新書太閤記 04 第四分冊 / 吉川英治

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地名一覧

四国

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宿怨も関わりもない九州の大友、島津、中国の毛利、四国の長曾我部。――遠くは北辺の上杉、伊達などに至るまでが、挙って

これが――海を隔てた阿波、四国の三好党と結びついたり、将軍義昭の弱点をうまく唆したり、近畿や堺の

賀茂川

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朕の心のままにならぬものは、双六の賽と賀茂川の水――とある。山法師どもが、日吉の御輿を奉じて来る時は

安土村

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かと質したところ、ちょうど今、自分の生れた田舎の安土村がついそこの岸に見えたので、母親のことを思い出していたと

鹿苑寺

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大和守は或る折、鹿苑寺の一僧に、しみじみとそう述懐したことがあったという。――

大坂城

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摂津の石山本願寺の地は、後に、大坂城の本丸となった難波の杜の岡にある。

すなわち長女の茶々は、のちに大坂城での淀君となり、初姫は京極高次の室となった。そしていちばん末

難波

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で。京都や難波の味方から急報をうけ取っても、さして、意外とはしなかった。むしろ

難波の神崎川、中津川のあたりは、まだ葭や葦や所々の耕地や、塩気の

難波の神崎川、中津川辺の湿地帯で、石山御坊の僧軍や、中島砦の

あははは。見たも同じよ。その信長も、前には難波の石山、三好勢。うしろには、この大軍。どこへ逃げ得よう。――

「信長自身ではあるまい。信長がそう簡単に、難波の戦場から引っ返せるわけはない」

日吉

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「きっと、日吉のお使いさまでしょ」

稲葉山

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ないのに、彼の寝所から、呼び立てる声がした。稲葉山から長良川の空をかけて、頻りと、時鳥の啼く四更の頃であっ

縄目の法師四人を、列の後につれて、やがて稲葉山の城門へかくれて行った。

もとの稲葉山、いまの岐阜。

磐田

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「依田信守、そこにおれ。そして佐野、豊田、磐田の諸郡と、よく聯絡をたもち、敵の掛川、浜松方面の退路に備えよ」

伊吹

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伊吹の麓に、藤吉郎の手勢は陣取っていた。まだ一将校にすぎない彼

伊吹は東。松尾山は西。

道々、伊吹のすそや不破の山かげには、まだ雪も深かったが、滋賀のさざなみに

甲州

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儀にござりますれば、そのおつもりで。――同時に、甲州へのお使い、また、浅井家や朝倉家などへも、機を逸さぬ

自白によりますと、なおこの一連の密盟には、甲州の武田殿まで加わっておるやに思われます。その武田家と、京都の

まだ依然として、持ちまえの才能をもって、敵国と甲州のあいだを、まるで韋駄天か天馬のように、のべつ往来していた。

「甲州の位置は」

織田家の領に入りこんで、探りを働いておるうち、甲州の諜者と露顕して、獄に投げこまれ、幾年かを牢中で送っ

「めずらしいのう、渡辺天蔵。いつ甲州へ来ておったか」

利用したり、各地の残党に利便を与えたり、越後や甲州へまで密使を送ったり――また信長の領土を中心として、気ままな

今、御家中の渡辺天蔵と仰せられる僧形の者が、甲州の旅より立ち帰って来たばかりとかで、すぐお眼にかかりたいと、

「藤吉郎。甲州から立ち帰って来た者とは、そちの家中の者か」

天蔵は、そこへ来て、主人の藤吉郎と信長へ、甲州の見聞をつぶさに告げた。そのなかでも重要な事柄は、彼が恵林寺

その将軍家の府には、もう逸はやく、甲州から早打ちが来ていて、

「今に、甲州の軍勢が、信長の背後を衝く。――さすれば信長は、またぞろ、

甲州の連峰をこえて、武田信玄の精鋭は、南へなだれ降りて来たの

それは同盟国の織田家のためにではない。甲州と三遠とは、宿命的に隣接している。武田勢に突きやぶられたら

「いま甲州の鋭鋒へは余りむきになって相手になられぬがよい。事迫る場合

、天龍川の岸、神増村まで軍をすすめたが、甲州二万七千余の大軍が、各部に整粛な陣をはり、その陣地陣地が、信玄

敵の中軍がそこにあると知った甲州の馬場美濃、小幡上総の二隊が、一面から弓、一面から鉄砲を撃ち放ち

追いかけて来た甲州の山県勢へ小返りして、さんざんに打ち戦い、もうよい頃と、ひと足

に立ってながめ下ろすと、雪は小やみになったが、甲州の大軍は潮のように、はや城外の近くへまで迫っていた。―

その長弥九郎は、もと徳川家にいて、甲州へ奉公替えした男なので、家康も明らかに記憶していたと

きょうの乱軍のなかで、甲州の孕石忠弥という剛の者が、家康にせまって、家康の乗っている馬の

「たとえ甲州の大軍が、その全力をかたむけて、これに襲せ参りましょうとも、御武威

甲州の足長殿は一時退いたが、三方ヶ原以来、なお多事多端に明けた翌年の

「惜しむべし、甲州の巨星は遂に隕ちたようです」

ません。……が、にわかに野田城のかこみを解き、甲州へひきあげた武田の士気旌色というものはなかったと申しまする」

「夜を日についで、甲州より帰って来たとあれば命がけ。その者に、そちはすぐ、自分の

兵家に檄をとばし、もちろん浅井、朝倉、越後の上杉、甲州の武田家などの遠方にも、急使を送って、ものものしげな防備にかかっ

一時甲州では、ふかく喪を秘していたが、この秋、隠れもなく知れわたって

秘していたが、この秋、隠れもなく知れわたって、甲州の武田信玄の在世は、もう誰も信じるものはなくなっていた。

に、朝倉と足利公方との、密盟がむすばれ、甲州の信玄とも、叡山とも、あらゆる反信長聯盟の構成のうちに、いつ

としても、周囲の幕将たちがゆるさなかった。甲州の信玄は死んだといっても、彼の諸将猛兵はなお健在である

堅田

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、柴田、明智、蜂屋などの諸部隊である。これは堅田から石山あたりに、いまなお蠢動している僧門内の、反信長勢力を駆逐

そして、その返辞のように、堅田や石山方面の――京にはいる通路へ木戸や防寨を築いていた

逢坂山

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が、大津越えにかかる頃である。まだ短夜も明けない逢坂山の木立の上に、鉄砲を構えて、信長のすがたを待っている怪僧

九州

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なんら彼とは、宿怨も関わりもない九州の大友、島津、中国の毛利、四国の長曾我部。――遠くは北辺の上杉

金ヶ崎

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のろしを揚げたのが、過ぐる年、信長が越前の金ヶ崎に攻め入った時である。

畿内

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を糾合し、石山本願寺の門徒兵や、叡山や、また畿内の三好、その他の残党もあつめ、一挙に、岐阜を葬らんという企

の平穏を見こして、藤吉郎はひそかに横山城を出、畿内から京地をすこしばかり巡遊していた。

幕府最後の始末がすむかすまないうちに、疾風のごとく畿内の戦場からひっ返し、また直ちに、岐阜へむかって、

駒ヶ岳

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韮崎から西へ、駒ヶ岳や仙丈などの裾を縫って、伊那の高遠へ越えて行く山道がある。

岐阜城

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が、彼は無事に、岐阜城へ帰った。それから約一月余りを経た六月の半ばだった。

岐阜城へさして信長が帰ったのはそれからであったが、残暑の疲れを

だが明ける早々、年頭の賀をのべるため、彼は岐阜城におもむいて、信長に謁し、さらに数日のいとまを賜ったので、その

こんど年賀の拝をなしに岐阜城へのぼった折も、信長はいくたびとなく口に出して案じていた

信長は湯殿からあがって、さわやかな顔を、岐阜城の一室に見せていた。

藤吉郎のこんどの小旅行も、すがたをかえた微行で、この岐阜城へも、そういうわけから突然やって来たものにちがいあるまい。

して、それのみが苦労になっていた。――岐阜城へあがって信長の前に出たら、身がふるえてなにもいえないので

そして岐阜城を退がる折には、とても身に持ってなど帰れないほど、莫大な賜わり物

、それ以来は、一しお君恩をふかく感じて、夜も岐阜城のほうへ足を向けて寝ない――といったような心を真実に

一屋根がなおあることを後に気づいていた。そして岐阜城へ立ち寄ったとき、主君信長がそれとなく云ったことばを思い出して、みずから深く

野田城

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「この二月、刑部から三州へ攻めに出て、野田城をとりつめておるうち、一夜、鉄砲で撃たれたと聞きました」

儀はまだ仔細にわかりません。……が、にわかに野田城のかこみを解き、甲州へひきあげた武田の士気旌色というものはなかった

恵林寺

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信玄の帰依している快川国師が住む恵林寺であった。

三平は、畏まってそこを退り、やがて恵林寺の門前から一頭の駒を解いて、どこへともなく鞭を打って

「おとといの晩、恵林寺へ泊って、きのう同所で、快川和尚とお館の密談を盗み聞きして、

つぶさに告げた。そのなかでも重要な事柄は、彼が恵林寺にしのんで直接、耳ぶくろに入れて来た甲軍の出兵に関する機密だった

宇治

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義昭は京都を落ちて、宇治の槙島へたて籠ったが、もとより無謀、それに敗残の寡兵である。やがて信長

観音寺

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の手へ密報がはいった。鯰江の六角承禎が、観音寺城の残党や門徒僧を用いて、土民一揆の火の手を諸所に挙げ、その

小谷

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と共に、自分は出馬する決心である。目標は、小谷の浅井長政を討つにある。――この席は軍議の席であるが、

小谷の浅井長政には、信長の妹のお市の方が嫁いでいる。それ

土民一揆の火の手を諸所に挙げ、その混乱に乗じて、小谷の浅井勢と呼応して一挙に信長を屈伏させてみせると、露骨に

日にはもう、浅井の本城小谷へ迫っていた。小谷の出城、横山城を囲んでいたのである。

「本軍が、小谷を陥すまでは、小勢なりとも、あの男のこと、後方は固く抑えている

だったが、朝倉勢を大寄山に追い上げ、浅井長政を小谷へ封じこめると、信長は、戦後の処理を二日間にすべて終って、三日

浅井長政の小谷の城も、その途中にあった。

なんの故か、藤吉郎は、小谷の城の燈火に、そうつぶやいて、殊さらに駒をとめた。

違いなかった。――そして藤吉郎の今の位置は、この小谷の城から越前へ通ずる北国街道の途中にあった。両家をつなぐ動脈の一道

ふたたび、織田浅井の御両家が、矛を交えるとなれば、小谷の城は、三日と持たぬぞ。越前の援けは遠し、叡山とは

北近江の聯盟国、小谷の浅井久政、長政父子から、一鞭の飛信があって、

「あれが八相山、宮部ノ郷、小谷から横山まで三里のあいだを、鹿垣、柵をもって遮断すれば、敵

二十五、六日の頃には、信長はもう北近江の小谷をかこむ虎御前山の陣地へ、帰っていた。

「小谷の城は落ちるのを待て」

「迷わずにおれぬ。このまま小谷の外城から、ひとつひとつ粉砕して敵の死命をにわかに制せば、

を予の使いとして城中へつかわし、降伏なせば、小谷の旧領は、そのまま与えようと申し遣り、また、恃みとする越前も、信長

善性坊は横山の陣地へ。また大野木土佐守ひとりは、小谷の二の曲輪へ、間道づたい、ひそかに帰って行った。

ひろい小谷の地を三分して、一劃ごとに一城を築き、長政はその三

の浄信寺というのが先頃の兵燹に会ったため、小谷の城中へ来て共に籠城していた。

ばかりでも、葬儀を営んでおきたく思う。――この小谷の奥曲り谷に、かねて和尚からいただいておいた戒名を刻んだ石碑が建っ

この小谷の城が、牢固として、不抜の強味を持っている今までならば格別

たのも、極めて少なかったというのを見ても、小谷の城の最期は、越前の朝倉や、京都の公方家のごときものでは

ほうまで本営をすすめて、信長は、面を焼くばかり近い小谷の落城の火を、じっと見まもっていた。

しかも彼は、小谷の城に甘んじなかった。

あると思いこんで召し抱えずに来たものである。ところが小谷の城中で、あの戦時中、ふと、一茶室に坐って、自分とよく似

「いつぞや見たあの踊りか。はてな、小谷から長浜へ移る折の、入城祭りはやったでないか」

埃りも瑞気の虹に見えてくる。この俗謡は秀吉が小谷から居城を長浜にうつした時、領民がよろこびのあまりその入城の折に踊り狂っ

鈴ヶ峰

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鈴ヶ峰、青山岳、坪笠谷のあたりまで、敵の二万余に、一山の僧兵を

長良川

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、彼の寝所から、呼び立てる声がした。稲葉山から長良川の空をかけて、頻りと、時鳥の啼く四更の頃であった。

筑前

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「そもじも、筑前の長い留守をあずかり、老母への孝養やら、何かと、骨折りであったろう

とやらあったぞ。おそらく筑前も待ちわびておろう。それに今浜の城は新しい。戦陣の留守は長く辛かろうが

「あれはな。筑前のことじゃ。――あれはちと、そのほうの行儀はよくないようだ。

――それをきょうここで出会うて、なるほどと思うた。筑前も好いたはずなれとな。……よいか、悋気はすな、仲よく暮らせよ

もち、日本一の幸せ者ぞと仰せ遊ばし、またわたくしへも、筑前ほどな男は、海内幾人もおるまい、よい良人を選び当て、そもじ

鎌刃城

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その干城の大事を知って、浅井長政も、逸はやく、鎌刃城にいた樋口三郎兵衛を、長亭軒の城のほうへ移して守らせて

伊勢

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「さきに、早馬をもって、伊勢からお知らせ申した儀は、情勢、まったく一変いたしましたゆえ、万一のおうごき

の一間に召し入れ、人を払って、詳細に岐阜、伊勢、岡崎、浜松あたりの情勢を聞きとっていた。

産めぬものなどが、いっぱいでございまする。……これが伊勢の大神さまに侍いたものの御裔かと、正直、日頃そう嘆かれまする

きょうも彼は舞わんとしていた。伊勢の使者を饗応して、使者が帰っても、まだ興じて、ひとり杯を

江南

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一月の半ばであったが、江南の春はもう梅も綻ぶほどあたたかい。

浜松城

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一面、浜松城のうちには、こういう守勢論もあった。

と、浜松城を出た。

「井伊谷へとあらば、浜松城をお取り囲みの御決意と思われるが、それで違算はあるまいか?」

ば、織田の充分に加勢のなし得ぬいま、直ちに、浜松城をふみつぶして通るが上策ではあるまいか」

浜松城へ、甲軍の方向急転がつたえられて来たのは、二十一日の夜だっ

その日。浜松城の留守居にあった夏目次郎左衛門は、味方の敗亡と聞くと、手勢わずか三十

日吉神社

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て、氏家、稲葉、安藤の諸隊が凸字形に、日吉神社の参道まで突出している。

越前

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も、限りがあった。横山城に当ると、ここは越前と江北の要路で、敵には、重要な地点だった。さすがに、頑

「大挙、越前の朝倉勢が、山越えして、小谷の救援にやってくる!」

――越前の援軍は、総勢一万余騎、朝倉孫三郎景健を主将として、魚住左衛門

陥ちそうもない。――退路を遮断されたら、ふたたび越前の木目峠の死地に立つ。

案内に立って、眼前の戦場の地形、敵の布陣、越前の援軍の情勢などを説明して、

ここの北国街道は、近江から越前への唯一の通路だった。

のである。――ために、理性に富む彼は、越前の朝倉とむすび、叡山その他の僧団と款を通じ、旧態の将軍家をなお

――そして藤吉郎の今の位置は、この小谷の城から越前へ通ずる北国街道の途中にあった。両家をつなぐ動脈の一道を、横山の

動脈の一道を、横山のふもと横山城に遮断して、越前の朝倉と、江北の浅井家とを、両手に抑えているかたちだった。

なれば、小谷の城は、三日と持たぬぞ。越前の援けは遠し、叡山とは湖の隔てがあり、そして今浜にはわが織田

なぜこうまで、越前の朝倉が、江北の戦いに大きな震駭をうけるかといえば、いうまでも

に大きな震駭をうけるかといえば、いうまでもなく、越前にとって浅井の北近江は、自家の国防の第一線といえる地勢に

越前の心ある将士は、味方のふがいなさに哭いた。

「藩祖教景公このかたここに五代、越前の名門庶流、あわせて三十七同族、世々恩顧のさむらいを養うことも何十万、

越前の降将、前波吉継を、豊原の城へおき、同じく朝倉景鏡に、大野城

彼は、越前から日に数度の早馬を立てた。かりそめにも、わたくしな専断をせ

のあった時も、また、ここを措いて、さきに越前の攻略をお果しなされたのも、そのお悩みによることとは、

あります。ただその意地が小さいだけですが、足利公方や越前の義景どのなどの比ではありません。……で、一朝、ここの

なぜならば、越前の朝倉家と浅井家の親密は、三代にもわたっている。単に、攻守

その、のろしを揚げたのが、過ぐる年、信長が越前の金ヶ崎に攻め入った時である。

一挙、越前を屠ったあとの小谷城は、もう火でも鎖でもなくなった。どう

の唱える義と、戦の意義は、まったく小乗的で、越前との関係とか、信長への単なる反感とか、それに絡まる意地といっ

朝倉家が存立しておればのこと。――今日、越前もすでに亡び、その越前と浅からぬ足利公方殿にも、京を去って遠く

おればのこと。――今日、越前もすでに亡び、その越前と浅からぬ足利公方殿にも、京を去って遠く退去し、恩怨すべて過去

というのを見ても、小谷の城の最期は、越前の朝倉や、京都の公方家のごときものではなかった。――彼を

ただ、信長の蹉跌をうかがっているものだ。――遠く越前をさえ一気に攻略しておきながら、こんな北近江の一局部に、のめのめ

丹波

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水けむりの中に丹波は坐った。脾腹へはいった槍のケラ首をつかんで起とうとする――

にチカッと燦めいた、何人かの太刀が、がつんと、丹波の鉄兜へ打ちおろした。

刀は、幾つかに折れて飛んだ。丹波は起った。血しおに等しい川波が真っ赤に立つ。

石山本願寺

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彼のいる二条殿の帳台奥深い辺りには、石山本願寺の使僧がさっきから密かに目通りを乞うて、何やら小声ではなしこんでいた

摂津の石山本願寺の地は、後に、大坂城の本丸となった難波の杜の岡にある

石山本願寺に向って、その前に信長から、

兵を呼び、南からは長嶋の一向宗徒を糾合し、石山本願寺の門徒兵や、叡山や、また畿内の三好、その他の残党もあつめ、一挙

大坂の石山本願寺、京の叡山、尾張、伊勢境の長嶋門徒。

ふいを衝かれたのは石山本願寺である。にわかに信長の軍を迎えて、なすところを知らなかった。

叡山

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の張本と巣窟は、いったい何処にあるかといえば、叡山、本願寺などの僧団と三好の残党の内にあるとは、誰もすぐ考えつく

もちろん、僧即兵。――ここにも南都、叡山に劣らない法師武者が充満しているのである。

、大津、唐崎の浜に、陣を布き、一部は、叡山へさして続々と登って行った。

「彼は、叡山の山領を、恣に削った。――伝教大師このかた、不可侵境の山則を

叡山と浅井、朝倉の関係は、親密だった。この盟約も、当然、ものを

「すぐさま、引っ返して、浅井、朝倉を初め、叡山をも、粉砕してくれん」

―一転、彼が馬を向け直した行く先も、また――叡山という昔から荒法師をもって鳴る僧団を中心とする戦場だった。

―来てみればもう敵は一兵も見えなかった。すべて叡山へ逃げ上ってしまったのである。

叡山は、国家鎮護の霊場として、初めて、その特権も伝統もあるので

その本来のものは今、叡山のどこにあるか。

瑜伽三密の霊場叡山を敵として、今、自己の全武力をあげて包囲にかかりながら、

叡山の麓は、見わたす限り、味方の兵馬と旗だった。

叡山の峰々は、雲のかからぬ所、雲のかかっている所、すべて敵軍だっ

埋まり、唐崎の附城には、織田大隅守――そして叡山の裏――京都に向っている方の麓口には、足利義昭、その

うけて、彼は従卒四、五人を連れただけで叡山へ、そして、僧兵の本陣である根本中堂で、西塔の尊林坊と会見

御説教であった。そこで、謹んでお答え申そう。叡山には叡山の権威があり、信条もある。要らざるおせッかいと

あった。そこで、謹んでお答え申そう。叡山には叡山の権威があり、信条もある。要らざるおせッかいというほかない

つい年暮の十二月、叡山の和議を容れて総引上げとなるとすぐ正月であった。藤吉郎は、姉川

将軍義昭のとりなしで、叡山とも、浅井朝倉の両家とも、織田家としては、和解したこと

ために、理性に富む彼は、越前の朝倉とむすび、叡山その他の僧団と款を通じ、旧態の将軍家をなお恋々と奉じている。

「浅井、朝倉の両家は、叡山において、かたく、信長様へ対して、和議を申し入れたばかりでないか

は、三日と持たぬぞ。越前の援けは遠し、叡山とは湖の隔てがあり、そして今浜にはわが織田家の丹羽五郎左衛門あり、

つが結ばれては、必然、大きな脅威をうける朝倉や叡山などが、たえず両家の不和を謀っている。汝ら家臣の輩も、

「二名は、性懲りもない、叡山の僧であります。もう一名は、三好の残党で、法体はして

ず、三好の残党も、泥を吐きませんので、叡山の二名を、べつにして、拷問してみましたところ、すべてを

長嶋の一向宗徒を糾合し、石山本願寺の門徒兵や、叡山や、また畿内の三好、その他の残党もあつめ、一挙に、岐阜を葬ら

「そちの父可成は、去年、叡山をかこむ前、朝倉の大軍と僧兵につつまれ、宇佐山の城と共に相

、織田の衆は、またも大挙して西へうごき、叡山を掃滅するとて、去年にもました大軍を催しておるそうな」

織田のうしろを衝かば、浅井、朝倉も同時に立つ、叡山、長嶋もともども手伝う、三河の家康ごときは一蹴して、はやはや京地まで上洛

明智、丹羽などの諸大将はさきに寄せていた。叡山のふもとは眼のとどく限り、織田軍の旗だった。

に映っている火事であって、禍根の火もとはまさにここ叡山のうえにあり――と、見さだめたものに違いない。

が、数百年このかた、国家鎮護の霊域とあがめられている叡山を焼き払えなどという乱暴な御命令には、臣として――いや臣

叡山は天台、石山は門徒、宗派はちがうが、仏徒であることに変りはない

叡山を占領するも当然である。

…この山一つとそち達はいうが、信長は、叡山ひとつの処置に逆上しておるのではない。この全山を焼き払うことは

達の説く利害は、信長一個を出ておらぬ。叡山のごときを、灰としようが、無辺の国土と、かぎりない衆民を擁してゆく

、各※の第一にお案じあるところも要するに、叡山を焼討ちになどいたしたら、世の人心が君公から離反するにちがいない、故

信長は丘に立って、叡山の上を――さらにその上の団々たる雲を仰いで――あたりの者

ただ、去年の陣には、叡山のうえに、浅井、朝倉の大軍がのぼって協力していたが、こんど

「叡山へも、はやこのことは、武田家から早打ちされておるであろう。…

甲山をこえて、尾濃へ迫る武田勢が早いか、叡山を粉砕して京、摂津を席巻して還る織田勢が早いか、われら

にかくれた。――丘のうえ、丘の下。また叡山の裾をめぐる諸処の陣所に、兵糧を炊ぐ煙があがっていた。

満山に狂い、ふもとから仰ぐと、大きな火の柱が、叡山の各所からあがっていた。

叡山側は、誤算していた。

もなく、そこにいる将軍義昭の府のことである。叡山は諸国の僧侶や信徒にとって、もっとも顕著な反信長の本山であるが

とって、もっとも顕著な反信長の本山であるが、その叡山に、裏から兵糧を送り、武器を与え、間断なく、煽動と督戦に努め

という大きな期待を抱き、その意向が、叡山にも伝わっているので、山徒も当然、

叡山は、余煙と、灰と、黒い枯木と、峰谷々まで、さまざまな断

その日もまだ叡山は黒煙をあげていた。おとといからの余焔である。

信長は、叡山へかかる前に、使いを送って家康に、

と、つぶやいたが、そのためか、叡山の事が終ると、例の足早で、疾風のごとく、岐阜へ帰ってい

叡山の堂塔伽藍から坊舎楼門のすべてと山王七社までを一夜に焼き払ったと

「――叡山を焼いたのは、叡山自身じゃとみないうている。神仏は焼こうとて焼ける

「――叡山を焼いたのは、叡山自身じゃとみないうている。神仏は焼こうとて焼けるものではないぐらいなこと

恩恵をほどこしたり、暗に、信長政治を怖ろしがらせたり、叡山の焼討ちなどは、殿を誹る好材料とし、いよいよ諸山の僧団を焚きつけておる

が、御懸念にはおよびません。さすが僧門陣も、叡山の結果を見ては、しんから胆を寒うしたらしゅうございます。あれは

「予は将軍家だ。武家の棟梁。叡山とはちがう。もし信長が二条へ弓をひくならば、信長は求めて

信長はうなずいた。よく分っているらしい。けれど叡山でやった果断猛行を、ここでは用いる必要もないし、また二度

との、密盟がむすばれ、甲州の信玄とも、叡山とも、あらゆる反信長聯盟の構成のうちに、いつか長政もひきこまれて

叡山の焼討ちでは、魔王と呼ばれることも辞さなかったあの殿が……と

蜂須賀村

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城中の士も大半は、以前、蜂須賀村から連れて来た彦右衛門の手下であったし、藤吉郎もまた、そのむかし少年

「思い出せぬか。わしの尾張中村にも、そちの郷土蜂須賀村にもちかい新川村の者、茶わん屋捨次郎の息子福太郎というのを」

蜂須賀村の産、野武士小六の甥――である天蔵の野性は遺憾なく発揮され

河内

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「もちろん、京師に兵を進め、淀川、河内の野に、信長を殲滅すべきである」

義昭の一子は、藤吉郎が警固して、河内の若江の城へ送った。これも、恨みを恩で酬われたとは

姉川

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「姉川を挟んで、野戦に勝敗を決するしかありますまい」

兵馬の装備を革めると、主君の信長のいる前線の地、姉川へ、

の兵も、徐々と、大寄山から行動を起して、姉川の左岸に当る野村、三田村あたりの民家を楯に、戦機を窺っていた

と太刀。――また、組む者、馬上から落ちる者、姉川の水は、血か、映じる朝陽か、鮮紅燦々と揺れに揺れた。

も二陣あり三陣ありである。押しつ返しつ、姉川の水を揉んで、敵味方、鍔を割り、槍を砕き、その勝敗は

―その迅さは、まだ死屍累々と渚に洗われている姉川を、夜々翔けわたる時鳥にも似ていた。

「姉川の一戦は、大そうな勝軍でお引揚げとやら、いつもながら御武勇なこと

の上洛には及ばぬ。――いや、それよりは、姉川より凱旋のこと、きょうは曠れの祝い、奥で盛宴を張ろう。休息の

ふたたび姉川の戦場を一巡し、横山城に詰めている木下藤吉郎に会い、各所の押え

「姉川の敗北も、これで雪辱したというもの。幾らか、胸がはれた

摂津

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摂津の中之島の城にいる細川藤孝から「火急」として飛状が来た

摂津の石山本願寺の地は、後に、大坂城の本丸となった難波の杜

と、新しい決意さえ持って、すぐ自身、摂津へ出陣した。

へ迫る武田勢が早いか、叡山を粉砕して京、摂津を席巻して還る織田勢が早いか、われらに、競いと励みを与え

摂津で信長を迎えた荒木村重はそういった。また、義昭を去って、姿

伊吹山

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垂井の宿場あたりで陽が暮れた。――それから伊吹山の裾野を、悠々と、駒を打たせて行った。――ちょうど大きな夏

と、林の梢を透いて、一条の紅い雲が、伊吹山の肩のあたりに見出された。

岡崎

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岡崎の童、とか。

間に召し入れ、人を払って、詳細に岐阜、伊勢、岡崎、浜松あたりの情勢を聞きとっていた。

相手になられぬがよい。事迫る場合は、浜松から岡崎へ退いても、堅忍持久されておられるように望む。――時は

「ひとまず岡崎へ退いて」

銚子

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「お身方もせわしかろう。独りのほうが勝手でござれば、銚子、飯櫃なども、ここへおいてお退りください」

坂本城

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「志賀一郡はそちにあずける。以後、ふもとの坂本城に住め」

中之島

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摂津の中之島の城にいる細川藤孝から「火急」として飛状が来た。―

中津川

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難波の神崎川、中津川のあたりは、まだ葭や葦や所々の耕地や、塩気のある水がじめじめ

信長はやがて、馬上となると、中津川の流れへ、駒を乗り入れた。

夕陽の赤い中津川の流れを、十騎、二十騎――何十騎となく、泳ぎ渡った。

浜松

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信長が引揚げると、即日、家康も浜松へ向って帰った。

家康が、浜松に着いた頃、信長はもう、岐阜を去って、京都に出ていた

。足もとの浅井、朝倉。こんなものではありません。浜松の徳川殿は、恐るべきではありますが、叡智の人ですから、馬鹿

召し入れ、人を払って、詳細に岐阜、伊勢、岡崎、浜松あたりの情勢を聞きとっていた。

浜松を本拠とする徳川家康の部下たちは、まなじりをあげて、それに立ちむかった

なって相手になられぬがよい。事迫る場合は、浜松から岡崎へ退いても、堅忍持久されておられるように望む。――

いま、こんな際になって、浜松の城中はかなえの沸くような殺気だが、そこに坐って、しかも誰より

され、全滅に近い打撃を与えられて、池田村から浜松へ潰走して来たという報告のはいった時には――城中みな色

をすれば、うしろ巻きしている家康自身の陣地が、浜松と遮断されそうな形になった。

、磐田の諸郡と、よく聯絡をたもち、敵の掛川、浜松方面の退路に備えよ」

そう危ぶんだのは、織田の援軍が、もう続々と、浜松へ着いたし、なお後続中のその兵量は、どれほどか分らないもの

―けれど、織田の救援軍が、続々と南下して、浜松に合しているというその日の風説は、どうもほんとらしかった。

「もし信長が、大兵をもって、浜松の後詰をして参れば、ここは慎重に、御考慮を要するところでは

づもりである――なぜといえば、もし岐阜の大半なと浜松へさし向ければ、かねて、信玄より申しやってある浅井、朝倉が必然、江北から

浜松から北へおよそ十町。横二里、縦三里に余る高原に出会う。

二十二日の未明、浜松を出た家康の軍は、犀ヶ崖の北に陣をしいて、武田

ませぬ。この上は、味方をおまとめあそばして、一時浜松へ」

もう先に家康は、浜松の城内へ帰っているものと思って引きあげて来たところ――

、殿より先に逃げて来たといわれては、浜松の住民に対しても、面目ないと、城にもはいらず地だんだ踏ん

――が、美濃守も昌景も、浜松の城門を真ん前に見ると、

「では、浜松の家中にあって、先頃三方ヶ原で最期をとげた、加藤九郎次、源四郎

慕いしておりましたればこそ、足軽奉公に出、やがて浜松で、侍のはしにまで、お取立ていただいたのでございまする。……けれど

前後の騎馬に守られながら、彼はまた暗い夜道を、浜松のほうへ駒を向けていた。

二騎ほど後へ引っ返して行った。――けれど家康が浜松の城門にかかる頃、その二騎はまた忽ち帰って来て、

小谷城

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朝倉攻めの遠征の際、信長が、その妹聟の小谷城へは、何の沙汰もせずに立ったのは、由来、浅井と朝倉

城、気にかけて相手にしていたら、目的の小谷城へ懸るには、半年の余も費やしてしまうであろう。

は、五十余町も後退し、浅井長政も退いて、小谷城へ総くずれに駈け出した。

宿命の地、小谷城にいる浅井父子は、それまでにも、すぐ近くの地にある横山城(

眼下の――小谷城全廓を、その一指にさしていうのである。

を築き、長政はその三の曲輪にたて籠っていた。小谷城とは、三城あわせた総称である。

一挙、越前を屠ったあとの小谷城は、もう火でも鎖でもなくなった。どうするも、信長の胸ひと

、難事でござろう。――それはちょうど信長様が、この小谷城を陥して、お市の方様のお身だけは無難に助け出そうとなさっている

は、長政の返答次第で、きょうの日没前にも、小谷城の攻略はかたづけてしまおうという予定をもち、全軍、満を引いて待機し

大野城

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吉継を、豊原の城へおき、同じく朝倉景鏡に、大野城の守護を命じ、富田弥六郎に府中の城を――と、いったふう

滋賀

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すそや不破の山かげには、まだ雪も深かったが、滋賀のさざなみに照り映える陽を横顔にうけて、湖畔をのたりのたり練ってくると、よい

熊野

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は、またあたふたと、紀州方面へ遁走した。そして、熊野の僧や、雑賀の徒を、しきりと煽動して、

北江州

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義景とむすび、信長の退路を脅かした最大な敵は、北江州の浅井だった。その浅井長政には、信長の妹が嫁いでいるので

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そして、西国方面や堺などから、鉄砲二千挺を購入したとか、一山の僧兵が、にわかに

と結びついたり、将軍義昭の弱点をうまく唆したり、近畿や堺の町人に悪宣伝をまいたり、一揆を焚きつけたり、いろいろやるな――と

「これを持って、泉州の堺へ行くがいい。かねは路用に。てがみは堺の千宗易というものに

泉州の堺へ行くがいい。かねは路用に。てがみは堺の千宗易というものに宛ててあるから、その宗易に会って、身の

京都

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一生を得、殿軍の任を果して帰った将士が、京都に帰りついた第一夜の望みは、

他、わずか三百にも足らぬ小勢をひきつれ、夜どおしかけて京都から脱出してしまった。

だが、中原に出て、令を京都から発したとなると、俄然、天下の諸豪は、心穏やかでないにきまっ

この言葉を穿きちがえて、もし彼がもう半月も、京都に安閑としていたら、すでに帰る郷土も家もなかったかも知れ

京都へも、よく長政を招いて、見物させ、また、

先頃、京都から帰った信長の胸には、その妹聟の処置が考えられていた

、ここを占めれば、湖南一帯から美濃の平野を扼し、京都や北国路や東海道への交通を抑えることになるので、討っても

、すぐまた、都扮装に粧いかえて、あの鞭を、京都へさして急がるるにちがいない。……さても、心の駒

浜松に着いた頃、信長はもう、岐阜を去って、京都に出ていた。

勿論、京都在住の信長の部将は、見あたり次第に、落首の札などは取り捨てている

と交代して、その後、洛中守備軍として、京都に止まっていたので、室町将軍の目付役ともなって、そこの

」として飛状が来た。――同時に、京都にある明智光秀からも、

で。京都や難波の味方から急報をうけ取っても、さして、意外とはしなかっ

途中、彼は、京都に寄って、

を渡って上陸する。形勢はまさに大津の咽喉を扼し、京都に入り、淀川に待って、大坂石山の本願寺、その他と呼応して

幾たびか、鞭を折り、馬を代えて、彼が京都に着くと、

「無益ではない。敵を牽制する必要がある。京都守備の明智光秀の隊が、死にもの狂いで暴れまわっておる。また、味方の

城には、織田大隅守――そして叡山の裏――京都に向っている方の麓口には、足利義昭、その他、在京の

訪れ、光秀と同道して、すぐ、この書面を携えて京都へ使いせい」

もちろんこれは信長の企画である。叡山や京都や難波の変に駈けつける日の備えであることもいうまでもない。

まで加わっておるやに思われます。その武田家と、京都の将軍のあいだに、近ごろ繁く、密使の交わされていること、双方の

信長が、いちど京都に出て、その存在をにわかに大きくし始めた去年あたりから、信玄自身

「そこでおざる。待てば日和。――かねて京都の将軍家からも、この信玄へ、しきりと御内書を通されて、織田

はどうしてなったかといえば、山から遠くない京都から、かれらを安心させるような情報が頻々と、山徒の本陣

京都といえば、いうまでもなく、そこにいる将軍義昭の府のことで

信長は、一日措くとすぐ山を降って、京都へはいった。

かれの大虐殺の手をのがれて、京都へかくれこんだ僧俗もかなりあるらしい。その者たちの口から信長の名

「こんどは京都か」

「――して、近ごろ、京都の情勢はどうか。たえず村井民部より使いは通うてまいるが、そち

また室町文化からすこしも出ていないのである。せまい京都だけの文化面を、日本の様態とながめて、依然たる小策をたのみ、

しているところだった。そしてこの間に、使者はたびたび京都へ出向いている。

「京都へ返せ」

に城外へ使いを出した。つづいて、信長方から、京都奉行の村井民部が来、夕方ちかくなって、公式に信長の使者とし

義昭は京都を落ちて、宇治の槙島へたて籠ったが、もとより無謀、それに敗残の

ても、小谷の城の最期は、越前の朝倉や、京都の公方家のごときものではなかった。――彼を妹聟として

岐阜

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「岐阜へ帰るのだ」

急遽、岐阜の本城へ帰る必要はある。いろいろな意味で、それは急を要する。

敵と化したかの観がある。信長が、突然、岐阜をさして帰ったのは、賢明だった。

が、彼は無事に、岐阜城へ帰った。それから約一月余りを経た六月の半ばだっ

信長以下、岐阜を発した兵馬は、近江に侵入していた。

にとって、最も怖るべき後方の諸城を陥し、前線と岐阜との通路と、その安全を確保するために、遅れたのであった

「於ゆうは、もう岐阜へ着いたろうか」

「長浜からでは、まだまだ岐阜へは帰り着きません」

(その方が参って、火急、岐阜表から於ゆうを召し連れて来い)

上、兄上ッ。ゆう殿を召し連れ、ただ今久作、岐阜表より立ち帰りました。君前へは、兄上よりよしなに!」

藤吉郎はそこで長浜まで軍をすすめ、於ゆうはそこから岐阜へ帰して、兵馬の装備を革めると、主君の信長のいる前線の地、

処理を二日間にすべて終って、三日目にはもう岐阜へさして帰陣していた。――その迅さは、まだ死屍累々と

「なにか、岐阜表に、事変でも起ったのではないか」

家康が、浜松に着いた頃、信長はもう、岐阜を去って、京都に出ていた。

平服だったが、帰りは武装していた。――岐阜へ帰るのではなかったのである。

岐阜城へさして信長が帰ったのはそれからであったが、残暑の

岐阜表から急報がはいった。

。信長の全軍も、陸路、勢多の舟橋を渡って、岐阜へひきあげた。

だが明ける早々、年頭の賀をのべるため、彼は岐阜城におもむいて、信長に謁し、さらに数日のいとまを賜ったので

岐阜から陸路をいそぐ場合、いつも途中一向宗の僧徒や、各地の残敵にさまたげ

こんど年賀の拝をなしに岐阜城へのぼった折も、信長はいくたびとなく口に出して案じて

月の八日ごとに、市がたつ。そのため岐阜の城下は、馬や人や物資で溢れかえる。

と外交に心をいれていた。殊に、戦えばいつも岐阜を出るので、治下の民心の如何は、彼自身の健康ほど、常々

手つだいに、おまえ方も集まって来い。風のつよい夜、岐阜の諸処から火の手があがる。それがお報らせじゃ。疫病焼がすんで

信長は湯殿からあがって、さわやかな顔を、岐阜城の一室に見せていた。

また畿内の三好、その他の残党もあつめ、一挙に、岐阜を葬らんという企謀をめぐらしておるとのことにございます」

岐阜の領は、親ゆずりの遺産ではない。自己の実力で新たに版図に

尾張にあっては、ずいぶん艱苦を領民に強いたが、岐阜の占領地へ来ては、前の斎藤家が、放漫な施政をし

の門徒一揆から平らげて、四敵八塞の象にある岐阜の位置を、一角から打開してゆこうと思うが如何に」

岐阜城下に、信長の大軍は、勢ぞろいした。

――が、信長は、ようやく岐阜へ近づくと、

何の理窟もこねなかったが、諸将のうちには、岐阜帰着後も、こんどの引揚げと、その犠牲に対して、信長への批判

「岐阜へじゃよ」

あった漆が、ようやく、その量に達したので、岐阜まで送ってまいるところじゃ」

思えば、この信玄を、ひとは老巧というが、むしろ岐阜の信長や三河の家康などに、まんまと、欺かれていたにひとしい。

「一時はほとんど岐阜表を空にして、総がかりに長嶋へ攻めかかるやに見えましたところ―

を禅房の一間に召し入れ、人を払って、詳細に岐阜、伊勢、岡崎、浜松あたりの情勢を聞きとっていた。

したくないので、機を計っておざったが、その岐阜の手薄に乗じて、雷発一迅、三遠尾濃の諸州を一走り

――御催促も再三ではなかったが、いかようとも岐阜が難所――今川義元が二の舞はしたくないので、機を計って

「武田の間諜、甘糟三平は、まだ伊勢境か岐阜あたりで、織田家の虚を嗅ぎあるいていると思っていたが…

のである。去年の冬、ここの囲みを解いて、岐阜へ引きあげた時から丹羽五郎左衛門に命じて、いつ何時でも湖を押し渡れる

三章、市中各所にそれを立てさせると、信長は岐阜へひきあげた。――ひと頃は生きたそらもなく、濠を深め、鉄砲

の事が終ると、例の足早で、疾風のごとく、岐阜へ帰っていた。

「――年の暮、熱田の祠官岡部又右衛門どのを岐阜へお召しになって、信長様が、私財をもって、お命じなさ

この信玄の胸づもりである――なぜといえば、もし岐阜の大半なと浜松へさし向ければ、かねて、信玄より申しやってある浅井、朝倉

と、ただ避けて通るわけには参らぬ。やがて行く手の岐阜へ迫れば、当然、家康めは、手兵をひッさげて、わがうしろ

もとの稲葉山、いまの岐阜。

藤吉郎のこんどの小旅行も、すがたをかえた微行で、この岐阜城へも、そういうわけから突然やって来たものにちがいあるまい。

翌三月二十二日、勃然とうごいて、大軍いちどに岐阜城から雷発した。

それ見い。長陣はゆるさぬ。信長がまた例のごとく、岐阜に不安をおぼえ、あわてて兵を退いて行くことを」

信長の兵は、退くもまた静かに、岐阜へ帰って行った。

「岐阜どの、忘れはせん、なんであの時のことを。また、いまとても

「……死にたい。岐阜どの、わしは、わしを、か、介錯して」

信長が岐阜へ帰ったのは、七月の末。

うちに、疾風のごとく畿内の戦場からひっ返し、また直ちに、岐阜へむかって、

「その頃とは、叡山攻めのすぐ翌年、そちが岐阜へ年賀に見えた春さきのことか」

信長が、岐阜の斎藤を攻略するにあたって、いかに邪魔したか、いかに斎藤方を

君のお輿をお迎えのため、それがしが奉行して、岐阜まで参りましたから」

彼は、落城を見とどけると、すぐにも岐阜へ帰るつもりらしい。

岐阜のゆるしを乞うて、すぐ修築にとりかかり、白堊の櫓、堅壁鉄門は

「岐阜の御城下を通していただくことじゃ。そなたは秀吉の妻として、

して、それのみが苦労になっていた。――岐阜城へあがって信長の前に出たら、身がふるえてなにもいえない

を旅舎にのこし、ひとり種々な土産ものを携えて、いざ、岐阜の殿中へあがってみると、心がすわったというものか、取り越し苦労

秀吉がいつか、自分でない美しい女性をつれて、この岐阜城にあがったという噂をきき、ふと、ふだん口に出さないことを

そして岐阜城を退がる折には、とても身に持ってなど帰れないほど、莫大な

、それ以来は、一しお君恩をふかく感じて、夜も岐阜城のほうへ足を向けて寝ない――といったような心を

一屋根がなおあることを後に気づいていた。そして岐阜城へ立ち寄ったとき、主君信長がそれとなく云ったことばを思い出して、

大津

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一行が、大津越えにかかる頃である。まだ短夜も明けない逢坂山の木立の上に

虚を窺うや、装備を革めて、琵琶湖を漕ぎわたり、大津、唐崎の浜に、陣を布き、一部は、叡山へさして続々と

。浅井軍が、大湖を渡って上陸する。形勢はまさに大津の咽喉を扼し、京都に入り、淀川に待って、大坂石山の本願寺、

「京にはいるか。止まって、大津の咽喉を抑え、徐々、包囲をちぢめて網の大魚を完全に捕るか

とこうする間に、夜が明けて来た。大津は街道の要衝であるが、ひとりの旅人も荷駄もない。

山科から大津へ。

福島

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、退けられた人々であろう。蜂須賀彦右衛門や堀尾茂助や、福島市松、加藤虎之助などの小姓たちまでが、相次いで、そこから四方へ

摂津野田、福島、中之島一円に亘り、阿波三好党一万余、塁を築き、浮浪の

、先輩の市松にも、なかなか負けてはいなかった。福島市松はすでに二十歳をこえていたが、今も、

甲府

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もとより彼のさしてゆく方向は甲府であった。駿遠方面から本国へもどって来たものであることも

と、そこで甲府に着くまでの時間と歩速に、すっかり見込みがついたらしく、ひと休みして

町で、また馬を求め、それからは一鞭で、甲府へはいった。

盆地の甲府はむし暑い。

かに申すのでございました。――そして明日は、甲府に出て、組頭の甘糟三平どのをお訪ねするつもりなどとも云います

ぜひなく彼は、その年の十月を待って、甲府を発した。――甲越のさかいは早、雪にさまたげられて来るから

「なんの気ぶりも見えません。おそらく甲府一門としては、かりに信玄亡きあとも、しばらくは厳秘に附して

「細かくは申しあげませんが、甲府の内輪には、さあらぬ表面のかげに、歴然たる憂色がうかがわれる

大久保

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家康の三河勢も、榊原康政、大久保忠世、本多平八郎、石川数正など、

ない。――わけても、味方から偵察に行った本多、大久保、内藤の三千ばかりの先鋒が、天龍川附近の一言坂で武田勢に

大久保忠世、内藤信成などの武者ぶりもよかったが、とりわけ本多平八郎の退きは

、一方、城内からはなお、間道づたいに、天野康景や大久保忠世の奇襲隊が潜行して、信玄の本陣地、犀ヶ崖附近の

上野

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の領する甲斐、信濃、駿河、遠州の北部、三河東部、上野の西部、飛騨の一部、越中の南にまでわたる、およそ百三十万石の地