茶漬三略 / 吉川英治
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大日岳へかかった。
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に、いてやるものか。そうだ、山越えして、越前へ出よう」
「なあ、おふくろ。俺あこれから、越前へ行こうと思うが、おふくろはどう思う。越前は朝倉家の領分だから、
これから、越前へ行こうと思うが、おふくろはどう思う。越前は朝倉家の領分だから、あそこなら穏やかで、新しい魚は食えるし……
土民っ、逃げるには及ばぬ。恐ろしい者ではない。越前へ越える道を問いたいのじゃ。待て、待てっ」
「されば、道に迷うて、ここまで来たが、越前へ下るには、どう参ったらよいか。越前路の大日越えは、どの方角
者だったが、義龍との一戦に敗れ、これより越前の穴馬まで、知る辺を頼って落ちてゆくところ。――そちも同じ途中と
はまだ、どっちも気がつかずにいたが、やがて越前の穴馬まで、辛苦を共にして落ちて行くうち、ある夜山家の炉辺ばなし
越前の穴馬には、六年間ほど、郷士として蟄伏しておられた。
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兵馬は、備中へは向わぬのだ。わが敵は、本能寺にある。――そう光秀は今、ここで全軍へ宣言したところだ。
「本能寺だ!」
光秀様は、丹波境のこの峠を東に向って、本能寺に殺到したが、わしは西へ降って備中路へ指して行ったの
、途中、遽に号令を変えられて、勿体なくも、本能寺に御宿泊中の……」
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続いて、天正元年には、柴田勝家と合体して、滋賀の石山、堅田など、一向宗の僧軍と戦うなど――殆ど、年ごと
てからは、なおさら、研鑽の深いものがあり、かつて、滋賀の唐崎に松を植えられて、その折、
滋賀の浦かぜ
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起っているふうです。――稲葉山の斎藤義龍と、鷺山城の斎藤道三秀龍とは、表面は父子ですが、実は義龍は、道三が
なって、稲葉山の斎藤義龍は、父と名のつく鷺山城の山城守道三を、ゆうべ一挙に攻めて道三の首を挙げたものと―
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尾張海東郷の野武士あがりの者で、猿が同じ土地の蜂須賀村の野武士、小六という者のやしきにいたころに知っている人だった
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わし達は皆、何百日目で広い空を仰いだ。金華山の上のお城を見た。稲葉山の城である。
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御主人には、愛宕山の西坊へ登られ、その夜、威徳院で連歌の会を催された。
愛宕山の連歌の会では、紹巴の次韻をうけて、
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美濃の稲葉山の牢に、わしの悪業の終りは来ていた。
(戦争でもおっ始まれっ。稲葉山の城も、岐阜の城も、火の海になってしまえっ)
越後はどう、甲府はどう、小田原はどう、この岐阜の稲葉山はこうと、人情風俗、物価の高低から、百姓の生活向きまで――わけて
しても戦争か何か起っているふうです。――稲葉山の斎藤義龍と、鷺山城の斎藤道三秀龍とは、表面は父子ですが、
を仰いだ。金華山の上のお城を見た。稲葉山の城である。
。しばらく戦が絶えたため、衣食に困って、この稲葉山のさる武家屋敷の厩へ、馬盗みに入って逃げ出したところ、そこの食客
ていた国主の内輪揉めが、遂に、大乱となって、稲葉山の斎藤義龍は、父と名のつく鷺山城の山城守道三を、ゆうべ一挙
飛火して来た。長良川を溯って攻めて来た稲葉山の兵は、下有知の民家へ火を放けやがった。意地にも坐ってい
、道三を討って、威をほしいままにした斎藤義龍の稲葉山の城も、すでに亡んで岐阜城と名も革まり、そこにはもう信長公
ましょう。斎藤山城守殿の末期はどうでございましたか。稲葉山の義龍殿は、何たる浅ましい滅亡を曝した事でござりましょうぞ。――
二十余年前の――稲葉山の牢内に蠢いていた自分の姿だった。蜘蛛六だの何だの
隠れもない織田家の御幕下の猿面殿が遠い以前、稲葉山の牢で、わしの見知っているあの猿殿と一つ人間であろうなどと
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それから、亀山城へお帰りになった六月朔日の晩、御主人には、遽にお
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ふと、その疲れを、亀山のお城に休めて、今と越し方を顧みれば、茫々十七年、髭に
夢ではない。丹波一国を領して、身は亀山の城に君臨し、位階は従五位下、族を惟任と改め、日向守
城門が開かれると、真夜半の亀山の町々の上へ、出陣の貝が、長い息をひいて鳴って行った
しかし、その馬の嘶きも将士の顔も、士気も、亀山の城を出た時とはちがって、一度に騒々殺気立っていた。
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義昭将軍の旨を含み、細川殿の使いとなって、岐阜城へ臨んだのが、御縁であった。父、道三を討って、威を
にした斎藤義龍の稲葉山の城も、すでに亡んで岐阜城と名も革まり、そこにはもう信長公が君臨していたのである
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、池田勝政の池田城を陥しいれ、十二年には、丹波へ討入っている。
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わしは、八幡山の木戸で、寄手の歩哨にすぐ捕えられた。元より、本望の事と
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わしは長良川の上流を、十里余も溯って、たった独りの老母がいる関の宿
真っ暗な雨雲の空が、宵の口から真っ赤になり出して、長良川の下流の方は、夕焼を見るようだった。
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いる楼船のような城が浮いていた。敵の高松城はそれなのである。毛利家の被官、清水長左衛門宗治が、わずか五千
――高松城の包囲解除。
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将軍家の旨を帯び、その交渉に幾度となく、一乗谷の金ヶ崎城へ見えられた。そしてわしの御主人とも、御懇意になった。
金ヶ崎城からお退がりになる度、御主人の血色には、我慢が抑えられてい
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下女たりしが、ある夜のゆめに幾千万の御祓箱、伊勢より播磨へさしてすき間もなく、天上を飛びゆくとみて我を懐胎し
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、奇しき前身や縁故をつぶさに知ったけれど、世は治まり、大坂城は時めくそのころ、かようなことは、人に語るも畏れありと、焼き捨てようと
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元年には、柴田勝家と合体して、滋賀の石山、堅田など、一向宗の僧軍と戦うなど――殆ど、年ごとの正月にも
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筑前守の、秀吉のと。長浜の城主から、また、姫路城へおさまって。とか。
船へ移って、赤穂に上陸し、七日の午頃、姫路城へ行き着いた。
強雨や出水にも会い、泥のように疲れて、姫路城の内外にあふれた。
姫路城は、猿殿が、故信長公から賜うていたところの、居城で
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ている者がどこかにあるもので、ここに、阿波徳島の蜂須賀彦右衛門家政のお抱え鎧師に、柾木宗一という者があった
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「この岐阜の御城下を歩いていたら、淡紅梅の被衣をして、供の
「え。この岐阜の御城下でも、生れ故郷でも、広い天下の何処へでも、
(戦争でもおっ始まれっ。稲葉山の城も、岐阜の城も、火の海になってしまえっ)
ば、越後はどう、甲府はどう、小田原はどう、この岐阜の稲葉山はこうと、人情風俗、物価の高低から、百姓の生活向き
一年余り過ぎてからの事。岐阜の里まで用事があって出向いたところ、すぐ木戸の役人に見咎められて
四年前に――あの岐阜の牢へ捕われた動機というのは、わしが馬泥棒に入った時
にした斎藤義龍の稲葉山の城も、すでに亡んで岐阜城と名も革まり、そこにはもう信長公が君臨していたの
義昭将軍の旨を含み、細川殿の使いとなって、岐阜城へ臨んだのが、御縁であった。父、道三を討って、
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はやるし、諸国のうわさをすれば、越後はどう、甲府はどう、小田原はどう、この岐阜の稲葉山はこうと、人情風俗、
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「いかに京都を奪回すか」
、哭いても、及びつかないものを見た。まさに、京都の空である。ぼうと一面に真ッ赤なのだ。
もあたるまい。けれど、ここはもう帰れぬぞ。――京都と中国筋のあいだは、何人も通行さすなと、たった今手配をいいつけ
わしより一足前に、飛報を持って京都から来たという密使は、それを知っているばかりに、役目を済ます
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筑前守秀吉は、中国に攻め入って、この春以来、備中高松城の清水宗治の頑強な抵抗にくいとめられ、遠征の軍馬は、攻めあぐね
月三日の夕刻には猿殿の御陣所――備中高松城の寄手の戦場間近くたどり着いていた。
風のたよりに、高松陣の難攻は、丹波表でも聞いていたが、わしは途々ここ
いる楼船のような城が浮いていた。敵の高松城はそれなのである。毛利家の被官、清水長左衛門宗治が、
――高松城の包囲解除。
た後もなお、急ぎに急いでおられたのは、高松陣から踵を回らすと同時に、猿殿のお胸では、まだ戦わ
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れて来たが、ここも梅雨の長雨で足守川、長野川などの河川は氾濫するばかりであった。それを、この石井山の南端
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お味方の羽柴秀長殿の陣、蜂須賀彦右衛門殿の陣、福島正則殿の陣、浮田秀家殿の陣、黒田官兵衛殿の陣――その
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旗本と手兵のみを率いて、全軍と別れ、矢坂越えから岡山を経、一気に沼の城まで急いだ。
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途中の難儀は、いうまでもなかった。わけて福岡の川渡しは、雨後の大水であったが、猿殿には、御自身先