剣難女難 / 吉川英治
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さる高僧に頼んで、光子の御方を尼として、嵯峨野の奥へ行い澄ませようと謀った。
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た。そのうち所司代からの内達で、姉妹のうち一人を江戸城の大奥へ御中※として差し上げまいかという下相談があった。光子の
と京から姿を隠してしまった。そして、間もなく江戸城の大奥へ妹の通子を訪ねて来た。その時は、僅か老女の水瀬
どこの太守であろうか、江戸城退出の帰りと見えて、式服の半身がその中に見えた。額の青
家は、その後ますます近国へ羽振りを利かし、あまつさえ、先頃も江戸城内で、将軍家を初め諸侯列席の所に於いて、喋々と当時の自慢話
と同道して、鋲乗物に姿を隠し、打ち沈んだまま江戸城の大奥深くへ入ったのである。
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広瀬の宿から追分へつづく並木の蔭を、大股に辿って行く武芸者がある。丈は六尺
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御方のまばゆい姿は、堺町の勘三郎芝居の御簾のかげ、浅草寺の四万六千日、愛宕の花見幕、綾瀬の月見、隅田の涼み船と――
かけている。あたりは旋風の跡の如き狼藉をきわめ、浅草寺の屋根越しから黄色い夕月がぬッとのぞいていた。
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呟やいたまま、うっとりとして、三叉の銀波、佃の芦の洲などに眼を取られて、すぐ桟橋へ上がろうともしなさらない
になり、侍く老女や、多くの腰元たちと共に、佃、品川の海の眺めを静かに、小さな女人国とも云える――大きな女
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八幡、熊野の誓文より、重しとする、武士の金打。これ以上の誓はない。
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腰掛けた。――その床几の真正面には、紫ばんだ大江山の巒影が、丹波の群峯の中に王座を占めて、飽くまで青い五月
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真ッ黒な物をそこへ押し流してきた――上の荒川から運ばれてきた朽木でもあったか、二人の体へドンとぶつかっ
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ぬ。殊に多寡が小藩の家中を怖れたかにもなって出石藩の聞こえも如何と存じますゆえ、まず今日の試合は拙者めに万事お任せ
「使者じゃ! 出石藩へ早馬で飛ばせい」
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この丹波の国の年中行事となっている生田の競馬は、福知山の主催になるものであっ
その床几の真正面には、紫ばんだ大江山の巒影が、丹波の群峯の中に王座を占めて、飽くまで青い五月の空から、五十鈴
なぜ、にわかに伝吉が、この街道を丹波に向かって急いで来たかというに、顔馴染の飛脚屋が、原山峠
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ことが出来ない。そして東海道をうかうかと尾行廻して、空しく桑名の城下まで来てしまった。
宿役人の調書や、桑名の宿屋から聞き出したことなどで、下手人の見当はすぐついた。こんがらと
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江戸に入る心算で、木曾路から信州路へ入り、ようやく碓氷峠にまで辿りついて来た。
があろうか。二年前には桔梗河原で、近くは碓氷峠で見受けた汝の姿を、ここで見損じるような拙者ではない。見つけ
玄蕃ほどの者が、前には大草額平を騙って碓氷峠に彼を擁し、その失敗にも懲りず、再びここで二人を絶ってしまおう
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「実は何をお隠し申そう、拙者は亀岡の有馬兵部少輔の家臣、戸川志摩と申す者でござる」
浄法寺並木から、亀岡の城下、そろそろ陽が暮れかけてきたにかかわらず、どっちも宿を取ろう
ましょうから、どうか、先へお急ぎになるとも、また亀岡へ戻って、宿をお取りになろうとご自由にどうか……」
亀岡の城下の、とある旅亭に落ち着いた三人は、互に種々の物語を
新九郎と、千浪を連れた伝吉とは、間もなく、亀岡の城下端れで、西と東へ、名残りのつきぬ袖を別った――
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にゆくまい。で、この重左は、例の通り鎌倉の大安寺へ行って、しばらく保養をしているから、てめえたちも江戸から足を抜い
時、二、三年身を潜ませていた鎌倉の大安寺で、まったく保養に行くぐらいな気持である。
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、山は眠りに入るように森としてきた。寛永寺の森に、夕鴉の寒い羽ばたきが聞える。あたりの桜も、淡墨色に
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今日こそ、福知山藩の誇りを一蹴し去らんずと、京極方で待ちに待った桔梗河原の
亥の下刻頃までは、福知山藩の剣士君塚龍太郎が、宮津藩の家士、玄蕃の門人など六人まで撃ち込んで
――と、一方福知山藩の家中から、騒然たる物議の声が高く起った。家士溜りの剣士の控え
かけた。それは正木作左衛門の娘の千浪であった。福知山藩では今日の試合に公然と女の陪観を許さなかったので、よそながら
天晴れ鐘巻自斎に勝る腕前にもならば、君公をはじめ、福知山藩全体の大きな誉れ、娘の千浪も名分が立つと申すもの……」
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思い出してじゃ。この御成道を真ッ直ぐに、小川町から牛ヶ淵の方角へ息もつかずに急いでくりゃれ」
無関心の態で、たちまち護持院ヶ原を走り抜け、やがてもう牛ヶ淵の濠端から、富士見坂の上り勾配へ差しかかろうとする。
失って狼狽えだした。見れば六、七町の彼方、牛ヶ淵の濠端添いを真っ直ぐに、高く低く無数の御用提灯が燦めき出し、心なしかワッ
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路を代えた鐘巻自斎は、鬼ヶ城峠を越えて梅迫から綾部を廻り、京都路へさして行ったらしいが、後の消息はこの地方に
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いる訳にゆくまい。で、この重左は、例の通り鎌倉の大安寺へ行って、しばらく保養をしているから、てめえたちも江戸から
あった時、二、三年身を潜ませていた鎌倉の大安寺で、まったく保養に行くぐらいな気持である。
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「これッ汝も京極方の武士であろう」
に富んだ点から、遥かに宮津七万石の城主大名たる京極の内容のない膨大を蔑視していた。
も余りの理不尽と存じ、唯今目付役人立ち会いの上、京極方へ懸合いに参りましたるところ、玄蕃儀持病さし起り試合大儀の様子ゆえ
「あいやご家老のお言葉ながら、言語道断なる京極の無礼、このまま黙っては万民の笑い草でござる。君公のご恥辱を雪ぐ
「余が京極丹後である。遠路火急を促して大儀であった。当家の武名存亡に
が激しく鳴った時であった。千浪はいよいよ春日重蔵が京極の新敵手と最後の勝負をするのであろうと、それにも心を惹か
「やい武士ッ、うぬあ京極方に味方して、春日様の足を打ッ挫いた痩浪人だろう。この先
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、餞別の品とを、春日新九郎に渡したい一念で、丹後から京都路へ追いかけて来たが、八方の街道口、宿場、立場へ頼ん
だけでは、お覚えはございますめえが、つい後月、丹後の湧井郷で、河の中へお前さんのために、逆とんぼを打って、
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「それゆえ、不本意ながら、今宵はお兄上の菩提寺品川寺へ一先ずお越しなされて、明日ご郷里へお立ちなさるがお身の為
も少なき新九郎、華やかに今宵を過ごすはかえって心の傷み、品川寺へ参って、兄重蔵の霊に対面いたすこそ望ましいところでござる」
と、自斎は小野家へ、新九郎は品川寺へ、松平家の者に送られて行った。
た楓の下を、まだ掃き清めたばかりの朝――。品川寺の式台へ、早や訪れた人が二人。
何を話し合う間もなく、品川寺の小坊主が、廊下口へ来てこう取り次いだ。
こんがら重兵衛の四人は、数多の人々に見送られて品川寺を出立した。
の中に豪快な笑い声を交ぜて行く――歩きながら、品川寺の裏垣の方を振り顧って、千浪は、二度三度ホロリと泪を
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公卿紋の雪頂笹を紫に染め、帯は蜀江か西陣か見分けもつかぬような絢爛。もの云うごとに玉虫色の唇は、妖魅
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と、弥平が狼狽ている間に、池の八ツ橋の上からお通の方が、
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「御殿山のご庵室からと仰っしゃったばかり……お姿は尼僧のようでいらっしゃいます
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だけは辛くも網をくぐって江戸表を落ち、一時、秩父の在へ姿を隠して時節の来るのを待っていた。とある日の
二人はすぐ旅の支度にかかった。そして秩父の在から川越街道を経て、ちょうど、今日江戸へ入ったところ――、
は、近いうちにこんがらとせいたかの二人を連れて、秩父の三峰へ出かける下相談をしませんでしたかえ」
のですよ。そして、今度こんがらやせいたかを連れて、秩父へ出かけるということをどこからか聞き込み、前に生不動を殺ったと同じ
そりゃいいとしても、明後日立つ約束になっている、秩父の交際はどうしたものだろう。行かねえなら行かねえように、寄居の親分
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その日、増上寺参詣を名として、大奥を出た将軍家の愛妾お通の方の駕
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花の大江戸で、いま売り出しの名は、当時、関西にまで響いている生不動、伝吉が情を明かして、春日新九郎の一身を
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表面は生野銀山の加奉役と触れているが、実は千坂ごえの旅人を脅かしたり、銀山
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と血の勇がある。かねてから名を聞いていた赤坂の武士侠客がどんな難題を吹っかけるのか、ままよ、行く所まで行って見ろ
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ならお武家町人の選り嫌いなく飛び入りご勝手、八年八月比叡山に籠って日下無敵の工夫を凝らした類と真似のない投げ槍の極意を見
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堺町の勘三郎芝居の御簾のかげ、浅草寺の四万六千日、愛宕の花見幕、綾瀬の月見、隅田の涼み船と――ほとんど、江戸人行楽
の者を減らし、ほんのお忍び同様な二、三人で愛宕の裏坂へ向って行った。
この愛宕の裏山に住んでいる植木屋の弥平は、永年菖蒲の寮に出入りして、
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て、羽黒山に籠っては七年の行を遂げ、妙見山に入っては十年の間、切磋琢磨の工夫を積んで、金剛杖と戒刀をもっ
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一通りでない。その結果、同門の一族協議の末に、仁和寺のさる高僧に頼んで、光子の御方を尼として、嵯峨野の奥へ
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に、強かな目に会わせられた修験の山伏だ。亀山の城下に、
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先のある身だ。悪いことは云わぬから、拙者と江戸へ行こうじゃないか、どんな贅沢、綺羅な暮しも都へゆけば仕たい三昧
「左様……京坂江戸の三都には、音に聞えた一流の名手も星の如くでござるが
「だってそうじゃないか、考えてもご覧なさいよ。江戸へ行くまでには、まだ何百里っていう道のりだよ、大津くんだりで、鐚銭
に困じ果てている身だというようなこと。仇が江戸にいるという手がかりを得たが、路銀もここへの払いも尽きたの
初鰹も過ぎ、時鳥にも耳飽きて、袷を脱いだ江戸の夏は、涼み提灯の明りに、大川ばたから色めき立って、日が
春日新九郎が、この江戸の土を踏んでから、かれこれ一年半余りになる。伝吉の添状で、
名人でも、にわかに腕が上がるものじゃありません。江戸は広うごぜえますから、まア気永に好い先生を見つけ出して、それからみ
顔をしている荒神と臂の両人だけが、なぜこの江戸で全盛振りを示していられるかといえば、この両人だけが幡随院歿落
、後にこのことを知って歯ぎしりを噛んだが、一足江戸の土を踏めば御用と声がかかるばかりでなく、幡随院の境内で、尼
江戸に、この事あった二月ほど前である。
て、行く行く玄蕃の踪跡を尋ねながら、中仙道を大廻りして江戸に入る心算で、木曾路から信州路へ入り、ようやく碓氷峠にまで辿りついて
の足蹟に気をくばりながら中仙道の宿駅を次いで、江戸の朱引内へ近づいて行く。
あるか、どういう素性の貴人であるかを、好事癖の江戸の人が、今に至って知らないというのも、これまた不思議の一
この頃江戸の町には奇怪な見世物が流行っていた。時代に投合したものか
「かような世のさまも、江戸ならでは見たくも見られぬことでござりませぬか」
、腕に覚えのお方はないか、これで出なけりゃ江戸の恥だぞ、お膝もとの男の名折れだぞ! さア出た出た
「されば深いことは存ぜぬが、今日一日江戸見物を致した上、奥州路へ発足、仙台の城下へ参って一刀流の町道場
「あの人も江戸へ来ているのに、一体どこに来ているだろうねえ……アア会いたい
「さア出ないか出ないか! 江戸の男には腕ッ節の強い者はいないのか、小六先生を破る
、旅先から戻り、一月寺へ鑑札尺八を返納して江戸へ入ろうとしたところ、その途中不動院で今日落ち合ったのが重蔵と千浪の
「後ろを振り顧らずに、一散に江戸へお帰りなされ」
一方、夏目と鵜飼の両名は、そのまますぐに江戸へ急いでしまえば、この奇禍にも遭わなかったろうに、不動院を出ると間
と意気込んで密かに江戸を立ち、見え隠れに前の三人を尾け出した。その一味には、久八
しかし、さすがに江戸で生不動と云われている程の与兵衛には、道中五分の隙も
を懐にして、もう余熱も醒めた頃と、再び江戸へ帰ってくる途中であった。
「江戸へ帰ったら、生不動の縄張を譲って、一方の親分株を持たせるから
それから十日ほど後、江戸に残っていたこんがらとせいたかは、石薬師の宿役人から意外な悲報
せいたかは親分乾分三人を荼毘に付して遺骨を抱えて江戸へ帰り、その四十九日の夜に、浅草藍染川の笊組へ仕返しの斬り込み
笊組の奴等もすッかり油断している頃合だ。ぽつぽつ江戸へ帰って様子を見ちゃどうだろう」
。そして秩父の在から川越街道を経て、ちょうど、今日江戸へ入ったところ――、偶然にも春日新九郎に出会ったのであった。
「江戸の近くへ来て様子を探りゃ、今では生不動の一まきと名のる者
と京へ帰る心はない。それに、妾の気持が江戸の町にも合っている。ここで気儘気楽に世を送りたいのじゃ、
あるので、奉行所の与力同心たちも、光子の御方が江戸へ来たため、どれ程以前より役儀の気苦労が殖えたか知れないとこぼし
の首を掻っ切ったら、お前たちは、また当分の間、江戸から足を抜いていた方が身の為だ、すぐ高飛びしてしまいねえ
、新九郎に言い渡されている言葉通り、夜に紛れて、江戸から高飛びしてしまった。
鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春。――その大江戸の花はここ三日と、出るわ、出るわ
にゃ違えねえが、お前たちを見るのは今が初めて、江戸生れの武家侠客で、名さえ、御曹子の新九郎という者だ。人違いをし
へ行って、しばらく保養をしているから、てめえたちも江戸から足を抜いた後、時折遊びに来るがいい、なあに、ほとぼりのさめるの
御方の住居が、一夜に焼失してしまったことは、江戸でも近来の椿事と誰もが驚いたらしい。驚いたのは、火事その
こんな噂が、行く春の江戸を賑わしている最中、下谷の地蔵長屋を立って、遍路の尺八を吹き流しながら
尋ねる仇の玄蕃も、たしかにこの江戸にいる様子であり、弟の新九郎にも是非もう一度会わねばならぬと
ならぬと、重蔵はまだ幾らか痛む足を引きずって、江戸の横丁、裏小路の隈なきに至るまで日ごと日ごとに歩いているその一日のこと
けれど、そんな大騒動をお膝もとで起すことは、江戸の周囲が見遁しているところではない。急はすぐ八方に知れて、
するか分らない――殊に御方は公卿出の気位と、江戸で別扱いの吾儘に勝った人、まったくそんなこともやりかねないのである
二人はいつか親しい間になって、二度の大願に江戸を去った新九郎の本懐を心待ちにし合っていた。
山陰の一城下を出て、江戸の五年は空しくもあれ、重蔵の死後、この山奥に隠れて艱苦三年
偽りがあろう、その儀は必ず、左典が引受けた。江戸へ帰って吉報をお待ちなさるがいい」
江戸の小野忠雄から急状が着いたのである。とにかく、この状着次第に
彼が江戸に入った足で、すぐ小野派宗家の道場を訪ずれて、忠雄から聞いた
柳生、小野、また江戸の名だたる剣客もよそながら注目しているであろう場所。やぶれを取っては富田
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見る間に、神田川の堤を横切って、小川町から護持院ヶ原へ入っていった早さ。あれでは、肩に棒を当てている者
御方のような追手があるのも無関心の態で、たちまち護持院ヶ原を走り抜け、やがてもう牛ヶ淵の濠端から、富士見坂の上り勾配へ差しかかろうとする。
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伊予は、時ならぬ騒動を知るや、
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から、そんなことに耳をかける者もない。船はもう隅田を越えて、綾瀬に近い所まで溯っていた。
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引更えて、光子の御方が嫁いだ藤波家は、伊勢の神職の公卿で至って侘しい家庭だった。のみならず選ばれた良人の教
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は一文字に風を切って走った。間もなくさしかかる青山の権田原、松の片側並木は見附の前までつづいている。――と風
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いるうちに、伝吉がジロリと一方の顔を見ると、山陰地方の食い詰め者で、所払いになった、痣の久六という名うてな悪女衒
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の、さわさわとしたのを両手でたくしあげて、無造作な兵庫くずしに束ねた根元を南京渡りの翡翠で止めた。そして、臙脂皿を
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しまえば、後は夕月を見てからでも、楽に落合の宿へ入られます」
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そのくせ、御方のまばゆい姿は、堺町の勘三郎芝居の御簾のかげ、浅草寺の四万六千日、愛宕の花見幕、綾瀬
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をきかねえから、今までてめえにかけた入費の代りに、祇園へ売り飛ばしてくれるのだ。それが嫌なら親分の妾になれ」
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朝まだき大川端を急いでくると、ちょうど矢の倉手前、両国の渡し舟に近い河岸ぶちに、悄然と立ち竦んでいる二人づれの虚無僧を見た
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鐘巻自斎は、鬼ヶ城峠を越えて梅迫から綾部を廻り、京都路へさして行ったらしいが、後の消息はこの地方に絶えてしまっ
修行は困難であろうと存ずる……今朝立った道はおおかた京都路であろうゆえ、其方の足で追い着いて、大儀ながらこの三品を
は身軽な旅仕度となって、新九郎の後を追って京都路へと急いでいた。
「この但馬街道を東にとり、京都へ向ったようでござるが、かの鐘巻自斎と申すは、海内でも屈指
洛内の名人を尋ねて修行の心底でござるが、これより京都へ参る途中において、尋ぬべき達人の門戸はござりますまいか」
音に聞えた一流の名手も星の如くでござるが、京都までの途中としては……」
彼は京都聖護院の御内の修験者であるから、元より武人ではないが、また世間
の品とを、春日新九郎に渡したい一念で、丹後から京都路へ追いかけて来たが、八方の街道口、宿場、立場へ頼んで
新九郎は途中から、思いがけない波瀾に遭遇して、まだ、京都の土は一足も踏んでいなかったのだ。
それから二日おいた三日目には、京都七条口から発して、丹波街道の沓掛宿から、老坂峠の切所を
、数日後に、如意輪寺住職の紹介を持って、京都寄竹派の普化宗明暗寺に行って虚無僧の入宗許可を受け、
「何の、蘭薬というても、いろいろな薬を京都で扱うている覚えもある、心配はありませぬわいの」
「宗法でござれば天蓋はご免こうむります。これなるは京都寄竹派の普化僧竹枝と申す者、また某は同宗の月巣と呼ぶ
ある公卿紋の雪頂笹が示すとおり御方の生家は、京都の堂上冷泉中納言家の分家で、俗に下冷泉と云われる太夫為俊卿
が、それ以来、御方の性格がガラリと一変して、京都の盛り場へ出歩いたり、女だてらに木太刀を取って遊侠の徒に交じったり、
「では、どう遊ばしても、京都へお戻りなさらぬお心でござりますか?」
。が他ならぬお通の方の姉でもあり、京都の生家へ対する義理もあるので、それとなく、表役人に云い含ま
光子の御方が、京都綾小路の有名な剣客、長谷川宗喜から、小太刀の妙髄をうけたと評判
さりとは、光子の御方ももの好き過ぎるが、京都にいた頃から、自体、そうした遊侠気分、町奴などに伍するよう
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ここは大津の宿、唐崎屋という旅籠の下座敷で、簾の目より細かい琵琶湖
へ行くまでには、まだ何百里っていう道のりだよ、大津くんだりで、鐚銭もなくなっちゃッてどうするのさ」
夜が明けるか明けないうちに宿を立って、朝霧の大津の町を、湖水に沿って歩いていた。
越しているとは、まさかに思いつかない伝吉は、今日は大津から小浜街道へ伸して見ようかどうしようかと、捜索の方向に迷って
「そのことは、大津の宿端れで、由良の伝吉という者からも詳しく承り、いつにても
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で、同じ頃な年配の武士と肩を並べながら、越前福井の城下をブラブラと歩いていた。
越前守のご機嫌伺いであった。元来福知山の松平家と福井の松平家とは、姻戚関係のある親藩であったから、この使者は
役儀表は、主君忠房の音物をもたらして、福井の城主松平越前守のご機嫌伺いであった。元来福知山の松平家と福井
鯖江の旧師を訪ねて、その駕が再び福井を指して戻って来たのは、ちょうどとッぷり日が暮れた頃だっ
ほどなく、福井の灯がチラチラ見えだした。駕は一散に、浅水の並木から真ッ暗
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同じ日、同じ時刻ごろ、一方の長野街道から来た二人の浪人者は、宿の辻で見た、虚無僧
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今日一日江戸見物を致した上、奥州路へ発足、仙台の城下へ参って一刀流の町道場を開くとか申しておりました」
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ば随分面白いことがあろうというものだ。先ずこれから、宇都宮、大田原の城下などを振り出しに奥州路から中仙道へ折れ、あわ好くば四国
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いたか、茶店の亭主は親切に力づけて、二人を下谷地蔵長屋の自分の家へ連れてきた。
こんな噂が、行く春の江戸を賑わしている最中、下谷の地蔵長屋を立って、遍路の尺八を吹き流しながら、春日重蔵と千浪は
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生不動は今日もこう宥めて、浅草川へ涼みに誘ったところだった。新九郎もその時は、お供をしよう
御方のまばゆい姿は、堺町の勘三郎芝居の御簾のかげ、浅草寺の四万六千日、愛宕の花見幕、綾瀬の月見、隅田の涼み船と
至極な見世物小屋。芝の神明前、神田護持院の空地、浅草寺附近などの野天で、人だかりがしているなと思えばそれだ。
浅草二天門のお火除地に立って、苦々しげにこう呟いた虚無僧は
あがった。こう見えても只の小屋人足たあ違って、浅草笊組の大親分臂の久八の身内で風鈴の源七とか何と
かけている。あたりは旋風の跡の如き狼藉をきわめ、浅草寺の屋根越しから黄色い夕月がぬッとのぞいていた。
の兄上、よもや遠くへは参るまい。奥州街道と云えば浅草見附から千住街道へ一本道、後をお慕い申して一目なりとお目
鐘巻自斎の膺懲に会って、浅草お火除地の興行小屋を滅茶滅茶にされた投げ槍小六は、笊組の
を、再びここで返り討ちにしてしまおうとの魂胆らしい。浅草の小屋へわざと自分の名を掲げておき、二人を奥州街道へ釣り出そうとし
ながらぶらぶらと本郷台へかかって来た。そこから見ると、浅草川を中心に下町の灯がチラチラと美しく眺められた。
この四人は、浅草火除け地の賭試合の小屋を立ち退いた後、奥州街道で春日重蔵を返り討ちに
遺骨を抱えて江戸へ帰り、その四十九日の夜に、浅草藍染川の笊組へ仕返しの斬り込みを試みようと、密かに用意している
「では浅草の笊組には、また大月玄蕃だの、投槍などの、悪浪人が
「五日ほど前の晩に、浅草笊組にいるお延という女と一足違いに、慌てて帰ったと
、新九郎も乗り気になり、お延はその為に、時々浅草へ帰って様子を窺った。そして、今日の昼もちょっと扇屋へ姿
別れて、もう半刻ばかり後に、笊組は柳原土手から浅草見附の方へ帰る様子ですから、ぬからずにその途中で待ち伏せしてい
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屋形が着いたばかりであった。大川もずッと下流の、浜町端れのその寮からは、船を見るとすぐ、案じていた老女や
浜町菖蒲河岸の御船御殿というのは、将軍家船お成の節に、御
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、侍く老女や、多くの腰元たちと共に、佃、品川の海の眺めを静かに、小さな女人国とも云える――大きな女世帯
来た頃には、小雨もやんで、朝焼けの雲が品川沖に流れて見えた。
「それゆえ、不本意ながら、今宵はお兄上の菩提寺品川寺へ一先ずお越しなされて、明日ご郷里へお立ちなさるがお身
も少なき新九郎、華やかに今宵を過ごすはかえって心の傷み、品川寺へ参って、兄重蔵の霊に対面いたすこそ望ましいところでござる」
と、自斎は小野家へ、新九郎は品川寺へ、松平家の者に送られて行った。
た楓の下を、まだ掃き清めたばかりの朝――。品川寺の式台へ、早や訪れた人が二人。
何を話し合う間もなく、品川寺の小坊主が、廊下口へ来てこう取り次いだ。
こんがら重兵衛の四人は、数多の人々に見送られて品川寺を出立した。
の中に豪快な笑い声を交ぜて行く――歩きながら、品川寺の裏垣の方を振り顧って、千浪は、二度三度ホロリと
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上からみての奇怪至極な見世物小屋。芝の神明前、神田護持院の空地、浅草寺附近などの野天で、人だかりがしているな
千浪は遠くから、神田濠の一膳飯屋の軒先を眺めて、
眉深にして、頤の紐を結びながら、今、神田濠の茶屋をスタスタ出て行ったのは大月玄蕃だった。
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、よもや遠くへは参るまい。奥州街道と云えば浅草見附から千住街道へ一本道、後をお慕い申して一目なりとお目にかからね
武州岩槻からくる道と、千住からくる葛飾の往還とが、ここで一路になって奥州街道となる幸手の
ほとんど、魂をおう狂気の人の如く、千住街道を急ぎ足に、先から先の人を追い抜けて来た春日新九郎は、
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の用を思い出してじゃ。この御成道を真ッ直ぐに、小川町から牛ヶ淵の方角へ息もつかずに急いでくりゃれ」
見る間に、神田川の堤を横切って、小川町から護持院ヶ原へ入っていった早さ。あれでは、肩に
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編笠、町奴は落し差し、猫も杓子も、ぞろぞろと東叡山上野の丘へ登って行く。
尾けている侍どもは、氷川下の深見一まきで、上野以来の恨みと、笊組の怨敵、氷川の縄張り近く、白昼大手をふっ
「そうくさすない、上野の丘で山手組を八、九人も向うへ廻して、可哀そうな虚無
と配下の者に言い渡しておいたが、上野の丘ではかえって散々な目に遭い、溜池ではあの失策、いつか
上野の寒松院ヶ原で巡り会った時、面目なさの余り、二度と
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それから四日ほど後の夕方、またも、人通りの多い日本橋の袂に倚りかかって泥酔していた。
弥次馬は恟っとしたが、場所が日本橋となると野次馬も一筋縄の手輩でないと見えて、
新九郎は大口開いて笑いながら、日本橋の欄干にすがりつつ、あぶない足どりを辿って来たが、晩春の川風に
今は折よく、日本橋の袂で、重左自身が彼の姿を見つけたのであったが、
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足軽仲間などの屋敷者相手と見えて、麹町の淋しい横町に、まだ一軒の酒売店が起きていた。
春日新九郎ただ一人のために、麹町の上屋敷を荒された上、玄蕃の首を掻かれて見事に鼻を
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の幔幕が張り渡されてある。大番組の警士を初め渋谷三郷の代官、柵の内外に厳しい固めをつけておく。
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銀河の星の数ほど、隅田川にあつまった涼み船の灯を、一瞬に吹き荒らして、晦瞑の濁流と
。が、一角は先に笊組の諜者となって、隅田川で生不動の身内を鏖殺しにしようとした企みの手引きをした
と濁ってくると、お延はついこの間、思いがけなく隅田川で会った春日新九郎の姿を現にそこへ描いて、
「犬侍の一角を出せッ、隅田川の仕返しに素ッ首を引ン抜いてくれるから勝負に出せッ」
あるので、それとなく、表役人に云い含ませ、隅田川のお船見屋敷を住居に与えて、年千余石の賄料さえつけてくれ
のは千浪であるぞ、そちは、嵐の夜に、隅田川から行方知れずになったと聞いたが、よう無事でいてくれた
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見る間に、神田川の堤を横切って、小川町から護持院ヶ原へ入っていった早
こんな晩に駕は野暮じゃ、小六殿、いつ通っても神田川は気持がいいのう」
見すぼらしい態も気の毒だが、古風なことを吐かしやがると、神田川のどん底を舐めさせるぞ」