わが童心 / 佐藤垢石
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そのころ本郷の高台と田端道観山を隔てる谷には、黄色く稔った稲田が遠く長く続い
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の久し振りの手紙を、二度三度目誦した。友は南紀熊野の故郷に帰り住み、大自然の懐ろに抱かれ、心豊かに幸福に暮らし
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ただ越後山と呼んでいるが、二つとも上野国と越後国にまたがっているのである。
からこの山々の白い嶺を雅やかに眺めて、まだ知らぬ越後国の雪の里人のありさまについて、いろいろ想像をめぐらしたものであった。
ある。上越線が開通する以前、恐らく数百年前から、越後国の人々はこの雪の三国峠を草鞋をはいて越え、上州や武州の
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と思える方の地平線から、低く起伏した浅緑の峰々は桐生市の裏山から野州の足利、安蘇、下都賀郡の方へ連なる一連の山脈である。
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青い裾から、鋸の歯のように抜けだしている。足尾山は、中宮祠湖畔の二荒山や、奥日光の峻峰を掩い隠しているけれど
足尾山の左は、わが赤城だ。私の村からは、真北よりも東に位置
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わが村から真西に卓子のように平らに横たわるのは、神津牧場の荒船山である。荒船山の右の肩から奥の方に、雪まだら
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の雄容はひとりわが上新田ばかりから望めるのではない。高崎市に近い佐野村を通過する信越線の汽車の窓からも前橋公園の桜の土手
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上州の東南地方から武州、下総国かけて一望、眼を遮るもののない大平野である。一つの小山もなく
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漿に舌鼓をうち申し、殊に時たま珍肴として、十津川と北山川と合流して熊野川となるあたりの渓谷に釣り糸を垂れ、獲たる
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そこはもう、広茫たる関東平野だ。秩父山の消えるところと、野州の連山の消えるところのわが村から指し
天を焦がす猛火の反映が、燃ゆる雲となってむらがり立ち、関東平野の西北端にある赤城と榛名の麓の村々からも、東南の水平線に怖ろし
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風雪は浅間山が最もよく承知しているのだ。日中、浅間の煙を望んで、東の空か東南の秩父山の方へ流れていれ
浅間の東南に続くのは、角落や妙義の奇山で、これは誰にもなじみ深い
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赤岳を主峰として八つの嶺が序列正しく白い新雪を冠り、怒れる猛獣が
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黄色く稔った稲田が遠く長く続いていて南方を眺めると根津の権現さままで、見通せたのである。私は、夕方早く学校から帰って
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望んで、ただ越後山と呼んでいるが、二つとも上野国と越後国にまたがっているのである。
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空には、煙の浅間山が浅間隠し山、鼻曲がり山、碓氷峠などの前山を踏まえて、どっしりと丸く大きく構えている。一体、浅間山は南向き
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塗りこめられて、つれなくも私の視界に映らない。ただ近く秩父の山々が重畳と紫紺の色に連なり、山脈が尽きるあたりの野の果てに
眺望する四辺の山々に、眼を一巡させたが、秩父の連山はさらに東南へ低く伸びて、武州児玉郡か北埼玉郡の草野のなかに
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に細かい雨と共に、駿河大納言が詰腹を切った高崎の鐘の音も雲に含んで伝えてくる。
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かといえば、やはり東京が故郷である。自分は、本所の割下水で生まれた。つまり、割下水が故郷だ。引き潮時に、掘割の
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西の空には、煙の浅間山が浅間隠し山、鼻曲がり山、碓氷峠などの前山を踏まえて、どっしりと丸く大きく
前山を踏まえて、どっしりと丸く大きく構えている。一体、浅間山は南向きなのか、東向きなのか、前掛山は、山の中腹から南方へ
浅間山は、わが地方の気象台である。明日の晴雨、風雪は浅間山が最もよく承知し
は、わが地方の気象台である。明日の晴雨、風雪は浅間山が最もよく承知しているのだ。日中、浅間の煙を望んで、東の
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れ、からき目に会って二匹の狐は命からがら白川の崖へ逃げ帰ったという父の実話である。
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高山が東へ向かって走ったその奥遙かに、奥多摩の雲取山が銀鼠色に、淡く煙って見える。太い平らな胴を台にして、
の爪のように並ぶ三、四の小峰は、あれは雲取山の頂に違いない。
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走らせられたことがあったのを記憶している。相生町の津久井医院へ、病母の薬貰いであったかも知れぬ。
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真西に卓子のように平らに横たわるのは、神津牧場の荒船山である。荒船山の右の肩から奥の方に、雪まだらの豪宕の
に平らに横たわるのは、神津牧場の荒船山である。荒船山の右の肩から奥の方に、雪まだらの豪宕の山岳が一つ、
終わりに近づいて、そろそろ稲の収穫がはじまろうとするころ、荒船山の南方と、秩父山の西北との遠い遠い空に、雪の連山が生まれ
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山が顔を出している。右が茂倉岳、左が谷川岳である。平野の人々は遙かにこれを望んで、ただ越後山と呼んで
谷川岳も、二十年前、まだ上越線が開通しないうちには、ただ遠い山
を許さなかったのである。伊勢崎市付近の平野からは、谷川岳の左に続いて万太郎山の姿が遙かに見える。
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で立っているのを見いだすであろう。それはやはり甲州の金峰山だ。金峰山は、なんとみめかたちよい山か。
いるのを見いだすであろう。それはやはり甲州の金峰山だ。金峰山は、なんとみめかたちよい山か。
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が尽きるあたりの野の果てに頂をちょんぼり白く染めた富士山が立っていた。
十里にも余るあの長い広い裾を引いた趣は、富士山か甲州の八ヶ岳にも比べられよう。麓の前橋あたりに春が徂くと赤城
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山上の榛名湖にも、いろいろの想い出がある。華やかな火口原の花野の果てに、漂う
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三国連山から西に続いて、渋峠の山と草津の白根火山が聳えているのであるけれど、白根山も渋峠も、榛名山の
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小生もここ熊野なる故郷の山中へ疎開転居致し候てより、はや一年の歳月を過ごし申
久し振りの手紙を、二度三度目誦した。友は南紀熊野の故郷に帰り住み、大自然の懐ろに抱かれ、心豊かに幸福に暮らして
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たび、幾十年振りかで、父母のいない生まれ故郷の上新田へ帰ってきた。住まいは昔のままの草葺の朽ちた百姓家である。
と、感じてきたのである。取り分け私は生まれた上新田の眺めがよい。
試みに、上新田の田圃へ出て、東西南北の風姿に一瞥を与えようか。
山や、奥日光の峻峰を掩い隠しているけれど、わが上新田から一里半ばかり南方の玉村町近くへ行くと赤城と足尾連山の峡から奥
上新田から望んだ赤城の嶺には、東から長七郎、地蔵、荒山、鍋割、鈴
榛名山は、わが上新田にとって、お隣という感じである。あるいは、上新田は榛名山の麓の
上新田から見る五月の落日は、榛名山の西端にかかる。初夏の厚い霞を着
の南方釜無河畔から眺めた八ヶ岳と、ある年の晩秋、上新田へ帰省して、西南の遙かな空にあの白い奥山を望んだとき、形
八ヶ岳の雄容はひとりわが上新田ばかりから望めるのではない。高崎市に近い佐野村を通過する信越線の汽車の
私の、上新田の茅舎は、利根の河原へ百歩のところにある。朝夕、枕頭に瀬音の
わが生涯の歴史は、綿々として絵巻物のように、上新田の地先の利根の流れの面に、絶え間なく幻影を描きだす。
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にも余るあの長い広い裾を引いた趣は、富士山か甲州の八ヶ岳にも比べられよう。麓の前橋あたりに春が徂くと赤城の裾
ただ村人は、あれは信州か甲州の奥山であろうと思っていた。
ところで、あの遠い山をはじめて甲州の八ヶ岳であると断定したのは、私であった。それは私が
。それは私が登山に趣味を持つようになって、甲州や駿河信州の飛騨の山々を歩きはじめた今から三、四十年前のこと
はじめた今から三、四十年前のことであった。甲州の甲府の南方釜無河畔から眺めた八ヶ岳と、ある年の晩秋、上新田へ帰省
細雨が、しとしとと降ることがある。この雨雲はあの遠い甲州の奥山から送ってくるのであると、里人は言い伝えた。西南の遠い山
しき姿で立っているのを見いだすであろう。それはやはり甲州の金峰山だ。金峰山は、なんとみめかたちよい山か。
多野の西御荷鉾山、東御荷鉾山。遠くは武州と甲州にまたがる奥秩父の連山が、十重二十重に霞の奥の果てまで連なっ
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赤城の左の肩には、利根郡の中央に蟠踞する雪の武尊山が、さむざむとした姿をのぞかせて
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を齎さない。いつも、東の空へ長く倒れる。多分、下野国の耕野を白雨に霑すことであろう。
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ときどき散歩に行く、丸の内のお堀端の柳が水に映る姿も、故郷の彩である。そんなわけ
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余るあの長い広い裾を引いた趣は、富士山か甲州の八ヶ岳にも比べられよう。麓の前橋あたりに春が徂くと赤城の裾は下
ことであった。甲州の甲府の南方釜無河畔から眺めた八ヶ岳と、ある年の晩秋、上新田へ帰省して、西南の遙かな空にあの
八ヶ岳の雄容はひとりわが上新田ばかりから望めるのではない。高崎市に近い佐野村を
八ヶ岳の左手に、いつも濃紺の肌の色を、くっきりと現わした円錐形の高い
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対岸は伊勢の山々、こちらは紀伊の縣崖。その間に散在する水田や山畠は掌
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秩父の高山が東へ向かって走ったその奥遙かに、奥多摩の雲取山が銀鼠色に、淡く煙って見える。太い平らな胴を台に
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連なっている。近きは紫紺に、遠きは浅葱色に、さらに奥山は銀鼠色に。
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ている。足尾山は、中宮祠湖畔の二荒山や、奥日光の峻峰を掩い隠しているけれど、わが上新田から一里半ばかり南方の玉村町近くへ行く
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から東の田圃へ出れば赤城山、西の田圃へ出れば榛名山、北方の空に春がきても夏がきても四季の朝夕楽しき折りも
小野子山の肩から、榛名山の右の肩にかけて空間に、これを遙かに白い国境の山脈が連なって
が聳えているのであるけれど、白根山も渋峠も、榛名山の背後に隠れて、平野からは全く視界を絶っている。しかし、昭和七、
た秋の日に、夕陽を狐色に映した煙が、榛名山の右の肩から細く、東北の方、越後の空に遠く棚引くのを折り折り望見
榛名山は、わが上新田にとって、お隣という感じである。あるいは、上新田は榛名山
とって、お隣という感じである。あるいは、上新田は榛名山の麓の分に含まれているかも知れぬ。
上新田から見る五月の落日は、榛名山の西端にかかる。初夏の厚い霞を着た入陽は、緋の真綿に包んだ
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上新田に生まれ育った。よちよち歩く頃から東の田圃へ出れば赤城山、西の田圃へ出れば榛名山、北方の空に春がきても夏がき
て説明するのは、いらぬことであろう。上州人は赤城山について、知り抜いている。しかし、わが村から仰ぐ赤城の偉容は、わが村人
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時たま珍肴として、十津川と北山川と合流して熊野川となるあたりの渓谷に釣り糸を垂れ、獲たる山女魚やはやに味覚を驚か
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ああ上州よ、上州よ、赤城よ、榛名よ、利根川よ、われは汝と生死を共にして、
の窓から一心に西北の空を眺める私の眼に、赤城と榛名の低く淡く地平線に横たわる容が映るのであった。私は、瞳
、わが上新田から一里半ばかり南方の玉村町近くへ行くと赤城と足尾連山の峡から奥白根の高い雪嶺が、遙かに銀白色の光を放っ
足尾山の左は、わが赤城だ。私の村からは、真北よりも東に位置して、前橋の街
赤城について説明するのは、いらぬことであろう。上州人は赤城山につい
について、知り抜いている。しかし、わが村から仰ぐ赤城の偉容は、わが村人だけが知っている姿だ。
上新田から望んだ赤城の嶺には、東から長七郎、地蔵、荒山、鍋割、鈴ヶ岳と西
私は、五月から六月上旬へかけての赤城が一番好きだ。十里にも余るあの長い広い裾を引いた趣は、
にも比べられよう。麓の前橋あたりに春が徂くと赤城の裾は下の方から、一日ごとに上の方へ、少しばかりずつ
真冬の赤城は、恐ろしい。籾殻灰のように真っ黒な雲が地蔵ヶ岳を掩うと、
年の暮れが近づくと、村の長老鹿五郎爺の先達で、赤城の中腹にある箕輪村の近くへ、春の用意の薪採りに登って、
父逝いて幾年、晩秋がめぐりきて、夕陽が赤城の山襞を浮き彫りにするとき、私の眼には白川狐が、餅を食べ
を食べている姿が甦る。白川狐は、いまもなお赤城の山襞に、永遠の生を続けているであろう。
赤城の左の肩には、利根郡の中央に蟠踞する雪の武尊山が、さむざむ
子持と小野子の二つの山は赤城の山裾が西へ長く伸びて、そこに上越国境から奔下する利根の激流を
この二つの山は、わが村から真北に当たって、赤城の裾と榛名の裾が、相触れようとする広い中空を占めている。子持
の平野を悉く、おのれの衣裳のうちに包んでいる。赤城と同じに、なんと広い裾野の持ち主ではないか。
榛名は赤城に比べると、全体の姿といい、肌のこまやかさ、線の細さなど
、段々に中腹の雑木林に移り染まって恰も初夏、新緑が赤城の裾野を頂に向かって這い登るのと反対に、一日ごとに青草の彩
、燃ゆる雲となってむらがり立ち、関東平野の西北端にある赤城と榛名の麓の村々からも、東南の水平線に怖ろしきばかりに見えたの
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のことである。我々四年生が主謀者となって、前橋中学の生徒控室で全校生徒の同盟休校を決行した。折りしも三十有余
私の村からは、真北よりも東に位置して、前橋の街を裾の間へ掻い込まんばかりにして聳えている。
趣は、富士山か甲州の八ヶ岳にも比べられよう。麓の前橋あたりに春が徂くと赤城の裾は下の方から、一日ごと
子供のころ、その痛い嵐が吹き荒む利根川端の崖路を、前橋へ使いに走らせられたことがあったのを記憶している。相生町
渡って、私の家へ養子に来たのである。前橋からの高崎街道は六十年ばかり前までは、宗甫分から利根川を越え
食後、松の沢の部落から、前橋方面に大きな火事が火の手をあげるのを発見した。あとで聞いた話
高崎市に近い佐野村を通過する信越線の汽車の窓からも前橋公園の桜の土手からも、はっきり眺めることができるのだ。
この平野の尽くるところの海辺に東京の街がある。前橋から二十八里。
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今から三、四十年前のことであった。甲州の甲府の南方釜無河畔から眺めた八ヶ岳と、ある年の晩秋、上新田へ帰省し
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てよりは、食膳を飾る莢碗豆、春蒔白菜、亀戸大根などの鮮漿に舌鼓をうち申し、殊に時たま珍肴として、
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知らない。そこで、どこが故郷かといえば、やはり東京が故郷である。自分は、本所の割下水で生まれた。つまり、割下水
、親戚や友人があちこちへ疎開転住をするけれど、自分は東京から草鞋をはく気持ちになれない。
愛着を感ずる。いや、愛着どころではない。自分は、東京と切っても切れぬのだ。だから、親戚や友人があちこちへ疎開
も、故郷の彩である。そんなわけでほんとうに自分は東京の朝な、夕なに愛着を感ずる。いや、愛着どころではない。
ば、東京はまことに殺風景のところだ。私も永い年月東京住まいをしたけど、なんとなく潤いある情味に乏しい。でも、木村
我々からみれば、東京はまことに殺風景のところだ。私も永い年月東京住まいをしたけど、
私は少年の頃、東京へ転学した。顧みれば、明治三十八年五月十四日の真昼のこと
て、四十三名の若き主謀者たちは、笈を負うて東京の私立中学の補欠募集に応ずるため、ぽつぽつと上京した。私も、
あう。退学処分にあえば、父兄もしょうことなしに我々を東京の学校へ送るであろう。
奥には、日ごろ田舎の中学にいるのは時代遅れだ。東京の空気が吸いたい。けれどそんな希望を父兄に申し込んだところで、一喝を
そんな稚い学生であるが、東京へ出るよりほかに途はない。だが、同盟休校をたくらんだ主謀者
私は、勉強の方は甚だ不得手で、神田にある東京中学校と、大成中学校を受けたが二つとも落第。最後に、
けれど、東京は言わずもがな、どこの国でも、わが上州ほどよい国はない。と、感じ
なく押し広がっている。この平野の尽くるところの海辺に東京の街がある。前橋から二十八里。
十二年九月一日の夜、大震災の火の手はいよいよ逞しく、東京の下町を殆ど焼き尽くしたが、天を焦がす猛火の反映が、燃ゆる雲
東京も永い年月住んでみれば、万更いやなところでもない。こうし
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学校を受けたが二つとも落第。最後に、本郷駒込の郁文中学を受けて辛うじて四年の二学期に入学を許された。
田端の高台にある下宿屋に移り、駒込の学校へ通う路すがらの田の畦に蟋蟀が唄う秋の詩をきく
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私は、勉強の方は甚だ不得手で、神田にある東京中学校と、大成中学校を受けたが二つとも落第。
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田端の高台にある下宿屋に移り、駒込の学校へ通う路すがらの田の畦
である。私は、夕方早く学校から帰ってくると、田端の高台の一番高いところにある大根畑の傍らに佇んで、西北の遠い空
そのころ本郷の高台と田端道観山を隔てる谷には、黄色く稔った稲田が遠く長く続いていて
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想いを催したのである。私は、利根川の西岸上野国東村大字上新田に生まれ育った。よちよち歩く頃から東の田圃へ出れば赤城山
望んで、ただ越後山と呼んでいるが、二つとも上野国と越後国にまたがっているのである。