随筆 私本太平記 / 吉川英治
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に山が鳴っているそうである。だが誰一人、浅間山を心配顔で見る者はない。いや世界の鳴動も、社会の鳴動もするが
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桂から沓掛、老ノ坂隧道――丹波篠村――千代川、薗部、観音峠――須知町、山家、綾部――そして舞鶴線に沿っ
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で旗を上げ、近世では明智光秀が老ノ坂から本能寺へさして駆けた。――そして今日は、藪梅の花と、幼稚園と
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この二ヵ月ちかくは軽井沢で仕事をして来た。ことし辺りの軽井沢は、すっかり青年たちの軽井沢に
ヵ月ちかくは軽井沢で仕事をして来た。ことし辺りの軽井沢は、すっかり青年たちの軽井沢に変ったようだ。よく書斎の窓へ来た
して来た。ことし辺りの軽井沢は、すっかり青年たちの軽井沢に変ったようだ。よく書斎の窓へ来た小鳥も栗鼠もだんだん顔が
どもも顔マケの観がある。これがすまないと、軽井沢もほんとに静かな秋にならない。もちろん、運動会の中学生みたいなもので、
た。逃げたわけではないが、つい私は夏を軽井沢にすごしてしまった。しかし山国の嵐気のなかで隠岐の六百二十五年前の人
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彼の住居の跡は、梅迫から一キロほどの北の上杉町にあって今でも“だんじょう原”と呼ばれている。
春の日も無性に短い。大急ぎで、上杉町の弾正原へ廻ってみる。ここで同行中のMさんがこつねん姿をかき消す
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許すところとならず、あえなく父皇は山陰へ、皇子は四国へ引き裂かれて行く。
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中にその人に会わせてくれませんか。明日は大阪、明後日はもう河内行きだから、ぜひ今夜中に」。
の豊田武教授とも同行の約が出来たので、大阪滞在中の寸暇、あいにくな小雨を見つつも、むりに出かけて、観心寺
も生まれたところの山河がある。山河に偽色はない。大阪から車で約二時間ちょっと。南河内千早赤坂村の彼の故郷へ立った。
米原でおちあった大阪の学芸部長S氏や支局の人も加えて、一同車をつらね、三時半
てくる。三ノ宮の駅で川辺氏とお別れして、大阪へ急ぐ。途中、小事故のため芦屋警察の前で一時間ほど立ち往生する
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関ヶ原で降りて、首塚で一ぷくする。すぐ北の伊吹山には、まだ雪が白く風も冷たい。古い垂井ノ宿から不破あたりへかかる
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夕がた、南禅寺の龍村家の庭を拝見、その足で初子の営む奥山へ行く。先に
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篠村は近ごろ亀岡市に合併されたので、その記念出版として「篠村史」がつい
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しかし、国粋主義の水戸藩が、南朝の逆臣足利氏の家系と、縁組みするなどとは、ちと奇観で
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。従来の史家の筆も戦記の類も、なぜか、筑紫の尊氏については考究を怠っている。たとえば多々羅一戦にしても
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歳の頼朝を、源氏のふるさとと知りながら、わざわざ東国の伊豆へ流してやったあの寛大さとよく似ている。
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建水分神社の宮司岡山氏が、私たちのため、雨傘を翳し添えて、石階数百段を
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だった。とりあえず持参の折弁当を一同でくりひろげる。そこへ綾部市から市の教育長で史談会の村上佑二氏が駆けつけて来、住持の吉田敬道
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K氏は前夜のうちに名古屋へ帰った。京都支局長のA氏が代って参加する。前日の空腹に
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て、一同車をつらね、三時半ごろ、峠をおりる。彦根市には入らず、南の山岳寄りの方へ二十キロほど走りぬく。――
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。――古典の堀金とはどの辺か。或いは今の小金井あたりか。――と私が推理で書いたところは、私の誤りで、
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、みんな周囲が、彼をしてやむなくさせなければ、河内の一田舎武人として、よい妻やよい子にかこまれ、垣の梅花
日野俊基をかりて、河内や石川盆地の散所民などを書いたのも、正成を生んだ郷土の特色
にかほどな同情がないものだったら、正成の死後、河内の領土や遺子正行が、安穏としていられたはずはなかったろう。尊氏
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鎌倉では、杉本寺にのぼり、東慶寺では偶然、ささき・ふさ女史の苔碑に会う。近くに真杉静枝女史も
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、諸氏からご報告の「……堀金は現存する所沢と川越市との中間、堀兼村のことでしょう」というご注意がまったく正しい。単行本で
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の機会に書くとする。ただ同日、小雨の中を、観心寺、赤坂、水分、楠木氏夫人の遺蹟など、多大な労をとって下すった
寸暇、あいにくな小雨を見つつも、むりに出かけて、観心寺、水分神社、楠妣庵などを中心に、あの附近を一日じゅう、濡れ
の豊田武氏、杉本画伯、社の数氏に加え、観心寺の下で待ってくれた永島住職や小柴河内長野市長、ほか土地の人々も入れ
刀に刻まれたらしい史証もあるとか。で、観心寺には、檜ノ尾山の山号もある。
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が、南北朝時代の、ここと鎌倉、ここと京都、九州。その遥けさを考えると、馬の旅でも、千里の感がしのばれる
では、正成の金剛山、大塔ノ宮の吉野落ち、また九州における菊池武時の挙兵など、八荒の動乱から、足利高氏と新田義貞の
二十五日 九州探題北条英時戦死、長門探題降伏。
尊氏が九州から捲き返して「湊川帖」の湊川決戦となるまえに、正成の心境と立場
の期間は、わずか二タ月足らずだった。どうしてそう早く九州が平定されたのか。従来の史家の筆も戦記の類も、なぜ
年号の「康永元年」は、尊氏が九州から北上して、湊川に勝ち、室町幕府の緒を開いた――それから
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には、ぜひ一遊すべきである」と、先ごろ、出雲大社の千家尊宣氏からも、おすすめの一書をうけてはいるが、今のところ
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ちッとも注意されなかった。だが覚一は後年、明石に住んで“明石ノ検校”といわれ、後醍醐、光厳、後村上、光明の
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に立ちうれば、私の文学的想像の野も、千早、金剛、湊川だけのものではなくなって来る。
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てゆくしかない想いをやむなくするのである。さしずめ読者は長江の乗客であろうか。なんとも同舟のご辛抱こそ感謝にたえない。(
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とすれば、尊氏は、東国の足利の生れでなく、丹波の梅迫で生れたわけになる。
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に近づいたので、急に執筆上の必要からも、神戸市を中心に綾部から丹波の山間などにわたる一巡を思い立ったわけだった。
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が、すでに征夷大将軍尊氏の母であり、尊氏の手で天龍寺や等持院も創建されていた。おそらく都の葬式は盛儀を極めた
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南禅寺の龍村家の庭を拝見、その足で初子の営む奥山へ行く。先に諸方へ電話したり、記者を走らせて、手配を尽し
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中心に、山陽山陰へ出かけたい。舞鶴市から約十六キロ、綾部との中間に、いまでも上杉という地名がある。尊氏の生母清子、
で、急に執筆上の必要からも、神戸市を中心に綾部から丹波の山間などにわたる一巡を思い立ったわけだった。
――千代川、薗部、観音峠――須知町、山家、綾部――そして舞鶴線に沿って、梅迫、上杉
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一ト朝、八十余歳のN老人に早朝叩き起されて叡山へ登ってみた。頂まで観光道路ができてから叡山のスケールは全く一変
叡山へ登ってみた。頂まで観光道路ができてから叡山のスケールは全く一変の観がある。
叡山だけの観光バスが終日、雲のごとく上下している景観をみても、
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て先を急ぐ。帰路を新田義貞の旧山河に向け、桐生、太田などを一巡して、夜おそく東京着。カゼ気味の杉本健吉氏に
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が、南北朝時代の、ここと鎌倉、ここと京都、九州。その遥けさを考えると、馬の旅でも、
近く舞台は鎌倉に移る。執筆前に、いちど鎌倉史蹟歩きを約していたが、風邪
燈台下暗しで、鎌倉は私も小学生頃から知悉しているわけだが、さて、書くとなって
先ごろ、鎌倉を半日歩いた。杉本画伯は国画会の審査日で行けず、鎌倉在住の
歩いた。杉本画伯は国画会の審査日で行けず、鎌倉在住のY氏や社の学芸子、ほか二、三人が同行してくれ
鎌倉では、杉本寺にのぼり、東慶寺では偶然、ささき・ふさ女史の苔
だ。アラビヤ石油を掘る楠氏の一孫と、しずかに鎌倉に住む吉田大納言の裔と、そして現実の近代日本と、こう照合して
武蔵野ニ破ル。――以後十五、十六、十七日、鎌倉攻勢ススム。
二十一日 新田義貞、稲村ヶ崎ヨリ鎌倉ノ府内ヘ突入。
、千種、赤松ラ挙ゲテ車駕ヲ奉迎ス。コノ日、鎌倉陥落ノ報到ル。
たとえば、高氏が鎌倉に残してきた妻の登子や幼子たちの未解決な運命などもこれからの
月は旧暦で、また元弘三年は閏年だったから、鎌倉滅亡の兵燹は七月の季感にあったと思えばいい。まったく炎暑の陣
もうずいぶん前だが、鎌倉の大町附近から数百体の人骨が発掘され、東大研究班の調査などで
当時、出家して高野山にいた工藤新左衛門は、後日、鎌倉にたたずんで“――ふるさとの昔を見ずば元よりの、草の原と
それと私は鎌倉に遊ぶと思うのであるが、もし鎌倉が北条氏滅亡のさいに、あんな
それと私は鎌倉に遊ぶと思うのであるが、もし鎌倉が北条氏滅亡のさいに、あんなにまで徹底的な兵燹にあっていなかったら
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先ごろ河内紀行から帰った直後、三重県上野市の久保文雄氏から天来の一信をいただいた。氏の郷土史報告によると、
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一見をのぞんでいた菅原通済氏所蔵の足利尊氏の「清水寺願文」である。逆賊尊氏という汚名と対比して、行った人は
天皇をわが手で擁立した得意絶頂のとき、彼が清水寺へ納めた願文なのである。こんなにまで愛していた弟を彼は
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いわゆる浜ッ子だが、このコースの変化にはおどろいた。横浜は昨今、開港百年祭の準備で、終戦後初めてといっていい明るさ
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系の族党は、近江本国から武蔵、相模、三河、出雲、備後にまで分布されていた点も、高氏の足利党などより
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には京都へ着けるはずだった。ところが東海道は、わけて濃尾平野の街道ときては、いまやここも団地とダンプカーと新工場建設などの花ざかり
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いま詳しくは述べえないが、久保氏の手がけた伊賀の上島家文書中の能面覚エやら観世系図によると、観世流の始祖
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山(今、両崖山)かと考えられる。本城つまり本庄、足利政所の転訛ではなかろうか。
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と、永島住職が指さす。水は見えないが、崖下は金剛山の西麓からくる石見川である。奥からは、良質な檜材が出る。鎌倉時代
久子の生家の址を見て通る。この日、奥の金剛山は、雲煙につつまれ、赤坂城の址には、蜜柑畑のみどりが濃い。
は、ぜひ史蹟を踏ンでみたかったし、また、金剛山から赤坂辺の再遊も期しながら、つい旧年中は旅行出来ずにしまった。
次の「千早帖」では、正成の金剛山、大塔ノ宮の吉野落ち、また九州における菊池武時の挙兵など、八荒の
同日頃 金剛山ノ寄手数万、千早ヲ解キ奈良ヘ敗走ス。
ノ駅」にも立ってみたい。また、もいちど金剛山の麓に立って、正成の当年のこころを現代から手繰りながら、じっくり、土の香
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三十日 後醍醐ノ車駕、兵庫ニ到着。
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はさすが卓抜しているが、それにしてさえ骨子は鰐淵寺所蔵の宸筆文書一通のほかにさしての取りえもない。
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通る。この日、奥の金剛山は、雲煙につつまれ、赤坂城の址には、蜜柑畑のみどりが濃い。正成の屋敷址は、いまの
笠置落ちや赤坂城の殺伐な筆に飽いたので、「群雀帖」の初めに、兼好
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十二日 義貞、鎌倉軍ヲ武蔵野ニ破ル。――以後十五、十六、十七日、鎌倉攻勢ススム。
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である。東京及び鎌倉人は、かえって、奈良、京都、阪神などのほうが詳しいようだ。(三三・四・二)
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、老ノ坂隧道――丹波篠村――千代川、薗部、観音峠――須知町、山家、綾部――そして舞鶴線に沿って、梅迫、上杉
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は椿姫の観衆の中にいた。一場の歌劇にもウィーンいらいの伝統がある。居ながら本場物のイタリア歌劇団を見られるなども今日の
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いつもの東海道コースをかえて、本牧から磯子、富岡、金沢、朝比奈越えの道をえらぶ。私はハマ生れのいわゆる浜ッ子だが
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、ひとつ湊川近傍を中心に、山陽山陰へ出かけたい。舞鶴市から約十六キロ、綾部との中間に、いまでも上杉という地名がある
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書くとする。ただ同日、小雨の中を、観心寺、赤坂、水分、楠木氏夫人の遺蹟など、多大な労をとって下すった郷土の
黒いなと思ったことがある。煤煙のせいであろう。赤坂へ越して来たら、赤坂の雀はまだ少しはきりょうがいい。奥多摩を考え
ある。煤煙のせいであろう。赤坂へ越して来たら、赤坂の雀はまだ少しはきりょうがいい。奥多摩を考えたら、奥多摩の雀はほんと
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、後醍醐の輦輿が通った姫路、杉坂、津山などの中国地方は、以前、宮本武蔵を書いていたころ、英田川を中心に、かなり
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て来たら、赤坂の雀はまだ少しはきりょうがいい。奥多摩を考えたら、奥多摩の雀はほんとの雀色をしていた。
の雀はまだ少しはきりょうがいい。奥多摩を考えたら、奥多摩の雀はほんとの雀色をしていた。
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先ごろ河内紀行から帰った直後、三重県上野市の久保文雄氏から天来の一信をいただいた。氏の郷土史報告によると
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が、南北朝時代の、ここと鎌倉、ここと京都、九州。その遥けさを考えると、馬の旅でも、千里の感
てくれた足利史談会の須永弘氏は、高氏の京都出生説をのべていたが、それとて確証はないのである。が
一例である。東京及び鎌倉人は、かえって、奈良、京都、阪神などのほうが詳しいようだ。(三三・四・二)
加え、社の学芸子などあわせて、四、五人で京都に降りる。
下車早々、Y京都支局長から「京大の教授に、足利尊氏の末孫という人がおられ
その晩年には、京都高倉綾小路に“清聚庵”という盲人組織の職屋敷をおいて、それ
載っていない。いまの都会とちがって、南北朝時代の京都などには、京雀ともいうほど朝夕わんさと雀が囀ッていたろうし
寸閑、知人の媒酌で京都へ行ったが、その一ト朝、八十余歳のN老人に早朝叩き起さ
、岐阜、大垣、関ヶ原と、車二台の人数で、京都までゆくことにした。
スケジュールによれば、これでらくに夕方には京都へ着けるはずだった。ところが東海道は、わけて濃尾平野の街道ときては
“道誉の肖像画”を、この日、私たちのため、わざわざ京都からとりよせておいてくれた住持や顕彰会の人々の御好意にまず感謝
だ所だが、元より昔の宏大さはない。平常は京都博物館においてある“道誉の肖像画”を、この日、私たちのため、
、昼狐の悪戯をおかしがったが、しかし、おかげで京都着は、すっかり晩になってしまった。
翌十八日、快晴。京都柊家を朝の九時発。
K氏は前夜のうちに名古屋へ帰った。京都支局長のA氏が代って参加する。前日の空腹にこりたので
のだ。日本横断ぐらいな距離がある。これを一日で京都から往って復って来るのだからたいへんでないことはない。
だけだった。――が歴史的には、ここの地形と京都の人煙との間には、いつも一ト重の山霞を引いて、
略す。――どこかの、うららかな山火事をあとに一路京都へ――夜七時ごろ帰着。――晩はおそめに行く。この
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、よい一例である。東京及び鎌倉人は、かえって、奈良、京都、阪神などのほうが詳しいようだ。(三三・四・二)
人を、真に象徴しているものかも知れない。奈良街道には、有名な井出ノ山吹があるし、ここの水分川やほか
、俊基の潜行は、私の作為ではなく、天皇が奈良や叡山へ、政治的な行幸をこころみている間に、彼が勅旨をおび
同日頃 金剛山ノ寄手数万、千早ヲ解キ奈良ヘ敗走ス。
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いつもの東海道コースをかえて、本牧から磯子、富岡、金沢、朝比奈越えの道をえらぶ。私はハマ生れのいわゆる浜ッ子だが、
途上、どこより先に、まず金沢文庫を訪れて、関靖先生に十年ぶりでお目にかかる。
太平記を見直すためには、金沢文庫はその宝庫のようなものである。惜しいが、再訪を約して、
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幕末ごろ、熊本の細川藩から、当時十五、六歳の細川護美氏というおん曹司が
こんな由緒つきの小藩へ、熊本の大藩から養子入りした年少の護美氏が、辛抱出来なかったのは
護美氏は、まだ十六、七の若殿なので、おそらく熊本の自藩へ一目散のつもりだったに違いない。だが途々、草鞋を
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足利家へは、その後で、水戸家から烈公の十一番目の一子が養子に来て、これは落着いた
しかし、国粋主義の水戸藩が、南朝の逆臣足利氏の家系と、縁組みするなどとは、ちと
もあるまいから、断絶になる。そんな時には、必ず水戸家の男子一名を遣るがよい、と」
も、あれからですが、その編纂を督した水戸光圀(水戸黄門)も後では少々尊氏に気の毒だと考えたのか、こう遺言
られたのも、あれからですが、その編纂を督した水戸光圀(水戸黄門)も後では少々尊氏に気の毒だと考えたのか
も残ってはいませんがね、私の家にも水戸家にも、こんな言い伝えが昔からある。例の“大日本史”ですネ
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建水分神社の宮司岡山氏が、私たちのため、雨傘を翳し添えて、石階数百段を木履で
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中野氏の家系は、鎌倉執権代の長崎高資の裔とか。山口県での毛利氏研究には専門家以上の造詣
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杉本健吉さんと落ち合い、中部本社のKさんも加えて、岐阜、大垣、関ヶ原と、車二台の人数で、京都までゆくことにし
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早朝、神戸の川辺賢武氏、わざわざ宿まで来て下さる。雨をおかして、九
にあたる西国街道の二本松に陣したのである。いまは神戸市街のまン中であり、造船所やら埠頭であるが、現実の近代景を拭っ
は眺めがいい。摩耶、一ノ谷、高取山、須磨方面から神戸市街も一望にでき、素人戦略観にはじつに絶好なのである。
知人和田某が、湊川合戦の直後(約一ヵ月後)神戸へ出むき、同地で見聞して帰ったことの手紙で、足利方にも
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品川区に住んでいた頃、品川の雀は色が黒いなと思ったこと
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にと郵送してきたひともある。この一読者は中野区の某印刷所で鉛版工をしているという十八歳の少年だった。
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まず鑁阿寺を訪ねた。足利市の街中である。濠は旧態をのこしているが、古図に見える林泉
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でもありませんが、以前は、足利出身の子が東京へ徒弟にでも出ると、逆賊の土地ッ子かなんて、よくいじめられた
山河に向け、桐生、太田などを一巡して、夜おそく東京着。カゼ気味の杉本健吉氏には、ひどい目にあわせた日帰りの旅
知っていないことかという、よい一例である。東京及び鎌倉人は、かえって、奈良、京都、阪神などのほうが詳しいようだ
東京の家庭は、有馬邸の内で、作家の有馬頼義氏は義弟に当る
雀が目につき出してきた。考えてみると、この東京なども、戦後人口は急増したが、雀はすっかり減っている。
ナミもよし囀りもいい雀と思って選挙しても、東京でももっとも空気の悪い国会周辺に遊ぶ議員雀となると、みんな変に
東京へ東京へ、若い人がよく出てきたがる。むりもない。スキヤ橋から銀座
東京へ東京へ、若い人がよく出てきたがる。むりもない。スキヤ橋
鶯やこの東京へ何をしに
おそらく終戦時の東京の一劃みたいな瓦礫の焦土を見たのだろう。一世紀半の鎌倉文化
。各地それぞれに異なる口碑が多いからである。中でも東京医大附属の堀口申作氏その他からご指摘をうけた第七八二回。
外へ出た科学物体がまだ金星へ飛翔中である。東京は今年まだ雪らしい雪を見ない。日曜は医者がいなくなる。ヴイルス
にしか見あたらないし、蝶々も余り飛んでいない。(東京近郊でも近年、蝶がめッきり減ッてしまったよし)――とにかくいまは
山間部落で、いわば、山村の無知な民だが、もし東京都民でもあったら、あれを一日でも黙ってはおくまい。――
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君が「ここの峠は、今ちゃん(日出海氏)が銀座から深夜帰る途中、きっと車から降りて小便する所です」と名所案内みたい
人がよく出てきたがる。むりもない。スキヤ橋から銀座へかけての夜景など、この大都会は色キチガイのようである。そんな夕
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品川区に住んでいた頃、品川の雀は色が黒いなと思ったことがある。煤煙のせいであろう
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説が文部省をうごかし、帝の配所地は、島後の国分寺であると変更されて、従来の島前は、その史実性や指定
葦平氏なども昨年隠岐へ一遊のさいは、だいぶその「国分寺か、黒木ノ御所か」を島では聞かされたことらしい。私も
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のようである。そんな夕も万を超える勤労者大衆が、日比谷で反政府のどよめきをあげ、警視庁の黒いトラックがお濠ばたに列
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同日 新田義貞、東国上野ニ旗ヲ上ゲル。
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二十一日 新田義貞、稲村ヶ崎ヨリ鎌倉ノ府内ヘ突入。
草木染の山崎斌氏から手紙をもらった。稲村ヶ崎で義貞の龍神献剣のことなどは捨てて、牡丹の凋落に、高時
第四巻(明治三十五年号)に大森金五郎博士の“稲村ヶ崎渡渉記”が三回にわたって載っている。
、太平記所載の大潮に当る日を期し、二度も稲村ヶ崎の海中徒渉をこころみているのであった。一文を書くにもそう