上杉謙信 / 吉川英治

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地名一覧

浜松城

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信玄の病気は、浜松城を包囲して、いよいよ、三河にまで働きかけていた軍旅のうちに起った

甲州

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小田原一城も、容易に陥落しなかった。理由は、逸早く甲州から信玄の有力な部隊や参謀が城内に入っていて、氏康に協力し

「なおなお兵力も軍需も、いくらでも甲州より後詰申さんとのお館の仰せであれば、飽くまで、この要害に拠っ

そのころ、甲州の精鋭が、或いは隊伍し、或いは分散して、北へ北へと動いて

てである。これは謙信が名づけた綽名ではない。甲州の足長どのとは誰もいうのだ。その外交ぶり、その疾駆ぶり、あの

を焼払い、石垣も城壁も、跡かたもなく打壊して、はや甲州へ退去したとの事です。城中のお味方は全滅をこうむりましたもの

ないはず、彼は和睦のお使いとして、ひそかに甲州へ赴いている」

「では、斎藤下野について、黒川大隅も甲州へ行ったというのか」

て、老臣衆が相計って、極秘裡にお使者を甲州へ遣ったものらしい」

「なぜ、甲州へ向って、越後から使いを立てねばならぬか」

「積年の敵国甲州、不信極まる信玄に対してこの際、使者を送って、和を乞うなど、

一決した御方針にちがいなかろう。――さすれば、甲州へ使者を送るも、和議を求めるも、お館のお旨ではないか

「見たまえ。その甲州へは、選りに選って、斎藤下野という者を遣ってある。藩中人

と、控えさせて、甲州の二臣は、わざと下野へ雑談をしかけた。

国元においてさえ、あまり薫しくないものである。まして甲州の歴々は、一見してみなあきれた顔であった。こんな見ッともない

、仰せの通り、海ばかり帯びて、至って小国です。当甲州は、強大無比と聞いていますが、たとえばどれほどな大きさでしょうか」

馬千疋が負うほどの荷は積みます。してみると甲州は、存外な小国とみえますな」

「おそらく、お館のさしずではなく、出先にある甲州の将士が、無断の乱暴と存ぜられますが、あの一儀は、実に

「ゆめ。甲州の御大将などから、お賞めにあずかりたくはありません。今日はまず御

(甲州の足長どの)

行かしゃれ、やがて宿場の屋根が見えよう。そしたらそこで甲州のどこへ行くとなと詳しく道を問うたがいい。くれぐれも日の暮れ

「うーむ、あれは甲州の初鹿野伝右衛門という話せるさむらいだ。――何しにきたのか」

「これは、甲州の臣、初鹿野伝右衛門です。主君信玄公のお旨を承って、謙信公へ

けれど邸内の者に渡しただけで、その場から山越えで甲州を去ってしまったのである。門の内まで入れば、立ちどころに縄目

宇佐美、柿崎、直江、甘糟だといわれているし、甲州の四臣として有名なものには、馬場、内藤、小畑、高坂が

山本帯刀の実兄は、甲州の謀将、山本勘介入道道鬼だということが、たれいうとなく知れわたって

兄弟のいる空へ帰りかけた。だが、惜しいかなまだ甲州の地を踏まぬうちに、ここらあたりでまたはぐれたらしい。こんどは真

「また、当信州は、すでにあらまし甲州の御勢力下にあるものを、その信州へ、深く拠陣を突出して

三間柄、二間半などという長槍を林のごとく持つ甲州自慢の中堅で、いわゆる騎馬精鋭中の精鋭は、多くこの組にあって、

暗いのと、霧のために、このときまだ、越後、甲州、両軍とも気づかなかったが、すぐ前方の八幡原には、すでに武田の大

、お父上様ではございませんか。あなた様は甲州のお旗本、初鹿野伝右衛門様でございましょうが」

、善光寺に詣でた途中、にわかに厳しいおいいつけをうけ、甲州の御為じゃ、主君への忠義じゃ、汝を捨てる、越後へ拾われて

「序戦の辱を雪がねば、生きて甲州の人々にまみえる面はない」

「甲州の一族大将は、枕をならべて討死したが、それに反して、お

らを解いて国許へ帰しつかわす故、春日山に囚えておる甲州の家人共をも、無事に解いて放されい。と、つまり敵人と味方

「彼は甲州の士」

馬少なく、産業もふるわない北国から起って、謙信が、甲州の強大武田家と、以来、殆ど年々といってよいほど、戦雲を曳いて

そうとわかると、連年、甲州との合戦が、一村上義清のために起ったものと考えていたこと

気宇をあらわしたものがある。斎藤下野、黒川大隅などの甲州に捕われていた使者の一行が、信玄の寛度によって、無事、

度を示したからとて、それは正当に使者として甲州へ赴いたもの。こちらの放したのは、すべて始末のわるい敵の隠密。

また謙信の度量にも惧れをなして、這々のていで甲州へ帰り去ったということであった。

「甲州の足長どの(信玄のこと)には、老来いよいよお足が伸びてゆくふう

永禄十一年から元亀元年にわたるあいだ、この長い年月、甲州には塩の無い生活が始まっていた。国中、塩攻めになった

甲州の百姓は生色をとり回した。町々はどよめいた。商賈は眼の色を

の蔑みを求めるだけだ。死後一朝にして覆るような甲州であったら、その柱であった信玄の死も惜しむには足らん。しかし

川中島

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、左へ指せば、野尻は遠くない。さらに長駆して川中島を突破し、敵の一拠点、海津を抜き、附近を席捲し、少なくも

会う先は、犀、千曲の流水れを遠からず、川中島のあたりと知れ。十六日の夕までには、謙信はかならずそこに着陣せ

川中島という名は古い。もちろん永禄以前からのものである。

平の一部に三角形のひろい干潟ができた。そこを「川中島」とも「八幡原」ともいうと古事記にはあるが、土着の人は

まいが、もし何ぞの御寸暇でもあったら、この川中島の界隈、遠からぬ百姓家に手当されておるかと察しられます。尋ねて

は、まったく方向を変えて、広瀬の渡しを越えて、川中島の平地に進出し、上杉軍が妻女山を降って、この方面へ崩れ立って

から出るにはかなりな時間を要したとみえ、目的の川中島のてまえ八幡原に着陣したのは、もう払暁に近い上刻(午前三時半)

川中島その日の緒戦は、上杉方の「車掛り」接触から始まったというもの

を払って、今暁渡った広瀬を越え、旗本のこらず川中島を去っていたので、主力よりも先に戦場を退いたわけでは

とも、完全に連絡をとった。そして、合流し、川中島の曠野から近村隈なく兵を派して、味方の死骸、負傷者、旗の折れまで

「川中島の初度の槍(明方より午前中の戦況)においては、正しく十中の

川中島の戦も果てたあと。

北海

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の苦悩は言語に絶しているらしい。――早々、わが北海の塩を、水陸より甲信地方へ転漕してつかわせ」

関東

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「関東のしめしを統べる管領たるわたくしに、その力がなく、四隣御多事のなかを

(至急、関東へ来援を乞う)

いわゆる這般の妙機を邪魔するだけだ。……ここ暫く関東の遠征から戻って来たばかり、またすぐ戦陣には赴きたくない、という

六年には、佐野城を救うため、関東へ出征し、また翌七年には、ふたたび川中島へ陣した。

甘利山

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夜明けのころには、完全に、斎藤下野の一行を、甘利山の上に封じ込めてしまった。

駿府

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の距離は、小田原の北条より、甲斐の信玄より、また駿府の今川家よりも、どこよりも遠かった。けれど信玄も義元も氏康も、

太田三楽の戦評のほかに、徳川家康が後年駿府にいたとき、元、甲州の士だった横田甚右衛門とか、広瀬美濃など

春日山

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出馬して、辺境の乱を討伐した謙信は、居城春日山へ帰って、鎧を解くいとまもなく、またまた上州厩橋の管領上杉家から、

然諾、ただちに謙信は、春日山を雷発して、上州へ南下して来た。それが去年の八月。

「――橋流水不流――行こう、ひとまず、春日山のわが本城へ」

ともあれかくて遠征の越軍は、ひとまず春日山の城へはいった。謙信はかたく期すところがあるらしく、帰城の後の生活

も窺われなかった。七月もすぎ八月に近い。春日山の城は蝉しぐれにつつまれて再度出征の気ぶりもないのだ。もちろん城下の

には黒川大隅が添い、もう十日も前に、この春日山を出立しているという」

家の鬼小島弥太郎といえば、四隣にまで聞えている春日山の十虎のひとりである。十虎というのは、謙信麾下の旗本の

を解いて、上州から三国越えを経、遠く越後の春日山へひきあげてしまった。

、足ずりしていただけに、いよいよ八月十四日、春日山を雷発、信濃へ、信濃へ、と合言葉のように軍令が伝わるやいな

か、雌雄を一挙に決せんものと、出陣の際、春日山の武神にたいし奉りても、ひそかに、お誓い申して来たことであっ

いつの戦にでも、その出陣には、春日山の城中で軍神を斎き祭り、武諦の式を執り行って出ることは、上杉

―ところがその後、年を経て同じおひとを、春日山の御城下に見た。何とそれが、上杉家の臣、黒川大隅家

「山中暦日無しというが、去月十四日、春日山の城を立ってから今日でちょうど二十五日目、月もこえて、九月

以て、突如に越後領へ駆け入り、万が一にも御本城春日山を取巻きなどいたした場合には……」

の甲館へ乗入らんこといと易い業だ。――しかもわが春日山の留守には、なお二万の兵と、一年の矢玉は蓄えてある。

。防禦防戦、総じて、受身はとらず。謙信が望みは春日山を発してから寸毫も違えていない。すなわち飽くまで攻勢に――踏み込み、踏み込み

て行けと、わたくしの身は、世話人の手にかかり、春日山のお旗本黒川大隅さまの家へ奉公にやられました。……そしてお

「春日山に人ありといわれた祖母屋権之介とはわれぞ」

まだ謙信が二十四、五歳のころ、春日山の城下で、ひとりの老僧に会った。

は遅すぎる。こんな口碑が伝わったのは、この戦後、春日山へ帰るとすぐ、和田喜兵衛が変死したところから起ったものと思われる。

春日山へ総引揚げの後も、謙信以下、上杉方の家中はみな、

。――お身らを解いて国許へ帰しつかわす故、春日山に囚えておる甲州の家人共をも、無事に解いて放されい。と、

春日山の城下は一しきり人と人とが寄りあえば、そうした噂にもちきっ

もちろんこの日は、春日山の二十四将以下、家中悉く参列し、また身分のひくい足軽の遺家族といえ

国中に監禁している甲州方の隠密数十名を、春日山の城下に寄せ、

「もういかん。二度と春日山の城下へは入りこめない。三日のあいだ、白昼、あのように諸所を歩かさ

春日山の謙信からである。なお信玄は多分な疑惑をもちながら、その書簡を披い

に迎え、三月富山附近の攻略を終り、四月、春日山の城へ帰って来ると、まもなく、

小田原城

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悠々、彼は小田原城の攻囲を解いて、上州から三国越えを経、遠く越後の春日山へ

上杉神社

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など、後々まで遺族や家臣の涙をそそった。今に上杉神社に遺っている日常の酒盃などもおそろしく大杯である。肴などに好みはなく

犀川

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、すでに十五日の午だった。あすの夕刻までに、犀川、千曲川のあたりまで行き着くには、不眠不休の行軍をつづけなければならない

八月十六日、犀川、千曲川を抱いたひろい善光寺平の夜は、昼の残暑を一掃して

安きここちもござるまい。こんな敵地ふかく凸出して、千曲、犀川の二大河を股ぎ、ほとんど孤塁にひとしいこの山に拠って、いったい如何なる戦

、もういちど夜暁の下に大観してみい。犀川の広さ、千曲川の長さ、ここは敵地ながら、ここの眺めはいつも

犀川、千曲川の二流を抱いている広茫な地域の彼方に、謙信の拠っ

犀川、千曲川の二つの縦横な奔流に囲まれて、善光寺平の一部に

ておくが、今日、ここに御辺と酌み交わして、明日犀川、千曲の流れの畔で、御辺と兵馬のあいだにまみえようとも、初鹿野伝右衛門

髻山の砦よりも、この戦場の地に近い善光寺と犀川の中間にあるのだから、大いにそこは恃むべき拠点であるにもかかわらず

天候は定まらないとみえて、真下の千曲川も彼方の犀川も、甚だしく水かさが増したかに見える。

ここから見る千曲、犀川の上流、約一里弱の彼方に海津の城はある。山また山の

行手に、犀川の水音、また丹波島の木立らしい影。

「小荷駄、大荷駄をのぞき、先鋒隊より順次、犀川を左に見て、東――八幡原のほうへ向って徐々迂回前進せい」

「長い長い縦隊をもって北へ北へ進路をとり、犀川の方へ向っております」

重にも幾重にも、分厚い縦隊を押迫め、犀川へ犀川へと、こなたを傍目に見捨てて赴く態に見えますものの、実

で、濃霧を幸いに、全軍の方向を、犀川へ向け、帰国の引揚げをするかの如く見せて、絶え間なく兵を歩ませ

してその膜の薄いところへかかると、川中島いちめんから、犀川千曲はいうまでもなく、遠い妙高、黒姫の連山にいたるまで、明るくて

犀川の岸まで謙信は一気に馬を跳ばして来た。

支えかねおりますが、お味方こぞって、徐々と、この犀川、丹波島の此方へさして引揚げておりまする。――すでに、お館の

「すこしも早く、犀川をお渉りあって、無事の地へ、お退き遊ばされますように」

千曲は流れもゆるく、瀬も浅いが、犀川はそれに較べるとはるかに奔激していた。この川すじの水量が最も浅く

敵側としては、極力、その鋭鋒と包囲形を、犀川の下流へと向けているものと思われる。

ながら、前後に側面に、当たる敵を討って、堂々、犀川まで引いて来た。

犀川の岸に、大旗を立てて、なお集まる味方を待っている甘糟近江守は

たり、もうひとつの原因は、丹波島の下流にあたる犀川の深い流域へ、向う見ずに駆けこんで、溺れ流されたり、矢に射

一方、犀川まで退いて、残兵を寄せていた甘糟近江守とも、完全に連絡を

もちろん主君の安否については、犀川の上流で殿軍したという千坂内膳、芋川平太夫、その他の旗本たちの

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に信玄、ここに謙信、相模に北条、そして駿遠の堺に、今川氏の一朝に瓦滅するなどあって、今や日本のうごきは、

大江山

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ていたためでもあろうが、越後国上郷は、むかし大江山の酒顛童子が海から上陸って来たところだという伝説があるので

八ヶ岳

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鳳来ヶ嶽と、山また山ばかり。それを避けて、八ヶ岳のふもとを、真っすぐに、一条の早道はあるが、これは信玄が、度々

は壮観にちがいなかった。八月十九日の朝すでに、八ヶ岳のふもとを、大門峠のほうへ向って、士馬精鋭の激流は急ぎに

旭山

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また旭山の一城は、髻山の砦よりも、この戦場の地に近い善光寺と

野田城

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で、いろいろ異説を生じ、諸国から懐疑されたが、野田城の囲みを解いて、急遽、甲府へ帰って来る途中、いよいよ重態に堕ちて

越後国

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越後国上郷の生れで、牛飼いの子だという。彼の十五、六歳のとき

荒川

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ここには、越後の直江、安田、荒川の諸隊が駆け向う。

小森には甘糟があり、こなたにある直江大和、安田、荒川などの隊も、ひとつにかたまって引揚げてまいろう」

八幡

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八幡の森の梢に、物見に登っていた者たちは、こう大声で下に

春日山城

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、下野を初め、五、六名もおるとあれば、春日山城には、まだ何十家も、同じ流れのものがおりましょう」

五、六名の衆にも頒け、帰国ののちは、春日山城にあるほかの衆にもいただかせたく存じます。……願わくばどうか、

。いや、その場だけではなく、さしもごうごうと喧しかった春日山城の内外をつつむ悲憤の声も、屈辱のさけびも、以来、急に鳴りを

そして再出征の布令はもちろん軍備の気ぶりも見えなかった。春日山城を中心とする諸所の支城への往来も緩慢だし、村々の秋祭は

春日山城のお濠と、大手との道角に、この附近の二之木戸三之木戸など

途中の食中りか何かであろう。春日山城へ辿りつくと、喜兵衛はひどく吐瀉をして死んだ。謙信が、

鎌倉

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の郷は、建武二年、時の朝賊足利尊氏を鎌倉に討つべく新田義貞とその一族が天兵たるの忠誠を誓って旗上げしたところ

へ使いにさし向けられた者ほどある。上杉どのの祖先、鎌倉の権五郎景政も、鳥海弥三郎の矢に片目を奪われ、しかも武名かくれもなかっ

富山城

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去年、越中へ出征したのも、富山城の神保一族がうるさく国境を侵すので一揉みにふみ潰すべく出馬したもの

妙高

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いた秋の日が、午頃から曇り出して来た。妙高も黒姫も遠い山はみな霧にかくれた。ここ数日来、高原地方の

能登

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能登遠征のときの

雲峰寺

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「この舌長奴を、雲峰寺の堂衆にあずけ、信玄が凱旋の後まで、慥と、穴倉へでも

大坂城

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このことは、ずっと後に、大坂城中にあった木村重成のこととされて、重成の為人を知る逸事の

甲信地方

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「このたびの出征に、甲信地方の領民の生活を聞き及ぶに、うわさ以上の塩切れに、百姓共の苦悩は

いるらしい。――早々、わが北海の塩を、水陸より甲信地方へ転漕してつかわせ」

房総

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が去年の八月。ここ厩橋城を本拠として、房総の小国を糾合し、彼の小田原攻略の大策は、いまその半途にかかりつつ

整備はととのった。上毛、房総の兵をあわせた管領軍は、謙信の指揮のもとに、北条氏康の罪

善光寺

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ある。ちぎれ雲のように、八ヶ岳道、諏訪道などから、善光寺方面へさしてゆく人馬は、ことごとくそれだったが、この方面に監視を怠ら

「一軍は、野尻を越えて、善光寺へ出でよ。一軍は謙信みずから率いて、富倉峠をこえ、千曲の畔

と、善光寺の御堂があるという遥かな丘陵を指さした。

、黒川大隅家のやしきに召使となっておる。聞けば善光寺あたりからさる者の世話で、大隅家の一人娘の傅女として雇い入れた

対岸の敵陣からのお使者。偶然ではありません。善光寺如来のおひきあわせかも知れぬ。……御陣務、お暇はあるまい

は、髻山の砦よりも、この戦場の地に近い善光寺と犀川の中間にあるのだから、大いにそこは恃むべき拠点であるにも

お構えあれ。もし途中、敵軍の遮るあらば、切って善光寺へ出ずるものとお心得あってよかろう」

。まだ年も十四の頃、お父上に伴われ、善光寺に詣でた途中、にわかに厳しいおいいつけをうけ、甲州の御為じゃ、主君

善光寺の東南、裾花川を前にして、直江大和守は、大荷駄、小荷駄

下野

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「下野ではないか」

下野の風采というものは、何分にも、彼の国元においてさえ、あまり

「生きたい、生きのびたい。それはほんとだ。よくぞ下野の肚をいい中て召された。――だが、それがしが生きたい仔細

両国

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で、甲越両国の本能は、いつもこの地方に摩擦していた。奪りつ奪られつ、南へ生き出よ

ない。霹靂をうけたように、耳目をしびれさせたのも、両国間の和睦を、永久なものと、余りに過信していたからであった。

くした辞句に、顔あからめる如き信玄ではない。すでに両国が修好を締結するまえ数年に亙って、信越国境では三度も彼と激戦を交えて

天文、弘治以来、連年といってよいほどな両国間のたたかいに、親を討たれ、子を亡くし、或いは兄弟を失っているなど、

京都

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しかもここは、上州厩橋の城内である。京都からいえば、まだ多分に地方的野性のみを想像されやすい坂東平野の

京都と越後との距離は、小田原の北条より、甲斐の信玄より、また駿府

その頃、小島弥太郎は、謙信の上洛に扈従して、京都へのぼった途中から、ふいに姿をかくした。それは将来へ大志を

」には、上泉伊勢守とその弟子の虎伯とが、京都の帰途、三州牛久保の牧野家で、山本勘介と出合ったことが記載し

富山

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去年、越中へ出征したのも、富山城の神保一族がうるさく国境を侵すので一揉みにふみ潰すべく出馬し

出征して、天正元年の正月を陣中に迎え、三月富山附近の攻略を終り、四月、春日山の城へ帰って来ると、ま

甲府

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とも呼び、躑躅ヶ崎の館ともいう。武田信玄のいる甲府の本拠である。

斎藤下野なる者が、副使黒川大隅以下をつれて、この甲府へ入って来た。

に備えてあるのろし筒が、次々と轟煙を移して甲府の本城へと、

、見ているが、彼のほうも沈着だった。すでに甲府表へは、つなぎ烽火で報らせてある。軽々とうごくべきではない

愕きをうけて、国中、わけても、府館の中心地甲府は、上を下へと、混乱を極めていたその夜――十五

する。ばかな、これだけでは、いかに戦っても、甲府を攻め奪ることはできぬ。よせよせ」

その棒道なるものを、甲府を中心として、西へも東へも南へも、幾条も

とって、更級郡の塩崎あたりまで来た頃には、甲府発向のときより目立って兵力も増加していたし、将士の面も

信茂の不審は、あながち彼だけの不審ではなかった。甲府発向はあのように一刻をも争いながら、この広大な盆地に臨んでから

そして、いつのころからか、甲府にいた。もちろんそんな使命をおびている者としての入国はむずかしい

越後衆も甲府衆も、負けず劣らず、そうであった。

が、弥太郎がこの人物に傾倒しているいわれは、あながち甲府に潜んでいた時代に、彼のために救われたという一片

その為人を、甲府にいたころ、何かと聞いていて、

「甲府の中でも、武士の中の武士」

そのころ、甲府の町にまで伝わっていたはなしに、こんな噂もあった。

はなしは、これだけのことに過ぎないが、甲府の城下民は伝え聞くと、

「御主君には、往年、この弥太郎が、甲府の御城下にまぎれこんでいた時、あなたの為に、難なく国外へ出る

覚えなどはない。――ただ貴公が、姿を変えて甲府の鍛冶の家に火土捏ねをしていた姿は思い出される。けれど、

「それがしが甲府にいたころ、そのころ、まだ十歳にもなられぬ愛くるしい御息女

してみれば、この国境の遠くまで、事あるたびに甲府から出動して来ることは、並たいていな軍旅ではない。

こういう条件をもつ必要は、もちろん上杉方にもある。甲府からここまでの距離を較べれば上杉方の本国からここまでのほうが、

を倦ましめるに役立っているばかりです。御軍勢一万八千が、甲府表を打立つときは、そのまま一驀に、妻女山を揉みつぶし、一挙

に攻める。それすら、彼もし驟雨の如く来て、甲府の大兵いちどに後詰せば、味方必敗のかたちに墜ち入るべしと、さし控え

「いやいや、海津を攻めるほどならば、信玄が甲府を出ぬうちに攻める。それすら、彼もし驟雨の如く来て、

戦になろう。信玄越後へ攻入らば、謙信もまたたくまに甲府を席巻し、彼の甲館へ乗入らんこといと易い業だ。――しかも

「無いと記憶えておりまする。甲府の家を離れてもまだ四、五年の年月しか経ちません。家

取沙汰など、絶えず事細やかに、お文を以て甲府へ密報しておりました……。それなのに」

お預けの上、若君へ渡せとのおさしずは生きて甲府へ帰れとのおいいつけですか。憚りながら、余人にお命じ下さい。きょう

を、余人に命じるほどならそちにはいわん。疾く、甲府へもどれ」

、八幡原に踏みとどまって、堂々、勝鬨の式まで行って、甲府へひきあげた。

信玄がふと呼び立てた。甲府へ帰還してゆく行軍の途中である。

「そちひとりは、遅れて甲府に入るも、さしつかえない。伴うてゆるりと、凱旋せよ」

大軍は、彼ひとりを残して、先へ甲府へ還って行く。

になっておろうが。わしは鶴菜の身寄りのもの。甲府の伝右衛門が迎えに来た。そういうてくれぬか」

は乗って、いわゆる「信玄の棒道」を、初鹿野伝右衛門は甲府へ向ってゆく。

すると、甲府もやがて近い頃、彼方から来る一群の旅人があった。

らしい。その他は、先に越後の使者として、甲府に参り、合戦と共に捕えられていた越後衆。はて、どうし

「すでにわれらの手に捕われ、以後、甲府の牢獄におられたはずの御一行が、どうしてこれへ見えられ

ござるまい。というて、馘らんか、越後表にも、甲府の隠密や信玄公が一類の者、何十人か捕え置いてあれば

というもの。そこでわれら如き喰いつぶしを、いつまで、甲府の牢に留めおかれたところで、何の意味もござるまい。というて

互いに礼を施して、甲府へもどる者と、越後へ帰る一行とは、東西に道を交わし合った。

従って、農産も減退するし士気はふるわず、さしもの甲府も自滅のほかなかった。

「今ではありませんか。一挙、甲府を撃砕するのは」

直ちに三国山脈を越えてこれを撃退し、彼が、甲府へ退くと、自分も越後へ帰国した。

「絶好のときだ。甲府の一門宿将は、おそらく暗夜に燈火を失うたような滅失の底に沈ん

は足らん。しかし、三年間はむしろ前にも増して甲府は金城鉄壁であろう。三年先のことは、誰にもわからぬ」

されたが、野田城の囲みを解いて、急遽、甲府へ帰って来る途中、いよいよ重態に堕ちて、躑躅ヶ崎の甲館へもどったとき

長野

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たり、更に、上杉方が唯一の助け城と恃んでいる長野村近傍の小柴にある旭城の味方とのあいだを、真二つに

裾花川を辿って、長野、善光寺方面へ、大物見に行っていた山県三郎兵衛、原隼人などの

千曲

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出でよ。一軍は謙信みずから率いて、富倉峠をこえ、千曲の畔へ出るであろう」

「いずれから行くも、落会う先は、犀、千曲の流水れを遠からず、川中島のあたりと知れ。十六日の夕までに

なぜならば、謙信の率いてゆく旌旗は、犀、千曲の二大河をこえ、城から約一里ほど東南の妻女山に拠った

で、安きここちもござるまい。こんな敵地ふかく凸出して、千曲、犀川の二大河を股ぎ、ほとんど孤塁にひとしいこの山に拠って、

からの伝騎によれば、敵の謙信は、すでに犀、千曲の二川を越え、深く味方の領へ進出しているという。当然

千曲の水を見る日頃には、味方の海津城から聯絡して来る伝令の

は、あたかもわざと道草でもするように、犀川に沿い、千曲の急流を測り、山に拠ってみたり、丘を擁して兵馬を休め

れると、娘は急に眼をさまよわせて、犀、千曲、何れとも分らぬ川の流れを見まわしていたが、

ここら辺り川幅は広いが、千曲の一水を渡れば、すぐ向うの岸は、妻女山の裾といって

「然る上は、忌憚なくお伺い仕りますが、犀、千曲の二川を踏み跨いで、かくも深々と、御陣取の態は、

が、今日、ここに御辺と酌み交わして、明日犀川、千曲の流れの畔で、御辺と兵馬のあいだにまみえようとも、初鹿野伝右衛門が槍先

日傘を翳した使者舟は、ふたたび千曲の水を渡って、対岸へ帰った。

かと思われた。そして夜半ごろ、先鋒の一部はすでに千曲の支流、広瀬のあたりを渡渉していた。

ここから見る千曲、犀川の上流、約一里弱の彼方に海津の城はある。山

より数町先の上流、十二ヶ瀬を渡って、この千曲の北岸、小森附近に陣をとれ」

約一千の甘糟隊は、千曲の南岸を駆けて、十二ヶ瀬へ急いだ。

一戦も交えず国へ引揚げるはずはない。しかも夜前より千曲を渡りいまなお、この附近に夜を明かしてあるからには、ただの

てその膜の薄いところへかかると、川中島いちめんから、犀川千曲はいうまでもなく、遠い妙高、黒姫の連山にいたるまで、明るくて朧

されば……」と、謙信もそれを考えているらしい。千曲を渉って、甲軍の主力と、連絡した新手の敵軍に、そこの

千曲は流れもゆるく、瀬も浅いが、犀川はそれに較べるとはるかに奔激

行く手の彼方に、川が二筋見ゆるようだが、千曲の川筋ならば、ふたつあるわけはない。道をとりちがえたのでは

千曲の水の岐れが、淙々と近くを流れている。過ぐる日の大戦

上野

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永禄五年には、信玄が上野に乱入したので、謙信も上州沼田へ出馬した。

千曲川

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十五日の午だった。あすの夕刻までに、犀川、千曲川のあたりまで行き着くには、不眠不休の行軍をつづけなければならないだろう。

八月十六日、犀川、千曲川を抱いたひろい善光寺平の夜は、昼の残暑を一掃して、風

暁の下に大観してみい。犀川の広さ、千曲川の長さ、ここは敵地ながら、ここの眺めはいつも好きだ。わしも

千曲川の左岸をとって、更級郡の塩崎あたりまで来た頃には、甲府

犀川、千曲川の二流を抱いている広茫な地域の彼方に、謙信の拠っている

せい。ここを去って、雨宮の渡しまで降れ。――千曲川を前に、北の岸、雨宮の渡しをとって、各※、持場

犀川、千曲川の二つの縦横な奔流に囲まれて、善光寺平の一部に三角形の

の長い日傘を携えて、伝右衛門がやがて陣地を離れて、千曲川の岸まで来ると、ぱっと、日傘をひらいて、主人の頭上に翳し

懸けた小童とその主人と、わずかな部下を乗せて、千曲川の北岸から此方へ棹さしてきた。――迅い水流を切っては、

いま、千曲川をへだてて、雨宮の渡しにある武田の陣と、妻女山の上に

「仔細は存ぜぬ、しかし昨夕、千曲川の向う河原に、どこからともなく彷徨うて来た旅の女がい

立ち昇ってから程なく武田方の旌旗は徐々うごき出した。千曲川の上流へ向ってである。もとより妻女山の敵はこれを凝視して

その蜿蜒たる黒い流れは、千曲川の水幅よりも広く長いかと思われた。そして夜半ごろ、先鋒の

のように、平野に向っていた。その下を、千曲川が流れて、自然の大外濠を成している。

来、高原地方の天候は定まらないとみえて、真下の千曲川も彼方の犀川も、甚だしく水かさが増したかに見える。

「そうか。千曲川の河原の方にも」

ふくみ、馬は唇を縛し、月下、山をくだって、千曲川の渡渉にかかったころ、漸く、月は没していた。長柄の刃先

二十日ほど前の黄昏、鶴菜は千曲川の岸で弾に中って倒れ、居あわせた馬糧刈りの人々に担われて

見つけたとき、典厩は、千曲川のすぐそばまで、馬を打って退いていた。――届かぬと

「見えましたっ。十隊のお味方勢が、彼方、千曲川の下流からも、上流からも」

を討つの計を立てていたら、おそらく越軍の主力は千曲川に潰滅を遂げたにちがいない。それを八幡原に押出して、相手の軍

千曲川の彼方に、海津の城の白壁が見える。いまなお、甲州軍の一部

として、本城は落去、一族は離散、夫人は千曲川に身を投じて果てるなどという、世が静かなら有り得ない惨たる