新編忠臣蔵 / 吉川英治
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、江戸表からおよそ八十四五里の三河国幡豆郷横須賀村の領地を指して、変事と同時に、一気に急いで来たものであろう
が、御養生はどうであろうか。……折から、横須賀村の御菩提所、華蔵院には、御先祖法要のために、江戸表から夫人
ところに、彼の老いたる両親のいる実家がある。この横須賀村に古い代々の土着農で、二棟の大きな母屋や、茅葺門や、生
まだ十四歳のとんぼ頭でいた頃に、三河国横須賀村の草ふかい百姓家から拾い出されて、一人前の侍にまで育て上げられた恩義――
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土地にいた為に、遅ればせに馬で駈けつけてきた加東郡の郡奉行吉田忠左衛門が、汗まみれな額に埃をつけたまま、用部屋の入口
程度まで覗いているのは忠左衛門であったし、忠左衛門が加東郡の田舎代官だけの人物か否か、その奥行をかなり深く見ている者は
『ようなされた。――加東郡より浜方御城下と、途々に見かけ申した百姓町人の顔つきでも、真っ先に
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た。――赤穂の城下である。千種川である。御崎の磯である。
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ここは、赤穂城のうしろにある脇山の頂きだ。藩の煙硝庫があるので、見張人
いるのである。どれほど、金があるのだろうか。赤穂城を明け渡す折に、家老ひとりで、一万両をよそへ隠したという世間の
誓書を披いてみた。間違いなく、昨年の四月、赤穂城の昂奮の坩堝のうちで自分の書いたものである。もうその時捺した
の相談にでも乗ってもらえばよかったが、つい、赤穂城の席では武士道などをふり廻し、大野の面前で、下司根性の似而非武士
をずり退がって、両手を開きめに膝へ置いた。赤穂城の大広間で見た以来、彼のそうした厳粛な居ずまいを見ることは、
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『大阪表へお立退きになるんで、家財諸道具が荷梱で七十箇、箱
立って、途中、伊勢の大廟に参詣し、原は大阪に、大高は京都に、各※家を借りて住んでおる。――それ
に違いない。同じ役目を持って来ている者は、大阪、伏見、洛中洛外、奈良あたりまで亙って、およそ二十二、三名は上洛って
前で、ばったり、武林唯七に出会った。用事があって大阪から出て来たが、内蔵助の留守を知らずに、今その家を訪ね
大阪から京へ遡る三十石船は、夕凪の明るい川波を縒って、守口の船着き
十石船のなかであるのに、胴の間に席を占め、大阪の曾根崎あたりから連れて来たのか、五人の妓と、陰間の瀬川
原惣右衛門と、数右衛門とであった。先頃、大阪から出て来て、頻りと山科を訪い、祇園をたずね、同志の家を
、太宰春台の著書「三王外記」の評判をきいて、大阪の書肆からとりよせてみた。その一節に、こういう文字を見、ひとり現世
大阪の天満に、原惣右衛門をたずね、不破数右衛門に会い、中村勘助をたずね、潮田
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殿様も、長直公の御代の半までは、常陸の笠間城にいらっしゃいました。私たちの祖父良欽、曾祖父の良勝、みんな常陸から移って
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『今井町の浅野式部少輔様の御註文でございますが』
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内蔵助がこの頃、伏見の撞木町へ足を運ぶとか、島原へ遊びに通うているとかいう噂は、もう最近の事ではなく、
な。衣裳や刀のこしらえに派手ばかり競って浪華でも島原でも、豪奢な遊びといえば、大名のお留守居か、蔵役人か
、いや少々どころではない、まるで痴人の狂態でござる。島原、祇園、撞木町、足の向く儘、風のふく儘、湯水のように黄金
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花の愛宕山に、夕雲が紅かった。
風に送られてきた愛宕山の花か、そこら辺りの吉野桜か。源五の背にも、一片と
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『江戸では、江戸の春と、みな自慢でございますが、お国表の事を
『江戸では、江戸の春と、みな自慢でございますが、お国表の事をお思い遊ばすと
この経済破壊の起因は、わずか二人の人間のせいだと江戸の市民は暗黙に知っていた。口に云わないだけで、知っては
の護国寺詣りには、日傘行列と、蒔絵のおかごが江戸を縫い、警固の人馬と、迎賓の山門は、すべて人力ずくめ、金ずくめで
(ああ、江戸の繁昌は、えらいもの。元禄になってからは、日に月に、開け
もう鉄砲洲の藩邸を出て、早くも噂の伝わった江戸の町々の人目に見まもられながら、芝の田村右京太夫の邸へと、真っ暗
は、早駕よりも迅かった。この辺でも、今日江戸にあった事件をもう知っていた。
絶えず先へ先へと駈けているので、未曾有な江戸の事件は、疾風のように東海道へ伝わった。
駕籠のうちは、事変の直後、一番使者として江戸を立った早水藤左衛門と萱野三平が、駕籠の天井から晒布の吊手を下げ
『江戸の伝馬問屋を立ったのが、かれこれ、昼の八刻頃(二時)
十六日もまだ薄暗い未明の頃だった。――江戸を出てから約三十七、八時間後――急使の早駕は不眠不休の
程じゃ。その御恩徳が身にこたえている百姓が、江戸での大変を聞いたので、夜も明けぬうちから、氏神へ祈願に
そんな声が聞えた。城下は勿論、世評は挙げて、江戸で勃発した刃傷事件で持ち切っている。
し、野良犬の遠い声がいんいん喧しい。畜生保護令は、江戸だけではないので、全国どこの城下にも、お犬様の横行は
早打人足の口から、江戸の大変は、城下の町人たちの間へも、またたく間に伝わっていた
名をおく者は、すべてで三百余人であるから、江戸の常詰をのぞくと、約二百何十名かの頭数が、今朝の総登城の
着座すると、内蔵助から一同へ、江戸の急変について話があった。それから今暁着いた早打の使者が
つけ、二番早打が見えよう。――何分にも遠い江戸の空、待つよりほかに、知る術もないで』
江戸の驚きは、制度の震動であったが、ここの実相は、生活の戦慄
、粗衣粗食している武士というものの力である。江戸へ出れば勤番者だの、浅黄裏だのと、野暮の代名詞にされ
『江戸から御帰国でござったか』
をそろえている三人だった。共にこの三名は江戸で有名な当時の剣豪堀内源太左衛門の高足だった。わけても、安兵衛の刀に
、むしろ吉良家には過ぎ者といってよい程、これは江戸の剣客仲間に肩を竝べさせても群を抜いている。
(あの小僧、見どころがある。江戸へ連れて行きたいが)
と、二人はひそかに自負していた。まだ江戸には小林平八郎がいる。赤穂浪人がどう立ち廻ろうと、主人の側近を、
江戸はもう六月の暑さだった。品川宿から高輪へかかると、海の
『拙者も、実は赤穂の者だが、江戸に身寄りがおるので、国元からやって来たのだ。江戸に足を
身寄りがおるので、国元からやって来たのだ。江戸に足を入れるとすぐ、御主君の石碑にお会い申しあげるのも尽せぬ縁
『江戸でも、そう申しておるか』
『江戸へ帰ったと思う気持が――つい気のゆるみになったとみえる』
『江戸は、猶更、油断がならない筈だ』
れてもよろしい。むしろ、そう思わるることが、兵部が江戸へ来た使命とせねばならぬ……』
老人の意気はすさまじかった。元禄の江戸にもまだこんな古武士型が残っているかと思われるのである。左の
やれぬことがあるか。一夫奮い起てば万夫を起たしむ。江戸に何人の同志がおろうと、やるのは、貴公、奥田、高田郡兵衛、こう
『江戸と上方、手紙では埓があかん。いちど誰ぞ遣されればよい
安兵衛と奥田孫太夫の二人があった。この三名がいわば江戸に残っている旧藩士の在府組の牛耳を執っている者たちであり、
のほうにも、いろいろな異心者を出したように、江戸のほうでも、無造作に結束する者が結束されたわけでは決してない
江戸迄も、その明るさはつづいた。然し、江戸へ帰ってからの郡兵衛は、それ限り誰にも顔を見せなかった。
たという手紙。つづいて十一月二日頃には、江戸へ着く予定という道中からの先触れ。
明日は内蔵助が江戸に着く。今にして思えば、その内蔵助が容易に起たない心も、
平伏していた。この月の三日に出府して、江戸にいる旧藩士の人々と幾度か会合を重ねていた。勿論、堀部、
『放せば、江戸へもどって、有の儘に、兵部へ告げるだろう。此方に、復讐の意志
折に、早打駕の一番使者として、赤穂に江戸の第一報を齎したのは彼だった。それ以来、あまり健康の勝れない
になり、或は、復讐の実を挙げるまで、その儘、江戸へ留まることになるかもしれない話なので、三平は、いちど、
しかし、吉田、近松の二人が、やむなく、江戸へ発足してしまった後も、三平からは、なんの便りがない。いよいよ
元よりの大丈夫。岡野、小野寺のせがれも二心はござるまい。江戸には堀部父子、奥田孫太夫、田中貞四郎、倉橋伝助、これ等はたしかに同心
いても、それは分るし、波紋は遠くても、江戸の状態と、ちがわないものが、地方の諸所にも、結果している。
ましてや、彼は、江戸の中央にあってこそ、その職権や、時折の式典などを利用して、
(もし、自分が江戸に居たら)
見限りをつけているらしかった。内蔵助の乱行ぶりは、江戸の噂以上である。語るに足らない人間に、期待をもって、今日まで
、潮田又之丞の二人には、一応話してみたいと、江戸へ立つのを、一日のばして安兵衛はここに待っているのだった。
も、その信頼を裏切らなかったのに――近く内蔵助が江戸表へ下るという事になると、その同行を(まず、お見合せあるよう
訪ね、男山の八幡に父と共に詣でて、これも江戸へ先発している。
『どう洩れたものか、江戸の街にも、近頃は、赤穂浪人が多く入り込んでおるとか、内蔵助殿
綿密な工作と、その場合に遺漏のない準備とが、江戸表へ潜伏した赤穂旧藩士たちの隠れ家に於て、目に見えない程
があるとか称って、その度ごとに、江戸の同志が集まった。
、いくら巧妙に名を変え姿をやつしていても、江戸の事だ、五十幾名の同志が潜伏しているこの行動がいつまで世上
で――木村丈八も、ちょうど、江戸へもどって病床についたのを最後として、もう以前のような仕事
『旦那もお侍だろうが、此っ方も、江戸の町人だ。お邸へ対して済まねえと思えばこそ、いまだに、二
もらった交渉などから初まっていた。――だが、江戸でその人に出会おうなどとは、まったく想像していない事だった。
『江戸では、吉原なども、御見物なされましたか』
『江戸の上下の風俗を、何と御覧ぜられましたか』
て、忍び三絃をながす人生も河の中にまである。江戸座の俳句の運座は、夜毎にあった。茶道も流行りものだった。
図なのには持て余して、山科にいた頃も、江戸の石町へ移ってからも、二、三度連れて、父の所へ来
。赤穂からの船中で見た顔もある。つい先頃、江戸の町ですれちがった顔も――。
の御浪人様、とうとう、おやんなすったね。今日の江戸は、あなた方の噂で持ちきっていますぜ』
『江戸は何うしてこう野良犬が多いのだろう。犬のやつが吠えて仕方がない
うちに、年暮は迫って、何はあっても、江戸の町は、年の市、羽子板市、そして春を待つ支度に世間の物音は忙しない
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はずいぶんある。――彼方のぽっと明るく見える空は、堺町の芝居小屋か』
て吹くと、大石瀬左衛門は、真面目くさった顔をして、堺町の歌舞伎踊りを踊ってみせた。
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たなれど、折も折、ちょうどそこへ殿様から明日は愛宕神社へ御参拝というおふれが出ました。殿様御自身で、御祈願のすじ
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いうたわけ者だ。しかも、勅使登城の目前に不埓至極、但馬を呼べっ』
『言語道断な内匠頭の振舞、但馬、疾く糺明せい』
、内蔵助は、この冬を、炬燵に暮らしていた。但馬から呼びよせた妻のお陸や、吉千代や、大三郎もそこにいた。
『其許は、母が、離縁になって、但馬へ行くのを、悲しいとも何とも思わぬのか。――四人
ひかぬよう、お家へお入りなされ。……やれやれ、但馬への旅路もお辛かろうが、伏見、祇園通いも楽じゃござるまい。……
但馬の実家へ帰した妻のお陸――今年生れの大三郎――。又、
た。家財のうち、お陸や幼児に必要な物は但馬に送り、後は町医の寺井玄渓の手を経て、あらかたは売り払ってしまっ
大石主税も、すでに、その前、但馬にある母を訪ね、男山の八幡に父と共に詣でて、これも江戸
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呉服橋のお邸を引き払って、八月二十日迄に、本所の松坂町へお引越をせねばならぬのじゃ。どうしても、その
『嘘ばかり云っている。世間じゃあ、本所の松坂町へ、お屋敷替になるんだと云っていますぜ』
『今度、お引移りになる本所のお屋敷にも、かなり広い泉水があるそうですから、鶴も、それへ
……しかと、わからんが、もう移転の荷を、ぼつぼつ本所へ送っているのは事実だ。然し吉良父子が移った様子はまだないらしい
『嫌だって、お屋敷は、今日限り、本所の方へ、移ってしまうというんじゃねえか。今日を過ぎると、又
『では、本所のお邸の方から、同僚共を五名ほど選り抜いて連れて参りましょうか
本所二つ目の小間物屋善兵衛は、ついこの頃、紺暖簾をここに懸けたばかり
本所にお花客が多いから、いっそ小さい店でもと、前触れしていた
『上杉家の中屋敷――帰りも本所までも尾けて見届けたが、どうも、それは空駕籠であったらしい』
南八町堀の裏町に、つい二、三日前、本所から引っ越している一組がある。尾張浪人と称している片岡源五右衛門、貝賀弥左衛門
本所の相生町に店を持って、米屋五兵衛と名を変え、吉良の動静をさぐる
『おう……永代橋だ。やっと、本所の空が見えて来た』
にと、住職から申し附かって、こう二人で、これから本所の松坂町まで行く途中なのであった。
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まだ十四歳のとんぼ頭でいた頃に、三河国横須賀村の草ふかい百姓家から拾い出されて、一人前の侍にまで育て上げられた恩義
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『又、祇園か、撞木町へでも』
浮き出されている顔を数えるように見廻わした。――祇園で見た顔もある。赤穂からの船中で見た顔もある。つい先頃
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鎌倉へ着き、そこで吉田忠左衛門たちと落合って、こっそり、川崎在の平間村の農家まで来て、旅装を解いていた。
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れ。この上水井戸は、藩祖長直公が、常陸の笠間からお国替になった折に、領民のため、こうして城下の辻々に
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声もしない飢餓の群は、橋の下にも、浅草寺の裏にも、ゴミ捨て場のように、蠅をかぶっていた。当然、
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大阪の天満に、原惣右衛門をたずね、不破数右衛門に会い、中村勘助をたずね、潮田又之丞を
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国許の人々に、われ等何として面が立とう。赤穂藩としての面目も欠く。されば、武士として一命を賭しても、
『赤穂藩は、小なりと雖も、常州笠間以来、士を養うことここに三世、
心だの、瑤泉院様のお気もちだの、又、赤穂藩の大勢様が、どんな気がしてるかと口惜しくって、涙が出て、
な犬侍に名をいうのもけがれだ。俺はな、赤穂藩とは、何の縁故もない他藩の武士だが、余りといえば、腹
たかと心を打たれたからである。忠義は、赤穂藩だけのものではなかったと思った。
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『まいど、有難うぞんじます。二つ目の相生町の米屋で――』
なれど、不破数右衛門と寺坂吉右衛門の二人を伴い、先に相生町の前原の宅のほうへ行きおりました故、失礼をゆるされい』
安兵衛殿宅と、徳右衛門町の杉野十平次殿の隠れ家と、相生町の前原伊助殿の店と、こう三方の会合所へ向って、それぞれ出立
『云い居ったな。よし、それでは相生町の十平次の宅まで、供を申しつける』
本所の相生町に店を持って、米屋五兵衛と名を変え、吉良の動静をさぐるために
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。天満川の櫓音が静かに聞えて来るのである。道頓堀の芝居櫓から眠たげな太鼓もながれてくる。
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と、目付役の鈴木五右衛門が、大手門の上に、突っ立ちあがって、
それへ、筆太に、目付役たちが、黒々と書いて、大手門やその他の下馬下馬へ、掲げだしたので、漸く、群衆は静粛に
開かれた大手門の濠端には、もう正使の通路を守る兵の一隊が列を作りかけて
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にいうと、いま五代将軍の綱吉と、その生母の桂昌院が、何しろ非常な濫費家だった。いや、金の作用というものを知ら
戌年生れの、将軍綱吉が、隆光や、桂昌院の献言をいれて、世の人間たちへ発令した、畜生保護令――
何とか、三卿が、将軍家か、将軍家の母堂の桂昌院にでも、
済ました三卿は、今し方、席を移して、大奥の桂昌院と対談中の頃あいである。その忙しない寸閑を偸んでは、ここに
憂鬱な顔を、其処らにちらりと見せたきりで、桂昌院の御用部屋にも、姿がなかった。
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江戸城の帝鑑の間には、まだ朝の冷気が、清々とにおっていて、
、足軽の棒と、厳しい槍組の武士に囲まれて、江戸城の平河口から、日比谷御門、桜田の辻を通って、芝愛宕山下の
と云ってはくれたが、江戸城からここへ移る迄の間、幽室の壁も、密閉された駕籠も、
『お聞き及びでもござろうが、昨日巳の下刻、江戸城内に於て、浅野内匠頭事、主人吉良上野介へ刃傷に及ばれ、その
『御領主が、江戸城で、馬鹿者の刃にかかって、御重体だという噂が、わし等の
『去る十四日、江戸城に於かれて、殿様、御刃傷に及ばれました。あらましは、片岡源五右衛門
邸に於けるその時の処置ばかりではない。当日、江戸城内で、事件直後の紛々として一決しない評議の席でも、吉良
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いま越えて来た鷹取峠の上には、姫路藩の兵が、四百人ほど屯していて、戦時のように関を備え
相当な身分らしい物具を着けた、姫路藩の将が、
通って来たのだった。うしろで愉快そうに笑った姫路藩の将の声が、まだ耳に残っている。
『わしの甥が姫路藩本多様に御奉公している。その姫路藩にやはり吉田様の御親類が
の甥が姫路藩本多様に御奉公している。その姫路藩にやはり吉田様の御親類が仕えているので、深い懇意と云うでは
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持ち上げるように、真っ暗な嶮路を登って行く様は、この箱根山でも滅多にない非常事だった。えいや、えいやという汗の声が、谷間
翔けめぐる。それから幾刻も経たないうちに、こうして箱根山の深夜にあって、都会とは比べものにならない春の寒風が身に沁みて
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、原惣右衛門の二人が、江戸表を立って、途中、伊勢の大廟に参詣し、原は大阪に、大高は京都に、各※家
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『そうじゃろう。讃州丸亀の京極、阿波徳島の蜂須賀、姫路の本多、伊予の松平など、海には兵船を
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どおり、彼の身は上杉家に引取られて、遠く、米沢城の奥まったところへ死ぬまで匿まわれてしまうやも計り難いぞよ。そうなっ
はない。却って、上野介の身に急迫を感じさせて、米沢城の奥深くでも追いこんでしまうのが落ちではないか。――沁々そう感じ
――もう米沢城へ隠れたとも風聞するぞ。
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。讃州丸亀の京極、阿波徳島の蜂須賀、姫路の本多、伊予の松平など、海には兵船をつらね、国境には人数を繰出し、この赤穂
肥後の細川家、伊予の松平家、長門の毛利家、三河の水野家。
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『回向院へ、回向院へ』
が、与五郎は、長い土塀の角を左へ曲がって、回向院の大門の扉を烈しく叩いていた。
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駕は不眠不休のまま、三州額田郷藤川の宿場と、岡崎の城下の間にあたる松並木を、えいえいと、駈けつづけていた。
小豆坂を登りつめ、ふかい朝霧の中の岡崎の城を、夜明けの下に見出した時、まだ戸も開いてない茶店前
『然らば、宿役人をこれへ呼べ。或は、岡崎まで同行いたして、立会を乞うてもよい。何としても、一刻を
『お計らい、辱けない。はや見えている岡崎の城下、問屋場まで、徒歩で駈けても、仔細はござらぬ』
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になった。そして、内蔵助の杯へは注がないで、銚子の酒を自分の湯呑にあけて飲んでしまった。
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汐留橋――日比谷――仙石邸前――伊達家前――金杉橋――
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『御両所、近日のうちに、鎌倉へ行こうじゃないか』
いちど、遊山の態にして、江ノ島から鎌倉へゆき、鶴ヶ岡八幡宮の神前に、復讐連判の血誓を立てて、それ
来て長々と待っていることも解せない。その他、鎌倉の連判以来、彼はどうかしている。
先に、京都を立った大石内蔵助の一行は、鎌倉へ着き、そこで吉田忠左衛門たちと落合って、こっそり、川崎在の平間村の
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『そう云うな。今も云った通り、関東の常陸あたりから比べると、この赤穂などは、瀬戸内の風光と、天産と
。ですから父は、私を見ると、そちには、関東骨があるの、といつも笑います』
赤穂で生れたが、あの仁にしてからが、既に関東骨をそなえている。上方から西は天産に富み、風光はよし、文化も
た。わけても、安兵衛の刀に至っては藩地以上に関東で重視されている。風流子の多い江戸詰の中で、
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のなかであるのに、胴の間に席を占め、大阪の曾根崎あたりから連れて来たのか、五人の妓と、陰間の瀬川竹之丞と
、鞆の津では、港屋の花漆、浪華では曾根崎、伏見では笹屋の浮橋と、遊びあるき、酔い明かして、一日も遅く
のが、いま思えば、不覚不覚。みんな、その土産も曾根崎でとられてしもうた。――せめて、顔だけでも、見せてやらず
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名古屋から流行って来たので、名古屋音頭と初めは呼んだが、京には
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終った日である。報告をかねて、源吾は一人で、四条の梅林庵へ内蔵助を訪ねた。
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とうなった。浮橋はさだめしこの身を待ちこがれて居ろう。兵庫から、会う日を飛脚でいうてあるのに』
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十五日 上野寛永寺、芝増上寺、御参詣
『十五日は、両使、増上寺へ御参詣の日であるぞ。諸事、準備はよろしいか。明十三日、
朧夜を、一鞭あてて、増上寺の伊達家の宿坊へ行って、窺ってみると、何と、青畳の香
増上寺の本堂から、浅野家持ち場の宿坊は、またたく間に、鷹の羽の提灯で埋まっ
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程なく彼の船と、警固の艀とが、両国下の横堀へ入ると、そこの一つ目橋の上に、先刻の十一名が欄干に姿を並べ
両国を越えて、一つ目の角地の原までは行ったが、奥田老人が、そこで、
も、男世帯なので、晩飯はよく外へ喰べに出かけた。西両国の屋台だの、薬研堀あたりの茶飯屋などへ。
られる質なので、近頃は、毎日、この松坂町を中心に、両国から本所一帯を歩いて、路地の抜け道、空地、井戸のありか、いちいち自分
吉良の邸の外部――道幅、溝、隣家との関係、そのほか両国附近の広場、寺院などの測量にあたっていた吉田忠左衛門からも、
ることが恐かった。吉良家の塀の下を遠く通りこして、両国河岸から、大川の漫々とした水が眸にうつると、初めてわれに返った気がし
親しい間がらで、そんな遠慮がいるものか。ちょうど、両国まで行って足したい用事もあるし……』
ている大川の一部が雪よりも白く見えた。チラリと向う両国の灯が二つ三つまたたいている。
向う両国の亀田屋という茶屋だった。
両国筋の大通りへ出たのは、ちょうど、卯の刻(午前六時)頃である。まだ朝の
の登城日なので、両国橋を渡ることはわざと避けて、東両国の川岸筋を真っ直ぐにすすみ、一つ目橋の上にかかった。
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八年前に、松山城の城受取りの大命をうけて出向いたときには、自分もこういう小策
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か、さもなければ、勅使に礼を欠いた件で、京都へのぼる公儀の急使か。
殊に京都を横ぎる際には、
、手甲脚絆のきびしい旅扮装に体をつつんでいた。京都留守居役の小野寺十内なのである。
『御帰国ならば、どうせ通り道、なぜ京都表の拙宅へ、立ち寄ってくれなんだか』
『やがて、京都の山科とかへ移るつもりで、荷拵えまでしているが、先月頃から
、一名でも抜いてはならぬ。たとえ、内蔵助が京都へ戻っても、いつ、単身で乱入に及ぶ不所存者がないとはかぎら
伊勢の大廟に参詣し、原は大阪に、大高は京都に、各※家を借りて住んでおる。――それ以来、山科で
旅装を解いたのだろう。まだ、山科にいる家族も、京都の誰も知らぬ間に、旅装はどこかへ解きすてて、黒縮緬の
『では、この儘、京都までのぼりますか。夕霧さんに、お会いなされませぬか』
というのは、此方の事。惣右衛門どの、いちど、京都へ御出馬なくてはかないますまい』
『まず、京都へ参って、もう一応、大石殿へぶつかってみましょう』
『ともかくもじゃ、京都までぶらりと行って、大夫の心底をたしかめ、かたがた、急策を立てると
京都へ行って、小野寺を訪えば、父子とも留守であるし、大高源吾を
江戸表から京都へ上って来た安兵衛は、大高源吾の浪宅にわらじを脱いでいた
と変らないつもりである。それを信じて、内蔵助もこの京都へ来てからは、何かと玄渓をよい相談相手とし、殊に同志
『玄渓殿は、京都に停まる』
京都日野家用人、垣見五郎兵衛。
ふた棹の長持に、こう札を打って、内蔵助が京都の短い夢のような生活をきっぱり離れて、東海道を江戸表へ向って
先に、京都を立った大石内蔵助の一行は、鎌倉へ着き、そこで吉田忠左衛門たちと
京都を立つ前に、上方で整えた討入の武器、服装、その他の品
としては、もうこれ以上の経済力がない。すでに、京都や他の地方からこの江戸表へ同志が出て来るにも、各※
姿も前とは変ってしまった。一頃、赤穂方面や京都あたりを、隠密として歩いていた頃の彼は、頭も町人
『赤穂、京都、山科、その他を、実地に隠密して歩いて感じたことは、
ないわけにゆかなかった。春満と内蔵助とは、先年、京都でも会っているし、旧知の学友という間がらでもあった。
京都にいた頃は、大炊御門右大臣の庇護をうけ、京都稲荷の神官をしていた事もある。内蔵助との知縁は、
が、国学では大家の列にかぞえられているし、京都にいた頃は、大炊御門右大臣の庇護をうけ、京都稲荷の神官を
『京都の織物問屋で、西陣屋利兵衛と申しますので。はい、実は、
京都の呉服問屋の旦那衆となりすましている大高源吾のすがたが、格子の外
それを忠左衛門は引き取って大きく頷いたものである。赤穂から京都大阪にわたって、十八尺という変名をつかって同志の者を悩ました
『封の表には、京都瑞光院と寺の名が認めてあったが、中を開くと、内蔵助
『与左衛門にござります、唯今、京都瑞光院の者と称して、かような封書を置いて参った男がござり
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一里半、幡豆郷、乙川、小宮田、横須賀、鳥羽、岡山、相場、宮迫の七村は、足利氏の昔から吉良氏の領地じゃ
『帆坂峠と鷹取越の方に、姫路や岡山や高松や、諸国の兵が、たくさんに押し襲せて来たという
に筒をかまえて、或る場合に備えていた姫路、岡山の諸藩の兵だ。
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にして、顔を横に向けると、すぐ近くに、千葉三郎兵衛が坐っていた。
千葉三郎兵衛は五十ぢかい分別者であるし、不破数右衛門は浜辺奉行の役柄
――吉田、間瀬、不破、千葉、小野寺、踵を次いで、続々と京地を離れていたのである
長太刀を持った奥田貞右衛門、千葉三郎兵衛、間瀬孫九郎、中村勘助などの人々は、外にあって、襲いかかる敵
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広島の浅野芸州侯へすがって、金子四千五百両の無心を願いに行かせた
なかった。同族の三次の浅野家でも、芸州の広島でも、鳴物停止があったというから、勿論、ここでは享楽的な
して取り残されてあった木挽町の屋敷も召上げられ、芸州広島へ左遷という報告なのだ。……左遷である。もう、主家再興
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八年前に、松山城の城受取りの大命をうけて出向いたときには、自分もこういう
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『帆坂峠と鷹取越の方に、姫路や岡山や高松や、諸国の兵が、たくさんに押し襲せて来たというから、
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『そうじゃろう。讃州丸亀の京極、阿波徳島の蜂須賀、姫路の本多、伊予の松平など、海には兵船をつらね、
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あげてくるので、これも果しがなかった。結局「高知減し」というところで妥協がついた。
分配であったから、千石では百八十両になるが「高知減し」は、百石を増して禄が上へのぼる毎に、二両宛
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持って来ている者は、大阪、伏見、洛中洛外、奈良あたりまで亙って、およそ二十二、三名は上洛っている。それ以外は何
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、蟄居を命ぜられ、御膳番の天野なにがしは、切腹。秋田淡路守の家中でも、重罪に処せられた者がある。――等
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十一月に入ってからである。深川の高橋の近くにある吉五郎の家へ、何か、忙々した態度で
深川の高橋の畔に、山田宗※の住居があった。川を裏庭へ
十二月の二日だった。深川八幡前の講中茶屋へ、ぽつぽつ集まって来る顔には、医者、儒者、
を入れて、同志の一人に茶入を持たせて、わざと深川高橋の四方庵宗※へ使いをやり、
僧たちが出てみると、想像以上な群衆だった。深川、京橋あたりからまで尾いて来ている数なのである。追い出して
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また、生母桂昌院の迷信費も莫大だ。彼女の護国寺詣りには、日傘行列と、蒔絵のおかごが江戸を縫い、警固の
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声もしない飢餓の群は、橋の下にも、浅草寺の裏にも、ゴミ捨て場のように、蠅をかぶっていた。
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に、広大な敷地建物を擁する中野お犬小屋だの、大久保お犬屋敷などが出来、人間どもの羨ましがる白米や魚類が費用おかまい
同役の久留十左衛門、近藤平八郎、大久保権右衛門等も、伝八郎の後から、眼いろを変えて駈けて行った。
『――本日の目付役当番、溜の間の多門伝八郎と大久保権右衛門の両名が、火急、おさし図を仰ぎたい儀が起りまして控え
多門と大久保が、出羽守の顔を見た。将軍家の感情が苦々とあらわれているの
大目付荘田下総守を大検使として、副使多門伝八郎、大久保権右衛門の三名は、介錯人、その他十人を従えて、
大目付荘田下総守、大久保権右衛門などと共に、自分は副使として、内匠頭の切腹を見届ける
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十五日 上野寛永寺、芝増上寺、御参詣
『おのれッ! 上野っ――』
『吉良どの! 上野どの!』
眸を見た。最前からも、屏風の内で、同室上野介の方の様子を、全神経で知ろうとしていたのでは
『上野どの。――とんだ御災難であったが、お上には、何事もよう
ただ、江戸表の事変当時、華蔵寺に居られた主人上野介の奥方富子の方が、此地を即刻に立ったことと、領主
十一日には上野介在邸らしい。
家臣も、付人も、暗然として、上野父子の現在の生活に、同情せずにいられなかった。
『――あっ、上野介っ』
一尺でも二尺でも、主人上野介の身近くへ行って、死なんものと思う人々だった。
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、清閑寺前大納言の御三卿、ただ今、おつつがなく、品川までお着き遊ばされました。高輪にて、御少憩にございますれば、ほど
廊下を、続々と、空の膳部が下がってくる頃、品川まで出迎えに出た老中土屋相模守をはじめ、その以下の諸侯が、駕
追い縋って、支えているのは、高家衆の品川豊前守や、大友近江守たちであった。
江戸はもう六月の暑さだった。品川宿から高輪へかかると、海の風も生温く感じられてくる。街道は
明日は誰か三、四名、品川口まで、大石殿を迎えに出ようと相談して別れた夜である。
『ほう、では、品川の朝帰りではなかったのか』
も及ぶまい。悪くしたら、藩の若侍のところへ、品川辺りの化粧の女が人目を忍んで来よったのかも分らん。―
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『桜田門か、平河口だろう。あれへ参れば、御番士へ、実否が聞ける』
怒濤になった群衆は、桜田門に、ぶつかっていた。
今し方、江戸家老の沢根伊兵衛が、桜田門外の上屋敷から来て、持ちかけた相談なのである。
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は、田村右京太夫邸へ、主人の遺骸引取。即時、泉岳寺へ埋葬のこと。
泉岳寺では、わずかに家臣の通夜で、しめやかに誦経の弔いが済まされた
頭のやがて墓標となるものである。思いあわせてみると、泉岳寺はすぐそこだし、この月二十四日は、ちょうど殿中刃傷後百ヵ日
二、三日前に石辰の職人は、泉岳寺へ石碑を曳きこんで、礎石から碑の組立てを済ましていた。
落して、明日は明日の風としているように、泉岳寺の僧侶たちにも眺められた。
いるらしかった。忍びやかな塗駕を閉じて、ただ一度、泉岳寺へ参詣したほか、外へ出たことも殆どない。
で、今日は――と、その宿志を果すために、泉岳寺からその足でここへ訪れて来たのであった。
『昨日、内蔵助は泉岳寺から、瑤泉院の住居を訪れ、その足で、御目付の荒木十左衛門殿
人でしたのに。――内匠頭様のおん亡骸を泉岳寺へ御葬送申しあげた当夜、御遺骸の前で髻を切って復讐を誓っ
泉岳寺へゆく途中の心得。
隊伍を正して、一同は、泉岳寺への道を歩み始めた。ちょうど十五日は、お礼日と称ぶ諸侯の
泉岳寺炉辺話
と経て泉岳寺へ行き着く予定。松坂町からそこ迄は、ざっと、二里ほどの道で
泉岳寺はもう近かった。
殿、いずれもかように一念を遂げ、上野介殿の首級を泉岳寺へ持参する途中でござる。貴公は又、何用あって、この雪解の
と、塀にたかったり、墓地の垣を破ったりする。泉岳寺の衆僧は、群集の持って来たその大きな雰囲気に忽ちつつまれてしまっ
案の定、泉岳寺附近の者から、市中では今にも、ここへ上杉勢が斬り込ん
『なぜお二人だけ、泉岳寺の方へ、引揚げなかったんですか』
ちょうど今、一党の者は、泉岳寺へ着いた頃であろう。この二人だけは、内蔵助から、或る使命をうけ
、政庁に集まって来た。寺社奉行の手からは、泉岳寺の和尚の訴えが入るし、吉良家からも、上杉家からも、町奉行
泉岳寺へも、すぐ幕命が下って、
、それから遽に家中の大支度となり、夕刻までに泉岳寺へ向うと、急にお預け人は伯耆守の屋敷で渡すという幕命
泉岳寺の寺僧で、一人は一呑といい、一人は石獅という者だっ
泉岳寺御使僧
毎日が賽日のように、泉岳寺の門前はあれ以来雑閙した。武家町人ばかりでなく、近郷の百姓だ
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槍組の武士に囲まれて、江戸城の平河口から、日比谷御門、桜田の辻を通って、芝愛宕山下の田村屋敷へ着いた
『貴公、いつぞや、日比谷御門とかで、吉良殿のお顔をたしかめたということだが
――そして霊岸島――鉄砲洲――汐留橋――日比谷――仙石邸前――伊達家前――金杉橋――
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『うちの女房が、きょうは住吉の縁家までまいって留守じゃ。よしよし遺書をして参ろうか。数右衛門、
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『晩に、麹町から吉田忠左衛門殿、林町の毛利小平太、ほかに堀部、杉野などが、寄る
『さ、それがだ……。いつぞやも、麹町の吉田忠左衛門殿の浪宅に寄って、さし当っての困難が、上野介の在
、江戸表へ出て、名も垣見五郎兵衛と変え、新麹町五丁目に兵学教授の看板を出している田口一学――の吉田忠左衛門の家
麹町と、石町とが、いわば江戸中に潜伏している赤穂方の者の
『すると、そうした時でなく、麹町からの戻り道、亡君のおひきあわせだと云う位――偶然にも、上野介
吉田忠左衛門は、麹町の山手から、内蔵助は石町の低地から、広いこれからの陣地の戦気を
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忠左衛門から、吉良家中の第一といわれた春斎は、日本橋辺の或る出入商人の子で、年は十四、茶道見習に奉公に上っ
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見せてあげます。あなた方は、実戦というものは、境町の人形芝居の斬合いよりほか見た事はないでしょう。――なかなか華々しいもの
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高輪にある。御預人の十七名の駕と人数は、目黒門と呼ぶ口から邸内へ入った。時に、刻限はもう午前二時
藩邸の横へ出て、目黒門の坂小路を登りかけてくると、伝右衛門は、
ていた。よく分らないが、慥かに女である。目黒門の外に彳んで、時折、塀のふし穴でもさがすように彷徨いて
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ひどく不機嫌だった。むッつりと、口もきかずに、両国橋を戻って行くのだった。
両国橋の上を駈けながら、叫び交して行くのだった。
日は、お礼日と称ぶ諸侯の登城日なので、両国橋を渡ることはわざと避けて、東両国の川岸筋を真っ直ぐにすすみ、一
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いちど、遊山の態にして、江ノ島から鎌倉へゆき、鶴ヶ岡八幡宮の神前に、復讐連判の血誓を立て
、服むふりをして、薬はこぼしてしまった。江ノ島へ廻る予定である。然しそれも郡兵衛は気がすすまないらしく見える。
、俺は、進退谷まった。何をかくそう、いつぞや江ノ島で会ったあの内田勘解由から、すっかり見込まれて、兄や、叔父までも
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『京橋三十間堀の中島五郎作の借店におります。おひまの節は、
が出てみると、想像以上な群衆だった。深川、京橋あたりからまで尾いて来ている数なのである。追い出して一門を
京橋に近い自宅がそこに見えた頃である。後から迅い蹄の音が
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をさげて、小鍋立ての人生もそこらにあるし、隅田川に雪見船を浮かせて、忍び三絃をながす人生も河の中にまで
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新大橋の畔までゆくと、更に、そこにも、一群の供の者が待っ
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お船蔵の裏通りから永代橋へ――そして霊岸島――鉄砲洲――汐留橋――日比谷――
『違いない! ――。この辺はもう永代橋に近いな、本所迄はずいぶんある。――彼方のぽっと明るく見える空
『おう……永代橋だ。やっと、本所の空が見えて来た』