三国志 06 孔明の巻 / 吉川英治

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并州

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冀州、青州、并州、幽州、など河北の大軍五十万は官渡(河南省・開封附近)の戦場へ

并州にいる甥の高幹が、官渡の大敗と聞いて、軍勢五万をひきい

「かならず再起を」と約して、ひとまず并州へと引揚げた。

と、青州、幽州、并州の軍馬は、諸道から黎陽へ出て、防戦に努めた。

「并州へ入って、高幹に止めを刺せ」と、曹操はそれに命令を下し

を容れ、韓※を鎮北将軍に任じて、さらに、并州面の戦況を案じ、みずから大兵を率いて、楽進、李典などの加勢におもむい

袁紹の甥高幹は、并州の壺関(河北省境)を死守して、なお陥ちずにあった。

漢江

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「漢江(湖北省)でございます」と、いう。

河北

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一、忘恩の罪。二、無断退去の罪。三、河北の使いとひそかに密書を交わせる罪――」

「でも今――みすみす彼が河北へ走るのを見のがしては、後日の大患、虎を野へ放つも同様で

つのご誓約を交わしてある。いま、故主玄徳こと、河北にありと伝え聞く。――幸いに許容し給わらんことを」

「これは河北へ下る旅人でござる。ねがわくは、関門の通過をゆるされい」

「申すまでもなく、河北におわすと聞く故主玄徳のもとへ立ち帰る途中であるが」

「いやいや、河北の袁紹は、曹丞相の大敵である。敵地へゆく者を、無断、通す

「河北へ」

そのために、汝南の劉辟、※都のむねをおびて河北へ使いしたてまえの計画が、みな喰いちがってしまったのです。――さも

三日ほど前、てまえが行って、ひそかに諜しあわせ、河北を脱出あそばして汝南へさして落ちて行かれた」

。――将軍もお車も、このまま何も知らずに河北へ行かれたら、みずから檻の中へはいってゆくようなもの。危険は目前

様にも、どれほどお待ちかわかりません。何しろ、河北の陣中におられるうちには、たえず周囲の白眼視をうけ、袁紹には

汝南の劉辟のもとへ行くご予定だ。そこには、河北の袁紹にしばらく身をよせていたご主君も、先に落ちのびていられる

徐州このかた皇叔のお行方をたずねていたが、皇叔は河北にかくれ、関羽は曹操に降服せりと、頼りない便りばかり聞いて、いかにせん

―また各※の消息も、皆目知れないので、ふたたび河北の方へもどって行かれた。まったく一足ちがい――」

「この上は、拙者がもう一度、河北へ行ってみましょう。ご心配あるな。かならずお伴れ申しますから」

すると張飛が、河北へなら自分が行こう、と進んで云いだした。けれど関羽は、

を案内とし、わずかの従者をつれて、関羽は遠く河北まで、玄徳をさがしに立った。

河北の大軍を一度にさし向けようとすら怒ったほどである。

ところへ、遠く河北の地から、袁紹の書を持って、陳震が使いに来た。

「いま曹操の実力と拮抗し得る国はわが河北か貴国の呉しかありません。その両家がまた相結んで南北から呼応し

は静かに時運をながめ、江東の要害を固うして、河北の袁紹と、鼎足の形をなし、おもむろに天下の隙をうかがっておられるの

一挙に遡江の態勢を拡大して行く。曹操はつねに河北の攻防に暇なく、呉の進出を妨げることはできません」

が、私が洛陽の大学に留学中亡くなりました。その後河北は戦乱がつづいて、継母の安住も得られぬため、継母をつれて江東

国策の大方針として、まず河北の袁紹とは絶縁することになった。

これは諸葛瑾の献策で、瑾は長く河北にいたので袁紹の帷幕内輪もめをよく知っていたからである。

そうきまったので、河北から使者にきて長逗留していた陳震はなんら得るところなく、

――だが、おさまらないのは、河北の袁紹であった。

冀州、青州、并州、幽州、など河北の大軍五十万は官渡(河南省・開封附近)の戦場へ殺到した。

「曹操これにあり、めずらしや河北の袁紹なるか」と、乗りだしてきたもの、いうまでもなく、いま天下

に、天子に奏して、汝を冀北大将軍に封じ、よく河北の治安を申しつけあるに、みずから、叛乱の兵をうごかすは、そも、何事

と、叱りながら、河北の勇将張※がおどり出して、敢然、戟をまじえた。

「いかに、河北の軍勢でも、これでは近づき得まい」

河北の兵糧奉行たる韓猛は、数千輛の穀車や牛馬に鞭を加えて

べけんや。――おい、張※。時代の流れは河北から遠い。旗をかえして、曹操に降ろう」と、共に引っ返して、官

手をゆるめず攻めつづけた。しかし何といっても、河北の陣営はおびただしい大軍である。一朝一夕に崩壊するとは見えなかった。

世嗣を定めてください。それを先に遊ばしておけば、河北の諸州も一体となって、きっとご方針が進めよくなりましょう」

―が、実は自分の生んだ子の三男袁尚を、河北の世嗣に立てたいのであった。

がその質と思うている。――で、近く袁尚を河北の新君主に立てようと考えておるが、そち達はどう思うな?」

得たためしはありますまい。これを行えば乱兆たちまち河北の全土に起って、人民の安からぬ思いをするは火をみるよりもあきらか

与え、ひどく優待している由です。思うにこれは、河北の諸将を釣らんためでしょう。――またあなたへ自身の愛娘を娶せたの

建安九年の秋七月、さしもの強大な河北もここに亡んだ。冀州の本城には、曹操の軍馬が充満した。

「むかし洛陽で、共に快談をまじえた頃、袁紹は河北の富強に拠って、大いに南を図らんといい、自分は徒手空拳をもって

「この河北には、どうして、かくも忠義な士が多いのか。思うに袁紹

河北の広大をあわせ、遼東や遼西からも貢ぎせられ、王城の府許都の街

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日を経て関羽と孫乾は、やがて冀州の堺まできた。

湖北省

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「漢江(湖北省)でございます」と、いう。

、道はそこで断たれていた。ただ見る檀渓(湖北省・襄陽の西、漢水の一支流)の偉観が前に横たわっている。断層

つがえている容子らしいので、玄徳はそのまま南※(湖北省・南※)のほうをさして逃げ落ちて行った。

隆中は山紫水明の別天地といっていい。遠く湖北省の高地からくる漢水の流れが、桐柏山脈に折れ、※水に合し、

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陥落し、高幹は命からがら北狄の境をこえて、胡の左賢王を頼って行ったが、途中家来の者に刺し殺されてしまっ

山東省

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「郷里は、瑯※の南陽(山東省・泰山の南方)であります。亡父は諸葛珪と申して、泰山の郡丞

「北海営陵(山東省・※県)の生れ王修、字を叔治という者です」

「その人の生地は瑯※陽都(山東省・泰山南方)と聞き及んでおります。漢の司隷校尉、諸葛豊が後胤で

四川省

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江岸の荊州(湖南、湖北)より、さらにさかのぼって益州(四川省)にまでちらかった。

関西

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から二十里ほど先の臥牛山(河南省・開封附近)に、関西の周倉という人物が棲んでいます。板肋※髯、左右の手

「羽将軍、そこにお迎えしておるのが、関西の周倉です。どうかお声をかけてあげて下さい」

黄河

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旗持ちの自白によると、蔡陽は甥の秦※が黄河の岸で討たれたと聞いて、関羽にたいする私憤やるかたなく、たびたび曹操

※、徐晃、于禁などの輩が争って追いかけたが、黄河の支流で見失ってしまった。

な深入りもせず、大捷をおさめたのち、彼はひとまず黄河の線に全軍をあつめ、おもむろに装備を改めながら兵馬に休養をとらせている

曹操の軍は、にわかに退却を開始し、やがて黄河をうしろに、布陣を改めた。

なので、戦っては逃げ、戦っては逃げ、ついに黄河の畔まで、敵を誘い、敵の五寨の備えをある程度まで変形さ

「曹洪は、黄河にのこれ。予は、これより直ちに、汝南へむかって、玄徳の首を

鎮国寺

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山には、漢の明帝が建立した鎮国寺という古刹がある。弁喜は、部下の大勢をここに集めて、

折ふし、いんいんたる鐘の音が、鎮国寺の内から鳴りだした。

関羽は、麓の関所も難なく通されたのみか、この鎮国寺の山門に着いて、宿を借ろうと訪れたところ、たちまち一山の鐘がなり

は、二夫人の車を護って、夜の明けぬうち鎮国寺を立った。

両国

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戦いは、否応なく、ついに長期にわたりそうです、強大両国の実力は伯仲していずれが勝れりともいえません。……けれどここに外交と

を彩ったまでにすぎない。日がたつと、いつとはなく、両国のあいだには険悪な気流がみなぎってくる。乳を与えなくても、獅子の児は

、曹操はまた、呉の孫権に、叙爵昇官の斡旋をとって、両国提携の実を見せつけたのであるから、孤立河北軍の焦躁や思うべしであった