源頼朝 / 吉川英治
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た仮の館へ移った二日前の十三日に、駿河国の手越の宿に着いていた。
二十日。――全軍は駿河国の加島についた。
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平等院の小島ヶ崎から、一騎、鞭を打って駈けて来た侍があった
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「――でも、よかった。また加茂川に、稚い和子たちの首斬られるのを見るよりは」
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――一部は木幡から醍醐路へと追いまくし京の阿弥陀ヶ峰の東に出で、また他の一部隊は、小野から勧修寺を追いかけて七条
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。――けれど訪ねて行きはしない。遠くから……堀川の柳の木越しに、築土だの、屋根だのを見て帰った
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そして、東と西は、加茂の河辺から山の尾根までを抱き、小松谷の山ふところには、嫡男の重盛が
の館の為にあるようだった。北苑を見やれば、加茂の川岸まで、薔薇園の広芝に明るい陽がほかほかしていた。
て、北山西山のほうをみると、京の町や加茂の水は、まだ仄ぐらい残月の下に眠っていた。
いつか河原へ出てしまった。加茂の水明りに吹かれると、すこし業腹が宥められたここちである。吉次は堤
と、わざわざ遠い加茂の上流まで見に行った。そして帰って来ての話には、
月である。邸のすぐ裏を、今年の花も、加茂の水は日ごとに流し去って、若者たちは、衣更えしている。
「まだ、木曾勢は加茂を渡りもせぬに、大路は、平家衆の馬や車がなだれ打って
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源氏の人々は口々にそう云い合った。逃げるを追って、須磨の方へ駈け下り、そのまま敵の本拠たる西の城戸へ、直ちに迫ってゆく
からであろう。――地形をみれば、ここを降って須磨に出で、西の城戸を攻めるしか攻め口はないので、先に逃げた
実平について須磨へ下った本軍のほうはおよそ六百余騎、――義経の手について
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だった。――彼は、都の乱と聞くと、熊野の途中から引き返し、わずか五十騎ばかりで六波羅の邸に入ると、すぐ計略を
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次第に全軍の足なみは大きくなった。そして、武総の堺、隅田川河原まで来た頃は、その河原で、待ち合せていた者や、
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編制とまで進みかけたが、折も折、左馬頭義朝が名古屋の辺りで討たれて首を京へ上されたと聞えたので、集まっ
「異母兄頼朝の母君は、名古屋のほとりとかいう、熱田の宮の大宮司、藤原季範が女にお在し
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摂津の福原の別荘は、兵庫の海を園の前に、逆瀬川の水を殿
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へ向おうと、僧兵をも加えて宮のお供に立ち、宇治まで来ると、平家の軍勢二万余騎が、地の利をとって包囲に
か、よくいろいろなうわさが飛び出す。頼政にかつがれて、宇治でご最期遂げられた以仁王が、まだ生きていらっしゃるという巷説ではない
に向け、また根井行親を大将に、約千二百の兵を宇治のふせぎに繰出した後は、わずか三百ほどの兵しか京都には残ってい
のこし、彼の軍は、伊賀路から笠置を経て、宇治に屯し、きょう正月の二十日、いよいよ渡河を決意して、この富家の
そういった人がらが、義経は好かなかった。また、宇治、瀬田と分れて戦う前からも、景時とはよく評議のうえで意見の
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この世の常と考えている人たちの中へ、ふと、九条の女院へ雑仕女として拾われてから立ち交じって、その上にも、
九条の女院は、以前、常磐が雑仕女をしていた頃、仕えてい
「そちのことばに従って、九条殿へお願いに出てみよう」
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「貴船神社へ、ご寄進の事がござりまして、主人の供をして参りました
翌る朝。――貴船神社の宮守や里の者は驚いた。鳥居わきの喬木の梢に、緋の
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鹿? ……。ああ鹿ですか。冬近くなると丹波の鹿が、よく一ノ谷へ越えます。春暖かになるとまた、一ノ谷から丹波
よく一ノ谷へ越えます。春暖かになるとまた、一ノ谷から丹波へ帰って行くので」
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だなあ、ついでの事に、この月の中旬には、八幡宮のお棟上げがあるそうだから、それを見物してから帰ろうではないか
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を押されましたから、やがて秋にでもなって、知恩院の説教の莚へでもお見え遊ばした折にそっとお耳打をいたして
知恩院の光厳をつかまえて、すでにある秘密の端緒をつかみかけた事もあったが
、うっかり信じて翌晩を待っていると、光厳は次の日、知恩院の裏山で、見事に自害していた。
いよいよ生命に関わりそうになった時は、素姓を打明け、知恩院の光厳とは知っていた間であることを訴えてみる気でいた
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奥州商人の大商隊が、例年のように、三条の空地に集合して、蹴上から大津へかかり、遠い故郷へ帰って行った
三条へ出る。蹴上へかかる。
の月までが濡れている。四月九日の夜半、三条の大路に人影もない。
三条高倉に、大きな森とも見える一劃があった。後白河法皇第二の皇子、
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云いすてて、心づよくも、黒桃花の手綱を持ち直し、伊吹の麓を見て歩みだした。
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「西国は歩きませんが、都から東北はみちのくの近くに至るまで、ほとんど隈なく遍歴しました。伊豆をこえて、亡き頭
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――四国の伊予にも、吉野、奈良にも、近江にも畿内にも、騒乱が起った。みな平家に
平家の敗色が明瞭になると、丹波辺りでも、吉野でも、いちど平定した畿内の反平家分子も、また一斉に、騒ぎ
吉野の雪霏々、奥州の秋啾々、巷にも、義経詮議の声の喧しく聞え
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と寂楽寺との紛争を裁き、また五月には、祇園神社の訴訟を聴き、そのほか都下の秩序も、禁門のお護りも、まず落度
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奥州産の細布や伊達絹。
重なる物で、吉次は、多く砂金を扱っていた。奥州の産金は、無限に都で需用された。
奥州の文化は今、夥しく都の物を求めていた。名匠の仏像とか
などと云っては、奥州の土産物など持って来た。つい取っておくと翌年も来た。また、
もあるかと興を持っていたところが、つまらない奥州の一商人の紹介なので、宗盛は見下げたように、途中からそら耳で
「ほんとにそうだ。……奥州から何百里、年々の往還りも生命がけだ。同じ生命がけなら、でッかい事
陽が暮れたのも知らないで瞑目していた。奥州から都まで、年に二度はきっと脛で通っている男なので、
いるものだ。いくら平相国が中央に覇を唱えようと、奥州の天地では何ともしていない。強いてその血を源氏か平氏かといえ
「まあ、おかけなさい。奥州かよいの生命知らずが、がらにもないとお笑いでしょうが、てまえに
のうわさがまた、どうも変だと思いましたよ。奥州だって見た事もねえ天狗様が都のほとりの鞍馬にはたびたび出る
「奥州の土産ばなしに、天狗にお目にかかりてえもんだ――と、こないだ
奥州の吉次だった。
知らずな性分が出ないとも限らないからである。奥州から京都を股にかけてみて、吉次は世の中で怖いという人間に出会っ
「奥州の……奥州の商人衆に抱えられて来た、荷駄の男でございます
「奥州の……奥州の商人衆に抱えられて来た、荷駄の男でございます」
その年の秋。――奥州の吉次はもう国元へ帰っていた頃である。
「おう、奥州のお商人か」
にある。中央で両者が相争っていてくれれば、奥州は内容を蓄え、平和を保ち、なお現状より西へのびてゆくことができる
これは、藤原一門のみでなく、奥州の天地では、すこし物を考える階級ならば、常識にあることだった。
「それから奥州へ行こう。――おまえのいう通り、藤原秀衡とやらを頼って」
「それから、一日も早く、奥州へ下って行こう。こんな所にいても、むだな日を過すようなもの
なかった。その頃は盛んに都の女や童が、奥州へ買われていったので、吉次がどこからか買って来た奴僕と
―いやおれはお使い役の木っ葉天狗さ。ご本尊は奥州の平泉にいらっしゃる」
「奥州の藤原秀衡どのを頼って下る途中でござります」
した九郎義経が、ここから近い足柄山を越えて、奥州へ下って行ったその年から二年後である。
、見のがしておきましょうぞ。一刻もはやく、身をもって奥州へなりとお遁れあれ)
「――お取次ぎを賜われ。遥々、奥州より駈け下って参った弟の九郎です。兄頼朝へ、九郎が参ったと、
冠者の語音には、なるほど、奥州らしい訛りがあった。しかし、それも聞きづらい程ではない。ただ、冠者
ではありません。年久しく鞍馬にあり、その後、奥州にかくれて、生い育った九郎義経です。――と、お伝えたまわれば、
、兄頼朝とは平治の乱にわかれ、鞍馬に育ち、奥州の秀衡が許にて人となり、今、源九郎義経と名のる者。――時来って
「なに九郎が。……あの奥州の九郎が訪ねて見えたとか」
た。――兄上にも、お心の隅に、奥州に九郎という一人の弟ありと、他ながらでもお覚えでござりましょう。
ように、私も、年十六の頃、鞍馬をのがれ、奥州へ落ちて行く途中……ついそこの足柄山を越えながら……すぐ眼の
「九郎か。その後は侍勤めにも馴れたか。奥州とは事ちがい、坂東武者はみな気があらい。豪毅勇壮で目ざましかろうが。―
、信濃あたりまでは、ともかく頼朝の武力になびいたが、奥州の藤原秀衡は、まだ源氏に与すとは宣言していない。
鞍馬から奥州へと、かつて、彼の大きな運命の手綱をひいて奔った吉次は、その
が、もしやあなた方は、九郎義経様について、奥州より下られた方達ではございませぬか」
「そういえば、そちも奥州ことば。――奥州はどこだ」
、鎌倉でこそ、吉次の名は小さいものだったが、奥州の国府では知らぬ者はなかった。
船の荷あげも商用も終ったので、彼の手代は奥州へ帰る日どりを彼に諮った。
「奥州におる間も、めったに会う折もなかったが、いつも達者でよいな」
とは、鞍馬にいた頃から、また、足柄山を奥州へ越えてゆく頃から――それからの長い年月のあいだも、義経の胸
どこか、奥州訛りのあることばだった。
たことがある。白拍子の翠蛾さんの旦那さまや。奥州の吉次とかいう人によう似ているがの」
に五、六年前までは、時折見えたことのある奥州の大商人とやらにちがいない」
久しく鞍馬や奥州に培われてきた健全な野性と、また、血には、自分と同じ
ここで貧しい加冠の式をして、吉次と共に、奥州へ下って行ったのである。
奥州、東国は名馬の産地だし、坂東武者はみな馬術に熟練している。
「いえ、ずっと、奥州へ帰っておりましたが、去年、木曾殿の攻め入った頃、ちょうど都へ
を措かなかったが、深く考えてみると、彼が、奥州の金商人として、過去の文化に携わっていた力は大きい。
という策もなかったが、佐藤兄弟のみは、かねて奥州を去る折、藤原秀衡から云いふくめられていた事もあるので、今
加勢の事は断念して、いさぎよくこの地を去り、ふたたび奥州へさしてお帰りあれと――そう義経のために、真心をもって、
寺の食客は、奥州の吉次であった。白拍子の家で幾月もこうしていた彼の都
「奥州へ帰るがよいと、きついご不興をうけ、お詫びいたしたが、お聞入れ
は、これからどう召さるお心か。――故郷の奥州へお立帰りなさいますか」
奥州へ帰る気は元よりない。吉次のいる寺に、ふたりもつい幾月かをなす
吉野の雪霏々、奥州の秋啾々、巷にも、義経詮議の声の喧しく聞えてきた頃、
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「いかにして、屋島を?」
られて都へ帰った平重衡に手紙を書かせて、屋島の宗盛の許へ、
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――されば。常陸の志太義広とか、佐竹一族とか下野の足利忠綱など、まだまだ平家に属する豪族は、五指を折るも足らぬほどある
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流罪となって来た原因なども、凄まじい事である。神護寺の廃毀を修復して、仏法の興隆を喚起し、あわせて父母の冥福
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石橋山から遁れて、甲州その他の方面へ遁れていた味方はかなり多い。加藤次景員、同じく景
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平家軍を、追いに追って、木曾勢は、加賀、越前を突破して長駆、近江まで追撃をゆるめずに来てしまった。
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先鋒の義経は、丹波路をとって亀岡から園部、篠山と通過し――篠山から西南の三草越えをさして急ぎ
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祐親は、伊東の豪族で、北条家とならぶ権門であったから、その事件では親の
領地だった。遠く、平貞盛からの末裔として、伊東の伊東祐親と、北条の北条家とで、その勢力は二分している
「伊東の入道が着いた」
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失っても、京より西にはなお中国、九州があり四国や伊勢方面の地盤もある。
――四国の伊予にも、吉野、奈良にも、近江にも畿内にも、騒乱が
山陽、四国にある平家のまだ侮れない旧勢力と。
――船底には悉皆、兵糧をつみ入れ、世上には、四国へ渡る商い船といいふらして」
攻めはよさぬか、敵の本拠は九州ではない。四国を討て」
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か、養父とか、姉聟とか、従兄弟とかいう、相模国の一方の勢力が、早くも、旗挙げに先立って、離反を表示している
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た文化と物資は、京都にも劣らない大都府を、平泉とよぶ地方に築き上げているとは――この商隊の商人などから都の
ただ悲しいかな、平泉は都市であっても、皇都でない。また、いかんせん美人となって
を、中央に捲起すことができるものとして――平泉の館から黙約を得ていたのだった。
おれはお使い役の木っ葉天狗さ。ご本尊は奥州の平泉にいらっしゃる」
「が、吉次。平泉へ行き着いても、秀衡には、何もいわないでくれ。わしは早く、
供の者四、五名連れたのみで、密かに、平泉を脱け、途中まで急いで来ると――秀衡殿にも、それまでの決心
「栗原郷でござりまする。多くは平泉の国府に住んでおりますが」
「平泉のお館を脱けて、一図にお急ぎ遊ばしたお心はよくわかって
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伊豆の国へ配流の事。
「伊豆へ下られる道中、六波羅からは、追立役の検使、警固の青侍などがつい
「伊豆の国へ」
「伊豆へ? ……。ほう」
伊豆とは、どんな遠国やら、京の人々には想像もつかないのである。
死罪一等を減じられて、伊豆へ流罪ときまってから、頼朝は、口のききようまで、子どもらしくなって
(待ち遠しい。待ち遠しい。はやく伊豆の国というところを見たい)
(双六が欲しい。伊豆へゆくと淋しいから)
一命を長らえました。生々世々、忘れはしません。伊豆へ下っても禅尼様のお幸を、朝夕祈っておりまする」
。二度と憂き縄目などにかかるまいぞ。――伊豆へ下られたら、すぐにもよき導師をたずね、お髪を剃して、
東国の武蔵ノ原とか、伊豆の蛭ヶ小島と聞くだけでも、夢のように、遠い未開地としか想像できない
「あ。相模の海が見える。……伊豆の島々も」
伊豆の蛭ヶ小島とは仄かに聞いているが、その蛭ヶ小島とはどのあたりか。
。富士、愛鷹、箱根連山など。――総じて、この半島伊豆の地上では、そうした風土や自然が、人間の容姿や気風にまで
子は、淵へ捨てられたりなどした事件が、この伊豆では一時、かなり噂に聞え渡っていたからである。
などという詞もあったが、伊豆の女はなぜその中でないだろうか。――頼朝も時には、そんな
武蔵の渋谷庄司重国へ身を寄せた。――そして程近い伊豆にある頼朝へ、音信や贈物を怠らなかったが、遂には、自分の子
聞き及んでいる事が多い。都でもよく話題の人となり、伊豆へ流されて来てからも、里の人々が何かにつけて噂する
呼んで、高尾の荒法師といっているが、当人はこの伊豆へ来てから、自分で自分を、
「伊豆にもはや長い月日となるが、佐殿には、つつがなくご成人かな」
の年を、数えてもおるまい。一人として、伊豆に佐殿のあることすら、今は杞憂に抱く者がなかろう。源家の輩
恥ずかしくない家がらで都会の子弟とあっては、伊豆の片田舎からわざわざ妻を娶ろうなどという聟君は、まずないと云っても
――と云うて、政子の性情や好みは、伊豆、相模、武蔵あたりの近国の土豪の息子では、嫁ぐ心もないらしいの
。自分の持つ手兵、親類の子等、知己の子弟、伊豆には若者がわけて多い気がする。いや世の一般もその通りだろうが、
露出した木の少ない山である。石山の多いのは伊豆の特徴でもある。そうした低い山が、幾つも田野から突兀と
年は変っても、やがて、伊豆の春とはなっても、花嫁の失踪に端を発した去年からの紛争
言語道断である。彼のごときを生かしておいては、伊豆の平和は保たれない。よろしく六波羅へ罪状を訴え、一方、伊豆山権現へ兵
、仁田の縁類、宇佐美、加藤、天野なんどの家僕や、伊豆の土豪の次男三男などの顔が幾つもその中に見出された。
「何故の争いかしらぬが、箱根、伊豆の両権現の地域の近くで、みだりに兵をうごかすにおいては、われ
に残されていた。――その梢に、今日も伊豆の夕日が、はや寒々と訪れていた。
ある。茫々と年月は過ぎてきた。そして、ここは伊豆の山中、当年の頼朝は、はや三十歳の男ざかりである。父義朝にどこ
は初めのうちは少し不足であったが、十四歳から伊豆にいる頼朝に、いきなり十七、八年ぶりに訪ねて来て、血縁の情
はみちのくの近くに至るまで、ほとんど隈なく遍歴しました。伊豆をこえて、亡き頭殿の遺子――この行家には甥にあたる頼朝が
は何もありません。後は、もういちどそれがしが伊豆へ打合せに下ると同時に、あなたが起つまでの事です。――時に
計画にもあずかったので、まず諸国の動静を視、伊豆にある甥の周囲なども見届けた上でと、去年からの諸国遊歴となっ
美濃、尾張と出て、伊豆へはいり、頼朝の配所にも、わずか一夜しか泊まらなかったが、北条時政と
あちらへ参ったら、覚淵御房にお会いして、伊豆、箱根、三島の三社へ、頼朝の代りに、素懐の大願成就の願文
(伊豆とても、安心はなるまいぞ。身を大事に、万一の備えを)
静かに、十七日の午さがりは過ぎて行った。伊豆の山々も、田も、町の人々も、やがて何事が今夜を待っている
に去って、一天雲もなく晴れていた。ただ見る伊豆の海から房総の沖へかけて、まだ夜来の荒天を偲ばせる狂瀾のしぶき
、わずか八十余騎の小勢に過ぎなかったが、あれから伊豆を発して、三浦郷をこえ、相模の土肥へかかるまでに、三浦次郎義澄
かねて頼朝とは宿怨のある伊豆の伊東祐親入道の到着を待っていたものらしく、伊東二郎祐親の軍勢およそ
伊豆の海は、戦のせいか、漁火の影もない。先頃の暴風も、
当然、伊豆に揚がった波濤は、ここの岸へも搏って来た。
頼朝の人間的評価も、地元の伊豆よりは、この地方のほうが、より高く買われていた。彼が伊東
平家衆のみやびもお真似なされじゃが、きのう今日、伊豆を這い出た坂東者や若人が、今から人の顔いろばかり恐れているふうで
と、案外弱かった。いや、こっちの皮膚や精神が、伊豆でさんざん鍛えられて来ているので、そう思われたのかも知れなかっ
なんだっ、千にも足らぬ小勢を引いて――。伊豆に敗れ、辛くも安房にのがれて、ようやく千葉が組したので、形ばかり
「伊豆では、平家方に立って、三浦殿を悩ました秩父の畠山重忠が、
と見えたが、その僅少な徒党に対して、伊豆、相模、武蔵の平氏が何千と駈け向ったというので、
いう幼な子が、粟田口から押立の役人衆にかこまれて、伊豆の国とやらへ流されて行った――」
五、六人に足らぬ身寄りにかこまれて、配所の伊豆へ送り遣られた哀れな一少年のすがたは、まだ記憶している者が
伊豆の秋戸郷から来た侍だとある。頼朝は秋戸と聞くと、
その夜、頼朝は手紙をかいて、伊豆へ急使を立てた。
。これに在わすは、御台所の政子の方様である。伊豆の秋戸の里よりお渡りあって、今この鎌倉へお着きなされたところ
、甲斐源氏のわれわれが克ち取らねばならぬ。――伊豆、下総、上総、相模、武蔵の味方たちは、年来お側にご奉公を
まわれば、兄頼朝はご存知のはずです。過ぐる頃、伊豆のご配所より、旗上げの御状をひそかにいただいており、懸命、四囲の
彼は、伊豆の頼朝よりも、木曾の義仲よりも、
「旗あげの初めに、以仁王の令旨をいただき、伊豆の配所をはじめ、諸国を駈けずりまわっていた叔父君の新宮十郎行家様と
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十人にも当っているのだ。――行こうっ。南無八幡大菩薩、頼朝に事を成し遂げさせ給うか、また、ここに生命を召し給うか。
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は、この近江の国にもはや知れ渡っていた。四明ヶ岳や逢坂の山の彼方に、終日、黒煙が立ちのぼって見えたので、四年前
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王子の住吉西の宮
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「永暦元年の二月、私が二歳の春、この下総国へ流されて来ましたが……常胤様のお情けによって、密か
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。東国を失っても、京より西にはなお中国、九州があり四国や伊勢方面の地盤もある。
九州では肥後の菊池。豊後、肥前なども源氏に呼応して大宰府へ攻めかけた
平家はひとたび九州へ落ちたが、この人々も、多年の生活がまだ身にしみている。
の子孫の没落にあたって大きくものを云って、内海から九州まで、制海権を擁している。
しかも、九州をひかえ、中国に接し、日一日、その勢力は増強するに極まっていた
と、中国から九州へまで、源軍の大将として下ったが、むしろ彼を、手に
いたずらに沿岸各地をさまよい、敵の誘導戦術にのって、九州まで南下してしまい、気がついた時は、京都との連絡を、うしろ
「九州攻めはよさぬか、敵の本拠は九州ではない。四国を討て」
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四国の伊予にも、吉野、奈良にも、近江にも畿内にも、騒乱が起った。みな平家に反いて起った。
、丹波辺りでも、吉野でも、いちど平定した畿内の反平家分子も、また一斉に、騒ぎ出した。
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の東に出で、また他の一部隊は、小野から勧修寺を追いかけて七条へ突入した。
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そこを曲がると、観音院と僧正坊の伽藍が広庭を抱いていた。
観音院の縁さきには、太い青竹が幾束も積んである。やがてここで、
下の山寺は観音大悲を本尊とするので観音院とも、奈古谷寺とも称ばれている古刹だった。庫裡のわきに
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鞍馬法師も、叡山、南都の荒法師にも劣らない聞えがあった。山には武器庫さえある
山と寺がその一例である。叡山と三井寺にかたまっている僧徒の勢力である。彼は明雲僧正などを巧み
何にせよ、叡山や三井寺の徒は、兵力と財力と、信仰の力とを擁しているの
父義朝は敗れて、都を落ちたが、その折、叡山の北の龍華越えのあたりで、追い来る敵へ駈け戻し、亡父義朝に代っ
「木曾、北陸の怖ろしげな猪武者の大軍が、もう叡山を占領し、大津山科にも満ち満ちて、今にも洛中へ攻め入って来よう」
「もう防げまい。叡山の衆も、木曾殿と合体して、谷々から、太刀弓矢をとり出し、はや
に、この月二十二日には、もう湖水を渡って、叡山に拠り、平家一門の屋根を、眼の下に見て、
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鎌倉へ
申されぬ。すこしも早く、旗をすすめて、相模の鎌倉にお拠りあるが上策かと考えらるる……との事でござりました」
「鎌倉へ」
「――鎌倉へ。ムム、鎌倉へとか」
「――鎌倉へ。ムム、鎌倉へとか」
「鎌倉へ進もう」
「鎌倉は源氏発祥の地と申してもよい。――後冷泉院の御宇安倍貞任を
られた後、祖先源頼義朝臣は、相模守となって鎌倉に居を構えられた。――長子の陸奥守義家朝臣もおられた。
。民は帰服し、弓馬の門客は、常に諸方より鎌倉に往来して、公に接するのを名誉にしていたという。よく
公については云うまでもない。――それやこれ鎌倉こそは源氏に由緒の深い第一の地と思う。――要害の点も
口を極めて、彼は、鎌倉を主張した。いや、その何れにするかを、諮っているのでは
鎌倉と聞いて、誰も皆、
云わず、三百余の兵の真っ先に立った。――鎌倉へ、鎌倉へ。道を更えて、海沿いに出て進んだ。
三百余の兵の真っ先に立った。――鎌倉へ、鎌倉へ。道を更えて、海沿いに出て進んだ。
――鎌倉へ!
――鎌倉へ!
鎌倉へ。
鎌倉へ。
鎌倉へ。鎌倉へ。
鎌倉へ。鎌倉へ。
従いて来なかったかも知れなかった。――けれど、鎌倉と聞けば、源氏発祥の地――坂東武士の心の故郷――天嶮の
、迎え出る郷軍などを加えて、十月の六日、鎌倉へ着いた時は、人家もまばらなそこの漁村や農土を、いちど
鎌倉の第一夜を、彼は民家に泊って明かした。翌日は彼自身、鎌倉
安房を立ち、隅田川を発し、鎌倉へ着いてからでも、何事にまれ、明日を待って、という事は
ながら、全体の足ぶみだけがある理由はなかった。――鎌倉の府ができ上がった後は知らず、今の彼は、創業の人だった
ただの民家を一時の居館として鎌倉の第一夜を明かした頼朝は、早暁に、十万の軍を閲し、諸将の
ある。伊豆の秋戸の里よりお渡りあって、今この鎌倉へお着きなされたところだ」
安田義定などと団結して、これが駿河方面へ出、鎌倉の本軍と合流することになっている。
「二千の兵は、鎌倉に残しておく。三百の兵は、この館の護りに付けて参る。今まで
鎌倉の海は、波が高かった。しかし、初冬の空はすみ風は冴えて
なったわけではありません。まず、一応お味方も鎌倉へ退いて、徐ろに、地盤を固める必要がある」
鎌倉に。
今日、黄瀬川に駐屯して、明日は足柄をこえ、鎌倉へ帰って行く途中であった。
悠りと、語り明かしてもよいが、何せい陣中、いずれ鎌倉へ帰ってから、落着いて話すとしよう。――そちも定めし疲れておろう。
ぞ一室へ案内してつかわせ。――そして、何かと鎌倉までは、面倒を見てやってくれい」
鎌倉の秋は色濃くなっていた。
頼朝は、師をかえし、十月二十三日に、鎌倉へ帰った。
「そうそう。九郎にはまだ鎌倉へ来てから落着いて会う折もなかったの。政子にも、ひき会わせておか
その年の鎌倉は、石曳き謡や手斧の音に暮れ、初春も手斧のひびきや石工の
初春も手斧のひびきや石工の謡から明け初めた。――鎌倉へ、鎌倉へ。
のひびきや石工の謡から明け初めた。――鎌倉へ、鎌倉へ。
「鎌倉へ行けば仕事がある」
「鎌倉へ」
なるほど、鎌倉では目下、さかんに土木を起している。夥しい鎌倉殿の御家人が各※
「鎌倉鎌倉と、みな浮いてゆくが、鎌倉殿の力はまだ知れぬ。うっかり移住
足は、夜が明けても、夜が明けても、鎌倉へ鎌倉へと向いて行った。一日ましに殖えていった。
、夜が明けても、夜が明けても、鎌倉へ鎌倉へと向いて行った。一日ましに殖えていった。
鎌倉へ住んだが最後、彼等は各※の職につくなりむやみに元気に
だが、そう一つに、人心をひっぱっている力は鎌倉そのものではない。やはり人である。しかも一人の人であった。
その頃、鎌倉への聞えに対し、厳秘にされていたが、平家方の内部に
鎌倉の民衆とちがって、ここでは庶民と上流の層とが、完全にかけ離れ
鎌倉の海には夏が来た。
人間のなかに育んだ太いすじ骨というものであろう。鎌倉の新府には今、その骨太い性格の持主ばかりが、何万となくひと
気にかけていては、一兵卒でも、今の鎌倉には、一日も住んでいられないほど、剛毅と剛健のよりあいなの
もない。実に、一面には、こういう涙もある鎌倉の人々だった。
の輸送をほとんど怠って、大部分の物資を、京より近い鎌倉で荷上げしていた。
鎌倉には金がない。
は、誰もいうことで、すこし商才のある者なら、鎌倉の創業景気が経済的には、いかに不安心なものかは、すぐ考えさせられる
だけの物資を、去年以来、すでに、三、四度も鎌倉へ廻送しているばかりか、まだ一度も、
そのくせ彼は、船が鎌倉についているうちは、ほとんど船にいなかった。物売りや職人たちをつかまえ
逃がしてやったとか――そういう上層の消息も、鎌倉ではすぐ知れわたるのであった。まず緊密な社会組織がないせいであるより
た。まず緊密な社会組織がないせいであるよりも、鎌倉の家人階級には、まだそんな事を秘し隠しにしようなどという気もちがないの
「ふうむ。……この鎌倉へ商いにでも参っておるか」
を告げると、ふたりは驚きの目をみはった。京、鎌倉でこそ、吉次の名は小さいものだったが、奥州の国府では知らぬ
源家の人々のうらみを雪いで下さらぬか。また、一鎌倉の繁栄や祭り事などさし措いて、旗挙げの初めにひろく云い触らされたように
「でも、ご不平でしょう。この鎌倉の現状には」
、平家という当面の敵をひかえながらも、木曾殿は鎌倉の勢力が伸びてゆくのをよろこばず、鎌倉殿も木曾殿が旭日昇天の
ような商人には、武士の心根はわからぬ。義経は鎌倉へ、利を占めに駈けつけて来たのではない。死に場所をこそ求め
と、いつも連戦連勝が報じられて来るし、鎌倉の頼朝は、あれきり東国にいてうごく様子もないし――と。
(法皇には、鎌倉の頼朝をお召になって、ひそかに、何かお諮りになる御意らしい
十月末頃の京都の実状であったが、以来、鎌倉の頼朝は、何が伝えられて来ても動かなかった。義経もその下
それと、ここ鎌倉――と。
、政争に、軍備の拡充に、物々しく動いているが、鎌倉の静かなことは、
が、そういう無事と見えるなかに、鎌倉そのものは、実は大きなものを生みかけていたのである。
一時革めて、いわゆる幕府政治としての新味も出し、鎌倉文化なるものをも生みだしたが、その以後、北条、足利などの先例をも
京都、中国、鎌倉と、三分されている天下の勢力を、
彼の身はもう鎌倉からたやすく動けないものになっている。
鎌倉を空けて、彼自身が、義仲と平家の二勢力を、一掃しにゆく
になったりすると、今、ようやく緒についたばかりの鎌倉に分裂の下地を招くようなものと憂えられてもくる。
その義経は今、鎌倉にはいなかった。使いの途中、近江の佐々木ノ庄に逗留してい
「鎌倉のあたりまで」
「……では、鎌倉へのご用は」
「いっそ、それがしと共に、一応鎌倉へお引返しあっては如何ですな」
思うに、院の密使公朝が、鎌倉へ着いたその夜か翌朝にでも、すぐ出した早馬にちがいない。
義経は貢ぎの荷駄や五百騎と共に駐まって、ひたすら鎌倉から二度目の急使が訪れるのを待っていた。
秩序の乱脈さが手にとる如く聞えてくるのに、鎌倉の方からの風のたよりには、
西へ上ってゆく。――上る途中にはまた、必ず鎌倉へ立ちよって、頼朝に謁し、各※、
新しい「武士の道」が昂揚されていなかった。鎌倉に集まった新時代の若武者たちが、早くも、次の時代をうけもつ資格を
「鎌倉どのへ、早打ちを立て、そっと兵を上せ給わるように、わしから申し上げてある
(――そう面倒ならば、一応軍を退いて、鎌倉へひきあげろ)
とめているうち、軍勢をひきいて、あなた様にも、鎌倉をお発向と聞き、再度のお目どおりを楽しみに、お待ち申していた
「鎌倉ではそうも参りませんが、この洛中の事ならどんな事でも、吉次
両方あわせても、三千騎に足らなかった。その後、鎌倉からは、一兵も補充されてはおらない。
奏聞の儀もすみ、鎌倉へはもちろん次々に早打ちで報告もした。居ながらに、合戦の状況と
しているのではない。彼の帰京は、朝廷、鎌倉への報告と共に、平家方の打首や擒人の処分、その他の
彼の胸はせわしかったが、鎌倉の指令は、いっこうに急でなく、朝臣のうちにはまた、政治的なうごき
て、頼朝の不興と疑いは深まっているという噂さえ鎌倉から聞いたのである。
に六条のやしきに残った旧友に訊ねてみると、鎌倉と義経とのあいだは、以前にもまして良くないが、特に、後白河法皇
拝辞することの畏れ多さに、遂に、任官の由を、鎌倉へ報じると、頼朝は、
法皇の恩寵と、鎌倉との板ばさみになって、この吉い日を、歓ぶにも歓べない立場が
範頼は、いちど鎌倉へ帰っていたが、頼朝の命で八月鎌倉を立ち、
ど鎌倉へ帰っていたが、頼朝の命で八月鎌倉を立ち、
と、鎌倉へあてて、頻々と、窮状ばかり訴えてくるという始末。
大びらに云う者がある。和田義盛すら、鎌倉へ帰ろうとした。兵の脱軍が続出する。
鎌倉でもさすがに見ていられなくなった。頼朝は急使を向けて、
老鶯が啼きぬいている。花は落ちて泥土に白い。鎌倉の春も更けたかと想わせる――
……義経が行状、その後もやはりそうした体か、鎌倉の威力あっての奇功と思わず、すべてを、自力と思いあがって、我儘を
が、頼朝は、彼の鎌倉に入るを許さない。
幕府鎌倉。
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箱根、足柄と、各※郎党や駒をひきつれて西へ急ぐ他の部隊をながめても
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わけて、この京都八坂郷の清水寺は、東大寺系なので、南都の学生寮もあり、夜になって一所に
終りに、蔀を下ろして、この清水寺の一つの灯も消え果てると、もう花頂山から東山一帯には、風の
清水寺の観音堂を出てから幾日幾夜、常磐は、われながら、
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当時の宇治川は後の世のそれのように、悠々と穏やかな相をもった大河ではない
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局は、頼朝の乳母で二条院にいた頃は丹後の内侍といわれていた女性である。去年三月、母とも死に別れ
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南条、中之条、北条などと庄田の名は称び分れているが、この辺の町は、北条の端れになる
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は肥後の菊池。豊後、肥前なども源氏に呼応して大宰府へ攻めかけたという。
「このうえは、京都を捨てて大宰府へ立ちのき、あの地にある一族の家貞や貞能等をも併せて後事を
大宰府を、第二の根拠地に、とは宗盛以下の最初の決心だったが、
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負傷や死者を出して退きわかれ、三浦郷へ帰って、衣笠城の孤塁を固めているが、そこへもまた、畠山重忠を始め、河越太郎
三浦一族の衣笠城には、一族の大祖父と仰ぐ八十九歳の大介義明も立て籠っていたが、
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「五条の獄舎の門前にある巨きな木だ。義朝の首がさらしてある。後から
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音羽の滝も氷柱になっていた。木の葉かと思えば、そこらの御堂
産寧坂の上である。音羽の山を背に負っている。光厳はあたりを怖れながら、子安観世音の御堂
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もしらないまに、六波羅の兵が三、四百人も桟敷ヶ岳や雲ヶ畑から入りこんで、僧正ヶ谷をつつんだのである。
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ここは、箱根の南裾野といってよい。小高い畑地で、まわりは崖だった。そして崖
見つめながら、胸のうちで呟いた。――この頃、箱根の別当の弟、永実から聞いたはなしに依ると、ここから二里ほど山
「年内にはできます。雪が降ると、箱根その他の山々は、道も探れませんから、山のほうを今、先
、草に投げた。――谷は暮れかけたが、箱根の頂には、まだ赤い陽が見える。
「何故の争いかしらぬが、箱根、伊豆の両権現の地域の近くで、みだりに兵をうごかすにおいては
参ったら、覚淵御房にお会いして、伊豆、箱根、三島の三社へ、頼朝の代りに、素懐の大願成就の願文を捧げ
遊ばした後、実平殿お一人がお供して、椙山から箱根へお越えなされ、そこで都合よく、舅君の北条時政様とめぐり会い、ひと
一時、箱根の別当の許にかくれた頼朝主従は、急にまた、そこを去って、
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「難波あたりに、そちの手持の船は今、どれほどあるか」
「ともあれ、難波へ急ぎ、そちの力で集められるだけの船を、淀の口、渡辺あたり
準備も、あの男の事である、もう手配もついて難波の淀の口に、舳をならべて待ちぬいているであろう。
たきり、ずっと、お目にかからずにいるところです。難波の淀の口に、たくさんの船を借りあつめ、今か今かと、ご
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、双六か扇投げでもなされては如何。盛姫に催馬楽を見しょうとて、町より白拍子を呼び集め、賑やかに遊んでおるらしいが」
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それらも皆、江戸、河越、甲府、秩父などの諸地へ行った使者の戻りや、或いは、その返書を齎して来る
伊豆では、平家方に立って、三浦殿を悩ました秩父の畠山重忠が、一族の衆、数人を使いとして、何やら殿
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「湯河原の北山でございまする。この下が、吉浜、鍛冶屋郷」
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気が滅入るか焦立つか、生命の楽しまぬことばかりだ。福原の荘へ赴いて、遊び船を浮べよう。夜は、宗盛が舞を見、
これから福原へ行くには夜をとおして明日の朝になろう。松明の用意も要る。
で、もしご機嫌でも損じれば大変だし――折角、福原へ行っても、身にも皮にもならないと一致して陰でこぼし
摂津の福原の別荘は、兵庫の海を園の前に、逆瀬川の水を殿楼の
福原へ行くとさえいえば、一門の公達や女人達は元より、もういい年配
(いっその事、福原へ遷都すればすべてにいい)
なぜ入道が、福原へ遷都するのがいいと考えたかといえば、彼にとって、実
実現へうつし始めて、政治機関の一部さえ、今では福原にあるのである。
(福原へ遷都などとは以てのほかである。いったい何の必要があって――)
「何を思われたか、入道殿には、にわかに福原へ赴かれたそうな」
「福原の入道相国には、何をまた、思いたがえたか、物々しゅう軍馬を呼びあつめて
浄海入道は、それを知ると嚇怒して福原から京都に入り、以仁王を土佐へ流さんものと、武将に命じて、
福原の海岸へは、ことしの夏も、知盛、維盛、忠度、敦盛など一門の
「うわさに聞く、福原の船遊びと、間違えているのではないか」
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昼のうちこの辺りまで、六波羅の武士が来て、宿場の長や、沙汰人どもをあつめ、訓示して去っ
と思い定め、密かに京都へ引っ返して、六波羅の近傍を彷徨っていたところ、たちまち平家の捕吏に発見されて、六条
のであろう。六条のあたりには大きな焼け野原が出来、六波羅の辺にも、いつも見える常明燈の光も見えなかった。
「六波羅に捕まっているぞ」
の言によれば、自分が自首して出ないかぎり、六波羅に捕まっている老母は、日ごと夜ごと、地獄の責苦にひとしい拷問にかけ
何気なくその庭ごしに窺うと、中門の外あたりに、六波羅の武士どもが十人以上も、何やら喚き立てていた。荒々しい声も交じって
。あの戦火の中、主上、上皇の車駕が共にこの六波羅へご避難あった事なども、いやが上に、
その隆運の気は、この六波羅の地相にも、まるで、絵屏風を展げたように漲っていた。わずか
も皆、近くに土木建築を興したので、ひと口に六波羅とはいえ、その地域の広大さは、一指をさして云える事ではない
何の用か、思いよりがないらしい。同じ六波羅の池殿に、余生安らかに住んではいるが、めったに忙しない清盛の住居へ
を抱いて常磐がかくされて、やがて自首の旨を、六波羅へ訴えて出て来たのは。
恐い人と噂にも高い六波羅殿である。その清盛の事だから、どんな激越な吟味ぶりかと思いの
「伊豆へ下られる道中、六波羅からは、追立役の検使、警固の青侍などがついて行きますが、不親切
。……でもよく常磐様には、十年前、六波羅へお引かれ遊ばしたあの時、わたくしに匿われた事などを、役人に
迎えに来た鞍馬の役僧と、六波羅の役人の前で、母から、
が起った。近郷の者すら何もしらないまに、六波羅の兵が三、四百人も桟敷ヶ岳や雲ヶ畑から入りこんで、僧正ヶ谷をつつん
ていた。祭中はわけても厳しくというので、六波羅の侍が幾十人か山へ来て、各所の柵で目を光らせて
を、そう易々と信じるわけもないが、おととし鞍馬谷へ六波羅の兵が入って、附近に住む怪しげな者を一掃し尽してから、
「わずか十六歳の牛若さま一人を、六波羅の威勢をもっても捕まらないとなると、これは估券にかかわるからな。
年々無事だし、今のところ、京都の清盛入道と、六波羅への覚えさえよければ、家門の安泰は保証されている。――自分
て、謀叛の気運を醸成しているやに見うけられる、六波羅におかれても、ご油断はあるべからず――といったような長文
胆を寒くしたり、同時に、自分等の存在が、六波羅の神経へ触れ出したと知る事に、大きな血ぶるいと、団結の意を遽
られた以上、彼を拒んで頼朝に嫁がせては、六波羅からも近国からも、北条家の意志として怪しまれよう。恋ならばどんな
に、合戦が起ると裏切って、身、源氏でありながら六波羅へ奔って清盛へ味方したか。
なるほど、平治の乱には、はっきり義朝を捨て、六波羅へ加担した。一族を裏切った。
と聞くと、熊野の途中から引き返し、わずか五十騎ばかりで六波羅の邸に入ると、すぐ計略をめぐらして、兵乱の中から上皇と天皇の
でも嗅ぎ知ったら、これは由々しい手ちがいになる。即刻、六波羅に早打ちが飛んでいるものと考えておかなければならない。
(配所の流人ずれと、六波羅の地方官たる自分とが、対等に、喧嘩するのも大人げない)
それでも、民衆は、いよいよ六波羅の軍勢が、五万余騎も編成されて、
道も同じ六波羅の大路から粟田口――蹴上、大津の関へと、華やかな軍馬の列は
「あれよ、六波羅も火、西八条からも、大きな火の手が立ちのぼった。――平家衆は都を
一門の第宅十六ヵ所をはじめ、六波羅の相府、西八条の一郭、そのほか繁昌と権勢をきわめた幾多の栄花の殻
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「鞍馬寺の僧からも、山役人の方からも、たびたび、よからぬ状書が届いて
それまでも、彼はすでに、鞍馬寺の預け人という表面になっていたが、いよいよ身を鞍馬へ持って
ない裏山裏谷は、ほとんど想像の世界となっている。わけて鞍馬寺から西北へ十町という僧正ヶ谷には、古くから太郎坊とよぶ天狗
互いの無事を見合えばまずよいのだった。それと、鞍馬寺にある亡主義朝の遺子牛若を、よそながら護り、よそながら教育し、やがて
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泣き死のう。百日ほども母の手に猶予を与え、鞍馬の山へでも上げてしまえ」
この鞍馬からおよそ三里という京都の灯が、ポチと三つ四つ見えた。
が六波羅へ投文で密告したに依るとかで、鞍馬の僧院では、一時いろいろ物議ともなり、別当蓮忍の引責まで口に
山の祭りで、無性にはしゃいでいるのは、鞍馬の稚子たちであった。
なると、これは估券にかかわるからな。――それに鞍馬の僧院でも、当面の役人たちでも、神隠しという事にしてしまえ
「不審の者ではありません。年久しく鞍馬にあり、その後、奥州にかくれて、生い育った九郎義経です。――と
を牛若といい、兄頼朝とは平治の乱にわかれ、鞍馬に育ち、奥州の秀衡が許にて人となり、今、源九郎義経と名のる者。―
鞍馬から奥州へと、かつて、彼の大きな運命の手綱をひいて奔った吉次は
とは、鞍馬にいた頃から、また、足柄山を奥州へ越えてゆく頃から――
久しく鞍馬や奥州に培われてきた健全な野性と、また、血には、自分
「――まだ鞍馬にあった幼年の頃、夜ごと鞍馬谷へわしを誘い出して、わしの幼い
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「云うまでもない。源氏の残党がじゃ。朝夕、六条の館に伺候し、頭殿と仰いでいた一族だったら、見てい
熄んだとはいえ、まだ洛内は物騒なのであろう。六条のあたりには大きな焼け野原が出来、六波羅の辺にも、いつも見える常明燈
た。わけて、従兄弟にあたる金王丸は、童の頃から六条のお館に仕え、義朝様が御前様の許へお通いなさる折は、
に渦まき動いているのか、自分を又なく愛してくれる六条の頭殿の一族と、六波羅の清盛の一門とが、どう対立し、どう
も、ここばかりをお力と、辿り着いて参りました。六条の常磐でござりまする。もし、もし……はやお寝みでござりますか」
「六条のお家?」
が住んでいた土塀まわり小一町しかの古邸が、六条の河原へ向って、寒々とあったに過ぎなかったのが――今は
、三歳の頃を知っていた。兄弟の義朝が六条に栄えていた時代の家庭に、幼い頼朝をよく見ていたもので
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たのも、その現れの一つと云えよう。長元年中、関東の騒乱に功のあった平忠常以来、累代平家の御家人であり、この地方
範頼の立った後から、なお、続々、関東の大名小名は、令をうけて、西へ上ってゆく。――上る途中
このうえは関東へ下って、問注所の人々をうごかすか、鎌倉殿へ直訴してもとまで
悶え泣いた。直接、兄に会って云い解けばと――関東へ急ぎ下った。
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鞍馬より横川を経て、義仲の陣営にあてられている延暦寺へ御幸あそばされてしもうたらしい」
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戦は、富士山麓から、甲州方面にまで波及したようである。甲斐の武田、一条などと
の平家が、二十四日、追討に向ったが、途中、富士山麓で野営した晩にどうした事か、彼等の所持していた
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「河内を先へ討て」
河内にも、自分の敵が、蜂起していたのである。
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(江戸、河越なんどの平家方に睨まれているので、参るには参るが遅く
それらも皆、江戸、河越、甲府、秩父などの諸地へ行った使者の戻りや、或いは、
以下、甲斐の源氏も、どこかで合流するという。江戸、河越も、きょう明日には向背を決めてくるだろう」
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立った平家軍を、追いに追って、木曾勢は、加賀、越前を突破して長駆、近江まで追撃をゆるめずに来てしまった。
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――四国の伊予にも、吉野、奈良にも、近江にも畿内にも、騒乱が起った
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すると、隅田の宿の先まで、物見に出ていた兵の二、三騎が、
広常の大軍は、隅田の宿あたりを境に、河原から野へ亙って、雲のように、止まっ
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そこにはまだ源氏の輩が多くいるという。また、富士山があって、駿馬が多く産まれて、野は際涯もなく広いという。
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摂津の福原の別荘は、兵庫の海を園の前に、逆瀬川の水を殿楼の階下にとり入れてい
考えていなかったが、入道の肚の内には、兵庫の津からその地方一帯に亙っての、大規模な港を擁した都市計画の
のごとく、山陽を北上して、先鋒の一部はすでに、兵庫に上陸して一ノ谷あたりに集結しているという。
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南は、七条のあたりまで。
その常磐は近頃、獄から下げられて、七条朱雀あたりの小館に、母や子どもらと共に無事にいる。
つれて、駒は急いだ。――と云っても、七条の陣所はもうそこに見えていた。
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して三万余騎をさしむけ、またたくまに奈良の東大寺、興福寺をはじめ、伽藍堂塔を焼きはらい、大乗小乗の聖教やら、国内第一の大仏秘仏
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一天雲もなく晴れていた。ただ見る伊豆の海から房総の沖へかけて、まだ夜来の荒天を偲ばせる狂瀾のしぶきと海鳴りのある
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朝臣をして三万余騎をさしむけ、またたくまに奈良の東大寺、興福寺をはじめ、伽藍堂塔を焼きはらい、大乗小乗の聖教やら、国内第一
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きのう二十七日の朝から、京都に大乱の起ったらしい事は、この近江の国にもはや知れ渡っていた
と思い定め、密かに京都へ引っ返して、六波羅の近傍を彷徨っていたところ、たちまち平家の捕吏に
頼盛の家人弥兵衛宗清は、小侍十数名をつれて、京都へ上る途中であった。
わけて、この京都八坂郷の清水寺は、東大寺系なので、南都の学生寮もあり、
んが、むだな事よ。此家の旦那さまは、京都におざるし、お内儀には、遠国へお旅立ちで、わしら、
ものであった。人知れず大和路から、常磐母子を京都へ連れ帰ってくるだけでも、並たいていな気苦労ではなかったろうに、ここ
と、遥かに京都の勢力を睥睨している藤原秀衡がいた。
三代に亙って、都から吸引した文化と物資は、京都にも劣らない大都府を、平泉とよぶ地方に築き上げているとは―
。――行くなっ、ここの一軒ぐらい。――いや京都中の妓ぐらい、おれが子指の端でもみんな養ってみせてやる」
皇都でない。また、いかんせん美人となっては、京都の血を輸入してゆくしかない。潮音のような美しいのはいない
この鞍馬からおよそ三里という京都の灯が、ポチと三つ四つ見えた。
な性分が出ないとも限らないからである。奥州から京都を股にかけてみて、吉次は世の中で怖いという人間に出会った
出て、やがて夜も白みかける頃、吉次と牛若は、京都の北から町へまぎれ入った。
こういう配所の生活は、至極神妙なものとして、京都へは報告されていた。
とか、噂にも承るが、つまらぬ仏道あそびは、京都への策か知らぬが、程々になすったらどうかと。――年
ている。――それと何といっても屡※、京都へ出て、中央の事情や知識と接しているので、この田舎に
し、田の刈入れも年々無事だし、今のところ、京都の清盛入道と、六波羅への覚えさえよければ、家門の安泰は保証さ
彼は、先頃まで京都に在って、大番を勤めていた。その任期も終ったので、
であった。彼は、息女たちの局へ来て、京都の土産物の数々を披き、息女たちの喜びをながめて、彼も他愛ない
が、佳麗な容色は、巷にもこぼれているような京都の公達などからいわせれば、
「京都から帰る途中、山木殿と一夜、旅舎で落合った折、何かのはなし
、当然、不和になり、ひいては何かと、うるさい風聞が京都へ伝わるであろう。
世上へは、恋の紛争と聞えよう。京都も油断があろう。そのまに、大事の第一歩を踏み出して、同時
た者では、三浦一族の和田小太郎義盛が、先頃、京都へ使いに上って帰って来たという三浦大介義明の末子、義連を
「どんな状況ですか、近頃の京都の有様は?」
誰にもあれ、京都の消息を齎す者があれば、若い群は耳をすました。蜂が
(それを切離すには、京都という因習の都を捨て、新しい都会と文化の中にすべてを遷すの
浄海入道は、それを知ると嚇怒して福原から京都に入り、以仁王を土佐へ流さんものと、武将に命じて、御所
京都にある河辺庄司行平から早打ちが到着した。
乳母の妹の子にあたる三善康信やら、その他の京都にある縁者から、次々と、飛信が来た。
三浦次郎、千葉六郎など、先頃の事変で、京都へ出向いた者たちも、続々と、帰郷して来るにつれ、皆ここ
「京都へ参られた事があるかの。京都はよいな」
「京都へ参られた事があるかの。京都はよいな」
相模の大庭景親から出した注進の早馬が、京都に着いたのは、九月一日だった。
その頼朝の政治下に生活したり、その義経の支配下に京都が守護されたりして、自分等の生活にも今、刻々と変革
と称して京都を進発した当日には、辻々へ山のように見物に出て、
――京都へ。六波羅へ。
殿のふところに、そう財力があるわけがない。――京都へでも攻め上って、然るべく、中枢の政権でも取ったうえなら知ら
とは、京都の庶民たちも、うすうす変には感じていたが、凡事でない騒ぎ
のとは、質はちがうが、いずれにしても、京都のもっている爛熟、懶惰、軽佻の空気はすこしも革まらない。
ず、鎌倉殿も木曾殿が旭日昇天のような勢いで京都へ迫ってゆくのをながめて、内心お快く思っていないことは争え
と、まるで地震の地鳴りの次々に聞えてくるように、京都じゅうを揺りかえしていたので、きょうの明け方からはもう全市に
の、続いて行ったのは、もう三日も前の京都で、今は、そんな光景すらなく、刻々と、気味わるい静寂のうちに
「どうもなりはしない! どうなろうが、京都は京都じゃ。案じなさるなよ!」
「どうもなりはしない! どうなろうが、京都は京都じゃ。案じなさるなよ!」
何が起っても、どう上のものが革まっても、京都の土に変りは来ないのだから――」
「平家が追われれば木曾殿が京都に入る。木曾殿がよい政事をなさらなければ、また、鎌倉殿が来
ていないが、まあ、今の世の大きな変りようは京都だけの事ではない。日本じゅうは地つづきだからの」
「いや、わたしは旅の者で、どっちみち京都に長居はしていないが、まあ、今の世の大きな変りようは
「このうえは、京都を捨てて大宰府へ立ちのき、あの地にある一族の家貞や貞能等を
法皇を奉じて、義仲は京都へ入った。
それに気の腐っているところへまた、京都方面の情報によると、
それが十月末頃の京都の実状であったが、以来、鎌倉の頼朝は、何が伝えられて
京都を中心とする義仲と。
京都も中国方面も、外交に、政争に、軍備の拡充に、物々しく動いて
広元も康信も、長く京都にあって、政務には熟練している文官の逸材である。
京都、中国、鎌倉と、三分されている天下の勢力を、
ひそかなお招きもあったが、彼は、義仲のいる京都へ上る気はなかった。
軍令が行われまい。議論倒れになりやすい。旁※、京都へ入ってから、義仲の二の舞をやられても困る。
五百騎ほどの従者をつれ、兄の命をうけて、京都へ向っていた。
は出来ません。……やはり貢ぎの荷駄を曳いて、京都へ参るといたしましょう」
。――それにまた事実、常磐どののお身の上とて、京都の大きな変りようと共に、何もかも押流されて、今で
その公朝と熱田で別れ、彼は京都へと上貢の旅をつづけていた。
も窶れの見えるほどだった。すぐ目と鼻の先の京都では、法住寺殿の焼打ちとか、その他、限りない義仲の狼藉やら
もちろん悪い血があればこそだが、ひとつにはこの京都に平家が、残して行った文化の残滓やら人心の悪気流やら政治の
てくるし、平家も水島の大捷に勢いをもり返して、京都奪回を目標に、潮のごとく、山陽を北上して、先鋒の一部は
勇にすぎなかった。軍としては、当然、この京都を維持しきるだけの性能はなかった。
宇治のふせぎに繰出した後は、わずか三百ほどの兵しか京都には残っていなかった。
、急追した義経のほうも、八方へ分裂して、京都へはいった。
「そちは、以来、京都にいたのか」
吉次は、頭を下げ直した。京都から強って軍に従いて来て、三草山のてまえでも、ここから
……決して左様な心根とはぞんじません。しかし事実上、京都ご守護のお役を奉じながら、何の官職もなくては、朝廷のご用
「そんな事はない。鎌倉殿の代官とし、京都にある身ゆえ、この三月には、高野の僧衆と寂楽寺との
平家退去の時、大半、焼払われもしたが、京都の町や、途ゆく人の粧いは、わずかなまに著しく変って来て
、九州まで南下してしまい、気がついた時は、京都との連絡を、うしろの中国路で敵に見事遮断されていた
京都にある義経に対して、
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例年のように、三条の空地に集合して、蹴上から大津へかかり、遠い故郷へ帰って行ったのも、その騒ぎのあった頃
道も同じ六波羅の大路から粟田口――蹴上、大津の関へと、華やかな軍馬の列は流れて行った。
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苦手でもある、公卿たちが、ややもすれば三井寺や奈良などの僧団の勢力とむすびついて、
――四国の伊予にも、吉野、奈良にも、近江にも畿内にも、騒乱が起った。みな平家に反い
、重衡朝臣をして三万余騎をさしむけ、またたくまに奈良の東大寺、興福寺をはじめ、伽藍堂塔を焼きはらい、大乗小乗の聖教やら、
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三浦次郎、千葉六郎など、先頃の事変で、京都へ出向いた者たちも、続々と、
その辺のご事情は、よく分っておりまする。……千葉ご一族にとっても重大な分れ目でござる。ましてや、あなた様や胤
藤九郎は、一目見て、千葉介が気さくな老人であるのを知った。年は、当年六十四と、
千葉介も、微酔のよい機嫌になって、
前に千葉介の所へ使いに行った藤九郎盛長が、下総から帰る途中、頼朝の
「千葉介が返答はどうであったか。――応か、否か」
その日、千葉城からは、頼朝の軍勢一同に、弁当を贈った。
たり、足拵えを確かめて来た程だった。それ程、千葉一族が味方に加わるという事も、ここへ来てみるまでは、まだ
行軍になった。ただ一色の源氏の白旗につづいて、千葉家の月輪の紋じるしも幾旒か翻っていた。
「千葉殿がご加勢あるからには――」
千葉、土肥、北条など居あわせた諸将は誰もが皆、ハッと顔色を変えず
――。伊豆に敗れ、辛くも安房にのがれて、ようやく千葉が組したので、形ばかりの軍勢となったまでの佐殿では
其後モ生存アツテ、武総ノ隅田河原ニ陣シ、千葉、上総、甲信、武相ノ諸源氏ヲ語ラヒ、兵員三万余騎ト聞
北条、千葉、土肥、その他の諸将も、そんな地名を聞くのは今初めてだった
駒を降りるなり、傍らの北条時政、土肥次郎、千葉常胤などを顧みて、いかにも惜しそうに云った。
報告を聞き、その部将たちに目通りを与え、また、老将千葉介常胤や上総介広常には、
いぶかしげに、外へ出て見ると千葉介常胤も、上総介広常も、北条父子も、みな幕を払って、
て給仕に侍っているのが目についた。北条、千葉、その他の群臣が、居ながれて皆、杯を手にしてい
土肥、北条、千葉、畠山など並居る人々の顔こそかえってはっと変った。
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それらも皆、江戸、河越、甲府、秩父などの諸地へ行った使者の戻りや、或いは、その返書を
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見ていられるものではなかったから、吉次はあわてて佐賀山へ上ってしまった。
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渋谷金王丸は、鎌田三郎正近とふたりで、巨きな岩に腰をかけてい
「自分の参る番であったが、渋谷殿を誘うて来た道の都合で、箱田の冠者に行ってもろうた
渋谷、長田などを先に各※は会を解いて別れかけた。すると
平家に屈しなかったので、近江を追われ、武蔵の渋谷庄司重国へ身を寄せた。――そして程近い伊豆にある頼朝へ、音信
があった。盛綱などは、腹を立てて、何度も渋谷へ逃げ帰った。その度に、父に諭されてはまた帰って来たり
わけて、めずらしい客は、渋谷庄司重国などが、老躯を運んで見えたことである。
近江を追われて相模へ移住して来て以来、ずっと渋谷庄司の世話になっている関係から、その一族には、叛けない義理あい
渋谷庄司重国といい、大庭景親といい、どっちかといえば、源氏方より
いたり、崖くずれに阻まれたり――それに、いかんせん渋谷殿の一族にも、父にも語らわず、密かに参りましたため、
まず、相模の住人大庭三郎景親とか、河村三郎義秀、渋谷庄司重国、糟谷権守盛久などは、その旗頭格といってよい。
「いや、大庭どのばかりか、そういう苦衷は、渋谷庄司重国どの辺りでも、同じ思いを抱いておられよう。敵方にいる佐々木
渋谷庄司や、熊谷直実などは、身を平家方に置いてはいるが、
高綱の兄弟三人は、主とわかれて、ひそかに、渋谷庄司重国の館を訪ねてゆくと、重国は、兄弟を庫の中に
渋谷右馬允のそばにいた一家臣などは、具足を脱ぐのに誰よりも
すると、熊谷直実の部隊も、渋谷右馬允の隊も、平山武者所の手の者も、いっせいに弓を持ったまま
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王子の住吉西の宮
頼朝は、何思ったか、急にその藤原邦通と、住吉昌長のふたりを呼んで、
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ほど山へ這入った奈古谷という小部落の寺に、高尾の文覚上人という者が、罪を得て都から流されて来
「失礼しました。――盛綱、お詫びせい。高尾の上人でいらせられる」
幾度となく体験して来たらしい。人は呼んで、高尾の荒法師といっているが、当人はこの伊豆へ来てから、自分で
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は、かんじんな石橋山の戦いに間に合わず、丸子河から由比ヶ浜方面へ出たところ、平家方の畠山重忠の軍と行き遭い、重忠方は
の餅などひさぐ媼の店に腰かけて休んでいると、由比ヶ浜のほうから馬を躍らして八幡道へ駈けてゆく二人の若者があった
由比ヶ浜へ水泳ぎに行った帰りとみえる。兄弟とも漆をひいたような顔色で
「明日も、由比ヶ浜へ泳ぎにおいでになりますか」
吉次は次の日、由比ヶ浜へ来てみた。
木々を透いて仰がれるのも歓びだった。そして大鳥居から由比ヶ浜のほうへ一条の大路が拓け、また、町屋を縫って山内の方面へ
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隅田川
全軍の足なみは大きくなった。そして、武総の堺、隅田川河原まで来た頃は、その河原で、待ち合せていた者や、海
その朝空は、隅田川の水ひとつに、うっすらと白みかけていた。
石浜宿の住民が、隅田川で漁ったという鮮魚を小舟で献上に来た。それから少し後、
が、わずか一ヵ月の間に、総勢三万余騎で、隅田川をこえ、大井をこえ、徐々、西上して来る形勢だという。
安房を立ち、隅田川を発し、鎌倉へ着いてからでも、何事にまれ、明日を待って