私本太平記 13 黒白帖 / 吉川英治

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地名一覧

但馬

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のように、諸所で小合戦を起している。丹波、但馬、伊勢ざかい。――その伊勢から甲賀へ打って出た石堂、仁木の党

山名の本拠は但馬である。――さきに石見に落ちていた足利直冬とむすび、伯耆、

阿弥陀ヶ峰

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がふえていた。火の線は長楽寺、双林寺、阿弥陀ヶ峰の端までつらなり、四月に入ると、天を焦がすばかりになった。すべて

東寺

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直義も思っていなかったものとみえ、直義は急遽、東寺まで出陣し、師直の手勢は、ただちに洞ヶ峠から八幡にわたって、男山攻撃を

と号し、播磨へは行かず、洛外の東寺に陣取った。

が八幡に退くと、義詮は時をおかず、本陣を東寺へすすめた。そして細川頼之の一手を洞ヶ峠へまわして、八幡の糧道を断っ

安芸

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か、これ以後は、まったくその居る所すらわからなかった。安芸にいるともいわれ、石見に隠れたままだともいわれたが、

熊野

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河内野へ逃げ走られた。――この夜また、お味方の熊野の湯河ノ荘司が寝返ったので、南朝方はいちばい混乱を大きくし、

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師泰の軍は、堺から石川河原へすすみ、正月の十四日には、もう東条へせまって、楠木

摂津

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「河内へ退こう。河内、和泉、摂津の兵を糾合し、敵の天王寺へ突いて出よう。かしこに拠れば、海

敗をくり返しつつ激烈をきわめ、戦場もここのみでなく、摂津、河内、和泉の野にわたる一円の火となっていた。

丹波

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―。母者もまた、あの鎌倉から三河、伊吹、さらには丹波の山奥と、流転に流転をかさねられた……。おもえば御不幸なお方

「上杉伊豆(重能)の領地、丹波の梅迫へと、夏ごろ、ひそかにお移りとは、かねて伺っておりました

おすすめ申しおいたもの。……じつは、尊氏自身で、丹波へお迎えにとも考えたが、都の留守も案じられ、佐々木道誉を、

さが流れていた。尊氏の母堂やら妻子眷属が、丹波から迎えとられて、都入りしていたのであった。

丹波の梅迫から迎えられて、以後、都に定住となった尊氏の家族は、

こたえる谺のように、諸所で小合戦を起している。丹波、但馬、伊勢ざかい。――その伊勢から甲賀へ打って出た石堂、仁木

妻の登子や女の鶴王(頼子ともいう)は丹波へ難を避けさせておいたのでここにはいない。あたかも他人の家

朝廷からは、典薬頭の和気、丹波の二家をさしむけられ、門前には見舞の公卿車もあとを絶たない。

伊吹

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戦陣また戦陣――。母者もまた、あの鎌倉から三河、伊吹、さらには丹波の山奥と、流転に流転をかさねられた……。おもえば

そう多くもなかった。しかし、兵を石山寺にとどめて、伊吹の道誉と、即日、何やらしきりと使者を交わしており、どうも事態は

しかし伊吹では、佐々木道誉が兵五千を擁して加わった。がぜん、万を超えた

みちのく

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よく仰っしゃるのは、奥州方面の消息だった。――みちのくの鎮守府将軍――あの北畠顕家は、なぜまだこれへ見えぬか――

たが、さらに命をおびた吉野勅使は、この月、みちのくへ急いで行った。

みちのくの天地も、中央の余波から兵革のやむときはなかった。四方に蜂起する

「みちのくの精鋭一万、霊山を立って、白河ノ関を越え、ここまで来ました

を吹かれたとき、人も馬もそそけだッた。みちのくの脅威にたいする鎌倉方の防禦線は、つねにここを「――越えられる

「宮様とは、数年の間、みちのくの艱苦を共にしてまいりましたが、ここにてお別れ申さねばなり

この吉野に来ておられたものを、またまた、元のみちのくへ下ることになったのである。御父のみかどはともかく、母情と

一令、みちのくの兵も起ち、南下して、尊氏を関東の野につつむ。

がみな遠隔であり過ぎていたことにある。九州、みちのく、信濃、新田諸党も、急には上洛できない条件の地にあった。

吉野

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遷りの議もあったが、その議は止み、ここ吉野の山上を、以後、

ある。――そしてここは北朝の都だが、南朝の吉野の山は、どんな春を粧い出していたことか。

吉野に開かれた南朝の政府は、さしあたって、後醍醐のおはいりになった山

これらの御製にみても、吉野はもう花の雲だったにちがいない。そして一月いらい、足利方の目

雪にとじこめられなどしたらなんとしよう。国の大事、吉野のご浮沈。もはや猶予のときでない。途中で倒れるまでも行こう! 八

奈良とは目と鼻のさきの吉野である。けれど顕家は、ついに、吉野へは参内せず、みかどへお目

添えてお送りいたしますゆえ、吉野へおわたり下さいまし。吉野には御父のみかど、御母の君(准后ノ廉子)、みなおいで

ない野の露は、ひとしお、あわれというほかない。しかし吉野のうけた衝撃は小さくなかった。朝廷では、彼の上奏文を読んだ

に忙殺されて、なすところもない態だったが、吉野の召命の頻りなのに焦心りをおぼえた結果だろうか。ここへ来て

吉野の群臣は、絶望にうちひしがれた。それもこんどは、決定的な絶望と

に、宗良親王も加わり、北畠親房も行に加わった。吉野にはなくてはならない重臣の親房である。その親房までが行を共に

の十二でしかない。――せっかく、顕家と別れてこの吉野に来ておられたものを、またまた、元のみちのくへ下ることになった

あった。そして、ここには大きな造船能力まで持って、吉野と鎮西諸国、また奥州や東国との中継所の形をなしていたの

ので、親王はあくる年の三月、ともかくと、ふたたび吉野へ帰られた。そしてその年の秋八月には、おもいがけない父のきみ

の声にわいたであろうが、この祝典の日さえ、吉野の上は、うそ寒い秋の風だけだった。

。時に、それを励ましたのは、公卿でなく、吉野ノ執行、吉水院ノ法印宗信で、

。するうちに、美濃で敗れた脇屋義助も、ここの吉野へ落ちて来るやら、諸国の武士の南朝支持もまだつよく、俄に吉野朝廷

「もう疑う余地はございません。吉野の行宮は暗夜にともし灯を失った思いでございましょう。これにて諸国の南

先帝 吉野ニ於テ

みな吉野の先帝の怨霊に違いないと恐れおののいているのである。一般の怨霊思想は

として、吉野の南朝方へ奔ってしまい、あとにのこっていた公卿といえば、無能

それに彼が吉野へ来てから着々とすすめていた南党再起の布石もととのい、熊野海賊

正行は、とつぜん、吉野の御所にあらわれた。

あったろうに、幾人もの遺子を守り育てて、今日、吉野のみかどへ、それらのわが子をささげてまいるなどは、よほどな女性で

なろうと、ひそかな覚悟も持ちましたので、よそながら吉野の御所へも」

久子の心操はそれをゆるさなかったし、さらに朝廷が吉野へ移って来てからは、附近の東条は、吉野の前衛地となって

が吉野へ移って来てからは、附近の東条は、吉野の前衛地となって、楠木家の好位置はしぜん常駐の守備をいなみなく

者は去るしかなかった。そして南河内の一角は、いやおうなく吉野の重臣、四条中納言隆資の指揮下にかため直され、久子はそのいきぐるしい中

「惜しむらく、一つ残念なことをしたな。吉野の奥はまだ雪とやら、ぜひもないが、追捕のもう一歩では

すべて東国各地の戦いも、その令は、吉野の軍師親房から出ていたものにちがいない。

けれどこんな御生活の許へも、一朝、吉野の軍令が来れば、宮は征夷府大将軍として馬上兵甲のあいだに

おそらく、吉野へとのお心であったのだろう。けれど、途上の兵騒、とても吉野

奥州

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いッぱいな憂心の吐露ではあった。――久しく奥州の任地にいて、中央の政府の状をながめ「これでいいのか?

には大きな造船能力まで持って、吉野と鎮西諸国、また奥州や東国との中継所の形をなしていたのである。

それはまた複写もされ、その複本は、九州から奥州の宮方へまでわたっていたろうとも考えられる。しげしげ御所に見える河内の正行

春日神木

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を挙げて、朝廷へ迫ろう。奈良の興福寺大衆も、春日神木をかついで、われらと同時に、洛内へくり出せ」

碓氷峠

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、その郷土郷土からふるい立ち、信濃の宗良親王軍も、ぞくぞく碓氷峠を南へくだっているという。

甲州

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ない。陣を石浜(青梅線の多摩川原)に移して、甲州、相模、武蔵の兵をさらに糾合した。そして次の戦略を慎重にし

石川城

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石堂頼房をつれて河内へ奔り、河内の石川城にいる同族の畠山国清の許にかくれ、南朝の朝廷へ、帰降(降伏)

越前

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藤夜叉も、はや三十路をすこし出て、いまでは“越前ノ前”とよばれ、まったく、武家家庭の型に拘束された一女性

が、越前ノ前には、それですら、いのちの縮むほど、或る期間が、つらかった

しかし、そんなときも、ふと気づくと、越前ノ前と不知哉は、いつかみなのうちから消えていた。直義は

越前ノ前

なかった。――もっとも、時はすでに二月下旬で、越前の戦況が、朝に夕に、ひんぴんと聞え、それの早馬が入るたび、

新田義貞や、脇屋義助らは、なお越前の杣山城に拠って、健在とわかって来たのみでなく、洞院ノ実

「越前の新田義貞は、われらが、はや、ここまで来たことは、夙に聞い

阿蘇一族は九州内部のたたかいでうごけず、義貞もまた、越前から足の抜けない事情にあるのか、とうとう、このかんじんな時機に、北方

たのは、北方からの一報だった。――それは越前にある新田軍の破滅を意味するものですらあった。

を諫止した。――直義も帰る気はない。すでに越前の金ヶ崎城に入って、自分の行動は遠近にひびいている。また、響き

。すると駅路での噂だった。――直義はまだ越前にいて動いていない。京都が危ないという風説なのである。

四国

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檄は、東北四国九州へも告げていう。

をさらに窮地におとし入れたのは二月十四日だった。四国もついに彼から離れたのである。

建長寺

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「むかし、北条氏が建長寺の造営費をつくるために貿易船を出した例があり、かつては、後醍醐

十津川

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賀名生は古くは穴生ともいい、十津川、天河の郷民はなお純朴そのものだった。かねてから南朝に心をよせて

法成寺

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「としたら、旗も見せずに、法成寺の森へ入ったなど、ただ事ではあるまいぞ」

忙しげに行く騎馬の影があれば、それはここと法成寺との間を連絡か何かに駈ける相互の早馬だけだった。

駈け集まって来たおびただしい諸家の兵馬に見ることができ、法成寺の兵をあわせれば、それは一万五、六千の一陣営をなしていた。

筑紫

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ていない。征西ノ宮将軍(懐良親王)の旗幟は筑紫を圧している。

いちど、わしは二十二年前の若さに返って、筑紫の地を踏み、みずから菊池征伐にあたらねばなるまい。九州さえ平定し得れ

三月に入ると、建武三年いらい二十二年の間、筑紫の探題として留めておいた一色直氏が、菊池武光に追われ、

何しに来た?」と譫言に言ったり、また「筑紫はどうした、義詮はまだ返らんか」と、あらぬことを口走ったり

伊豆

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高時の遺子)は、そのご、勅免となって、伊豆にいたので、顕家の南下に呼応して、箱根に旗を上げ、

ぜひなく、直義はわずかな残軍にかこまれて、伊豆へ逃げた。伊豆口の三島には尊氏方の仁木義長の軍勢が混み入っ

敦賀

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で、細川顕氏や畠山国清らの奔走で、せっかく直義が敦賀から近江の新照寺大御堂まで出て来て、親しく尊氏と和談をとげる

東国方面へ移動させ始めていた。そして直義もまた敦賀を発して、信濃に入り、ひがしへ向ったとの風説が高い。

大蔵山

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白いふとんの上から抱きしめた。若き日、口喧嘩のあげく、大蔵山の崖で取ッ組んだあとで泣き合ったときのように体じゅうで慟哭

九州

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また、九州には菊池の党。

おなじような檄は、九州へも、ひんぴんと送られたが、菊池党や阿蘇一族は九州内部のたたかい

それはまた複写もされ、その複本は、九州から奥州の宮方へまでわたっていたろうとも考えられる。しげしげ御所に見える河内

軍へさんざんに抗ッた。――そして戦いに破れると九州へ逃げ落ちてゆき、直義と仲のよい少弐頼尚のふところへ拠ってしまった。

彼の運命は巌頭にあった。筑紫落ちの前夜、また九州から再東上の日、そして今夜――

条件を尊氏に呑ませた。このさい正式に、直冬を九州探題にするということだった。

都もこうだし、九州では、新探題の直冬と、旧探題の一色範氏とが、以後、九州

探題の直冬と、旧探題の一色範氏とが、以後、九州を二分して、大合戦に入っている。

都へ還幸の鳳輦をすすめる。等々、親房の指令は、九州にまでおよんでいた。

、味方がみな遠隔であり過ぎていたことにある。九州、みちのく、信濃、新田諸党も、急には上洛できない条件の地にあっ

ところがここへ来て、九州の足利直冬は、南朝からうけた綸旨を名分に、正平八年の夏、

たものの、決して戦意は沮喪してはいなかった。九州の菊池党は、健在であり、いちどもその初志を変えていない。

ながらの宮方としていよいよ強大になっていたのは九州の菊池一党だけだった。

尊氏にも、九州は数年らいのなやみであり、わけて昨今では、

の地を踏み、みずから菊池征伐にあたらねばなるまい。九州さえ平定し得ればまずは天下も一おう定まる。――そのうえで、

留めておいた一色直氏が、菊池武光に追われ、九州を捨ててさんざんなていで都へ帰って来た。

「いや、九州の少弐、大友、島津。そのほかの古い輩も、多くはそちをよく知っ

畿内

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留守の義詮は、畿内の兵で充分討てる。それに先だって、後村上天皇は賀名生の行宮を

二月に入ると。南朝方の畿内の兵馬が急にそよめき出していた。

の地にあった。しかもそれにしては、伊勢、畿内の兵力だけで余りにここは手薄すぎた。

明石

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「なにしろ明石の検校と仰っしゃるのは、当道派の主座で、それに、死んだ

と一人の女性をつれて歩いて行ったね、あれが明石の検校か」

「もと明石ノ浦にいたのでそう呼ばれているが、覚一法師というのがほんとの

「……じつは先ほどから、明石の検校どのにぜひお会いしたいと、年のころ六十路がらみの法師と、

母の草心尼はとうに亡い人だったが、よく明石の家へ遊びに来ていた兼好法師がその母をも説いて、たっ

せる清雅できれいな女性だった。そして母の歿後、やがて明石の隠れ家を捨てて尊氏を都にたよって出て来た時には、尊氏

のでございました。……聞けばお三名も、明石の検校どのを訪ねて来たが、今日は当道の門人一同と等持院へお出まし

果たされました。お目にかからぬうちから、とうに明石の検校のお名は伺っておりましたものの」

、盲人たちは、ここの結界をたのんで、その夜は明石の検校を中心にかなり突ッ込んだ質疑や応答があったものであるらしい

床に居ながれた盲人四十余名は、やがて上座にある明石の検校の、

にもなお朝の光を待ってやまないもの。それが明石ノ浦から興った当道覚一流の格調だった。

生駒山

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、県下野守の一陣は飯盛山に、また佐々木入道道誉は生駒山の南に――といったふうに、無慮三、四万の大軍を霞むばかりに

筑波

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しかもそれは、遠州灘の難破後、常陸にただよいついて、筑波の小田城にたてこもり、四面敵中という境界で書いた陣中の著述である。

叡山

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て発足はしたが、それはたちまち、天台の本山、叡山の大反対をよびおこした。

と、叡山側でも、民の塗炭のくるしみを、反対の理由にとった。

やっと、寺号はここに「天龍寺」ときまって、叡山のやっかみもどうにかなだめられたので、始めてその地曳式(地鎮祭)

とは、叡山が攻撃理由としている第一の声だ。夢窓は、これにも一案

好餌のもとに、協力を求めたのである。だが叡山はその前日、直義の墨付で、すでに近江三箇荘をもらっていた。当然

朝廷をそそのかして叡山へ動座をうながし、北朝のみかどを越前へ迎え取ってしまおうなどの策もすすめられ

「叡山はまだ、うんといわないのか」

「よし。叡山の返答など、気永に待っているにおよばん。明日は東坂本へさして

鎌倉

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、われらは戦陣また戦陣――。母者もまた、あの鎌倉から三河、伊吹、さらには丹波の山奥と、流転に流転をかさねられた…

かつては、その所信から、大塔ノ宮を鎌倉の牢で刺し殺させもした、あの強い自信である。

つたえられるところによると、鎌倉にはいま、尊氏の子の千寿王が、足利義詮となって、京都から

「はや、鎌倉はそこ」

と、急いできた顕家も、ついにここ鎌倉で越年となった。霊山出発いらい、四月目だった。

むかし、鎌倉にいた頃から深く帰依していたあの禅師(当時、疎石)で、

は、今後、政治の面からは一切身を退く。そして鎌倉から尊氏の嫡男義詮(幼名、千寿王)を呼んで直義の後任にすえる、

直義が北陸からひがしへ移動した目的は明白である。鎌倉に恒久的な地盤を固めようとするにあろう。もし関東一円が直義方となっ

事実、直義はもう鎌倉に入っていた。そして管領の基氏(尊氏の次子、十歳)を

蒲原で破れ、富士川でも全敗した。直義はついに鎌倉を出、足柄山の険に立った。彼の形相ももう以前の直義で

それに、いちど鎌倉を追われた管領勢も盛りかえして来たし、直義方がいたる所でやぶれ

「何はあれ、連れて来いと、先に鎌倉へ入って、お待ちなされておられます」

直義が鎌倉に着いたのは六日である。身柄はすぐ鎌倉の延福寺へ入れられ

が鎌倉に着いたのは六日である。身柄はすぐ鎌倉の延福寺へ入れられた。

しかし、その鎌倉がまた混沌で、京都をかえりみている余裕はなかった。尊氏は管領の邸

鎌倉にこそ入ったが、そして直義をも捉えはしたが、尊氏自身もまた

さまが大塔ノ宮を殺めさせたのも、所はこの鎌倉だった。ここでお果てなされるとは」

の残党と通じて、いつ寝返るか知れない者が、なお鎌倉の内にはいる証拠と見てよい。

尊氏はついに鎌倉を捨てた。

彼は、鎌倉を取り戻した。鎌倉じゅうの敵を追って、元の管領邸におちついた。

彼は鎌倉から使いをやって義詮に策をさずけた。

尊氏は、遠く鎌倉に。

おそらく、鎌倉で毒殺された直義のことは、彼をいからせ、彼を一ばい奮然

月である。すでに、尊氏も変を聞くやいな、鎌倉を発足していた。

素地ができているから始まったことなのです。源平、鎌倉、北条と長い世々を経てここまで来たこの国の政治、経済、宗教

関東地方

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上杉憲顕や細川和氏やまた高ノ重茂らがつき添って、関東地方をかため、とくに斯波家長は、東国における実戦では経験第一の者

和泉

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「河内へ退こう。河内、和泉、摂津の兵を糾合し、敵の天王寺へ突いて出よう。かしこに拠れば

戦陣に使ったという猛獣)を上手に用いたらしい。和泉、河内の野に転戦してからも、彼の軍は、行く所で勝っ

激烈をきわめ、戦場もここのみでなく、摂津、河内、和泉の野にわたる一円の火となっていた。

、師直は河内へ入って東条を突き、また師泰は和泉へ攻め入る戦法とか。――これはゆゆしい。和泉のお味方はほとんど手薄だ

泰は和泉へ攻め入る戦法とか。――これはゆゆしい。和泉のお味方はほとんど手薄だ。それゆえ親房自身、明日はここを立って、

手薄だ。それゆえ親房自身、明日はここを立って、和泉へ向うつもりでおる」

楠木勢以外にも、四条隆資を大将とする「――和泉、紀伊などの野伏ども二万余人」と、太平記もいう後ろ備えはあった

何の感情もおもてには出していまい。その親房は和泉にいたのである。そして正行が亡いあとは、正行の弟正儀を起用

師泰は、吉野攻めの後も、和泉の北畠親房や河内の南軍にそなえて、戦場にとどまり、春いらい一度も都

吉野山

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吉野山から伊勢の港へ出るには、山間二十八里、急いでも三日がかりの

足柄

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でやぶれたのは当然といってよい。――直義は足柄を駈けくだって海道の救援に向ったが、しょせん、味方の収拾はつかなかった

清水寺

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それいぜんには、清水寺の焼失があり、持明院の一角からも火が出、そのほかの小火災と

さよう。私もそんな気がする。一例をあげれば、清水寺の願文など、あれを書かれた御本心が疑われてならないのです。

げに、人の心とは怪しいものです。とはいえ、清水寺の願文が嘘の文字とは申せませぬ。あれを書いたときのお心

能登

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ひびいている。また、響きに応じて、加賀の富樫、能登の吉見、信濃の諏訪、そのほか、事を好む豪族は、みな彼が尊氏

小田城

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遭難から常陸へただよいついた北畠親房は、そのご筑波の小田城や関城に拠って、大いに東国を攪乱していたが、ことしついに関城も

は、遠州灘の難破後、常陸にただよいついて、筑波の小田城にたてこもり、四面敵中という境界で書いた陣中の著述である。

甲賀

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ている。丹波、但馬、伊勢ざかい。――その伊勢から甲賀へ打って出た石堂、仁木の党は、直義の党と合して、佐々木

高野山

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、四度にもおよんだ。結局、師直、師泰は高野山へのぼらせて生涯を出家遁世に終らせる。これなら尊氏は二人へ告げて

犬上郡

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て、やっと、京都のそとへ逃げ走り、やがて近江の四十九院(犬上郡)までたどりついたとき、はじめて、ほっと、おちつきを取りもどした。そこで佐々木道誉の、

観心寺

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いた。そして河内へ行き、いらい二十二年の長い間、観心寺の片すみに一庵をむすんで、人知れず正成の掃墓をしていた

太秦

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それには嵐山を望む大堰川から太秦のあたりまでをふくむ亀山上皇の離宮のあとがある。その地域をあてて、

箱根

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伊豆にいたので、顕家の南下に呼応して、箱根に旗を上げ、また、新田義興(当年、まだ二歳の徳寿丸)は

「このうえは箱根に拠って」

上杉憲顕、そのほか、味方は四散したままで、すでに箱根は敵にふさがれていた。

尊氏方の仁木義長の軍勢が混み入っていたので、箱根の西裾をたどって北条の里へ落ちのび、小寺や民家にわかれて匿れ込ん

石山寺

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した。兵はそう多くもなかった。しかし、兵を石山寺にとどめて、伊吹の道誉と、即日、何やらしきりと使者を交わしており

直義の脱走を、尊氏は石山寺の出先で聞いた。そのとき彼は多少の閑でも心にあったの

高麗

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これを彼がさとった時は、宇都宮、小山、高麗などの思わぬ敵襲をうしろに聞き、また甲斐方面や海道筋には、富士

して有名である。だがほんとは、多摩、入間、高麗の三郡にかぎられた地域の戦いであった。碓氷峠や三国峠は

伊賀

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、北伊勢へ、転進をつづけた。――そして伊勢や伊賀の山中でも、行く先々では、足利方のさまたげに出会ったが、行く

加古川

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難に累せられて、讃岐へ流されてゆく途上、加古川で船を待つまに、兼好の弟子の命松丸から、ふところ飼いの仔雀

飯盛山

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にまですきまもない兵を充て、県下野守の一陣は飯盛山に、また佐々木入道道誉は生駒山の南に――といったふうに、無慮三

比叡山

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しかし、ここにまたぞろ穏やかでなかったのは比叡山で、南都の大衆にもよびかけ、連日の三塔会議でさけんでいた。

法隆寺

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か、大和の結崎に田楽能の一座を開き、春日、法隆寺、東大寺などの仏会神事の催しごとも預かって、どうやら結崎一流の能

衣笠山

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葬儀は、衣笠山の等持院でいとなまれた。勅使の差遣、五山の僧列、兵仗の堵列、すべて、

まもなく、衣笠山の麓にたどりついた盲人の列は、順次、本堂での席序をただし、廻廊

関東

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一令、みちのくの兵も起ち、南下して、尊氏を関東の野につつむ。

場合では解きようのない宮方の大敗だった。これで関東における計画はまるつぶれとなった形である。はるばる来た奥州勢もむなしく

は、親の光というものがなくはない。尊氏が関東で勝った影響というべきだろう。京都を見下ろす東山のみねには、夜ごと

「関東での御苦労など、深くお察し申しあげまする」

川越

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をしてその背後を驚かせ、また芳賀貞綱の勢を川越から。武田、薬師寺の軍を狭山から。およそ三面から総がかりで寸断した

延暦寺

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にみると、叡山側は一も二もなく山上の延暦寺へ後光厳をお迎えした。また尊氏は、さらに一歩を進めて、東山のみね

武庫川

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「ですが、あの日、武庫川に待って、師直以下の眷属を襲殺したのは、能憲の下知では

天王寺

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そして、天王寺の敵、細川顕氏を破って、そこを占領したのは三月八日

して陥ちない。しかも、ここに手まどっていれば、いよいよ天王寺方面の顕家を強大にする。

「さきに天王寺を攻めろ。天王寺が陥ちれば、男山も自然陥ちる」と。

「さきに天王寺を攻めろ。天王寺が陥ちれば、男山も自然陥ちる」と。

天王寺の常明燈御料の田を、師泰は自己の領に加えてしまった。

てしまった。ために油の料にも事を欠いて天王寺は貧窮をきわめた。――のみならず師泰は、天王寺塔の九輪の

河内和泉

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そして伊勢に、北畠親房、河内和泉には、四条隆資と、それぞれの地に、それぞれな宮方の驍将がたたかって

、ほかの武士どもがまたこれを真似、またたくうちに、河内和泉の古寺の塔は、塔の簪花たる飾りを失い、宝鈴はみんな武士

神奈川

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て、尊氏を外へ追った。――尊氏は武州の神奈川へ落ちのび、船で房総へ渡ろうかとまでの覚悟をしたが、なお彼

河内

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やはり河内から大和へ潜幸されていたものらしい。しかし、この方面は、相当、

「河内へ退こう。河内、和泉、摂津の兵を糾合し、敵の天王寺へ突いて

「河内へ退こう。河内、和泉、摂津の兵を糾合し、敵の天王寺へ突いて出よう。かしこに

使ったという猛獣)を上手に用いたらしい。和泉、河内の野に転戦してからも、彼の軍は、行く所で勝った。

くり返しつつ激烈をきわめ、戦場もここのみでなく、摂津、河内、和泉の野にわたる一円の火となっていた。

。その若武者振りは衆目をひいたが、やがて年の暮頃、河内へ帰って行った。

八月、細川顕氏は、河内の池尻へ出陣し、九月、藤井寺で戦い、十月には、山名時氏

大名の軍勢をひきいて、時も正月というのに、河内の戦野に立つ身となってしまっていた。

へまでわたっていたろうとも考えられる。しげしげ御所に見える河内の正行なども、親房からじかにその熱烈な思想、哲学、歴史観、戦略、

熊野海賊の洋上勢力も傘下に加え、また近くには、河内の東条に前衛本陣をきずいて、そこには、正成のわすれがたみ楠木正行を

「正成の一子、河内の帯刀正行事、ちかく敵の大軍にまみえる覚悟のほどをほの見せて、ただいま

、かつて顕家は、千里の遠くからこれへ駈けつけ、大和、河内の賊軍を追いしりぞけ、よく先帝のみ心を安めたが、ついぞ伊勢にありしこの

いるという。――そして直義は男山に陣し、師直は河内へ入って東条を突き、また師泰は和泉へ攻め入る戦法とか。――

師泰は、吉野攻めの後も、和泉の北畠親房や河内の南軍にそなえて、戦場にとどまり、春いらい一度も都に帰還してい

石堂頼房をつれて河内へ奔り、河内の石川城にいる同族の畠山国清の許にかくれ、南朝の

石堂頼房をつれて河内へ奔り、河内の石川城にいる同族の畠山国清の許にかくれ、南朝の朝廷へ、帰降

が、おかくれになった土地さえよく分っていない。河内の山田とも、越後か信濃とも、遠江国の井伊谷とも、諸説まったく

そっくり人質として八幡に囚え来って、三月早々、河内の東条へ移し、後にまた、賀名生の山中に連れて行ってしまった

、それいぜんに、後村上天皇は、賀名生の行宮を、河内の金剛寺へ遷されていた。尊氏へたいして、一歩前進を見せ、

自分の奉公もこれまでと弓矢も思い断っていた。そして河内へ行き、いらい二十二年の長い間、観心寺の片すみに一庵をむすんで

諏訪

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信濃では、尊氏の党と称する小笠原と、直義方の諏訪とが、勝手な戦争をはじめてしまった。すべてたれの意志でもなく宇宙の

へ駈け集まった。斯波、桃井、上杉、山名、畠山、諏訪、宇都宮など名だたる武将どもである。度を失ッてはいなかった。むしろ望む

響きに応じて、加賀の富樫、能登の吉見、信濃の諏訪、そのほか、事を好む豪族は、みな彼が尊氏から離れたことを惜しむ

亀山

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規模の雄大なことは想像を絶していた。――亀山、嵐山、大堰川をとりいれて、――その中心に祇園精舎にならった毘盧遮那

八幡

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している勝者だった。彼は、尊氏より一日おそく八幡から入洛して、錦小路の自邸に入り、斯波、石堂、山名、桃井の諸将

、住吉、天王寺などを経て、閏二月二十九日、八幡の男山に入られた。

長楽寺

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夜ごと兵のかがり火がふえていた。火の線は長楽寺、双林寺、阿弥陀ヶ峰の端までつらなり、四月に入ると、天を焦がすばかり

加賀

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行動は遠近にひびいている。また、響きに応じて、加賀の富樫、能登の吉見、信濃の諏訪、そのほか、事を好む豪族は、

金ヶ崎城

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した。――直義も帰る気はない。すでに越前の金ヶ崎城に入って、自分の行動は遠近にひびいている。また、響きに応じて

嵐山

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それには嵐山を望む大堰川から太秦のあたりまでをふくむ亀山上皇の離宮のあとがある。

雄大なことは想像を絶していた。――亀山、嵐山、大堰川をとりいれて、――その中心に祇園精舎にならった毘盧遮那仏の

「嵐山もむかしはただの山だった。こんな見事な花の山でなかった。昔

けれど、嵐山も大堰川もとうに花は散ったあとだし、めくらに新緑を愛ずる

伊勢

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そして伊勢に、北畠親房、河内和泉には、四条隆資と、それぞれの地に、それぞれ

一気に、北伊勢へ、転進をつづけた。――そして伊勢や伊賀の山中でも、行く先々では、足利方のさまたげに出会ったが

みかどへお目にかかろうともしなかった。また、つい伊勢に居ると聞いている、父の北畠親房とも、もちろん、会ってはい

吉野山から伊勢の港へ出るには、山間二十八里、急いでも三日がかりの難路で

宗広は、親王を奉じて、篠島から一たん伊勢へひっ返した。自然、颱風に吹き返されたような形だった。ところが、

な形だった。ところが、その十一月、この老将は伊勢で病んで、ついに帰らぬ人になってしまった。――かの亡き将軍顕

の賊軍を追いしりぞけ、よく先帝のみ心を安めたが、ついぞ伊勢にありしこの父へも、会いには来ず、吉野の御所へも、

を起している。丹波、但馬、伊勢ざかい。――その伊勢から甲賀へ打って出た石堂、仁木の党は、直義の党と合して

伊勢の北畠顕能の軍は大和の五条に着き、楠木正儀は東条に拠って、

ない条件の地にあった。しかもそれにしては、伊勢、畿内の兵力だけで余りにここは手薄すぎた。

出雲

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勲功の臣には、かつてそれぞれ恩賞が下されたが、出雲の守護、塩冶高貞へは、宮中のその一美人を賜わった。

さきに石見に落ちていた足利直冬とむすび、伯耆、出雲の兵をあつめて、それはたちまち、京都をおびやかす一団の疾風雲になり出し

兵庫

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て、十七日、師直、師泰の兵を先手に、兵庫へ出、さらに御影街道へと、怒りの奔流を見せていた。

兵庫を出はなれると、はたして道の両側には敵兵の顔がたくさん並んでいる。

武蔵野

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、敵の堅陣をけちらし、十六日には、長駆、もう武蔵野の西を駈けつつ、

)と脇屋義治(義助の子)を両翼とし、ほとんど武蔵野を風靡していた。

そうとでも解釈するほか、武蔵野の場合では解きようのない宮方の大敗だった。これで関東における

房総

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追った。――尊氏は武州の神奈川へ落ちのび、船で房総へ渡ろうかとまでの覚悟をしたが、なお彼を慕ってくる軍は

東大寺

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奈良坂、東大寺附近、法華寺界隈、手掻小路と、合戦は連日、熾烈をきわめた。

大和の結崎に田楽能の一座を開き、春日、法隆寺、東大寺などの仏会神事の催しごとも預かって、どうやら結崎一流の能舞を

祇園

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見物が群れ集まっていたのである。――勧進元は、祇園の僧行恵という者で、四条大橋を架すための浄財をあつめるのが主

天龍寺

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やっと、寺号はここに「天龍寺」ときまって、叡山のやっかみもどうにかなだめられたので、始めて

「ここに尊氏、直義の発願によって、天龍寺を創つ――」

さっそく、木の香も新しい天龍寺の大本堂で、仏事始めが、とりおこなわれた。

「夢窓を追放し、天龍寺を破却せよ」

こんなさい、或る夜、天龍寺に放火しかけた一法師が捕まったなどの事件もあり、造営奉行の高ノ師直

「天龍寺の落慶式はあくまで予定どおりに挙行する。――王法仏法とはひとり天台だけ

人波でしばしば停頓を見、ために、尊氏直義の車が天龍寺についたのは夕がたになってしまい、全山の僧侶は、八十四間の山門

世はまさに、天龍寺の建立にかけた祈願にこたえて、久遠の華厳法相四海平和が地に降り

にまで隠然たる勢力をもち、夢窓を追って、やがては天龍寺の主座に坐ろうとしている野望の怪僧かとも考えられた。

天龍寺が焼けた。

京都

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いわゆるこれが、南朝である。――それにたいして、京都の朝廷を、北朝と、世人はいった。

京都では、暮の二十九日、なんとなく殺伐な気の失せない中に

、尊氏の子の千寿王が、足利義詮となって、京都から降って来ているという。――そしてまわりには、上杉憲顕や

京都を奪回せよ!

京都の北朝は偶像である。傀儡師の尊氏にはさしたる戦意もない。直義

京都を奪回せよ

東西南北から、京都へ迫れ。

、青野原――すべて敵勢で充満していた。はやくも京都から直義の指揮下に、高ノ師冬、吉川経久、佐々木道誉、おなじく秀綱、

京都では、この敗報に、大動揺をおこして、一時は、西国落ちの

も退くべきでなく、どんな犠牲を払ッてでも、一路京都へ行くべきであると、顕家は考える――。

何ら、その消息を知りようもない。もし、義貞も京都へと、歩調を共に進んでいるなら、自分はここを一歩で

「京都回復の大命を成しとげ、そして真の勝利をみるまでは」

その京都にあっては。――尊氏もこのところ、従来の“直義まかせ”を

昨今、京都の上下は恟々と万一の憂いにおびえ出しており、それに第一、

ば、海の口を扼し、かたがた、淀をさかのぼって、京都回復の作戦に出ることもできる」

京都は目前だが、同時に足利軍の配備は、これまでに踏破して

雨の京都は、この報で、

けだし、天王寺の陥落は、淀川の線に沿って、すぐ京都をおびやかしうる体勢を敵が持ったことを意味するからだ。

有ル。一刻モ早ク、辺境ノ合戦ハサシ措キ、京都回復ノ征戦ニ急ギ上レ”

にあるのか、とうとう、このかんじんな時機に、北方から京都を突いて、尊氏の胆を寒からしめることもなく、ついに四月は過ぎ

京都回復

「ぜひもない。京都回復の企図はしばらく措こう。要はまず、東国奥州の固めに主力を

御無念はあったにしろ、死んでも魂魄はつねに京都回復を望んでいるとか、自分の命にそむく天子は、天子も天子

いわば京都の平和は、京都の中だけの小康だった。――それもしいて天龍寺造営の名で醸さ

いわば京都の平和は、京都の中だけの小康だった。――それもしいて天龍寺

から、吉野にいても全国に目をくばって、とくに京都奪回には、一念をそそいでいた。

へも、会いには来ず、吉野の御所へも、京都奪回を見る日まではと、いちどの伺候もしていなかった。

の報に、その夜、京都は万歳の声にわいたという。

あぐねてしまい、あと一歩の肉薄をのこして、急に、京都へひきあげた。

ひとつには、京都の留守が気がかりだったものである。直義、上杉、畠山などの、いわゆる

を剃って恵源といっていた直義は――とつぜん京都から姿を消した。

つまり京都をあけていた留守中の出来事だったのだ。

が、西国の叛意をかきあつめて、すてておけば大挙、京都へ攻めのぼって来そうな気勢に見えたからだった。

は父に出会った。直義方の桃井直常に追われて京都を逃げ出して来たのである。

心配であった。――年を越えつつ尊氏は備前から京都へ急いで引っ返した。――だが途中で、もうその義詮は父に

とおもうと、尊氏は慚愧と怒りに燃やされた。わけて京都を追われて逃げ出して来た義詮のみじめな姿は、我慢がならない

彼はただちに義詮をつれ、師直を先鋒に、京都へ入った。

人として、終日のぬかるみと小糠雨にまみれた姿で京都につき、夜、上杉朝定のやしきに入った。「――あたかも流人の

の丑満(午前二時)、直義はついに大原路から京都の外へ落ちて行った。――いや、それらの叛骨と野望しか

成らず、都へ帰ったが、もうそのとき、尊氏は京都にいなかった。

尊氏は一たん京都へ戻った。

。――直義はまだ越前にいて動いていない。京都が危ないという風説なのである。

ただ事の京都ではない。この年暮から正月――。

のうえの戦略だった。つまり尊氏を東国に、義詮を京都に、それぞれ分断して同時に誅伐する両刃のはかりごとを考えていたの

しかし、その鎌倉がまた混沌で、京都をかえりみている余裕はなかった。尊氏は管領の邸に入ってもう五十

京都の留守も気がかりだし、外には大敵がせまっている。新田諸党のみ

軍はあとを絶たず、仁木、今川、大高、二階堂など京都いらいの将士二、三千は集まった。尊氏はそれに力を得、多摩

そのご、京都の留守をしていた足利義詮のうえにも、大困難がおこって

義詮は、細川顕氏や仁木義章にまもられて、やっと、京都のそとへ逃げ走り、やがて近江の四十九院(犬上郡)までたどりついたとき、はじめて、

「いや、京都などはいつでもまた奪り返せましょう。大御所にもこれはお分りになっ

、早くもその軍力をあらたにして、逆に、京都に進撃してきた。

と、見たか、総帥の親房は、やがて自身、京都へ乗り込んでいた。そして第二だんの急務として、義詮の追討

はない。尊氏が関東で勝った影響というべきだろう。京都を見下ろす東山のみねには、夜ごと兵のかがり火がふえていた。

の名が京都を圧してくると、阿波から細川の一手勢が住吉に上陸し、いち

は無事に賀名生へひきあげられたものの、なんと儚い京都還幸の希望だったことか。――親房の大計画も、わずか百日

義詮は、京都に。

軍は、もちろんこれに呼応して、直冬と共に、京都へせまった。――義詮は防ぎきれず、新帝の後光厳を奉じて、

は急調を加えて行った。そして月の末には、京都へ突いて入った。

宣下まで与えて鼓舞していたが、直冬はもろくも京都をすてて山陰の石見へ逃げ落ち、そこでまた諸国の直義党を糾合し

むすび、伯耆、出雲の兵をあつめて、それはたちまち、京都をおびやかす一団の疾風雲になり出していた。

、斯波高経らも北国の兵をあげて応じ、またも京都は、あやうくなった。

例があるので、やがて新帝の後光厳を奉じ、われから京都を捨てて出、近江の武佐寺で、その年の正月をこえた。

京都は、彼が幕府を置いてからでも、猫と猫の間の鞠

ともあれ、京都はそれ以降、ややおちついた。

ほかの上皇親王たちも、五年ぶりで、解かれて京都へ還って来られた。が、ひとり光厳法皇だけは、伏見の寺へ

しかも将軍家であれば、それではならん。由来、この京都には常時たくさんな兵は置けぬ。事あるたび、諸国の大名や家人

宇都宮

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やがて宇都宮についた顕家は、そこから一使を、吉野朝廷へ飛ばしていた

宇都宮は、結城宗広の領で、いわば官軍の一拠点である。七日ほど

とする軍のほか、さらに仁木、今川、細川、県、宇都宮、武田、佐々木(道誉)などの諸将をも、なおぞくぞく戦場へそそぎこんで

遠い林間、はるかな丘の起伏にも、仁木、今川、宇都宮、山名、細川などの旗が、変通自由な遊軍として伏せてい

集まった。斯波、桃井、上杉、山名、畠山、諏訪、宇都宮など名だたる武将どもである。度を失ッてはいなかった。むしろ望むところ

常陸の佐竹、野州の小山、白河の結城、宇都宮などへ、出兵をうながし、北方からの攻囲を命じたものである。

これを彼がさとった時は、宇都宮、小山、高麗などの思わぬ敵襲をうしろに聞き、また甲斐方面や海

奈良

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「では、ぜひもない。道をかえて、伊勢路から奈良へ入ろう」

「オオ、奈良が見える」

あっただけで、顕家以下の長途の兵は、ここに奈良を占拠した。

奈良とは目と鼻のさきの吉野である。けれど顕家は、ついに、吉野

へ出馬し、帰っては北国の手当を督し、また、奈良方面の作戦に当るなど、向うところの局面へ没している。

尊氏の心境も、もう前のようではない。顕家の奈良占領の事実は、彼を大きく反省させた。

二月二十八日以降の、足利勢の奈良攻めには、たしかに、その指令は、尊氏から出たかとみられる

奈良は、猛攻撃をうけた。

と、顕家は四囲の情勢から今は奈良を放擲するしかないときめて。

の疲労からまだ充分に脱けきれていず、それにこの奈良へ着いてからは、士気のゆるみも生じていた。

と、ただの野性の若さだけになり、それが物珍しい奈良界隈の都会的な物への物欲に移行していって、燃え狂ったのは

興福寺略年代」には、このときの奥州兵は、奈良ではじつに手当り次第な掠奪をおこなって、まるで野の子供みたいな野蛮

のみだ。日吉山王の神輿を挙げて、朝廷へ迫ろう。奈良の興福寺大衆も、春日神木をかついで、われらと同時に、洛内

で、やっと、敗走兵の中に駈けまじりながら、朝がた、奈良まで来たが、

福岡

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彼が弟の豹変を知ったのは、備前福岡城にいたときだった。

千葉

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、畠山阿波守兄弟、武田陸奥守、二階堂山城ノ判官、千葉ノ介など七、八千をこえていず、とうてい、勝算があるものと

上野

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、まだ二歳の徳寿丸)は、新田党の郷土、上野を出て、これも側面から顕家を助けていたのである。

住吉

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、後醍醐のきみも、住吉神社の造営費をまかなうため、住吉船を勅許されたことがある」

を出した例があり、かつては、後醍醐のきみも、住吉神社の造営費をまかなうため、住吉船を勅許されたことがある」

賀名生の行宮を発輦していた後村上天皇は、住吉、天王寺などを経て、閏二月二十九日、八幡の男山に入られ

が京都を圧してくると、阿波から細川の一手勢が住吉に上陸し、いちど南朝に降っていた赤松則祐までが、またそむい

「それは私も同じこと。――母と私は住吉の具足師柳斎――いまここにいる右馬介の家を訪ねて行き

「それも所は住吉の浜、四所のおやしろのある白砂の上でしたから、ひとしお胸に

そしてなお子を語る親心の問わず語りがつい続いた。住吉の浜でお会いしたときは、まだ清次は生まれていず、その