満蒙遊記 附 満蒙の歌 / 与謝野晶子 与謝野寛

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地名一覧

山東省

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の華工を収容してゐる。華工の出身地は概ね山東省に限られてゐると云つてよい。其等の華工は約二百人の

も混じてゐる。「天斉」は道教の神で、山東省の泰山の主神である。久しい前から山東の漢人が植民した土地である

筑後

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筑後より白仁秋津君来る。即ち共に歌を詠む。

関東州

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つた。路傍に娼婦の共同浴場があつた。勿論関東州の日本警察署が管轄する土地であるから、純粋の支那街の公娼窟では

経営に由る此の病院のある事は、大連市民は勿論、関東州に在る日支両国民に一つの安心を与へるものであらねばならない

と成績との大略を領得せしめるに十分であつた。関東州に資料の硅石が豊富にあること、及び労銀の低廉なことが此地に

には砲台のあつた諸峰が連立し、西北には関東州の平野、南には渤海、東には黄海を遮断して壁立する老

福岡市

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の加野宗三郎さんが度度無線電信を船へ打つて、その福岡市外の新居「環水荘」へ立寄れと勧められたが、北京へ行かない

青森市

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のを聞いて、私達も共に喜んだ。大井さんは青森市の旧家の子であるが、継母との事情で、早く兄の一郎さんと

法隆寺

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仏教徒の手段と見えて、万葉集の餓鬼の歌や、法隆寺の塔内の彫刻にも遺つてゐるが、それを今日の遼東でも目

吉林省

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)などの剥製は子供達にも見せたいものであつた。吉林省の豊富な材木と獣皮の種類をも一瞥した。黒竜江流域の深林に栖む

と云ふので、今一度市街見物をした。市は吉林省の北境に位置し、西から北に控へた松花江の対岸は黒竜江省に

であつた規模を存してゐる。その更に向ふは茫茫たる吉林省の曠原となり、浦塩斯徳に向ふ東支鉄道が東走し、長春に赴いて満鉄本線

通りに、午前九時発の吉長線の汽車に乗つて吉林省の首府である吉林に向つた。伊通河を渡つて東すると、次第に

そのむかし吉林省に王気立ち清朝の手に崩されし山

皇居

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古制が厳守されてゐるらしい。即ち辺城と内城と皇居との城壁が三桝の形になつてゐる。辺城が昔の「外郭」の

箱根

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熊岳温泉は山川と楊柳の景に富み、泉質も箱根のやうに美しい。附近に一つ突起して禿げた岩山が異様の相を

高麗

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「魏書」の「勿吉伝」の初めに「勿吉国は高麗の北に在り。旧の粛慎国なり」、「国に大水あり、濶さ

北海道

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監獄だけの事はあると感心した。我国でも北海道の監獄などには暖房の設備があるであらうか。また感心したのは

大連市

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大連市外の星ヶ浦

帰途初めて支那の馬車に乗つて、夜の大連市を縦断した。きたなくはあるが、石だたみの街道に馬蹄を響かせて、

、宏壮な洋風建築を丘陵の上に屹立させて、大連市を前に俯瞰し、巍然たる城塞の観を成してゐる。内部の設備の

極楽寺

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金州の極楽寺にある地獄像

て自動車を走らせた。途中に支那人が近年建てた極楽寺を一拝した。生生しい色彩を施した支那流の荘麗な大寺院である

おなじ所の極楽寺にて

横浜

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が受持つてゐられる。杉本さんはクリスト教徒で、かつて横浜に住んで社会救済事業に尽されてゐた人である。食後に処女会

遼河

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へて営口へ来た。私は史上で知つてゐる遼河の河口を観たいためもあるが、主として、自分の文化学院の

営口は遼河の河口左岸に位置し、清末に鎮海営と云ふ官署を置いたので「

出して頂き、私達は松江さん御夫婦をも加へて、遼河を遡ること一里に及んだ。遼河は内蒙古の興安嶺を発して以来各所

をも加へて、遼河を遡ること一里に及んだ。遼河は内蒙古の興安嶺を発して以来各所の川を併せ、二百里以上を経

等に工場を持つてゐる相である。また柴河と遼河の流域に属する此地には、低湿の広い土地が多いのを利用して

てゐると云ふが、駅からは望まれなかつた。遼河の右岸にある三江口は、営口から戎克の上つて来る商業市街とし

ゐる。鄭家屯は遼源県治のある商業市街で、遼河の流域だけに漢人の耕作が盛んに行はれ、近年この駅から支線が

分水界になつてゐて、海抜が最も高く南する水は遼河へ、北する水は松花江へ注ぐことなどを話された。

公主嶺から以南は遼河平原と称せられ、遼河の流域に属して、奉天省の全面積の五分の一を占め、南満洲

風流の駅長しばし我をして春の遼河の船に立たしむ

われの観るこの日も後の万年も遼河は濁る善悪の外

みなかみの遼河の柳みじかくて暗きジヤンクの帆を上に置く

わが船よ片時のちはいかならん遼河の流濁水にして

逢ひがたき人と遼河の船にあり午後四時の日よ座をば動くな

濁りたる遼河の流逆しまに動き初めけれ潮さして来て

蘆原も遼河の幅におとらざる緑をひろぐ北方の岸

大興安嶺山脈

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に矮い楊柳や夏草の緑が望まれる。外蒙古を境する大興安嶺山脈の伊勤呼里山の西南に発して東南流し、墨留根の北に入り

内蒙古

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加へて、遼河を遡ること一里に及んだ。遼河は内蒙古の興安嶺を発して以来各所の川を併せ、二百里以上を経て、この

も起りつつある排日の気勢が盛にならぬ間に、内蒙古の一部と北満とを観て置きたかつたので、奉天の見物を

私達は内蒙古方面へ行くことの安否に就て、奉天の駅長古山勝夫さんに意見を求めた

へ働き掛ける或る重大事のために、一人の日本兵もゐない内蒙古へ行つて、第二の済南事変が私達の上に激発されるのでない

、朝の七時の汽車で四平街を立つて、いよいよ内蒙古の奥地の一部を観ることになつた。四平街附近ばかりでなく、一体に

のためには轎車と云ふ馬車が用ひられて、内蒙古には全く人力車を見掛けない。轎車は馬よりも多くは騾を附けて

に、駱駝、騾、驢馬が用ひられるが、駱駝は内蒙古の西部に多く、私達の通過する沿線では一頭も見掛けないのに子供

ある。(日本の総面積は四万三千六百七十七方里)今私達はその内蒙古の北東部の一部で、※児河の南岸にある※南に来てゐる。

に関東都督府編纂の「東蒙古」を読んで現代の内蒙古の人文地理に触れたに過ぎない。鳥居博士が明治の末年に出された

て、ますます未来の殷賑を期待せしめてゐる。奉天省から内蒙古の各地へ荷馬車と天幕とに由つて行商する支那人は、主とし

留根の北に入り、斉斉哈爾の西に流れて内蒙古の杜爾伯都部に入り、東南流して三江口に至り松花江

周以来、粛慎、扶余、渤海等に属し、元以後は内蒙古の科爾沁部の遊牧地であつたが、清の乾隆年間に札薩克

農事試験場へ向つた。車上で加藤さんは、此地方が内蒙古の達爾罕王旗下に属し、西北三里余の所に清朝の公主の墓

満洲

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共に歌を詠む仲間の一人であつた。君が久しく満洲に居られるとは知らなかつたのである。埠頭には宇佐美君夫婦、

の一人であらう。君の話の中に、近く某氏が満洲に於てアカシヤの木から良質の人造絹糸を造る発見をした。これが

上は広い所で二間の幅を持つてゐた。満洲には「沙河」と云ふ名の河が多く、名の通りに平生は沙

、古く南方支那あたりから伝へた風習であらう。それが今満洲の支那人にも遺つてゐるのを私達は面白く思つた。良人の歌に

云ふ古刹があつて、其処に祀つてある娘娘廟は、満洲にある同じ名の廟の中でも、特に各地から女子の信者が、陰暦

先生も眞山孝治さんの案内で登られた。今年私達が満洲へ旅行する事を聞かれて、有島さんも正宗さんも是非とも此山へ

僧と同じく肉食を断つて潔斎生活を守つてゐる。満洲で道士らしい道士を見たい人は此の千山に登られるがよい。客堂

満洲に現存する都市で最も古いのは奉天省の遼陽である。「漢書地理志」

林先生は清朝の乾隆帝の三十三年(西紀一七六八)に満洲の旗人福會と云ふ人に帝から与へた恩封の帛書一巻を携へ

の生活状態に就て氏の感想を話された中に、満洲で生れて満洲で育つた女子の結婚難の一節は、特に私の耳に

、少年達の並べた携帯品の何れの上にも、満洲で買つた外国製や支那製の煙草の十本入の小箱が、二つ乃至

鉄道が此処を起点として開通し、内蒙古各地と満洲の貨物を呑吐する第一門となつた為めに、支那街も日本市街も

外助を以て夫君の事業に貢献せられてゐる。満洲に在住する日本の女子達が支那語を学ぶことに冷淡なのを遺憾に

頂く暇の無いのも遺憾な事であつた。吉林は満洲の京都であると云ふ案内記の言葉のやうに、山水の優麗な、風俗

満洲に別れんとして人ならぬ柳と交す最後の握手

大安寺

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の峰へ上る路があり、其れは過つこと無く目的の大安寺へ導く奇巌松樹の間を行く路であつた。

大安寺の門前には山梨の高い一樹が白桃かと思ふやうな花を著けて

この大安寺は千山五大寺の中で最古の寺と云はれる。堂宇は釈迦殿の

翌朝午前四時に既に大安寺の僧達は晨朝の勤行をするので、その鐘の音が薄暗い客堂

大安寺の背後の宝台山を少しく登つて右折すると、羅漢洞の奇勝がある。

再修に由つて堂宇の美を存してゐるが、大安寺に比べると少しく荒れてゐる。また風致に於ても劣つてゐる。仏堂

十観の一つである無量観に達した。是れは大安寺に次ぐ景勝の地を占め、満洲にある道教の廟観の中の巨擘で

てゐるであらうが、表面は何れも婦女を近づけず、大安寺の僧と同じく肉食を断つて潔斎生活を守つてゐる。満洲で道士らしい

古典で見る仙境の聯想を促すものであつた。私達は大安寺で人夫達に作らせて来た昼食の弁当を此処で開いたが、腥い

祖越寺もまた大安寺と同じく古い寺であるが、今は衰微して本堂の外に何者も存し

て、山中最大の規模を占め、堂宇其他の結構も大安寺に勝つてゐるが、山が浅いのと住僧の俗化とのために幽邃閑雅

千山に登りて、大安寺に宿る。

千山のゆふべの峰の大安寺磬の音ぞする岩の寒きに

梨の花しろきをつたひ朝風の渓上りくる大安寺かな

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厚子夫人が見送られた。妻の弟の鳳宗七君も堺から来て見送つてくれた。

黒竜江省

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東屏が、支那政府の行政区域から云ふと、奉天省と黒竜江省との境界になつてゐる。同じ内蒙でも興安嶺の東側にあつて嫩江

れてゐる。其処は東支鉄道の昂昂渓駅があるのと、黒竜江省の首都斉斉哈爾に近いのとで街の形を成し、鉄道関係の露人

この昂昂渓と黒竜江省の首都斉斉哈爾と十六哩の間に、支那政府の敷設した軽便鉄

した服装の支那貴婦人を二人見受けた。一人は此の黒竜江省の督弁呉俊陞氏の第二夫人李氏、一人は此省の警務

相である。その徳望のある事は、省民から「黒竜江省には二人の督軍がある。一人は夫君の呉氏で、一人は呉夫人

に位置し、西から北に控へた松花江の対岸は黒竜江省に属してゐる。日清戦争の後に露国が露清銀行の名で買収する

妙義山

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ホテルの階上から、その欠刻の鋭い峰の一面が、妙義山のやうな雄姿を半空に※だてたのが望まれる。私達が湯崗子駅

佐渡

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交つてゐるのは、数年前に一遊した佐渡の相川の浜のやうである。日は既に遠く川上の平沙の末に落ちて、

今も間接に国事のために尽す所のある人らしい。佐渡の出身であると聞いて、私達の親しくしてゐる佐渡の畑野村の渡邊

佐渡の出身であると聞いて、私達の親しくしてゐる佐渡の畑野村の渡邊湖畔氏の話をすると、井杉さんは渡邊氏と

事が解り、一層の親しさを感じた。近年私達が佐渡に遊んだ話をしたので、久しく郷里に帰らない井杉さんも、佐渡

をしたので、久しく郷里に帰らない井杉さんも、佐渡の近状を聞いて頻りに喜ばれた。宿に珍らしく唐紙と筆との用意

長白山脈

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撫順は奉天の東北十三里、長白山脈の西南に派出した丘陵の間にある低地で、東西に伸びること四里

沙河

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で二間の幅を持つてゐた。満洲には「沙河」と云ふ名の河が多く、名の通りに平生は沙の川であり

浴後に沙河の附近を散歩した。楊柳の上に猶入日の名残がただよひ、

とがりたる五竜の峰を上に見て沙河の柳に近き窓かな

山梨

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、其の稜稜とした痩姿を和らげるために、松、山梨、柞樹、※、榛等の外に種種の雑木が恰も新緑の季節に

香巌寺の渓づたひに山に登つた。其渓は山梨の緑葉で満たされてゐた。梨花の季節は既に十日以前に過ぎた

ゐる資源は全山の薪材の豊富な事であるが、この山梨の果実も其資源の一つであると聞いた。

大安寺の門前には山梨の高い一樹が白桃かと思ふやうな花を著けてゐた。香巌寺

と朱との淡く取合された感じのするサロンで、山梨の花のやうに清く痩せられた奥様の半面に階上の窓から微光の当る

外蒙古

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、その沿岸に矮い楊柳や夏草の緑が望まれる。外蒙古を境する大興安嶺山脈の伊勤呼里山の西南に発して東南流し、墨留根

大連神社

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他を観た。午後は西田君と南山の麓にある大連神社の祭礼を一拝した。季節は初夏ながら是れが大連の春祭であり、

倫敦

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れてゐる哈爾賓での事のやうで無く、大戦前の倫敦で彼国の貴婦人と話した初夏の日の楽しさに似て居た。

両国

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の街区であつた。これを「小盗児市場」と呼ぶのは日支両国語の混合であるから、恐らく日本人の附した賎称で、市人の店前で斯く呼ん

の病院のある事は、大連市民は勿論、関東州に在る日支両国民に一つの安心を与へるものであらねばならない。昔の話ながら、予の父は

の名では「葦雀」であると劉氏から教へられた良人は、両国の名が自然に一致して葦に縁のあるのを喜んだ。

画策とを想像しながら、私は窃に邦人の満蒙経済が露支両国の幸福と矛盾する所のない解決を如何にしたら得られるかの問題に思ひ惑ふ

抵抗力のない、最も世界の耳目を惹かない此地で、日露両国は勿論、列国の既得権と未来の経済的進出とを蹂※してゐる時に、この食卓

斉斉哈爾で遇つた呉夫人を聯想するのであつた。此様な両国の婦人達が思想と趣味の上で交歓を重ねて行く機会が開けたら、日支双方の

壮な欧風建築と共に内部諸室もまた完備してゐる。日支両国の学生を収容してゐるが、今日は昨日の事変のために休校してゐた。屋上へ

京都

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翌六日神戸出帆の亜米利加丸には、京都から親戚の小林政治君、大坂から倉田厚子夫人が見送られた。妻の

、父に伴はれて洛東の粟田山にあつた当時の京都療病院の室内を見て廻り、初めて顕微鏡を覗いた事などを憶ひ

て安堵せしむるにありと考へ、明治六年に今の京都府立病院を全国に率先して創立し、内外の医家を聘して診療

、木材其他の経済都市として活気のある事は京都と違つた別の土地である。それは鴨河が、哈爾賓から此処まで溯江

の無いのも遺憾な事であつた。吉林は満洲の京都であると云ふ案内記の言葉のやうに、山水の優麗な、風俗と

厚意を無線電信で辞し、直ちに神戸に向つた。それから京都に一泊して、東京に著いたのは六月十七日の朝で

黄海舟中、与東京、仙台、福岡、京都四大学諸教授語、賦此以似

神戸

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翌六日神戸出帆の亜米利加丸には、京都から親戚の小林政治君、大坂から倉田厚子

神戸より大連まで四日間の海上は、幸に好晴で、駘蕩たる和風の中

帰りたいので、その御厚意を無線電信で辞し、直ちに神戸に向つた。それから京都に一泊して、東京に著いたのは

五月七日正午、アメリカ丸に乗りて神戸を発す。

五月五日、発東京向神戸車上有作

搭汽船亜米利堅号、発神戸、瀬戸海上所見

福岡

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朝門司に著いて、ここから東北帝国大学の学長小川正孝博士と福岡帝国大学の西川博士とが乗られた。是等の諸君は共に旅順に

目に掛るのであつた。海路は平安であつた。福岡の加野宗三郎さんが度度無線電信を船へ打つて、その福岡市外の新居

黄海舟中、与東京、仙台、福岡、京都四大学諸教授語、賦此以似

巴里

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此度の厚意を謝して※※として辞した。曽て巴里に居た時、或人に案内されて、レザンナル誌の主筆やタン紙

先生が静かな処へ滞在させようと云ふ御厚意から、巴里ならパツシイとも云ふべき高壮な街にある満鉄公館を特に宿所とし

キヤバレエは二所あると云ふが、私達の行つたのは巴里にあるのと同じ名のフオオリイ・ベルゼエルで、規模の小さな事は比較に

ない私達二人が、斯んな所へ入つて見たのは巴里以来の事であつた。珈琲店では二十年振りに浦崎さんとしみじみ

千葉

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(向つて後列右より宇佐美夫人・千葉夫人・石川君・晶子・石川夫人・小日山夫人・眞山君)

会が開かれ、主人夫婦の外、石川鐵雄君夫婦、千葉夫人、眞山西田両君及び予等夫婦が会した。満鉄本社の高級な人

松江

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の令嬢――近く結婚して早川氏を名のられてゐる松江さんが此地に夫君と共にゐられるのに逢ひたいのと、此の

て置きたいと平生祈つてゐる。その三四人の中に松江さんを窃かに数へてゐるのである。

さんに向つて語つたやうであつた。純情に富んだ松江さんもまた胸が嬉しさで一ぱいであるらしく、唯だ素直に「はい、

。さうして、無口な私が何時に無く多くを松江さんに向つて語つたやうであつた。純情に富んだ松江さんもまた

出迎へて下さるのであつた。かねて健康を案じて居た松江さんの元気相な麗しい顔を見て、私は安心と嬉しさとに涙

駅には駅長さん初め松江さん御夫婦が出迎へて下さるのであつた。かねて健康を案じて居た

駅長さんの厚意で汽艇を出して頂き、私達は松江さん御夫婦をも加へて、遼河を遡ること一里に及んだ。遼河

少年曽侍浪滄閣。白髪来弔松江頭。不知自任天下重。兇豎擬報蛮荊讎。于今東方猶多事

俄人少女競春妝。絳帽素羅短短裳。松江自操華舫※。喚歓泛在水中央。晩来上岸把臂歩。喜泰

長崎

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感謝して置く。その中に、日本人を母として長崎で生れた張則民さんと云ふ支那青年がゐられた。張さんは

ある。薩摩浄雲が三味線に合す浄瑠璃を思ひ附いたのも長崎に来てゐた説書生の影響かも知れない。清の袁随園の

仙台

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黄海舟中、与東京、仙台、福岡、京都四大学諸教授語、賦此以似

荻窪

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昭和五年五月、東京の郊外荻窪の遥青書屋に於て筆を擱くに当り、正にその季節である満洲

東京

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昭和五年五月、東京の郊外荻窪の遥青書屋に於て筆を擱くに当り、正にその季節

大連から、共に旅行についての注意を与へられ、東京の小村欣一、上田恭輔、三樹退三の諸君は紹介状を恵まれ、正宗得三郎、

つたりとして心の落ちつくのを感じた。これは東京、いや日本内地の生活全体が余りにせせこましく繁劇で且つ窮屈なのに対照

古道具を並べてゐる。露店よりも店舗の方が多い。東京の場末にもかう云ふ古道具屋が古靴や空瓶や古金類を並べてゐる

に、矮い土壁を繞らしてゐるのは、大震災当時の東京の下町の小屋掛そつくりである。中には崖側を穿つて穴居し、その

感激の予等を驚かすものが無かつた。大正以来久しく東京の歌壇に流行してゐる万葉集擬似体が満洲の青年達にまで影響し

はすべて福昌華工会社の諸君であつた。料理には東京の支那料理でまだ経験しない物が屡出された。高尾氏は幾

たびも頭を回しつつ歎賞した。此木は予等が東京の家にも植ゑてゐるが、並木としてのアカシヤの美を真

は満鉄が有する唯一の青年文人で、また実務家である。東京外国語学校を出て露語を善くし、露西亜最近の文学に専門家以上の造詣

蒙古風の名残が吹いて空は濁つてゐるが、東京の四月の好晴の日の如き温度であり、社内は邦人の家族を

満洲の柳のなかに児を望む山はあれども東京遠し

自然の親しさで無くて人間の恋しさであつた。東京の子供達のこと、友人達のこと、今度新らしく大連で逢つた人達の

佐藤惣之介さんが此処に著かれた。私達より遅く東京を立ち、大連と金州とを見て私達の一行に合せられたので

ゐられる上に、内藤夫人は私の親友足立長子さんと東京女子高等師範学校の最も親しい御同窓であり、また吉田夫人は良人が三十余

冬季のために温泉で蒸汽煖房の設備が出来てゐる。東京の人である女主人初め女中達も物柔かに静かな感じの好い人

の前の空地で支那の田舎芝居を観た。それは丁度東京附近の祭礼に見る馬鹿ばやし程度のもので、小屋掛の様子までがよく似

今夜の出発を一日延ばされたのであつた。以前東京にゐられた頃から歌を詠む人である。お話をして見る

で、この偶然の会合が嬉しかつた。夫人達は「東京朝日」の竹中繁子さんの近状を問はれた。先年竹中さんも此地

ある。早く夫君は日本の士官学校を卒業し、夫人も東京に学ばれたので日本語に通じてゐられる。才気と熱情と新知識の

なくなつてしまつた。夫人は其中から撰んで「東京の竹中繁子さんにも上げて下さい」と云つて托されるのであつた

望まれないと思つた。それで二夫人に「是非近く東京へ一度来て下さい」と繰り返しつつ云つた。二夫人も日本旅行を望ま

れる。私はその御親切に感激しながら、何となく東京の宅にゐるやうな心の落ちつきを覚えた。

はお二人に対して全くの生面である。先生は早く東京外国語学校の露語科を出られ、外交官として露西亜に久しく在任し、

私は四五年前に一度東京で古澤先生にお目に掛つた。古澤夫人とはお手紙の交際

年振りに浦崎さんとしみじみ話すことが出来た。学生で東京にゐられた頃、私達の詩社に加はつて雑誌「明星」や「

短冊も飾られてゐる。いづれも令妹の河崎夏子さんが東京から送られたものである。私達は十年二十年の親友の家に

ために殆ど眠られなかつた。翌朝私は早く起きて東京の子供に送る手紙を書いてゐると、へんな音が幽かに聞えた

られたが、今度は支局長として二箇月前に東京から派遣されたのである。大井さんが事変に就て聞かせて下さ

継母との事情で、早く兄の一郎さんと前後して東京に出で、自ら労働しながら苦学して英語を修められ、誠実と勤勉

蕭蕭、三樹退三両氏と大学時代からの友人で、私達が東京を立つ前に特に書を寄せて奉天の滞遊を勧められた人である

直ちに神戸に向つた。それから京都に一泊して、東京に著いたのは六月十七日の朝であつた。季候の相違で

立寄れと勧められたが、北京へ行かない以上は、早く東京へ帰りたいので、その御厚意を無線電信で辞し、直ちに神戸に向

の家の壁の蔦をば後ろにし海をながめて思ふ東京

東京に子らを置きたる心をも悲しくぞする望小の山

満洲の柳のなかに子を望む山はあれども東京遠し

東京に君と逢ふ日を契れどもまた見るべきや嫩江の月

将発東京、寄長城堀口九萬一詞兄

五月五日、発東京向神戸車上有作

黄海舟中、与東京、仙台、福岡、京都四大学諸教授語、賦此以似

争著紅、葢其国新政標識也。喜泰街繁華如我東京銀座街、此地漢人、以演劇映画両館、併称戯院、客概在酒家

高尾

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高尾秀市君と秘書の藤山一雄君が斡旋された。高尾君は予等をして初対面の間隔を置かしめない程快活によく語る

に招かれ、席には主人役として会社の専務高尾秀市君と秘書の藤山一雄君が斡旋された。高尾君は予等

に高尾氏の家の宴席にも侍する女であるらしい。高尾氏の話に由ると、前身は天津の名妓であつた。「勿問流

の夫人令嬢も待受けられて居た。妓某は常に高尾氏の家の宴席にも侍する女であるらしい。高尾氏の話に由る

せしめる機会を作られたのである。高尾氏の外に高尾氏の夫人令嬢も待受けられて居た。妓某は常に高尾氏の

斯かる所をも一見せしめる機会を作られたのである。高尾氏の外に高尾氏の夫人令嬢も待受けられて居た。妓某は

へ自動車を寄せた。其処は支那の妓館であつた。高尾氏は予等に斯かる所をも一見せしめる機会を作られたのである

楽天へ赴いた。所は小崗子である。その途次、高尾君が先きに行つて待たれてゐると云ふ某所へ自動車を寄せた。

今日の夕刻、再び高尾秀市氏に招かれて西田君と共に、支那の酒亭杏楽天へ

招かれて来た諸妓が此室を覗き、相識の高尾氏の顔を見て、入つて諸客と諸妓とに挨拶し我我

の支那料理でまだ経験しない物が屡出された。高尾氏は幾人かの支那の歌妓を此席へ加へられたが、其

の大食卓が中央に置いてある。今夜の食卓は、高尾氏を初め支那の事情に通じた人人を満たして居たので、いろいろ

少時の後、高尾氏外諸君と共に杏楽天楼に赴いた。予は明治の末年に

日本橋

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商家が見受けられた。駅前の広場から北へ一直線に通ずる日本橋通は、此の商埠地の北門外大街に繋がり、各種の商家、会社、

大久保

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此学校は現に三百名ほどの生徒を教へてゐる。校長大久保鹿次郎氏が私の二三の質問に答へて下さるのであつた。学科に

住吉

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今日私達は加藤さんと午前に住吉町の朝日新聞の支局に局長の大井二郎さんを訪ねた。大井さんは其の

銀座

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紅、葢其国新政標識也。喜泰街繁華如我東京銀座街、此地漢人、以演劇映画両館、併称戯院、客概在酒家茶館

隅田川

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が、土地の支那人は「大江」と呼んでいる。隅田川を大川と呼ぶ類であらう。遠く白頭山の西麓から発して、中途で虚