私本太平記 05 世の辻の帖 / 吉川英治

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地名一覧

姫路市

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の。……今日にもここは立って、日女道(姫路市)の府までは行き着きたいと思うたのだが」

あすの夜は、日女道(姫路市)の府か、今宿か。

帝の駕が、その夕べ、着いたところは日女道(姫路市)の姫山の丘かと見られる。

播州今宿(姫路市の西郊)から美作路の杉坂越えまでには、途中、夢前川があり揖保

但馬

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「さて、これからの、但馬、伯耆の山旅を、事なく、越えられるか否か」

堀川

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の前夜は、一党賑やかに大酒盛して、あくる朝、堀川の宿所から左巴の旗を振り出し、わずか七十余騎で、

東寺

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より、七条を西へ、大宮を南に折れて、東寺の門前に、車をおさへらる。

その日、東寺の前でのこと。先帝お見送りの大群集が押しあっているちまたであった

加茂

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には、ほかの子らも騒いでいる。たった今、加茂の早瀬へかけて、女の姿が、浮きつ沈みつ流されて行った

須磨

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もう一人の弟宮の宗良は、なおも陸路を追われ、須磨、明石からやがて播磨路へ入っていた。

安芸

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俊は、一時破竹の勢いをみせ、またたくまに備中、安芸のあたりは、その配下かとみえましたが、笠置、赤坂の落城がきこえ

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は私の眼や耳ではとどきえません。が、堺のうごきから察するに、正成は、先帝の龍駕を奪うにも、しょせん、

堺あたりから、中国路の備前、備中などへは一衣帯水の近くである。大塔ノ

から、高安、平野、秋篠ノ丘、浜へかけては堺の方まで、無数の赤い蛍火といっていい遠篝が見えたのだった

秋篠

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生駒山の遠くから、高安、平野、秋篠ノ丘、浜へかけては堺の方まで、無数の赤い蛍火といっていい

摂津

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伊賀に身をかくしていたが、近ごろは、和泉、摂津の辺まで出て“幻の軍”を指揮している形跡がある。のみ

「よしっ。なお、あさってのお道筋、摂津、兵庫の泊り泊りへも眼をくばって、異状を見たら、すぐ暗文

かねて摂津、和泉からこの地方へ潜入していた笠置、赤坂の残党もかなり交じって

「密かに、摂津の天王寺辺に、出ておられるかと察しられまする。おん方やお子

彼は、摂津から来た正成の伝令だった。その指令の結果にちがいない。

たのは、初めてなのだ。――それ以前から、摂津に来れば、ここに寝泊りもし、わけてこんどは、二十日も前から、

岡山市

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将監重明のいるところの地名である。当時まだ、現在の岡山市は、ただ一帯の砂丘でしかなく、その西方の笹瀬川に沿った大安寺

、まだ陽のあるうちに、自領の吉備郡大安寺(岡山市・西郊)の富山ノ城へもどっていた。

伊吹

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に甦えされてくる。おれを嫌って、そなた、伊吹ノ城から跣で田楽村へ泣いて帰ったことなどあったな」

きのうからの降り足らぬ雨雲が、なお醒ヶ井や伊吹の山地を閉じていて、むしむしする。かと思えば、六月半ばの

柏原は、番場からも、伊吹ノ城からも遠くない。つまり佐々木家の城下であり、彼の下屋敷といっていい

吉野

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そのご大塔ノ宮は、吉野を根拠に、依然、宮方の士を募ッており、正成は一時、伊賀に

おやかたには、席あたたまるお暇も見えません。先頃、吉野の大塔ノ宮をおたずね申しあげて、一たんここへお帰りでしたが」

下野

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また、洞院ノ公敏、万里小路藤房のふたりは、下野へ。東宮ノ大進季房は常陸流し。

「下野の足利か」

愛知川

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愛知川は江南江北の分堺である。そこから先の――犬上、坂田二郡

顔が仰げぬのか。……いや見られまいわ。愛知川の一夜、そちは何とわしに申したか」

「愛知川の夜も今も、道誉に変りはございません。もし、豹変のできる道誉

「道誉。……愛知川の夜も、今の自分も、変らない道誉だと、申したな。その

大安寺

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でしたら、いくらでも加役馳せ向わせます。ご遠慮なく、大安寺の方へ、お飛脚下さいますように」

大安寺とは。備前の豪族、松田左近将監重明のいるところの地名である。当時

一帯の砂丘でしかなく、その西方の笹瀬川に沿った大安寺ノ里に、松田一族の富山城があった。

すぐ立たねば、父重明や大覚ノ宮にも、はや大安寺の城を出ておられるし、時もおくれる」

「もし、今木の児島や、大安寺の松田勢が、輦輿のお道すじへ向って、その奪取を計るなら―

もこうもおざらん。大覚ノ宮も父重明も、はや大安寺の居城をすでに出ていよう」

、松田重明はすでに千余の兵を動員して、居城の大安寺を立ち、やがて財田の辺もすぎていた。

、子息権ノ五郎へ与え、あとの総勢は、急遽、大安寺の居城へひっ返すことにきまった。

からも聞えて来た。――のみならずその時、大安寺の富山城からも、松田重明の早馬があった。早馬の者の言に

。お退きなさい。この高徳にかまわず、一刻もはやく、大安寺のお父上をお扶けなされい」

四国

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の上から加古川ノ宿を、いくたびとなく振り返りつつ、四国へ送られて行かれましたゆえ」

伊吹山

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で鳴り出している。――全く風もハタとやみ、伊吹山の上半身は、厚い垂れ雲の幕に徐々と隠されてくるなど、太刀

畿内

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たからではあるが、彼自身も、四月にわたる畿内遊撃のあいだに、正成の郷土の衆望や人間の奥行きについては、かなり

金胎寺

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千早、赤坂のほか、国見、猫背山、金胎寺などの峰々でも、同時の砦工事が急がれていたのである。

明石

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の弟宮の宗良は、なおも陸路を追われ、須磨、明石からやがて播磨路へ入っていた。

生駒山

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生駒山かな

生駒山の遠くから、高安、平野、秋篠ノ丘、浜へかけては堺の方まで

叡山

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が片腕とたのんでいた豪僧であるのみならず、叡山という手の届かない巣にたてこもって、のべつ洛内を脅かし、流言をおこない、

もまだお稚ない皇子だったが、やがて妙法院へ入られ、叡山の座主につかれた後も、歌の会などでは、しばしばお目に

鎌倉

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「とかく鎌倉からわれらへの厳達は、こんな手ぬるいものではございませぬ。馬の背

と、帝はあるとき、廉子に注意された。鎌倉の息がかかっている女とみてのご警戒なのだった。もとより廉子

辺には“お立義”仲間の武士も多い。かつ鎌倉へは心から服していない者でもあるゆえ、宮が、ご一身を

、その道誉の心は、わしにも解せん。彼は鎌倉の重臣、しかも帝を警固して行く重責の大将でもあるに」

そしてここには、鎌倉の下知状によって、隠岐ノ判官清高が、帝のお身がらを引き継ぐため、

道誉は同族の宗家だし、鎌倉御家人の筆頭でもある。彼がこう、いんぎんなのは、自然だった。

高貞は心の眼をくばって、終始、鎌倉の代官たる自分を持していた、というよりも帝のおことばといい

の現帝に仕える堀川大納言の姪であり、内々、鎌倉の息がかかっているものとは、高貞も鎌倉下知状で知っていた。

そして、鎌倉の指令が、やっと今日、探題の許へとどいたものと見える。

何か、旅先の処置が、鎌倉の嫌疑となったにちがいない。道誉には、もちろん心あたりもある。

主人の道誉が、鎌倉の譴責とやらで、帰京早々、十日ちかくも六波羅の内に“足どめ”

つとめていた腹心の早川主膳には、主人が何で鎌倉のご不興を蒙ったのか、心外でならないらしく、いまも、道誉が

せたのだが、その後悔から、高氏は彼女を鎌倉におかず、またその生みの子も、嫡系に入れ得ずにある状態なのだ。

もっと、いけないことには、鎌倉の命で、すでに在京の諸大将あらましは、関東へ引き揚げ去った後なの

命松丸のことばによれば、兼好と道誉とは、鎌倉いらいの親しい仲であるとのこと。その酒の座の雑談などで、ふと

お受けした。心中思うツボとしたのであろう。鎌倉へ下って、高時の前に出さえすれば、高時は掌中の物だと

役をそのさい申しつかっていた。つまり下向のついでに、鎌倉へ下す宮方の一公卿を護送して来いと、命ぜられていたのだっ

――鎌倉へ差下す。

、護送使の立場にはいるが、自分もじつは、鎌倉の譴責をうけて下って行く身なのである。

「だいじな囚人、鎌倉へ行きつかぬまに、病気させては、落度になろう。宿の予定を

「でも、鎌倉へ曳かれては」

「身もいまは帰国でなく、鎌倉へくだる途中だ。村へ帰って、一座みな田楽に励んでおれ。そのうち

「昨夕、鎌倉どのの御上使が、お着きでした」

ここへ鎌倉の急命とは、一体、何であったのか。道誉は、

を押した上で、ふところから、自分がさきに受けた鎌倉の一状を取り出して、

領土です。思うに、京よりお身を預かり下って、鎌倉どのの御命よんどころなく、この地で、ご生害を見るなども、仏法でいう

が、幕府の上使糟谷孫六、三島新三らと共に、鎌倉の府へ入ったのは、六月下旬とみて、まちがいはない。

は、またたくすぎ、いつか道誉の姿はまた、鎌倉の秋風と共に、いよいよ多事多端な柳営の中で、誰よりもお覚え

和泉

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一時、伊賀に身をかくしていたが、近ごろは、和泉、摂津の辺まで出て“幻の軍”を指揮している形跡がある

かねて摂津、和泉からこの地方へ潜入していた笠置、赤坂の残党もかなり交じっていた

ちょうどまた、和泉、河内方面からの偵報も、その日、北岸の陣に入った。

宇治川

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多いのである。暁の下に彼らは遠い祖先の宇治川先陣を、今朝の自分に擬しながら、もう汀から白波をあげて、大河の

五条

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て、黄母衣組以下をひきつれ、二ノ橋、一ノ橋と大宮大路を五条の方へ去って行った。

大覚寺

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そして青年期をまえに、大覚寺へ入り、やがて門跡の座についた。――もしそのままであったら、

後醍醐が、笠置へ奔るやいな、間髪をいれず、大覚寺へも六波羅の手入れが襲った。――宮は身をもって敵の重囲

と、大覚寺ノ宮恒性を中心に、もう数十日も前から、今日のいたるの

彼がみなまでいわないうちに、大覚寺ノ宮も列を出て、高徳のそばに立たれた。

愛染堂

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「やっ、貝の音だ。丘の愛染堂で、貝の音がする」

しかし、愛染堂の上に見える菊水の旗は、ゆるやかに今、夕日ノ岡を西へ降っ

備前国

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この二人も、やがて、院ノ庄を去って、もとの備前国へ帰って行った。

備前国ヨリ帰参ノ衆

四天王寺

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「何かは知れぬが、戦機らしいぞ。四天王寺まで、夜を通せ」

、また、「小坂」といっていたその頃から、四天王寺は堂塔四十幾ツの輪奐を聚せた大曼陀羅の丘だったが、

は、作戦上、ここを橋頭堡の地と選んだが、四天王寺の輪奐は、兵火の外におきたいものと考える。――密々には

兵火の外におきたいものと考える。――密々には四天王寺からいろいろ援助をうけていたが、表面はあくまで“寺院中立”の原則を

もともと、聖徳太子の草創になる四天王寺は、ただの殿堂仏教の道楽ではない。この低地帯にむらがり住む貧者の

はその日、先ごろの勝利をおさめた礼詣りのため、四天王寺の内にいた。

迷信の中に生かされていた人々だった。蒼古な四天王寺の輪奐もそれを援ける。

だった。「――死んだとつたえられた楠木が、四天王寺に拠って、意外な勢力をみせた驚きからだ」と。

難波

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昆陽を出でさせ給ひて、武庫川、神崎、難波など過ぎさせ給ふとて、御心のうちに思す筋あるべし。広田の宮の

まだ「大坂」という地名はなく「難波」とよび、また、「小坂」といっていたその頃から、四天王寺は

この日あたり、六波羅軍が、すでに京を発し、難波へいそいだとの飛報が、しきりに、天王寺界隈を騒がせていた。

大江は、名にしおう難波の大河で、そのころ、河幅二百六十間といわれ、良暹法師の旅の

は、楠木と勝負を果たし、這奴を生け捕って帰るか、難波の洲に、この身が屍をさらすか、二つに一つあるのみで

で、難波の北方、柱松について陣したときは、およそ七百騎となっていた

米子市

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な記録もない。伝説として残っているのは、米子市附近の安養寺にある五輪ノ塔だけである。

伊賀

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、依然、宮方の士を募ッており、正成は一時、伊賀に身をかくしていたが、近ごろは、和泉、摂津の辺まで出て

には、命松丸ひとりを留守において、兼好が、伊賀を歩いていたのは四月半ば頃で、その間に彼は、

去年の笠置、赤坂の合戦へは、この伊賀からも、たくさんな参加者があったし、以後も宮方と鎌倉方とが、

その後も、風の如く来ては、また、風の如く伊賀の外へ去っている。

に避難していた正成の妻子たちが、山づたいに、伊賀の卯木を頼って落ちて来た。――さきに正成が捨てた金剛山の

まもなく、人数は小馬田ノ庄を立った。伊賀の山々をうしろに、名張街道を初瀬の方へ降ってゆく。

伊賀から河内の金剛山へは、桜井や高市あたりの駅路も通るが、ほぼ山づたいに

の捗りが報告された。また、久子や多聞丸を伊賀から引き取って来たことなども耳に入れて、

福原

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その一ノ宮は、福原から箱船で土佐の国へ送られて行ったが、もう一人の弟宮の宗良

加古川

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「さきを行った後醍醐の御列は、今宵すぐ近くの加古川ノ宿にお泊りらしい」

いや、その惧れは大いにある。折も悪く、すぐ先の加古川ノ宿には、ちょうど、先帝後醍醐の一行が昼からお泊りの由でもある

「いや、加古川ノ宿には、こよい御父の後醍醐も、お泊りなりと、自然、ご存知

ここはやや高い所だけに、彼方の加古川ノ宿の灯が、一つの川を隔ててすぐそこのように見える。薄

「どれ、今日は加古川ノ宿へ行かねばならぬ。命松、お前も行くか」

「なあに、加古川ノ宿まで用達しさ。すぐ帰るよ」

宿場だし、さらに西にも川が望まれる。往時の加古川は、いく筋にも岐かれ、いずれがその称ぶところの加古川の本流なの

は、いく筋にも岐かれ、いずれがその称ぶところの加古川の本流なのか。

兼好にお託しあって、今朝早く、牢船の上から加古川ノ宿を、いくたびとなく振り返りつつ、四国へ送られて行かれましたゆえ

で。加古川を朝出た帝の駕が、その夕べ、着いたところは日女道(姫路市

さきに贈り物をもって、備前の自領から加古川ノ宿に道誉を訪ねてすぐ去った松田五郎権ノ頭は、あの日、ふしぎ

加古川で見て来たあらましを、権ノ五郎は父に報告していた。

「そちが加古川ノ宿で会った道誉は、さあらぬ態に見えたろうが、なんぞ知らん、這奴

の様子はどうだ。輦輿の同勢は、あの翌日、加古川を出て、姫山泊りか、今宿だったか」

未の頃(午後二時)である。さきの日、加古川の宿に残しておいた細作の一人が、まったく方角ちがいな美作の佐用方面

六波羅

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と、あすの事の談合にあるいて、午すこしすぎ、六波羅へ顔を出すと、待ちかねていたように、探題仲時が彼に

御車の六波羅発門は、午前十時と布令出されている。まだ早めとは思われ

六波羅より、七条を西へ、大宮を南に折れて、東寺の門前に、

ここまで送って来た公卿および六波羅の弓箭千五百人は引っ返す。また、廉子たち三名の妃は、便殿に入っ

もっとも、六波羅からよこした輿も、ちとひどすぎる物だが、それにせよ幕府の“遷幸

と、六波羅から鳥羽までの道筋だけでも、衆目に酷たらしくないように、行装やその他

である。だが、笠置は陥ち、赤坂城も亡び、六波羅の獄へと、日々捕虜がつづいて行く。

その琵琶は、帝が六波羅におわしたころ、中宮(皇后の禧子)からお獄舎のうちに献じた物

たった今、彼は、六波羅ノ庁から馬上で出て来た。身装も長い旅のままである。

、鎌倉の譴責とやらで、帰京早々、十日ちかくも六波羅の内に“足どめ”をくっていたことでは、佐女牛の衆臣すべて

これまでには、六波羅の川番所や、鎌倉方の地頭領も当然、駈け抜けていたわけだから

「京、六波羅はようやく手薄。ここらで、諸国の同志を意気づけるため、一度、のろしを

六波羅の軍勢四千と称するものが、尼ヶ崎、神崎、柱松のあたりに着き、午ごろ

となす印象を、時人に深くしたことの方が、六波羅には、さしあたっての焦慮だった。

なのに、彼は六波羅へも、兵を求めなかった。

「みかど(後醍醐)が、六波羅の獄におわした間の給仕人も、彼であった」

赤坂

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のあたりは、その配下かとみえましたが、笠置、赤坂の落城がきこえて、部下は離散し、茲俊は同国一ノ宮にて、それこそ

だ。――それもしないほどなら、楠木はほんとに赤坂で死んだものと観てもいい。

「……廉子。ひょっとしたら、笠置、赤坂の残党や中国の宮方が、山また山の長い旅路のさきで、身を

と、聞えてから、笠置、赤坂の残党も海をこえて、この地方へ入りこんでいた。そして、

なかった不平武族が、「時こそ」と、笠置、赤坂の一挙に、その鬱屈をふるい起たせたものが、どれほどかかずしれない

かねて摂津、和泉からこの地方へ潜入していた笠置、赤坂の残党もかなり交じっていたのである。彼らはすでに苛烈な実戦を

わけを知らぬ笠置、赤坂の残党たちは初め大いに怪しんだが、それはみな児島高徳の親族、家の子たち

去年の笠置、赤坂の合戦へは、この伊賀からも、たくさんな参加者があったし、以後も

鎌倉方の湯浅定仏は、赤坂の焼け城を修築して、そのあとに入り、それもほぼ竣工したの

と、その夜、赤坂へ向う兵糧運搬の人夫数百人を、途中で不意打ちさせたのだった

「では、麓ですか。赤坂のお城にでも」

「赤坂を奪り回した後も、おやかたには、席あたたまるお暇も見えません。

が骨を埋めるといっていた戦場だった。一族、赤坂へたてこもる日、水分の家庭は焼き払っていたのである。

それも麓の赤坂に、湯浅定仏の軍が入りこんでいた間は、彼も姿を見せ

千早、赤坂のほか、国見、猫背山、金胎寺などの峰々でも、同時の砦工事

笠置、赤坂の惨敗や、後醍醐の流離を見ながらも、なお初志を変えずに、地下

関東

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高氏も、また、在京諸大将の大半も、もうあらかた、関東へ引揚げ去ったとは庁でも聞いていたのだが、なんとなく

は、鎌倉の命で、すでに在京の諸大将あらましは、関東へ引き揚げ去った後なのである。

東魚とは、関東の逆臣北条。

武庫川

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昆陽を出でさせ給ひて、武庫川、神崎、難波など過ぎさせ給ふとて、御心のうちに思す筋あるべし。

天王寺

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その間の小半日。天王寺の金堂では、大般若経の転読がながれていた。この日、正成は

天王寺の楠木勢が総退却したと、今朝知ったからだった。

河内

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その者たちの上に或る吉報が、河内から聞えて来た。

出来、ふもとの赤坂城も、お味方の内にあり、河内は旧にまさる鉄壁となりつつあります。お帰りあっても、はや何の

「河内へ帰るの?」

ように。そして、よい嬰児が生れたら、お夫婦して河内へ見せに来てください」

伊賀から河内の金剛山へは、桜井や高市あたりの駅路も通るが、ほぼ山づたいに往還できる

「では、河内の留守の者、あらかた引き具して来たとみえる」

「みな、元気でおります。それに河内の領民どもも、よく砦の工に力を協せてくれますし、今

加賀

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僧の聖尋は、下総。殿ノ法印良忠は、加賀の前司預け。おなじく俊雅は長門へ。

隅田

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「隅田か。あれ見よ」

高橋隊の逆行を見て、隅田の一勢も、突くところに戸まどった。そのうえ阿倍野の一端からは、

もいるが、ここを空にするわけにはゆかず、隅田、高橋の五千が向っても破れ返った敵と考えると、うかつな計も

高野川

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法師の庵から、いつものように、ほかの童と、高野川の落ち口へ、夜網を懸けに行っていた命松丸も、その中

「病人でもありません。高野川の川合へ身を投げて、あぶなく死に損なッたのを、みんなして

出雲

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い遥か。しかも播磨路からは、備中、美作、伯耆、出雲、ほとんどが峠や九十九折の山旅にござりまする。しょせん牛車などは曳かれませ

に出る。そこで一日、ご駐輦の後、米子から出雲の安来をすぎ、さらに船で美保ノ関まで渡られた。

また出雲の守護、塩冶判官高貞なども、立会いとして、これへ臨んでいた

出雲の守護の塩冶高貞も、また、島の守護代隠岐ノ判官清高も、みな佐々木

あったのだが、折ふし道誉は、先帝の島送りで、出雲の途中にあったので、その帰洛をみるやいな、閉門の令が飛び

兵庫

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「よしっ。なお、あさってのお道筋、摂津、兵庫の泊り泊りへも眼をくばって、異状を見たら、すぐ暗文にて、

「……きのう兵庫の浦で、兄宮(尊良)にお別れした時も、身はズタズタ

金剛山

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頼って落ちて来た。――さきに正成が捨てた金剛山のふもと下赤坂の城に、北条方の武族、湯浅定仏が入ったので

「ですから、いまは金剛山の砦の工も、半ば出来、ふもとの赤坂城も、お味方の内にあり、

伊賀から河内の金剛山へは、桜井や高市あたりの駅路も通るが、ほぼ山づたいに往還できる。

だったが、旅はつつがなく、やがて四日目の昼、金剛山に帰り着いた。

が。ここは金剛山の八合目だ。なんの轟きか、山は毎日、鳴っていた。

金剛山の上に近い小部落は古くからあったらしい。

赤坂城

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ならず、はやくも奥金剛の山中には、第二の赤坂城の築塁にもかからせて、

行こうとしたのである。だが、笠置は陥ち、赤坂城も亡び、六波羅の獄へと、日々捕虜がつづいて行く。

「けれど、どうして、いちど幕軍の手に落ちた赤坂城が?」

廻り、内外呼応して、難なく、改修されたばかりの赤坂城を手に陥れ、湯浅定仏以下の敵は、いのちからがら和泉の自領へ退散

七条

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六波羅より、七条を西へ、大宮を南に折れて、東寺の門前に、車をおさへ

千葉

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「千葉、小山、自分をあわせて、兵五百。小荷駄一小隊の予定だが」

「共に警衛の旅に赴く千葉、小山の両家へも、今より参って、増員をうながすつもりだ。春

千葉ノ介の宿所、小山五郎左の陣所と、あすの事の談合にあるいて

にいた佐々木道誉は、すぐ馬を回して、同役の千葉ノ介貞胤、小山秀朝らにはかり、それの配置を作った。

だから、千葉、小山の二大将から部下全体も、

小山秀朝と千葉ノ介だった。二人とも何か手を焼いたものらしい。訊いて

なっている。――で、どうしたもの? と千葉や小山らでは、扱いかねたものだった。

「千葉、小山、佐々木どの。大将三名の御警衛と聞いた。何と物々しかろう

千葉ノ介貞胤と、小山秀朝の二将は、今朝もまた、出立まぎわの

千葉と小山の号令は伝えられたが、いつもよりよほど遅い発向となってい

翌、十四日の早暁、ここを去った列は千葉、小山のひきいる兵六百余と四つの輿だけで、佐々木道誉の一群

輿には、お身代りの公卿が乗せられ、警固は、千葉と小山の二将だけで、まことのおん輿ではありません」

としているもの。……また、一方には千葉、小山の敵をもひかえ、何で権殿のいわれるような独り勝手が

「いまにもこれへ見えましょう。敵の千葉ノ介、小山秀朝の東国勢六、七百人」

もう幾日か、ご辛抱ねがわしゅう存じます。今宿で別れた千葉、小山らの別隊が追ッついてまいるまで」

の道や横の峠路などへ眼を働かせながら、千葉、小山からの連絡はないか、あるいは児島高徳らの宮方が、突忽

「味方らしいぞ。千葉ノ介と小山秀朝が、山陽道から追ッついて来たのかも

「して、千葉ノ介は」

、敵に再度の目企みがないとはかぎらぬゆえ、千葉ノ介は船坂に殿軍して、明日の夜ごろ、院ノ庄に追

「そうか。千葉ノ介の一隊が、この夜半にでも着きはせぬかと、つい

馬数や兵で埋まっていた。船坂に殿軍した千葉ノ介の一隊も今暁、ひきあげて来たものらしい。その上、

輿、そのあとさきをつつんで行く騎馬の数十騎、道誉、千葉ノ介、小山秀朝。――高徳は草のなかに匍ってかぞえてい

千葉ノ介や小山秀朝も一見には来たが、分ったような顔つきで

、連れだって来て、三明院に姿を見せる。また、千葉ノ介貞胤だの、小山五郎左衛門秀朝などは、おもな部将をつれて、すでに

杯を賜わった。もちろん、彼だけではない、順次、千葉ノ介から小山に賜わり、隠岐ノ清高からさいごに塩冶高貞へも賜わった

富山

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の笹瀬川に沿った大安寺ノ里に、松田一族の富山城があった。

うちに、自領の吉備郡大安寺(岡山市・西郊)の富山ノ城へもどっていた。

が見え、事態は危急に迫っている。すぐ引っ返して、富山城の危急をまず扶けよ、というのであった。

て来た。――のみならずその時、大安寺の富山城からも、松田重明の早馬があった。早馬の者の言によれ

福岡

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疲れをおぼえたか、その日は、陽も早目に、福岡村の雲清寺に入った。

神戸

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院ノ庄の附近に、神戸とよぶ部落がある。いわば村社といったものか。そこの森の神木

宇都宮

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宇都宮公綱は、ある日の六波羅評定に、ふと顔を出して、ぷんぷんと罵り

宇都宮治部大輔ノ公綱は、東北の大族である。美濃入道の息子で、

「宇都宮公綱が、楠木退治を買ッて出て、近いうち出陣する」

「東北の大剛宇都宮が、どんな戦をするか。楠木との駆け合せは見もの」

「宇都宮を死なすな」

「音に聞く宇都宮殿の楠木征伐、ぜひ、御陣の端に」

「わずか六、七百の小勢ですが、宇都宮公綱以下、決死のていで、柱松に陣取りました」

「何、たッた六、七百騎の宇都宮勢だと?」

「宇都宮は東北一の弓取。わずか七百の兵でも、よく用いられれば、これ

「なんの狐疑を」と、宇都宮公綱は、兵七百の先に立って、

宇都宮勢は、一せいに暗天へ気を奪われた。

「出て来ぬ敵はぜひもない。宇都宮の一ト面目は立ったも同然だ。ひとまず京へ帰れ。京へ引き揚げよう

大津

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ていることなども、うつつないかのような姿で、大津越えを東へ、ただせッせと急いでいたが、それいぜんに、

そしてはや、護送の人馬が、大津の辺へさしかかると、

大宮

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目礼をこぼして、黄母衣組以下をひきつれ、二ノ橋、一ノ橋と大宮大路を五条の方へ去って行った。

大宮大路の暗い風は、二騎だけを吹いていた。道誉はなお、

六波羅より、七条を西へ、大宮を南に折れて、東寺の門前に、車をおさへらる。

ところが、大宮、車大路、いずこも道は遮断され、庁の総曲輪の辺は

住吉

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今、夕日ノ岡を西へ降って行き、一心寺や住吉街道の方面にもまた、幾旗ものおなじ旗が見られた。そして

いう観察と、正成一族のほかは、烏合の土民で、住吉辺にその本陣を置く、とやや真相らしい情報もあったりする。

「住吉に敵の旗が見える。畢竟、正成のいる陣所か。御辺もこっちへ

どうしたのか、先に住吉へ突進していた高橋の騎馬隊が、味方の歩兵のうちへ、逆

住吉ノ浦へつづく小松大松の密生している乱松地帯は、道があっ

味方の物見が持ち込んでくるのである。はなはだしきは、住吉の沖に、深夜、何百艘もの船団が見えたなどという。あるいは