしてくれ」
「将門とおれとは、叡山の約がある。――いまや、その誓いを、ほんとに見る日が来
へ攻めのぼって、志をとげたあかつきには、あの思い出の叡山の上で、手を握ろうと。……純友がそう申したと、忘れず
その“叡山の約”なるものを、将門の方では、てんから問題にしてい
まさか、純友へは、彼が叡山の約などは、一笑に附しているとも、いえないので、
「うム。叡山の約は、おれの恋なんだ。それを実現して、劇的な再会
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そして、彼は折々、ここから、多摩の府中にある国府ノ庁へ、通っていた。
、丘づたいに、多摩河原を辿って、調布にのがれ、府中の国庁には、異変はないと知ったので、府中へ逃げて行った
府中の国庁には、異変はないと知ったので、府中へ逃げて行った。
武蔵ノ国の府中へ出向いていたのである。
「では、府中へ帰って、吉左右を、お待ちなさい」
そして、府中の国庁で、日時をきめて、和解の式を挙げようとなった。その日どり
そして府中の火光と叫喚を見捨てて、夜どおし馬を急がせ、下総の領内へ向って
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そのほか、将門伝説は、関東地方一円にあって、挙げきれない程である。けだし、将門の子孫とか
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清水寺が峰ふところに建立されても、このあたりは夜に入ると、怪鳥の
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浅草の森、根津、本郷辺の原始林、そして、太やかな大河が、高地の鬱林の間
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下野国、田沼の郷、田原の館では、右馬允貞盛が、年の暮から正月にかけ
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発表され、社前の満庭を、大宴会場として、神楽殿における奏楽と巫女たちの舞楽のうちに、万歳、万々歳を三唱して
来た興世王と不死人も、小部屋にはいりこんで、神楽殿の伶人たちを呼びにやったり、巫女を集めて来たり、そして自分たちも
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いったい、飛鳥、奈良などの時世を経、ここに遷都した初めに、その規模や企画
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初めの四、五日は、芦ヶ谷(安静村)の漁夫の家に、妻子を隠して、近くを警戒しながら潜伏して
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を、苦悶するように、この大平原を遠く繞る、富士も浅間も那須ヶ岳も、硫黄色の煙を常に噴いていた。
へ坐って、もう一ぺん、行く雲を眺め、那須、浅間、富士の三煙を遠望してみたい――と、それは、都に
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殊に、出羽の俘囚(蝦夷の帰化人)が、国司の秋田城を焼打ちしたというような飛報は、いたく堂上の神経をついた。おまけ
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北武蔵から、秩父、上野へわたる長い連山の影が、落日の果てに、紫ばんで、暮れ
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「だが、見ろ。父からの館も、門前町も、御厨の建物も、みな火や煙にくるまれている。退いては
まさる大館が、もう八分どおり竣工しかけていた。門前町も、復興していた。
にかこまれて、むっそりと、苦々しい眉をひそめながら、門前町の辻を、街道の方へ、ゆらゆら、馬首を向けて行った。
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筑波山の麓には、わずかな菅家の荘園があった。景行は、父の遺骨
人の細長い影が地に連れだって行く。そして、行く手の筑波山は、紫ばんだ陰影をもって、鮮らかに、近々と見えるのだが、これ
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ぬが、どうして、間がな隙がな、那須、宮城などの、東北の俘囚や、四隣の豪族が、一尺の土地でも、
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ク都ニ帰リ着クコトヲ得タリ――という姿で関東から逃げ帰って来たのであるから、
元祖関東者
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人買いは、東北地方から、野生の労働力をあつめて、近畿や都へ売りこみ、都の貧しい巷から
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――と。その頃、赤城山の裾から遠くない阿蘇ノ庄田沼に、東山道の駅路を扼して、館、砦をかまえ、はるかに、坂東の
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気がつくと、一乗寺の峰のふところから、白い雲が、ゆるぎかけていた。その辺りの白雲
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から運搬させ、その六条の邸にたたえ、陸奥の塩釜の景をうつして、都のたおやめを、潮汲みの海女に擬し、驕奢
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「あちらでは、仁和寺の式部卿宮だの、右大臣家や九条師輔様などに、なんとか
貞盛が、若年から愛顧をうけている仁和寺の式部卿宮の許へも伺った。また、弟の繁盛が仕えている
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常陸の行方、河内、那珂郡などの諸方からも、なお続々、国境の変を聞いて、国府の
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江戸の神田明神もまた、将門を祠ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。
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だ。――というて、この信濃路、山越えして諏訪へ抜けるか、千曲の川原を渡って、更級、水内から越後路へ奔る
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こそ。平貞盛が、将門を召すの官符を奉じて、常陸国へ至れるをや。
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たのは、四月二十四日といわれ、遺骸は、江戸の庄芝崎村の一寺や、あちこちの有縁な地で、分骨的に葬ら
江戸の神田明神もまた、将門を祠ったものである。芝崎縁起に、由来が
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少弐ぐらいまでは、勤めたが、純友にいたっては、伊予の僻地で――六位ノ掾という低い官位のまま捨て子みたいに、都
伊予にいても、中央の政令といえば、私情の反抗心が手つだって、
「どうだ。そのあとで、おれに、伊予の掾から介へ、一階級ほど、昇格の辞令をいってよこした。…
――「ほかでもないが、いよいよ、純友たちが、伊予ノ国へ帰るというので――その送別を、どうしようか、という相談だ
伊予へ帰る藤原純友を始め――小野氏彦、紀秋茂、津時成の四
、江口へ誘われました。それは、親しい友が、伊予ノ国へ帰るので、送別のため、彼処の水亭に、集まったのでございます
「はい。伊予の六位ノ掾、藤原純友です。また、紀秋茂や小野氏彦たちと
久しぶりに、また、伊予の藤原純友が、上洛した。――そして、純友が滝口へ誘いに来
「伊予にいれば、国司の腐敗や、郡司の弱い者いじめが、目にふれて
「見てい給え、こんど、伊予へ帰ったら、おれは必ず、何かやる。――小次郎、ここ数年の
小次郎は、いい紛らして、すぐ帰った。――そしてただちに伊予の純友へ、書状を送った。
家にいた頃。――一年、藤原純友が、伊予ノ国へ帰るというので、友人ども大勢が、一舟を棹さし、江口の遊里で
窮民に、慈雨と希望を与える者が現われたら、それは伊予の純友だと思ってくれ。――君も坂東の曠野に生れ、しかも、
(不死人の生死が分らない。分ったら、伊予へ、知らせてくれ)
て、純友や、紀秋茂や、津時成などが、伊予に帰るのを、江口の遊里まで、送って行ったことがある。和主
「伊予の純友だ。……純友のしわざだ」
からまた、南海に剽盗が蜂起し、騒乱の被害地は、伊予、讃岐、また瀬戸内の各地にわたり、朝議でも、捨ておきがたしとなって
来ない。理由は――今や、南海方面には、伊予の純友一類の海賊が、頻々と乱を起しており、また、坂東平野に
「伊予の純友一類が、南海ばかりでなく、近頃は、つい淡路や津の海まで
「伊予の純友と、たくさんな海賊兵は、もう瀬戸内を上って、摂津、難波
それも初めは、伊予の日振島を中心に、ある限界を出なかったが、海賊の経験が、
のです。しかし、何せい時を同じゅうして、またぞろ、伊予の純友が、内海に乱を起したため、都は、海陸からの腹背の
、やがて西海のもくずと消え、さしも、猖獗を逞しゅうした伊予の巣窟も、陥落してしまったが、あとの世まで、妙な陰影は
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ところが、偶然にも、同じその年十一月末に、富士山の大噴火が起った。そのため、ちょうど官符をうけた諸地の地殻が
おお、西の空、えらい黒煙だ。数日前から、富士山が爆発したという噂だったが、あれがその煙だろうか。……
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と協謀し、三千余の兵を発し、恣に、兵庫の器仗をとり出して、戦ひを挑む。こゝにおいて将門、やむをえ
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横山ノ牧へ、行くんでしょう。そしたら、途中の武蔵野で、殺されますよ。わたしは、叔父御さまたちが、密談している
は出ても、遠くへ行くのは、およしなさい。武蔵野は通ってはいけませんよ」
――殺されますよ。武蔵野を通ると。
た。けれど彼は、なんの不平も思わず歩いた。武蔵野の端から端へ出るまでを、三日も四日もかかって歩いた。
に、噴煙をあげていた。そして、風向きにより、武蔵野の草も白くなるほど、灰を降らした。小次郎は、髪の毛の根に溜っ
富士は富士のままである。武蔵野は武蔵野のままである。また、坂東の平野も、丘も、大河も、
富士は富士のままである。武蔵野は武蔵野のままである。また、坂東の平野も、丘も、大河も、小川も
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むかしは、祇園の末寺であったらしいが、いまは廃寺同様に荒れはて、不死人等の住む
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、将門を刺戟していたものとは思っていない。もとより両国間に戦闘が起ろうなどとは、夢想もしていない人だった。
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――はるか西方に豊島ヶ岡や飯倉の丘陵(後の芝公園附近の高台)が半島のような影を曳いて望まれ、その方角に
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いる。小次郎は、憎まれ口でも叩きたかったが、京都へ放たれることは、意外な歓びだったので、それをいう余裕も
野の自然児は、こうして、家郷千里の想いもする京都への初旅を、いそいそ西へ向って立った。延喜十八年。小次郎
は、生国の下総から、五十余日を費やして、やっと、京都のすぐてまえの、逢坂山まで、たどりついた。
未来夢までを話し話し、道づれになって、いつか、京都の街なかを歩いていた。
た。初めて、不毛の坂東曠野から上洛って来て――京都に入る第一歩を、あの高い所において、加茂川や、大内裏や
のですか。これは、羨ましいことです。いつから、この京都においでなので」
「お身が、豊田郷から、京都へ出た、翌々年のことさ。もっとも、兄の方は、それよりずッと
も濃い、いや、他人にしても、異郷千里のこの京都で、初めて、同じ故郷の、同じ坂東平野の土に育った人間に会っ
また近年、下野ノ掾を任ぜられ、その系図、縁故、京都との折衝などにおいて、いよいよ地方的な勢力を加えていた。
ていた。それもあって、官職を得、早くから京都へも出て、大番も勤めたり、また近年、下野ノ掾を任ぜられ
十六、はるばる、坂東平野から、都へ上って、初めて、京都を見た日の美しい夢や希望と、今、見ている思いとで
一方。――彼は京都へ、早馬を立て、書状をもって、今度の事件と、大掾国香の
工作も、大いに必要なので、ひとまず、彼はまた、京都へひっ返す事になった。
その頃、坂東地方から京都への往還には、東海道と東山道の二道が動脈となっていた
京都へ上っては、政治的工作に奔走し、常陸へ帰っては、国々の
この年(天慶元年)の頃、京都には、僧の空也という者があらわれて、辻に立ち、念仏を
任地の官職を擲って、京都へ逃げ帰ってしまった源経基は、
携えて、やがて彼は、ありのままを忠平に報告すべく、京都へ帰って行ったのである。
と家人共は置いております。――が、自分は京都とこの地方を往来しているので……まあ、萍のような境遇
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いったい、飛鳥、奈良などの時世を経、ここに遷都した初めに、その規模や企画も
勅使は、奈良へゆき、叡山にむかい、また洛中洛外の山々寺々に命じて「逆賊調伏
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殊に、出羽の俘囚(蝦夷の帰化人)が、国司の秋田城を焼打ちしたというような飛報は、いたく堂上の神経をついた
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らの洲や沼や自然なる泥土が、後の千代田区、中央区などである)
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(それらの洲や沼や自然なる泥土が、後の千代田区、中央区などである)
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北武蔵から、秩父、上野へわたる長い連山の影が、落日の果てに、紫ばんで、暮れて
しかし、貞盛はなおこれから、下野、上野の諸国を廻り、田沼の田原藤太秀郷にも会う予定であるといった
彼は、それをさらに確証づけるために、武蔵、上野、下野、常陸、下総など、五ヵ国の国衙から、解文(官庁の
おられるのじゃろ。官符を布令て、なぜ相模、武蔵、上野などの諸国に号令し、また一刻も早く、朝廷からの追討軍を仰が
その月十五日には、もう彼の大兵は、上野へ侵攻していた。
、貞盛、為憲を追い、転じて、破竹の勢いで、上野、下野、相模、武蔵、伊豆、上総と、いたる所の国庁を占領し、
守に叙せらる。御厨別当経明の子多治員経を上野守に。――文屋好立を安房守に。まった、平の将文を
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き耀きを放ッて、一大聚落をなしており、朱雀、大宮などを始め、一条から九条までの大路や、横縦三十二筋の道路
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、上総の浜を出て、武蔵の芝崎村(後の浅草附近)へ向っていた。――で、船がいま、ちぬの浦
浅草の森、根津、本郷辺の原始林、そして、太やかな大河が、高地
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「お疲れでしょう。ともあれ、こよいは、私の渋谷の館へお泊りください」
郎従たちは、途中で松明を点した。そして、渋谷山の経基の邸へついたのは、もう夜更けであった。
数日の間、貞盛は、渋谷の館へ滞在して、彼等の密議にあずかっていた。――
、長田真樹の二人を連れ、やがて数日の後、この渋谷山から東山道へ立って行った。
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を豊島郡といい、南を荏原郡と称し、芝の赤羽川をその境界としていたのである。
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いうて、この信濃路、山越えして諏訪へ抜けるか、千曲の川原を渡って、更級、水内から越後路へ奔るか、二つの
そして、千曲の河畔へ出たと思うと、何ぞ計らん、渡船小屋らしい物を
、初めの優勢に、奮い出して、「この隙に、千曲を駈け渡ってしまえ。多寡のしれた将頼の手勢、恐れることはない
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、徒士、あわせて四十人ほどの主従は、この日、小諸附近から小県の国府(上田近傍)あたりまで、道を急いでいた
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ノ如ク追躡シ来ル。二十九日、信濃小県国分寺ヲ通グルニ、既ニ将門、千曲川ヲ帯シテ待チ、前後ヲ合囲
こういう郷里に、国分寺時代の創建にかかる大宝八幡があるのは不自然ではない。境内も広かっ
同国の袖ヶ崎の関や国分寺も、襲われている。
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江戸の神田明神もまた、将門を祠ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい
初めて、将門の冤罪を解いて、その神田祭りを、いっそう盛大にさせた人は、烏丸大納言光広であった
も奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を、勅免祭りともいったという。
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、明治頃まで、将門の首洗い池があった。また、日本橋の兜神社、鎧橋などの名も、みな将門の遺骸とか、遺物
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千曲川
山岳地帯は、まだ雪融もしていないとみえ、千曲川の水は少なかった。渺として広い河原に、動脈静脈のような
太政官に訴え出た。その上訴文の一部に、彼自身、千曲川の難をこう書いている。
二十九日、信濃小県国分寺ヲ通グルニ、既ニ将門、千曲川ヲ帯シテ待チ、前後ヲ合囲ス。我ハ小勢ニシテ大敗スルモ、貞盛
「む。千曲川の難は、その途中の事であったよな。やれやれ、将門の
だが。その貞盛は、さきに自分が、信濃の千曲川まで、追い捲くし、ついに、長蛇は逸したが、おそらく、骨身に沁む
その駆使する兵馬の迅さ、それは、かつて信濃路の千曲川に追い詰められたときも、いやという程、身を以てその経験を