鳴門秘帖 03 木曾の巻 / 吉川英治
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「もう江戸から四十里余り、三晩も泊りを重ねているのに、行っても行っ
なりはしない。拙者はもうここでお別れいたすよ。江戸へ帰って寝ていた方がはるかましだ」
「では、なぜ、江戸を立つ前にそういわぬか。ここまで来た旅先で、面白くもないケチ
「ム、しかし、周馬を無事に江戸へ帰すと、阿波の内密を吹聴いたさぬ限りもない。拙者は主君のお家
アア、江戸で有名な、浅草の観音堂だな。
さめて、あたりの現実を見廻してみると、ここは江戸の観音堂でもなく、また花の散る朧夜でもなかった。
江戸の地から何百里を隔て、本土の国とは鳴門の海を隔てた阿波
はない。夢はこの山牢を解放して、剣山から江戸までもさまよわせてくれる。今の世阿弥と現実の世の中との交渉は、ただ
た。かれが、夢にみるお千絵は、いつも彼が江戸を去った時のおさないお千絵であったから……。
しかし世阿弥殿。ただ今お告げした通り、弦之丞殿が江戸へついた暁には、さだめし、それらの消息や、また公儀の旨
、その日から、俄然と眼をさまして一縷の望みを江戸の空へつないだ。
、自分はあまり愚に返っていた。ただいたずらに、江戸へ残してきた二人の娘の愛情にばかり囚われていた。
! 女の足をいたわっていると間にあわんぞ! 江戸へ上った天堂一角より、何やら大事な知らせがまいって、また一会議あろう
、信濃路からくる善光寺帰りの旅人、和田峠をこえて江戸の方角から辿りつく旅人などが、一夕の垢を洗うべく温泉をたのしみに必ずわらじ
いなかったのが大失策――、こりゃあ天堂一角が、江戸から本国へいちいち早打をうって知らしていたので、こっちの先手を
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冗談をいいなさんな、読本の筋じゃあるめえし、こんな四国の山奥で、バッタリ行き逢ったり何かして堪るものか。実はお前の尋ね
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「まアよろしいじゃござンせんか。これが、大江山へでもさらわれて、酒顛童子のようなやつを亭主にしたと
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諏訪の温泉町は、ちょうど井桁に家がならんでいる。どこの宿屋にも公平
、そこを去ったとはいうものの、もとより素直にこの諏訪の温泉の町を出てしまったわけでは無論ない。七、八歩あるい
男は、先頃、和田峠でも人違いをされて、諏訪の会田屋へ逃げこんだ四国屋のお久良と手代の新吉であった。
俺たち三人が足場を撰って待ちかまえているんだ。諏訪じゃあこっちで斬りかけるとたんに、宿屋の奴や湯番の者が拍子木なんぞ
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道理で、五重の塔がある、淡島堂がある。弁天山の鐘楼がある。
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上田の城下へ入る前に、追分の辻から佐久街道へ折れて、青々とした麦畑や、菜の花に染め分けられ
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道理で、五重の塔がある、淡島堂がある。弁天山の鐘楼がある。
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そこからはるかに見渡すと、漠とした雲の海に加賀の白山が群巒をぬいて望まれる。
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てしまう運命であったものが、誰かの手で、江戸城へ届けられるとすれば、その甲賀世阿弥に死花が咲くわけである。
ません。その評判は海の上のことで、まだ怖い江戸城の親玉へまでは知れていねえ話ですから」
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まだ軽井沢ぐらいはいいが、それから先の和田峠、猪の字ヶ原の高原、
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なら、お十夜殿、アイヤ周馬先生、ど、ど、堂島へ出て、万金を賭して相場をやってごらんなさい。お、お綱だ
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は木曾路をへてくる上方の客、信濃路からくる善光寺帰りの旅人、和田峠をこえて江戸の方角から辿りつく旅人などが、一夕の
ことでござります。したがお内儀様、こんどもやはり善光寺へお詣りのお帰りでいらっしゃいますか」
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「おお、それじゃたいそうな廻り道で……きょうはあの和田峠をお越えなさりましたな。さぞお疲れなことでございましょう」
「疲れもどこかへ消えてしまいました。その和田峠から、とんだ目にあいましてね」
「エエ、和田峠から、私たちを、つけ廻してくる侍がありましてね」
侍たちでございました。しかもそれが三人づれで、和田峠の下りから、オーイと、私たちを呼びはじめたではございませんか」
までもなく、お十夜とほかふたりの者である。和田峠の中腹を下ってきた時、周馬と一角が、先へ遠く急いでゆく
けれど、この男の見届けた事実に相違はなく、和田峠から追ってきた自分たちの眼が錯覚をおこしているのだとは、
、そこにいた内儀と手代風の男は、先頃、和田峠でも人違いをされて、諏訪の会田屋へ逃げこんだ四国屋のお久良
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「そうそう、大阪表におった頃、そういう話を阿波殿の口からも聞いたことが
っけ、オオ俵一八郎、俵一八郎、かれはたしかに大阪表の天満組同心だ。あの様子では、ごく近ごろに、この山牢へ
をもって、唐草銀五郎というものが、阿波へ入りこむべく大阪表までまいりました」
「ひと頃、大阪表を立ち廻っていた、女スリの見返りお綱という者はござった
「へへへへ、お米様。いつまで大阪表にいる気じゃ困りますぜ。ここは阿波の国も吉野川のグンと奥
「エエ、どうせ嫌いは分っております。なにしろ大阪表にいた頃から、この宅助は、仇役にばかり廻っておりました
だが、この痩形の美人こそ、去年の秋まで、大阪の立慶河岸にいた川長の娘お米であった。
とってよろこぶべきことは、あの癆咳の病のかげが、大阪にいた頃より大層よくなっていることだった。瞼のあたりの青いかげ
お米とすれば、もと大阪の店へ来つけた客ではあり、啓之助とこの男と、どんな関係が
…。ああ、この天井板のない屋根裏を見ていると、大阪表から来た時の、怖かッた船底が思いだされます」
「また、大阪へやってくれということか」と苦ッぽい声の下から、針の
もう四、五年もたったらやってくれる、それまでは大阪へ帰ることはならぬ」
「帰るとおっしゃいますけれど、決して、もう、大阪へ行って、戻らないというのではございません、すぐにまた阿波へ
「大阪の家へ」
、あなたがお暇をくれないなら、私は私の勝手に大阪へ行きますから。立慶河岸のお母さんが、危篤だという早打がき
「くどい! 何といおうが、わしが大阪へ行くときには連れても行くが、そち一人でまいることはならぬ」
「そんなにも大阪が恋しいか」
「行ってこい! だが、なんだぞ、もし大阪へ行ったきり戻らぬ時には、きッと命を貰いにまいるぞ、いいか
をかきあわせて立ったお米は、徳島へではなく、大阪表へ早く帰れる都合になったうれしさを、思わず顔に出している。
船切手、あれを落さぬようにな、よいか、また大阪へまいっても、御当家のことや要らざることを他言してはならぬ
「ム、わしは、大阪の九条村、平賀源内というものだよ」
採った薬草の効能や、そうかと思うと、近頃、大阪に見えない鴻山はどうしたろうとか、俵一八郎の伝書鳩はどうだ
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翌朝は源内、かねて名古屋へ廻る予定なので、一同に別れをつげ、先へ宿を立って行っ
と、もちの木坂の勾配を見上げると、その中途に、名古屋へ出る裏街道の辻があって、目印の七本松がそびえている。
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が、中仙道をはかどって、もうそろそろ碓氷峠の姿や、浅間の噴煙を仰いでいようと思われる頃、――三日おくれて、同じ
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「ほ、また誰か、徳島城の者が、山へムダ矢を放ちにきているな……」
卿が、なんでも同行するというので、はるばる、徳島の城下から、山支度と狩装束できたのはいいが、日置流自慢
飽きたら先に徳島城へ帰るかと、啓之助が放っておくと、こんどは、まだ絶巓に
へ入れて鳴門の向うへは返すな、間者を斬ると徳島城へ祟りをする――というのは、義伝様以来、破れぬ
! 鳴門の渦と剣山の雲に蔽われていた徳島城の大秘密をあばいて、天下をアッといわせようという壮図に燃え
! 死花だ! と彼の心は躍ってくる。徳島城内のかずかずの密謀や、歴々と、阿波一国にみなぎっている
みると、竹屋卿がわらじがけで実地を写したものらしく、徳島城の要害から、撫養、土佐泊、鳴門のあたりを雑に書きかけて
そして、冗談のように、今でも隠密を殺せば徳島城にたたりがあるかないか、試しに、世阿弥か一八郎かどちらか
「とにかく一八郎の死骸を片づけ、仔細を徳島城へ申しおくることにいたそう。いつもながら放恣な三位卿、困っ
、自分の落度とならざるを得ないから、一刻も早く徳島城へ帰って、ありのままに上申し、向後あの居候殿の放縦も少し慎しむ
、そういいながら、襟をかきあわせて立ったお米は、徳島へではなく、大阪表へ早く帰れる都合になったうれしさを、思わず
「徳島へつくと、わしは屋敷へも寮へも寄っている暇がない。
「――早くまいれよ、徳島城へ! 女の足をいたわっていると間にあわんぞ! 江戸へ
巧妙な連絡がついていては所詮、剣山はおろか、徳島の城下はおろか、鳴門潟の磯を見ることさえ不可能なわけ。
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途中で、あえない最期をとげたのでござる。場所は、大津の禅定寺峠。――某もまたその時に、阿波の侍のため
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かに要るからでござンしょうが、廈門船や西班牙船から長崎沖で密買した火薬を、この阿波の由岐港に荷揚げをして
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木曾福島の関所の高地から目の下の宿を見おろすと、屋根へ石をのせ
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した麦畑や、菜の花に染め分けられた耕地や森や、千曲の清冽などを見渡しながら、フイに、お十夜がこう言いだした。
千曲の板橋を渡るとすぐに、日当りのいい河原蓬へ腰をおろすと
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「イヤ大丈夫。実は小諸の立場で念入りに聞いておいたことがある。ちょうど、きのうの朝立ちで
「ええ、それが実は、小諸のほうの取引先に、ちと藍草の掛けがたまりましたので、信心やら
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アア、江戸で有名な、浅草の観音堂だな。
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「それを聞いて思い出しました。ではあなたは住吉村にいた……」
いる身分なら、御無心なぞにゃまいりませんが、去年、住吉村の巣を荒されちまった後、どうも運の悪いことばかりで、
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た所から推すと、その弦之丞は、もうとくに、垂井の国分寺に着いて、道者船の出る日を待ちあわせている筈だ。それが、
美濃へ入って垂井の国分寺へもやがて近くなった。日いち日とはかどる旅の春も深くなって
国分寺につけば、そこで法月弦之丞に会えようと思うことを張合いにして、
た。それは二人がこれから指して行こうとする垂井の国分寺から出た寺触で、春の道者船停止の沙汰が公示してある
「さあ、どうしたか、この模様変りとすれば、国分寺に足をとめている筈はありますまい」
垂井まで行けば、弦之丞にも会えるだろうし、国分寺の印可をうけて、目的地への渡海もたやすくできるものと、互に励ましあっ
一刻ばかり前に、お綱と万吉とが立った国分寺の触札は、悪魔の囮のように弦之丞の目を招いていた
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と松平左京之介のほかは、誰も知らぬまに、代々木荘を出立したかれである。日程にすれば、もうとくに美濃路に