増上寺物語 / 佐藤垢石
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庄内藩主酒井左衛門尉が金三千両を借用するために入れた証書の文句は、まこと
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祀られてある。二代秀忠の裏方崇源院は、越前の国浅野長政の次女であるから淀君の妹に当たる。であるから豊臣
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この寺の住職は駿州大納言派で自分の敗北を慨し、江戸城紅葉山で割腹自殺した事件なども起こった。この縺れは後年まで続き、ついに
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に与って家康は上人を知り、千代田城の鬼門に当たる上野山に寛永寺を建立させ、これを鬼門除けの祈祷所とした。で
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菩提所というのであるから、寺としての豪勢、関東に並ぶものはなかった。
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あの大門をくぐってみると、その豪華なこと、上野の寛永寺とそれを取りまく公園の比ではない。
上野の、東叡山寛永寺は、天海上人の開基である。天海上人は観智国師の法友で、共
家康は上人を知り、千代田城の鬼門に当たる上野山に寛永寺を建立させ、これを鬼門除けの祈祷所とした。であるから、
鬼門除けの祈祷所とした。であるから、最初は寛永寺を将軍家の霊所とする考えはなかったのである。
次に三代家光は日光と上野寛永寺に祀ったが、寛永寺の廟は焼失し、残るは日光のものばかりとなったのである。
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に迫って勝利を博した。当時、増上寺の地続きに金地院という寺があったが、この寺の住職は駿州大納言派で自分の敗北
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増上寺御霊屋御年番念仏院宛引受 清光寺
あるから日限に偽りはない、と固く契約している。清光寺という寺の口入れで酒井侯は霊廟の別当に近づいたのであるから清光
口入れで酒井侯は霊廟の別当に近づいたのであるから清光寺が引受、つまり保証人となった。当時、こんな証文が殿様から寺へ入って
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奥院の裏山から突然水銀が湧き出した、沖積層からできた愛宕山の地続きに水銀鉱があるはずはあるまいと、その道の人が調査した
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家康薨去の時は、最初駿河の久能山に葬り、その後間もなく日光に移したのであったが、いまに
以後は規模が甚だ小さいのである。けれど一番古いところの久能山の家康廟と、改造前の日光廟とはまだ徳川家が興隆の途中に
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は家光を擁し、これを午前中の出生なりと主張して駿府へ乗り込み家康に迫って勝利を博した。当時、増上寺の地続きに金地院と
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である。天海上人は観智国師の法友で、共に武蔵国の人であった。国師の推薦に与って家康は上人を知り、千代田城
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あるから、年中用事がなく遊び暮らした。駕籠に乗っては江戸の市中へ繰り出し、遊びまわった。
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四代も五代も共に、家光の愛妾桂昌院の腹から生まれた。桂昌院というのは、よほど聡明な女性であった
が哀れに見て、女の子を貰い受け育てあげたのが後の桂昌院であった。家光は、この桂昌院が随分気に入っていたと見え
たのが後の桂昌院であった。家光は、この桂昌院が随分気に入っていたと見えて、家綱、綱吉の外に甲府宰相
の家宣は、甲府宰相綱重の子であった。つまり、桂昌院の孫である。この家宣の霊廟が元禄の文化を象徴し、その建築美
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『増上寺にも、いまの時世が分かっていよう。国のためだ――迷惑であろう
た。役者は、ほんとうに当惑したのである。日ごろ増上寺の懐中を預かっているこの役者が、ここでおののく胸に胸算用をして
『お言葉たしかに承引致しました。しかし、増上寺は永年手許不如意にて、既刻の話にては、ご無心に三千両足りませ
即座に三千両は都合になった。増上寺の庫裡へ戻って土方と万理小路の脚下へ、都合五千両が並べられた
翌年の七月、こんどは白昼、土方らは増上寺へ押し込んできた。
前の時の僧であった。ところが、その時の増上寺には一文の蓄えもなかったのである。役者は、また白刃の前
その日は、それで済んだけれども、増上寺では後難を恐れた。
ば、眼のあたり分かる通り、幕末から維新当時にかけて増上寺の境内や数ある徳川霊廟の境内は、匡賊に類した武士や贋武士
しかし、当時の、物ごとに震えてばかりいた増上寺には、その真相は分からなかった。武士と名のつくものには、腫れもの
と、申し入れた。ところが、土方らは増上寺の使者に、
いろいろと話を承った序に、土方らが押し入った当時増上寺が瑞蓮寺から借りた三千両と、千五百両の借用証書を見せて貰った
たのに驚いたのである。それにつけても、増上寺は貧乏したものであった。それというのは、十代、十一代
増上寺の寺境六百余町歩、それが幕府全盛の頃には、大江戸に栄華を極め
一偉観であったであろうと思う。それが今では増上寺の御廟と言っても殆ど知らぬ人が多い。東京市民中で、この江戸
それでも、一度増上寺のあの大門をくぐってみると、その豪華なこと、上野の寛永寺とそれ
時代の権勢と金力と、審美眼とを後世に残したこの増上寺を、徳川家の菩提所として定めたのは家康であった。家康が
でいた。家康はその徳に帰依して、国師に増上寺の造営を嘱したのである。ここを三縁山と唱えて、徳川家
、徳川家累代の霊を祀る地とした。当時の増上寺は境内十八万坪、数十の大建築物棟を並べ、いくつもの学寮を創設し
そして、総本山智恩院に対して増上寺を浄土宗の本山と称え、末寺の数も千を越え、徳川家の菩提所と
増上寺の現在の本堂は、明治四十三年の建築になったものである。幕府時代
。幕府時代からの本堂は、明治六年政府の方針より増上寺に神仏を共に祀った時、神仏混淆を忌む神官が放火したので
の建築物を改造したのであった。二代秀忠は増上寺境内へ祀って台徳院と称した。次に三代家光は日光と上野寛永
結構を模したに過ぎないのである。そして、余りに増上寺の二代廟へ金をかけ過ぎてしまったので、日光へは思うが
なことは殆ど台徳院に劣らない。そして、数ある増上寺の霊廟のうち、この台徳院と、崇源院を南廟所と称えて
て駿府へ乗り込み家康に迫って勝利を博した。当時、増上寺の地続きに金地院という寺があったが、この寺の住職は駿州大納言派
別当というのがついている話は前に書いた。増上寺は宗門の府であるというに対して将軍家は霊廟を特にお守りさせるため
が、これを別当と称した。であるから、別当は増上寺に対して独立している。芝の霊廟には別当が六ヵ寺あった。
触れない。年に二回の霊祭の時に、将軍と増上寺の大僧正を霊廟へ案内すればいいので他に何の役目もなかった。
それに引きかえ増上寺は幕府からの手当てが薄かった上に、末寺も衰えて割賦金が充分に上がっ
であったのである。ところが尊王方の土方らは増上寺と別当は同じ懐であると考えたらしい。そこで、増上寺を襲って
と別当は同じ懐であると考えたらしい。そこで、増上寺を襲って役者を面喰らわせることになったのであるが、土方らが予め
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た。家康が千代田城を政権の府とした頃、半蔵門の近くに観智国師という高僧が庵を結んでいた。家康はその徳
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美には何処となく植民地の匂いがある。ところが、芝公園に遊んではじめて東京の姿をみた。と評したことがあった。
乾燥な科学品の多いのを例とする。ところが、芝公園の杜の中に蒼然と古典を語る霊廟を、そのまま博覧会に出品物
である。しかしながら、博覧会が開設されるとしたら、芝公園が最適の敷地と思う。由来博覧会の出品物は、潤いに乏しい無味乾燥
一両年来、芝公園を万国博覧会の会場敷地にしたらよかろうという議のあるのを聞く。二
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『宇都宮戦営の軍費にして、尊王方の勘定方に少々都合がある。
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に入っていたと見えて、家綱、綱吉の外に甲府宰相綱重をも生ませた。
六代将軍の家宣は、甲府宰相綱重の子であった。つまり、桂昌院の孫である。この家宣
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増上寺の御廟と言っても殆ど知らぬ人が多い。東京市民中で、この江戸芸術の粋を飾った建築美を賞して、地下
西は赤羽橋まで昔のままに生い茂っていたならば、東京の一偉観であったであろうと思う。それが今では増上寺の
植民地の匂いがある。ところが、芝公園に遊んではじめて東京の姿をみた。と評したことがあった。それは公園の中心
先年日本へ観光にきた仏蘭西の一画家が、東京の都会美には何処となく植民地の匂いがある。ところが、芝公園
が日本において開催され、それに伴って万国博覧会が東京に開設されるかは、いまのところ何とも見当がつかないようで
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寺のあの大門をくぐってみると、その豪華なこと、上野の寛永寺とそれを取りまく公園の比ではない。
に与って家康は上人を知り、千代田城の鬼門に当たる上野山に寛永寺を建立させ、これを鬼門除けの祈祷所とした
上野の、東叡山寛永寺は、天海上人の開基である。天海上人は観智
代慶喜などが祀ってあるが、廟の建築などは、上野は遠く芝に及ばない。日光は家康と三代家光とだけである。また
九代家重、十二代家慶、十四代家茂などであって上野寛永寺境内にある霊廟には四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十
て台徳院と称した。次に三代家光は日光と上野寛永寺に祀ったが、寛永寺の廟は焼失し、残るは日光の
した。一代から七代までは、芝に置こうが上野に置こうが一代ひと構えとして独立の霊廟を建造経営する慣わしと
四代家綱、五代綱吉の廟は上野へ持って行き、次の五代と七代の廟は芝に造営し
、その小拝殿も芝の方には残っているが、上野には現存していない。
であった。その後の各将軍の霊は、芝または上野の廟に合祀され、決して単独の廟を建立せぬようになった
ためであろう。吉宗は、生前遺命して自分の霊を上野の五代廟に合祀させたのであった。その後の各将軍の
、家光の霊廟は日光へ建立されたのである。上野山寛永寺にも家光の霊廟があったが、これは享保年間の火事
後年まで続き、ついに四代家綱、五代綱吉などの霊を上野寛永寺へ持ってゆく成行となったのである。