江戸か東京か / 淡島寒月
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で江の島の弁天か何かの開帳があった時に、回向院の地内に、朝比奈三郎の大人形が出来た。五丈ほどありまして、
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浅草の今パノラマのある辺に、模型富士山が出来たり、芝浦にも富士が作られるという風に、大きいもの/\と目がけてた。
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でした。それから浅草の今パノラマのある辺に、模型富士山が出来たり、芝浦にも富士が作られるという風に、大きいもの/\
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趣を訴えて、昼夜の見廻りが出来、その大取締が庄内の酒井左右衛門尉で、今の警視総監という処なのです。このポリスが
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を造った。秩父屋と共に、凧の大問屋は厩橋の、これもやはり馬喰町三丁目にいた能登屋で、この店は凧の唸り
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かったのは、花時に向島に高櫓を組んで、墨田の花を一目に見せようという計画でしたが、これは余り人が這入りませ
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江戸か東京か
か――」といったような体裁でしたよ。まだ江戸の町々には、木戸が残ってあった頃で、この時分までは木戸を
この江戸と東京との過渡期の繁華は、前言ったように、両国が中心で、
商人の余風なのでしょう。一体がこういう風に、江戸の人は田舎者を馬鹿に為切っていた。江戸ッ子でないものは人
な扱いをしていたのは、一方からいうと、江戸が東京となって、地方人に蹂躙せられた、本来江戸児とは比較
児とは比較にもならない頓馬な地方人などに、江戸を奪われたという敵愾心が、江戸ッ子の考えに瞑々の中にあった
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(例)両国馬喰町
後改め)大村村右衛門でした。その外の見世物では、東両国の橋袂には「蛇使」か「ヤレ突けそれ突け」があった。「蛇使」というのは
一座を率いて、人形町の横にあった中島座となりまた東両国の阪東三八の小屋、今の明治座の前身の千歳座のなお前身である喜昇座の根
は真実の役者がそれぞれ立派に三座に拠っていたが、西両国という眼抜きの地に村右衛門が立籠ったので素破らしい大入です。これがそ
たのが、一方からいえば堕落して、小屋ものとなって西両国の小屋掛で芝居をしていた。一方では真実の役者がそれぞれ立派に三座に拠
に大したもので、当時今の両国公園になっている辺は西両国といって、ここに村右衛門という役者が芝居をしていた。私の思うのには、
戸錦絵などに残っているように大したもので、当時今の両国公園になっている辺は西両国といって、ここに村右衛門という役者が芝居を
た後で、その趣向の変形したもののようでした。当時の両国は、江戸錦絵などに残っているように大したもので、当時今の両国公園にな
見世物にしたのなど流行った。何時だったか忘れたが、両国の川の中で、水神祭というのがあった。これには、の組仕事師中の泳ぎの名
、六年までの間です。私が住っていた近くの、浅草から両国馬喰町辺の事ですか――さようさね、何から話して好いか――見世物ですな
茶屋で名高かったのは、薬研堀の初鷹、仲通りの寒菊、両国では森本、馬喰町四丁目の松本、まだ沢山ありましたが、多くは廃業しまし
でんとか、何でも八文で後には百文になったです。この両国の雑踏の間に、下駄脱しや、羽織脱しがあった。踵をちょっと突くものです
で、この辺はゴッタ返しのてんやわんやの騒でした。東両国では、あわ雪、西で五色茶漬は名代でした。朝は青物の朝市がある。午から
町の俗称――今の有名な泥鰌屋の横町辺が中心です。西両国、今の公園地の前の大川縁に、水茶屋が七軒ばかりもあった。この地尻に、
面影は、今の東京よりは、当時の両国に見られました。両国でも本家の四ツ目屋のあった加賀屋横町や虎横町――薬種屋の虎屋の横町の
の眼をも抜くといった面影は、今の東京よりは、当時の両国に見られました。両国でも本家の四ツ目屋のあった加賀屋横町や虎横町――
この江戸と東京との過渡期の繁華は、前言ったように、両国が中心で、生馬の眼をも抜くといった面影は、今の東京よりは、当時の両国
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こういうのがある。これはちょっと淋しい人通りのまばらな、深川の御船蔵前とか、浅草の本願寺の地内とかいう所へ、
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江戸か東京か
私は幾度も登ってよくその海女の眼や耳から、東京市中を眺めましたっけ。当時「蔵前の大人形さぞや裸で寒かろう」
をしていたのは、一方からいうと、江戸が東京となって、地方人に蹂躙せられた、本来江戸児とは比較に
、生馬の眼をも抜くといった面影は、今の東京よりは、当時の両国に見られました。両国でも本家の四ツ
この江戸と東京との過渡期の繁華は、前言ったように、両国が中心で、生馬
それから東京市の街燈を請負って、初めて設けたのは、例の吉原の金瓶大黒
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で素破らしい大入です。これがその後一座を率いて、人形町の横にあった中島座となりまた東両国の阪東三八の小屋、今
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松本喜三郎の西国三十三番観音の御利益を人形にして、浅草で見世物にしたのなど流行った。何時だったか忘れたが、両国
が、これは余り人が這入りませんでした。今の浅草の十二階などは、この大きいものの流行の最後に出来た遺物です。
人形が出て踊るというような趣向でした。それから浅草の今パノラマのある辺に、模型富士山が出来たり、芝浦にも富士が
年までの間です。私が住っていた近くの、浅草から両国馬喰町辺の事ですか――さようさね、何から話して好い
ちょっと淋しい人通りのまばらな、深川の御船蔵前とか、浅草の本願寺の地内とかいう所へ、小さい菰座を拡げて、珊瑚
のが流行り、十三枚十五枚などがある。揚げるのは浅草とか、夜鷹の出た大根河岸などでした。秩父屋というのが
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\と目がけてた。可笑かったのは、花時に向島に高櫓を組んで、墨田の花を一目に見せようという計画でした
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や耳から、東京市中を眺めましたっけ。当時「蔵前の大人形さぞや裸で寒かろう」などいうのが流行った位でした。この
あった。何でもかんでも大きいものが流行って、蔵前の八幡の境内に、大人形といって、海女の立姿の興行物があっ
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文久一枚、白玉が二枚という価でした。まだ浅草橋には見附があって、人の立止るを許さない。ちょっとでも止ると
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水」で、それからこれはずっと後の話ですが、小川町の翁屋という薬種屋の主人で安川という人があって、硯友
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この水神祭に出るという騒ぎでした。確か言問団子が隅田川で燈籠流しをした後で、その趣向の変形したもののようでし
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出来た遺物です。これは明治前でしたが、当時の両国橋の繁華といったら、大したもので、弁天の開帳の時などは、万燈