思い出の記 / 小泉節子
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『面白いもう一晩泊りたい』と云っていました。箱根あたりの、何から何まで行き届いた西洋人に向く宿屋よりも、こんなのが
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で見物して歩きました時に、智恩院とか、銀閣寺とか、金閣寺とかに廻りました。五銭十銭という拝観料が大概
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の人の出雲冨士と申します伯耆の大山が、遥かに冨士山のような姿をして聳えて居ります。大橋川がゆるゆるその方向へ流れ
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。大学を止めた当時、日本に駐在でしたマクドーナルドさんが横浜から毎日曜毎に御出でになりました時などは、書斎からヘルンのこの笑声
シャツと帽子とは、飛び放れて上等でした。シャツは横浜へ態々参りまして、フラネルのを一ダースずつ誂えて作らせました。帽子
それから非常に可愛がりました。その翌年独りで横浜に参りまして(独り旅は長崎に一週間程のつもりで出かけて、一晩
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歩きました時に、智恩院とか、銀閣寺とか、金閣寺とかに廻りました。五銭十銭という拝観料が大概きまっています
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熊本を出まして、これから関西から隠岐などを旅行しようとする時です。九州鉄道のどの停車場でございました
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。出雲の学校へ赴任する事になりましたのは、出雲が日本で極古い国で、色々神代の面影が残って居るだろうと考えて
といつも申します。私は反対しますとそれでは『出雲に建てて置きましょう』と申しますから、全く土地まで捜した事もありまし
土地まで捜した事もありました。しかし私はそれほど出雲がよいとも思いませんでしたから、ついこの西大久保の売屋敷を買っ
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富久町に引移りましたが、ここは庭はせまかったのですが、高台で見晴し
ていますし、私は傍に手伝っていますと、富久町よりは家屋敷は広いのと、その頃の大久保は今よりずっと田舎でしたの
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ある時、上野公園の商品陳列所に二人で参りました。ヘルンはある品物を指して、
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から割合に安心な共同墓地へ葬る事に致しました。青山の墓地は余りにぎやかなので、ヘルンは好みませんでした。
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泊る宿屋も実にあわれなものです。村から村で、松江に参りますと、いきなり綺麗な市街となりますので、旅人には皆
大層面白かったと云いますから、米子から船で中海を通り松江の大橋の河岸につきましたのは八月の下旬でございます。その
松江の人口は四万程ございました。家康公の血を引いた直政という
隠岐がよかったのです。日光は見なかったようです、松江に参りましてからは行った事がございませんから。日光は見たく
は辺鄙なところ程好きであったのです。東京よりも松江がよかったのです。日光よりも隠岐がよかったのです。日光は見
松江では宴会の席にも度々出ましたし、自宅にも折々学校の
松江に参りまして、当分材木町の宿屋に泊りました。しかし、暫らくで
がよい御友達でした。テテポッポ、カカポッポと山鳩が鳴くと松江では申します、その山鳩が鳴くと大喜びで私を呼んで『あの声
松江の頃は未だ年も若く中々元気でした。西印度の事を思い出して
二週間許りの後、松江に帰り盆踊の季節に近づいたので、ヘルンと私と二人で案内者も
の冬の寒さには随分困りました。その頃の松江には、未だストーヴと申す物がありませんでした。学校では冬
ようにしてくれるとよいが、とよく思いました。松江の頃には私は未だ年は若いし、ヘルンは気が違うので
松江にいました頃、あるお寺へ散歩致しまして、ここで小さい石地
角力は松江で見ました。谷の音が大関で参りました。西洋のより面白い
を見たのは僅か二度しかないのです。それは松江と京都で、ほんのちょっとでした。長い間人込みの中でじっとして見物
をせよと申しました。少し尾籠なお話ですが、松江で借家を致しました時、掃除屋から、その代りに薪(米でなく
浦島、蓬莱などでございました。場所では、マルティニークと松江、美保の関、日御崎、それから焼津、食物や嗜好品ではビステキと
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たのは八月の下旬でございます。その頃東京から岡山辺までは汽車がありましたが、それからさきは米子まで山また山
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の下市に盆踊を見に参りました。西田さんは京都へ旅を致されました。私共ただ二人で長旅を致したのは
。出雲に帰りましたのは、八月の末で、京都から帰られた西田さんと三人で旅行の話を致しまして愉快でし
京都を二人で見物して歩きました時に、智恩院とか、銀閣寺と
たのは僅か二度しかないのです。それは松江と京都で、ほんのちょっとでした。長い間人込みの中でじっとして見物して
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熊本で始めて夜、二人で散歩致しました時の事を今に思い出します
又熊本に居る頃でした。夜散歩から帰った時の事です。『今夜、
熊本にいました頃、夏休みに伯耆から隠岐へ参りました。隠岐では
熊本を出まして、これから関西から隠岐などを旅行しようとする時です。
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神戸から東京に参ります時に、東京には三年より我慢むつかしいと私に
神戸から東京に参りましたのは、二十九年の八月二十七日でした。
神戸から東京へ参ります時に、始めてフロックコートを作りました。それも私
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にそっと出かけて一緒に歌ったり致しました。先年三越で福井丸の船材で造った物を売り出した時に巻煙草入を買って帰りまし
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ました。その翌年独りで横浜に参りまして(独り旅は長崎に一週間程のつもりで出かけて、一晩でこりごりしたと云って
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つきましたのは八月の下旬でございます。その頃東京から岡山辺までは汽車がありましたが、それからさきは米子まで山
むごいです、なぜ悪き人に悪き病気参りません』東京に参りましても、この方の病気を大層気にしていました
しかし、ヘルンは辺鄙なところ程好きであったのです。東京よりも松江がよかったのです。日光よりも隠岐がよかったのです。
ていました。私に東京見物をさせるのが、東京に参る事になりました原因の一つだと云っていました。
と誤解して居る』と申していました。私に東京見物をさせるのが、東京に参る事になりました原因の一つ
私の兼ての望みでした。ヘルンは『あなたは今の東京を、廣重の描いた江戸絵のようなところだと誤解して居る』
で、地獄のようなところだと申していました。東京を見たいと云うのが、私の兼ての望みでした。ヘルンは『
三年より我慢むつかしいと私に申しました。ヘルンはもともと東京は好みませんで、地獄のようなところだと申していました。
神戸から東京に参ります時に、東京には三年より我慢むつかしいと私に申しました。ヘルンはもともと東京は
神戸から東京に参ります時に、東京には三年より我慢むつかしいと私に申しまし
神戸から東京に参りましたのは、二十九年の八月二十七日でした。大学に
神戸から東京へ参ります時に、始めてフロックコートを作りました。それも私が大層
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出雲がよいとも思いませんでしたから、ついこの西大久保の売屋敷を買って建増しをする事に、とうとうなったのでございます
朝さようならします。と、大学に参る。宜しいの時、大久保に参ります、あの新しい家に。ただこれだけです』と申しまして、
あの家、宜しいの時、あなた云いましょう。今日パパさん、大久保に御出で下され。私この家に、朝さようならします。と、大学に参る
ますと、富久町よりは家屋敷は広いのと、その頃の大久保は今よりずっと田舎でしたのとで、至って静かで、裏の竹籔で
電話だけは止めにしてくれと申しました。その頃大久保へは未だ電灯や瓦斯は参って居りませんでしたが、参ってい
英語で、「あなた、何処ですか」と聞きますから「大久保」と申しました。「あなた国何処です」「日本」たゞこれきりです
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ますとひどくそれに感じまして、賞めるのでございます。上野の絵の展覧会にはよく二人で参りました。書家の名など少しも
て私も諳ずるようになりました程でございます。上野の絵の展覧会で、浦島の絵を見まして値も聞かないで約束
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たのですが、以前からの関係もあり、又その後浅草の伝法院の住職になった人と交際があった縁故から、その人