神州天馬侠 / 吉川英治

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地名一覧

逢坂山

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た。と、一しょに――これはそもなに? 逢坂山の森をかすめて、ピューッと凧のうなるがごとき音をさせつつ、斜め

源次郎岳

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源次郎岳の山道までおちのびてきた忍剣は、はるかな火の海をふりむいて、

※惑星のそばの星が、あおい弧線をえがいて巽から源次郎岳の肩へながれた。

駿府

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富士川の下までお送りしてあげますから、あれから駿府へでて、いずこへなり、身をおかくしなさいまし、ここに関所札も

をげんじゅうな鎖駕籠にいれ、威風堂々と、東海道をくだり、駿府から西にまがって、一路甲州の山関へつづく、身延の街道へさしかかった。

小谷

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知れず蚕婆に目くばせして、聖僧気どりのうやうやしく、小谷の方の乗物について大手の橋を渡りこえた。

、四十九間の長廊下を、かけみだれてくる人々! 小谷の方をまっ先に、局侍女など奥の者ばかり、めいめい鞘をはらった薙刀

四条

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青いぶきみな妖星が、四条の水にうつりだした。

な。霞をひいて絵のとおりだ。二条、三条、四条、五条。こうしているあいだにだんだんみえてくる……おッとこんなところで感心

琵琶湖

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すでに大鷲は町の空を斜めによぎって、その雄姿を琵琶湖のほうへかけらせたが、なにか白い物をとちゅうからヒラヒラと落としさった

追分

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そして、甲信両国の追分に立ったとき、右手の道を、いそいでいく男のかげがさきに見え

その人数と、ちょうど位牌ヶ岳の追分でぶつかった井上大九郎、つれのふたりをかえりみて、

春日山

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、赤倉、そして、武田家と鎬をけずった謙信の居城春日山も、ここよりほど遠からぬ北にあたっておる」

加茂

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黒布をかぶった妖婆である。いうまでもなく、それは加茂の堤から、三人の僧をつけてきた蚕婆――

京の大宮人が歌よむ春のあけぼのは、加茂の水、清水の花あかりから、ほのぼのと明けようとしている。

西に愛宕や、衣笠の峰の影、東はとおく、加茂の松原ごしに、比叡をのぞんでいる。さらに北をあおぐと、竹童の故郷

いつぞや、加茂の堤で蚕婆の吹き針にふかれてその目をつぶされ、いまは

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「泉州の堺だ。なんでもかまわねえから、張れるッたけ帆をはって、ぶっとおし

北郡へかえるところを、廻り道して、見物がてら、泉州の堺に、半月あまりも滞在していた。

堺は当時の開港場だったので、ものめずらしい異国の色彩があふれていた。

梅雪入道は、このごろしきりに、堺でそのような品をあつめていたところ、思わず心をうごかしたらしい。

なにかの手がかりが多かろうと、目星をつけて、京都から堺へいりこんでいたのは、鞍馬を下山した小幡民部である。

でていった三つのかげは、なにかヒソヒソささやきながら堺の町から、くらい波止場のほうへあるいていく。

船は、その翌日、闇夜にまぎれて、堺の沖から、ふたたび南へむかって、満々と帆をはった。

からかけあがってきたのは、民蔵と名をかえて、堺から手下になって乗りこんでいた、かの小幡民部であった。

梅雪入道は、家康にかたく誓って、そこそこに堺へ立ちもどった。にわかに家来一同をまとめて、領土へ帰国の旨を布令だし

堺を出発した穴山の一族郎党は、伊那丸をげんじゅうな鎖駕籠にいれ、威風堂々と

は僧正谷の果心居士さまとおっしゃるおかたのところへ、堺のあるおかたから手紙をたのまれてきたのさ」

として聞かしてやろう。ここは甲斐と信濃と駿河の堺、山の名は小太郎山」

長崎や堺あたりで、南蛮人が日本人と争闘すると、常習にやるかれらの手口である

のまン中に位しているが、裾野一帯から、甲信越の堺にかけて、無人の平野、山地の広さはどうだ。うむ……なかなか

信長の世に時めいていたころは、長崎、平戸、堺などから京都へあつまってきた、伴天連や修道士たちは、みなこの南蛮寺に

「あの堺のほうからくる船列は?」

鞍馬山

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ども知るよしはないが、うち一通は、たしかに鞍馬山の僧正谷にいる、果心居士の手もとへ送られたらしい。

、おどろくべき怪物――といってもよい大うわばみが、鞍馬山にはめずらしい大鷲を、翼の上から十重二十重にグルグル巻きしめ、その首

武州高尾の峰から、京は鞍馬山の僧正谷まで、たッた半日でとんでかえったおもしろい旅の味を、竹童

「わかった、きさまは鞍馬山の果心居士の弟子だな」

「おいらだよ、鞍馬山の竹童だよ」

うちに果心居士の命をはたさなければ、こんどこそ竹童、鞍馬山から追ンだされるにきまっている。

「鞍馬山の小僧、いいところであった!」

「くそウ! おいらだって、こうなりゃ鞍馬山の竹童だ」

兵衛の手下どもに見つけられたら、命がないぞ、はやく鞍馬山へ立ち帰れ」

。そして、むっくり姿をあらわしたのは、なんのこと、鞍馬山の竹童であった。

のお使いとなって、この城へきたことのある鞍馬山の竹童だ。首の斬り方をしらないなら、さッさと、呂宋兵衛の前

「ウーム、鞍馬山の竹童というか」

比叡をのぞんでいる。さらに北をあおぐと、竹童の故郷鞍馬山の翠巒が、よべば答えんばかりに近い。

一陣の山嵐が、鞍馬山の肩あたりから、サーッと冷気をふり落としてきたかと思うと、八神殿の

師匠さまの名まえなら、打ちあけてもかまわないでしょう。わたくしは鞍馬山の僧正谷にいる果心居士先生の弟子のひとりでございます」

はさんだ。亀卜の易とはなにか? また京の鞍馬山から武州まで、きょうぶらりとやってきたというのも、自分の聞きちがいのよう

大江山

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、こんないい棲家がたちまちめっかる。わはははは、富士の裾野だの大江山だのにこもっているより、いくら増しだか知れやしねえ。しかもこんどは、

名古屋

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くぐり、敵味方の乱軍をぬけて、伊那丸主従は、やがて名古屋から岡崎へとすすんでいった。――ああ、いよいよあと十数里で、

うなって見ろ、悪たれをいったその口がまがって、面目名古屋の乾大根、尻尾を巻いて逃げだすだろう。オッといけない、首尾よく独楽が

摂津

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ぐんとよい地形がある。まず秀吉が住むとなれば、この摂津の大坂だな……」

この摂津の要害へ金城鉄壁をきずかれたのは、たしかに家康のほうにとって

岡崎

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敵味方の乱軍をぬけて、伊那丸主従は、やがて名古屋から岡崎へとすすんでいった。――ああ、いよいよあと十数里で、徳川家康

恵林寺

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そよ風のうごくたびに、むらさきの波、しろい波、――恵林寺うらの藤の花が、今をさかりな、ゆく春のひるである。

その結果、信玄が建立した恵林寺のなかに、武田の客分、佐々木承禎、三井寺の上福院、大和淡路守の

織田の間者は、夜となく昼となく、恵林寺の内外をうかがっていた。ところが、はからずも、勝頼の末子伊那丸が

見とどけてから、やおら、払子を衣の袖にいだきながら、恵林寺の楼門へしずかにのぼっていった。

をふりしぼった。力にかけては、怪童といわれ、恵林寺のおおきな庭石をかるがるとさして山門の階段をのぼったじぶんである。なにを

「恵林寺の焔のなかからのがれたときいて、とおくは、飛騨信濃の山中から、

ないが、かれのすがたは、まもなく、変りはてた恵林寺の焼け跡へあらわれた。

の死んだあとは、勝頼の手から、供養のためと恵林寺に寄進してあったのである。ところがある時、檻をやぶって、

幼少から、恵林寺にきていた伊那丸は、いつか忍剣とともに、この鷲に餌

剣の手には、猫のようであった。そして、恵林寺が大紅蓮につつまれ、一山のこらず最期をとげたなかで、鷲だけ

に気づいた。空をあおぐと、オオ! それこそ、恵林寺にいたころ、つねに餌をやって愛していたクロではないか

心頭を滅すれば火も涼し――と快川和尚は恵林寺の楼門でさけんだ。まけおしみではない、英僧にあらぬ蛾次郎

忍剣も恵林寺にいたころ、一年、その盛時を見たことがあるので追憶が

ましょう、故勝頼公のわすれがたみ、武田伊那丸君の付人、恵林寺の禅僧加賀見忍剣ともうしますもの」

風の山県蔦之助、六部姿の龍太郎、わけても恵林寺の弟子僧加賀見忍剣と申すものは、武田家滅亡いらい、寸時もおそば

雨ヶ岳

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「前面の雨ヶ岳にも、軍兵の声がきこえてきた。水門口のそとでも、鬨の声

前面の高地、雨ヶ岳を本陣として、ひとまず寄手をひきあげた伊那丸が、軍師小幡民部とむかい合って

は、みずから「項羽」と名づけた黒鹿毛の駿馬にまたがり、雨ヶ岳の山麓から真一文字に北へむかった。

。――見るとそれは秘命をおびて、伊那丸の本陣雨ヶ岳をでた奔馬「項羽」。――上なる人はいうまでもなく、白衣

「たいへんだ! ことによると雨ヶ岳に陣どっている者たちがくだってきたのかも知れないぞ」

「いかにもご推察のとおり、われわれはいま雨ヶ岳を本陣としている、武田伊那丸さまの旗本でござるが、してそこもとは

ことと信じて、そくざに、八風斎の願いをゆるし、雨ヶ岳の本陣へあんないすることを快諾した。

したがう二十余人の兵。――この一列が整々として雨ヶ岳の本陣へかえってくるまに、富士の山は、銀の冠にうす紫のよそおいを

西をのぞめば、雨ヶ岳のいただきを陣地とする武田伊那丸の一党、北をみれば、人穴城に

ここは、陣屋というもわびしい、武田伊那丸のいる雨ヶ岳の仮屋である。軍師民部は、きのうから幕のそとに床几をだして、

八風斎のほうでも、あくまで、会わぬうちは、この雨ヶ岳をくだらぬといい張って、うごく気色もなかった。

人穴城の強敵あり、うしろには徳川家の大軍あり、雨ヶ岳は、いまやまったく孤立無援の死地におちた。

、馬には飼糧、身には腹巻をひきしめて、雨ヶ岳の陣々に鳴りをしずめた。

かれは、よもや雨ヶ岳にのこした伊那丸の身や、同志の人々を忘れはてるようなものではけっして

「このあいだから、雨ヶ岳に陣取っている、武田伊那丸さまの軍勢が、人穴城へむかってうごきだしたら

黒の陣笠をまぶかにかぶって、いま、馬上しずかに、雨ヶ岳をくだってくる。

ものとおもわれる、その証拠には、伊那丸の陣した、雨ヶ岳のうえから噴火山のような火の手があがった。

「ア、あいつは雨ヶ岳のほうからきたらしい、あいつに聞けば、伊那丸がたの、くわしいようすがわかる

「もしやあなたは、雨ヶ岳のほうから、やってきたのではございませんか」

、くるくる舞いをして逃げだしたのも道理、それは、雨ヶ岳からおりてきた当の卜斎、すなわち上部八風斎であった。

将は、鞍のうえから声をからして、はげました。雨ヶ岳の火はまだ赤々ともえている。

大徳寺

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この秋に、京は紫野の大徳寺で、故右大臣信長の、さかんな葬儀がいとなまれたので、諸国の

のけっこうさ、さすがに、秀吉を成りあがりものと見くだして、大徳寺では、筑前守に足をもませたと、うそにも、いわれるほど

桑名

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一円は、いよいよ秀吉が三万の強軍を狩りもよおして、桑名の滝川一益を攻めたてていたので、多羅安楽の山からむこうは濛々たる

柴田権六をうつ小手しらべに、南海の雄、滝川一益の桑名の城を、エイヤ、エイヤ、血けむり石火矢で、攻めぬいているまッさいちゅう

や一点のうたがいがござりますゆえ、いッそのこと、桑名にご在陣の秀吉公のところへ、かれを差したて送ろうという、

「なんと申す! 滝川攻めのため、近ごろ桑名にいると聞く秀吉の陣へそれを送りこむという手はずになっているのか

はお父上には、早くも毒手に墜ちたもうて、桑名へさしたてられるご武運の末とはおなり遊ばしたか、……ああ、おそかっ

「たくみに大殿をワナにおとし入れ、桑名にいる秀吉の陣屋まで、送りとどけんとする呂宋兵衛、さだめし明日はぎょうさんな

天ヶ丘から降りてくる和田呂宋兵衛の一族をむかえ、桑名に送られる父勝頼君をうばいとらねばならぬとのことである。

きょうの朝まだきに、桑名に在陣する秀吉のところへ向けて、和田呂宋兵衛が護送していこうとする

中にはさんでいく一挺の鎖駕籠は――まさしく、桑名の羽柴秀吉へおくらんとする貴人の僧形、武田勝頼が幽囚されている

関所で武器をふせるのを忘れるなよ! そのほか、桑名のご陣につくまでは、みちみち話をかわすことはならぬ。

「京の大津口から桑名まで、およそ何里ほどあるだろう」

余町――まア、ざっと三十里でございまする。すると桑名のご陣へつきますまでには、約三日ののちとあいなります」

、ばかな。いかにも鎖駕籠のうちには、これから桑名のご陣屋へ護送するひとりの落武者が入れてある! だがよくきけよ

いいぐさを聞いちゃいられねえ。オオ! めんどうだが、桑名へのいきがけの駄賃にうぬらの生首を槍のとッ尖にさして

会っているのだ。そして、自身がその身代りになり、桑名に護送されるまえに、どこかへ落としてしまったとおっしゃる。だのに

「それは、桑名のご陣にある、秀吉公からの、直命でござる。殿のおおせに

兵衛をはじめその他の者が、ちりぢりばらばらとなって、桑名のご陣へかけつけてまいりました」

はおいいつけになりましたが、罪人あつかいにして、桑名に護送することなどは、まッたく、秀吉公のごぞんじないこと。―

秀吉公のごぞんじないこと。――しかるに呂宋兵衛、桑名のご陣へまいって、いろいろと差出がましいことを申しあげたため、かえって秀吉公

野陣や海べの軍船を焼きたてて、一益の本城、桑名のとりでへ肉迫してゆく。

二里さきには桑名の城が見える。

北国北ノ庄の柴田勝家、盟友一益の桑名の城危うしと聞いて、なお残雪のある峠の嶮をこえ、佐久間盛政を

が、そのうちに、なんでも秀吉の陣をとおって桑名から東海道のほうへ帰っていったという話です。……けれども、それ

すなわち、武田伊那丸と従臣のふたりは、大九郎が桑名の陣を引きはらうと同時に、秀吉にわかれて小太郎山へかえるべく、徳川家

たが、なかなか捕まえることができなかった。するとこんど、桑名のほうから、和田呂宋兵衛という者が密訴をしてきた。その者

「この鷲か。――これもその呂宋兵衛が、桑名から浜松へくるとちゅうで捕まえたのを、菊池半助のところへ土産に持って

秀吉が、近ごろメキメキとはぶりをよくして、一挙に桑名の滝川を陥し、軍をかえして北国をつき、猛将勝家の本城、北ノ庄に

に、代理をお願いいたしたい。この呂宋兵衛は、さきごろ桑名で少し右腕をいためておりますので……」

すなわち家康は、さきに伊那丸の主従が、桑名からこの浜松へはいってくるという呂宋兵衛の密告はきいたが、容易に

桑名でああいう援護をうけて、またまた、この御岳でも、同じ五三の桐

大九郎と可児才蔵は、桑名の陣で、忍剣のおもざしを見おぼえていたといった。

上田城

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はまだ才蔵よりも大九郎よりも後輩であったし、上田城の城主昌幸の子とはいいながら、質子としてきている身分な

知恩院

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知恩院の大梵鐘でも撞くように、気をそろえて、それへ手をかけあった

三条

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屋根だな。霞をひいて絵のとおりだ。二条、三条、四条、五条。こうしているあいだにだんだんみえてくる……おッとこんなところ

伊吹

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よと見るまに、いっきに琵琶湖の空をこえて、伊吹の山のあなたへ――。

たかとみれば、たちまち湖面の波を白くかすって、伊吹の上をめぐり、彦根の岸から打出ヶ浜へともどってくる。――

「できますとも。伊吹の山にいたころは、毎日、鷲や鷹をあい手にあそんでいた

甲斐国

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ここは、裾野や人無村からも、ずッとはなれている甲斐国の法師野という山間の部落。

奥州

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、小田原の北条、加賀の前田、出陣中の豊臣家、奥州の伊達、そのほか三、四ヵ国のご予定とある。――だが、

甲府城

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「オオ、甲府城躑躅ヶ崎まで曳いてこいという、石見守さまの厳命、悪くあがくとこの槍に

「親方の卜斎について、甲府城のお長屋に住んでます」

大坂城

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そこは――摂州東成郡石山の丘、すなわち、大坂城の造営である。

スキもなりはしない。まだすっかりできあがらぬうちに、この大坂城の縄取り構造を浜松の狸めが盗みおった」

しかし、その家康が、いつこの大坂城の縄取りをぬすんだというのか、福島市松には主君のいうことが

、後年太閤が阿弥陀峰頭の土と化してのち、孤立の大坂城をひとりで背負って、関東の老獪将軍大御所の肝をしばしば冷やした、稀世

「拙者は大坂城に質としておる真田源次郎という若輩者、どうかお見知りおきを」

収めることができた。神をなかだちにして誓えば、大坂城の濠さえうずめた。

碓氷峠

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軍勢が、上杉憲政を攻めて上野乱入にかかったとき、碓氷峠の陣中でとらえたのがこの鷲であった。

浜松城

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いた。そして、ふたりはいつかそこを歩みだして、浜松城に近い濠端を、しずかに歩いていたのである。

ふたりをはさんで、しずしずと、鬼の口にもひとしい、浜松城の大手門のなかへのまれていった。

のない日は、平和の光がみちあふれている。そこは浜松城のみどりにつつまれていた。

でようによってこの窮地から活路をひらくか、あるいは、浜松城の鬼となるか、武運の分れめを、一挙にきめるよりほかはない。

のなかにしかけてあった火薬が爆発した。――浜松城の二の丸の白壁は、雷火に裂かれてくずれ落ちた。

、せめて一太刀でも、かれにあびせかけなければ――浜松城の奥ふかくまではいってきたかいがない。めざすは本丸!

にとっては、怨みこそあれ、もう奉公する気のない浜松城をすてて、一日もはやく、故郷の甲府にかえりたいと思っているま

が外濠をわたって、脱出したのを、やがて知った浜松城の武士たちは、にわかに、追手を組織して、入野の関へはしった

攻めおとした時の生捕りもの、大せつに餌をやって、ちかく浜松城へ献上いたすことになっているのだ、汝らの見せ物ではない。帰れ

軍兵三千あまり、旗幟堂々、一鼓六足の陣足ふんで浜松城へ凱旋してきたようす。

家のさる御公達。まった某やこの若僧は、みな、浜松城の隠密組だ」

ものなら、むしろどうどうと徳川家の領土をぬけ、あわよくば浜松城のやつばらに、一あわふかせて引きあげたほうがおもしろいとぞんじます」

さア、おもしろいのはここの細工で、そのさきにわれわれが浜松城へまいって、なにかのことを教えてやったら、あのずるい家康も、眼

「そうよ、おれたちは、浜松城の足軽組だ」

たそろいの小袖を着ているところでは、これこそ、浜松城で有名な、お小姓とんぼの少年たちにちがいはない。そして、このとんぼ組

をもった、十二、三から十五ぐらいまでの前髪少年。浜松城のお小姓であれば、しかるべき家柄の息子たちにはちがいないが、城下

浜松城の小姓組には、こんなきたない小僧はいない。

てくれといっても、かせといってたのんでも、浜松城の腕白坊ッちゃん、けっして、すなおには承知しないでしょう。だから、あんな

伊那丸はおそろしい癌であった。幼少ながら、かれの行く末は浜松城の呪いであった。それを捕らえ得たのは近ごろの快事、いずれも斬刑

斬刑がすんで、浜松城からきている奉行や検死役人などは、みな床几を立ちはじめた。入りみだれて

「浜松城のご主君、右少将家康様だ!」

証拠です。わたしを縄にかけて、甲府へでも、浜松城へでも送ってください」

「はい、浜松城をでてまいりましたのは宵でしたが、とちゅう空でおそろしい霧にまか

と、万千代さまはもうすもおろか、とんぼ組一同が、浜松城のお庭に飼って、医療手当をしながら大事がりましたので、鷲

それから、今夜のわけでございます……。ふいに今夕浜松城の大広間でなにやらみなさまのこ評定、――と見えますると、余一

咲耶子をうばい返しに? ウム、しゃらくさいやつめら! 浜松城へ護送するまでは大事な擒人、かならずぬかりがあってはならぬぞ」

たのか? やア、こりゃいよいよもって不審千万、浜松城お使番常用の筥、しかも紅房の掛紐であるところを見ると、ご

表の方も気がかりになるが、咲耶子をにがしては浜松城のほうへいいわけが立たんことになる。なにを打ちすてても、すぐ腕利き

浜松城のお使者番は、満天の星にくるまれた閣の尖端、擬宝珠のそば

まさか浜松城の来使星川余一なるものが、十三、四の子供だとは考えて

ちゃった……。あのクロをなくしては、わたくしは、浜松城にいる万千代さまに、帰っておわびをすることばがございません」

おいて、咲耶子のために、その鷲をうばわれた浜松城の小さきお使番星川余一だった。

なっていた咲耶子という不敵な女、ことに、浜松城に差し立てることになっている罪人じゃ。わたさぬとあれば、徳川家の武威

ゆえ、一同そろって見舞いにまいったのでござる。それを浜松城へ差し立てる罪人などとは、飛んでもないあやまり、どうか、あの婦人は吾々

いっさい何人もだしておらぬ。それゆえ、主君ご直参、浜松城の人々に、その代試合をいらいするが、その件、異存があるならしょうち

浜松城の隠密組菊池半助がいつのまにか広前の中央にすッくと立って

「――いかに浜松城の武士ども、たとえ、いまの遠駆けを勝敗なしとしたところで、もう咲耶

、詰侍のかり屋でも足軽の溜りでも、また浜松城のもののいる幕のうちでも。

もなく、むちゅうでさけびながら、幕のすそをくぐッて浜松城の剣士たちがいる溜り場へ四つンばいに逃げこんだ。

で、手にあました浜松城の武士や、石見守から訴えたものであろう、御岳神社の衛士たちが数

高尾山

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「ム、大いそぎで、武蔵の国、高尾山の奥院までいってきてくれ、しさいはここに書いておいた」

「この鞍馬の山奥から、武蔵の高尾山までは、二百里もございましょう。なんでちょっといってくるなんていうわけにいく

竹童が、大鷲クロの背をかりて鞍馬の僧正谷から高尾山へつかいしたとちゅうにも、かれの誤解をうけて、そのおそろしい強弓の矢

甲州

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「音にひびいた甲州の悪入道。よしやどれほどの宝を捧げてこようと、なんで汝ら

、すわ、また大戦の前駆かと、例によって、甲州の奥ふかく逃げこんだ。

あげたが、ずるいやつは徳川家康だ。どさくさまぎれに、甲州から信濃の国をわが物にして、こっそり領分をふくらませてしまった。

て、わっしについておいでなさい。どうせあなたがたは、甲州の田舎者、都のみちは、ごあんないじゃありますめえが」

「無礼なやつめ、甲州の田舎者とはなにをいうのじゃ、おそれ多くもこれにわたらせらるるは…

「そのことばが、甲州なまりだから、甲州の田舎者といったのがどうした、甲州も甲州、二十七代もつづいた

だから、甲州の田舎者といったのがどうした、甲州も甲州、二十七代もつづいた武田の落人、四郎勝頼はてめえだろう!」

、甲州の田舎者といったのがどうした、甲州も甲州、二十七代もつづいた武田の落人、四郎勝頼はてめえだろう!」

。家康はその石見守を甲府の代官とした。そして甲州には昔からの金坑があるから、できうるかぎりの金塊を浜松におくれ

「水晶掘りの歌ですよ、これから甲州へいこうっていうのに、水晶掘りの歌ぐらい知らなくっちゃ幅が利きません

「じつはこの女は、甲州の水晶掘りの女房で、お時といいますが、わけがあって自分の

あとで若君からお話があろうが、きょうからわれわれは、甲州土着の武士という心を捨てることになったのだ」

越前

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「え、越前へ」

、上方のほうへいきてえなら船をだしてやろうか。越前へでも若狭へでも着けてやるぜ」

八風斎。たちまち加賀の美川ヶ浜に上陸して、陸路越前の北ノ庄へ帰りつき、主人勝家に、裾野陣のありさまを残りなく復命した。

国勢は何千という死骸を山や谷へすてたまま、越前へなだれて退いたといううわさです。このあんばいでは、やがて北ノ庄の柴田勝家

いたし、そのためにいろいろな手ちがいを生んだので、いまさら越前へももどれず……」

それを逆法と思われるかも知らぬが、自分の信ずる越前……」

――越前北ノ庄の城をじっさいにきずいたわが八風流では! と、ここで卜

四国

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の今宮祭まで見たから、こんどはひとつ思いきって、四国へ飛ぼうか、九州へいこうか?

大阪

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をいただき、片手に鉄扇、野袴といういでたちで、京都から大阪もよりへと伊那丸のゆくえをたずねもとめていく。

もなく、かれはゆうべの夢を実行して、京から大阪、大阪から奈良の空へと遊びまわっている。町も村も橋も河も

、かれはゆうべの夢を実行して、京から大阪、大阪から奈良の空へと遊びまわっている。町も村も橋も河も、まるで

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ケン! と人を茶にした奇声を発しながら、萩の袖垣から老梅の枝へと、軽業でも見せるように逃げてしまった。

大手門

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で、しずしずと、鬼の口にもひとしい、浜松城の大手門のなかへのまれていった。

安土城

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お天主が、日本中をおさえてるようにそびえていた安土城だ。それが、たった一日でこのありさま。おもえば明智光秀という野郎も、

にあえない最期をとげてしまった。で、いまではこの安土城のあとへ、信長の嫡孫、三法師丸が清洲からうつされてきて、

どっちも胸に大野心をいだいて、威風あたりをはらい、安土城本丸の大廓を右と左とにわかれていった。

に腰かけている。見れば、つい四、五日前に安土城で、じぶんの手から密書をわたした福島正則の家来可児才蔵である。

で可児才蔵というお人、昌仙さまの密書で、わざわざ安土城からおいでくだすったのだ」

ア搦手がたの兄弟、丹羽昌仙さまの密書をもって、安土城へ使いした早足の燕作が、ただいま立ちかえったのだ。開門! 開門

これは、ぐずぐずしている場合ではない。すこしもはやく安土城へ帰って、この由を復命するのがじぶんの役目、もとより秀吉公は、

伊賀流と甲賀流のものが、かつて信長の在世当時、安土城で試合をしたこともあるし、それよりいぜんには、仙洞御所のお

伊吹山

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を飛んでいるような心地、目には、琵琶湖だの伊吹山だの東海道の松並木などがグルグル廻って見えてきて、いくら寝ようとして

「やあ、いよいよここが都だな、ゆうべは伊吹山でさびしい思いをしたが、きょうはひとつ、クロにも楽をさせ

伊豆

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「すると向こうに見える岬は伊豆の国とはちがいますか」

「あたりまえだ、北日本の海に伊豆はない。すなわちあれが能登の半島、また、うしろに見える山々は、白馬、

竹生島

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かへ姿を消してしまった――さあ、それからも竹生島にいるあいだ、おいらは、朝となく夜となく、どれほど空を気に

敦賀

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福州船やスペイン船などの影がたえない角鹿(いまは敦賀と書く)の町である。

とした昼霞のあなたに、若狭の三国山、敦賀の乗鞍、北近江の山々などが眉にせっしてそびえている。そして、はるか

比叡

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さま。まアはやくでてごらんなさいまし、とてもすばらしい大鷲が、比叡のうしろから飛びまわってまいりました。お早く、お早く」

しらせも道理、かつて話に聞いたこともない黒鷲が、比叡の峰の背からまッさかさまに大津の空へとかかってくるところ。

の峰の影、東はとおく、加茂の松原ごしに、比叡をのぞんでいる。さらに北をあおぐと、竹童の故郷鞍馬山の翠巒が、よべ

かのように、ゆうゆうとして翼をまわし、いま、比叡の峰や四明ヶ岳の影をかすめたかとみれば、たちまち湖面の波を白くかすっ

戦国の春秋をよそに、緋おどし谷は平和である。比叡、根来の霊山を焼きはらって惜しまぬ荒武者のわらじにも、まだここの百合の

九州

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たから、こんどはひとつ思いきって、四国へ飛ぼうか、九州へいこうか?

畿内

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、一火流の石火矢と又助流の砲術をもって、畿内に有名な鐘巻一火という火術家。

富士川

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「富士川もよりには、和田、樋之上の七、八百騎、大島峠にも三、四百

伊豆石

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「小田原の北条からも、伊豆石の寄進をいたしたいと、奉行へ申しいであったそうだな」

叡山

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もう人の散ってゆくのに失望して、そのまま、叡山の道をグングン登っていった。

は、みなこの南蛮寺に住んでいた。そして仏教の叡山におけるがごとく、ここに教会堂を建て、十字架の聖壇をまつり、マリヤ

和泉

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「さようでござります。今日の入船は大和の筒井順慶、和泉の中村孫兵次、茨木の中川藤兵衛、そのほか姫路からも外濠の大石が入港

能登

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「あたりまえだ、北日本の海に伊豆はない。すなわちあれが能登の半島、また、うしろに見える山々は、白馬、戸隠、妙高、赤倉、そして

の帆に、まんまんたる風をはらんだ呉服船はいま、能登の輪島と七つ島の間をピュウピュウ走っている――

ローマ

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なんとすばらしい城だろう。その規模の大きなこと、ローマの古城をもしのぐであろうし、その工芸美の結構はバビロンの神殿にも

西陣

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――きょうは、西陣の今宮祭。

施無畏寺

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は、腹心の蚕婆や昌仙をつれて、庭どなりの施無畏寺へでかけて、三重の多宝塔へのぼり、なにか金目な宝物でもないかと

頂上にほうりこんだ時、まんいちをおもんぱかって、みんな取りはずしたまま施無畏寺へはこんでしまった。

福井市

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の浦から十六、七里、足羽御厨の北ノ庄(今の福井市)の城下に、ふたりの偽伴天連があらわれて、さかんに奇蹟や説教をふりまわし

本能寺

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日に、右大臣織田信長は、反逆者光秀のために、本能寺であえなき最期をとげた。

、甲斐の武田が亡ぼされ、六月には、信長が本能寺で焼打ちにあった。うまくやったのは猿面の秀吉、山崎の一戦から

本能寺の焼け跡にも、柳があおい芽をふいた。

弁天島

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のかしこさに舌をまいた。そのまに、船は弁天島へこぎついた。

という羽ばたきに、ふたりは、はッと耳をうたれた。弁天島の砂をまきあげて、ぱッと、地をすってかなたへ飛びさった時、不意

も古い話ではない、伊那丸が忍剣にわかれて、弁天島から八幡船のとりこになった時のこと――

五条

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霞をひいて絵のとおりだ。二条、三条、四条、五条。こうしているあいだにだんだんみえてくる……おッとこんなところで感心して

安土

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「近江の安土か、長浜の城か、あるいは京都にご滞在か、まずこの三つを目指し

安土の城も半分は焼けくずれている。

同じ日に、浜松から安土へきた家康の家臣、徳川四天王のひとり本多忠勝が、こッそりその男

安土から選ばれてきた可児才蔵とわかってみれば、なるほど、竹童が、つかま

安土の城には、じぶんの主人福島市松をはじめ、幼名虎之助の加藤清正、その

裾野のようすをくどく聞きたがった。けれど才蔵は、これから安土へ昼夜兼行でかえろうとしている体、裾野におけるちくいちの仔細は

「なるほど。じつはわしもこれから都へでて、安土の秀吉公へすがり、なんとかいとぐちをつけようと考えているが、うまくとちゅう

ない、姫路へ下向すれば姫路の町が秀吉になり、安土へゆけば安土の町がそッくり秀吉の気性をうつす。

下向すれば姫路の町が秀吉になり、安土へゆけば安土の町がそッくり秀吉の気性をうつす。

日吉

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、巽小文治の身の上も。――そして、きょうのひる、日吉の五重塔のてッぺんにいたのもじぶんであるといった。

大津の町の弓道家、山県蔦之助は、このあいだ、日吉の五重塔であやしいものを射損じたというので、かれを今為朝とまで

をなんとかして地上へおろしてみたら、あるいは、日吉の塔の上にいた、奇怪な人間のなぞもとけようかと考えたの

「ではさきごろ、日吉の五重塔へ登っていたのも居士ではなかったか、恥をもうせば

箱根

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徳川家からでる和田呂宋兵衛がきのう箱根をとおった。お小姓とんぼ組の連中がうつくしい行列で練りこんでいった。菊池

戸狩村

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ごしんせつに、ありがとうございます。わたしは、西山梨在の戸狩村にいた勘蔵という水晶掘りの女房でお時というもんでござります。

殺されたお時は、すこし気がヘンになって、戸狩村からどこともなくさまよいだしていたが、あぶない命をすくわれて、かの

平戸

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まだ信長の世に時めいていたころは、長崎、平戸、堺などから京都へあつまってきた、伴天連や修道士たちは、みなこの南蛮

妙高

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の半島、また、うしろに見える山々は、白馬、戸隠、妙高、赤倉、そして、武田家と鎬をけずった謙信の居城春日山も、ここ

秩父

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甲斐の連山や秩父の峻峰も、みなこの晴れの日を審議するもののように御岳の

た。十数丈の樹上から目をひらけば、甲斐、秩父、上毛の平野、関八州、雲の上から見る気がして、目が

伊賀

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この菊池半助も、前身は伊賀の野武士であったが、わけあって徳川家に見いだされ、いまでは忍術

仙洞御所

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試合をしたこともあるし、それよりいぜんには、仙洞御所のお庭さきで月卿雲客の前で、叡覧に供したこともあって、のち

鞍馬寺

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「おまえこそいったい何者だい、鞍馬寺の小坊主さんでもなし、まさか山男の伜でもあるまい」

比叡山

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ここは近江の国、比叡山のふもと、坂本で、日吉の森からそびえ立った五重塔のてッぺん――そこ

ふたりはこれから、比叡山をこえ、八瀬から鞍馬をさして、峰づたいにいそぐのらしい。いうまでも

鞍馬

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「京の西、鞍馬の奥にすんではいるが、ある時は、都にもいで、またある

きく源平時代のむかし、天狗の棲家といわれたほどの鞍馬の山路は、まったく話にきいた以上のけわしさ。おまけにふたりがそこへ

をつけて、京都から堺へいりこんでいたのは、鞍馬を下山した小幡民部である。

「この鞍馬の山奥から、武蔵の高尾山までは、二百里もございましょう。なんでちょっといっ

「オオ高い高い、もう鞍馬も貴船山も半国ヶ岳も、あんな遠くへ小ッちゃくなってしまった。

伊那丸さまのおいでになるところへいそがねばならぬ、鞍馬へ帰ったら、どうかご老台へよろしくお礼をもうしあげてくれ」

しまうのにかぎる。――でかれは、出発にさきだって鞍馬の果心居士、小太郎山の龍太郎、小文治などの同志へ通牒をとばしておいた

お師匠さまのお伝えというのは、きょうなにげなく鞍馬から富士のあたりをみましたところ、いちまつの殺気が立ちのぼって、ただならぬ

ここに、一世一代の大手柄をやったのは鞍馬の竹童。

「フーム、では果心先生には、鞍馬の庵室にも、おすがたが見えなかったか」

「ウーム。こりゃふしぎだ。鞍馬の奥にいたころから、泣いたことのない竹童だが……」

その影を見さだめていると、あんにたがわず、それは鞍馬の竹童である。

おいらは鞍馬の山育ちだ。

かつて、かれがまだ鞍馬の山奥にいたころは、朝ごと薪をとりに僧正谷をでて、

叫んだ。そして、森のなかへすくいあげてから、たしかに鞍馬の竹童だとわかると、伊那丸をはじめ、あまりの意外さにぼうぜんとした

「おい、鞍馬の竹童――どこへいくンだい」

「父上とのみ思うていたが、そちは、鞍馬の果心居士ではないか」

樹下にねむることも、なんのいとうところではなく、また鞍馬の谷で馴らした足には、近江街道の折所や東海道の山路なども

三方ヶ原をとんで、夜の空をいそいだ鞍馬の竹童は、そうして、小太郎山の同志へ、伊那丸の急変をもたらした

「幼少のとき、鞍馬の僧正谷で果心居士から教えられた幻術。おそらく、あのくらいのことなら、

躑躅ヶ崎の郭へしのびこんでいたのか、まぎれもあらぬ鞍馬の竹童。

とらわれている咲耶子をすくいださなければ、男として、鞍馬の竹童として、なんで生きてふたたび伊那丸や一党の人々とこの顔が

隠、巽の両人とあとでわかった。おお、それから鞍馬の竹童」

それもお時にははじめてみる少年――かの鞍馬の竹童だった。

武田伊那丸や民部をはじめ、あの一党のひとびと、また鞍馬の竹童も、その熱風のようなふんいきのなかにくるまされて、きょうは

巽小文治や鞍馬の竹童も、そのことばについてじゅんじゅんに姓名を明かしていくと、最初に

た人。またかつて竹童が、大鷲クロの背をかりて鞍馬の僧正谷から高尾山へつかいしたとちゅうにも、かれの誤解をうけて、

関東

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「関東には一ヵ所よい場所があるな。しかし、西国の猛者どもをおさえるには

と化してのち、孤立の大坂城をひとりで背負って、関東の老獪将軍大御所の肝をしばしば冷やした、稀世の大軍師真田幸村とは

金閣寺

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していたところでつまらない、はやく一つ腹ごしらえして金閣寺だの祇園だの、ゆっくり一つ見物してこよう」

小田原城

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「小田原城の北条氏政どのは、若さまにとっては、叔父君にあたるかたです。

だれがとおった。なんのなにがしもくりこんでいったと、小田原城の若ざむらいは血をわかしていた。

愛宕

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高からぬこの山にのぼるとすれば、西に愛宕や、衣笠の峰の影、東はとおく、加茂の松原ごしに、比叡を

桑名城

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らは、おおかた滝川一益の家来で、ツイきのうまでは、桑名城でぜいたく三昧なくらしをしていた者ばかりだからな。……う、

苦笑をうかべて、桑名城を観望している。

はしれば海の中から、金鼓を鳴らして追いまわし追いまわし、とうとう桑名城まで袋づめに追いこんだ。

「さて、眼前にまだ一攻めいたす桑名城もござるゆえ、ゆるりとお話もいたしかねるが、お迎えもうしお返しせ

岩殿山

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連合軍におわれた勝頼主従が、その臣、小山田信茂の岩殿山をたよって落ちたとき、信茂は、柵をかまえて入城をこばみ、勝頼一門

も、小田原の人数も、甲州本街道を迂回して、岩殿山に武田家滅亡のあとをとむらいながら、御岳へ、御岳へ、と近づい

御前山

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考えのようにぞんずるが、かりに、御岳の裏にあたる御前山へ奇兵をさし向け、西風に乗じて火をはなたば、前方の嶮は城兵の

た人々は、それよりほんの少しまえに、御岳の西方、御前山の森から舞いあがったこの怪物のかげが、浅黄色にすみわたった空にゆるやかな

仁和寺

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「嵯峨の仁和寺に、麿の親身な阿闍梨がわたらせられるほどに、ひとまずそれへお越し召さ

ては、嵯峨の方向とはまるで反対ではないか。仁和寺へまいるのであるぞ」

亀山城

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根気と、熱と、智謀をめぐらして、またたくうちに、亀山城をおとし、国府の城をぬき、さらに敵の野陣や海べの軍船を焼き

諏訪

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主従は、信濃の山を越えて、善光寺平をめぐり、諏訪をこえて、また甲州路へ足を踏み入れた。

亀山

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亀山の出城、関、国府の手足まで、むごたらしくもぎとられた滝川一益、そこに、

八幡

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「八幡」

諏訪神

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諏訪神さまの禁厭灸

浜名湖

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、小幡民部はかたがたしい武芸者風、巽小文治と申すはもと浜名湖の船夫の子とかにて目じるしには常に朱柄の槍をたずさえており

加賀

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いま、船は加賀の北浦に沿って、紅帆黒風のはためき高く、いよいよ水脚をはやめて

げな親船を逃げだした鼻かけ卜斎の八風斎。たちまち加賀の美川ヶ浜に上陸して、陸路越前の北ノ庄へ帰りつき、主人勝家に、

する諸家は、まずご当家を筆頭に、小田原の北条、加賀の前田、出陣中の豊臣家、奥州の伊達、そのほか三、四ヵ国の

北ノ庄を攻めて、一挙に柴田勝家の領地を攻略し、加賀へ進出しては尾山の城に、前田利家と盟をむすんで味方につけ

秀吉、家康をはじめ、加賀の前田、毛利、伊達、上杉、北条、長曾我部、みなそれぞれ名器の武将である

東海道

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されば、まだことの虚実は明確に申しあげられませぬが、東海道――ことに徳川家の家中においてはもっぱら評判いたしております。

があるとすりゃ、伊那丸と家康の喧嘩でしょうよ。家康も東海道の名将だが、伊那丸のほうにいる忍剣や龍太郎というやつも強いから

酒井

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伏勢があった。それは徳川方の手のもので、酒井の黒具足組とみえた。忍剣は、すばやく伊那丸を岩かげにかくして、

伊勢

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「やがてこの筑前守は伊勢の滝川攻めじゃ、この用意のなか、死んだ勝頼をさがしているひまな郎党

伊勢は戦といううわさだが、京都の空はのどかなものだ。公卿屋敷の

夜も昼も、伊勢の空は、もうもうと戦塵にくもっていた。

「まずこれで伊勢は片づけた、――つぎには柴田権六か、きゃつも、ソロソロ熊のよう

の附近にも、戦の黄塵がまきあがった。すなわち、伊勢の滝川一益をうった秀吉が、さらにその余勢をもって、北国の柴田軍

はげまされて、これからは、まだ四ツのときに、伊勢もうでの道中ではぐれたきりの末の子をさがしだすのを楽しみにし

伊勢の滝川一益も、かぶとをぬいで降ってくる。

富士山

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「また富士山が、火をふきだしたのであろうか」

「これからまた、富士山のまわりで、すさまじい戦があるとすりゃ、伊那丸と家康の喧嘩でしょうよ。家康

浜松

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浜松の城下は、海道一の名将、徳川家康のいる都会である。その浜松は

、海道一の名将、徳川家康のいる都会である。その浜松は、ここ七日のあいだは、男山八幡の祭なので、夜ごと町

ものかげに、人ありとも知らずにこう話しながら、浜松のほうへつれ立ってゆくのをやり過ごした龍太郎と伊那丸は、そこを、すばやく飛びだし

「浜松から遠くもない、こんな小島に長居は危険です。わたくしの考えでは、夜

つりあげて、いッかなきかないのだ。この若者は浜松の町で、稀代な槍法をみせた鎧売りの男で――いまは

「浜松のご城内へまで潜入して、君のお命をねらった不敵な伊那丸、

同じ日に、浜松から安土へきた家康の家臣、徳川四天王のひとり本多忠勝が、こッそり

た裾野の形勢をしさいに書面へしたため、それを浜松の本城へ、早打ちで送りとどけてもらうようにたのんだ。

のこるものは阿鼻叫喚の落城となった。どうじに三河勢も浜松より急命がくだって総退軍。そのため、味方の勝利と一変した

南――遠江の国は浜松の城、徳川家康の隠密組菊池半助のところを指して、いっきに鷲を

となって、泣くにも泣けぬ蛾次郎先生、命からがら浜松の城下を、鷲にのって逃げだしたはいいが、夜に入るにしたがって

においてはもっぱら評判いたしております。それゆえ、なお浜松の城下まで入りこみまして、ふかく実否をさぐりましたところ、その旅僧を勝頼なり

「そいつアいい考えだ。ではさっそく、浜松へ乗りこもう! だがなんでも慾得ずくだ、無条件じゃいけねえぜ」

―ああ、いよいよあと十数里で、徳川家康の本城、浜松の地へ入ることになる。

、徳川家へゆけばはぶりがきくんだからな。浜松にいる菊池半助という人を知っているかい。おじさんなんか知るめえ。

つかいきれないほどあった――アアつまらねえつまらねえ、また浜松へいって、少しお金をせびッてこよう」

「浜松のご城下へゆくには、これをまっすぐにゆけばいいんですか……

「あの、近ごろ浜松のご城下で、武田伊那丸という方が徳川さまの手でつかまったそうです

してまた、あなたがたのお手に入りましたか。浜松にも、めったにこんな大鷲は飛ばないでしょうに」

この鷲か。――これもその呂宋兵衛が、桑名から浜松へくるとちゅうで捕まえたのを、菊池半助のところへ土産に持ってきた

をせねばならぬ。しかし、人数をくりだして、とおく浜松へ着くころには、若君のお命が、すでにないものと思わねばなら

ああまだ東海道へはへだてがある。なお浜松や三方ヶ原には間がある。覚悟のとおり、あの三騎は、とちゅうで血

さっき、浜松の城下から、三方ヶ原をとおっていった裸馬には、まだおさない公達と、僧形

と原の道をちりぢりにくる人かげが見えだした。みな浜松の城下へかえっていく見物人である。それを見ると巽小文治は、

すなわち家康は、さきに伊那丸の主従が、桑名からこの浜松へはいってくるという呂宋兵衛の密告はきいたが、容易にそのすがたを

は昔からの金坑があるから、できうるかぎりの金塊を浜松におくれと命じた。

「おお熊蔵、むこうへまわれ、浜松からの早打状で、そちに申しつける急用ができた」

、にせものの独楽まわしにとられたものでござります。で、浜松のお城でも、万千代さまのおのぞみぞと、その後、諸処ほうぼう

その公書を浜松からもたらしてきたお小姓とんぼ組の星川余一は、万千代さまへの

まだすっかりできあがらぬうちに、この大坂城の縄取り構造を浜松の狸めが盗みおった」

浜松の城下へついた晩、

やる法術の幼稚拙劣なことを公衆にしめしてやると、浜松を立ってくるとき、家康のまえで豪語してきた。

子のごとくわれ先にと飛びだしてきたのは、はるばる浜松から見物にきていたきれいな一隊。

「いまに楽にしてやるよ、おめえだけさきに浜松へ帰るんだ。ご城下にかえれば、湯もある医者もある、なにも

駕籠について、御岳のうら道をグングンとかけとばし、浜松のご城下へいそいでゆけ」

「ウーム、徳川家の衆、浜松の衆、出合えッ、出合えッ、狼藉者だ、狼藉だ」

武蔵野

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取りによれば、多摩の長流を唯一のたのみとし、武蔵野の平地と上流の敵にのみ備えをおかるるお考えのようにぞんずるが、

黒鹿毛の馬首をならべて、銀のすすきの波をうつ秋の武蔵野を西へさして去ったのは、その翌々日のことであった。

志摩

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ぬまえに、渥美の海へこぎだして、伊良湖崎から志摩の国へわたるが一ばんご無事かとぞんじますが」

両国

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そして、甲信両国の追分に立ったとき、右手の道を、いそいでいく男のかげがさきに見えた。

甲府

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のない浜松城をすてて、一日もはやく、故郷の甲府にかえりたいと思っているまに、武田家は、織田徳川のため

「何代もまえから、甲府のご城下にすんでおりました。父は森右兵衛といって、

のことも、まったくその先生のおさしずで、織田徳川が甲府攻めをもよおすと同時に、拙者は、六部に身を変じて、伊那丸

乱入とともに、まッさきに徳川家にくだって、甲府討入りの手引きをしたのみか、信玄いらい、恩顧のふかい武田一族の最期

の禄を食みながら、徳川軍へ内通したばかりか、甲府攻めの手引きして、主家にあだなした犬侍。どの面さげて、伊那丸

たのだ。ここは街道衝要なところなので、甲府へいくにも南信濃へはいるにも、どうしても、通らねばなら

、もうこりごり、のこりの金で買食いでもしようかと、甲府をさしてきたとちゅう、ここで張り番役をしていた燕作の

、どうでえ、それだけの金をふところに入れて、甲府へいってみろ、買えねえ物は、ありゃしねえぞ」

躑躅ヶ崎の館というのは、甲府の町に南面した平城である。

の代官の居邸となり、さらにそののち火事泥的に甲府へ兵をだしてかすめとった小田原の北条氏直が持主にかわった。

氏直が甲府を手にいれたと知ると、家康は眉をひそめた。

「もし小太郎山と甲府とが結びついたら? どうだろう?」

才智にたけ算盤にたっしている。家康はその石見守を甲府の代官とした。そして甲州には昔からの金坑があるから、でき

伊部熊蔵にひかれて、甲府の城下を西へ西へとすすみ、龍王街道から釜無川を駈けわたり、

て入りこんでいるし、火薬の爆音をあいずとして、甲府表から、いちどきに家中の者が攻めかけてくる手はずとなっておるのだ

見るとそこは、さっき一同が甲府から指してきた時に、汗をしぼって一列に駈けた野呂川の

「オオ、甲府城躑躅ヶ崎まで曳いてこいという、石見守さまの厳命、悪くあがくとこの

甲府の代官大久保石見守が、手をまわして入れておいた裏切り者はすべて

旧領地、いまは、徳川家の代官支配となっている甲府新城躑躅ヶ崎の城下であろう。けれど、咲耶子をおどろかせたのは、水

その甲府と小太郎山の中間あたり、すなわち釜無川のほとり、韮崎の宿から御所山

「甲府へまいります」

「ちかごろ、甲府のご新城は、代がかわって、たいそう暮らしよいといううわさを聞きまし

このふたりが、ひとまず、甲府へいって見ようという目的は、はじめから定めてきたことであるけれど

「早く甲府へゆきましょうヨ」

みんな冬にはかえる少女だ。雪を見れば甲府へかえり、春になれば夏のすえまで、少女ばかりでこの谷にくらし

なろうものなら戦います。家康の家来大久保長安、あれはいま甲府の民を苦しめている悪い代官、その手勢とたたかうことは、父や兄妹

。これが覚悟の証拠です。わたしを縄にかけて、甲府へでも、浜松城へでも送ってください」

そこは甲府の城下にでるとちゅうであった。

いう。しかし、人の転変はあまりにはなはだしい。たとえば、いま甲府の城下を歩いて見ても、逢うものはみな徳川系の武士ばかりだ

た。そのゴ――ンというさびしい音は、いま、甲府塗師屋町の四ツかどをでて、にぎやかで道のせまい盛り場の軒下をたどっ

ちょうど、甲府の城下へはいってから、二日か三日目の午である。宮内

「なんだいこの魚は? いくら山国の甲府だって、もうちッと、気の利いたものはないのかい」

「親方の卜斎について、甲府城のお長屋に住んでます」

ので、少しも気がつかなかった。どうしてこの甲府へ?」

久しぶりで甲府という都会のふんいきをかいだ蛾次郎には、さまざまな食べ物の慾望、

となっている咲耶子を助けだそうという考えで、この甲府に潜伏しているようにも考える」

しかし、甲府へはいるにさきだって、民部の献策によって六人は三組に分れる

こう二人ずつ三組にわかれて、甲府の城下へまぎれこみ、大久保家の内状をさぐったうえにて、間隙をはかって

なく、忍剣と蔦之助の組も、伊那丸も、甲府表からすがたを隠して、あいかわらず、躑躅ヶ崎のようすをうかがっているものは、

であったかもしれないが、小文治はおどろいた。この甲府附近に、自分たちが入りこんでいることを、まんいち、躑躅ヶ崎支配の代官陣屋

もっとも、蛾次郎の身にとってみれば、甲府一城の安危よりは、この独楽一箇が大事かも知れない。だれ

さては、小太郎山から手当されて、甲府の城下にはいるまえ、虹の松原で礼もいわず置きずてに

きょうも甲府の町にのどかな鉦の音。

甲府を一とおり遍歴した宮内は、これから道を東にとって、武蔵の

「飛んでもねえことをいうねえ。こりゃ、おれが甲府の町でさる人からあずかってきた金入れだ。それを見やがってぶっそう

「で、本年は、甲府の代官大久保長安にその総奉行を命じ、支度ばんたん、力をつくし

あれば、なんとか、いまに見つかるでしょう、あの灸点は甲府の近郷でやっているほか、あまり他の国にはあんな大きな灸は見

不首尾ながら、翌日は、大久保長安はふもとの町から甲府へかえる行列を仕立てた。

おれは、石見守さまの駕籠がたつと、一しょに、甲府の躑躅ヶ崎へ帰らなけりゃならない」

長崎

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ぐあいや、帆柱のさまなどは、この近海に見なれない長崎型の怪船であった。

かれは、和田門兵衛という、長崎からこの土地へ流れてきた南蛮の混血児であった。右の腕に

長崎や堺あたりで、南蛮人が日本人と争闘すると、常習にやるかれらの

「いや、長崎から越後港へ、南蛮呉服をつんできた親船が、この沖にとまっ

まもなく、海潮けむるかなたの沖に長崎型の呉服船、紅帆船の影らしいのが、だんだん近く見えはじめる。

「しんぱいするな、こりゃ和田呂宋兵衛といって、おれが長崎にゴロついていた時代の兄弟分だ」

、紅がら色の帆をあげて北日本の海へまわり、長崎から往復する呉服船と見せかけて、海上の諸船や、諸港の旅人を

まだ信長の世に時めいていたころは、長崎、平戸、堺などから京都へあつまってきた、伴天連や修道士たちは、

京都

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深編笠をいただき、片手に鉄扇、野袴といういでたちで、京都から大阪もよりへと伊那丸のゆくえをたずねもとめていく。

がいとなまれたので、諸国の大小名は、ぞくぞくと京都にのぼっていた。

に、なにかの手がかりが多かろうと、目星をつけて、京都から堺へいりこんでいたのは、鞍馬を下山した小幡民部である

ここしばらく、京都に滞在している徳川家康の陣営へにわかに目通りをねがってでたの

、あんな遠くへ小ッちゃくなってしまった。やア、京都の町が右手に見える、むこうに見える鏡のようなのは琵琶湖だナ

「ヤ、呂宋兵衛は混血児だ。京都の南蛮寺にいるバテレンとそっくり……」

いう悪いやつだよ。そして、盗んだ宝物は、手下を京都へやって、羽柴秀吉に売ってしまったんだ――これはきょうおいら

「近江の安土か、長浜の城か、あるいは京都にご滞在か、まずこの三つを目指していけ」

、かれは、燃えさかる人穴城をあとに、ひさしぶりで、京都の鞍馬山のおくへ飛んでかえり、お師匠さまの果心居士にあって、

は、ひとまずめいめいかってに落ちのびて、またの時節をうかがい、京都へあつまって、人穴城の栄華にまさる出世の策を立てるとしよう」

「なるほど、京都へまいれば秀吉公のお力にすがることもでき、公卿百官の邸宅や

「おう、じゃ、昌仙もほかの者も、のちに京都で落ちあうことはたしかにしょうちしたろうな」

、それに丹羽昌仙、この三名にあったら、わしが京都へのぼっておるゆえ、あとからかならずくるようにと、言伝をしてもらい

ねえから、兄貴はここで冬を越すとも、また閉めて京都へ立つなりと好きにしてくれ」

の福島正則、ニヤニヤ笑いながら、秀吉の前へひざまずいた。京都の仮陣営、ここに天下の覇握をもくろんでいるかれ、飯を噛む

に網代笠を目ぶかにかぶり、ひそかに、東海道からこの京都へはいったので追跡してきたが、ついに、この洛中で見うしなった

だのに、その勝頼が、すみぞめの衣をきて、京都にはいったとは、なんとしても面妖である。

しかし、京都は徳川家の勢力圏内ではない。ぜひお手配をわずらわしたい、との

ました呂宋兵衛は、どうやら、越前北ノ庄を経て、京都へ入りこみましたような形跡にござります」

「ウーム、京都へ!」

、このほど身をいぶせき旅僧にかえられ、ひそかに、京都へお入りあそばした由にござります」

その旅僧を勝頼なりといって、隠密組の菊池半助、京都へ追跡いたしました」

「京都へまいろう! そうじゃ、すぐ京都へまいってお父上にめぐりあおう!」

「京都へまいろう! そうじゃ、すぐ京都へまいってお父上にめぐりあおう!」

「民部、わしはこれよりすぐに京都へまいるぞ、そしてお父上を小太郎山へおむかえ申さねばならぬ

家の菊池半助が、それとみた旅の僧を、京都まで追いつめていったとあれば、こんどのうわさはうそではあるまい。

東海道のうら道をぬけて、主従三人が京都へたどりついたのは二月のすえ。おりから伊勢路一円は、いよいよ秀吉が

伊勢は戦といううわさだが、京都の空はのどかなものだ。公卿屋敷の築地には、白梅の香が

のことだもの、いまにあっちこっちを飛びまわったあげくに、この京都へもやってくるにきまってら。な、そこをギュッと取っつかまえて

街道から、雪のふる橡ノ木峠をこえて、この京都へきたけれど……まだ鷲の影さえも見あたらない」

たたえて、朝夕、南蛮寺のかわった鐘の音が、京都の町へもひびいていた。

に時めいていたころは、長崎、平戸、堺などから京都へあつまってきた、伴天連や修道士たちは、みなこの南蛮寺に住んで

、きょうはひとつ、クロにも楽をさせて、京都の町でブラブラ遊んでやろう」

貴殿たちも、菊池半助どのたちと一しょに、あの僧形を京都へつけてこられたおかたで?」

東海道も見物したし、奈良の堂塔、大和の平野、京都の今宮祭まで見たから、こんどはひとつ思いきって、四国へ飛ぼうか

て、じつは裂石山の古寺にのがれて姿をかえ、京都へ落ちられたといううわさ……」

いそぎにいそいで京都をでた伊那丸主従が、大津越え関の峠にさしかかったのは、すでに

、南蛮寺の番衛役も召しあげられ、この後は、京都へ立ち入ることはならぬと、手下のものまで追放になりました」

もう南蛮寺も秀吉のやつにとりあげられてしまったから、京都へもどることはできねえ。いッたいこれからどこへ指して落ちのびたもの

それが何者かに盗みさられて、呂宋兵衛の手で京都にはこばれ秀吉の手からふたたび伊那丸へ返ってきたのは、これ武田

脈々たる兵気がみなぎってきたかと思うと、本陣へ京都からの早馬の急使がきて、秀吉に、時ならぬ急報をつげた

や、おれなんか、裾野にいたじぶんから、ズッと奈良や京都のほうを見物して歩いてる時なんかも、こんなまずいものを一どだ

裾野以来――また、京都の八神殿以来――かれとこれとは、いよいよ怨みのふかい仇敵となる

「加賀見忍剣と木隠龍太郎をつれて、しばらく京都におりましたが、そのうちに、なんでも秀吉の陣をとおって

のすさぶ橡ノ木峠、それから盲目になってまで、京都の空へ向かっても、おいらは、クロよ、クロよと呼んでい

そして、まだこのとりでに雪のあるころ、山をくだって京都へ向かった伊那丸の上にも、どうぞ、この山のように無事がある

いつか、京都の舟岡山、雷神の滝の岩頭に、果心居士が彫りのこしていった

だして、躑躅ヶ崎の館をうばった。それは、伊那丸が京都へいっているあいだのできごとであった。

は、いまから徳川さまの持物になる、おまえみたいに、京都でお菰をしてきたようなきたないやつは飼っておけないんだ

「みんな田舎者だからよ。おれなんか、京都であんまりぜいたくをしてきたせいか、こんな古い物は食えねえや、

「よウ、京都の葵祭にも人出はあるが、この甲斐の山奥へ、こんなに人間が

この男、京都にいたことがあるとみえて、旗亭の二階から首をだして

吉岡流  祇園藤次(京都町人)

いつか伊那丸が京都から東へ帰るとき、秀吉は桑名の陣中にしたしく迎えて、道中の保護

「わしも、人無村や京都で二、三ど見たことがある。竹童というて、伊那丸の手

にお目にかかりたく参じました。――じぶんは、京都菊亭公の雑掌、園部一学というものです」

が――伊那丸は、京都からきたという一学をみると、すぐに、かれがあやしげな

「忍剣、すぐに京都へいそぐのだぞ」

「どうしてにわかに京都へのぼることになったのか」

大津

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に見える鏡のようなのは琵琶湖だナ、この眼下は大津の町……」

大津の町の弓道家、山県蔦之助は、このあいだ、日吉の五重塔であやしい

もない黒鷲が、比叡の峰の背からまッさかさまに大津の空へとかかってくるところ。

ばかをもうせ。それより拙者のほうがきくが、いましがた、大津の町の上をとんでいた鷲が、ここらあたりでおりた形跡

たが、拙者の代となってからは天下の浪人、大津の町で弓術の指南をしている山県蔦之助ともうすものじゃ」

「京の大津口から桑名まで、およそ何里ほどあるだろう」

「なにしろ途中には、大津の関所、松本の渡舟、鈴鹿山の難路などがございますので……」

いそぎにいそいで京都をでた伊那丸主従が、大津越え関の峠にさしかかったのは、すでに、その日の薄暮であった

大津のまちにその弓道の道場をひらいていたころには、八坂の塔

奈良

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はゆうべの夢を実行して、京から大阪、大阪から奈良の空へと遊びまわっている。町も村も橋も河も、まるで箱庭

乗って北国も見たし、東海道も見物したし、奈良の堂塔、大和の平野、京都の今宮祭まで見たから、こんどはひと

じゃねえや、おれなんか、裾野にいたじぶんから、ズッと奈良や京都のほうを見物して歩いてる時なんかも、こんなまずいものを一

福島

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「それがしは秀吉公の家臣、福島市松だわ」

福島正則は、家来の可児才蔵と顔をあわせて、しばし、あきれたように

「左少将さま。福島正則さまが、ちとご別室で御意得たいと先刻からおまちかねでござり

別室にうつって、福島正則の手から密書をうけ取った秀吉は、一読して、すぐグルグルとむぞうさ

日前に安土城で、じぶんの手から密書をわたした福島正則の家来可児才蔵である。

このおかたは、姿こそ、変えておいでなさるが、福島正則さまのご家臣で可児才蔵というお人、昌仙さまの密書で、

なさるが、このお方こそ、秀吉公の帷幕の人、福島さまのご家臣で、音にきこえた可児才蔵とおっしゃる勇士だ。うたがわしく思う

「なんだ、福島正則さまのご家来だと?」

安土の城には、じぶんの主人福島市松をはじめ、幼名虎之助の加藤清正、そのほか豪勇な少年のあったこと

馬廻りの福島正則、ニヤニヤ笑いながら、秀吉の前へひざまずいた。京都の仮陣営、ここ

また祐筆にむかってなにか文言をさずけている。と、福島正則、和田呂宋兵衛と蚕婆の修道士を連れてはるかに平伏させた。

「それがしは、福島市松の家来、可児才蔵」

平地や森の人家のかげに、堀尾茂助、黒田官兵衛、福島市松、伊藤掃部、加藤虎之助、小川土佐守など配置よろしくしいておいて

「右陣にいる福島市松のところへ伝令せい! ただ今、武田伊那丸が見えたによって

差旗を背につッたて、馬をあおって、右陣福島市松のところへ馳けとばした。

答え。主命によって、いまそこへ、控えたばかりの福島市松、一箇の鎧櫃をもって、秀吉と伊那丸の中央にすえた。

も空とぼけた質問をだして、そばにひかえている片桐、福島、脇坂安治など、ツイせんだって賤ヶ岳で七本槍の名をあげた若い人

と、福島市松も加藤孫一も、みな主君の指さすところへ目をやった。

のところへ知らせると、かれはもう心得ていて、福島市松に出迎えを命じる。

「遠路浜松城からおこしのお使者、ごくろうです。福島市松ご案内申しあげる。こちらへ」

その翌日、秀吉は木の香のあたらしい本丸の一室へ、福島市松をひとりだけ呼んで、

いつこの大坂城の縄取りをぬすんだというのか、福島市松には主君のいうことがさっぱり解せないふうで、へんな顔をし

「強いなあ、才蔵さまはまったく強い。あれは福島市松の家来でおいらはあのおじさんを知っている! あのおじさんと

岐阜

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家は、その年、五十三の老将である。こよいも、岐阜の侍従信孝からの飛状を読みおわって、憤怒を面にみなぎらして

神戸

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勝家は自害し、かれと策応していた信長の遺子神戸信孝、勇猛佐久間盛政、毛受勝介、みな討死してしまった。

熊本

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月花流  柳川佐太夫(熊本領)

が、ついに八車流の敗北となって、月花流の熊本方では、白扇をふって勝ちどきをあげた。

上野

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年のころ、武田信玄の軍勢が、上杉憲政を攻めて上野乱入にかかったとき、碓氷峠の陣中でとらえたのがこの鷲であっ

代々木

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弓術の道場をひらいて、都にまで名のきこえている代々木流の遠矢の達人、山県蔦之助という者であるが、町の

弓術は自分の畑のものであるし、じしん得意とする代々木流も、久しく、日輪巻の弓へ矢つがえをして、腕のスジ

山県蔦之助は人もしる代々木流の達人。

今為朝の矢はどうしたか? あのたしかな代々木流の矢がどうして狂ったのであろうか。

高尾

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「高尾の奥院にかくれている、加賀見忍剣どのという者にわたせばよい

た。そのかわり、これから、居士の命をうけて武州高尾にいる忍剣のところへいくこと、また過日、小幡民部から通牒がき

毎日高尾の山巓にたって、一羽の鳥影も見のがさずに、鷲の帰るの

間もなく、高尾の奥院からくだってきた加賀見忍剣は、神馬小舎から一頭の

まッ先におどりこんできたのは、高尾の神馬、月毛の鞍にまたがった加賀見忍剣、例の禅杖をふりかぶって

武州高尾の峰から、京は鞍馬山の僧正谷まで、たッた半日でとんで

大久保

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大久保石見守長安は、家康の腹心で、能役者の子から金座奉行に立身し

猛る。それを仮借なくズルズルと引きずってきて、やがて、大久保石見が酒宴をしている庭先へすえた。

の伊部熊蔵、奥のほうから庭伝いにとんできた。大久保石見は酒席につっ立って、庭先にいる中戸川弥五郎という若侍へ、

からきっといいわたしてあるとおり、拙者の命にそむくことは大久保石見守さまの命にそむくも同じこと、石見守さまのおいいつけにそむく

「ばかをいえ、おれたちは大久保長安さまからたのまれて、それとなくまえから野武士をよそおい、この砦へ

「大久保長安? ――やや、すると、おまえたちは、慾に釣られて

たこの砦は、もう空巣同然、入れ代ってきょうからは、大久保石見守さまが下り藤の旗差物と立てかわり、家康公のご支配となる

甲府の代官大久保石見守が、手をまわして入れておいた裏切り者はすべてで十二人

見ているんだから。――もうあとの空巣へは大久保長安さまの人数が、入れ替りにふもとまで引っ越しにきているんだ。サ

の変事をつぶさに話して、いまに、この谷へも、大久保長安の手勢がきて、小太郎山の砦どうよう、ぞんぶんに蹂躪するで

おさしずについて、なろうものなら戦います。家康の家来大久保長安、あれはいま甲府の民を苦しめている悪い代官、その手勢とたたかう

伊部熊蔵や山掘夫どもや、あとからくりこんだ大久保の手勢は、みな、貝殻虫のように、砦の建物にもぐりこんで寝

ただ城楼高きところ――下り藤大久保家の差物と、淡墨色にまるく染めた葵の紋の旗じるしとが

見て、水をすかしているふたりの士卒がいった。大久保勢の兵糧方、飯や汁を煮炊する身分の軽い兵である。

大久保長安の後詰の手勢、百人ばかりはべつな道から緋おどし谷へ向かっ

で、すてきな手柄を立てたんで。はい、それから大久保家の知遇を得ました。元木がよければ末木まで、おかげさまで蛾次郎

戦勝をほこっている。ふもとから野呂川の渓谷いったいは、大久保長安の手勢がギッシリ楯をうえていて、いかに無念とおもっても、

「よし、しばらく小太郎山は大久保家へあずけておこう。そして自分たちが次の乾坤一擲にのぞむ支度のために

なぜかといえば、小太郎山奪取ののち、徳川家は大久保石見に命じて、いっそう伊那丸の追捕を厳命した。いたるところに、間者

こう二人ずつ三組にわかれて、甲府の城下へまぎれこみ、大久保家の内状をさぐったうえにて、間隙をはかって館のうちに捕らわれて

広前で、毎年おこなわれる兵学大講会に、ことしは、大久保石見守長安が、家康の名代としてでかけるといううわさである。

そのお長屋の一軒をちょうだいして、いまでは、大久保石見守の身内ともつかず、躑躅ヶ崎の客分ともつかない格で、

んだろう、ざまを見やがれ! いまにおれの親方や大久保さまの侍たちを呼んできてやるから、しばらくそこで宙乗りをして

の貼りまぜがあるので、今にいたっても、大久保長安の家中みな源氏閣とよんでいる。

大久保長安が下のおく庭に飼っておく三太郎猿。

「――ありがとうございました。して、これから大久保さまのご本殿か、お表へまいるには、どこに降り口がありましょう

「――この御書をとりいそいで、甲州躑躅ヶ崎の大久保石見守の手もとへまでとどけよ、とのおおせにござります。これは名誉な

ガバとはね起きた石見守、大久保長安は、悪夢におびやかされたように、枕刀を引ッつかむなり、桜雲

「お出合いなさい! お出合いなされ! 大久保家のご家中の方々、あやしいものが逃げまするぞ、早く、早く、早く

なければぜひもない。このうえは、どうせのついでに、大久保長安の寝所を見つけて、きゃつの首を土産に引きあげよう」

「ほウ、そんなに? してここの主、大久保長安どののお身にはなにごともなくすみましたかな」

「で、本年は、甲府の代官大久保長安にその総奉行を命じ、支度ばんたん、力をつくしておこないたい

今度の兵学大講会に試合目付として働いている大久保長安の家臣が四、五人――ただし、そのなかには客分格の

と、大久保家の家臣が釈明した。

ても権威にかかわるという議論があって、総奉行の大久保長安もこのほうの案をとった。

に、かれをただの鏃鍛冶とばかり思っていた、大久保長安の家来たちは、少々あッけにとられている顔つき。

大講会総奉行の大久保石見守長安、その家臣、その目付役、その介添役、等、等、等。

「どこへまいろうと仔細はない。身は総奉行の大久保石見守じゃ」

かれが大久保長安にいったことばは、すこしもうそのないところである。かれが一火

て、ややしばらく、腕をくんでしまったが、やがて、大久保がたの者と忍剣たちの両方へ対して、

「では、われわれと大久保家の臣と、武技をたたかわせたうえに、その勝ったるほうへ、

「じしんが総奉行たり、重なる家臣が目付たる役目上、大久保家では、このたびの試合にいっさい何人もだしておらぬ。それゆえ

の武技では、どういう敗辱をまねこうも知れずと、大久保長安らが、わざと相手をこまらそうとたくらんだ卑劣な心事があきらかに読め

大久保石見守(花押)

てきたことによって、はじめてことの真相を知った大久保石見守であり、和田呂宋兵衛であり、そのほか徳川家に籍をおく

総奉行の大久保長安と、検証の鐘巻一火が自身できて、なにかしきりと高声で

「ウーム、さては大久保をはじめ徳川家のやつばらめ、あらかじめ地の理をしらべておいて、うまうま

、あの呂宋兵衛がおれをただはおくまい。菊池半助や大久保長安なども、さだめしあとで怒るだろう。いや、おこられるだけならまだいい

と、いちじ色をうしなった徳川家のほうからも、大久保石見守、菊池半助、鼻かけ卜斎、和田呂宋兵衛。そのほかおびただしい人数

ほうへみちびこうとすると、いまいましげに睨めつけていた大久保石見守が、

不首尾ながら、翌日は、大久保長安はふもとの町から甲府へかえる行列を仕立てた。

もいったとおり、石見守さまのおいいつけなのだ。大久保家の侍衆では、もし、見つかった時にぐあいがわるい。で、おまえ

そこで蛾次郎は、大久保長安から卜斎につたえられた秘命を思いだして、うなずいた。