新書太閤記 02 第二分冊 / 吉川英治
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「畏れ多いことじゃが、伊勢神宮の内宮は、往古から二十一年ごとに、新しゅう改造する制であったが、
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、最も危険な敵だし――駿河、三河、伊勢、甲州、頼む味方など一国もない。
「これは、甲州の名ある侍が成れ果てし浪人者で候。――織田殿に御意得と
のほかに無数にある。美濃の斎藤、伊勢の北畠、甲州の武田、駿河の今川氏真。
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へ飛んでいた。それは三州岡崎城であった。岡崎城の向背がどう傾くか? これがこの頃の彼の頭脳にあるいちばんの興味
よりも、もっと大きく心を囚われてしまうのだった。その岡崎城は今、
岡崎城は悩んでいる。
ていた。それは彼が諸国を漂泊中に、つぶさに岡崎城の士風だの、よく多年の艱苦欠乏や隷属的な侮蔑に忍耐して来
話題にのぼる人物だ。――藤吉郎もまた、その元康の岡崎城が、やがてどういう方向をとるかなどと、独りそんな空想に耽っていた。
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美濃から越前へ出る大日越の嶮路であった。
日越の難所をこえ、ようやく他郷へはいった二人は、しばらく越前の穴馬在に潜んでいたが、美濃の乱も四隣の形勢も、ほぼ
も四隣の形勢も、ほぼ見通しがついたので、やがて越前の敦賀へ出、舟で北郡の三国の津へ上陸った。
一円を治めて、一先ず落着いた様子に、京へ上り、越前へ出、北国路を一巡して、先頃、尾州まで立ち戻って参りました」
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左馬介は、年来窺っていた時機到来とばかり、早速、駿府の今川家へ向って先頃から密使を送って、
で、左馬介は、おとといも、追っかけに三度目の使いを駿府へやって、
一つあった。信長に離叛して、しかもその上、駿府の今川家からは、
笠寺は崩れた。城将の戸部新左衛門は、駿府の援兵を待ちきれずに、居城を焦土にして、火の中に奮戦
駿河衆は、この地を駿府とは称ばない。府中と称んでいる。
否、不利とならぬ間に和議の盟約をむすんで、駿府を救ったのもこの僧であった。
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利も、遥かに勝っているかと存じます。清洲から小牧へと、お移り遊ばすよう、切におすすめ申し上げまする」
たちもいる所で、清洲城の水利の不便を説き、小牧へ御移転のことなど献策したのは、われながらまずかった)
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、申し分ないが――と思ったりしながら、今朝も、清洲城の外濠を歩いて来た。
来て見ると果たして、清洲城の大手には、はや人馬の影がうごいていた。門を固めてい
その夜、矢つぎ早に、清洲城へ届いた国境からの通諜は、果たして、美濃の大乱を告げて来た
今度は兄の信広が、美濃の斎藤と内応して、清洲城を乗っ取ろうとした事件がある。
右近は、清洲城の一聯である鳴海の出城を預けられている山淵左馬介義遠の子だ。
駒が、汗に濡れた毛並から白い湯気をたてながら、清洲城の濠際へ来た頃には、ちょうど東の空が明るくなりかけてい
元々、右近を清洲城へ出仕させておいたことは、たえず心配なことではあった。
と一つ頂戴する。ほかの家来たちもいる所で、清洲城の水利の不便を説き、小牧へ御移転のことなど献策したのは、
「ただ今、お先触れもなく、清洲城より信長様が、御巡視になって参られます。お報らせまでに」
しなやかな白い掌から、鼓の音は清洲城の広い間ごとへ、醒めよ醒めよとばかり高鳴った。
口まで見送りに駈け出して来たのである。それは清洲城内の男の全部といってよい頭数であったが、わずか四、五十人
義元以下、そこの将領たちは、なお哄笑雑談、明夜の清洲城一番乗りを、ことばの上で気負い合ったり、信長何者ぞと、誇ったりして
て――そして今宵、帰り着くと、夜中ながらすぐその足で清洲城へはいったものであった。
―永禄五年正月には、岡崎の松平元康が、この清洲城へ初の訪問をして、信長様と対面あるだろうなどという内々の儀
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。針売りの行商をして彷徨い歩いていたことや、蜂須賀村の小六たちの徒党に飼われて、稲葉山の隙を窺っていたりし
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「――抑※、これは、九州肥後の国、阿蘇の宮の神主友成とはわが事なり。われまだ都を見ず候ほどに、この
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晴れれば、富士山が見え、霞めば、清見寺の松原越しに、波静かな海が見えた。
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人の声がかりを賜わった主君のお従兄弟、名古屋因幡守を堀川の邸に訪ねて、
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きょうは、佐々内蔵助成政が、春日井郡の居城から、小人数で清洲の本城へ駈けつけてゆき、きのうは、愛知郡上
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また、もっと後のことであるが、安土の総見寺で家康に大饗応をした時も、幸若や梅若に舞を
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「佐渡か」
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愛宕、清水をすぐ下に望む大廂の彼方に、夕富士の暮れる頃になる
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よりも十兵衛が早かった。彼はそのために、九州や堺へも何度か行った。そして逸はやく岐阜の里に鉄砲鍛冶を養成し、
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「――殿のお従兄弟様。名古屋因幡守様からのこれは御書面。何事やらん」
訪鐘をつく。取次があらわれる。誘われて通ると、名古屋因幡守は、又右衛門の早速の来訪に、斜めならぬ機げんである。よう
翌る日、又右衛門はさっそくに、名古屋因幡守のほうへ、返辞に出向いたらしかった。
と、そのまま、会釈した。名古屋因幡守の臣で、こよいの名代媒人、丹羽兵蔵夫婦がはいって来た
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嘲り笑われていた時刻、その信長は、街道の小坂、相原村の中間から、太子ヶ嶽の道なき道を遮二無二越えて、もう義元の本陣
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の形勢も、ほぼ見通しがついたので、やがて越前の敦賀へ出、舟で北郡の三国の津へ上陸った。
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それよりも前の年に、稲葉山の斎藤義龍は養父の道三山城守が、自分を廃嫡して、二男の
「然らば、稲葉山へ攻めかかったら、犬千代と、いずれが先に、城乗いたすか、競ってみる
「犬千代。おぬしは、稲葉山へ攻めのぼるつもりかよ」
寄手は、稲葉山の斎藤義龍の兵だった。道三秀龍の居城鷺山を陥して、道三の首
に、甥の十兵衛光秀や、子の光春と共に、稲葉山の兵に当って戦ったが、各所で敗れ、主の道三も討たれた
身をもって、彼の行くてに立ちふさがって、ここで稲葉山の寄手をうけて、斬り死しようと眦を昂げて戦っていた十兵衛を
生命などは、なにものでもない。たとえ敗るるまでも、稲葉山の逆兵どもを……」
「そのまま、一年の余、稲葉山の城下に潜んで、成行きを見ておりましたが、御承知のように、
たところ、あの鎹横丁の一と長屋と職人が皆、稲葉山から廻された美濃の間者だと知れました。――で、なおも近所
「稲葉山の斎藤義龍どの、にわかに病んで死んだという密報がはいったのだ
ことや、蜂須賀村の小六たちの徒党に飼われて、稲葉山の隙を窺っていたりしていた少年の日のことなどは、おくび
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亡びかけた城をどうにか支えてくれている臣下は岡崎に。……国はあれど主従は別に」
胸のつまる心地がするのは、むしろ骨肉でなくて、岡崎の城に、年来、貧窮と屈辱に耐えている家臣たちの身であった
、義元のゆるしをようやく得て、先祖の墓参にと、岡崎へ帰った時、その途中から姿を見せなくなったきりの家来――鵜殿
という願いが許されて、何年ぶりかで岡崎へ帰国した時に、こういう語り草さえ残っている。
彼が、祖先の地、岡崎へ帰ってみると、自分の城の本丸には、今川家の山田新右衛門など
に、各※、老いの身をも養い、留守居の岡崎も大事に守って、ひたすら時節の来るのを、待ちぬいているのであっ
とお成り遊ばしましたからには、何とぞ旧約の如く、岡崎の御被官方を引き揚げられて、城及び旧領など、元康君へお返し給わり
逃げてお帰りになろうと企んでいるのでござりましょう。岡崎には、わたくしの他にも、夫人とお呼びなされている者がある
甚七の足が、岡崎まで走らないうちに、彼は、或る一宿場に溢れている千駄に近い
大将義元は、十六日、岡崎にはいったので、刈屋地方その他には、守備隊と監視兵の配備
岡崎の城には、松平元康をはじめ、元康の手飼の三河武士たちは、ほとんど
と、眺めているのである。なぜか彼は、その岡崎の城主松平元康という人に、人いちばい関心をもっていた。それ
信元は、意をふくんで、岡崎を訪れて、元康にも会い、三河譜代の石川、本多、天野、高力など
調印のうえで、明年――永禄五年正月には、岡崎の松平元康が、この清洲城へ初の訪問をして、信長様と対面
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と存ぜられます。……で、われわれのみではなく、鷲津砦の飯尾近江守どのにも、善照寺の佐久間左京どの、丸根の佐久間大学どの
の中で、勇ましい御最期をとげられ、同じ時刻に、鷲津砦の飯尾近江守殿にも、華々しゅう、乱軍の中に討死と聞えました」
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、誰よりも十兵衛が早かった。彼はそのために、九州や堺へも何度か行った。そして逸はやく岐阜の里に鉄砲鍛冶を養成
「――抑※、これは、九州肥後の国、阿蘇の宮の神主友成とはわが事なり。われまだ都を
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「宮の大鳥居が早や見ゆる。熱田神宮の大前にて兵を停めい。信長も参拝して参ろうず」
「千秋殿には、当熱田神宮の祠官職たるお役目上、神前のおつとめは当然なことながら、いかに御
信長は、熱田神宮の春敲門から南門を出て、再び、馬に乗った。
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会うたら、そう伝えい。――大高城は、駿河の府中城ではないほどに、余り過ぎた武者ぶるいは、ここでは無用ぞと。
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東春日井や知多郷のうちには、御当家で切り取った岩倉城のごときもござりまするし、また、織田に属しておるとはいえ、二心を
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た。道三秀龍の居城鷺山を陥して、道三の首を長良川へ斬って捨てた余勢の軍が、ここへ殺到したものである。
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「いつ戻ったか。――府中へは」
彼の今住んでいる質子邸は、府中のお館を繞る大路小路のうちでも、最も静かな少将之宮町の一角
が、お館を退って帰途についたのは、もう府中の町には、灯一つ見えぬ深夜だった。
臨済寺の菊は晩節のにおい高く咲いていたが、府中の城下から仰ぐと、眉に迫るほど間近な富嶽は、真っ白な雪になっ
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「伊予か」
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天正十年、秀吉が中国の高松城を水攻めにした折も、孤城五千の部下の生命に代って、濁水の
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安倍川の中ほどに、鵜殿甚七と元康とを乗せて、密談に時を移して
……秋草のさかり、昼の月にすだく虫の音、安倍川は今がよい季節」
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といわれている山名、一色、赤松、土岐、武田、京極、細川、上杉、斯波などという大名たちはどうしているのか。
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などは、最も危険な敵だし――駿河、三河、伊勢、甲州、頼む味方など一国もない。
「――美濃か。甲府か。三河か。伊勢か。いずれの隠密だ。口を割らねば、割るようにして訊くぞ
伊勢には、宿年の敵、北畠家があり、美濃には、斎藤。そのほか
が織田、松平のほかに無数にある。美濃の斎藤、伊勢の北畠、甲州の武田、駿河の今川氏真。
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晴れれば、富士山が見え、霞めば、清見寺の松原越しに、波静かな海が見えた
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「今し方、桶狭間へと道をかえた今川の本軍は、同所の南、田楽狭間の窪
「桶狭間より半里、有松と落合村のあいだ――田楽狭間と申す所でござりまする」
桶狭間の一戦の大捷は、さすがに十日余りも、清洲の城下を昂奮の
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大高城は、尾張本国と知多半島との咽喉にあった。
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それから、手料理の膳部と、銚子など、楚々と、運んで来た。
棟梁の一人へ、杯を取らせて、藤吉郎は自分で銚子から注いでやりながら、
かと紛う風俗の美女たちが、琴を抱いて通り、銚子をささげて通ってゆく。
窮屈がらない質の信長は、眼八分に持ってくる銚子にも、小笠原流の料理、故実のやかましい膳部も、極めてこだわりのない姿で
「寧子、酒がないぞ。――この銚子も、この銚子も。ほ、これにもない」
「寧子、酒がないぞ。――この銚子も、この銚子も。ほ、これにもない」
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門前町の辻まで、向う見ずに飛ばして来た一騎の悍馬は、四つ辻
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……手前が常に愚考しますには、清洲よりは小牧山のほうが、水利の便も攻防の利も、遥かに勝っているかと
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、もう町屋も平屋敷も、一軒もなかった。きれいな小松原の間に、折々、白壁や宏壮な門の見えるのは皆、今川一族の
城地を繞る広い小松原は、戦時には武者揃いの広場となり、平時は縦横の道筋がそのまま
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むまもなかったし、それがいつ大きな発火点となって、両国の運命を賭すものとなるか、決して予測はできなかった。
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、ことし弘治二年の四月、浅ましき父子の合戦は、岐阜の里、長良川の畔を、業火の炎と、血みどろの巷にして
に、九州や堺へも何度か行った。そして逸はやく岐阜の里に鉄砲鍛冶を養成し、自分の居城には、ひそかに火薬も
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三国の津の長崎称念寺には、かねて知合の園阿上人がいた。その人を頼っ
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奈良人形のように、両手を膝に重ねたまま、蘭丸は、かなり長い時間
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「――美濃か。甲府か。三河か。伊勢か。いずれの隠密だ。口を割らねば、
今川勢を支え止めて、その間に、美濃へ、或いは甲府へ、密使をつかわして、好条件の下に援軍を頼むなり、また戦法と
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(駿遠三の大軍と義元の威勢をもって、京都まで上るに、何ほどのことがあろう)
けれど、京都までの沿道で、強国美濃より近江より何処よりも、すぐ避け得られない
「え。京都へ」
危険なということが第一と、京都へ上る以上は、信長の胸に、何の大志、何の秘策かが
「京都も変ったなあ」
おいて、同じ時代の悩みにつき当っていた。京都は京都、将軍家は将軍家。より以上、自分たちの国境や内部において、その
国々において、同じ時代の悩みにつき当っていた。京都は京都、将軍家は将軍家。より以上、自分たちの国境や内部において
そうした京都へ来て、藤吉郎はまた、その眼に見、耳に聞いた。
信長は、実に、その折も折に、京都へ微行で出て来たのであった。
みな理想としていることではあったが、単身、京都へ上って、将来の計をなそうとするような――そんな身軽な豪胆
も関わらず、勅をうけると、信秀は、すぐ使者を京都に上せ、御料四千貫文を献じ、また、他の有志らと計って
京都での滞留は、およそ三十日ばかりで、信長は、
はまだ知るまいが、つい先頃、殿のお供して、京都へ上洛り、無事帰城して、御城内に勤めている」
「京都へ。殿もお上洛りとはいかがなわけでございますか」
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から二十町ほど距った街道の横に、密生した松山が幾つかある。
そこの松山の頂に、物見していた部将が、谺のような声を出し
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なお、不安にたえない残りの家臣組は、大津あたりまで、見えかくれに信長の姿を守護して行ったが、そののち駅路
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天正十年、秀吉が中国の高松城を水攻めにした折も、孤城五千の部下の生命に代って、
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その他、天野、大久保、土屋、赤根などの人々、多くは若武者だった。鳥居忠吉のような
主将の元康を中心に、酒井、松平、高力、大久保、天野などの譜代は、こもごもに、甚七に質問を発した。
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の方面へ出て行くか、陸地を迂回して知多の上野街道から井戸田、古鳴海へさして行くか、行軍の疑問が起ったのと