黒田如水 / 吉川英治

黒田如水のword cloud

地名一覧

越前

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長篠に捷つやいな、次は、越前へ出兵だとは、ほとんど、公然のような岐阜の空気であった。機微

小谷

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藤吉郎秀吉は、北近江の小谷の城から一小隊の部下と、小荷駄すこしを率いて、きょう岐阜に着いた

いるのが藤吉郎秀吉だった。浅井家滅亡ののちは、小谷の城主に置かれ、地位声望いよいよ重きを加えていた彼であったが

で、正直にみな羽柴様羽柴様とその徳を称え、小谷の藤吉郎どのといえば、衆口一致して、

の用向きはすんでいたので、秀吉はすぐにも小谷の城へ帰る予定だったらしいが、官兵衛のために二日延ばして、信長

によろこび、自分は即日北近江の帰途につく、御辺も小谷の城へ来て、数日、遊んで行かないかとすすめた。

去年、北陸攻略の終った後、秀吉は小谷の城から、長浜の城に移っていた。

天満宮

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聞いた。伊丹城の北隅には、古くから祀ってある天満宮があったという。どうもご牢獄は、その辺りらしい」

但馬

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尼子勝久にも会い、鹿之介幸盛とも熟談した。また但馬、伯耆、播磨に散在している旧赤松一族の庶流を訪ね歩いて、

である。疾風の迅さで、彼の兵はすでに、但馬に入り、山口、岩淵、また竹田城を落していた。

「お汝の手勢は、但馬へ入って、但馬に散在する別所の与党を掃討して来い」

「お汝の手勢は、但馬へ入って、但馬に散在する別所の与党を掃討して来い」

と即日、但馬へ再出発した。もちろん彼をして、こんな一部隊的な任に赴かせ

但馬に散在する小敵の一掃は約一ヵ月で終った。もう七月に入って

秀吉が但馬から帰陣すると、信長の本軍は、一翼を加えたので、本格的に、

安土城

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比較しては、少年の目にすら、余りにもちがう安土城の豪壮と絢爛に唯もう唾をのんでいる姿だった。

南禅寺

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月上旬。ここはわけて底冷えするという蹴上の盆地にある南禅寺の一房を出て、山門から駒に乗ってゆくいと痩せたる若い一処士

南禅寺から貰って来た菓子など与え、しばしこの少年と戯れた。

陣よりお暇を賜わって、久しく郷里菩提山の城や南禅寺に籠って、薬餌に親しんでいた竹中重治でござる。近来健康もやや取戻し

ご主君のお目にもかけたやと存じ、昨夜、南禅寺において、伊丹城に総がかりの火の手が揚がる――と承るやすぐ駒を

伊丹城

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場所はいうまでもなく、伊丹城(村重が有岡城と改名)の本丸だったが、城中はどことなく騒然

と、次の間においた名刀の嚢を片手に取上げ、すたすた伊丹城を退がってしまった。そして、そのあとの村重の顔を思いうかべては時々苦笑

までもなく、その後の消息と、遽に、荒木村重の伊丹城へ赴くことになった事情を、書中つぶさに伝えておいたものだろう。

所があります。――てまえが聞き入れた事では、伊丹城の重臣の二、三が結託して織田家のきびしい監視の眼をくぐり、

ところでまた、安土からのご使者などは、屡※、伊丹城にみえるようか」

「なに、官兵衛が、伊丹城内に囚われておると? ……」

ほど猛攻して、幾たびか城壁にまで迫ったが、伊丹城はゆるぎもしなかった。

。――なぜといえば官兵衛は、主命をおびて、伊丹城に赴き、村重が卑劣なる奸計に陥ちて幽囚されたもの。正邪な歴々

われら十三名は、各※すがたを変えて、敵地の伊丹城中に潜伏し、たとえいかなる臥薪嘗胆の苦難をしのぶとも、八幡大菩薩、産土の

こう慰めた。察していた通り、この者たちはすでに伊丹城中における官兵衛の奇禍も、また信長から出ている松千代の処分に

あり、もう一名は栗山善助である。いずれも、ここ伊丹城内の獄中にある主君を救出するために、馬子となり旅商人となり、仲間

いや、わしも、そういう噂は、ちらと聞いた。伊丹城の北隅には、古くから祀ってある天満宮があったという。どうも

ともなそう。石に齧りついても、わが殿を伊丹城の獄屋よりお救い申しあぐるこそ、われらの急務というもの。それ以外

来てからみな半歳の余になるが、いま以て、伊丹城内へ忍び入って獄中の主君に近づくべき方策や手懸りは、まったく見出せないので

そしてまた、仰っしゃることもおもしろい。もしやがて、織田軍が伊丹城へ襲せかけて来たおりに自分が討死したら、その約束は元よりない

間違いなら間違いでいい。内外ゆるがせならぬ場合だ、またこの伊丹城だ。家臣もそれを思えばこそ、些細なことも、気をくばってくれる

この頃から伊丹城中には、惰気ようやく満ち、士気また紊れ始めたかと見らるる徴候があらわれ

曲輪には、表の戦況もとんと知れなかったが、伊丹城の運命は、それより数ヵ月前からすでに傾き出していた。殊に、夏に

そのうちに、労力の徴発が始まった。伊丹城の四方に蜿蜒と長い壕を掘る仕事だった。また壕に沿って、塀

の織田軍もあわてたが、より以上な混乱は、もちろん伊丹城の中にあって、

、何の危険もありませぬが、ご案内のため、伊丹城の外よりお供させて戴いておりまする。――夜明け方までには古池

「伊丹城は完く陥滅。残党の勦討、信忠様、信澄様以下、お味方の入城

「ただ今、滝川殿のご家中に守られて、伊丹城の獄内につながれていた黒田官兵衛どのが、お味方の手に救出さ

の才を惜しむの余りであったろう。口実を構えて、伊丹城に入り、荒木に加担したものと疑っていた。その後そちが伊丹に

にもかけたやと存じ、昨夜、南禅寺において、伊丹城に総がかりの火の手が揚がる――と承るやすぐ駒を打ってこれまで急ぎ参っ

「わしが伊丹城の獄中におったとき、あの藤蔓の這っておる高い窓の外から、わし

筑紫

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立場はともあれ、信長公ともある御名の名折れ、やがて中国筑紫の果てまで、ご征伐を遂げられた後々まで、世の誹りのたねとなろう

有馬

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有馬の池の坊へ、陣輿が着いた。

安土

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自分は、ほんの手廻品と、茶道具一揃い携えただけで、安土の桑実寺に移り来ていた。いわば寺の間借という侘しき住居である

大湖を抱いて、安土と長浜と、君臣同じ渚に住むようになったわけである。

長政となった資である。父官兵衛に伴われて、安土の群臣の前に出ても、また信長に目見得しても、決して卑屈に

安土の城内には二日留まっていた。三日目の朝、官兵衛は信長

その頃ちょうど官兵衛も安土の町を離れ、湖畔の松並木を西へ向って歩いていた。供の

鹿之介幸盛と安土との間にも、すでに一脈の連絡が通じていた。これも直接で

一勢力の重要性も疾くから見ていたので、こんど安土で官兵衛と会い、また信長の内意もほぼ定まるものあるを察して、

これは、敵毛利家を衝撃する以上、安土の宿将たちの心にも大きな波動を打たせた。

は旬日を出ぬまに陥した。城主の首は姫路から安土へ送られた。秀吉は、尼子の主従を引見して、

秀吉はいちど安土へ凱旋した。戦捷報告をかねて、なお次の作戦段階に就いて、親しく信長

勝りましょうな。書写山とは、馬の名もよし、安土のお厩を出たものなら鞍縁起も上々吉。きっとよい出世いたしましょう」

秀吉は疾く、安土の信長へ向って、こう早飛脚を立てていた。そして一面には、

安土へ質子として連れて行って以来、明け暮れ、忘れようとしても、

事態の急を知って、安土の信長は、さきに子の信忠や、諸将を派遣したが、今や

滝川一益や佐久間信盛は、しきりと安土の信長へ向って、前線から献言した。すでに織田譜代のなかまには、

信長の令は、安土から直接に、高倉山の秀吉の陣へ、急使となって、伝えて来

たのである。――で軍師竹中半兵衛を招いて、安土よりかくかくの御命であるが、どうしたものかと諮った。

などの諸大将がそれを扶け、作戦の根本方針も、安土の直令に依って、一変されて来るに至っては、彼の命令

信忠はあらかたの大将とその諸部隊を従えて、一応、安土へ引揚げてしまった。

彼の立場は根柢から覆されたものといっていい。安土の信長に対しても、秀吉に対しても、ひいては、自身説き廻って、

くぐり、沢山な糧米や穀物を闇売りいたしたのが、安土へ知れたのが、因かと思われまする」

「村重様が中国から信忠卿に従いて帰るや否、安土へ召されて、信長公から烈しいご叱責をうけたとか面罵された

「あらましは読めるな。――ところでまた、安土からのご使者などは、屡※、伊丹城にみえるようか」

築かせ、いわゆる持久包囲の策をとらせ、年の暮には安土へ帰っていた。そして軍勢の一半を播州の援軍にわけて急下させ、

が松千代を一見したのも二年前であり、安土の家臣中、よくその容貌を知っている者はほとんどない。

が、竹中家の一家臣にかかえられ早馬を以て、安土の佐久間信盛の許へさし送られた。

は立ち帰ってきた。その家臣からの報告によると、安土の今はそれどころでない緊張につつまれていて、小箱は信盛の手

の子が、成敗に遭って、ついに竹中半兵衛の手から安土へ渡されたという事実を披露されると、一同は、

「はやお見忘れ遊ばしましたか。これは去ぬる年、安土のお城において、わが君から私へ、確と養いおけと、お預け

、お汝は、予の命を奉じて、間もなく安土へ首を斬って出した。あれはどうしたことか」

荒木を征伐し、いままたこの戦果をうけ取ったので、安土は凱歌に沸いた。「信長記」にはその状況を記してこういって

別所三人ノ頸、安土へ進上、御敵タルモノハ、悉ク御存分ニ属シ、御威光ナカナカアゲテ数フベカラズ

安芸

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なるのを察して、吉川元春は出雲へ、小早川隆景は安芸へ、それぞれ退いてしまったことにある。

山崎城

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城の三木通秋を攻め、長水山の宇野政頼を陥し、山崎城の宇野祐清をも討伐した。

摂津

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水軍も味方にひかえ、大坂の本願寺衆とはかたく結び、摂津そのほか所在の内応も少なくない。なんで元就公以来の固い地盤が揺ぎで

も前から行われているといっても過言でない。摂津から山陽方面にかけての豪族たちの抱き込み、物資の争奪、密偵の往来、

ないからな。舟がいいのだ。……ところで、摂津まで渡る小舟を一艘、そちの才覚で雇ってくれないか」

万が一にも、途中、危うしとお察しなされましたら、摂津の伊丹に、これの兄が……」

する男と、これは近衛家の人々からばかりでなく、摂津の荒木村重などから聞きおよび、折もあらば一度お会いしたいと思うてい

「摂津、山城、和泉には、からくもお味方が点在しておるが、一歩播州

摂津の荒木村重の位置はいま重要な性格を持っている。伊丹を本城とし

(摂津。これを食うか、食わぬか)

者だったのである。秀吉の率いてゆく大軍が、摂津を通過するのを見て内心穏やかならぬものがあったことは争えない。

に従って引揚げた軍中の一将荒木村重が、その位置する摂津の要地を扼して、突然、織田家に反旗をひるがえしたという早馬がこれ

「――御着の小寺政職も、摂津の荒木村重に誘われて、ともに寝返りを約し、毛利方へ向って、

、道らしい道もありませんが、あれを越えれば、摂津の物資を三木に輸送し三木の城兵が摂津へ通うことも、さして至難で

越えれば、摂津の物資を三木に輸送し三木の城兵が摂津へ通うことも、さして至難ではございませぬ」

「摂津の荒木が寝返った今日では、すでにそこには一塁を新たに築いて、

は、すでにそこには一塁を新たに築いて、三木か摂津かいずれかの兵を籠め、また輸送路も切り拓いているに違いありません

いかに三木の三道を塞いでも、毛利の兵糧船は摂津の花隈あたりから兵糧を上げて、丹羽を越え、淡河を経、その方面から

「知っての通り、摂津の荒木村重と予の家とは、先代からの知縁。予の代に

良人が、与次右衛門の店へちょっと駒をやすめて、ふたたび摂津へ立つと、使いの者から聞いたので、せめては、よそながらでも

二日をそこへとも思わぬでもなかったが、摂津の情勢は半日の間も猶予し得ぬものがあるし、また、御着の

果たせるかな、一歩、摂津に入ると、険しいものが往来の者にも感じられる。兵庫あたりから花隈城

そのものではなく、やがて毛利輝元の水軍が大挙して摂津の岸へ上がって来るという――謀反前からの誓約を恃んでいるもの

。万一にも、毛利の水軍が、舳艫をそろえて、摂津の沿岸に上陸して来たら、ひとり荒木や高山や中川清秀にとどまらず、

密かに、ここを脱して、なお在る味方の一城、摂津の花隈城(兵庫)へひとまず落ちて行こうと肚をすえたのである。

が、大挙して救援に来る。――或いは海上をすでに摂津へ向って続々来つつある途中かもしれないのだ。それが到着しさえ

明石

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「……そうそう、明石へも立ち寄ろう。船でならば、あそこの浦から乗ってもよい」

相手をしていたが、世が騒がしくなってから、明石の海辺に一庵をむすび、別号を宗和、または隠月翁などと称し

岐阜城

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信長はいま岐阜城にいると聞く。その岐阜へ行くべく上方へ出るには、姫路を経るの

この目的地に入ると、主人の官兵衛には、すぐにも岐阜城へ上るものと考えていたらしかった。けれど官兵衛は、鍛冶屋町のうす汚い木賃に

ゆるしがあれば、明日にでも、御辺を伴うて、岐阜城にのぼり、共に君前へ伺って、なお談合もいたそう程に」

岐阜城への用向きはすんでいたので、秀吉はすぐにも小谷の城へ

後、岐阜城へ招かれたとき、諸将と共に、饗膳を賜わったが、そのあとで

荒木村重

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「旧縁深き荒木村重ではあるが、当方の情誼は尽したものとして、先に送った

いうまでもなく、その後の消息と、遽に、荒木村重の伊丹城へ赴くことになった事情を、書中つぶさに伝えておいたものだろう

ば羽柴勢が三木城に釘付けにされ、織田本軍が荒木村重の包囲にかかっている現下にあって、さすがの毛利もこれを傍観して

筑前

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そちらでは初対面と思われておるか知らんが、この筑前は何やら旧知の如き気がいたす。――と申す仔細は、信長卿の

善い噂はなく、悪いことのほうが多いだろうに、この筑前如きへ、それほどお心寄せとはかたじけない」

が一ばん年下で、次にお許、その上がかくいう筑前か。思えばわしもいつかもう若者の組には入らなくなって来つる

、美濃岩村の菩提山の城主の子じゃ。いまはこの筑前の軍学の師でもあり、家中のひとりでもあるが、信長卿より羽柴

恟々としておる厄介な家人だ。それだけに謂わば筑前の無二の股肱。いや官兵衛、御辺とならば、きっと肝胆相照らすものがあろう

て来られたといわるるか。それは重なるが、この筑前は、実はまだ半分しか食事いたしておらぬ。宵寝の一睡から醒め、飯

「やはり汝は、この筑前よりも、九歳はたしかに若いな」

様にお目通りした上で、よくお話し申すとよい。筑前は、信長様のご指揮によってうごく一将たるにすぎん。……お

、大津まで参られたがよかろう。月もよし、涼みがてら筑前も途中までお見送りする」

「――筑前。何か」

の儀も、近いうちに必ず果そう。その折には、筑前を以て、指揮させる。筑前と其方と諸事緊密に協力して仕

。その折には、筑前を以て、指揮させる。筑前と其方と諸事緊密に協力して仕果すように」

「そちと筑前とは、いわゆる合性だ。最初からの縁でもあるし刎頸の仲。質

でもあるし刎頸の仲。質子の松千代は、筑前の手許へ預けおくことにする。筑前の手に養い置かれれば、其方

の松千代は、筑前の手許へ預けおくことにする。筑前の手に養い置かれれば、其方とても心安かろうが」

「筑前如きまだ未熟な将を中国攻略という大任に、しかも総帥としてお遣わし

「別所長治以下、御身らはみな、筑前の先手に過ぎぬ、帷幕の事、戦略などに、容喙はゆるさんといい

お汝を措いて、誰がよくその任に当れよう。ただ筑前が案じていたのは、其方の生命だ。危険は充分にあるぞ

そのときには、腹を切って、信長公や、この筑前に、申し訳をせんなどと、狭量な考え方をするのでなければ――行っ

「どうだ、筑前は達者か」

ば、今日、使いとして来たというのは、筑前の使いではなく、小寺殿の使いで見えたのか」

「きゃつ、筑前をあざむいて、伊丹へ入城いたしたにちがいない。村重の帷幕に加わって、

「すぐ、筑前へ書状を遣れ。――かねて筑前にあずけてある官兵衛の質子松千代の首

「すぐ、筑前へ書状を遣れ。――かねて筑前にあずけてある官兵衛の質子松千代の首を打ってさし出せ、と」

怒りを発せられたとか。黒田どのの質子、いま筑前の手許にあれば、即刻、打首とせよとのご厳命なる由。佐久間どの

(彼の死を見たことは、この筑前にとって、たとえば蜀が孔明を亡くしたよりも大きな悲しみだろう)と。

ク御存分ニ属シ、御威光ナカナカアゲテ数フベカラズ。併セテ筑前一身ノ覚悟ヲ以テ、大敵ヲカクノゴトク退治ナサレ候ノ事、武勇トイヒ、調略トイヒ

「筑前もさる者」

地から姫路へ移ろう。春三月にはできるだろうな。筑前は気がみじかい。急いでくれよ」

丹波

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その帰途に官兵衛は、供も馬も捨てて丹波から山陰へ廻った。これは今度、秀吉と二日間を安土に送った間

大徳寺

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、多くは帝都にいたと聞いている。それもたいがい大徳寺に参禅していたもので、ひとたび国許から合戦の通知をうけるや否、

高槻城

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高槻城の高山右近と、茨木城の城代中川清秀とは、伊丹を中心とする荒木

佐久間

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命令は、信忠の意志というよりは、その帷幕にある佐久間、丹羽、滝川あたりの宿将たちから出たものであることはあまりにも分明

和泉

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「摂津、山城、和泉には、からくもお味方が点在しておるが、一歩播州へ入ってごらん

伊勢

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伊勢、江州、北陸、諸国に蜂起しては彼を苦しめた宗門の一揆はたしか

本願寺派の抗戦が、種々な形をとって、近畿に伊勢に北陸に、宗門の身のあるところ、隙さえあれば、火の手をあげて

ん、織田家の四隣は余りにも多事で、先年は伊勢へ出征し、この五月には長篠の大戦を果し、兵馬を休める遑も

出雲

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、戦況の持久的になるのを察して、吉川元春は出雲へ、小早川隆景は安芸へ、それぞれ退いてしまったことにある。

伊賀

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ず、その志は天下万民にない。三好氏は紀伊、伊賀、阿波、讃岐などに、公方の与力と旧勢力をもっている点で無視

高槻

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しかも村重の挙に相継いで、摂津一帯の高槻の高山右近も、茨木の中川清秀なども続々、反旗をひるがえしたというし

ので、信長は彼の師父オルガンチノを用いて、巧妙に高槻を開城させ、また中川清秀は元々、村重の挙に本心から同意して

兵庫

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を持っている。伊丹を本城として、尼ヶ崎城と兵庫の花隈城とをむすび、三城連環の線をなして、中国大坂間の交通

場合の備えに何かと打合わせなどして、彼は、兵庫の浦の漁村にかくれて、わが子の着くのを待っていた。

脱して、なお在る味方の一城、摂津の花隈城(兵庫)へひとまず落ちて行こうと肚をすえたのである。そして、一族老臣の

「いや、兵庫まで行ったら帰してやる。あれから船へ乗せて」

城は、いまなお、織田軍が攻囲中であるし、兵庫の花隈城もまだ陥ちてはいない。当然、道中の危険は予想される。

、敵の急追迫るや、ふたたび密かに城を脱して、兵庫の浜から船で海上へ逃げ、毛利家の水軍に投じて、援けを乞う

福原

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して降りますまい。また西播磨では、佐用城の福原、上月城の上月一族なども、別所長治とむすんで、毛利家への忠誠

石山本願寺

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の如何に帰結されます。……ましてその毛利家が石山本願寺と結び、その本願寺派の抗戦が、種々な形をとって、近畿に伊勢

船があって、絶えず浪華や泉州と交通し、また石山本願寺とも連絡をとっているが、まだ織田家には一艘の兵船、一隊

英賀城

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普請を見、ふたたび出ては、秀吉の軍に従い、英賀城の三木通秋を攻め、長水山の宇野政頼を陥し、山崎城の宇野祐清を

加古川

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現地の与党、織田方の一群は、加古川まで出迎えに出ていた。こういう事も元より黒田官兵衛の才覚で、秀吉

加古川の陣屋で、その夜、播州お味方の大宴が開かれた。宴が

加古川を離れると、賀相は馬の上から、三宅治忠へ向っていってい

「加古川で秀吉と会うて来たが、その暴慢無礼には、身が震えたわ

途中、加古川に一宿して、官兵衛は旅舎の燈火を掻きたて、一書を認めて袂に

茨木城

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高槻城の高山右近と、茨木城の城代中川清秀とは、伊丹を中心とする荒木村重の両翼だった。

明石城

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て、中国征討の大事を実行あそばさるるなら、東播磨の明石城、高砂城の梶原ごときは、毛利麾下といわれていても、眼前の

高倉山

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率い、そこの急援に馳せ向って、上月城の東方、高倉山に陣した。

、城中の尼子一族を、こう励ました。――けれと高倉山と上月城との間の谷々には、柵を植え、鹿柴を連ね、塹壕

信長の令は、安土から直接に、高倉山の秀吉の陣へ、急使となって、伝えて来た。

姫路城

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は順路であるが、道のついでに、彼は生家の姫路城へ立ち寄って、母はもう世に亡いひとだが、老父の宗円にも

祖父へ告げねばと思い、また自分の志と変りなき姫路城の父へも一言――と心がいそがれるのであった。

にあたる要害の地であったが、当時はまだ後に姫路城と称されたあの壮大な景観は備えていなかったのである。御着

が……それらの大小城のうちに最も要地を占める姫路城は、すでにかくの如く、ご面前において、お味方の先駆を誓う

、月のない夜に行われた。早馬の知らせで、姫路城から少数の兵が急遽、防ぎに駆け向ったが、到底、精鋭な毛利勢

秀吉は、姫路城に入って、ここから、一応形勢を、現地的観察の下に見とどけると

――御着の小寺を攻め、あわせて、姫路城の黒田宗円をも、一挙に揉み潰せ。

大きな驚愕をうけたのは、官兵衛の郷党とその生家たる姫路城の人だった。わけても年老いた彼の父宗円であり、まだうら若い官兵衛

姫路城の大改築は、官兵衛が帰ってからわずか数日後の、二月早々

京都

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この辺の第一線である。しかも今川、武田をすら打ち破り、京都の幕府勢力まで駆逐した彼。決して侮ることはできない」

そして抜本的に、中央の癌足利初世以来の幕府勢力まで悉く京都から追い払ってしまった彼である。

だ。が彼は、勝つたびにかならずその部下をひきいて京都に入り、まず宮門に乱の平定を報告した後、庶民には善

―と申す仔細は、信長卿のお供をして幾度か京都に在るうち、ご主君とご昵懇な近衛前久様から屡※おうわさが

を擁しているあいだは、たとえ信長卿が中原の地、京都に旗幟を立てて、足利公方以下、旧幕府の人間と悪弊とを地

ご身分から、これだけに躍進され、積年の悪風を京都から一掃して、旧室町幕府の世頃とは比較にならぬほどな

党に属していたが、信長が兵をひいて、京都に入り、足利義昭を中央から放逐するとき、彼は手勢わずか四百をひ

に死なれては、秀吉のゆくても暗うなるぞ。ぜひ京都で半年か一年ほども養生いたして来るがよい」

。それには、この戦場では、療養もできぬ。京都へ参って、よい医者にかかれ。曲直瀬道三に診てもらえ。あれは当代

ないといっていた平井山の陣地をうしろに、ついに京都へ還って行った。秀吉と官兵衛らに見送られて――。

に一泊したり、そこで旅装を変えたりして、京都から岐阜へ潜行したものであった。

囲いが解けると、同志の一名、後藤右衛門と共に京都へ出向いて、官兵衛の立場を訴え、近衛家の用務をおびて諸太夫

岐阜

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、甲山の精鋭武田勝頼の大軍を長篠に破って、もう岐阜へ凱旋していた。

三年のつい先月、五月の初めには、信長は岐阜を出て、徳川家康とともに、甲山の精鋭武田勝頼の大軍を長篠

「――岐阜は遠い」

信長はいま岐阜城にいると聞く。その岐阜へ行くべく上方へ出るには、姫路を経るのは順路であるが、

信長はいま岐阜城にいると聞く。その岐阜へ行くべく上方へ出るには、姫路を

「およろこび下さい。岐阜へ出向くことになりました」

「岐阜へ。ふうむ……。主家のお使いか」

ありますまい。で、まずこの官兵衛が電馳して、岐阜から戻って来るまでは、かならずこれ以上、御着の城に変化はないもの

一族の誰彼が、いかに策謀してみても、それがしが岐阜から立ち帰るまでは、決して、殿は旗幟を鮮明になさるような事はあり

おとなしゅう待っておれよ。父はこれから都を経て、岐阜という国までお使いに行ってくる。よいか。わかったか」

「松千代も、お父上とご一しょに、岐阜とやらへ、行ってみたい」

「岐阜だ、行く先は――」

「岐阜へ」

みたが、この姿のままでは、海上はともかく、岐阜までは所詮、難なく歩くのは難しい気がする。ちょうどこの家からは、

姫路から岐阜までのわずかな行程を、海路を経、陸路をこえ、実に一ヵ月

この目的地に入ると、主人の官兵衛には、すぐにも岐阜城へ上るものと考えていたらしかった。けれど官兵衛は、鍛冶屋町のうす汚い

「何たる暑さだ。岐阜も暑いなあ。きょうの商いは、これだけにしておこう」

喚きなどで、夜も日もあったものではない。岐阜全城下が眠りに入る真夜半でも、ここの界隈には、火花が

城から一小隊の部下と、小荷駄すこしを率いて、きょう岐阜に着いた。

は、越前へ出兵だとは、ほとんど、公然のような岐阜の空気であった。機微の謀は、秘し得ても、万人か

、その人物に、かくまでの傾倒をもったのは、岐阜へ来てからで、かねての期待をいろいろな意味の事実に裏書きされ

たいと思うていたところでござった。それをわざわざこの岐阜までお越し下されたことは、何たる倖せかわからん。きょう町の辻

ゆるしがあれば、明日にでも、御辺を伴うて、岐阜城にのぼり、共に君前へ伺って、なお談合もいたそう程に」

岐阜城への用向きはすんでいたので、秀吉はすぐにも小谷の

後、岐阜城へ招かれたとき、諸将と共に、饗膳を賜わったが、その

「岐阜表との交渉は、まずまず、上首尾と申しあげてもよいかと存じます」

も理由はある。彼はもうこの十一月の初めに、岐阜の城を一子信忠に譲って、自分は、ほんの手廻品と、茶道具

泊したり、そこで旅装を変えたりして、京都から岐阜へ潜行したものであった。

、かつて官兵衛が志をふるい、郷国を脱出して、初めて岐阜に信長をたずねて行った折に、途中、与次右衛門のすすめによって

(――岐阜以来、幾たびか謁し、この官兵衛も、胸打ち割って、あれほどに心底

「いや、お忘れですか。それがしが初めて岐阜へ参ったとき、姫路は中国攻略の足場として、いつでも献上

大津

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暑い陸路を行くより、夜のうちに湖心を通って、大津まで参られたがよかろう。月もよし、涼みがてら筑前も途中までお見送り

岡山

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いなかった。ある密命を持って、彼は、備前の岡山へ潜行していたのである。――で軍師竹中半兵衛を招いて

、官兵衛は秀吉と諜し合わせて、児島地方に使いし、岡山の浮田直家に会い、共に企策して、毛利家との境に、

松山

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していた吉川家の部下は、護送の途中、備中松山のふもとの河部の渡しへかかったとき、渡舟を待つ間に鹿之介が汗

福井

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という信長の墨付であった。目録には、揖保郡福井、岩見、伊勢村の内にて――と地行割も指定してある。