随筆 宮本武蔵 / 吉川英治
地名一覧
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必要もなく保存されてあった。その並木の間から阿蘇の噴煙と、外輪山の雪が望まれてくる。
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匂いで、揺られ揺られ百合の香に酔ったことなども、津山市から姫路へ出るまでの長い道を、旅情といったようなものに尠からず
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或る時、そこの神楽殿で、楽師たちが太鼓を打っているのを見て、幼い武蔵は、奇異
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らの材料もまだ出ていないし、黒田、小笠原、有馬などの書庫も未開なので、そこらを捜せばまだ蒼海の遺珠が
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は信長にすすめて、大心院の再建を図り、自領の丹後から木材を取寄せたり、寺領を寄進したりしている。当年の木下藤吉郎など
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井川君は元、知恩院の住で、僧籍で大僧都の肩書まである半俗半僧の碩学だし、その
光悦の住居の問題は、その後、知恩院のIさんがわざわざ送ってくれた「京都坊目誌」でやや適確にわかった
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尤なるものであろう。幸村へは平時においても、大坂城の秀頼から、尠からぬ金力が密かに送られていたという。しかし、
そういう牢人の生活費は、すべて幸村の手を通して、大坂城の経済から出ていたことはいうまでもないが、こういう一朝の場合
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帰りは佐用郡から三日月へ出て龍野町を経、私線で姫路へという予定だが、これも四時間はかかろう
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ことであろうし、若い者は、すぐ眼近にあった、高松城の水攻めの陣だの、その年の本能寺の変だの、すぐ翌年の
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その小牧の合戦があった年に、武蔵は一歳だった。そして彼が、十七
小牧の合戦とはいうが、事実は秀吉と家康との二大勢力の衝突で
の出現と、その幕下の風雲児たちを最後として、小牧、関ヶ原以後においては、もうそういう野の逸駿は余り求められなく
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同じ頃、大阪の高島屋で、武蔵の遺墨展覧のあった折、たしか、刀はたった一腰しか
大阪に約してある用事の都合で、私はどうしても午後の汽車で立た
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霊巌洞は、熊本市の郊外二、三里の距離にあって、かつて自分もそこの岩殿寺や、
熊本市の西南を囲む金峰山一帯は、ちょうど、京都の東山といったような位置と
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一坐となり、美濃正伝寺の請に応じ、尋いで大仙寺の廃を興す。
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先頃京都の清水寺の一院で、土地の文学演劇壇方面の関係者、美術家、実業家などが一夕
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いうものを取って、上野を中心に刻の鐘が聞える江戸の何町四方の町家から、その鐘銭を取立てて暮していた家だ
という伝説があるくらいなものだが、肝腎な彼の江戸における行動など少しも審さでない。僕が、武蔵の史実とし
忠政は寛永八年に歿した。子の政朝が江戸から入部して領をうけた。その時、叔父の出雲守忠朝の子の
に過した沢庵は、寛永九年七月に赦されて江戸の土を踏んだ。
が益※当局の忌諱に触れるところとなり、三僧を江戸に下して問責し、遂に沢庵を出羽上ノ山へ、玉室を奥州棚倉へ
最初は、江戸に帰った寛永九年七月から十一年五月まで。
そして、十六年四月からは、江戸に常住している。
と、両者はほとんど同時期に、江戸に滞在しているのである。勢い、その交渉は深くならざるを得ない
富貴栄達を厭う沢庵は、江戸に下って、柳営の一顕僧となるのを余り好まなかったらしい。但馬の
十二年の末、将軍の命に依って已むを得ず江戸に出ることになったが、参府前、但馬国主小出吉英に宛てた書面に
近日江戸へ不被下候而不叶候故迷惑仕候
江戸の沢庵の生活を、物心両面で豊かにしたものは、若き友忠利で
四月に至って、両者は殆ど時期を同うして江戸に入った。
忠利は五月十八日江戸を発ったが、その時沢庵は、あたかも熱海入湯中であった。病いがち
と、誌して、当時の江戸で唄われていたらしい俗歌から題名を取ったわけを誌している。内容
、造酒之助は故あって、主家より暇を賜わり、江戸に出ていたが、中務大輔逝去の趣を伝え聞くや、大坂に在った
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の山へ向って歩けば、山ふところを横に伝わって、鹿ヶ谷の方面へも、また東山や京都の市中へも降りることができる。
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するのは、まだ宥されまいが、彼の生地が、但馬の出石であり、武蔵の郷土が、美作の吉野郷で、当時、出石方面
から山陽方面へ往来するには、山ひとえの道を、但馬から美作に出て、その頃の竹山城の城下では、一宿の地で
家光は但馬について剣法を修め、技法においてはかなり会得するところがあったが
があったが、遂に、最後の一線に至っては、但馬に追随し難いものがあった。
一線を如何にして超ゆべきやとの問いに対して、但馬は、剣禅一致の妙境に悟入し得て、初めて剣の奥義が把握せ
――沢庵は但馬のために、「不動智神妙録」一巻を作って、剣禅の関係を説き示し
剣道を仮りて禅を説いたものだが、これも同じく但馬のために作ったといわれている。
、柳営の一顕僧となるのを余り好まなかったらしい。但馬の故里に、簡素な草廬を結んで、静かに風月を友としたかった
地図で探し出すにも五分間ぐらいはかかる。因幡、美作、但馬、播磨あたりの緑色の斑点帯を、蚤の卵でも探すようにして
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秀吉と家康との二大勢力の衝突で、極く辺境な九州の一部と東奥の一地方をのぞいた以外の土地は、すべて動員された
家士としてだとすると――新免家の落武者は九州へ落ちのびたり、黒田家に頼ったり、その他の地方へも分散したらしい
、一乗寺村だの巌流島で、あれほどに、しかも京都や九州の中央の地から、武蔵の名は、相当に当時でも喧伝されて
のある画は、あれは宮本武蔵のことではない。九州に同名の凡手の画家があったのだ。それが宮本武蔵と混同され
を気障なほど称揚しているもので、内容には、九州の天流の名人浅山三徳という者を試合で殺伏し、それを知って
黒田家では、慶長五年の関ヶ原の際には、九州の大友義統が、中央の大戦に乗じて、旧領の豊後を奪還しようとし
木太刀というものが、細川家に残り、それが今も九州に伝来されているということは前から聞いていた。
て回復に近づいたが、この時勃発したのが、九州の切支丹一揆であった。そして、忠利の健康が完全に立ち直っていなかった
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、それもつい忘れて数日経たぬうちに、私は関西へ旅行に立ってしまった。帰宅してからふと思い出し、あれの出る倶楽部は
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なども、桶狭間の合戦のあった永禄三年の年、伊豆で産声をあげていたので、武蔵はそれより遅るること、約二十二
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掛錫し、一詩を賦して寺を退き、後、駿河の清見寺を訪ふ。又、備前の泰恩寺に到り、天長和尚の関捩を
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素姓を聞くと、下総国の縄手の住人で河内守永国という者だという。そこで武蔵は、
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画中二天ノ印アリ、範高ニ嗣ナク、兄某家、小倉藩ニ仕ヘ、今、宮本八右衛門ト称ス」
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見ても分るように、その裏面には、大徳妙心寺対鎌倉五山の反目が有力に動いていたのである。
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「五輪書」は、翌々年の寛永二十年、熊本郊外の岩殿山の洞窟にこもって、精進潔斎して、書いたもので、彼の死す、
。時に寛永二十年十月上旬、九州肥後の地、岩殿山にのぼり、天を拝し、観音を礼し、仏前に向ひて――
寛永二十年の晩秋、彼が、岩殿山の一洞に籠って書いた「五輪書」は、武蔵としても、
市街からその金峰山の峰道へ入って行った山ふところが、岩殿山、野出、三之岳などとよぶ山地と山村で、高いところに立つと、有明
がよく似ているからであった。閑があると、岩殿山へ遊びに来て、幼い日のことを思い出していた」
―そして数日の後に、息をひきとったので、岩殿山では、まだ絶命はしていなかった――ともいうのである。
、寛永二十年十月上旬の頃、九州肥後の地、岩殿山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかひ、生国播磨の
流浪性は、そこに宿命していると思う。晩年、岩殿山霊巌洞に枯骨を運んで、坐禅しながら死を待つあの寥々とした終焉の
熊本市外岩殿山の霊巌洞
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話している筆記を見ると、松ばかりというのは、下関や小倉から見た遠望の観念なのであろう。その席上で古老の云って
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この人の篆刻はみな愛しているらしいが、御当人は東京府の老人ホームにいて、仙人みたいに飄々としている恬淡な老人である。
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特徴である。竹山城を始め、比丘尼ヶ城だの、赤田城だの、堂ヶ峰城だの、正岡城だの、小淵城だの、大野
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ところがその翌年、大徳寺において玉室の法嗣正隠を出世せしめたので、幕府は厳重その
大徳寺の諸老は極度に狼狽して、如何に申し開くべきかに迷ったが、
その間、沢庵もまた、大徳寺開山大燈国師三百年忌のため上洛を許され、或いは郷国但馬に入湯したりし
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その以前小笠原家に足を留めていた折、また、出雲の松平家にあっても、諸家の門で茶の饗応にはしばしば招かれ
のことから縁故や恩顧をうけた藩としては、出雲の松平家、姫路の本多家、尾州徳川家、榊原家、小笠原家、また
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人間には、平常に息をかけておくのである。九度山の真田幸村などは、その尤なるものであろう。幸村へは平時において
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自動車へ入れてくれた初平の果物の籠など開く。倉敷でいちど降りてうどん屋で雪隠を借りる。雨はすこし霽りもようだが
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武蔵は殆ど、その生涯を旅に送り、その足跡は、関東地方は勿論、出羽、奥羽にまでわたっているが、京都以北においては、
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二天記や熊本藩の者の云い伝えに依ると、老年になってからの武蔵は、平常、刀
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後年、江戸城修築の賦課が諸侯に命ぜられた時、肥後藩においては都甲金平が
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、彼は、死を期したこの危地へ来る途中で、八幡宮の社前で足を止めたということが、これも確とした史実とし
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だが、前の両者とか、伊勢の北畠具教とか、大和の柳生家とかいう兵法家は、やはり当時で
すこし遠い。山名、細川、畠山などの騒乱が頻々で、伊勢の野武士新九郎が北条早雲となる羽がいの身づくろいをしながら、よい時世だと野望
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いた叔父の子、明智光春と一緒に、山越えして越前へ落ちのびて行ったのである。
を図っていたし、そこで事成らず、転じて越前の朝倉義景へ相談に行ったものであった。
。美濃の斎藤家紛乱の後、明智城をのがれて、越前へ避けていた当時無名の光秀だったのである。
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非常に遠いむかしの人を語るような感じもするが、法隆寺の塔は、解体改築されて後も、なお今日にその実在を示して
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そこで彼は、忠利が小田原に着く頃を見計らって箱根の湯本に出向き、或いは最後になるかも知れぬ物語りに、暇乞いの一夜を
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、近畿はほとんど彼の生涯中、兵馬の巷だった。叡山さえこの間に丸焼けになっている。義昭がそういう中で、柳生宗厳に
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たとへ物語りながら、ひそかに心にかなひ侍り此書を武蔵野と号
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東山といったような位置と景観をもち、市街からその金峰山の峰道へ入って行った山ふところが、岩殿山、野出、三之岳などとよぶ山地
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一乗寺山と瓜生山の裾をひいて、その追分の辺も、少し傾斜になっている。人家はぼつぼつあって、開けかけて
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弟の伝七郎も、清十郎の子又七郎も、一乗寺下藪の武蔵との決戦で即死しているからこの者達でないことも明らか
京都一乗寺下り松
京洛東北ノ地、一乗寺藪ノ郷下リ
修学院村、一乗寺ノ別名ナリ。昔ハ枝垂ノ老松アリテ、後世植継ギテ地名トナル。太平
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たものだと伝えられているのみか、維新の際、若松城が兵火につつまれた際、この屏風が本丸の庭前に投げ出されてあった
ている。そういう点からも、武蔵の画が会津の若松城に伝来されたいわれが裏書きされている。
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のさる所で、よもやま話の折に、和尚が若い時代に岡崎の禅寺(これも寺名を失念)に伝来している観音経を見たが
ならば、私が何も問わぬうちに、この経巻は岡崎の或る禅寺から実はわけがあって自分の手に移っているのです、
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上州大胡の城主だった上泉伊勢守は、川中島の合戦の永禄四年の翌年、その城地を去って、兵法修行を名と
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かれの自筆本、月之抄は、現在奈良県添上郡の柳生寺に、今も所蔵されているが、その別本「新
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粋の京都人ですよと誇ってわらう。まさか今さら祇園や銀閣寺へひっ張り廻しはしませんから安心していらっしゃいともいうのだ。こちらも信頼
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いる。従って、中条流から派生した富田流は、加賀にも繁栄して、越前浄教寺村以外、その門流はかなり多かったらしい。
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書状不申上、背本意奉存候、拙者も今程、肥後国へ罷下り、肥後守念比ニ申候ニ付而、逗留仕居候、於其
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吉岡家との一乗寺下り松の試合。夢想権之助との邂逅。伊賀の宍戸某との出合い。奈良宝蔵院の訪問。出雲松平家における同家
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にして煩う要はちっともない。これからわたくしが鷹ヶ峰の光悦寺から真珠庵などを案内するから、その帰り路にお廻りになればよろしい。わたくし
光悦寺と聞いたので、私はすぐ連れて行ってもらう気になった。光悦
君の東道に立ってくれた鷹ヶ峰の門前町の跡も、光悦寺から見た光悦蒔絵そのままな野趣も、鷹ヶ峰だけにできて他にはでき
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鎌倉の僧慈音だの、その門から興ったといわれる中条流の中条兵庫
親しむことが多くなった。この年の十一月には、鎌倉に転居して病を養っている。
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――上野の寛永寺の鐘撞堂に、昔から伝わっている宮本武蔵の画というのがあるん
さんが、ひょっと書いたりしたものじゃないか。出が寛永寺の縁故の所だし、東寔と東叡山とも、こじつければこじつけられない
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それが関東大坂の開戦となって、彼が廬を出る日となると、幸村父子が
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訪問。出雲松平家における同家の士との試合。名古屋城下の柳生兵庫とのこと。そして、豊前小倉での、巌流佐々木小次郎との
いる。そして九年間、そのまま廻国を続けて、後に名古屋の徳川家に落着き、尾張柳生の祖となっている。
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彼は八幡の社頭を見かけて祈ろうとした。拝殿の鰐口へまで手を触れかけたが――そのとき彼のどん底からむくむくわいた彼
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だが、任地へ赴いてから、幾年も経たず、兵庫は加藤家を去っている。そして九年間、そのまま廻国を続けて、後
将来の約言も得ていたから、少し穿ちすぎるが、兵庫が肥後藩を往来したのも何か裏面的な理由がそこにあった
両士は忽ち、百年の旧知の如く打ちとけ、兵庫の屋敷に同道して、酒盃を汲み交わし碁を打ち興じて、滞留久しきに
後にこの時の心境を説明して、何故一見して兵庫と認めたかは、心機の妙、理外の理であって、言葉には
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かつて増上寺の前管長大島徹水和尚と、京都のさる所で、よもやま話の折に、
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前か、よくは覚えていない。ただ、自分がまだ芝公園に住んでいた時代。そしてまだ朝日紙上に、小説宮本武蔵も書いてい
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は、ほとんど市に見なくなってしまった。終戦後、熊本の宮本武蔵顕彰会の人も、これを探していたが、地方の
文学博士三島毅氏が、碑銘を。また元の熊本藩主細川護成氏が「宮本武蔵生誕地」と題字をかいている。川を
を知りうるのは、何といっても、彼が、熊本に落着いてから後である。晩年の武蔵。それは、幾多の実証や
その武蔵は、寛永十七年、齢五十七歳のとき、熊本へ来ている。
このほかに、熊本奉行所日記には、当時の武蔵の扶持状、その他が記載されて
熊本に落ちついた翌十八年、武蔵は忠利の命によって、彼の生涯
、彼の「五輪書」は、翌々年の寛永二十年、熊本郊外の岩殿山の洞窟にこもって、精進潔斎して、書いたもので
に泛び出して来るのは、何といっても、晩年熊本に定住してからの武蔵である。五十七歳以後、六十二歳で示寂する
如き彼の風采や、聴くが如き彼の言葉は、およそ熊本に落着いてから後の武蔵のものであって、それを通して彼の
本の武蔵伝をそのまま踏襲して、武蔵を、肥後熊本の加藤主計頭の臣としたり、吉岡太郎左衛門の二男といったり、巌流島
との心契がわかるし、また殊に、晩年千葉城址から熊本郊外の霊巌洞へよく通って坐禅していたことなど思い合せれば、その生涯
――武蔵、二天と号す。肥後熊本の城主、加藤主計頭清正の臣。宮本武右衛門の男、其実は
しかし、この知己の範囲も、武蔵の交友も、熊本に落着いた晩年以後のことは分っているが、五十歳以前の彼が
ただ、熊本の野田家(武蔵の円明流の継承者で、細川藩の師範野田一渓
ことに及んだので思い出したことがある。かつて私が熊本の史蹟を巡りに行った時、同行のN画伯の友人たちが集り、
、野田鋤雲といって、井芹経平氏を黌長とする熊本の済々黌の剣道と図画の先生をしていて、N氏や同氏の
遺品を見せてもらうことになっていたのだが、熊本在住の人に聞いてみると、その野田家はもう十数年前に
そういう噂が出るたびに、N氏を始め熊本の人たちが、口を極めて惜しがっていたのは、武蔵の遺品
武蔵の画は、何といっても、細川家と旧熊本藩士の家蔵として最も多く所蔵されて来たのは当然で
も、強いられるので閉口したことがある。殊に、熊本の一日亭に泊っていた二、三日などは、一日に
で、私に見せたら分ると考えちがいするのか、自分が熊本地方を旅行している間は、毎日、旅館へやって来られて二天
作家の真物は少なく、偽物の氾濫のひどい物だが、熊本、小倉辺で示された物などには、似てもいないのが
世話はしていたらしく、すぐ二人が、武蔵を、熊本の私邸まで、背負って帰った――そして数日の後に、息を
も、まったく、限られていて、ほとんどが、晩年、熊本に落着いてからの筆蹟ばかりといってよい。
以上の中で、熊本の野田家に伝わった「独行道」は、正保二年五月十二日
この三点が、伝来も明瞭だし、熊本でも、古くから有名になっている。しかし、なお同筆と見られて
武蔵が、細川忠利をたよって、熊本に来た当時のものであることは、すぐわかる。そして、年来、自分
ような関係らしい。しかし「年来」といっているから、熊本に来る久しい以前からの仲だったには間違いない。いずれにしても
、寺尾孫之丞勝信、また信行などの同族の人で、しかも熊本を離れた知行地に在任の者でもあろうか。そんな考えもうかぶが
ある。――正しく年齢的に考えてみると、武蔵が、熊本へ行って、細川忠利に客分として遇せられたのが、島原陣
の「蘆雁図」は、明治二十年頃までは、熊本の北岡邸にあって、たれもそれ程な名画とも、また、由緒ある
たのは、ずっと後日のことで、細川家の膝下の熊本においてすら、明治頃には、武蔵の画に、さほどな関心も
もっとも晩年熊本へ行ってからは、春山和尚との交友があり、彼のために歿後
、細川藩の藩老長岡佐渡と妙心寺、及び沢庵と愚堂、熊本の細川家菩提寺の泰勝寺と春山和尚、春山と武蔵、春山とその
だし、その以前に井芹経平も武蔵会雑誌に書き、熊本には宮本武蔵顕彰会が古くからあり、僕は見ないが、碧瑠璃園
で今、武蔵に関する参考書を並べてみるとなると、熊本の顕彰会本を始め、近刊では直木全集の一部、中里介山居士の
人間へ迫っている。荻昌国は角兵衛といって、やはり熊本の藩士である。
、彼には、青春がない、真実の女性がない、熊本に死所を得る時代までは、よい友を持たなかった。
賜天覧武蔵所持之刀 熊本島田家蔵
ノ常ニ佩キシ刀ハ、伯耆安綱ナリシ由、然ルニ熊本ニ来リテ後、沢村友好(大学)ノ世話ニナリタリトテソノ刀ヲ礼トシテ贈リタリ
とあって、これで見ると、熊本へ来る以前の遍歴中は伯耆安綱を差し、死ぬ前の数年間は、武州
春山和尚というと、ひどく老僧らしいが、武蔵の晩年、熊本に落着いていた頃は、まだ春山は三十代ぐらいな若僧であったろう
残っているわけはない。また、二十一歳から後、晩年熊本へ来て落着くまで、その間の三十何年間というものは、文字どおり
思う。これは鍔先三尺八寸という大太刀で、熊本の武蔵顕彰会本の写真にまで出ているが、その武蔵との縁故や
二天記や熊本藩の者の云い伝えに依ると、老年になってからの武蔵は、平常
熊本に落着くと、この永国も彼の後を慕って、熊本へ移住して来た。そして武蔵の推挙に依って、それから永国は
後に武蔵が、細川家の客分となって熊本に落着くと、この永国も彼の後を慕って、熊本へ移住して
忠利は、九年十月に小倉から熊本へ移されて帰封したが、その在府期間は――
流れ、十七年五月に、忠利は参覲の期終って熊本に帰ったが、計らずもこれが永別となったのである。
で、寛永十八年三月十七日、五十六歳を以って熊本に病歿した。
正保元年、光尚は忠利のために護国山妙解寺を熊本城外に草創し、沢庵を聘して開堂供養を営もうとしたが、沢庵
誌してあるらしい。後で人に訊いてその奇特家は熊本の堀正平氏であると知った。
父の新免無二斎なる人の在世年間やその歿年は、熊本の武蔵顕彰会本でも、幾多の武蔵研究家にも、推定だけでまったく
は、その後、新春の一月、やはり史料漁りに、熊本まで行った帰り道だった。
熊本紀行
形式にこだわらないつもりだから、僕はこの一月早春、熊本小倉地方を歩いて得た彼の晩年期の遺跡の踏査から先に書い
いるというのは当らない話で、厳密にいえば、熊本の武蔵塚だけが、ほぼ墓所として確定されてある限りである。
それはとにかく、私は熊本へ着いた翌日の、早朝旅舎の一日亭から、自動車で第一に
時の反響でも驚いた程であったが、今度この熊本地方を旅行してみても、しばしば、その事実を認めさせられて、
。もっと深い心契の知己で、名目を客分として熊本に身を寄せていたのであった。
誰も知っている通りに、武蔵はその余生を熊本の城下に送り、当時の英主細川忠利に晩節を捧げていた。武蔵
彼が、その忠利に招聘されて熊本へ来た年の寛永十七年は、島原の乱後わずか三年目であっ
安住の境遇にあったらしく見える生活は、実にその短い熊本時代の五、六年しかなかったのである。それだけにまた彼は
な顔をしていたが、やがて自動車を駆って、熊本の市街地近いそこを訪れるとあらかじめ通じてあったものか、別荘番の園丁
武蔵の終焉の地熊本には、武蔵の遺骸を葬ったという武蔵塚がすでにある。また田向山
伊織が迎え取って、田向山の菩提所に葬ったので、熊本のそれは分髪の墳墓であるというような説も一部にあること
との姻戚関係だの、また、小倉の大淵和尚と、熊本の春山和尚との師弟関係だの――なお、武蔵を養父とする宮本
、武蔵とは生前の交友蜜の如くであったという熊本の春山和尚とは、いったいどういう人か、一応糺してみたい気がし
従来、熊本の顕彰会本の記事でも、その他の研究家の手になった書
で、私はまず、春山の法系を知ろうために、熊本の細川家菩提寺の泰勝寺を訪れた際も、同地の智識にも
の招聘をうけて、小倉からやがて肥後に移り、現在の熊本にある細川家菩提所の泰勝寺を開いてその一世となったの
外集等の著述もあり、元禄から宝永の半世を熊本の泰勝寺に位して、寿六十九で同地に終っているという
かちょっと今手元の物では突きとめられないが、私が熊本へ行った折、泰勝寺の裏山にある春山の墓石から写し取って来
家筋に伝来されて来たという肖像画の真物は、熊本に伝わっている肖像とちがって、赤羽織を着て、長刀を座側
刀を左右の手にさげて屹立している立像は、熊本の伝来で、彼の「武」を表象した構図だし、小倉伝来
武蔵の事蹟は、故郷にいた少年時代と、晩年の熊本時代に多く遺されている。それから考えても、中年期は住所を定め
風呂には生涯入らなかったとあるが、それは晩年の熊本時代のことだろうと思われる。しかし、それについて、武蔵が述懐し
熊本時代の武蔵は、連歌、茶、能、書画等の風流に遊んで、
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。夢想権之助との邂逅。伊賀の宍戸某との出合い。奈良宝蔵院の訪問。出雲松平家における同家の士との試合。名古屋
いうものを私はここで初めて咽せるほど知った。京都や奈良辺りの名園にもこんな苔の見事な庭は見たことがない。
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して、居宅は、本丸の丘のすぐ前にある古址千葉城の邸を以て、彼を迎えた。
禅と彼との心契がわかるし、また殊に、晩年千葉城址から熊本郊外の霊巌洞へよく通って坐禅していたことなど思い合せれば
千葉城の居宅をあけて、始終、この山へ来ていたという武蔵
、世間の誤解もあるし、武蔵の老体を案じて、千葉城の宅へ戻るように、諫めたものとおもわれる。
が、いろいろ牽制されて来た。しかし、ずっと後の千葉周作の廻国日記など見ても、まだまだ江戸末期までも、武者修行の数
感じたに違いない。彼が、細川家から与えられた千葉城址の屋敷で、静かな冬の日の陽を南縁に受けて安らいで
細川藩の客分となって、千葉城址の高爽な住居に、余生を送る身となっても、武蔵の
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あったから、秀吉の織田軍に合力して、有名な高松の「水攻め」などには、その背道の嶮を守ったり、敵の
ことであろうし、若い者は、すぐ眼近にあった、高松城の水攻めの陣だの、その年の本能寺の変だの、すぐ
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その証拠には、数年後に、京都一乗寺村の下り松で、吉岡憲法の一門と試合をしている。その時
時代に、一乗寺村だの巌流島で、あれほどに、しかも京都や九州の中央の地から、武蔵の名は、相当に当時でも喧伝
かつて増上寺の前管長大島徹水和尚と、京都のさる所で、よもやま話の折に、和尚が若い時代に岡崎の禅寺(
熊本市の西南を囲む金峰山一帯は、ちょうど、京都の東山といったような位置と景観をもち、市街からその金峰山の峰
家、わけても沢庵と細川家の藩老長岡佐渡、その他京都を中心とする当時の文化人、近衛三藐院だの烏丸光広だの松花堂
と、呟いていられたそうであるが、その後また、京都のI氏を通じ、同氏知人G氏に鑑てもらった結果、これは
彼が京都の民家に一泊した時、茨組とよぶ当時の暴徒の一団が
新免無二斎武仁が、室町将軍の義昭に呼ばれて、京都で将軍家兵法所の師範役吉岡憲法と試合をし、これに打勝ったと
の一角に嶮と手兵を擁していた豪族だし、京都と柳生谷とは十里ぐらいなものだし、兵法家としても著名
されたり、また信長を討とうとして失敗したり、京都、近畿はほとんど彼の生涯中、兵馬の巷だった。叡山さえこの間
関東地方は勿論、出羽、奥羽にまでわたっているが、京都以北においては、何の文献もまだ掘り出されていない。ただわずか
武蔵が精神的に七分の勝ちをつかんで臨んでいる。京都で吉岡清十郎一門と試合った時にも、同様な兵法を踏んでいるが
先頃京都の清水寺の一院で、土地の文学演劇壇方面の関係者、美術家、
紫衣褫奪事件とは、――嚮に家康は、京都の大徳、妙心両寺に厳命して幕閣の裁可を経ずして猥
が尠くなかった。そこで、幕府は、寛永四年、京都所司代板倉周防守重宗をして、元和御法度書以後の出世にかかる者は
京都一乗寺下り松
京都が分り難いという方がわるいので、僕がまだ京都をまるで知らないのであるかもしれない。
はないが、おのずからいつも範囲を出ないのである。結局京都が分り難いという方がわるいので、僕がまだ京都をまるで知らない
人はよう云わはるけれど、なんど行っても、僕には京都ほど勝手の知れない土地はない。もっともまた、いつ行っても、宿は
京都ほど分りよい町はおへんになあ、と京都の人はよう云わはるけれど、なんど行っても、僕には京都ほど勝手
京都ほど分りよい町はおへんになあ、と京都の人はよう云わはるけれど
N君が、一日、自家用車でやって来て、きょうは京都をお見せしてあげましょうという。
いう肚なのだ。その宿題を持ってからでも、京都へは三、四度も出かけていたが、いつもいつも前に云った
ていた所が、わたくしはこれでも生ッ粋の京都人ですよと誇ってわらう。まさか今さら祇園や銀閣寺へひっ張り廻しはしませ
知らない私に、光悦芸術や真珠庵や遠州の独創的な京都文化の一面を案内してくれるつもりだったが、この日の僕の下心
、Y君も行こうと云いだして急きたてる。N君は、京都を知らない私に、光悦芸術や真珠庵や遠州の独創的な京都文化の
こう強情を張った。――やっぱり何度来てみても京都ほど分り難い所はないんだ。
純粋の京都人という人がこういうのだから、これは断念しなければなるまい
ページを三角に折ってまで、私に教えてよこした。京都みたいに分りよい土地を分り難いという男だから、これくらいにして
その後、知恩院のIさんがわざわざ送ってくれた「京都坊目誌」でやや適確にわかった。Iさんは親切に、その記載の
、いよいよ京都はややっこしい土地だという立証になる。それは京都の市制や地区行政がわるいのではなく、遠く武家争覇の頃から、
だが、それを一読すると、いよいよ京都はややっこしい土地だという立証になる。それは京都の市制や地区行政が
も載っているのにこの地名はないのである。そして京都はよく、寺院名や公卿やしきの館名などを町名にするので、
「この辺に君、八幡宮はないかい。いや、京都のほうから来るこの昔の街道のどっちかの途中に」
を中心にして、あの追分から三方にわかれている京都からの道へ、それぞれ備えを伏せて待っていたに違いなかろうと思う
敵の配置をたしかめて知っていた。そうすると、京都から約束の場所へ来るにしても、彼らの備えている道を
を横に伝わって、鹿ヶ谷の方面へも、また東山や京都の市中へも降りることができる。
いというものを私はここで初めて咽せるほど知った。京都や奈良辺りの名園にもこんな苔の見事な庭は見たことがない
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がまだ朝日紙上に小説宮本武蔵を連載していた頃、広島の一読者から、自分の所蔵にこういう書簡があるといって、この
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師八歳の時、富山陽徳軒の宗固首坐について学文を修め、十三歳初めて詩を作り、
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士道に対して、百姓道を唱えた、秋田の篤農家石川理紀之助翁などの事歴を見ると、百姓もまた、農法研究の
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だけで、実物を手にしたことがないから、著者福岡某がどんな人物で、どんな書質か、考究のうえで確ということが
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生憎と岡山を出た朝からばしゃばしゃと雨なのだ。ことしの五月下旬のこと
時間はかかろう。もう度胸はきまったようなものである。岡山で誰かが自動車へ入れてくれた初平の果物の籠など開く。
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大正何年にはまた、小船渠が起工されたり、神戸の鈴木が何か計画したりしかけたそうだが、みな物にならない
、売りに出されてから、三菱合名だの正金だの神戸の鈴木だのと、幾度も所有者は変って来た。明治二十六、七
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、書肆の図書目録にも、出ないというので、東京まで求めに来られたが、私の手もとにも、今は、備考の
この人の篆刻はみな愛しているらしいが、御当人は東京府の老人ホームにいて、仙人みたいに飄々としている恬淡な老人で
私とは十数年前、お互いに震災後の東京から焼け出され、その頃は芋畑やキャベツ畑ばかりで人家も稀れだった高円寺
。O氏はそれを僕に贈ってくれたので、東京へ持ち帰ったが、持って帰るにもかなり厄介な重量だった。
もあるし知己になったのもそこなので、もちろん東京人と思っていた所が、わたくしはこれでも生ッ粋の京都
N君は、東京の星ヶ岡茶寮の主人公でもあるし知己になったのもそこな
下り松遺跡の図と、二枚の写生をしてもらって東京へ送ってもらった。まだ紙上の小説はそこを書くまでには行って
国道のことだった。今の京浜国道は、後藤新平が東京市長時代に設計されたものだと聞くが、最初、後藤市長の出し
今もなお、颯々と、当時の清風は車蓋を払って東京市の風とはだいぶ味がちがう。
名の案内者と、観光局長以下市の吏員たち、また東京以来同伴しているN画伯などの同勢七、八名でどやどやと、今
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――上野の寛永寺の鐘撞堂に、昔から伝わっている宮本武蔵の画という
また、昔はそこの鐘銭というものを取って、上野を中心に刻の鐘が聞える江戸の何町四方の町家から、その鐘
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、その頃は芋畑やキャベツ畑ばかりで人家も稀れだった高円寺に住んでいた頃、駅の附近の町へ出ると、よく会う老人
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年と共に厚きを加えて、遂に命に依って品川東海寺の開山第一世となっているが、最初、沢庵を将軍に
としたが、沢庵はこれより先、寛永十六年に品川の東海寺に入っていたので、同門の耆宿啓室座元を代ら