私本太平記 01 あしかが帖 / 吉川英治
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なるほど、これは自分たちの国元、関東などでは見られない。
関東調伏ノ御願。
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「越前」
「さいぜん生国は越前とか申したが」
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初期において、佐々木系は二つに分れ、一は江南の六角家、一は江北の京極家となっている。
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、直々のお訴えを披瀝して、夜半もすぎる頃、扇ヶ谷のおやしきに引きとられるや、ただちに行けと、われらに、この飛脚をお
駒は、扇ヶ谷に近づいていた。
やがて右馬介は、いとまを告げて扇ヶ谷を立って行った。そして翌日はもう、今宿から相模野の野路を、北
右馬介は、高氏を、扇ヶ谷の門へ送った上で、すぐ大蔵へ向った。国元から来た供人ら
一方の高氏は、扇ヶ谷で、
扇ヶ谷から、ここへ移って来たのも、つい四、五日前である。
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こたびこそは、いッその旅、都だけかは、四国中国までもと、期していたのだ」
奥州北津軽から、四国へ帰るという一僧侶が、長柄の船待ちで、しゃべっていたものである
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「おそれながらあなた様は、下野国足利ノ庄の若殿、又太郎高氏様と見奉りますが」
丹波篠村ほか数ヵ村は、下野国とは遠く離れているが、足利家代々相続の飛び領の地だった。
「おなじ守護大名ながら、下野国の御家風と、ここの佐々木屋形では」
「……そなた、下野国の御厨にいたことはないか」
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「――禁裡大番の武者、美濃国の住人土岐左近頼兼と申すもの。この正月にて解番となりしゆえ、国元
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、二人の姿は、方角もまるで逆な難波ノ津(大阪)の端れに見出された。
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「では、伊吹山の中腹か」
城の大庭は夜がすみだった。すぐ真上の伊吹山すら影もない。
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咒法の精を凝らし、かたがた、祈祷僧を通じて、叡山そのほかの僧団勢力と、密々の秘契をおすすめあるものと思われる。
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だの、天野山金剛寺の名酒だの、遠くは、博多の練緯酒までが輸入されてくる有様なので、請売りの小酒屋
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、両六波羅には常詰の武士二千は欠くまい。長門、筑紫の探題の兵も、いざといわば、いつでも京へ馳せのぼせよう。関八州
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伊吹ノ城から遠からぬ近江国犬上郡の不知哉川の田楽村で生れたので、名も“不知哉丸”と、かりに名け
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ここから上流地方を眺めやれば、赤城、榛名、碓氷など、名だたる山波ばかりである。だからいったん豪雨となれば、
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「されば、左には摂津の六甲、龍王岳。右には、生駒、金剛山のはるかまでが霞の中
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「それも、敦賀ノ津とやら聞いているばかりなのです」
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蒙古再来の脅えはいまだに失せておりません。そのため九州探題の下には、博多警固番をおかれ、常時、沿海の防禦にそなえ
異な船影を認めるたび、すわ、元兵の襲来ぞなどと、九州鎌倉の往還を、あわてた早馬がムダ駈けする例も、ままございますので
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といえば自然飲み食いか男女の関係にかぎられている。筑波の歌垣に似た上代の遺風が今なお祭りの晩には行われるほどだっ
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「ともあれ、異変の兆しは、蝦夷の空だ。仔細は船宿で話してくれる。はやく参れ」
「ほう。……では、蝦夷の空は戦かいな」
申す者よ。うそでない証拠も見しょう。きのう今日、蝦夷の津軽から兵乱の飛報が都に入っておる。――因を洗えば、
も、知りたいのは、その後の世上のうごきである。蝦夷の乱は、どうなったろう。都における若公卿輩のうごめきは?
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た。――が、海道もここまで来れば、富士、箱根はもう眼のさき。はや帰心ひたぶるな高氏だった。
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丹波を去ったのは、先おととい。ゆうべは近江愛知川ノ宿だった。そして今日
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た大屋根を振向いた。――そこの門前近くには、八幡宮の放生池から来る清流に架けられた朱の橋がある。で、それを
、武家やしきでは軒なみ闘犬を養っていたし、わけて八幡宮の東の鳥合ヶ原は、その上覧桟敷やら御愛育のたくさんな御犬寮
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「――が、難波の諸所も、はからず見ましたこと。このたびは、ぜひこの辺でお
難波の旅寝をその夜かぎりとして、次の日の主従はもう京へのぼる淀川舟
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の列はまだやっと、武蔵国比企郡の低い山すそ道を、入間川の方へさして行くのが小さく見られていたにすぎない。
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、左には摂津の六甲、龍王岳。右には、生駒、金剛山のはるかまでが霞の中に」
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には、きっともう一度、都へ上る日があろうぞ。鎌倉のありかたと言い、眼に見た都のさまと言い、これがこのまま
「さようで。話ぶりでは、鎌倉から紀州熊野へ、何かの御用で行った帰路の者かと察しられます
。あの傲慢な生き物が、わしには、まざと、鎌倉の執権殿そッくりに見えてきたのだ。そこが酒だな。
「とかく、故なき上洛は、鎌倉の幕府の忌むところでございまする。が、父貞氏の健やかなうち、少しな
よいではないか。わしはおもしろいと思うておる。ただし鎌倉の執権殿と、そなたの母者には、べつな意味で、いずれへも聞か
「それなん鎌倉の執権高時の内管領、長崎円喜の子、左衛門尉高資と申す者よ
だから今の世には、鎌倉のばさら執権の下に、ばさら御家人、ばさら市人、ばさら大尽、ばさら尼、
「鎌倉はよくご存知でしょうな」
「たしか、足利殿の鎌倉の別邸は、大蔵ヶ谷であったと思うが」
「いや、その鎌倉の家には、幼少数年はいたが、以後、多くは足利の地
は、あきれ返るに違いない。これが天下の首府かと、鎌倉の腐えたる醜さに、今から、驚かれぬご要心でもして
「この道誉とて、鎌倉の恩寵をうけた一人、なにも世変を好むものではないが、かなしいか
道誉は、さらに、鎌倉の秕政や腐敗ぶりをかぞえたてた。武家幕府の基幹である武家すらも、心
と意見が割れては、家中もまとまらず、わるくすれば鎌倉へ洩れる惧れもある。それを思えば、日野殿(蔵人)との御密談
「いずれは、小殿のお国でも、鎌倉にも負けぬほどな田楽流行りを見ることかもしれませぬ」
が、貞氏はついぞここには見えなかった。久しく鎌倉の大蔵ヶ谷の方にいて、国へは帰る日もないとみえる。
高氏拘禁の役目をおびてきたその武士どもは、鎌倉派遣のものではなく、足利ノ庄とは、つい隣国の、新田小太郎義貞
「鎌倉におわす父君におききなさい」
おいのち一つにも代えられまい。いいえ、義貞殿から鎌倉の府へ、こよいの喧嘩を、もし悪しざまにでも上訴されたら、もそっと
「それや鎌倉のおさしずにあること」
「よろこぶのは、近国の守護や鎌倉の府でございましょう。さもなければ、新田家とて、数代、このような御
「鎌倉へ早馬して、あわよくば、足利断絶の下状を握り、これへ襲する腹
「わらわはこれより鎌倉へまいる。わが夫のおさしずを伺うためじゃ。また、次第によっては
早馬でさえ、鎌倉までは三日路あまりといわれている。その三日目、輿の列
事実は、寒い足利にも帰れぬほどな病態であり、鎌倉の気候が彼の療養にとって、別れえないものだったのが、いちばん
「鎌倉を立つ折、お主の仰せには、途中、北ノ御方の旅輿に出会う
が、そのように大きく聞えて、あらぬ噂までを、鎌倉の上下につたえていたのですか」
近日、鎌倉表へ召ある可。
憲房の手紙を涙にして、清子は鎌倉の方をふし拝んだ。
とまでは書いてない。が、高氏へ鎌倉の召が行われ、ほぼよい解決の見越しもあるらしい兄の文意である。
恐いお子やの。そう食ってかからいでもよかろう。鎌倉へ出府したら、お父上に伺うてごらんなさい」
「若殿、若殿。――鎌倉へ御出府の用意も早やととのいました。北ノ方様にも、お門出の
鎌倉の浜には、銀びかりの鰹が、今日はおびただしく水揚げされ、鶴ヶ岡
、足利ノ庄へいそぐ途中、又太郎高氏様には、はや鎌倉の府においであるやの噂も聞き、さてはと、この地へまいり
「では、ここ数日はまだ、鎌倉入りの旅の途中におわせられまするか」
「むむ。いずれ鎌倉の府にて、お目にはかかるが」
「このたび、鎌倉へお入りあらば、従前とは事ちがい、ただちに問注所の控え屋敷に入っ
「察するところ、新田殿には、ひと足先に鎌倉へ入って、何ぞ、事前の策でもめぐらす下心ではありますまいか
さきに鎌倉へついた新田義貞は、かたのごとく侍所ノ別当へ着到を告げ、同日問注
無数の谷や低い山群にかこまれている鎌倉の府は、自然、渓水のせせらぎや、静かな川音が、街中のどこに
さかんにしていた。義貞の如才のなさは、鎌倉にも多くの知己をえているらしい。
犬の吠えが万犬の吠えをよび、その諸声は、鎌倉の海のとどろも打消して、陰々滅々、なんともいえぬ夜空の谺
すでに、おととし元亨二年の春にも聞えたことで、鎌倉が知っただけでも、これで数回なのである。
――と、両探題からの報は、今にも、鎌倉の廂に、咒法の火が燃えつきでもしそうな急を文書に叫ん
そして、鎌倉の五月は、まったく、べつな方へ人々の興味をかりたてている。
「いや、たいへんな人間だの。この鎌倉も、頼朝公の開府から百五十年。それ以前は、わびしき漁村と、松
特ニ、闘犬ノ鎌倉ニ集マルモノ数千匹。名犬ハ税トシテモ貴マレ、一匹ノ価、百貫
の馬を曳いたという故事は聞いていたが、鎌倉の群集と諸大名の前で、犬を曳かせられるとは……と、
「鎌倉の底力も知れたもの」
が、国元の足利といい、鎌倉の屋敷といい、その家庭には、どっちを見ても、今のところで
のは、前月の月の末だった。――当然、鎌倉の柳営でも、数日間は、音曲は停止され、それからしばらくの間も
―南の六波羅ノ探題大仏殿(北条維貞)が、ひそかに鎌倉へ召返され、翌日へわたって、評定衆もごく限られたお内輪のみで
「いつからそなたは、この鎌倉へ来ていたのか」
「だって、おなじ鎌倉にいるとご存知のくせに、あれきり何のお沙汰も下さいませぬ」
「ひょっとしたら、鎌倉では小殿にお目にかかれよう。もし、また、鎌倉においでなかったら、仲間
公卿のあいだに密々の交友をもつかと思えば、この鎌倉にあっては、執権お気に入り第一の御用人だ。まさに神変の鵺といって
「……この鎌倉へ来たのも、和子の不知哉丸を、ひと目、父御の小殿に
伊吹以来のこと、この鎌倉へ来てからのこと、藤夜叉の積もるはなしは、ここで、とぎれた。
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武蔵の府中から、多摩川をこえて来たかと思われる一群の人馬がある。主従
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びかりの鰹が、今日はおびただしく水揚げされ、鶴ヶ岡から若宮大路の方を見ても、桜若葉のたなびきが、日ましに色濃くなって来
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いまの所在地は、執権の亭館よりずっと遠く、北は源氏山から西は大町小路をへだて、橋ノ内には、万一、熊谷蓮生坊
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「柏原はすぐでござるが、なお伊吹へかけて少々登るので」
柏原から北へ、やがてまた、伊吹の裾をやや登ってゆく。もちろん宵はとッくに過ぎていた。やがて
上※の美しさも、都振りそッくりを、この伊吹の山城へ移し植えたとしか思えない。
山城の曲輪は、四山の嵐気を断っているが、伊吹の中腹である、何といっても風は冷たい。
「だが、伊吹の泊りは、ちと道草をくい過ぎたような」
そして、かつての伊吹の居城では、たしかに、こうだった人柄に返って、道誉は頬の
伊吹ノ城から遠からぬ近江国犬上郡の不知哉川の田楽村で生れたので、名
、彼女を捕えた屋敷の武士は、以前一度、彼女も伊吹で会っている一色右馬介だったのである。
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、大蔵省へ馬で貢税を運び入れながら唄った国々の歌が催馬楽となったといわれるが、田楽ももとは農土行事の田植え囃子だった
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金色の鳳がゆらゆら見えて来た。みゆき先は、つい京極の大炊御門なので、関白、諸大臣、公卿殿上人ら、すべて供奉は徒歩で
ほどなく、おん輿は、京極おもての院の棟門につく。
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旅は公ではない。去年の暮、足利の御厨から伊勢の神宮へ、例年の貢ぎあるを幸いに、その上納物の列に和殿
の十一月、歳々の恒例にて、領下の御厨の貢物、伊勢神宮に運上したてまつるお使いにてまいった帰りを、都廻りして、立帰った
「それや言い抜けぞ。伊勢より都へ廻るは、わざとにひとしい」
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の軍が、去年から、しずめに赴いているが、遠いみちのく辺りでは、幕府の権威も、とんと、土軍を慴伏するには足らぬ
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には摂津の六甲、龍王岳。右には、生駒、金剛山のはるかまでが霞の中に」
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路”の道標が見え、振返れば、さっき別れてきた大淀の流れも、にぶい銀の延べ板みたいに暮れ残っている。
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高氏は、奥へ通った。そして初めて、鎌倉山のしたたりや、閑かな林泉に耳を洗われた。
そして、いわゆる鎌倉山の星月夜にも紛うといわれる群臣の綺羅や女房桟敷のあいだを縫って、
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―その主賓に気づいたのか、後ろの女性のひとりが銚子に白い手を持ち添えて高氏のわきへすりよっていた。
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の空を見つつ歩いた。今日あたり、ようやく、やがてさしかかる武蔵野の彼方に、富士の姿も大きかった。
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父母にねだって出て参ったのです。忍びやかでこそ、六波羅の身寄りの家にも置かれますので」
「その御方の言では、六波羅の内にも、かつて見たことのない薄あばたの一曹司と、終日、
いたのである。――実兄の上杉憲房が、六波羅から帰府していると聞いているのが、このさい、ただ一つの力
には見えた。がしかし、憲房などはおそらく「長く六波羅にいて、朝廷や都の情勢に明るい者」として加えられてい
現在、都の探題職には、北ノ六波羅に北条範貞、南ノ庁には北条維貞がつめていた。飛札は
及ばん、及ばん。……思うてもみい、両六波羅には常詰の武士二千は欠くまい。長門、筑紫の探題の兵も、いざ
宮廷の若公卿や一味の武者輩のうごきについて、六波羅にても、はや捨ておかれぬ謀反の兆を確認したものらしく、その処断、
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たらしいぞ。遍歴などはしておられぬ。すぐ東国下野へ馳せ戻ろうわい」
「ご迷惑とは存じたが、下野と近江とでは、またのお会いもいつの日かと、土岐が申す
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後々の語り草にもなったように、熊谷はその場でもとどりを切って逐電し、法然上人の許で、名も蓮生
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ばかりである。だからいったん豪雨となれば、上野下野両国の曠野は、あばれ川のあばれ放題な本性になる。
だ郷土に生き生きとしていた。――で常々の、新田足利両国間の絶えないいがみあいなども、将門以来の遺風といえないこともない。い
「御両家ともにでございまする。……この上野下野の両国に、一つ根から咲き分れた由縁も古いお家ですのに」
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その上、近江の百済寺で造るのや、大和菩提寺の奈良酒だの、天野山金剛寺の名酒だの、遠くは、博多の練緯
「何も土産ぞ。奈良酒とやら百済酒とやら、ひとつ、飲みくらべてみようではないか」
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都に入っておる。――因を洗えば、それも長崎高資の賄賂から起っておる」
「それなん鎌倉の執権高時の内管領、長崎円喜の子、左衛門尉高資と申す者よ。うそでない証拠も見しょう
の座でお激論もありしとか。また、内管領長崎殿や執権の君へも、直々のお訴えを披瀝して、夜半も
内管領の長崎高資をはじめ、多くは北条家の親族といってよい。北条仲時、
と、人々に一応の退座をうながしてから、内管領ノ長崎高資と赤橋守時のふたりだけが、そこから執権御座所の方へ先に立っ
だから国事は、妻の父秋田時顕、内管領長崎円喜(高資の父)などに任せきりで育ったのである。その
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隣国の、新田小太郎義貞の家来を主とし、それに宇都宮、結城などの兵を交じえた一隊だった。
足利、新田、宇都宮など、境を接する国々の守護には、なるべく、つねに反目を持たせよう
宇都宮や結城の軍が、去年から、しずめに赴いているが、遠いみちのく辺り
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中央の座に、金沢貞顕。
執事の金沢貞顕が、まず。
執事金沢貞顕も、ここでは、やや声をはげまして。
おごそかに、金沢貞顕が、審問の口をきり、
といってよい。北条仲時、茂時、名越、安達、金沢父子、普恩寺入道、または赤橋守時といった風に。
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だから国事は、妻の父秋田時顕、内管領長崎円喜(高資の父)などに任せきりで育っ
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中宮ノ大夫実衡の琵琶、大宮ノ大納言の笙、光忠宰相のひちりき、中将公泰の和琴、また笛は
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王子ノ住吉、西ノ宮
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、名だたる山波ばかりである。だからいったん豪雨となれば、上野下野両国の曠野は、あばれ川のあばれ放題な本性になる。
「御両家ともにでございまする。……この上野下野の両国に、一つ根から咲き分れた由縁も古いお家ですのに