新書太閤記 07 第七分冊 / 吉川英治
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本能寺界隈を見まわしてもそうである。惣門前通りから四条の方へ寄った往来は、所司代の第宅もあり、武家の小路もあり、
清徳トイウ聖アリケリ、多食ノ人ナリ、四条ノ北ナル小路ニ、シ散ラシケレバ、下司ナドモ穢ナガリ、尿小路トツケタリケルヲ――
四条の南に綾小路があるゆえ、それと対比して以後は錦小路と呼ぶべしと
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一勢には、軍旅を取りいそぎ、日ならぬうち、但馬より因幡へ入り候え。敵毛利輝元の分国、伯州、雲州へも、構えなく
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家の諸臣のあいだでも、市松は評判がよい。鳥取城や上月城で、功をあらわしたことも聞えている。将来ある若武者、よい
ていた。この槍は、彼が十八歳のとき、鳥取城の搦手で功名をたて、その折、秀吉にねだって拝領した彼のまた
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「日吉神社のあたりには、仮御社も建ちかけておるという。その辺りには
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鉄甲の人馬、一万三千余は、流れをなして黒々と王子村をすぎ、やがて老坂へかかった。その夜の星の夥しさ。都も
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「博多の宗室でござりまする」
「博多の宗湛にござりまする」
「はて、博多の客衆は、どうしたかの」
「博多の宗室どのと宗湛どののお二人が、いつなとお越し賜わるようにと、
同時に、いったい、博多の町人というこの宗室、宗湛のふたりは、なにをもってかくまで信長の
か。更けたとてすぐそこだ。春長軒はすぐ門前。博多の客殿は、まさか博多へ帰りもなるまい」
そこだ。春長軒はすぐ門前。博多の客殿は、まさか博多へ帰りもなるまい」
、神谷家に伝来する牧谿の遠浦帰帆も、ともに博多の名物として有名なものだけに、信長も無碍に云い出しかねてい
昨夜、本能寺に泊った客、博多の神谷宗湛だった。
は床の間の前へ立った。信長の乞いに委せて遠く博多から携えて来て鑑賞に供えた家伝来の幅、牧谿の遠浦帰帆之
まだ事変の最中に、博多の宗湛とともに、京都を立ち、その宗湛と、淀の船つき場で
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は一隊をひきいて先へ川を渡れ。西七条から堀川へ出よ。仔細は、味方の内より駈け抜けて、万一、本能寺へ事
矢文を返しておいてから、すぐ使番を走らせて、堀川の本陣にある光秀に意見を訊きにやった。
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とも称んで、東寺の塔ほど、よい目じるしになっていた。
道はすでに京都の西七条の入口に近い。東寺の塔の下までも、所々の藁屋根や森を除く以外、右も畑、
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「高松から半里ほど東南に、加茂の城があり、これには、兵約千人を擁して、桂広繁が
「高松の右翼、宮路と冠の二城。左翼の加茂、日幡の二城。こう両翼を取り除くを先とする。たれか宮路の城
それからまもなく、また加茂の城が、ほとんど手ぬらさずに、羽柴軍の手に帰した。これは
前隊の列はもう一部分加茂の浅瀬をひろって、対岸へ渡っていた。諸将は光秀のそばを去る
の納屋衆の一人であるが、多くは京都に住んで、加茂の清流に臨む閑雅な寮で、余生を楽しんでいる閑人かのように表面
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、もう十三、四年も前、たしか信長様が、初めて堺へ兵をお入れ遊ばした年で――わたくしもまだ堺の生家小西屋に
堺へ兵をお入れ遊ばした年で――わたくしもまだ堺の生家小西屋におり、年も十二、三歳の頃でございました」
「忌憚なく申しあげます。御承知のとおりてまえは、堺の薬種問屋、小西屋寿徳の次男と生れ、のちに岡山御城下の同業の
御城下の同業の家へ養子として参り、たえず堺と中国を往来し、諸家へ、薬をお納めしておりますが、これ
をも督して、その振舞のために手つだわせ、京都、堺の商賈に命じては、あらゆる佳肴鮮味の粋をあつめた。そして、十五日
や生魚の臭いがぷんぷんと鼻へ襲った。のみならず堺や京から大量に集荷した食糧が、解きかけてあったり積んであったり
、信長にも愛せられ、秀吉とも親しく、茶道では堺の宗易とは昵懇だし、顔のひろいことにおいては、無類の社交
―その報告やら、また数日前に、大坂を去って堺へ入った旅行中の徳川家康の様子をも併わせて告げて来たものだっ
それも九州博多ばかりでなく、堺にはいわゆる堺商人の称もあるほど、天王寺屋宗及、千宗易、松井友閑など
、長崎はもとより九州、四国の辺土、また大坂、京都、堺などにかけても、先祖からの仏壇を捨てて、耶蘇教に帰依する者が
これは、いずれに置くのが正しいか、数日後、堺の宗易どの、宗及どのなどともお会いしますから、よく一同で熟議し
と同業の海外貿易家のなかまである。茶屋の本店は堺にあり、堺の納屋衆の一人であるが、多くは京都に住んで、加茂
貿易家のなかまである。茶屋の本店は堺にあり、堺の納屋衆の一人であるが、多くは京都に住んで、加茂の清流に臨む
立ち、その宗湛と、淀の船つき場でわかれて、堺へ急いでいた茶屋四郎次郎は、焦りつける田舎道の炎天を枚方から二里
月二十八日まで)は京都見物に過し、二十九日には堺へ向い、晦日には、堺奉行所の公式の饗応に招かれたり、また松井
明けて六月一日も堺泊り。
忠勝が堺を出たのは、まだ真っ暗な早暁であったから――以後の主君の
主君の動静はわからない。が、恐らくは今日もまだ、堺に御逗留ではないかと想像されていた。
四郎次郎とともに、彼は堺へ引っ返したが、家康はもう堺にいなかった。
とともに、彼は堺へ引っ返したが、家康はもう堺にいなかった。
もなく、本能寺の変は聞えていたので、堺には騒然たる人心の動揺が見られた。
のであるから、今日知った異変の報とともに、堺の人々が、家康の行方不明をも語り合わせて、一そうその騒ぎに臆測を加え
急に、堺を引き払って、何処へともなく立ち去った家康の一行をさがし廻った茶屋四郎
も、ひとまず本国へ立ち帰った上で――と、急に堺を去ったものの、地方の情勢は都会以上険悪であったし、山野に
穴山梅雪どのは、御一行がお立ち遊ばした一刻あとから堺を立たれ、甲州へお帰りあるべく、山城の草内まで同じ道を御通過
時は六月の五日。堺からわずか中三日で帰国したのである。
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摂津から、備前までの間、いま陸路の交通は、秀吉の軍に扼され
竹の杖の中に密書を秘し、盲人となって、摂津から先は夜も昼もとぼとぼ歩いて行ったのである。光秀が特に彼
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見とおしに宿老たちもみな服した。その見極めさえつけば、宇治を通って、伊賀越えの間道をいそぎ、伊勢へ出て、海路、三河へ
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その範囲にとどまるものであったが、昨日以来、ひたすら本国岡崎さして、道のみ急いでいた家康にとっては、それだけでも、
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乱入に及ばれい。油断あるな、猶予あるな。早々、丹波へ帰国、陣用意をととのえ、高松城包囲中の羽柴秀吉にたいし、山陰道より
に蔽われたが、なお暮れるまで夕陽の熱と光は丹波の山河を焦いていた。
ずいぶん功を立てたろうが、主家の恩寵は眷族におよび、丹波、近江にかけて、六十万石に封ぜられ、酬わるるに何の不足もない
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「ちと、お蔑みが過ぎましょう。大徳寺なども、こちらのほうがよいお客様ですよ。真実、国を憂いてのこと
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こうして七条、四条、三条の各方面から本能寺へひた寄せに押し縮めて来た幾部隊かのなかで
宗湛はその足ですぐ三条の茶屋四郎次郎の家へ行った。
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届いた。ついては、いつも難渋なことのみ頼むが、高松城まで参って欲しい」
て違背はない。そういう意味の墨付で、すなわち信長から高松城の守将、清水長左衛門宗治へあてて示すものであった。
くれ。彦右衛門、御身も副使として、官兵衛とともに高松城まで参るように。――そして清水宗治に会うた上は、官兵衛にぬかりは
、もうよいから、すぐ支度して、市松とともに、高松城へゆく使者に従いてゆけと命じた。
岡山から敵の高松城までは一日足らずの行程。騎馬なのでなお早めに行き着こう。黒田、蜂須賀
秀吉はまず、高松城の北方遠くにある一高地――龍王山に陣した。
きょうも赤々と陽が落ちかけていた。敵の主城高松城のあたりに薄い炊煙がたちのぼっている。
のこるは一つ、高松城の主力のみが、ここにぽつねんと孤立のすがたになった。
もとよりこうした頽勢は、高松城の清水宗治から、毛利家へ向って頻々と、
石井山は高松城の東に見える高地で、距離も程よく、ほとんど、敵城と直面するの位置に
は幕僚、六、七騎をつれて山を降り、はるか高松城の西――その城を右手にのぞみながら、足守川の門前とよぶ地点まで
、高さである。この高さは水攻めとする対象の高松城と比例せねばならない。実に、水攻めの成功を確信し得る素因は
そしてこの陸の築港も完成に近づきつつある一面、なお、高松城附近の七ヵ所の河川では、べつにここにも劣らない難事業がすすめ
た激流は、水けむりの方向を変えて、とうとうと、高松城をめぐるひろい田野や民家のある平地へ目がけて、奔馳して行った。
が、すぐそこの国境の山々まで着いたのは、すでに高松城のまわりが、いちめんな泥湖となった翌五月二十一日のことだった
か、夜来の雨を加えて、濁り漲った水は、高松城ひとつを、その湖心にぽつんと残しているほかは、その石垣も、濶葉
十六、十七、十八、十九日の頃といえば、まさに高松城を孤立化するために、あの大築堤を前提とする水攻めの計が実行にうつさ
猶予あるな。早々、丹波へ帰国、陣用意をととのえ、高松城包囲中の羽柴秀吉にたいし、山陰道より側面牽制のふくみあって然るべし。―
いま敵の高松城へは水攻めの計をまったく施し終って、信長の西下を待つのみとなって
眼前の敵、高松城をいかに処理するか。毛利の大軍三万余をどう捌くか。なおまたその大敵
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人影は、涼やかな大模様の帷子に、住吉の松と吉野の桜を染めわけたうちかけを掛けて、その背までみどりの黒髪をうしろへ
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この沓掛からも、右折すれば、大原野を経て山崎、高槻へ出ることはできるからであった。
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とりわけ、大坂城にあった織田信澄は、光秀の女婿でもあるし、その父の織田信行
さえ続出した。丹羽長秀は、信孝と謀って、ひとまず大坂城へもどり、五日の夜、ふいに信澄を襲って、これを千貫櫓
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追いついたのは翌日の三日で、信楽の里のいぶせき山寺に、家康はつかれて昼寝していた。
宇治方面は、まださして騒がしい動きも見えませぬ。あれから信楽へ出られ、伊賀へとかかれば、おそらくまだ明智勢の手は廻っておる
家康の一行が、信楽から伊賀へと向って来たときあとから追いついて来た家士の一名が
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の世の頃からか、朝日ヶ嶽、大鷲ヶ峰、高尾山、鎌倉山、龍上などの峰々に仏舎宝塔が建って以来は、五台の仏
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て、彼は近日、自身中国へ出馬し、中国もまた甲州のごとく、一挙に席巻し、一気に統治の実をあげてしまおうと、息
御一行がお立ち遊ばした一刻あとから堺を立たれ、甲州へお帰りあるべく、山城の草内まで同じ道を御通過なされたらしく思わ
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の雛仲間から巣立ち、一方の指揮官として、淡路や四国へ派遣されたりしていた。
年ともいわぬうちに、大村、長崎はもとより九州、四国の辺土、また大坂、京都、堺などにかけても、先祖からの仏壇を
四国の長曾我部元親へも、彼はすでに、この帷幕から書簡を持たせて急使を
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城兵の一隊は、つい今し方、親王のおわたりあった唐橋の大手門から、槍をそろえて突き出して来た。
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この安土城に信長が一箇の大賓を迎えるためであった。
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安土の南蛮学校にいる紅毛人の医師に命ぜられて、伊吹山のふもとに、薬園をもうけられ、西洋薬草を七、八十種も植えおかれ
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陣用意をととのえ、高松城包囲中の羽柴秀吉にたいし、山陰道より側面牽制のふくみあって然るべし。――信長自身もやがて間もなく後詰
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ともつかない男を養っている。彼らは疾くに八幡大菩薩の船旗を下ろしていたが、海洋を見ること平野を視るごとき胆と、
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――中国出陣の前に、一夜を愛宕山に詣で、武運長久を祈り、かたがた、日頃の友を招いて、参籠の一夕
――柿本の紀僧正は日本第一の天狗と成って愛宕山の太郎坊と申さるる也――と見えますのは、当山の太郎坊の縁起と
北に保津川の一水を隔てて、愛宕山や龍ヶ嶽の諸峰をのぞみ、南は明神ヶ嶽、東は大枝山というふうに
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浅井朝倉などの大軍と織田勢が取り合って死屍を積んだ比叡の辻の戦場も遠くない。
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おります。もっと古くは、大宝年中、役の小角が、嵯峨山の奥に住みたもうとあるは、この御山なりと、申す説などもござい
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、そんな小さい意味ではない。信長公は将来いよいよ中国から九州、九州から海外へまでも、御雄飛なさろうというお気もちがある。それに
小さい意味ではない。信長公は将来いよいよ中国から九州、九州から海外へまでも、御雄飛なさろうというお気もちがある。それには、
する町人で、宗湛の家とは親戚にあたっている。九州の諸大名でこの家の金を借りていない者はない。港には
では一茶人にすぎないが、島井宗室も神谷宗湛も九州の家にはそういう事業をもっている人々だった。
「九州にはもうだいぶ砂糖が渡って来ておるか」
わずか十年ともいわぬうちに、大村、長崎はもとより九州、四国の辺土、また大坂、京都、堺などにかけても、先祖からの
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などと果てしない噂も生じ、いずれにせよ、畿内はもちろん、中国方面でも、関東でも北越でも、地上に戦いの行わ
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(そちひとりは、岐阜城へ赴いて、この急変を家中に告げ、わが子の三法師を守って
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のみならず毛利家との聯携の越後上杉、甲州武田、叡山、本願寺などの盟国もみな亡び去って、それらの与国も毛利家も一
た。どの部屋からも湖が見える。松原が見える、或いは叡山が望まれる。ここの本丸は絶好な景勝の地にあった。
けれど誰がいまこの自然を愛するだろうか。叡山は過ぐる元亀二年の信長の一令によって大焼打にあったまま
「横川の和尚とは、叡山の亮信阿闍梨のことではないか」
「その節は、敵であったが、いまの叡山は、まったく無力化して、安土に対しても降伏恭順を誓うておる良民
(何であのように、叡山の者に御執心を持たるるか)
いま、彼はその一日を、叡山へ登って行った。もちろんこの間といえ、彼の心は、寸時も一道に
れておらるるが、何もそうまでせんでも、この叡山だけでもまだわれらの眼に見出されぬ深秘の薬種がどれほどある
「信長たりと、足利義昭を追っている。また叡山の焼打、幾多の悪業は人も知るところだ。見よ彼の宿老、林佐渡
彼は、叡山を焼き、根来を攻め、日本在来の教団に対しては、かつての平相国すら
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て、信長の西下を待つのみとなっているものの、長良川の一水をへだてた日差山その他には、毛利の吉川、小早川軍の三万
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利家は能登の七尾へ、成政は越中の富山へ。そして勝家は北ノ庄にひとまず旗を収め
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猪子兵助や毛利新助などは、古参の馬廻り衆で、すでに桶狭間の合戦頃からその勇名は聞えている士だった。とりわけ毛利新助という名
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「朝のおしたくは河原で遊ばしますか、西陣へ行っておしたためなされますか」
山中の間道を経て、北嵯峨へ降り、地蔵院より西陣の道を備えつつゆく味方がある。忠秋、藤田伝五、並河掃部たちの
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伊賀、甲賀の者の役目は、いつも攪乱戦か偵察だった。極めて小隊をもって敵
味方の内に半分、両棲を常としている伊賀、甲賀の者は、すこしも敵地深く入って来たというような危惧を持たない
虎之助と、伊賀、甲賀の者は、その底を這っていた。
て、草のそよぎにも神経をつかっていた伊賀、甲賀の仲間だった。
同じ侍でも、伊賀、甲賀の者には、行ったきり、死んだきり、という信条はないことに
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は、主人の日向守光秀にささやいた。湖畔の城、坂本城が、もう一行のまん前に見えたときである。
、それからの数日を、光秀はなすこともなく、坂本城に過していた。
「坂本城へ招いては、やはり人目がうるさい。山上人なき所で、極く密かに、
一小隊の従者をつれて、遅れ走せに、安土から坂本城へ引き揚げて来た。
「日向守が坂本城におる間、一日叡山のうえで会ったといわれたことがある」
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でさえ、まだ京都の凶変を知らずに、上杉方の魚津城を懸命に攻めたてていた。
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ひとたび、本能寺の濠に、狂兵の矢石が飛び、叛逆の猛炎が、一夜の空を
「本能寺の由にござりまする」
「なに。本能寺」
「たしかに、本能寺とのこと、いずれでも沙汰されておりました」
信長が扈従わずか四、五十名の軽装で、本能寺に泊るという――またとないその絶好な機会こそ、彼の心を囚え
予知することができましょう。たとえば明智家の家中すら大部分は本能寺の朝まで、日向どのの胸の中は知らなかったではございませんか
(本能寺の堀は、浅きか深きか)
です。信忠公には妙覚寺に、右大臣家には本能寺を御宿所として」
将士も、この出陣が、中国進攻の門出ではなく、本能寺を衝く一歩のものであったことを。
山路、およそ京まで五里、おそくもほのぼの明けには、本能寺をひた巻きになし得る。――その本能寺を五刻前(午前八
は、本能寺をひた巻きになし得る。――その本能寺を五刻前(午前八時)にお片づけあって、二条の御所をも
本能寺の空濠には、西陽が赤く落ちていた。六月朔日は、一日
本能寺の森
京都をあらわしている文化の横顔といえるかも知れない。本能寺そのものも、外観はできているようだが、内部にはまだ多くの空地
条坊門にあった。この界隈の貧民窟には、朝に本能寺の勤行が聞え、夕べには南蛮寺の鐘が鳴りひびいた。
本能寺の門は厳めしく、本能寺の僧衆はみな怖い顔して歩いているが、
本能寺の門は厳めしく、本能寺の僧衆はみな怖い顔して歩いているが、南蛮寺のばてれん達は
ところが、このばてれんも、ふと往来で本能寺の僧と行き会いなどすると、なかなか子供に撒いているような愛嬌は示さない
だから尿小路の狭い路を遠まわりしても、なるべく本能寺の門前は通らないようにしている彼らだったが、昨日今日だけは、
にしている彼らだったが、昨日今日だけは、その本能寺のうちへ、身を屈めて日参しなければならなかった。さきおとといの二十九日
ぞろぞろ取り巻いて来るうちに、その中のひとりの子が、本能寺の角の空濠の中へ、ぽしゃんと蛙のような音をさせて落ち込ん
も落ちたがさいごやすやすと上がれない石垣だ。広大な、本能寺の地域を平均何尺か地盛りしたほどの土を浚った溝渠である
「おうちの腕白が本能寺の濠へ落ちたとさ」
単なる寺ではなくなってしまう。二十九日の夜以来、本能寺の惣門は、車駕輻輳して、出入りの諸人の雑鬧は驚くべきものであっ
。いずれにせよ、不思議なばかり奕々たる人気の彩霞が、本能寺の惣門から甍にまで棚曳いているのは事実である。夜霧へ映え射す
国政上の進言を呈した。――きょう連れの宗湛と本能寺へ来る折、空濠に落ちた子どもを見かけた事実を例にあげた。それ
むしろ池水に雨が注げば池を新たにする。――本能寺の濠を以て海洋を測るから間違ってくる。そうじゃないか、宗室」
出よ。仔細は、味方の内より駈け抜けて、万一、本能寺へ事を告ぐる者などもあれば、直ちに、これを斬って捨てる事一つ
「本能寺へいそげ。本能寺を覆い包め。――光秀の敵は、四条本能寺と、
「本能寺へいそげ。本能寺を覆い包め。――光秀の敵は、四条本能寺と、二条妙覚寺の内
本能寺の濠に迫るまでは、枚を銜んで、喊声を発すな、旗竿も伏せ
――行け、本能寺へ。
こうして七条、四条、三条の各方面から本能寺へひた寄せに押し縮めて来た幾部隊かのなかで、もっともはやく本能寺
寄せに押し縮めて来た幾部隊かのなかで、もっともはやく本能寺へ接近したのは、明智左馬介光春、斎藤内蔵助利三などの率いる一軍で
。抜け駈けせんと、町辻を踏みたがえるな。――本能寺の森は、さいかちの木が目印ぞ。その大竹藪を、雲のすきに
、雲のすきに目あてとせよ。あれだ。あれこそ、本能寺のさいかちの木」
までもなくそこに宿泊している信長の長子信忠を、本能寺方面と、ときを同じゅうして、討ち果すためである。
ここと本能寺との距離はいくらもない。すでにその頃、暁闇をへだてて、本能寺方面
距離はいくらもない。すでにその頃、暁闇をへだてて、本能寺方面の空には何とも形容し難い物音が揚りはじめていた。いんいん
、彼方で貝や鉦が聞える。――始まったぞ、本能寺の方は」
の南、錦小路の北、洞院の西、油小路の東、本能寺の四面両門はもう明智勢の甲冑と、先途を争う寄せ声で埋まって
そのときまだ本能寺の境内も、諸坊の建物も張合いのないほどひっそりしていた。表
この朝の火の手と煙は、本能寺の外の尿小路から先に揚ったのである。ぶちこわされた家屋の下
しかしその隠れたる勲功者のために、はやくも本能寺の墻壁の上には、明智の三羽鴉と呼ばるる古川九兵衛、箕浦大
本能寺附近にあった所司代邸の内から打って出た春長軒村井長門守父子と
を知るべきであった。また知るや否、すぐ前の本能寺へ寸前にでも急を告げていなければならない。
とはいえもちろん、本能寺を中心として、八方の大路小路は、明智の諸部隊が手分けして
振り向いて、本能寺の大屋根を仰ぐと、そのとき初めて、雷雲のような真っ黒な煙が、噴き
小倉松寿の二小姓である。変を知るやふたりとも、本能寺の中へ駈けつけて来た。おそらくは明智勢の混雑のなかを無二無三紛れこん
それらはもちろん武門以外の者に限られていた。本能寺常住の老僧や庫裡の僧たちは逸早く禍いをまぬかれた。明智勢の方で
や祈祷もわすれ果てて、みな二階の露台に立ち並び、本能寺の火事を見物していたところだった。すぐ門前の往来を駈ける騎馬武者
昨夜、本能寺に泊った客、博多の神谷宗湛だった。
四郎次郎の家族たちはみな家の外へ出て、本能寺のほうに立ち昇る黒煙を眺めていたので、まずこう問うと、
つけた明智方の哨兵が立っていたが、それも本能寺にある信長の警備の兵と考えて不審に思う者もないらしい。
この朝、明けかけた空は、ふたたび暗くなった。本能寺から立ちのぼる煙は全市の上を蔽い、町筋は人影ひとつ見えず、蕭殺
それでも本能寺の空に煙を見るまでは、彼も、万一を気づかって、諸将ととも
と、いいつけると、さっきから本能寺の煙を仰いで、右大臣家の末路こそ心地よし、と狂喜してい
すでにここも明智勢の囲みのうちにあったことは、本能寺と変りはない。
しかしここには、本能寺よりも多くの手勢が屯していた。約五百六、七十人の兵力は
いうまでもなく、明智の主力は、本能寺へそそがれている。妙覚寺の兵力は本能寺以上とは事前に知れて
は、本能寺へそそがれている。妙覚寺の兵力は本能寺以上とは事前に知れているが、ここへ向けられたのは明智光忠の
で、明智方でも、ここの攻撃には、本能寺のような急襲猛突をとらなかったため、信忠以下は驚愕のうちにも
「本能寺へ」
思案と、信忠以下、全軍は即時に、ここを捨てて本能寺へ急ごうとしたのである。
乱髪蒼面、各※血に濡れて駈けて来た。本能寺に入ろうとして入るを得ず、ついにここへ落ちて来た所司代の村井
すでに本能寺は、敵の鉄桶の内であり、信長の一身を、絶望のほかなきもの
本能寺が手狭のため、市中の宿舎に、わかれわかれに泊っていた麾下の士
※一かどの部将である。これらの者が、せめて本能寺の近くに泊っていたら、ああやすやすと、明智勢に事を成さしめも
濠は深く、幅も広い。本能寺のそれとはちがって満々と水をたたえている。どこかに自然と湧水
本能寺は、落去したので、いまはただ、ここあるのみと、同時に
はただ、ここあるのみと、同時に令を発して、本能寺方面の人数を割いて、すぐ二条城へ向い、光忠に協力せよとも伝え
した。時、ようやく卯の刻ごろ(午前六時)本能寺の煙をうしろにして、その方面からの軍勢も続々これに加わり、濠
たといわれているが、まさに彼にとっては、本能寺の挙は、順逆に問われる問題ではないとしていたものであろう
光忠が退くと、光秀はすぐ本能寺を引き揚げて来た四方田政孝をその手の大将に補充して、
当主夫妻はつい昨日かおとといの昼、牛車を打たせて本能寺へ信長を訪ねてもいる。信長とは長年昵懇な近衛前久が住んでいる
坂本や亀山には、その備えもあったろうが、目標が本能寺と妙覚寺であり、こういう攻城戦をなそうとは予期しなかったせいもあろう
けれど、本能寺でも、二条城においても、鎌田新介などは例外な者であった
「平介にはまだ聞き及びないか。本能寺はもとより、当二条城もはや落去。今しがた信忠卿にも御生害あった。
光秀はさすがに民衆の心理を察して、まだ本能寺や二条城のけむりが墨の如く天を蔽っているうちに、全市へ
て、門をひらき、全舎を提供して、ここに本能寺の負傷者や二条城の合戦からよろ這い落ちて来る武者たちを収容し始めた
紹巴は、二条はまださかんに焼けているが、今暁の本能寺のすさまじい焔は御覧になったかと訊ねた。
「とはいえ、本能寺や二条の火の粉は、禁裡の御苑にふりそそいだであろう。恐れ多いことではある
「もう、この辺にも本能寺のことが知れ渡ったか。それにしても早い駈けつけよう。……明智の与党
「では、本能寺へ」
「本能寺はもちろん、今頃はもう二条のお構えも陥ちておりましょう。――この
であるが、折から彼は、越中に出征中で、本能寺の事あった翌日六月三日でさえ、まだ京都の凶変を知らずに
本能寺の急変を告げて来た書状を彼が見たのも、月の九日
早打状は、目に見るごとく、昨二日朝の本能寺の実状を急報している。
われを知り給うものまた君を措いて世にあらじ。本能寺に御最期の火裡一瞬、君の御心中に、われを呼び給い、われ
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秀吉はひとり燭に対していた。こよい弥右衛門に託して安土へ急がせた書簡は、急遽、信長自身の来援をこの地に仰ぐための
――一転、眼を移して、安土の府のきょうこの頃を眺めるならば。
その時分を、この安土では、さながら盆と正月を、一度に迎えたような賑いで、全城全
すなわち、五月十五日、府に着いて、安土の城へはいったその大賓とは、徳川家康、ことし四十一になる人だっ
実をあげてしまおうと、息信忠もつれてゆく予定で安土へ呼び、今や出陣の準備に忙しい最中であったのである。
、信長が家康を盟友としていなかったら、今日、安土の府の厳存を見ることなど、思いもよらないし、またもし、家康が
その日、客の家康は、安土山上の総見寺の舞楽殿で、猿楽能を見物した。桟敷には、
予告なしに饗応奉行の台所屋敷へ臨検した。このところ安土は照入梅のような蒸暑さであったせいか、乾物や生魚の臭いが
思うらく。安土の城中はいま饗宴第一夜の歓語談笑に華やいでいる頃であろう。主賓
「安土のお城に、まだ人々は寝もせず、夜を更かしているとみ
――安土からこの坂本まで、振り向けばまだうしろに見えそうな近くであるにかかわらず、
、彼も解せぬものを抱いていた。信長公が安土の城に大賓として迎えた家康の饗応に、その数日のあいだ
で、思わぬお方にお会いするものではある。安土においでて、寸暇もなくお勤めと伺っていましたが、きょうは
ここ久しく会わなかったが、光秀はこの大医と、安土の城内でいくたびか同席したことがある。そのうち二度ほどは茶席
だし、住居は京都にあるので、そのたびごとに安土まで通うのは、いくら丈夫といってもなかなか有難迷惑のようであった。
、わけて海外文明には、鋭感なお方なので、安土の南蛮学校にいる紅毛人の医師に命ぜられて、伊吹山のふもとに、薬園
は、一小隊の従者をつれて、遅れ走せに、安土から坂本城へ引き揚げて来た。
みな唇を噛んだ。進士作左衛門はなお語をつづけて、安土の重臣間には、主人光秀の失意をむしろ快となす空気が多分にある
作左衛門が云い出すまでもなく、この十九日附け発令で、安土から明智家に手交された軍令状というものは、光秀のみならず全
それは、信長が、いよいよ月の末二十九日に、安土を発向、京都に一泊して、直ちに西下するという日取の決定や
の子、三位中将信忠がいる。また数日前に安土を辞して上洛した徳川家康も泊って、大勢の案内衆や接待役に
ば二十九日と意識する。夢は天狗と化し、うつつは安土の城を考える。二十九日、二十九日、信長は安土を立ってこの
の城を考える。二十九日、二十九日、信長は安土を立ってこの日京都に向う。
「六月一日ですか。して、安土の方へは」
もちろん信長は詳しいに違いないが、たまたま、安土で見かけたり、人のうわさや茶室づきあいの程度の者では、こう二人の
帰帆を持っても然るべき茶人となり得よう。それまでは安土へ預け置くことじゃな」
安土へお急ぎあるこそ、万全の策と思われます。安土へだにお入りあれば、あとの手段は如何ようともつきましょう程に」
敵味方おたがいに、かつて安土に在る日には、顔も見知りあい、友の交わりをなしていた仲
である。おそらく同日の夕刻には、すべてのことは、安土へ分っていたにちがいない。
が耳に蒐めた情報は少なくない。けれど肝腎な京都、安土方面のうごきは、皆目知れない。交通が遮断されているためと、彼
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おおかたの将士にとっては、真に思いもかけなかった桂川のながれを四更の空の下に見ていた。
天野源右衛門の手勢数百が、ざぶざぶと、桂川を徒渉してゆくのを見て、明け空近い旗風の下の一万余人は
振り返れば、もう桂川の中には、余している人数もない。
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院の全宗や、また正覚院の豪盛とか、日吉の禰宜行丸などの硯学たちが、諸方に散亡していた山徒
いう。その辺りには、農家もあろう。さなくば、日吉における工匠にでも預けて参ればよろしかろう」
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六月朔日以降、二日も三日も、京都及び近畿地方はほとんど晴天で、照りつける暑さだったが、中国地方の気象は、概して晴
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伊賀、甲賀の者の役目は、いつも攪乱戦か偵察だった。極めて小隊をもっ
半分、味方の内に半分、両棲を常としている伊賀、甲賀の者は、すこしも敵地深く入って来たというような危惧を
虎之助と、伊賀、甲賀の者は、その底を這っていた。
に寄って、草のそよぎにも神経をつかっていた伊賀、甲賀の仲間だった。
同じ侍でも、伊賀、甲賀の者には、行ったきり、死んだきり、という信条はない
さして騒がしい動きも見えませぬ。あれから信楽へ出られ、伊賀へとかかれば、おそらくまだ明智勢の手は廻っておるまいかと察しられ
家康の一行が、信楽から伊賀へと向って来たときあとから追いついて来た家士の一名が、その
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秀吉はそのとき、岡山城の本丸の一室で、ことし元服したばかりの宇喜多直家の子秀家と共に
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生じ、いずれにせよ、畿内はもちろん、中国方面でも、関東でも北越でも、地上に戦いの行われない所はなくなるであろう。そして
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、次第にそこの建物なども判別されて来る。わけて二条城の白壁はほかの何物よりも明らかだった。
「二条城ではないのか」
信忠は父よりすこし先に入洛して、二条城のそばの妙覚寺を宿舎としていた。父が入洛の夕も、
防ぐよしもない。すぐ間近には二条城がある。二条城こそ、たてこもるには屈強と信忠にすすめ、諸将は先にそこの門へ向っ
ては尠なからぬ気勢を添え、そのあいだ信忠も無事に二条城へ移ることができた。
この妙覚寺へ駈けつけて来た。折から、信忠以下、二条城内へ転陣のところだったので、その妨害戦に出た明智の先鋒と
方では、信忠の手勢が、妙覚寺を脱して、二条城へたてこもろうとは、少しも予期していなかった。
令を発して、本能寺方面の人数を割いて、すぐ二条城へ向い、光忠に協力せよとも伝えていたところだった。
石垣はふつうの石垣組とややその線がちがっている。二条城の普請の当初、光秀も奉行の一員として加わっていたので、
けれど、本能寺でも、二条城においても、鎌田新介などは例外な者であった。武門といって
「平介にはまだ聞き及びないか。本能寺はもとより、当二条城もはや落去。今しがた信忠卿にも御生害あった。天下はこの半日に一変
光秀はさすがに民衆の心理を察して、まだ本能寺や二条城のけむりが墨の如く天を蔽っているうちに、全市へ向って、
、全舎を提供して、ここに本能寺の負傷者や二条城の合戦からよろ這い落ちて来る武者たちを収容し始めたのは、実に
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白河越えは、これから瓜生山の尾根へ降って、一乗寺の南へ出る道。――ここまでは登りづめであったのが、あと
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「そちはこれから愛宕の山上へ参って、威徳院の行祐どのに伝えよ。明日、光秀参拝の
さきには、京都の紹巴に招き状を送り、いまは愛宕の参籠を先触れさせていた。彼は、天の味方を信じながら、
二十八日、愛宕御参詣
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但馬より因幡へ入り候え。敵毛利輝元の分国、伯州、雲州へも、構えなく乱入に及ばれい。油断あるな、猶予あるな。早々、
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昼中は暑かった。仁和寺から嵯峨へとかかる平坦な道は、殊に乾いて、真夏のような草いきれが
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(河内の飯盛辺を、それらしい御同勢が東の方へいそいで行かれた)
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(いや、安土を退去して、亀山城に帰国してからだ)
、藤田伝五などの将は、一部隊をひきいて、亀山城へいそいで行った。
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たとえば、甲州打入りの際、諏訪の陣所で、主人光秀に飲めない酒をむりに強いて、酒興のうえと
報じた数々の功を称え、一転して、信州上ノ諏訪で折檻をうけたこと、以後たびたび不興にふれ、高家大名たちの前では
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てはいたが、同僚の一隊は宵のうちにもう亀山へ立ったし、主人光秀もつづいていつ出発を触れ出すやも知れないし
日の三竿にいたるまで寝所から出て来なかった。亀山への出発はおそらく今日と察して、それも早朝に触れ出されるであろうと
の下刻、当所を御出立、白河越え、洛北を経、亀山へ御帰国被遊。御用意とどこおりなきように。
亀山へ供して行く将士の同勢は三千に余った。夕べ迫ると、光秀も旅装
彼は坂本の家中だけで一戦隊を編成し、後から亀山へ赴いて本軍と合する予定になっている。
の間道をこえ、その夕方、陽もとっぷり暮れたころ、亀山の本城へ着いた。
城主の帰国を知った亀山の町民は、夜空も染まるほど篝火に祝いの心を見せていた。事実
左馬介光春が亀山へ来て、合したのは三十日であった。彼の坂本勢だけでも
亀山の町はこの日を期して、がらんとしてしまった。あれほどいた
、山裾から山裾にかこまれている一盆地だ。――亀山を離れた軍馬のながれ、旌旗の列は、前後して、続々とこの一
かけては、随一の知識でもあったから、坂本や亀山には、その備えもあったろうが、目標が本能寺と妙覚寺であり、
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「来たらなぜ筑前の所へも、稀には顔を見せぬか」
並に扱ってやろう。戦場の往来が不得手ならば、筑前のうしろに控えて、帳面算盤を持っておるもよろしい。軍のうちには
なぜならば、小早川隆景は、筑前の立花や豊後の大友宗麟などと交戦中であった。吉川元春は、鳥取
たびはまた、馬之山以来の対陣と相成った。筑前がよろしく申しおったと伝えてくれよ」
如く、清水宗治と吉川元春との意志は手にとるごとく筑前に読みとられてしもうた。くれぐれも、要意のうえに要意をして
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八幡山 宇喜多衆一万人
平山の高地へ、羽柴秀勝が五千をひきいて進出し、八幡山には、宇喜多秀家の一万が戦気を昂めていた。
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というにあったが、信長が甲州凱旋の道を東海道に選んで、多分に彼の好遇と歓待に甘えて帰った後、わずかまだ
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。ひそかに彼は、主君信長に従って赴いた北陸や伊勢の陣を思いくらべていた。
信長の父信秀が、伊勢の神垣へ御仕えしたり、禁裡への奉仕につとめたのも、要するに
氏郷とともに、居城日野に堅守のそなえを急ぎ、一方伊勢の松ヶ崎城にある信長の第二子北畠信雄へ、
が、ふいに江州一円に蜂起しては? また伊勢の後ろに起っては?」
つけば、宇治を通って、伊賀越えの間道をいそぎ、伊勢へ出て、海路、三河へ渡るのが、困難な道ではあるが、
ようやく伊勢に入り、船で三河の大浜へ渡りこえた。
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それ以前の家の業はいわゆる鉱山師で、石見銀山の採掘をもっぱらにしていたものだが、同じ富を掘るものなら海外
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の頃からか、朝日ヶ嶽、大鷲ヶ峰、高尾山、鎌倉山、龍上などの峰々に仏舎宝塔が建って以来は、五台の仏地
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談笑に華やいでいる頃であろう。主賓の徳川殿以下、浜松の家臣と、安土衆の面々とが、綺羅星といながれている様も思いやら
なぜならば、徳川殿という曠の大賓をむかえ、浜松の家中にも、京の貴紳にも、織田家の宿将たちにも、
ある。――にも関わらず、危険を冒しても、浜松まで帰ろう。後図の何をなすにしても、ひとまず本国へ立ち帰った上で
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て、織田の軍門に降伏するならば、戦後、備中、備後の両国に多分の領地を宛て行わん。神明に誓って違背はない。そういう意味の墨付
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備前岡山の城はいま旺んなる改修増築の工事にかかっている。
だが、ここの岡山は、折ふし上巳の節句とて、どこのむすめも女房たちも、桃の昼
秀吉はそのとき、岡山城の本丸の一室で、ことし元服したばかりの宇喜多直家の子秀家と
岡山から敵の高松城までは一日足らずの行程。騎馬なのでなお早め
もう出会うものは、敵の人ばかりだった。ここには岡山の城下に見るような春もない、人もない。田に百姓の影
岡山へ帰るとすぐ、官兵衛、彦右衛門のふたりは、秀吉のまえにあった。
頃。姫路に待機していた秀吉直属の二万は、岡山へ入って来た。それへ宇喜多の兵一万を合わせ、総勢三万の装備
堺の薬種問屋、小西屋寿徳の次男と生れ、のちに岡山御城下の同業の家へ養子として参り、たえず堺と中国を
小西屋弥九郎は、暇を乞うていちど岡山へ帰った。けれどまたすぐ帰陣して、その日から秀吉に仕える身と
吉備から足守川の上流の山地へ、北は龍王山から岡山境の山々まで。そして、東は石井山、蛙ヶ鼻の山端れにわたっ
もちろん宇喜多家の協力もあるので、岡山方面からも人力は徴発して来た。数千人をこえる頭数は、まず忽ち
に、方丈へ入った。――ちょうどその頃である。岡山道の飯倉の木戸で、早馬を降りた一人の使いが、番の武者
この往還、岡山から秀吉の石井山へも通じるし、日幡を越えて、小早川隆景の陣営、
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「同じく、松江伝介。ただ今もどりました」
「お。山口銑蔵、松江伝介のふたりが帰って来たか」
用談だけを訊くところとされている。山口銑蔵と松江伝介がそこへ入って慎んでいるとすぐ、
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福島市松が次の間まで来て秀吉へ告げた。
その中に、福島市松もあった。小姓組から名乗り出たのは彼一名だった。
。小姓どもが攻め取るには手頃であろう。行って来い。福島市松にこれは命じておく」
福島市松は、おもしろくない。隊を解いて、部下へも、休めを令し、
その幕の隣から福島市松は、腹這いのまま覗きこんで、今なお姿勢もあらためないのである。
、虎之助が顔を上げて見まわすと、秀吉のかたわらに、福島市松が見えた。それまでやや仏頂面していた市松が、急に顔
石田佐吉が、腰をさするまねすると、福島市松が、
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家の諸臣のあいだでも、市松は評判がよい。鳥取城や上月城で、功をあらわしたことも聞えている。将来ある若武者
ていた。この槍は、彼が十八歳のとき、鳥取城の搦手で功名をたて、その折、秀吉にねだって拝領した彼
の大友宗麟などと交戦中であった。吉川元春は、鳥取城を中心とする敵勢力の山陰展開にたいしその処置に忙殺されて
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の防禦線七城をつらねてその中核塁をなしている高松の城。それをまず衂らずに抜こうと苦心していたので
届いた。ついては、いつも難渋なことのみ頼むが、高松城まで参って欲しい」
て違背はない。そういう意味の墨付で、すなわち信長から高松城の守将、清水長左衛門宗治へあてて示すものであった。
くれ。彦右衛門、御身も副使として、官兵衛とともに高松城まで参るように。――そして清水宗治に会うた上は、官兵衛に
、もうよいから、すぐ支度して、市松とともに、高松城へゆく使者に従いてゆけと命じた。
岡山から敵の高松城までは一日足らずの行程。騎馬なのでなお早めに行き着こう。黒田
高松の城は平城だ。大手へかかる道の左右までが田圃や野である
「高松の城から西北三里余に、足守と申す町があります。そうです
「して、高松の主城には」
「高松から半里ほど東南に、加茂の城があり、これには、兵約千
で、この慎重な行動を中には飽き足らなく思って、高松城や、その余の小城のごときは、この三万を以てすれば一撃
秀吉はまず、高松城の北方遠くにある一高地――龍王山に陣した。
ここから、真南に、高松の城を俯瞰す。
すると、敵の七城の位置と、主城の高松と、唇歯の関係をなしている地勢が一目にわかる。
「高松の右翼、宮路と冠の二城。左翼の加茂、日幡の二城。
きょうも赤々と陽が落ちかけていた。敵の主城高松城のあたりに薄い炊煙がたちのぼっている。
高松の城についで頑強と思われたのは、日幡の城である。
のこるは一つ、高松城の主力のみが、ここにぽつねんと孤立のすがたになった。
もとよりこうした頽勢は、高松城の清水宗治から、毛利家へ向って頻々と、
に赴く。ただ問題はそれまでの防ぎだ。頑張りだ。高松の一城だに頑としておれば、敵は芸州へ一歩も入る
のもとに、すべての邪魔をのぞいて、いよいよ残る一城高松の包囲を行動しはじめた。
―毛利方四万という本国勢の急援が間に合って、高松城と聯絡をとり、呼応してお味方へ攻勢を展開してくるおそれ
「高松の陥ちるか否かは、敵にとっても、味方にとっても、
「左様仰せられますが、高松の城は、平野と耕田の底地に位置し、四囲には手頃な山々
石井山は高松城の東に見える高地で、距離も程よく、ほとんど、敵城と直面するの
は幕僚、六、七騎をつれて山を降り、はるか高松城の西――その城を右手にのぞみながら、足守川の門前とよぶ
その平野の湾のまん中にぽつねんと高松の城は、平城式構築を示している。
の山岸は、曲線の多い磯や岬とながめられるし、高松城はまさに人工的な一孤島ということができる。
、水攻めの成功を確信し得る素因は、なによりもその高松城が平城式なる上に、石垣もわずか二間しかないところにあった
、高さである。この高さは水攻めとする対象の高松城と比例せねばならない。実に、水攻めの成功を確信し得る
そしてこの陸の築港も完成に近づきつつある一面、なお、高松城附近の七ヵ所の河川では、べつにここにも劣らない難事業
た激流は、水けむりの方向を変えて、とうとうと、高松城をめぐるひろい田野や民家のある平地へ目がけて、奔馳して行った
が、すぐそこの国境の山々まで着いたのは、すでに高松城のまわりが、いちめんな泥湖となった翌五月二十一日のこと
か、夜来の雨を加えて、濁り漲った水は、高松城ひとつを、その湖心にぽつんと残しているほかは、その石垣も
「これは城兵ではないな。毛利の陣中から高松の城へ使いを命じられたものであろう。何も持っていないか
に駈けつけて来たが、四方満々の水に囲まれた高松の城へは如何とも救いの手をのばす策がない。――如かず
ますが、この一城は、今や全中国の要、高松の落ちることは、即、毛利家の失墜を意味します。せっかくながらわれ
孤城高松の運命は、もう網の中の魚に似ている。
十六、十七、十八、十九日の頃といえば、まさに高松城を孤立化するために、あの大築堤を前提とする水攻めの計が実行
猶予あるな。早々、丹波へ帰国、陣用意をととのえ、高松城包囲中の羽柴秀吉にたいし、山陰道より側面牽制のふくみあって然るべし
小早川の大軍と、いまや四つに組んだかたちで、高松の城に釘づけとなっている。もし款を毛利家に通じ、彼に
に飽々した一般の喞ち言であったが、備中高松の一城を、長囲攻略中の羽柴軍にいわせれば、
孤城、高松の城は、その大湖沼のなかに、ぽつねんと水漬いている。はるかその
いま敵の高松城へは水攻めの計をまったく施し終って、信長の西下を待つのみと
眼前の敵、高松城をいかに処理するか。毛利の大軍三万余をどう捌くか。なおまた
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こと。信長公を始め味方の中軍は上諏訪に進駐、近く甲府御入城の予定――などの事柄であった。
、天目山に滅亡し了んぬ――ということ。また、甲府占領接収のこと。信長公を始め味方の中軍は上諏訪に進駐、近く甲府
など、寄々に恨み合い、悲涙をたたえ合い、甲府以来、信長へ対して頓につのらせていた忿懣やら反感に油をそそい
すでに甲府出征中、下諏訪の陣所で、主人の光秀が、衆人のなかで耐えがたい
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、彼をも督して、その振舞のために手つだわせ、京都、堺の商賈に命じては、あらゆる佳肴鮮味の粋をあつめた。そして
はおらないそうでございます。山上へまかるにも、いちいち京都詰のお奉行か、安土のおゆるしを得ねば許されず、また
、権者に召し抱えられるのは好まない質だし、住居は京都にあるので、そのたびごとに安土まで通うのは、いくら丈夫といっ
ありませんか。いつも壮者をしのぐばかりなお元気。きょうは京都からお登りでしたか。何か、御遊山のお連れとでも?
信長が、いよいよ月の末二十九日に、安土を発向、京都に一泊して、直ちに西下するという日取の決定や準備の聞き込み
に歩いていた。そして四明ヶ嶽の南から寝しずまった京都の町を西方の盆地に見出したのが、ちょうどその両日の境にわたる
さきには、京都の紹巴に招き状を送り、いまは愛宕の参籠を先触れさせてい
。二十九日、二十九日、信長は安土を立ってこの日京都に向う。
「二十九日の夕、つつがなく京都にお入りの由です。信忠公には妙覚寺に、右大臣家に
「これは京都の森於蘭殿から昨夜到来した書状であるが、心得のため、物頭
旗を立て、勅命にこたえ奉るなりと声明して、一挙京都に入り、六波羅を陥した。高氏の部下が矢を納めたという
が赤く落ちていた。六月朔日は、一日じゅう京都もひどく照りついて、かなり深い濠の底まで、ところどころ泥の乾きを見せ
もっともそれが今の京都をあらわしている文化の横顔といえるかも知れない。本能寺そのものも
またこの両三日中の訪問者には、京都の名だたる貴紳を網羅しているといってよい。菊亭晴季を始め、徳大寺
、大村、長崎はもとより九州、四国の辺土、また大坂、京都、堺などにかけても、先祖からの仏壇を捨てて、耶蘇教に帰依
ひとみを凝らすと、京都の町も、暁闇の底に、見えないことはない。だが、老
道はすでに京都の西七条の入口に近い。東寺の塔の下までも、所々の
それらのものと鼓譟する軍馬のひびきで、一瞬、京都の空はぐわうと鳴るような思いがあった。
堺にあり、堺の納屋衆の一人であるが、多くは京都に住んで、加茂の清流に臨む閑雅な寮で、余生を楽しんでいる
徳川家康は、その後、京都大坂を経て、いまは泉州附近に滞留中と聞えている。茶屋四郎
をはたらかせていたので、光秀の面色は今暁、京都に入るまえの凄愴な眉から、さらにいちばいの必死と「われにも
まだ事変の最中に、博多の宗湛とともに、京都を立ち、その宗湛と、淀の船つき場でわかれて、堺へ急い
「京都までまかり上る」
に胸を伸ばした。そして青田の果て遠く枚方の堤から京都方面を凝視していた。
たとなると、忠勝も驚愕した。さしあたって、いま京都への途中にある自己の進退にも迷った。
見ると――月の末(五月二十八日まで)は京都見物に過し、二十九日には堺へ向い、晦日には、堺奉行所の
て、お昼食その他の御予定も一切抛たれ、慌ただしゅう京都へお立ちになった」
本能寺の事あった翌日六月三日でさえ、まだ京都の凶変を知らずに、上杉方の魚津城を懸命に攻めたてていた
地理的に見ても、京都とは、目と鼻のさきである。おそらく同日の夕刻には、すべて
「京都に大変が勃発した」
しまった。――打ち洩らされた信澄の部下の少数は京都へ奔って、直ちに明智軍に投じた。
「京都より、逐一、御報告のため、茶屋四郎次郎が、お慕いして参り
右大臣家の御生害はまぎれなきことか。兵乱はなお京都だけに止まっておるか。途中の人心のもようはどうか」
から家康が耳に蒐めた情報は少なくない。けれど肝腎な京都、安土方面のうごきは、皆目知れない。交通が遮断されているため
は、筒井家を代表して、光秀と会うために、京都へ入ったとか、行くとかいう噂がありました」
まま、きょうもまだ動かず、わずかに槙島の井戸良弘を京都へ行かせているようでは、事前に明智方と諜し合わせがあった
六月朔日以降、二日も三日も、京都及び近畿地方はほとんど晴天で、照りつける暑さだったが、中国地方の気象
長谷川宗仁様からの使いですッ。怪しい者ではない。京都を二日の昼立って、いま着いたのだ。決して、うろんな者
弥兵衛は手につかんでいる状筥を示して、京都からたった今着いた早馬の使いの容子、ただ事ならず思われるので、
よれば、その飛脚は、昨二日の正午の刻に京都表を立って、いま三日夜の亥の刻にここへついた者
京都からこの地まで七十里余の道を、ざっと一日半夜で来た
よりすぐに、麾下の士の目きき足きき選りすぐって、京都表から毛利領へ通ずる往来という往来、間道という間道に、水も
「万一、お味方の中たりと、京都の変が漏れてはと、あちらでお案じの態だ。いっそいまの
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その神戸信孝、丹羽五郎左衛門、津田信澄などの一軍は信長に先だって、諸般の
あった。その気もちは、信長の第二子北畠信雄と、三男神戸信孝の在るにたいして、当然抱かずにいられない一般の同情でも
折も折、その信澄は、信長の第三子神戸信孝や、丹羽長秀などと共に、阿波、中国への出軍の装い
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「ここわずか十年ともいわぬうちに、大村、長崎はもとより九州、四国の辺土、また大坂、京都、堺などにかけても
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(そちひとりは、岐阜城へ赴いて、この急変を家中に告げ、わが子の三法師を
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利家は能登の七尾へ、成政は越中の富山へ。そして勝家は北ノ庄にひとまず旗を収めたが、かかるあいだの各人の
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「郡山の筒井順慶は、なお奈良に留まっておるか、奈良を出た様子か」
「郡山の筒井順慶は、なお奈良に留まっておるか、奈良を出た様子か」
「なお奈良に滞在したままでおりますが、家臣の井戸良弘どのは、筒井家
て、居城郡山を発し、装備された軍団を擁して奈良まで来ているのだ。時をまたず、いつでもすぐその意志を
「奈良に滞陣したまま、きょうもまだ動かず、わずかに槙島の井戸良弘を
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「お留守には津田源十郎どの、加藤兵庫どの、蒲生右兵衛大輔どの、野々村又右衛門どの、丸毛兵庫守どのなど、御本丸守り、
蒲生賢秀の所へは、早くも同夜ひそかに光秀から手を廻して、招降
、主君の眷族を奉じて、翌三日には、郷里蒲生の東郡にある日野城へ退き移った。
と顛動と方針の狼狽が起った。とりあえず、信雄は、蒲生家の一女子を人質にとって援軍を派した。
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「――そうか。……するとあすの朝はもはや住吉の浦から立つわけだな。老練な五郎左の佐けおることだ。諸事
は信長に先だって、諸般の軍備をととのえ、明朝兵船で住吉からまず阿波へ渡ることになっている。――その報告やら、また数
奥に見えた人影は、涼やかな大模様の帷子に、住吉の松と吉野の桜を染めわけたうちかけを掛けて、その背までみどり
、阿波、中国への出軍の装い成って、今しも住吉の浦から兵船に乗ろうとしているところだった。
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泉州鷺ノ森の本願寺一門、伊賀上野の筒井順慶、山陰の細川藤孝、その子忠興などの親族から、近畿の