私本太平記 04 帝獄帖 / 吉川英治
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に一陣を押し進めた。で、叡山六波羅相互の陣は、逢坂山をはさんで、不気味な暗夜の対峙になっている、というのであった
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雲母坂から、一手は大津へゆるぎ出たのを知り、すぐさま粟田、蹴上に一陣を押し進めた。で、叡山六波羅相互の陣は、逢坂山を
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量仁とを、それぞれの御所からみ車にのせ、一時、六条の仮御所へ、ご避難を乞うたが、「そこもなお物騒――」
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が、ひとまずは、宇治の平等院へお移しして、二日後の入京となった。――「花園院
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ホクソ笑んでいるものは、おなじ皇統なのに、事ごと、関東へ媚びを送っている持明院派の方々だろう。
らが、帝に代って、かわるがわる訊ねた。要は「関東を打ち破るてだてはどうか。忌憚なくその謀計を述べてみよ」と、
から鎌倉の主脳と武将は、続々として、ここ関東から上方へのぼっている。
は、寄るも寄らぬも、正成の旗色次第。まずは関東を相手に、一戦の上ならでは、寄りつくまい」
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春霞の彼方、洛内の屋根は一望だった。加茂川は上から下まで、五条総門は六波羅ノ庁の群舎の森まで。
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「諸方で捕えた落人は、一応みな内山永久寺へ曳いて来い。そして備えの“捕虜ノ簿”に氏名を載せ、後日の
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、やはり都は広いというものか。昼になっては五条の市や坊門の人通りも、ふだんのとおりで、町はけろりとしたもの
行った。途中、さんさんと粉雪が降りだして来て、五条をわたるころには、車のうえにも、道誉好みな彼の綺羅な陣座
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山の勢力も、宮方には冷たく、宮はやがて吉野から十津川の深くに一時身をかくした。
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「お。この印の所か、伊豆」
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したが、べつな一軍は、叡山の京口、一乗寺下がり松に陣して、そこの表と、搦手の湖畔口との、両面包囲の
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の板屋根も点々と木のまを綴ッて見え、南の高塚山にまでわたっているが、しょせん“城”とよべるほどな城ではない。
東、北の三方は高地の展望を占め、南の高塚山や桐山の方から入ると、ただの狭い一平地の平城にすぎないのだっ
水の手は、高塚山のふもとから城中へ引き、兵糧にはおよそ食える物は何でも山野から運び入れ
算をみだして逃げて行った。また、水ノ手の高塚山を掻き分けて、無二無三、奥へさして落ちて行く一群も先にあった
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「待て。――みかどには、先ごろから、皇居を二条富小路の里内裏(町なかの仮ノ御所)へお移しあったと
清涼、紫宸の皇居とちがって、ここは広いといっても、もと西園寺実氏の私邸であっ
廂を吹きなぐり、仮宮にしろ、これが天皇の御寝ある皇居かと怪しまれるほどだった。
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「加茂の彼方、粟田、蹴上を境に、柵が見える。おそらく六波羅の一陣か」
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しかし、笠置、赤坂の失墜がひびいて、熊野ノ別当以下三山の勢力も、宮方には冷たく、宮はやがて吉野から十津川
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「三河からさえ、着いたほどだ。……摂津、播磨、備後あたりの武者ばらも、駈け参じるなら、はや見えてよい頃だ
ですごした。伊賀路を捨て、大和、紀伊、和泉、摂津を股にかけての跋渉を、あえて続けて来たのである。
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そこは宇治の五ヶ庄の森蔭だった。みかどは、破れ輿の内に、背を
た。――それが二十五日の早暁。すでにみかどは、宇治の辺まで、落ちのびられた後である。
が、ひとまずは、宇治の平等院へお移しして、二日後の入京となった。――
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宮が追いつかれた所は、七条か九条あたりか、とにかく六波羅は突破できないから、竹田街道を迂回して、木幡へ
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「後家となって、仁和寺の辺りにかくれておるそうな」
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角に一竿たかく、錦の旗が、大和、山城、河内の山野を望みつつ、へんぽんと山風を呼んでいる。
、まとまッた人数や兵力でもないが、山城、河内、伊賀、伊勢などの地方からも、
「かねてより聞いておる者だが、河内の水分ノ庄に住む楠木正成とやらは、まだ参陣してまいらぬな」
ため、諸国を潜行していた頃からすでに「――河内の住人、楠木多聞兵衛正成なるものこそ、一朝のさいには、頼みにおぼし召し
「……河内とここの笠置とは、遠くもない所であろうに。……さては正成
「すぐさま、河内へ行け」
「かねがね、主上におかせられては、河内の楠木こそはと、深く頼みとしておわせられた」
のどうにもならぬ身ばかりが身もだえされ、せめてこの河内の奥の山里だけでも平和にと、ただ祈りを抱いているものを」
退がったにちがいない。――とにかく正成は、また即刻、河内の水分へ帰って行ったのだった。
またなぜ、正成が笠置にふみとどまらず、河内へ帰ったのかといえば、ここでは自身の指揮も、徹底的には
「楠木一族が、宮方に応じて、河内の赤坂に旗上げしたぞ」
楠木家へ使いした者、こう参れば、正成のおる河内の赤坂とやらへたどりつけようか」
いる若武者ばらをかえりみて「赤坂は敵にわたしたが、河内の土は、おれたちの体もおなじものだ。おれたちのあるかぎり、金剛山
「河内の正成は、砦の火の下に、自害して果てた」
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「はい。……いや観心寺の法師らなどは、寺中でおこなわれた激論の座を蹴って、十数
「え。中院でも観心寺でも、わいわいお坊さんたちが騒いでましたよ。戦争になったん
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むしろ少数でも、一族一体を基盤とする金鉄の本塁を奥河内の嶮に築いて、築塁が成ッたら、すぐさまそこへ天皇を迎えて、
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現に鎌倉の二万余騎も、畿内から洛中にふみとどまって、万一に待機しながら、ごった返しの軍政下にあるので
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さして出たのは、甲賀ざかいの和束ノ里、鷲峯山金胎寺だった。
こうして、翌二十七日は、金胎寺へ入られたが、
「天皇は奈良にも御座あたたまらず、即日、金胎寺を経て、笠置へ向かわせられた」
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――明石の浦にて、兼好
……須磨、明石も塩屋のけむりのみにて、冬ざれ、うら淋しうは候へど、汀々、千鳥の
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崎から、堅田舟の一ツに乗り、瀬田川をのぼって石山寺へ――という一ト先ずの御思案らしい。
日ごろの歌詠み癖は、口をついて出たが、ついに石山寺の同勢へは落ち合えなかった。
またさきに、石山寺へ落ちられた両宮にしても、
石山寺まで従いて来た人々こそが、まことの、二心なき者どもだったわけで
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れて行った前後に、その忠円の密使らしい者が、叡山の坂本にある山門の別当へ、
準備は、昨今のことではない。――宮が、叡山第百十六世の天台座主として山入りされた三年前からの奨励だっ
「開山いらい、叡山百十六世、まだかつて、こんな稀代な座主は、この御山に見たことは
ゆらい、わが叡山は、王城鎮護の寺、宮廷の厄は、坐視できない。
やといえば、みかどの御動座を仰ぐことだ。この叡山の上を仮の皇居として、諸州の武門が召しに応じていたるの
ば、六波羅ごときは一朝に圧倒し去ろう。さりとて、このさい叡山に帝の遷幸を見ずあっては、山門の気勢を削ごう。玉座の簾
あった。それというのも、夜来、六波羅の総力が叡山のうごきにつり込まれて、大津や白川口などに、全神経をそそいでい
早馬立てに、ごッた返していた中である。叡山の一法師が、駆け込み訴えをして来た。その坊主の告げるところを聞け
「――天皇のお行方は叡山でおざる。二十四日の夜どおし、鞍馬の間道をさまよわれ、二十五日の
とばかり、即刻、全兵力を叡山攻めにかたむけた。
た。後醍醐の“笠置がくれ”とはまだ気づかず、叡山の上の偽天皇を、まことの天皇と信じてかかったことである。
湖畔へかけて布陣したが、べつな一軍は、叡山の京口、一乗寺下がり松に陣して、そこの表と、搦手の湖畔口と
や林へ追いこまれた上、大津ノ浜にはまた、叡山と同心の堅田党や和仁党の武士が、たくさんな小舟に僧兵を満載し
「叡山は、事やぶれました。面目もございませぬ」
先帝、叡山ニ還幸、防ギ申スベキノ旨
「先ごろ叡山の上でも、偽天子があったそうだ。いくら笠置が落ちたにしろ
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まい。その一策あるのみだ。……やみやみ、座して鎌倉の魔手を待ってよいものか」
しかし、鎌倉へ飛ばした早馬は、いかに早くても三、四日はかかる。さらに鎌倉本軍
が、その応えよりより早く、すでに六波羅勢の先鋒、また鎌倉の大軍が、近くにまで到れりと、この日もここ笠置の行宮には
だから、鎌倉の大軍をやがてここに迎え、さらに幕府をやぶる宮方の大将とたのむには、
「されば、武家と名のつくもの、いずれも鎌倉に多少の恩縁なきはありません。が、わが家は父祖いつの頃より
鎌倉の大軍は、潮のようなその先鋒を、笠置のふもとへ、はやひたひた寄せ
また、この公文書の表で目につくのは、鎌倉ではもう後醍醐をさして“先帝”と称えていることだった。
だから鎌倉の主脳と武将は、続々として、ここ関東から上方へのぼっている
「鎌倉の剛の者、江馬殿の身内、酒匂ノ十太こそ、仁王堂口を一番に乗っ取っ
およそ鎌倉発向の東国勢は、四ツの流れをみせている。
「鎌倉の軍勢がどっと入ると、京中の酒が、たちまち、なくなってしまったそうだ
現に鎌倉の二万余騎も、畿内から洛中にふみとどまって、万一に待機しながら、ごった返し
もっとも、兼好の東国放浪中には、鎌倉の彼のやしきに、ふた月も三月も気ままにいたことがある。
そこまでは兼好も聞いている。――が、俊基が鎌倉へ曳かれて斬られた後の消息は、さっぱり聞いてもいなかった。
、血の気の多い朝臣はあんなふうに突ッ走って、ついに鎌倉の断罪に会うてしまったのだが」
白状するがの。ついこの間、陣の余暇をうかがい、鎌倉の軍監佐々木道誉という資格でなく、個人として、そっと微行で、小右
とくに道誉は、軍目付といわれており、鎌倉の北条高時に代って、耳目の役を果たしていたので、
都に軍馬が満ちてからも、鎌倉同様に、それらの者の保護令を布いただけでなく、彼自身の
「いや、鎌倉の指示で、一切の刃物や火気は厳禁とされておる。まして今暁の
にとらわれず、そこは何とかなりませんか。いかに鎌倉のおさしずでも」
「鎌倉のおさしず。また、いちいち新朝廷の勅裁を仰いでもおることで、
「では、鎌倉へ書状して、この道誉からじかに、高時公の御意をよく伺ってみる
鎌倉の前執権、相模入道高時は、あの小児病とも瘋癲ともつかない物狂い
たくさんおなじ棟にいたのであったものを、それも鎌倉の幕令で、みんな市中の武門へ“分け預け”に分散されて
「ちか頃の扱いは、鎌倉の命か、そちの計らいか」
はみていたが、ただそれひとつのため、まだ鎌倉の最後の承認がえられていない実情だった。
けれど鎌倉の相模入道からの可否はおそく、やっとそれの下状が届いたのは、
と鎌倉ではきまったが、いかにとはいえ……というおためらいか。さすが後伏見
馬軽兵がいいとして、手兵の半数も、途中から鎌倉の直義の許へ送り返してしまっている。
そもそも、去年、鎌倉を立つ日の前に、彼は父の死に会っている。亡父の野辺
「探題殿にも、ちょうど、鎌倉の御使長井縫之助殿とのお打合せやら何やらで、今は暇
も同様に、ここしばらく無断帰国は相ならず、という鎌倉の軍令を、ついおととい頃、手に受けていたからだった。
とつぜん彼の頭裡には、鎌倉の一ツの辻と或る女の姿が、突拍子もなく思い出された。
これが気に入ったらしい。――洛中にみちている鎌倉の軍馬、その中にある新朝廷の皇居。そして、六波羅の木々の底に
の越後守仲時と北条時益のふたりが見え、なお鎌倉の上使長井縫之助、工藤次郎左衛門、二階堂信濃ノ入道らも居ながれてい
―一味の公卿、僧侶、武士どもも、追ッつけ、鎌倉のご議定がまいり次第、処断となろうが、ひとまず先帝と二皇子の遠流を
鎌倉における自分の立場も、またいま、不知哉丸を高氏の長子と
ご合点はつくはず。さきに草心尼の母子も、鎌倉から都へのぼる途中で、藤夜叉には、なにか危難を助けられたこと
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「三百には足りますまいが、なおまだ、紀伊、和泉などから駈け合う同志を待って、こよいは時親どのの山荘に明かし、あすあたり
も山野ですごした。伊賀路を捨て、大和、紀伊、和泉、摂津を股にかけての跋渉を、あえて続けて来たのである。
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あの工匠らも、土をかついでいる者どもも、みな笠置寺の僧兵ぞ。その僧兵四百人も、心を一つに、あれあのような
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奈良の東南院へ潜幸されたとなす説と、一夜は唐招提寺に入御して、奈良の動静をたしかめたうえ行かれたという二説が
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た人数や兵力でもないが、山城、河内、伊賀、伊勢などの地方からも、
笠置、赤坂は一おう終熄したものの、伊賀、伊勢、吉野、紀州、西国にまでひそむ正体知れぬ宮方のすべてまでが消えてしまっ
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以下三山の勢力も、宮方には冷たく、宮はやがて吉野から十津川の深くに一時身をかくした。
赤坂は一おう終熄したものの、伊賀、伊勢、吉野、紀州、西国にまでひそむ正体知れぬ宮方のすべてまでが消えてしまったわけ
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おれたち同様な無名の武者よ。ただその祖先が一ノ谷、宇治川、藤戸ノ渡しなどで、先陣、奇襲の功名をあげたものにすぎぬ。
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まッた人数や兵力でもないが、山城、河内、伊賀、伊勢などの地方からも、
「良人の養家、伊賀の小馬田の領主、服部信清どののご家来などが、わたくしたち夫婦のものを
「伊賀へ帰れとか」
ぜひもない。……それでそなたも良人も、これより伊賀へまいるのか」
家来たちに囲まれて、一日の仮借もなく、もう伊賀へ立たれました。ただわたくしは、こうなる以上、ご無事のうちに、
「伊賀の飛脚でございまする。こんな道ばたでお手渡しもいかがと思いますが」
「はてね、伊賀の誰から?」
――この秋、ぜひなく伊賀の養家の跡目を嗣がねばならぬことになり、心ならずも、いぜん
――笠置、赤坂は一おう終熄したものの、伊賀、伊勢、吉野、紀州、西国にまでひそむ正体知れぬ宮方のすべてまでが消え
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庭はひろい。金剛山を真正面にのぞみ、千早川を崖下にめぐらしている丘陵のここ一角は、庭と
た。いつか四辺は暮れかけていたのである。金剛山は藍のなかに、四日月の光が細い。そして千早川の水音だけが
おれたちの体もおなじものだ。おれたちのあるかぎり、金剛山の失せぬかぎり、ここの御楯の城は変らぬ。しがみついて時節を待とう。
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、この菊水紋の旗を、尊良親王に付して、赤坂城へ下賜された叡慮のうちには図案以上な、機略の妙がうかがわれる
「宮のうち、どなたか御一ト方を、赤坂城に戴けますなら、士気も大いにちがいましょう」
も、笠置が保たん。――笠置が陥ちたあとの赤坂城は孤し児にもひとしかろう」
が、まもなく笠置は陥ち、赤坂城も潰え去った。そこで諸将はあらそッて現地からもとの洛中洛外へ凱歌の潮
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宮が追いつかれた所は、七条か九条あたりか、とにかく六波羅は突破できないから、竹田街道を迂回して
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大衆の底流にも、宮方と関東方があったし、興福寺の反応など、わけて、はっきりしないものがあった。
たことになる。――また以て、いかに顕実一派や、興福寺などが、このたびの天皇の蒙塵を、白眼視していたかが分ろう。
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さらには当然、六波羅の敵も時をおかず、即時にこれを一掃せねばならぬ。
「たそがれから、六波羅の広場、車大路などに、兵馬の気負いただならずと聞える」
の彼方、粟田、蹴上を境に、柵が見える。おそらく六波羅の一陣か」
おるもの。時を一つに、比叡と並び立つならば、六波羅ごときは一朝に圧倒し去ろう。さりとて、このさい叡山に帝の遷幸を見ず
追いつかれた所は、七条か九条あたりか、とにかく六波羅は突破できないから、竹田街道を迂回して、木幡へ出たものにちがい
その六波羅の軍兵が、まずまっ先に殺到したのは、当然、二条富小路の里内裏
みかどの僥倖であった。それというのも、夜来、六波羅の総力が叡山のうごきにつり込まれて、大津や白川口などに、全神経
で、このところ、抜かりだらけな六波羅でも、
「そこもなお物騒――」とあって、すぐまた、六波羅の北ノ一殿へ移しまいらせたのだった。
に僧兵を満載して、先廻りしていたので、六波羅の主力は、そこでもさんざんな敗北を喫してしまった。
同時に、捕虜のすべても、六波羅へ送りこまれた。
また、凱歌のもとに、大軍を収めて、やがて六波羅へ帰った鎌倉諸大将の面々も、
笠置で捕われた公卿やら法師や武者ばらが、たくさん六波羅へ送り込まれ、つづいてはまた、赤坂城も落ちたと聞く。
、表ノ間へ立つかもしれぬし、真夜半、六波羅へ馬を飛ばすなども、再三なのでな」
「おそらく這奴らは、六波羅の獄舎におわす先帝(後醍醐)のおん身を、何とか、奪い回さん
念を押して、その日も六波羅へ出かけた。そして例の樗門へ入るとすぐ、係の者から聞いた
「さようです。六波羅の南、大和大路からやや山寄りの……。そこに昔からの山本左大臣
は一望だった。加茂川は上から下まで、五条総門は六波羅ノ庁の群舎の森まで。
鎌倉の軍馬、その中にある新朝廷の皇居。そして、六波羅の木々の底には、先帝後醍醐の板屋の獄。
もう人委せにしたかったのだ。そういい捨てて、すぐ六波羅へいそいで行った。
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に、日ごろ同心の近郷の輩が、日をしめし合わせ、ひとまず加賀田の毛利時親どのの山荘に集合するものと思わるる。――加賀田まで、わずか
毛利時親どのの山荘に集合するものと思わるる。――加賀田まで、わずか小二里。すぐまいれ。……否というなら、そちも勘当する。
気負い立った若者ばらのこと、爺の説得だけでは心もとない。加賀田まで、お辺も共に、一ト鞭あててくれまいか」
からは、中院のお師匠さまへ通うのを止めて、加賀田の時親先生のとこへ行ってはいけないでしょうか」
余も、毎日毎日兵学を習いに、雨風の日もなく加賀田へ通ったのだ、だから多聞よ、おまえもやれって」
「ご明察にたがわず、日ごろ、よく寄り合う加賀田の山荘に」
「むむ。加賀田の方でも、早や勅使の下向と耳にしたろうが、すぐ報らせて
聞けば、加賀田の山荘でも勅使の下向はすぐ知ったものらしい。それにたいして、正成
その日、近郷巡回の偵察帰りに、加賀田の隠者毛利時親に会ってきた弟の正季は、なにかの報告も終っ
「兄上。……兄上にも、いちど加賀田へお越しあって、時親先生へお目にかかり、久々に先生の兵略や
なぜ兄は事々に、加賀田の隠者を嫌うのか。
寸時をさいても、わずか二里余の道、なぜこの加賀田まで来ることを、さほど億劫にしておるのか、と」
加賀田の隠者時親が、たえず彼のあたまにあった。――隠者の予言は
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が、いずれにしても、まもなく東大寺の東南院におちつかれ、ただちに別当聖尋から、廻状して“――天皇、難
難ヲココニ避ケ給フ”と、衆徒に披露し、そして東大寺大衆の協力を求めたことには間違いない。
その上にも、おなじ東大寺中でも、西院の主僧、顕実は北条高時の一族の出で、しかも
東大寺大衆の底流にも、宮方と関東方があったし、興福寺の反応など
見るとそれは、東大寺の聖尋だった。
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「楠木一族が、宮方に応じて、河内の赤坂に旗上げしたぞ」
へ使いした者、こう参れば、正成のおる河内の赤坂とやらへたどりつけようか」
「赤坂はまだか」
「楠木のいる赤坂とやらは、そのように遥かなのか」
が笠置から郷里へ帰るやいな、楠木家の館から近い赤坂の一丘には、昼夜兼行で築城の土木がおこされていた。―
触れ”がゆきわたると、領下の百姓から老幼までが、赤坂の丘へ来て、夜も日もなく、土をかつぎ、木を伐り、
正成のことばどおり、やがて赤坂の一塁は急速に出来上ったが、そこへたてこもり得る兵力は、一族五百少々、
正成以下の男どもはすべて“砦入り”して赤坂の陣地へうつり、妻の久子は女子供のすべてを抱え、ここからはるか山奥の
正成はすぐ駒首をめぐらして、立ち去った。そして一族もろとも赤坂の城へ籠った。
正成の命に、この日初めて、赤坂の城頭たかく、世に見馴れない旗がかかげられた。――つい先ごろ、
「赤坂の築城はむだだ。――地形、兵糧からみても百日とは支えがたい
、大仏貞直を大将に、大和路から水越峠をへて赤坂をめざすもの。
すべてで、二万をこえる大軍だし、もちろん、彼らは赤坂の小城を眺めて、滑稽にさえ感じていた。――東国武者の大部分
と、赤坂の孤塁へ、夜も日も告げているようだった。
のかぶと虫が、東国訛りの将に叱咤されては、赤坂の丘の下へ向ってまッ黒に駈け、たちまち丘の三方にわたる
月二十日がらみとなって、ついに悲壮な一令を、赤坂中の将兵に触れ出した。
……」正季は、引きつれている若武者ばらをかえりみて「赤坂は敵にわたしたが、河内の土は、おれたちの体もおなじものだ
しかし、笠置、赤坂の失墜がひびいて、熊野ノ別当以下三山の勢力も、宮方には冷たく
「笠置、赤坂とかの、戦は終ったそうですが、町の衆へ上げるお酒なぞ
はまだ暗黒の府も同然なのだ。――笠置、赤坂は一おう終熄したものの、伊賀、伊勢、吉野、紀州、西国に
赤坂を脱して、みずからここへ捕われて来た御子の尊良やら、宗良親王やら
しめたい。父も陣中とおもっている。――笠置、赤坂に目さきの功を争う輩にはやらしておけ――であった。
あのさいは笠置、赤坂の戦いを先にひかえ、洛中それどころな騒ぎでなかった。
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も武技の鍛錬に衆目をみはらせたものである。むかし鞍馬の僧正ヶ谷における牛若もかくやと思われるばかりだった。――
天皇のお行方は叡山でおざる。二十四日の夜どおし、鞍馬の間道をさまよわれ、二十五日の朝がた、北嶺より入山あって、釈迦堂を
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やがて、二度の鐘合図ととも、一手は日吉坂本より大津ぐちへ、一勢は雲母坂より上加茂へうごき出るぞ。――こよい、夜
)と宗良のふたりも、一山の衆徒をひきい、白川口、大津あたりまで出て、待ち迎えんと、書中に見らるる。――藤房、忠顕
親王の下知のもとに、一手は雲母坂から、一手は大津へゆるぎ出たのを知り、すぐさま粟田、蹴上に一陣を押し進めた。で、
夜来、六波羅の総力が叡山のうごきにつり込まれて、大津や白川口などに、全神経をそそいでいたためだった。――で
この手は、大津から唐崎への、湖畔へかけて布陣したが、べつな一軍は
分五裂にたたかれ、深田や林へ追いこまれた上、大津ノ浜にはまた、叡山と同心の堅田党や和仁党の武士が、
師賢は、馬を拾って、大津の方へ駈けたが、いつか前後に味方もみえず、夜も白み
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そして、後醍醐ご自身は、ここより車を南に回し、奈良へ落ちん、というお計りなのである。――南都も深く宮方に
な、馬に乗って、単身お父君のあとを、奈良街道の方へ追っかけて行かれた。
と、見まわし給えば、奈良街道の木幡口、六地蔵の辺りであった。「――やれうれし、
中務ノ宮は、奈良街道をふたたび馬にムチ打って、南都東南院の法務聖尋の許へ、夜来の
奇怪事である。だが、天皇はすでに、ついそこの奈良街道の途中まで来て、迎えを、お待ちうけであるという。
そこから、おん輿は、法師武者に舁かせ、聖尋は奈良入りの先駆を勤めた。
となす説と、一夜は唐招提寺に入御して、奈良の動静をたしかめたうえ行かれたという二説がある。
ただし、このさい直接、奈良の東南院へ潜幸されたとなす説と、一夜は唐招提寺に入
どこでもだが、奈良もまた一色ではない。
と、即夜、ほかへ行在所を求めて、奈良を立ち出でて行ったことか。あわただしさのほど言いようもない。
「早よう、奈良街道へも手をまわせ」
恋しくば、おもとは御父ぎみの膝を慕うて、奈良へ落ちてゆくがいい。――この護良は、一時いずこへなと身
「天皇は奈良にも御座あたたまらず、即日、金胎寺を経て、笠置へ向かわせられ
「ただ今も、領下の者より、奈良、笠置あたりの沸くがごとき騒ぎを、矢つぎ早に、お表まで告げまいり
そのうちに、奈良街道から笠置口へ、一隊の宮方が、寄せ手の眠りを見すまして、馬
そのほか、皇子の宗良も、奈良の聖尋坊も、ことごとく見あたらない。
それに北面の武士、諸家の侍、各地のいなか武者、奈良法師のたれかれなど、おもな宮方だけでも六十一名、またそれらの家来けん
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九月 十四日 二階堂出羽守、秋田城ノ介、着京。
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十六日 金沢貞冬、宇治ニ着。
第二軍の大将金沢貞冬は――河内讃々良から高野街道を南へと。
いま、洛内に駐っている諸大将には、大仏貞直、金沢貞冬、長崎四郎左、千葉貞胤、結城親光、六角時信、小山秀朝、
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二十一日 長崎四郎左衛門ホカ諸将、前線ニ続ク。
「鎌倉どのの侍大将、長崎四郎左衛門ノ尉の麾下の者だが」
「笑わずにおれぬ。長崎殿の兵が、なんと告げたかしらぬが、先夜、二条の暗がり
感じたのか、あるいは軍は軍に同調するたてまえで、長崎四郎左衛門ノ尉の部下をはばかっての表現か、
彼がこう言っているまに、長崎の家来たちは、時信へ目礼したのみで、さっさと兼好の馬を先
行く先でおわかりになりましょう。じつはそのお方より主人長崎殿へ、なにか直々の御交渉があったので、かくは貴僧の
「でも、長崎殿には、ほかならぬ佐々木殿のお扱いではと、さっそく法師を
で急に、久しく見ぬすね法師の姿を思い出し、長崎殿へ貰い下げの使いをやったわけよ。……まあ数日は、ゆるり
ッて来いと命じたのは、案外、彼らの主君、長崎殿自身であったのかもしれない。
駐っている諸大将には、大仏貞直、金沢貞冬、長崎四郎左、千葉貞胤、結城親光、六角時信、小山秀朝、江馬越前守、
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事の由は、逐次、京都へ早馬されていた。
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大将には、大仏貞直、金沢貞冬、長崎四郎左、千葉貞胤、結城親光、六角時信、小山秀朝、江馬越前守、三浦ノ介の
千葉ノ介貞胤
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暮れた。――同夜、大塔ノ宮は、日吉山王の八王子に床几をすすめ、弟宮の座主宗良も、同所に陣座して、
「そちは残れ。そして、八王子から三ノ宮林へかけ、たくさんな松明をとぼし連ねて、敵をあざむく擬勢を
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行方知れず、ぜひなく、知り人の仮面師の手づるで、住吉の楽座へ入り、太鼓打ちなどしておりましたが」
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軍は、仙馬越前、北条遠江守、武田、江馬、渋谷、狩野などの諸族連合で、天王寺から平野街道を赤坂へ。
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。そして、道すじを伏見街道に変えて、深草の里から大宮大和路へ抜け、月輪の方へすすんでいた途中だった。