新書太閤記 11 第十一分冊 / 吉川英治
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沈黙の巨人のように、岡崎城の物見櫓が、木枯しの中に、突っ立っている。狭間狭間にも、こよいは
その後も、この岡崎城を、数正は城代の主将に、伝右衛門は二の丸の副将に、選び任ぜられた
と見ていうぞ。――主君の信をうけて、岡崎城の城代を勤める老臣が、大坂方へ寝返り打って立ち退くのを、たれが、
が、すぐ、馬を引っ返し、岡崎城の本丸に入って、非常太鼓を打たせた。
北畠信雄が、岡崎城を訪ねて、家康に、用あり気な顔を見せたのは、石川数正
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いるだろう。わしがまだ今川家へ質子として、駿府に、幼少を送っていた時分――おまえらもまだ鼻たれで、おまえ
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「春日山の太守景勝様には、当城に御在陣ときき、主人羽柴筑前守様
「謙信公のお跡目たる春日山の主に、馬の口輪を取っていただいたのは、おそらく筑前一人であろう
書簡を持って、越後へ行きます。そして、景勝様の春日山に、そのまま、質子として、留まりますが、必ず、景勝様の
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九鬼、仙石、中村一氏の諸軍は、さらに熊野へ進攻した。熊野本宮の社人、郷党たちは、膝をつらねて、降参
、その徳川家をしり目に、徳川系の与国たる紀州、熊野を攻略し、四国の長曾我部を降し、内海一帯を鎮め、転じて、宿題の
て、頻りに、大坂の留守を脅かしていた紀州や熊野。また四国の長曾我部などが、ここ次々と、家康の手足を斬り取る仕事のよう
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「菊亭どの。これは堺のそろりと申し、毒にも薬にもならん男。お気づかいなく、お
「いやいや堺の塗師で、杉本新左衛門という剽気た男でおざる。刀の塗り鞘を
物好きではあるまいか。あの猫背の歯抜け爺を、堺から召し呼んで、伽の衆に加えおく物好きと、将軍家になりたいと
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舳々の、旗じるしを見ると、大和、紀伊、和泉、摂津、丹波、播磨などに、国別することができる。
紀泉、大和の船は、羽柴秀長の兵。摂津、丹波は、甥の秀次のひきいるものと、すぐわかる。
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家康は今や、秀吉との対戦に、岡崎から清洲まで出て、大編制にかかっていたところである。
「めでたい。戦はやんだ。めでとう、明日は岡崎へ帰ろうぞ。そちたちも、はやはや家路について、女房子の顔で
あるや否や、余りに、遷延しても困る。さっそく岡崎へお使いを立てられたい」
即日、二名の重臣を、自分の代理として、岡崎へ向けた。
知信、副使津田信勝のふたりが、講和使節として、岡崎へ来た。
質子の行列を見送った岡崎の将士は、沿道に立ちならんで、みな泣いた。
、ひとまず終った。信雄は、年暮の十四日に、岡崎へやって来て、押しつまった二十五日まで滞在していた。家康は
第一線に近い岡崎を退き、わざと浜松に、閑をめでて、大坂のことなど耳から遠い顔
あらたまらず、上方筋の情報を耳にすれば、忽ち、岡崎、浜松にその反撥が露呈して、
岡崎にある中堅たちは、表を書いて、連署した。しかし、その連名の
―もうひとつ、かれの心に、絶えない危惧は、岡崎、浜松の将士の間に見える小牧以後の不満と不穏な空気である。
れて、いや応なく、ふたたび第一次の小牧戦よりはるか岡崎に近く東下して来るであろう。そして今は、徳川を支持する北越の友軍
かれは上方を実見し、秀吉の人物に接し、到底、岡崎や浜松の比でないことを痛感していた。
(もし、数正が、岡崎を去ったら、御主君のお心は、どんなであろう。不忠不義の人でなしと
重大な決意を、胸に秘め始めていた。――岡崎の脱出だった。折もよし、こよい十一月十三日の烈風の闇夜こそ、
(今夜、岡崎を立ち退き、かねての行き先へ、落ちて参る。鳴海の船着きにて、待ち合わせ候え)
――人も知る伯耆守数正ともあろう者ゆえ、たとえ岡崎は去っても、さだめし、生涯を浪人して、つつましゅう武人の晩節を守る
におかれているが、ともかく、主君家康より信ぜられ、岡崎の城を預かり、一家眷族も、それぞれ、食と所は得ているのだ
、国中の大事件であった。彼は、即日、岡崎へ出向いた。
逸早く、駈けつけて、岡崎の諸門を堅めていた譜代の者に迎えられると、それらの多年手塩
「――こんど、岡崎へ立ち寄られたら、秀吉が左様に申して嘆じおったと、徳川どのへ伝え
三名は、時刻をはかり、岡崎の老臣を通じて、きょうの昼、もいちど、家康に会いたいという
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。――ここも変らない新開地的な色彩の中に、難波津のむかしのまま、こんもりと青葉の樹立に抱えられた一宇の堂と風雅な
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大野城は、健在だった。山口重政に、実情を聞き、その重大性におどろいて、
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「まだ一ノ宮の城も、岩倉城も守り支えている間こそ、降伏するにも、有利ですし、後々の大きな
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、旗じるしを見ると、大和、紀伊、和泉、摂津、丹波、播磨などに、国別することができる。
紀泉、大和の船は、羽柴秀長の兵。摂津、丹波は、甥の秀次のひきいるものと、すぐわかる。
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「桑名へ、援けにゆけ」
縄生は、桑名の西南一里ほどな地点、町屋川に沿う一村落だが、木曾川、揖斐
うなずかれるとすぐ、この月、十一日の巳の刻、桑名の西なる矢田川原までお立ち越しは如何……筑前にも同日同時刻、
「桑名を通るにも、長島へ入るにも、細心を要しましたが、しかし、
見て見ぬ顔で、馬上、談笑をかわしながら、やがて桑名の西郊にちかい矢田川の岸まで来て、
と、突然、桑名にいた酒井忠次が自身で、夜どおしの道程を、早馬で飛ばして来た
「昨日。桑名の西、矢田川原におきまして、信雄卿には、秀吉とご会見を
「昨日。――長島をお出ましあって、桑名を通られ、矢田川原へお立ち出でのせつも、守備、配陣を、御覧
「今朝から、お居間は、いと静かだ。――桑名から来た左衛門尉忠次どのや、大須賀康高どのなどの、老臣ばかりをよばれて
「縄生の陣所にある羽柴どのと、桑名の信雄卿のおん許まで」
「御老人は、先鋒の兵をひきいて、桑名の城下にいたのではござらぬか。信雄卿と秀吉が、矢田川原
和睦成立の祝使として、酒井忠次とともに、桑名へ行った。そして信雄に会い、また、縄生の秀吉を訪れて、
一日、桑名の城へ、秀吉が訪ねた折、よも山の話のあとで、かれがたずね
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家康は、こう答えて、ただちに真田の上田城へ、再三ならず、沼田明け渡しの命を達した。それを怠っているの
程度の――一衛星国――それが徳川家における上田城の真田だった。
「沼田を北条に明け渡し、上田城一つとなってから、難題をいわれて、その期に、自滅を招く
上田城に集合した真田一族の軍議の空気は、一も二もなく主戦的で
於弁の帰国に、真田一族はただちに、上田城の戦備をかため、
を示し、その日のうちに、かんが川を押し渡り、上田城へつめ寄せた。
焼いた猫。それのように、以後、徳川軍は、上田城を遠巻きにし、兵糧の道をふさいで、動かなかった。
子として、御当家にとどめおき、何とぞ、危機の上田城をお救い下さい」
さきに、上田城の真田昌幸が反いて、飼犬に手をかまれたような苦杯をなめた
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婚儀の準備をいそぐと見せて、富山城の密室では軍議をこらし、武庫では、弓のつるを試し、鉄砲を
おそらく、この飛報は、青天のへきれきとして、富山城の佐々成政の耳を打ったろう。
と、みずから料紙に向って、墨付をしたためた。富山城をふくむ新川郡一郡を、この後も、成政の扶持料として与える
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移ってからは、いつのまにか、三の丸には、三条の局だの、加賀の局というのができ、また、二の丸には、
「おとといの夜も、三条の局のお部屋で、明け方ちかくまで、何を騒いでおいで遊ばしましたか
秀吉を繞る女性群としては、松の丸どの、三条の局、加賀の局、また、まだ少しあどけなさ過ぎるが、あの於茶々だ
――上臈風な知性美と気品の高さでは、三条の局であろうか。……といえば、笑うであろうが、そもそも自分は
と約束し、西の丸へ渡ったにちがいないが、三条の局だの、お茶々だの、松の丸たちが、もうさっきから、膳部
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大垣城を出たときから、見えかくれに、使者の一行について行く者があった
大垣城内での、物ごしといい、秀吉の手紙を一同に読んで聞かせた態度
弥兵衛は、帰陣するとすぐ、秀吉の前へ出て、大垣城の遺族たちのもようを、こまかに復命した。
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信長の安土の城にいたことはあっても、この大坂城の雄大さと、内部の金壁の美には、眼をうばわれて、
瓦の一枚一枚が金箔につつまれている大坂城の宇宙の大屋根は、時の力と、時の富と、時の志向を
「日ごと、そちと共に、大坂城のおふすまを描きには通うておるが……。権門の壁に生涯の
日も、狩野永徳は、弟子の山楽をつれて、大坂城内の金碧のふすまに、終日の労作を終えて、帰ったところだった。
「大坂城の北の丸のお末に働いているものでございます」
のお稽古は、断わっておられます。……それに、大坂城の障壁画もまだ何年たったら完成するお仕事やらわかりませんし。……ほか
蝶々と呼び、こんどの拾い者だと称して、得々と大坂城へつれ帰ったのではあるが、はしなくも、それから数日後、北の丸の
、すぐそんな同情と励みを約して連れ帰るなどは、時の大坂城の主人としては、余りにも、軽々しいといわねばならぬ。
秀吉はここ一ヵ月ほど、大坂城にあって、内政を見、外治を計り、そして私生活にも充分、楽しみつつ
松の丸の二人ぐらいなものだった。それが、この大坂城へ移ってからは、いつのまにか、三の丸には、三条の局だ
出陣を見、帰陣を見、大坂城と美濃地方とのあいだを、これでこんどは、幾度目の発向か。
、成政は前田を蹴ちらして、江州、京都へなだれ入り、大坂城の道を断って、猿めを、囲い捕りにしてお目にかけよう。
してだが――実は、人質として――大坂城に着いた。
さえ、軍備や諜報に狂奔している一部の勢力も、大坂城の門には馬をつながない。
を抱いたときは、すでに自分も手伝って造りあげた世代の大坂城は、いかんとも他から動かすことはできなかった。そこの主人は天下人と
は、大いに恥じて、すぐ尾藤知定を使いにたてて、大坂城へ、書を送った。
まだ片づかぬまに、また北へ大軍を分かち、あまつさえ、大坂城を留守にするなどという悪手を、どうして秀吉ほどな人がやるの
とは云い合ったものの、時めく、大坂城の秀吉が、何の予告もなく、突忽として、越後の一城下
は文字どおり、南船北馬の征事を果たし、九月、大坂城へ帰府してからは、久しぶりに、内治外政を視――また彼らしき小閑
日を約して、かれは早速、大坂城へ、公用の名目を作って出向いた。そして秀吉と会った。
わるい微笑を見せて、しばらく秀吉をにたにた見まもった。当今、大坂城の主の声といえば、公卿百官はもちろん、天下の諸侯もみな慴伏せ
こういう秀吉。こういう大坂城を中心とする内外のうごき。――そして、こういう天正十三年というただ
「では、たれが大坂城へ、使いに立つか」
まず浅野弥兵衛長吉のやしきを訪ね、弥兵衛に連れられて、大坂城内で、秀吉に会った。
まだ総角の一少年が、諸侯といえども畏れをもつ大坂城へ初めて臨んで、自分の前で、この大言をなすことよ――と、
この少年使者がよほど気にいったとみえ、その夜は大坂城に泊めて馳走し、翌日、時服と刀を与えて、郷里へ帰した。
と話につり込んでおいて――数正が他意なく、大坂城の雄大、市街の規模の大、庶民の文化水準の高さなど、思うまま
彼の心に、比較が生じる。秀吉を思うとき、新しい大坂城を中心とする文化、軍容の興隆を思う時、数正は、ふらふらと、上方
「こんど、関白になられた、大坂城のあるじに訊いてみられたらどうじゃ」
、質子として、家康の一子於義丸が、大坂城へ送られたときから――
「当家を落ちた石川伯耆守が、大坂城へ、養うてくれと申して参ったそうな。――それについて、
ふたりは、大坂城へ到るや否、この重大な復命をもって、秀吉の側近に、すぐ目通り
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隣国の上杉景勝は、新潟城を攻めるために、蒲原郡に出撃中であったが、
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「――信州、深志の城に入れ置かれました小笠原貞慶も、伯耆守の出奔と同時に、
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方の加賀一円の配置を展望すると、長子の利長は松任城に。前田秀継とその子利秀とは津幡城に。また前田秀勝、良継、
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はその頃、すでに小牧の軍勢を収め、清洲をひき払い、浜松城に帰って、怏々と、楽しまざる数日をここに過していた時だっ
知らない様子で――迎えの人数伝馬を従えて、やがて浜松城へはいって来た。
佐々成政も、結局、この手に会って、不得要領に、浜松城を去った。
こんな手輩が、浜松城の門をたたき、ここの主をかつごうとすることは、今に始まったこと
家康は、春から夏も、浜松城に暮していた。
日の明け方から、その夜にいたるまで、ひっきりなしに、浜松城の奥へはいって来た。
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うわさは、隣国の北条家や、甲州その他の、潜伏勢力をよろこばせた。わけて大坂の羽柴方では、手
して身をよせている浪人だが、その父は、甲州の名将として有名な板垣信形であり、日頃、於弁ともよく気心が
、遠州、駿河沖あたりに遊弋しはじめ、美濃、伊勢、甲州にわたる信雄の与国は、秀吉に促されて、いや応なく、ふたたび第一次
同時に、甲州郡代鳥居彦右衛門をも、俄かに、呼びかえして、
急遽、甲州から鳥居彦右衛門をよんだのもそれだった。従来、徳川家の特色とし
「もと、甲州の士にて、それらの一部門に通じながら、山野にかくれておる古老など
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「はい、おります。千秋主殿助と申し、以前、越前に住み、後、前田家が府中にあった頃に、召し抱えられた者に
越前からの使いの口上によると、長秀の健康は、もう昨年あたりから、以前
、秀吉は、かれに対しては、本領の若狭、近江、越前、加賀の一部など、百万石に近い報酬と優遇をもってした。当然
秀吉の北伐軍は、湖北を越えて、越前に入った。
見ると、尾張、美濃、伊勢、丹後、若狭、因幡、越前、加賀、能登の九ヵ国にわたっている。
かれが越前に入ると、前田利家は、金沢から松任まで出て、秀吉を待った。
をして疑惑させるような態度ではなく、秀吉が越前に着くと、直ちに、上杉家の使者は、かれの着陣を祝して、
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―モチにも網にもかからない家康と、またふたたび、小牧において、にらみあいの対峙をつづけるほかなかった。
出て、風のごとく去り、去るや林のごとく、また小牧へ退いては、泰然と、前にもまさる山岳の重きを見せてうごかない
小牧の徳川勢と信雄勢が聯合して、一万八千人を十六編隊にわかち、
おびただしき徳川勢が十六隊にわかれ、たった今、小牧を出て、二重堀のお味方に近づきつつあります」
同じころ、小牧の家康の方へも、前線の井伊兵部、酒井左衛門から、
と、ついに小牧を出なかったという。
折、すでに太閤となった秀吉と、大納言家康とが、小牧のいくさ語りに、その日のことを回顧しあって、
一歩でも、小松寺山から出たと聞いたら、ただちに小牧を発して、鯛網を曳かせるつもりでおざったが、鯖子や鰯では
とのことに、老母と、未亡人は、まだ小牧のいくさもただならぬうちに――と、おどろき畏れて出むかえた。
ほうほうのていで小牧へ逃げ帰った信雄は、さすがにすぐ家康の前へも出なかった。
また、かれの供について、小牧から来た於通も、幼少の頃、信長の安土の城にいたことは
その後も、家康はなおしばらく、小牧の営にふみとどまっていたが、彼もやがて、酒井忠次をのこして、清洲
しかし、もし徳川方がこれを失えば、伊勢、尾張、小牧の全局面にわたり、忽ち、奔流に堤を切られたような、敗土
金城の一閣の下に、秀吉は六月末以来、小牧から帰って来ていた。そして七月上旬もなお、
(さて、小牧の御合戦に、これで上方の御勝利とあれば、すごい景気だが)
、先頃の帰りに、この美貌で才はじけた女性を、小牧の蝶々と呼び、こんどの拾い者だと称して、得々と大坂城へつれ帰っ
女童として、お仕えして、秀吉様とも、小牧でお目にかかる前から存じ上げておりました。……ここでまた、
茶々姫のことも、その一つだが、先頃、小牧の帰りには、また、於通とかいう、氏素姓もさだかでない一少女を
の四十九歳という最盛期の人生に近づき、外には、小牧に天下分け目の大戦を抱えながら、内には、閨門の政治にも、なかなか多忙
御母堂さまの仰せには、明後日、あの子はまた、小牧へ下向するそうじゃから、出陣の前に、いつもの脚の三里と腰
小牧へはやる雄ごころは
「小牧の御陣は、焦げついたそうな」
小牧の第一会戦において、
勝る、というのが秀吉の信条だった。――まして小牧で対峙してみて明らかとなったように正攻法でも奇略でも、
そちたちを起たせたのも、家康の過りである。小牧、長久手の戦場に、あたら良き家臣たちを、たくさん討死させたのも、
わけて、越中の佐々成政は、さきに小牧の大乱が兆すと、
(おもとは、小牧へ来るには及ばぬ。尾山城の惣構えを堅固に、しかと、北陸を抑え
五月上旬で、家康を初め、遠参の諸将はみな小牧に出ていた。もちろん直政も不在だったが、急を前線に報じると
「主人は、小牧にあって、片ときも、陣所を離れ得ませぬ。よろしく申されました。
佐々どのが、北陸において、後ろ巻くださることは、小牧に一陣をお加えあるよりは、万人力と、仰せなされました」
、尾山城の於犬めも、秀吉の尾について、小牧に出られぬ始末でおざる」
およそ御想像どおりな事態になりそうです。けれど利家は、小牧の御軍役にも参ぜず、領地において、暢んびり夏も暮していた
その九月中旬の日附から、考え合わせると、秀吉は、まさに小牧の難攻に逢着して、いったん大坂にひきあげて後、また軍を催しては
「小牧の戦況も、決して御心配はない。まずまず今年中には片づこう。そして、明年に
「その後、小牧の戦況も、さっぱり聞えぬが、中央の形勢は、どうあろうか」
ござる。秋以来の北陸の状況をおつたえ申し、一面、小牧における御戦況やら、将来の方略をおうかがいして、秀吉征伐の大計
かれはその頃、すでに小牧の軍勢を収め、清洲をひき払い、浜松城に帰って、怏々と、楽しまざる
孤立の苦境に落ち入った家康の複雑なる心中の煩忙と、小牧の後始末と、次に――秀吉対家康の和睦に移って、大坂へ人質
膝すすめて、さきに書面でも申し上げておいたが、小牧の戦況は如何、また今後の方略はどう進めてゆく計画か。しかと、御
成り上がりのデキ星。到底、あなたの敵ではない。もし小牧の御陣を押し進めてお上洛りあらば、成政は前田を蹴ちらして、江州
また、小牧、柳ヶ瀬のときもそうだ。――もし、丹羽長秀なる人格者が、信雄、
ひと頃は、小牧の凝滞を見て、天下の耳目は、あわや図に乗りすぎた秀吉が、
「うム。家康と秀吉とが、小牧でやってみたことさえ、げにも、おろかな沙汰であったに。…
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、能登の七尾にいたるまで。西南は、野々市、松任、笠間、手取川――と各地の、のろし山からのろし山へ、音響の駅伝と
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紀州の畠山貞政、根来の雑賀党。そして四国の長曾我部元親などがその組だ。
には、われらは、雑賀、根来の僧徒をかたらい、四国の長曾我部元親どのは、瀬戸内の海賊衆をも引き具して、時を一
と、防禦をかため、四国の長曾我部、瀬戸内の海賊たちに、
がみなそれであり、海を越えて、それを指嗾する四国、それを力づける瀬戸島々の海上武族などがあって、禍根は、一朝一夕の
しかし、北雑賀の一党は、なお四国の援兵を恃んで、頑強な抗戦をつづけたので、秀吉はついに、かれ
午すぎから夕刻近くまでにわたる議題はことごとく、四国入りの配備と進撃の手順だった。
をなめたはずだが、いままた、肉親の秀長に、四国入りの総帥を、敢えて、こう任命した。
すなわち、秀吉の名代として、長曾我部の四国へ討ち入るべく、総帥秀長と、副将秀次が、ここに出港の準備を遂げた
一陣だけでなく、べつに山陽道から内海をこえて、四国の西北面を押圧している大兵もあった。
もっとも、四国統治の難は、信長以来の、宿題であった。
土佐の長曾我部は、その間に、全勢力を四国にひろげ、そして紀州和泉の不平分子を通じて、ひそかに、家康、信雄に
また、当然、いつかは信長の策を踏襲して、四国へ兵を渡すであろうことを、必然のこととして、予見してい
得た体験のもとに、このたびの羽柴秀吉が起した四国攻略の配備を見まするに、げにも、驚くべき船数と、兵力と、物資
、驚くべき船数と、兵力と、物資とをもって、四国の三方面から一せいに上陸を起して、次第に、御城下まで圧縮して
―上方ノ軍兵軍船ヲ見ルニ、ソノ富強ハ、所詮、四国ノ対シ得ル所ニアラズ。コノ四国ハ、二十年余ノ兵乱ニ因ツテ
富強ハ、所詮、四国ノ対シ得ル所ニアラズ。コノ四国ハ、二十年余ノ兵乱ニ因ツテ、民屋ハ兵火ニ罹リ、村里ノ
「秀長、秀次らの手に合わぬなれば、自身、四国へ出馬するしかあるまい」
命じて、出船の準備に取りかからせたということが、四国に聞こえて来た。
七月下旬、四国の事は、一切解決した。阿、讃、伊の三ヵ国は、阿波
そして、四国攻略の難易は、まだたれにも見通しもつかず、もし秀長秀次の力に
なぜならば、四国の役は、長曾我部の乞いによって、休戦中とは聞えていたが
では、かれの敵は四国の長曾我部ではないのか。また、北国の佐々成政が目ざす敵でもない
「小牧以来、紀州、四国と打ちつづく御陣務には、景勝も、蔭ながら、お手さばきに、驚目
しり目に、徳川系の与国たる紀州、熊野を攻略し、四国の長曾我部を降し、内海一帯を鎮め、転じて、宿題の佐々征伐を敢行し
に、大坂の留守を脅かしていた紀州や熊野。また四国の長曾我部などが、ここ次々と、家康の手足を斬り取る仕事のように進められ
小牧以後、両者の冷たい和睦ぶりと、この春の紀州、四国にわたる大坂方の積極的なうごきを見れば、三歳の児童でも読みとれましょう
を支持する北越の友軍もなく、大坂の背後をおびやかす、四国、紀伊などの同志もなく、家康は完全なる孤立を四囲に迫られて、
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ていたが、彼もやがて、酒井忠次をのこして、清洲城へ退いた。
長島城の信雄と、清洲城にある家康とを、分断してしまう作戦であったものが、反対に、
次の十三日。徳川軍の大部分は、家康以下、清洲城を立ち退いて、三州岡崎へひき揚げてしまった。
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かれが、畢生の心血をそそいで描いた、安土城内のたくさんな作品は、もう一つも、見ることはできない。一朝の
「さきの安土城にも。今また秀吉様の大坂のお城にも、先生が、その障壁画
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入へいっておいたにもかかわらず、勝入が、岩崎城の城兵から挑まれて、一もみになどと踏みつぶしにかかったことも、
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加賀、越中の境、河北郡の朝日山に、いつのまにか、新しい砦が築かれた。
「まず、朝日山に拠って、加賀を――」
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ますか。信長さまに、お仕えして以来、美濃や姉川の御合戦、また中国への長陣と――長い月日のうち、あなた様が
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当時、滝川一益は、いつのまにか、伊勢の神戸城へ入っていた。
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舳々の、旗じるしを見ると、大和、紀伊、和泉、摂津、丹波、播磨などに、国別することができる。
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「自身、山越えの間道より、加賀に攻め入り、能登を抑え、続いて、一挙に敵府金沢を踏みつぶして見せん」
「七尾から金沢表までの、能登加賀にわたる要所の城々には、つなぎのろしの設けがあることを、佐々は
北は、小坂、吉原、二日市、津幡へと、能登の七尾にいたるまで。西南は、野々市、松任、笠間、手取川――と
能登の七尾からも、すでに前田安勝や、高畠定吉などが、数千をひっさげて
、美濃、伊勢、丹後、若狭、因幡、越前、加賀、能登の九ヵ国にわたっている。
の家中では、先頃、筑前が云い触れさせた――能登の七尾港より軍船百艘を仕立てて、越中のいたる土地に大兵を上陸さ
「――能登は、其許自身が、自力で従えた領土ゆえ、べつに秀吉から進上する
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、その旗幟を国別に見ると、尾張、美濃、伊勢、丹後、若狭、因幡、越前、加賀、能登の九ヵ国にわたっている。
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――の北に出で、能登街道の加賀の口、末森城の、側面に出る。ようし。敵の末森城は、そこにあるなれ」
の口、末森城の、側面に出る。ようし。敵の末森城は、そこにあるなれ」
「能州、末森城は、敵の七尾と金沢をむすぶ街道第一の要害。――津幡、鳥越
区切る半島線の一端に、白壁、石垣、やぐらなどの、末森城の影を、指呼する距離に、望み得るであろう。
―だが、佐々軍の行く方向には、前田方の末森城があることにふと気づいて、
、七尾城との連絡を断つためには、羽咋川と末森城との中間地帯――出浜、敷浪あたりに、一線を布陣して、海上を
このとき、末森城の守将、奥村助右衛門永福は、あわて騒ぐ家中のなかを、一巡して、
―すなわち、川尻、敷浪の両地を抑えれば、いかに、この末森城からのろしを揚げても、その中間が断たれているため、用をなさぬ
佐々成政は、その日、もう敵の末森城は、潰滅は寸前のものという見通しで、坪井山からずっと本陣をすすめ、
「いつか、そちは、末森城のうちに、旧知の者があると申したな」
利家から直々に、奥村助右衛門へ付けられた者で、末森城の一部将として、こんども東曲輪にたてこもっていた。
内に、こんな際どい危険もあったりしながらも、末森城の守りは、依然、堅かった。
金沢表――尾山城へ、末森城の危急がわかったのは、十日の夜だった。
ふたたび、同じ門へ、漁夫のような身なりの男が、末森城危うしと告げて来た。その時もう城門の守りは、戦時態勢になって
「物見の情報によりますと、末森城は、もはや落城寸前にあって、せっかく、お駈け付け遊ばすとも、敵は大軍
――と。声は聞えるわけもないが、末森城の内でも、遠く、今浜の方を見て、全城の者が、
と、わき目もふらず、末森城の城下へ駈けこんだ。
末森城の内部の者は、利家以下が救援に近づいたと知り、満城、よろこびの
と、かれらしい激怒のもとに、軍容をたて直し、末森城への再攻撃を計った。
「さては、末森城も落ちたとみゆる。――金沢表の援軍も、その分では、
ここに、末森城の危局は、ひとまず、利家にとっては、難なきを得たが――
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根来衆徒だけにあるのでなく、雑賀党、熊野衆、高野山などの法城に巣くう僧徒兵力がみなそれであり、海を越えて、それを
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すでに、その頃、大野川の下流から、無数の兵船が、滝川勢をのせて、みずすましの群のよう
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は、丹羽権兵衛を入れて、七尾城に対抗せしめ、阿尾城には、菊地右衛門入道とその子、伊豆守を。――森山城には、
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兵船が堺ノ浦を出ようという直前に――例の本能寺の事変が突発して、以来、そのままとなっていたものである。
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御所の関東軍との義戦に、この一少年弁次郎が、いわゆる九度山の隠者真田幸村として、大坂入城者の到着簿第一にその名を
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はすべて、木曾川を渡り、かがみヶ原を通過して、大浦へはいった。
大軍は、大浦を出て、木曾川をわたり、聖徳寺に布陣して、目的にかかった。
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て、小牧から来た於通も、幼少の頃、信長の安土の城にいたことはあっても、この大坂城の雄大さと、内部
(安土とちがい、港がものをいう。いまに南蛮船も、みんな集まろうに)
「十五の年、安土のお城が亡びてから、美濃の田舎へ帰っていました。先生は
から、美濃の田舎へ帰っていました。先生は、安土のお城のおふすまも描きましたね。わたくしは、あなたのお顔を
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どうやら加賀境をうしろに、越中の西端、五位山から梨ノ木峠へ、向いつつあるように思われた。
の辛苦をなめながら、いかで、手をむなしく引っ返すべき。梨ノ木峠を、西すれば、吾妻野から大海川――の北に出で、能登
その朝。梨ノ木峠をこえた佐々軍二万は、米出川の上流、宝達山の谿谷をわたると
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神通川をこえ、射水の曠野を西へ西へ。やがてまた大河の畔まで来ると
「御領内の神通川に店をもち、家族どもや雇人もみな一つにおりまする」
かれの家族も雇人も、家財一切を船につんで、神通川から海へ脱し、他領へ逃げ去っているだろう。――小兵衛にとっては、
すれば、勢い、線の力は薄くなる。総力を、神通川の一線に退きまとめて、不退の守りを、結集せん」
と、にわかに、国界の小防塁をすべて放擲して、神通川の大河を前にあて、内には、国内の不平分子を抑えて、
成政の降伏直後、秀吉は、呉服山を発して、神通川を渡り、富山へ入城した。
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四 伊賀の名張など三郡。南伊勢の鈴鹿、河曲、一志、飯高、飯野、多気、度会などの七郡。――それ
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かれの軍が、大坂へもどると、難波の津から一変した新しきこの大都市の住民は、道や城の附近へ押し寄せ
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「かんが川は、筑摩の支流で、越ゆるに難儀なほどではない。城兵の半分を向けて
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四 伊賀の名張など三郡。南伊勢の鈴鹿、河曲、一志、飯高、飯野、多気、
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、長連龍の徳丸城、目賀田又右衛門、丹羽源十郎たちの鳥越城など――要所要所に二、三千人を入れ、
「まず敵の、河北郡の鳥越城を、一蹴ちらしに――」
それには、鳥越城と対している味方の倶利伽羅の砦にも拠らず、敵の気づかぬまに
、石動から北方の山地を間道づたいに加賀へ抜けて、鳥越城の背後から、突如、急襲しようという策をえらんだ。
さ防ぎに、酒をあたためさせ、一族、旗本たちと、鳥越城を攻め奪ったあとの――二次作戦を、しきりに協議していた
「それっ、この間に、敵の鳥越城へ急げ」
(鳥越城の裏へ、不意に打って出る山越えの、道案内をいたせ――)
少なからぬ兵力をこめてあるにちがいない。附近を焼きたて、鳥越城へ行け」
に、また北転して、津幡と倶利伽羅との中間――鳥越城へ進路をとった。
は、やがて富山へひき揚げた。手濡らさずに、取った鳥越城の空巣には、部将の久世但馬をとどめ、倶利伽羅のとりでには、佐々平左衛門
立って、津幡まで帰って来たが、その途上で、鳥越城の不始末を聞き、目賀田又右衛門の怯懦を大いに怒って、
(実は先年、越中お取合いのせつ、鳥越城を空巣にして逃げ落ち、大いに面目を失うて、きょうまで姿をかくしてい
要するに、盲動だった。――帰りがけの鳥越城における空巣稼ぎの程度では、その消耗も士気の挫折も埋まるはずも
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倶利伽羅の嶮を中心とする山また山は、加能越三ヵ国の境をなす北陸の
倶利伽羅には、さきに佐々方が、砦を設け、前田方の津幡、鳥越に
それには、鳥越城と対している味方の倶利伽羅の砦にも拠らず、敵の気づかぬまに、石動から北方の山地を
、ついにここへかからずに、また北転して、津幡と倶利伽羅との中間――鳥越城へ進路をとった。
ここは三国山の南、倶利伽羅の西、どっちを望んでも、山また山の山城である。
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であったのに、結果として、徳川家は、佐久郡その他の地方を加えられたにかかわらず、当家においては、上州沼田
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と長島の要鎮であり、沿海の主要地でもある蟹江城にまで、今や、異変が起ろうとしていた。
「蟹江城の内部へ手をまわして、ひそかに内輪から、切り崩しにかかっている者が
いう、かれの同僚で、次右衛門は、主人から預かっている蟹江城が敵に売られ、滝川勢が入って来たので、夜中ひそかに、
、事態の急を報じるため、大野城を出た早馬は、蟹江城の寝がえり、海上からの敵水軍の来襲を、その日のうちに、ここへ
に兵七百を上陸させて、一益自身も共に、蟹江城へ乗りこんだが、それに続くはずの、糧食も弾薬も、またあとの大
城主の前田治利は、蟹江城を擁して、主人の佐久間甚九郎に叛旗をたて、滝川一益を招き入れて――
を放った。――小舟は、蟹江川をこぎ上り、蟹江城の滝川一益へ、ひそかに、書面を手渡した。
数名と共に、小舟へ移り、暗夜にまぎれて、蟹江城の水門から落ちていった。
、あらしに吹き返された木の葉のように、また元の、蟹江城の水門へ、もぐりこんだ。
蟹江城は、孤立した。
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ばかりで、はやくも息子の氏直を族長にたて、身は小田原城において、事実の執政は握っているが、名は截流斎と称えて
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川原で会合をとげるも知らず、また秀吉の密使が、桑名城へ通ったことも、御存知なかったでは相すむまい。――両者の野合
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長島城の信雄と、清洲城にある家康とを、分断してしまう作戦であった
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木曾川の左岸――清洲ノ城から西北の地に、加賀野井城がある。
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「筑前という人間は」
「大垣まで、筑前の名代として、使いに行ってこい。正使には、浅野弥兵衛をつかわす
「そうか。忠三郎もいつのまにか、この筑前の手ごころを習びおるの。――戦わずして勝つ。いくさは、
「この筑前も、小男の方じゃが、勝入も小男じゃったな。あの小男が、
「それこそ、筑前の手に乗るというものじゃ」
「いかなる条件にも、家康は筑前にたいし、和を持って解決する望みはもたぬ。あくまで、ここに雌雄を
「信雄卿には、筑前どののおこころもち、よく分ったと仰せられ、御会見のこと、はっきり、御
、桑名の西なる矢田川原までお立ち越しは如何……筑前にも同日同時刻、縄生より出て、お待ち申しあげますが――と、
「信雄卿には、急に、考え直されて、筑前と手をにぎられたそうじゃの」
「筑前がどう思うであろ。筑前にきかずにしては悪かろう。筑前に問い合わせて」
どう思うであろ。筑前にきかずにしては悪かろう。筑前に問い合わせて」
事があって、なおなお御辺のお心がよくわかり、筑前も、いかばかりか、うれしゅう存ずる。ついては、さきにお預り申しておる
御内儀がか。うム、又左の御内儀は、筑前の気心を、よう知っておられる一人じゃ。お達者か」
、命のあらん限りはと存じましたが、到底、筑前どのには、及ばざるを悟り、主人内蔵助成政以下、われら重臣、座
諜者のはなしによると、佐々の家中では、先頃、筑前が云い触れさせた――能登の七尾港より軍船百艘を仕立てて、越中
「筑前どのに、取做してやろうというて、返したが」
「成政も、今となっては、筑前どのへタテ突いたことを、真実、悔いてもおるともいう。……
で参った。ここへも、唐突な訪れで、何か筑前の肚に意図でもあるやに思し召すかもしれぬが、一度、お顔
折々に、それともあらぬ蔭の御援助には、筑前もふかく謝しておる。そうそう、これへ参った用向きといえば、まずそのお礼
「時に、今日筑前を、越水まで迎えに来た若者は? ……」
主に、馬の口輪を取っていただいたのは、おそらく筑前一人であろうが、途上の領民が、あれを見て、あなたを軽んじはし
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のまにか、三の丸には、三条の局だの、加賀の局というのができ、また、二の丸には、寧子も、
加賀、越中の境、河北郡の朝日山に、いつのまにか、新しい砦が築か
「まず、朝日山に拠って、加賀を――」
「自身、山越えの間道より、加賀に攻め入り、能登を抑え、続いて、一挙に敵府金沢を踏みつぶして見せん」
敵が不落とたのむ鳥越の牙城を抜いて、能登半島と加賀の境を中断し、一挙に、前田方の勢力を分断するにしかず―
の気づかぬまに、石動から北方の山地を間道づたいに加賀へ抜けて、鳥越城の背後から、突如、急襲しようという策をえらんだ
野から大海川――の北に出で、能登街道の加賀の口、末森城の、側面に出る。ようし。敵の末森城は、そこ
「七尾から金沢表までの、能登加賀にわたる要所の城々には、つなぎのろしの設けがあることを、佐々は、
は、かれに対しては、本領の若狭、近江、越前、加賀の一部など、百万石に近い報酬と優遇をもってした。当然な報恩
群としては、松の丸どの、三条の局、加賀の局、また、まだ少しあどけなさ過ぎるが、あの於茶々だの、於通だ
心ばえと、雪国の女の肌というきれいさでは、加賀の局。――上臈風な知性美と気品の高さでは、三条の
、尾張、美濃、伊勢、丹後、若狭、因幡、越前、加賀、能登の九ヵ国にわたっている。
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に上陸し、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景たちは、伊予の新麻に、兵をあげた。
ヵ国は、阿波を蜂須賀正勝に、讃岐を仙石権兵衛に、伊予を小早川隆景に、それぞれ分割して封ぜられた。
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機に、信雄は、自軍をまとめて、まもなく、伊勢の長島へ帰還した。
当時、滝川一益は、いつのまにか、伊勢の神戸城へ入っていた。
と、よろこんで、即刻、これを秀吉に通報し、伊勢と鳥羽港にある秀吉方の水軍、九鬼嘉隆と会談して、
傷手はない。しかし、もし徳川方がこれを失えば、伊勢、尾張、小牧の全局面にわたり、忽ち、奔流に堤を切られたよう
は、武門の風かみにもおけぬ奴ではある。伊勢の小郷士より、父の信長に取り立てられ、柴田、丹羽らと並ぶような
。北畠殿には、この家康にも計らいなく、突然、伊勢の矢田川原にて羽柴殿と会見をとげ、事にわかに、和睦を約してしまわ
信雄が、伊勢から出て来た。
滞城四、五日で、信雄は大満悦で、伊勢へ向った。――途中、秀吉のはからいと内奏によって、信雄にたいし
も明けないような満足をもらして、三月二日、伊勢に帰った。
いわれ、その旗幟を国別に見ると、尾張、美濃、伊勢、丹後、若狭、因幡、越前、加賀、能登の九ヵ国にわたっている。
海軍も、遠州、駿河沖あたりに遊弋しはじめ、美濃、伊勢、甲州にわたる信雄の与国は、秀吉に促されて、いや応なく、ふたたび第
やむなく、信雄は、伊勢へ帰った。――が、長益と雄利とは、秀吉から、ほとんど最後的
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家康の子、於義丸は、浜松の城を出て、大坂へ送られた。
なだめるやら、ここ十一月から十二月の初めにかけて、浜松の内外は、まったく、暗い冬を迎えていたところだ。
佐々成政が、浜松を去り、やがて清洲でも、得るところなく、むなしく北陸へ帰ったと聞いて
て、黙々、うなずくだけだった。こういう人はまたいつ浜松へ行って、こんどは大坂のうわさを酒の肴に持ち出すかしれないからだ
諸侯の往来。わけて、北畠信雄のこういううごきは、いちいち浜松へも報じられていた。――が、家康は、秀吉が信雄をこんな
この秋葉僧は叶坊という者で、さっそく浜松の城下に赴き、酒井忠次のやしきを訪うて、
第一線に近い岡崎を退き、わざと浜松に、閑をめでて、大坂のことなど耳から遠い顔をしていた
今川などの強国の間にはさまって、辛くも、主なき浜松の小城一つを持ちささえていたものだ。……その頃はの、
、わしが十八歳の折、今川家から放たれて、浜松へ帰って来たときには、そうして長年の留守に蓄えておいて
、上方筋の情報を耳にすれば、忽ち、岡崎、浜松にその反撥が露呈して、
、小田原の北条氏政、氏直父子から、何事か、常に浜松へ使者が来ていた。問題は、家康の悩みのひとつらしく、北条
大ならしめて来たと気づくと、氏政は、さっそく、浜松へたいして、手強い督促使をうるさくさし向けた。
鳥が舞いこんで来たとよろこぶでしょう。理由は、大坂と浜松との、小牧以後、両者の冷たい和睦ぶりと、この春の紀州、四国に
はひとつに成りましょう。即ち御当家に非ずんば浜松どのです。ですから、われら一族を、どっち側の者にしようと、それ
と、以後の浜松からの使者を追い返し、要路の交通を断ッて、一方、上杉家の川中島衆
。城は小城、人数は三千に足りぬ小国。或いは、浜松の大軍を見たらすぐ降参に出るやもしれぬ」
守、平岩七之助、駒井右京など、二州の寄合衆に、浜松からは、井伊直政、城伊庵、玉虫二郎右衛門、矢代越中守などの諸将が
ていた徳川家の細作(第五列)は、すぐ浜松へ、変を知らせた。
家康が今、浜松を空けて、馬を信濃に立てるとしたら、まず北条の向背も、疑問
ひとつ、かれの心に、絶えない危惧は、岡崎、浜松の将士の間に見える小牧以後の不満と不穏な空気である。
後、秀吉の答礼使が浜松に来たときも、顔見知りなので、家康は、接待役を、彼
上方を実見し、秀吉の人物に接し、到底、岡崎や浜松の比でないことを痛感していた。
知ってしまった以上、とどまる松平近正は、かならず、急を浜松に報じて、身の潔白を証し立てるに利用するだろう。――一大事!
となっても、自分は、秀吉のふところにあって、浜松と大坂との和親をはかり、ここの三河武士が、家康をして、将来
た。――大給の松平近正が、約を破って、浜松へ注進する惧れがある――ということをである。
を代行して、門々の出入りをかためさせた。そして、浜松の家康の許へは、早馬を立たせた。
「事の次第を、浜松表へ、お訴え申せ」
家康は、諸将を、浜松にあつめて、これを衆議に問うた。もちろん、輿論は、満場一致で反対し
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小松寺山まで出したなども、その手だったが、小牧山の表情は、静かな微苦笑にすぎなかった。
「同じじゃよ。……小牧山はおもしろい碁であった。だが、家康も固着し、秀吉も固着し、
小牧山の本営は、この朝、秀吉の大軍が、せい然と、西へひき揚げて
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安堵し、一山の大衆を助けた上に、秀吉に新しく興山寺の建築を寄進させた。――木食だけはたしかに、この悪時代の
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村を、南北へ貫いている七尾街道こそ、加能両国をつなぐ動脈である。
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なお、べつに、楽田には、堀秀政を、犬山城には、加藤光泰をのこし、そのほかの兵はすべて、木曾川を渡り、
飯野、多気、度会などの七郡。――それに尾張犬山城と、河田ノ砦とは、秀吉へゆずること。
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、信雄の一翼で、信雄の重臣、加賀野井重宗や、神戸正武などがたてこもって、万一に備えていた。
間に、秀吉の別動隊が、峰ノ城を陥し、神戸、国府、浜田の諸城をも乗っ取り、次いで、七日市ノ城も攻め潰し
ヶ嶽の戦につづき、かれが一味した柴田勝家や神戸信孝が、相次いで滅亡したときから――忽然と時代の中心から
当時、滝川一益は、いつのまにか、伊勢の神戸城へ入っていた。
「関ノ城、峰城、神戸ノ城、伊勢路までゆけば、蒲生どのの軍勢もおり、お味方は充満
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ぜひなく、京都の妙心寺にかくれ、しばらく、世評に耳をふさいで暮した。
いつものように、大坂、淀、京都と経て来た秀吉の大軍は、どうしたことか、こんどは坂本
が、折もよし、ちょうどよい橋渡しがございまする。……京都と北陸とをよく往来している京商人の油屋小金と申す男が、
いう城内きっての腕白者なのだ。――かつて、京都に連れて行ったことがあり、一日、秀吉が利家を訪ねて来た
お上洛りあらば、成政は前田を蹴ちらして、江州、京都へなだれ入り、大坂城の道を断って、猿めを、囲い捕りに
信雄は、京都にも、五日ほど留まって、ここではあらゆる歓待をうけ、今は
菊亭晴季が京都へ帰ってから約一ヵ月後だった。突として、朝廷から秀吉
前田玄以は、京都の所司代をかね、禁裡、寺社の一切を奉行し、洛中洛外の諸事
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いた頃、わざわざ手みやげなど持って、良人の主人である岐阜の信長の許へゆき、
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ので、秀吉は小牧へさして出陣する前にも、金沢の前田利家へ書を送って、
佐々平左衛門は、結納の使者として、富山をたち、金沢の尾山城へ来た。
すると、金沢への途すがら、かれの列を追って、富山から国境を脱して来
金沢へ帰国すると、弥左衛門はこれを村井長頼に報じ、長頼は一日、尾山
八月二十二日頃、この一隊は、金沢から突として来て、不眠不休で工にあたり、忽ち、一砦
「さてはなお次々に、金沢の助けが来るやもしれぬ」
加賀に攻め入り、能登を抑え、続いて、一挙に敵府金沢を踏みつぶして見せん」
「能州、末森城は、敵の七尾と金沢をむすぶ街道第一の要害。――津幡、鳥越などの小城を幾つ踏みつぶす
になってはいられない。一刻もはやくこのことを、金沢表へお知らせしなければ、仏作って魂入れずじゃ」
殿っ。……まだ、烽火が揚りませぬ。もはや、金沢表への聯絡は、全く望みも絶えたようです」
の来襲と同時に、城内から次々に、四回も、金沢表へこの急を知らせる――いわゆる敵中突破の決死的な伝令を出し
「七尾から金沢表までの、能登加賀にわたる要所の城々には、つなぎのろしの設けが
を封じ、つなぎのろしを断ち切っても、かならず七尾の敵、金沢表の敵も、変を知って、駈けつけて来るにちがいない。――
でも、あすともなれば、落城は必至。遠い、金沢表の援軍も、まず、間にあわぬときまっている。――この首を
「それこそ、お味方の来援にちがいない。金沢表の御人数が、津幡から、ここまで、来たぞという烽火知らせ
「見えるっ、見えるっ。たしかに援軍だっ。金沢表の御人数だ!」
の砂丘に、鍾馗のお馬印が見えるわ! まさしく、金沢表のお味方が参られたぞっ。おおうい! みんなあ!
金沢表――尾山城へ、末森城の危急がわかったのは、十日
に行き迷わせ、三国山の嶮岨から取って返して、金沢までの長途を、脛のつづくかぎり、駈け急いで来たものである。
とばかり緊張し、すぐ偵察を放ってみたところ、金沢の援兵は、まだ津幡まで来ていないし、城中の形勢から見て
「空あいも悪いし、金沢からの疲労もあっては、おそらく、津幡に留まることは、確かであろう
「察するに、ここは金沢への街道の要害。少なからぬ兵力をこめてあるにちがいない。附近を
「さては、末森城も落ちたとみゆる。――金沢表の援軍も、その分では、どうなるものやら心もとない」
に、不快を胸にのんで、十三日の夕、ひとまず金沢表に凱旋した。
て、末森急援を果して、万死に一生を得、金沢表へ帰った当時の、利家のかれにたいする怒り方は想像するに難く
これをながめて、一挙に、富山攻めを計るべし、と金沢表へ献策したが、利家は用いなかった。
かれが越前に入ると、前田利家は、金沢から松任まで出て、秀吉を待った。
いや、先頭が金沢へ着いても、まだ後尾の殿軍は、北ノ庄を離れなかったといわれ
秀吉は富山を発し、金沢表まで引揚げて、尾山城に十数日を滞留していた。
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ていた佐々成政が、やがて勇躍して、自領の越中富山の城へ帰ったことは事実である。
成政の臣、佐々平左衛門は、結納の使者として、富山をたち、金沢の尾山城へ来た。
「いたらぬ利政であるが、富山の城へまいったあとは、何かと、お身たちの、心添えを
婚儀の準備をいそぐと見せて、富山城の密室では軍議をこらし、武庫では、弓のつるを試し、
、又左衛門利家は、重臣の村井長頼を使いとして、富山へやり、華典の吉日をきめたいと、相談させた。
と、金沢への途すがら、かれの列を追って、富山から国境を脱して来たひとりの茶坊主があった。
しゃるお方はおりませぬか。てまえは、正林と申す富山の茶道の者でございまする。弥左衛門様にお目にかかって、ぜひぜひ
とは、知らず、富山の佐々成政は、
ていた佐々平左衛門は、にわかに、兵をまとめて、富山へ帰ってしまった。
と、気負い立って、全軍、富山の館を出発した。
その間に、かれは富山の城下から連れて来た百姓上がりの炭薪商人――田畑小兵衛という者
「何の。まだ富山を離れたばかりじゃ。……ところで、その方は、何歳ぐらいから山歩き
憚って、佐々領に店をもち、家族の住居も、富山附近においていたが、ひそかに、御恩返しは、この時と、
富山を出るとき、かれは早くも後難を察して、留守の家族に、店
一番知らせは、富山の商人田畑小兵衛で、佐々成政の軍隊を、加能ざかいの山中に行き迷わせ
佐々成政は、やがて富山へひき揚げた。手濡らさずに、取った鳥越城の空巣には、部将
きびしい制度と、煩雑な手続きを法令化したので、富山を中心とする経済的なうごきは、冬と共に、まったく停止してしまっ
方の出城の諸将は、これをながめて、一挙に、富山攻めを計るべし、と金沢表へ献策したが、利家は用いなかった
日、ひそかに、供の者百人ばかりを召しつれて、富山城を出たのであった。
十一日のことなのであるから――佐々成政が、富山を立って来るまえに、すでに、天下の情勢は、急転化してい
おそらく、この飛報は、青天のへきれきとして、富山城の佐々成政の耳を打ったろう。
と、みずから料紙に向って、墨付をしたためた。富山城をふくむ新川郡一郡を、この後も、成政の扶持料とし
直後、秀吉は、呉服山を発して、神通川を渡り、富山へ入城した。
、かれらしい触手の機会を待っていたにちがいない。富山入城のすぐ翌日、かれの姿は、忽然と見えなくなった。
一夕お会い申したいと、陣旅の寸暇をさいて、富山よりこれへ参ってござる。……越水まで、お渡り下さるるもよし、また
秀吉は富山を発し、金沢表まで引揚げて、尾山城に十数日を滞留して
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河北潟のほとりで夜が明け、午まえすでに、高松の浜に着いていた。
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隣国の上杉景勝は、新潟城を攻めるために、蒲原郡に出撃中であったが、
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二重堀の柵は、堀秀政と蒲生氏郷が守るところ。敵の鼓騒するのをながめて、
「ばかを申せ。高山右近、蒲生飛騨。あれらは、青いが、浅野弥兵衛すら、わしには、折々、
つけ。しっぱらい(殿軍のこと)は、細川忠興、蒲生氏郷のふたりがせよ」
なかったら、信雄自身も、決死の殿軍――細川忠興や蒲生飛騨守のよい功名にされたかも知れなかった。
一陣、細川忠興、二陣に蒲生氏郷。
関ノ城、峰城、神戸ノ城、伊勢路までゆけば、蒲生どのの軍勢もおり、お味方は充満しておる。先にも、急使
二十三日、羽津に陣し、縄生には、とりでを築き、蒲生氏郷、蜂須賀家政などに、それらの要所をかためさせては、刻々に前進
秀吉の聚落の第に、蒲生飛騨守、浅野弾正などが寄りあっていたとき、前田家の徳山五兵衛と
、実に早かった。積善寺の砦へかかった細川忠興、蒲生氏郷らの軍勢は、一日にして、そこを叩きつぶし、千石堀を
細川忠興、金森近重、蜂屋頼隆、池田輝政、森長一、蒲生氏郷、堀尾吉晴、山内一豊、加藤光泰、九鬼嘉隆――などのほかに
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とばかり、井伊兵部、榊原康政、大久保忠助、同じく忠隣、本多弥八郎、同平八郎忠勝などの多感多血の若手を初め
井伊兵部、本多平八郎などを代表として、鳥居、大久保、松平、榊原などの面々が、老臣の酒井忠次をとり囲んでいた。
軍の総数は、一万八千をこえていた。信州奉行の大久保七郎右衛門。甲州奉行の鳥居彦右衛門。保科肥後守、同弾正、諏訪安芸守
「徳川勢から、大久保、鳥居の名をもって、誘降の軍使が来ました」
鳥居の両部隊のあいだで、作戦の不一致が起った。大久保勢は、町へ火をかけて、焼き立てろという指揮を出したが、
大久保、鳥居の両部隊のあいだで、作戦の不一致が起った。大久保勢は
城際から町屋へ混み入った大久保忠世の兵、鳥居彦右衛門の兵、井伊直政の隊など――どれひとり弱兵
また、信州小諸の、大久保七郎右衛門忠世を召還して、
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また、信州小諸の、大久保七郎右衛門忠世を召還して、