巴里より / 与謝野晶子 与謝野寛
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のに、其郵便が日本へ着かずに仕舞つた。ナポリ、ポンペイ等の記事も同様である。其等の郵便を予自身に郵便局へ
て差立てなかつたのが過失であつた。人気の悪るいナポリの宿の下部に托した為めに故意に紛失されたのであつた。
羅馬に七日、ナポリとポンペイに二日と云ふ駆歩の旅をして伊太利から帰つて見ると、
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たであらう、而して配達料はと云へば麻布の奥から本郷の奥まで米一俵を配達するにも一人の配達夫と一輛の車
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だ」と云つた。ドリ※ルが「先年瑞西のベルンの旅先で偶然マネの絵の掘出物をして纔四十フランで買つて来
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交す。又信号所の附近にある人家の楼上から女子供が「ボン、ヴオアイヤアヂユ」などと仏蘭西語で呼び掛る。夜が更けるに従つて秋めい
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老婆とに由つて店を出して居た。而して京都の八坂神社の塔を意外な建込んだ街中に発見する如く、広場の一方の人家の
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だと思ふ。例へば日本の逓信省は去年あたりから東京市内の小包制度に繁雑な拡張を実施し、米俵から洋傘弁当に到る迄迅速
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は渓川に添つて走つて居るのであつた。箱根の山を西へ出た処のやうな気がする。雪が降つて来
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を真似たものであるが、芝草の青青とした三笠山の様な丘の上にある層楼の石の色を夕暮に見上げた感じは
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は毛布を重ねて寝る必要があつた。午前四時頃シナイ山らしい山を右舷に望んだ其日の夕暮に蘇西の運河へ這入つた。
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ホノルルは何を祝ひて咲くやらん此若き日の妹と背のため
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質の白い土から反射する日光の強いのに閉口する。極楽寺は光緒十二年に建てた支那の寺院で、山層を利用して幾段
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の公園が見世物小屋の普請で一杯に成つて居る。靖国神社のお祭の見世物小屋が一週間前から用意せられるのに比べて、一箇月
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予は明治四十四年十一月八日に横浜から郵船会社の熱田丸に乗つて海路を取り、予の妻は翌年五
しても二十五円の貯金をする事は容易である。横浜や神戸、大阪あたりから渡来した女は情夫の為に浮ぶ瀬の無い境遇
僕等の仲間で心許りの送別会を開いた。酢屋は横浜の貿易商で孟買とカルカツタとに十年前から店を持つて居る。孟
使つて居た世界から愈々別れるのであると思ふと横浜を離れる時よりも淋しかつた。発車の間際に牧野の音頭で「しやん
「日本はいい美しい国だ。わたしは以前歩兵でね、横浜、それから江戸へ行つた。二月滞在して居た。」
。日本語をよく話す人である。明治六年から三十八年間横浜に居る人だ相である。汽車賃はもう十円位追加されるだらう
ある。ふと目を上げると窓の外のプラツト・フオオムを横浜の英人が運動に歩いて居る。倫敦行の汽車は別のかと思つ
近江さんであつた。去年良人の出発した時自分は横浜から同じ船で神戸迄見送つたが、其時初めて自分達は近江さんに
渡欧するのであると語られた。若い美しい其夫人が横浜での別れに泣崩れて居られたのは今も目に泛ぶ様である。
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は曾て日本の音楽と俗謡とを研究する為に東京や薩摩に半年程留まつて居た人で、驚く許り日本語が達者である。在来
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に乗つて、巴里の郊外※ロン・グブレエから英国のロンドンへ「雲を霞」とお手の物で飛んで仕舞つたのは人人を一寸痛快
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欧洲航路の船に横浜神戸から乗合せた者は大抵香港へ着く前に話題が尽きて仕舞ふ。碁や将棋は嗜好が無い者に
香港に着く前夜に、「第一回※田演芸会」が一二等客と船員とに
富樫に扮して滑稽勧進帳を演じて居る頃わが※田丸は香港の港口に着いて居た。港内に於ける一日の碇泊料六百円を
地は赭色をした自然の儘の禿山であるのに香港側は全く人為で飾られた山だ。人間が自然を改造し得た偉観
支那婦人の一団を眺めながら、珈琲を取つて案内者某君の香港談を聞いた。
香港の今日の温度は六十四度である。人は猶夏服を着て居る。歩け
た程であつた。夜に入つて船の上から観る香港の灯火は、全山を水晶宮とし其れに五彩の珠玉を綴つたとも
物であつた。こんな事で安心料三円十五銭を香港の電信局へ支払つた人間は永久僕一人であらう。(十一月二十日)
月二十五日の朝蘭領のアノムバ島を左舷に見た。香港を発して以来毎日一二回の驟雨があるので想像して居たよりも
が自動車の多数な事は上海に倍して居る。電車は香港と同じく一本電線を用ひて居る。荷車は二頭の牛に挽かせる
年年祖国を富ませて居る事が如何に大きいか。上海、香港、新嘉坡、何れの日本居留民中にあつても公共的の事業に物質
上陸し去つた女だ相であるが、今度は一人で香港から乗りペナン迄の間に早くも某外人を捕獲して仕舞つたとの評判
合ひ足揃へて歩めるを見受け候ふが、この人達は香港へ巡査となりて渡る人と云ふことを赤塚氏より聞きて知り申し候。
かに候。私の見候ひしは洗濯の競技にて、香港へ行く若き人達に貴婦人の一部うち交りて、出火の際の水を運ぶ
の勝れたれば声曲家は皆色なく見え申し候。かの香港へ志し給ふ若き人達の中よりも弾手歌ひ手の代る代る出で候ひし
与へ申し候。一人にて十四五の賞得しはかの香港への君達の中にて候ひき。それより後方の甲板に立食場は開かれ
零し候。十八日に新嘉坡を出で、二十三日に香港に入り候迄また私は甲板を覗かんともせず候ひき。気候は
居るにやと云ひ候ひしが、当りしも不思議に候。香港の夜の灯は珠玉なりと君のかねて云ひ給ひしが、この港に入り
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美しい国だ。わたしは以前歩兵でね、横浜、それから江戸へ行つた。二月滞在して居た。」
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海峡の観があるが、ピンクの屹立して居る光景は島原の温泉が岳を聯想するのであつた。埠頭は五階家が同じ格好の屋根
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事が頭に泛んで来て眠られ相にも無い。敦賀から一人乗つた露西亜の汽船の中の様な心細さは無いが、矢張気
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に下りて居る。フツクと云ふ家は何となく東京の王子の扇屋を聯想させる田舎の料理屋である。僕等は朝からヴウヴレエ酒を
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「もう二時間でアムステルダムですつて。」
「ムツシユウ、もう此処がアムステルダムですか。」
「アムステルダムだよ。」
聞いたか聞かぬか知らない。わたしは身に沁む程アムステルダムが好きになつてしまつた。赤帽は橋詰の右角の、夜目に鼠色に
和蘭陀はアムステルダムと海牙との両都を纔か二日で観て通つたに過ぎない。海面
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附く。何よりも先づ此地の代表的な物は山城の宇治に於ける宇治川と鳳鳳堂との如く、ロアル河の明媚な景勝と市街
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でミユンヘンへ立つた。僕等の巴里へ行く五人に倫敦へ行く小林を加へて午後八時にマルセエユを立つ時、今夜遅く伯林に赴く
此頃の巴里はよく深い霧が降る。倫敦の霧は陰鬱だと聞くが、冬曇の続く巴里では却つて此霧が
人がある。誰かと思つたら大谷繞石君だ。「倫敦を今朝立つて来た。巴里に二泊してマルセエユから船で日本へ帰る
僕は此前の日曜に倫敦から来た二人の友人と一緒に、一時間で往復のできる※ルサイユへ見物
。又一人馬場吉野と云ふ愛くるしい十二歳の娘が居る。倫敦で生れて英国の小学校で育つた丈に達者に英語を話す。此日本街
今日あたりから倫敦のデリイ・メエル新聞社が三十万円を提供して英国の各州へ数隻の飛行機
掛けた大きな塑像が据ゑられて居る。後で聞けば倫敦から依頼された画家ウイツスラアの記念だ相だ。卓や棚の上にも
行くと云ふので、其れを幸ひに僕等夫婦も倫敦まで同行する事にした。途中巴里から三時間で着くアミアン市に一泊
クロスの停車場へ着いた。折悪しく日曜の朝なので倫敦の街は皆戸を締めて死んだ様に寝て居る。停車場に居た老人
蔽を下して、自分達は昨夜の不眠を補ふ為に倫敦へ着いた第一日を昼過ぎまで寝て居ねば成らなかつた。
に、今此筆を執る日まで丸八日経つ間に倫敦の御寺と博物館と名所とを一通り見物して仕舞つた。巴里を立つ
格別まごつく事も無かつた。其れには一ヶ月前に倫敦へ遊んだ二人の画家の徳永さんと川島さんから色色倫敦の様子を聞いて
聞いて居たのと、オムニブスの通る路筋を示した倫敦の図を二人から貰つて、予め巴里で読んで置いたのとで非常
倫敦の博物館は何れも立派な建築で明りの取方に申分なく、其上配列が
倫敦へ来て気の附く事は、街の上でも公園でも肉附の好い
が想像せられると共に著しく心強い感がする。其れに倫敦では上野公園に幾倍する大きな公園が幾つも街の中に有つて、例
が好い。同じく街の中にあつても東京の公園は倫敦の程街に密接して居ないから市民に親しみが乏しく、日比谷公園や上野公園へ
だか特別な事に成るが、直ぐ大通と並んで居る倫敦の公園は非常に出入が気軽い。巴里の市内にある公園は聯や押韻
粗末な質の物を巧に仕立てるのと異つて、倫敦の女は表面質素な様で実は金目の掛つた物を身に着け
へ入つた地下室にあるキヤバレエ・テアアトル・キユルブへ行つた。倫敦に居る芸術家の或一部が英国の習慣を破り徹宵して隠し芸を出し乍ら遊ぶ
が遺憾だから此冬を期して其が為に今一度倫敦に遊びたいと思ふ。
巴里に姑く慣れて居た者が倫敦に来て不便を感じるのは、悠悠と店前の卓に構へる事の
た。僕達は又午後五時から二時間程の間倫敦市の中心から吐出されて、テエムスに架せられた幾多の大鉄橋を対岸へ
倫敦の宿(晶子)
自分が倫敦で泊つたフインボロオグ・ロオド二十八番地のフイルプス夫人の家は、主人が有名な建築家
巴里や倫敦を経て来た旅客に取つて狭い他の郡市の見物は地図一枚
※ン・ダイクの作を多く蔵めて居るが、巴里や倫敦で見受ける様な二家の傑作は見当らない。寺院から頼まれて描いた物
外に何の思ふ所も無かつた。不気味と云へば倫敦の博物館の数室で見た埃及の木乃伊の幾十体の方が何程不気味で
に大きく肥つて一般に赤面をして居る。巴里や倫敦では自分達と同じ背丈の、小作な、きやしやな人間の方が
夜汽車で日本へ帰る晶子をマルセエユまで送つて行つた。倫敦から着いた平野丸は乗客が満員になつて居て、一二等を通じて
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羅馬に七日、ナポリとポンペイに二日と云ふ駆歩の旅をして伊太利から帰つて見ると、予が
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と恥しく思ひ申し候ひき。唯明日の夜明にシシリイ島、エトナの火の山などの見えんと云ふ話を得て船室へ帰り申し候ひし
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今日牧野事務員に託してマルセイユ迄行く仲間丈甲板用の籐の寝椅子を買つて貰つたが、一
お寺や博物館を見物する為にマルセイユに二日滞在する事にして、夜は永島事務長と牧野会計とをジユネエブ
案内者をして居る杉山と云ふ日本人が話して居た。マルセイユは港として盛ではあるが、市街は甚だしく穢い。道路の悪い上
に特に乞うたら直ぐに入れて呉れた。シヤ※ンヌのマルセイユを描いた二枚の壁画、古い所でペルヂノやリユウバンスの作品が目を惹い
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饅頭屋、易者などの店である。四方の書割には富士山や日本の田舎を現し、松や桜の間に大仏やお社なども出来
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パンテオンの側から河を越して反対に巴里の北に当るモンマルトルへ引越して来た。パンテオン附近と異つて学者や学生風の人間は少しも
と女画家とはドリ※ル夫婦の自動車に相乗してモンマルトルへ帰つた。文豪の誕生日の一夜を想ひ掛けなく斯様に面白く過ごしたのは
芝居の後はピサロオ君の発議でモンマルトルに引返し、或賑かな酒場で朝の三時近くまで話して居た。キヤバレエ
自分は偶然の機会に由てモンマルトルに下宿して居る。其れが遊楽の街である事を知つたのは
十月一日からモンマルトルの下宿を引払つて再びパンテオンに近いオテル・スフロオに移つた。間も
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道はあるがそれは石段になつて居るのである。愛宕山程の石段が四段程も附いて居て、此処を降りれば帰りは十息
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花牌を弄んで居る者、編物をして居る者、大阪版の一休諸国物語を読んで居る者、何れを見ても天草産の唐茄子
円の貯金をする事は容易である。横浜や神戸、大阪あたりから渡来した女は情夫の為に浮ぶ瀬の無い境遇に堕ちる者が
に食卓に就いた時は、何だか僕の好きな大阪の家庭で食事をする様な親しさを感じて少し心が落着いた。下宿人
云ふ噂を日本人倶楽部で聞いたが其も確でない。大阪の骨董商山中氏の店を一寸訪ねて見たが今は日本品よりも
、間口の狭い雑貨店がごたごたと並んで人通りの多い様子が大阪の御霊神社の境内へ入る横町の感じと似て居るのに興を覚え
「大阪の川口のやうな処だね。」
附の山中は五人抜きの勝利を得し由に候。大阪生れの者にや梅やんとか云ふ優名を呼ばれ居る人がと可笑しく候ひ
欧洲より極東まで寝て通り給ふ君などと諷し給ひ候。大阪の小野氏に此船中にて初対面を遂げんとはゆめ思はざりしことに候。
従事され居るよしに候。兄君の病重ければとて大阪へ帰り給ふ不幸の際にいましけれど何時も話多くなり申し候ひき。初め船
より紹介せんと云ひ給ひし時、同じ姓持つ人、大阪の同じ町にありしが名の変り居るにやと云ひ候ひしが、当り
ミラノは伊太利の大阪だ。商工業地として仏蘭西の里昂と同じ程度に活気に満ちた街丈
に内藤とロダン翁を訪うて、翁の手紙を受取つた大阪の水落露石の伝言など述べ、露石から託された※斎漫画集を呈した
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伊太利人に聞けば其れと反対な事を云つて居る。カイロまで行く遑の無い旅客の為に埃及土産を売る商店が幾軒もある。
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如く、屡テエムス河の岸と倫敦橋の上とを散歩して英仏両国民の性情の相異る特色を此処に読む気がした。僕達は又午後五時から二時間
事なども、東京の夏の夜の河岸の風情と同じ様である。両国の川開きであるなどと、自分は興じて良人に言つて居た。九時半頃に、それ
対峙して居ると云はれるこの都は、更に芸術に於て独墺両国中に卓出して居ると云ふ事である。音楽は聞く機会が無かつた。設ひ機会が
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に密接して居ないから市民に親しみが乏しく、日比谷公園や上野公園へと行くと云へば何だか特別な事に成るが、直ぐ大通と
られると共に著しく心強い感がする。其れに倫敦では上野公園に幾倍する大きな公園が幾つも街の中に有つて、例へば
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程街に密接して居ないから市民に親しみが乏しく、日比谷公園や上野公園へと行くと云へば何だか特別な事に成るが、直ぐ
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巴里より
(例)巴里
「巴里より」の初めに
予等は日夜欧羅巴に憬れて居る。殊に巴里が忘れられない。滞留期が短くて、すべて表面計りを一瞥して来
併し、此「巴里より」一冊は其様な意味から世に出だすのではない。
。従つて此書にも巴里の記事が多い。「巴里より」と題した所以である。
巴里に留つて居た。従つて此書にも巴里の記事が多い。「巴里より」と題した所以である。
予等は主として巴里に留つて居た。従つて此書にも巴里の記事が多い
、古い所でペルヂノやリユウバンスの作品が目を惹いた。巴里のペエル・ラシエエズの墓地にあるバルトロメの「死」の塑像の模作もあつ
の午前に近江は一人でミユンヘンへ立つた。僕等の巴里へ行く五人に倫敦へ行く小林を加へて午後八時にマルセエユを立つ
巴里の除夜
の上から窓を眺めた。陰鬱な冬曇りが続く。巴里全市は並木も家も薄墨色の情調に満ちて居る。正午前に石井
巴里へ着いてから四日目の朝だ。オテル・スフロウの二階で近い
とギニヨル座の芝居を観に行つた。除夜とは云へ巴里人には此月から最う正月の芝居である。芝居のはねるのは
。倫敦の霧は陰鬱だと聞くが、冬曇の続く巴里では却つて此霧が変化を添へて好い。ゴシツクの塔が中断せ
此頃の巴里はよく深い霧が降る。倫敦の霧は陰鬱だと聞くが、冬曇
云ふ緩急二面の生活を同時に味はつて居るのが巴里人なのであらう。
東京へ初めて出た人が須田町の踏切でうろうろするのは巴里に比べると未だ余程呑気である。前後左右から引きも切らずに来る雑多
たら大谷繞石君だ。「倫敦を今朝立つて来た。巴里に二泊してマルセエユから船で日本へ帰る積だ」と云ふ。繞石
ゲエテ街のカジノ・ド・モンパルナスと云ふ寄席へ行つた。巴里東部の場末に近い所だから此街の附近には労働者が沢山住んで
広重の展覧会が催されるだらうと云ふ事だ。一体に巴里人の趣味が一方に雷同して傾く事なく思ひ思ひに自分の素性の同感
られて居るのを観て、斯んなに多数の歌麿が巴里に愛蔵せられて居るかと先づ驚かされた。おまけに日本に居て
一昨日は巴里の好事家が大勢寄つて二月の中頃までルウヴル博物館の傍で公開する装飾美術
の粗末な器物や米醤油の様な食料品を売る家も巴里に幾軒かあるのを見受る。併し其等の好事家が何処まで深く
英作君などの洋画界の先輩が泊つて居た縁故で巴里へ来る日本人は今でも大抵一先ず此処へ落ち着く。其頃のスフロウは随分
つた人づきあひの好い細君は「併し日本から詩人として巴里へ来たのはお前さんが初めてだ」などとお世辞を言ふ。日本人が
金が入つて上に斜にリボンの掛つた帽は、巴里へ来て見ると却て大学生の正帽であつて、子供には見掛け
や純白や草色を一寸取合せて強い調色を見せた冬服の巴里婦人が樹蔭を行き交ふのも面白い。子供が池に帆のある船
空気に触れさせよと勧告して居るのは道理である。巴里の母親は余に自分の遊楽に耽つて子供の自由を顧みないと記者
出る。と云つて幾つかの大公園に遊んで居る子供は巴里市内の子供の総数から云へば千分の一にも当るまい。ル
以下の子供を屋外に出さない。夜間は勿論昼間でも巴里の市中に子供を見る事は至つて少い。見掛るのは小学校の
を置く事が却て病気を惹起し易からう。併し一体に巴里人は十五歳以下の子供を屋外に出さない。夜間は勿論昼間でも
が、東京の様に乾風が吹かないせいもあらう。又巴里の様に日当りの悪い構造の建築では室内に子供を置く事が却
云ふラタン区のキヤツフエエへ行く。僕より一月早く来て巴里の珈琲店通に成つて仕舞つた九里四郎が初め伴れて行つて
で入場者が自由に踊り狂ふ所が異ふ。之は巴里に一箇所しか無いから昼夜とも賑はつて居る。場内には教師が
に沿うた氷宮へ氷滑りを観に行つた。設備は巴里に幾つもある舞踏場と似て居るが、人造の氷で踊場を池
だ」と断らねば成らぬ程潤沢だ。驚くのは巴里の女は概して然うなんであらうが、細君や例の下宿人の娘等
の性格の一種を示して居るのであらう。或友人から巴里人は倹素だから家庭へ入るのは不愉快だと聞かされて居たが
成つて居る。楽天的な滑稽けた家庭だ。之が純巴里人の性格の一種を示して居るのであらう。或友人から巴里人は
僕はパンテオンの側から河を越して反対に巴里の北に当るモンマルトルへ引越して来た。パンテオン附近と異つて学者や学生
無かつた。序に日本人は平気で鳥打帽を被るが、巴里では専ら労働者の被るものである。シテエ・フワルギエエルの十四番地へ来ると
ドンゲンの絵が解つて居るのでもない。東京から巴里へ来る画かきが皆同じ老大家の所許へ集るのも気が利か
の中で柏亭君が日本へ紹介したらうと想ふ。近頃巴里では斯う云ふ新しい画家の画室へ通ふ青年画家が月毎に殖えて行く
から布へ打附に繍を遣つて居たよ。巴里でも其意匠を仕立屋へ売つて喰つてたらしい。頻りに日本に
親父の銭許り遣つても居られないから、丁度此頃巴里の美術商が二三人組合つて革命騒動のどさくさ紛れに北京へ行つて
僕は老人に導かれて千八百八十八年に巴里で歿くなつた全権大使ナホノブ、サメジマ君の墓を料らずも一拝し
三度河を渡るとサン・ゼルマンの街に着いた。巴里から此処へは四十分で達せられる。土地の感じは京都から伏見へ行く
存分日光に浴し新しい空気を吸つて、一月以上陰気な巴里の冬空と薄暗い下宿の部屋とに圧へられて居た気持を忘れたい
二月に成つたら一層寒くなる筈の巴里が今年は何うした調子外れか好い天気が続いて僕の部屋などは
な顔をせず、格別振返つて見る者も無い。巴里の場末の人間が妙な目附で覗き込んだり「あれは支那人か」なんて
を瞰下し、ペツク其他の小さい田舎の村を隔てて巴里の大市街を二里の彼方に見渡して居る。食堂では泊り客の英国人
居る陸軍士官にも遇つた。九里と僕とは梅原から巴里の芝居の話を聞き乍ら歩いた。又何か冗談を言合つては
巴里やセエヌや平原を眺め乍ら二十町もある例の横長い岡の上を
巴里とセエヌを見下すサン・ゼルマン、
問題の関係する所が大きい丈に、マス君の議論が巴里人の視聴を惹いて何事か起らねば止まない気勢が予知せられた
諸役員と芸術上の鑑識を堕落せしめつつある多数の巴里人とに向つて反省を促したのがマス君の諭旨であつた。
俗衆に人気のあるガストン・アルマン・カイア※エ君と、巴里唯一の芸術新聞コメデイアの記者で常に直截鋭利な議論を書く有名な若手
若手の戯曲作者として近年巴里の俗衆に人気のあるガストン・アルマン・カイア※エ君と、巴里唯一の
議論に正面から反対する様な批評は一つもない。巴里の批評家の団体はマス君の議論を正理の擁護だと非公式に認め、
決闘の模様を少し書かう。相手が互に巴里ツ子同士、流行ツ児同士であり、其れが右様の事情の下に
決闘場は関係者以外へ秘密にして置くものだが、巴里人の注目して居る決闘丈に其場所を嗅附けて二十三人の新聞
飜れて部屋中に五色の花を降らせた。併し巴里で第一に盛な祭は三月のミカレエムだと云ふ。其頃は
どつさり入れて遣ると「メルシイ」と礼を言はれた。巴里人の事だから無論多少の酒を飲んで居るに関らず日本の花見
つて大きなコンフエツチの赤い袋を小腋に抱へ乍ら相応に巴里の美人へ敬意を表して歩いたのは、若返つたと云ふより生れ
毎夜グラン・ブル※アルの大通の人浪に交つて若い巴里の女から「愛らしい日本人」斯んな掛声とコンフエツチの花の雪とを断
二十日の謝肉祭、その前後五日に亘つて面白かつた巴里の無礼講の節会も済んで仕舞つた。可なり謹厳な東洋の家庭に育つ
・シユリイは幾度も煙草を取つて皆に勧めた。巴里に着いて以来煙草を吸はなく成つた僕は燐寸を擦る役をし
極めてムネ・シユリイの技倆を賞讃し、配所に在る身は巴里に帰つて親しく其劇を観る事の出来ないのを悲しむと言つてある
朗読した。文豪の作「マリオン・ド・ロルム」を巴里で舞台に上すに就て作者の注文を述べ、又口を極めてムネ・シユリイの
巴里のいろいろ
額が滅茶滅茶に裂けた。序に女の飛行家は未だ巴里に十人程しか無い。但し飛行機に同乗して遊ぶ女は無数である。
昨日巴里の郊外で十九歳の女流飛行家シユザンヌ・ベルナァル嬢が飛行機から落ちて死ん
贅沢女が電報で註文し、仮縫を身に合せ旁巴里見物に続続遣つて来ると云ふ段取である。
して居た事のある、而して神道に関する書物を去年巴里で著したルボンと云ふ博士が日本の神話と文学史とを講じて居る。
頓と僕らの目には触れない。此二月まで巴里から汽車で五時間かかるツウルに居た和田垣博士の話に、ツウルへ日本
あつて色色の隠し芸が出たと云ふ事だ。現に巴里に在留する日本人は百名近くあつて、其内大使館で何か催す場合
の木立が一斉に嫩かい若葉を着けたので、巴里の空の瑠璃色の澄渡つたのに対し全市の空気が明るい緑に
干される。寝台の藁蒲団までが日に当てられる。一体に巴里の女の掃除好きな事は京都の女と似て居る。或日僕
箇月の部屋代が僅か一フランだと云ふ。四十銭で兎に角巴里に一箇月寝泊りが出来る部屋があるかと想へば僕等の貧乏な旅客
と云ふ青年は地方官の息子だが、女の為に巴里の大学を中途で止して親父の仕送で遊んで居る男だ。直ぐ近所
も度度一緒に行く。※ルサイユなどの郊外の遊覧地へ巴里から写真師を伴れて行つて婆さんと二人で好きな場所で写真を
場中で何人にも気に入る佳作と云ふでも無い。巴里人が絵を鑑賞するにも一概に他人の意見に雷同することなく独自
文部省の去年の展覧会の絵に墨を塗つたが、巴里でも此間或二三の画家の催して居る小展覧会へ夜間に忍入つて
巴里にも随分田舎らしい方面が少くない。リユナ・パアクや魔術街が其れだ
を呼ぶので、未だ川風が薄ら寒いに拘はらず物見だかい巴里の中流以下の市民が押掛けて何の遊技館も大繁昌である、中
引続き欧洲に居残つてる連中だが、此春日本から巴里へ直接出掛けて来た女なども混つて居る。或一人の女は
乱雑と俗悪とを極めて居る事である。場所もあらうに巴里の真中へ東洋の一等国を代表して斯様な非美術的装飾を見せびらかすの
調に似た物を用ひた事だ。先年貞奴が巴里へ来た時に用ひた楽譜から採つたと云ふ事だが、大阪
日本の誉」であらう。併し僕の尤も感服する事は巴里の一流の劇評家が之に対して大袈裟な批評を試みない事である
巴里のいろいろ
四五歳だから此後を何うするかと云ふ事は巴里人の間に興味ある問題となつた。氏に対してコメデイ・フランセエズ座
ば概して普通の作物許りになるのは勿論だ。其れに巴里へ来てから僕の目も贅沢に成つて居るだらうから、自然
様な甘い温かな感を人に与へる。人間を描く巴里の青年画家の中で僕の今日迄に最も感服したのは此人
行はれる事実である。如何にも一生涯子を産まない女が巴里に多い。産むにしても大抵一人の子に限られ二人の子を
だと云つても其れは仏蘭西全体の事では無く、巴里其他の都会に主として行はれる事実である。如何にも一生涯子
丈で其他の小包料は一切会社の所得である。巴里の小包は一日平均七千個だと云ふから、之を若し郵便局で配達
六銭である以上、決して大した実益は無いに違ない。巴里の市内小包は何うかと云ふと東京の様に迅速な配達制度は無く
大きな幾冊かの帳簿の番人が控へて居るが、巴里で為替を組んでも小包を出しても、小さく三枚に切れる用紙で
で、何時の間にか自動車の練習所を卒業して巴里市庁からの免状をも取つて居る。
其創意に成つた滋野式飛行機若鳥号を携へ遠からず巴里を立つて日本へ帰る筈だ。氏は去年の今頃飛行機から落ちて軽傷
が、ひどく純粋な所がある。甚だ孝心深い男で、巴里の下宿の屋根裏に住んで語学教師や其外の内職で自活し乍ら毎週
誘ひに寄ると、博士はフレデリツク・ノエル・ヌエ君と云ふ巴里の青年詩人を相手に仏蘭西語の稽古をして居られる処であつた
格納庫が其れを取巻いて居る。猶之と同じ飛行練習場が巴里の近郊丈に十箇所から有ると聞いて如何に飛行機の研究が盛である
を駆る滋野君の手腕は感服すべき物であつた。巴里の城門を出るのに税関吏が尺度を以て自動車の貯へて居る揮発油
無く、目まぐるしい程自動車や其他雑多な車の行交ふ巴里の大道を巧に縫つて自動車を駆る滋野君の手腕は感服すべき物
十四歳位の時から毎日飛行機に乗つて居るので巴里屈指の飛行家であるが、年齢が足らなかつたので政府から免状
飛び初めたので僕達は場内に引返した。僕は巴里へ来て頭の上を飛ぶ飛行機は度度見て居るが、地を離れ
で憩んだ。和田垣博士の駄洒落が沢山に出た。「巴里に多い物は尽し」を並べて種種の頭韻を冠つた句などが出来る
・ドユツサンと云ふ単葉式五十馬力の飛行機に乗つて、巴里の郊外※ロン・グブレエから英国のロンドンへ「雲を霞」とお手の物で
ながら帰途はセエヌ河の右岸に沿ふて夜の灯の美しい巴里の街へ入つた。オペラの前の通りのレスタウラン・ユニ※ルセルで美味い
巴里まで(晶子)
があつた。乗客係が来て莫斯科から連絡する巴里迄の二等車の寝台が売切れたから一等許りのノオルド・エキスプレスに
後から多くされるのではないかと云つたが、巴里迄それで好いのだと云ふのであつた。食堂のボオイが各室へ
黄な灯の色をしたトツパアスもあつた。某駅から巴里の良人と莫斯科の石田氏とへ電報を出した。動揺の烈しい
・フオオムには良人の外に二人の日本画家と二人の巴里人とが私を待つて居て呉れた。(五月十九日)
見える。四時と云ふのに一分の違ひも無しに巴里の北の停車場に着いた。プラツト・フオオムには良人の外に二人の
晩泊つて翌日普通の二等車にさへ乗れば楽に巴里へ着かれると思ふのであるが、其れが出来ない事なら何うすれば
から其れは食べない事にするとしても、何うも巴里迄は行けさうにない。かうなると何処で降ろされるかも知れないと
の景色を急行列車の窓で好い天気の日に眺め乍ら、巴里より二時間半でジヤン・ダルクの生地として名高いオルレアン街に達し、
としての感の方が深い。女の服装なども巴里の流行に影響せられて居乍ら何処となく昔からの趣味の正しい伝統
五色を彩つた色硝子が天国を覗く様に気高く美しい。未だ巴里のノオトル・ダムを観る暇の無かつた晶子は之に見恍れて
で読書して居たので旧知の家が多い。近日巴里を去られる博士は其等の人人へ告別の為に忙しい中から特に此
俚語を用ひないのが特色だ相である。博士が巴里へ寄らずに日本から直ぐ此土地へ来られたのも語学に関する其
等は朝からヴウヴレエ酒を一壜倒して仕舞つた。巴里で飲むなら一壜八フランも取られる三鞭質の美味い酒だが、
と云ふ。併し其れは昔のことに違ひない。今の巴里は何処へ行つても全くそんな危険は無い。
最う深夜の感がする程灯火も人気も少い。殊に巴里で名高い古い街の一つに数へられて居る丈昔の煤びた建物
大通は十二時を越えて不夜城の明るさを増すと云ふ巴里唯一の遊楽街だが、此酒場のあるのは大通から四町程入込ん
巴里にて(晶子)
ひたすら良人に逢ひたいと云ふ望で張詰めた心が自分を巴里へ齎した。而して自分は妻としての愛情を満足させたと
巴里の良人の許へ着いて、何と云ふ事なしに一ヶ月程を送
巴里の街を歩いて居ると、よく帽に金筋の入つた小学生に出会ふ
なかつた。自分はそんな事を思ひ出しながら歩くので、巴里の文明に就いては良人が面白がつて居る半分の感興も未だ惹かない
・ブル※アルの「サダヤツコ」と云ふ名の店や、巴里の三越と云つてよい大きなマガザンのルウヴルの三階などに陳べられて居る
日本服を着て巴里の街を歩くと何処へ行つても見世物の様に人の目が自分
一部の街で、踊場や珈琲店、酒場などの多い、巴里人の夜明し遊びをしに来る所と成つて居るのである。十二
モルマントルと云ふのは、山の様に高くなつた巴里の北の方にある一部の街で、踊場や珈琲店、酒場などの
ああ巴里の大寺院ノオトル・ダム。
その刹那、わが目に映る巴里の明るさ、
巴里の停車場アン※リイドから汽車に乗つて三十分程でムウドン駅に下車
たので、其弟子に来意を告げると、翁は今朝巴里へ行かれたと云ふ。予め訪問日を照会しないで突然出掛けたの
。十五畳敷程の広さだ。其重な製作室は巴里にあるとしても、之がロダン翁程の大家の製作室かと
でせう」と夫人は云つて、弟子を呼んで「巴里の地図でロダンの製作室のある街をよくお教へするがよい」と
の一対とを夫人に捧げた。僕が「今から巴里へ引返したら先生に御目に掛る事が出来ませうか」と云つたら
夫人には面会が出来るかも知れません。又先生が巴里から今日何時に帰られるかをも夫人に伺つて見ませう」と云つ
初夏のセエヌ河の明るい水の上を青嵐に吹かれて巴里へ入つた。アレキサンダア三世橋の側から陸に上つて橋詰で自動車に
旅に出て仕舞つた。メテルランク氏は今年になつて巴里に来ない。レニエ氏も何時夏季の旅行に出掛けるか知れないし、
巴里の旅窓より(晶子)
汽車で露西亜や独逸を過ぎて巴里へ来ると、先づ目に着くのは仏蘭西の男も女もきやしや
れる。其等古代の美術にある表情と線とが現に巴里の芝居の俳優の形に著しく出て来る様に、同じく自分は其れを
の女と似通つた所のある日本の女が何が巴里の女に及び難いかと云へば、内心が依頼主義であつて、自ら
式の女は巴里にも沢山にある。外観に於て巴里の女と似通つた所のある日本の女が何が巴里の女に
殖えて欲しい。髪も黒く目も黒い日本式の女は巴里にも沢山にある。外観に於て巴里の女と似通つた所の
巴里から来た三人の
今日は他家へ廻られる筈であるから、それを待つより巴里へ行かれる方が好いであらうと弟子は云ふのであつた。自分は
の様な生命を与へられやうとして居る。先生は巴里の家の方においでになつて夕方でないと帰られない、殊に
の作つたシヤ※ンヌの大理石像があつた。御寺は巴里のノオトル・ダムやツウルのカテドラルと同期に建てられたゴシツクではあるが
事とを示して居る。館内の他の新しい絵には巴里のサロンに出品して政府に買上られた物が多かつた。仏蘭西政府
後期の作に分れて居る。僕の歎服する所は勿論巴里のパンテオンや市庁や、マルセエユの博物館やの壁画と同じ手法に成る後期
に僕等夫婦も倫敦まで同行する事にした。途中巴里から三時間で着くアミアン市に一泊して、博物館のシヤ※ンヌの
の夜風は凍る様に寒い。生憎良人も自分も外套を巴里に残して来たので思はず身を慄はすのであつた。
筋を示した倫敦の図を二人から貰つて、予め巴里で読んで置いたのとで非常に便宜を得た。自分が此処へ
寺と博物館と名所とを一通り見物して仕舞つた。巴里を立つ時倫敦を短い日数で観て歩くには住み慣れた日本人に案内
の名家の絵を観た事に幸ひを感じた。巴里で観られなかつたミケランゼロもナシヨナル博物館で観る事が出来た。ロセツチ初めラフアエル
取方に申分なく、其上配列が善く整頓して居る。巴里のルウヴル博物館は旧い王宮丈に壮麗であるが、始めから倫敦の様に
月になつても薄寒を覚える様な気候である。巴里の様に上衣を脱いでコルサアジユ丈で歩く女を未だ一人も見受けない。
倫教は巴里に比べて北へ寄つて居る所為か、七月になつても薄寒
大通と並んで居る倫敦の公園は非常に出入が気軽い。巴里の市内にある公園は聯や押韻の正しい詩を読む気がして
活発な姿勢で自由に外出して居る事とである。巴里では概して家の中に閉ぢ込めて置く所から、一般に娘児供
ても、其主たる原因は外面の化粧に浮身を窶す巴里婦人と異つて、女子教育の普及した結果内面的に思索する女が
は乏しいが愛と智慧とには富んで居相である。巴里の女は軽佻で無智で執着に乏し相であるが、英国の女は
の表情が何処となく真面目と怜悧とを示して居る。巴里の女の様な粋な美には乏しいが愛と智慧とには富ん
表面の観察ではあるが巴里を観て来た目で評すると概して英国の女は肉附の堅い、骨
観察であつて、芝居などで観る美しい貴婦人の中には巴里の流行を巧に取入れて品の好い盛装をした女の少くないの
に古風である丈今日の目には田舎臭い。倹約な巴里の女が外見は派手であり乍ら粗末な質の物を巧に仕立てるの
奇抜な画風を室内の装飾に応用する事は未だ本元の巴里でも敢てしない事で、其が好い効果を収めて居るのは奇
して隠し芸を出し乍ら遊ぶ為に新しく会員組織で設けた巴里風の酒場である。まだ先週から開いたばかしなので広くは知られ
たことは就中感謝せざるを得ない。之に加へて巴里のルウヴル及びリユクサンブルの二大博物館を観れば欧洲の絵画の古今に亘る精粋
巴里に姑く慣れて居た者が倫敦に来て不便を感じるのは、
は堅実な国会の大建築を伴つて居る。僕は巴里に居て常にセエヌの河岸を逍遥した如く、屡テエムス河の岸
に沢山な煙突が烟を吐いて居る景色を見ると、巴里のセエヌが優美な芸術国の女性的河流であるなら、之は活動的な商工業
も頂くことにして居た。実際英国の料理加減は巴里の料理を経験して来た者に取つて著しく不味いのである。
語である。小巴里と謂はれる首府丈あつて自分は巴里に帰つた様な気安さを感じた。旅館の食堂で夜食を済ませ
て居る。耳に聞く言葉は凡て仏蘭西語である。小巴里と謂はれる首府丈あつて自分は巴里に帰つた様な気安さを感じ
訪ふ約束をして置いたに拘らず、其所書を巴里へ忘れて来た事に気が附いたので下車を見合せ、ずつと直行
のである。之と同じ姿勢をした木彫の小児を巴里のクルニイの博物館で観た事を思出したが、此奇抜な放尿の噴水
て少し疲労して居るので一晩此処に泊つて明日巴里へ帰る事にした。
巴里や倫敦を経て来た旅客に取つて狭い他の郡市の見物は
リユウバンスと※ン・ダイクの作を多く蔵めて居るが、巴里や倫敦で見受ける様な二家の傑作は見当らない。寺院から頼まれて
店の一卓で僕は今此筆を擱いた。早く巴里へ帰らう。(七月十日)
巴里の独立祭(晶子)
のかと聞くと、プラス・ペピユブリツクだと云ふ。其処は巴里市内の東に当つて革命の記念像が立つて居る広場である。
に変化のある、そして気の利いた点の共通である巴里婦人の服装を樹蔭の椅子で眺めながら、セエヌ河に煙花の上る時の
ひ替へて居る事なども目に附いて来た。巴里で毛の多い女と云はれるのは前髪や鬢、つまり髪の外輪だけ
、其等の需要の多い事が先づ解る。さうして巴里の女の十中の七八迄は其等で髪を美しく繕はれて
た方の事が自分の目に見え出して来た。巴里の街は大通でも横町でも亦どんな辺鄙な処でも一町の
も自動車の上の少女、劇場で見る貴婦人、街を歩く巴里女をやつぱりそんな気分で眺めて居た。生憎其内に隠れた方の
は居られなかつた一人だつたのである。さうして巴里へ来た当座も自動車の上の少女、劇場で見る貴婦人、街を歩く
序に此頃の巴里の髪の形を紹介して置く。今多く結つて居る髷は毛
の様に剥出しにしなければならない事になつたら、巴里の美人の数は日本と同じ位にも減る事であらう。縮らせたりし
日本へ早く帰りたいと思つて居る。(八月十八日巴里にて)
自分も巴里で時時其床屋へ行く。其れは髪の毛が一本でも散ばつて居
れて其処で仏蘭西に三年間居るだけの学資を作つて巴里へ来た人なんです。親孝行な人で毎月学資の中から日本へ
杜鵑亭(レスタウラン・ド・クツクウ)は巴里にある一つの伊太利亜料理店である。モンマルトルの高い所に白い凄じい大きい姿
巴里の道ももう此辺はアスフワルトでもなければ切石を敷いた道でも
クリツシイの通へ出られるのである。石段の口からは巴里の半が絵のやうに見える。ルウヴル宮の大きいのとオペラの図抜けた
を被た二十四五の飛び離れた美人があつた。巴里人であることは云ふ迄もないが、伴れの男達は皆英人
た。自分の足元の見えないやうな所に居ることは巴里であるだけ心細くも覚えるのであらう。
の塀越しに大きいマロニエが自分の臆病心をおびやかして居る。巴里の一番高い土地の杜鵑亭へ食事をしに来ることももう終りの度
巴里は七月の中頃から曇天と微雨とが続いて秋の末方の様な
和田三造さんから切符を貰つたので巴里の髑髏洞を一昨日の土曜日に観に行つた。予め市庁へ願つ
一面御影質の巌石で掩はれて居るのを見ると巴里の地盤の堅牢な事が想はれる。下は白い砂を敷いた様な
さうに無かつた。和田垣博士が曾て之を評して「巴里人は髑髏を見世物扱にして居る」と批難せられたといふの
様な事が一区域毎に記されて居るのは、巴里の市区改正や地下電車の土工の際などに各墓地から無縁の骸骨
オペラ、新古の両博物館などの集つて居る辺は小巴里の称に負かないとも想はれた。併し博物館は観るべき物に
の様に大きく肥つて一般に赤面をして居る。巴里や倫敦では自分達と同じ背丈の、小作な、きやしやな人間
リンデンの並木路を美しいと聞いて居たが、其れは巴里のシヤンゼリゼエを知らない人の言ふことであつた。
に比べて概して二三割方廉い様である。自分達は巴里のボン・マルセに似た大きな店で羽蒲団を二つ買つた。羽
物価は巴里に比べて概して二三割方廉い様である。自分達は巴里のボン・
歩いて居る間は葡萄酒は実際贅沢なんだからね、巴里へ帰つたらいくらでも飲ませて上るよ。」
たいと云ふので、海牙を夜半に発する汽車に乗つて巴里へ直行して帰つて来た。(九月十八日)
巴里に於ける第一印象(晶子)
(これは自分が巴里の文芸雑誌「レザンナアル」の記者の望みに応じて書いた所感の一部で
、男子の不道徳に原因すると信じて居る自分は、同じく巴里の遊里を盛大ならしめる者は、其富と不良な好奇心とを以て
た。自分は之に由て艶冶を衒ふ或階級の巴里婦人を観察する事が出来ました。併し是れ等の仮装の天使が真
。其れが遊楽の街である事を知つたのは巴里に着いて後数日の事であつた。自分は之に由て艶冶
人は是等の放逸な歓楽を以て外国の旅客を巴里に招致しようとするのでもありますまい。仏蘭西には誇るべき芸術、
又自分は是等娼婦の公開――モンマルトルに限らず巴里全市に亘つて――が子女の教育を妨害する事の多大である
を認め得られると信じます。其れは何かと云へば巴里に於る下級な一般商家、一般工場の婦人等及ぴ仏蘭西の田舎に
。其れに少し体の加減も損じて居る。気強く思ひ立つて巴里を立つて来たものの、今マルセエユを離れやうとすると心細くもある
マルセエユから巴里へ帰る途中にリオンへ寄つて其処の博物館を観た。シヤ※ンヌの
リオンから夜更けて乗つた巴里行の汽車の三等室は途中で降りる労働者を満載して居たが
田舎から出た女であらう、其言葉の調子が純粋の巴里つ子では無さ相だ。或時キキイ自身がおれに向つて二十二歳
の女に紹介した。其中にキキイも居た。巴里へ著いてまだ一ヶ月にしかならないおれは、突然多勢の若い女の
姿も一層淋しく細つて行くやうである。おれはもう大分巴里の事情に通じた気がするので、四月の末日限り此陰気な
へ旅行することになつた。九月の中頃に和蘭陀から巴里へ帰つて来ると、下宿の細君が十日程前の晩キキイが女
と云つた。五月の中頃過ぎに日本から妻が巴里へ来たので、おれは俄に妻を伴れて欧洲の各地へ旅行
の諸国に亘つて漸次増加して行く様である。巴里では※ランティイヌ・ド・サンポワン女史が氏の高弟と称すべき女詩人で
氏はミラノで機関雑誌「ポエジア」を出して居るが、巴里へ来ては仏蘭西語で詩を作り、ポオル・フォオル氏の雑誌「詩
階の一室に土屋工学士が居る。其下の僕が巴里へ着いた初めに居た一室に槇田中尉が居る。近頃は近所のリユウ
鑑別に沢山並べてある為か、又は僕の目が巴里の絵に慣れて仕舞つた為か、兎に角感服すべき物に乏しい。展覧会
僕は大分巴里に慣れて仕舞つた気がするが、何時も飽くことを知らないのはジユラン
家家を誨へて呉れた。ヌエが厳格な菜食主義者なので巴里唯一の菜食料理屋へ行つた。同主義者の男女が大勢食ひに来て
の内藤が感心して居た。其処から左へ折れて巴里天文台の傍のヌエの下宿の三階へ上つた。
歌ふ。「壁を撤した生活」と云ふ詩には巴里の夜の街のどの家の壁も作者の前に無くなつて各人の
は此人の詩を読まないが散文詩許を書いて近年巴里の若い詩人の人気を一身に集めて居る大家だ。此夏詩人王に
持たぬ人の覚え能はぬ快さを覚え申し候。巴里とははや三時間も時の違ひ候ふらん。味気なく候ふかな。我髪梳き
き。私の心は其処に君を呼びまゐらせて再び巴里の家に伴はれんと思へるにて候ひけん。初めてこの夜入浴致し候。
事として糸口許り語り居りしも此夜に候。巴里と此処と未ださばかり時の掛け隔つまじと思ひ候ものからいとど悲しく、
新聞の届きしとて人の見せ給ふを見れば何れも既に巴里の宿にて読みしものに候へば、今更の如く水上に日月なしと覚束な
第二第三の印象を書く暇も無く匆匆として巴里を見捨てたから、其出立後に受取つた其等の手紙の中の二三
同国人に就て少し早計に判断なさいました様です。勿論巴里へ来られた外国婦人が公衆の間に散在して挑発的の化粧をし
次の手紙は巴里市民中の一老紳士ジユウル・フレエル氏から来たものだ。
お手許に達するか否かを懸念しますが、併しあなたは巴里に於て既に著名なお人ですから多分無事にお手許に届くだらうと
藁で巻いた赤い葡萄酒は何うせ廉物だらうが、巴里で飲んだ同じ物より本場丈に快く僕を酔はせた。
巴里を去らうとして
駆歩の旅をして伊太利から帰つて見ると、予が巴里に留まる時日は残り少くなつて居る。せめて今半年も此処に遊んで居
名を記す事を望まれた。翁の談話中に多年巴里に学んで居る彫塑家藤川勇造君の製作を近頃観たと云つて激賞
巨万の慰労金を貰つて国立劇場を隠退した俳優は巴里市で興行することの出来ない規定があるのに、剛腹と我儘とを
学士アンリイ・バタイユの新作「炬火」を演じると云ふので巴里初冬の劇壇は其方へ一寸人気を集めて居る。其れに巨万の
月程日本に滞在して居る中母堂の訃に接して巴里へ帰つたシヤランソン嬢が再び予と前後して東京へ行く筈だ。シベリヤ
巴里より をはり
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ある様であるが、実力を云へば西南戦争に於ける鹿児島の私学校の生徒の如き者が各地に騒ぎ立つて居るのに過ぎないと
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白石六三郎氏の別墅六三園に小憩した。白石氏は長崎の人で上海第一の日本酒楼六三亭の主人であるが、居留邦
第二の程度の物を習つて居る。商科の生徒に長崎生れの木田と云ふ日本少年が一人居て三年前に教会から此処へ
の長いのや裳の大きく拡がつたのなどは、昔長崎へ来た和蘭船の絵の女を見る様に古風である丈今日の
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欧洲航路の船に横浜神戸から乗合せた者は大抵香港へ着く前に話題が尽きて仕舞ふ。碁
五銭を持参して受取れと云ふのである。僕は神戸や門司で五六通の電報を接手したが此処まで追送して呉る
神戸から同船して来た津田の店を訪うて料らず馬来街の遊女街
も二十五円の貯金をする事は容易である。横浜や神戸、大阪あたりから渡来した女は情夫の為に浮ぶ瀬の無い境遇に
。去年良人の出発した時自分は横浜から同じ船で神戸迄見送つたが、其時初めて自分達は近江さんにお目に掛
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を建設したのである。東区の山の如きは恰も岡山の操山を見る様な風に翠色を呈して居るが、其れが皆
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と称し、其他を「田舎」と称して恰も東京から千葉や埼玉へ出掛ける位の心持で便船毎に其等の遠国へ往復する。
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巴里から此処へは四十分で達せられる。土地の感じは京都から伏見へ行くのと似て居る。昔の城や王政時代の離宮の
に当てられる。一体に巴里の女の掃除好きな事は京都の女と似て居る。或日僕が夜に入つて帰つて見ると
の運河などは児戯だと思つた。上流の方には京都の下加茂の森に好く似た中島があつて木立の中に質素な別荘
は青い腰掛が二つ置かれて居る。けれども自分を京都の下加茂辺りに住んで居る気分にさせるのは、それは隣の木深い
た白地に香の図と菊とを染めた友禅と、京都の茅野蕭蕭君に託して買つて貰つた舞扇の一対とを
必ず喜んで斡旋の労を取りませう。東京以外では京都大阪の両都会で開くでせう。場所も適当な宮殿か択ばれるで
見た目に美しい結果を収めようとする用意が著しい。此点は京都の女と似通つた所がある。富んだ女が絹を用ひる所
ブリユツセルは京都程の大きさに過ぎない都で、其れが麹町区の様な高台と神田
一人の老婆とに由つて店を出して居た。而して京都の八坂神社の塔を意外な建込んだ街中に発見する如く、広場の
とは違つたことなんです。Sさんは良人と同じ京都の人で、評判の柔順しい人交際の好い人なんです。米国の
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又彌五郎の茶屋遊びの場などがあつて、最後に仙台侯の邸に打入り武人の面目を保たせて侯に切腹をさせる
相談が済むと力彌に当る彌五郎の息子が敵の仙台侯に仕へて居て仇打を父に思ひ止まれと忠告したり、彌
無いと云ふ。両侯が争ふ。大阪侯が激して仙台侯に斬り附けると云ふのが序幕で、次には大阪侯の切腹、
の扇を主君に差出す。大阪侯は其扇を宮廷で仙台侯に渡す。其場へ頼信が来合せて之は自分の筆で無いと
仙台侯」由良之助が「彌五郎」と作替へられ、仙台侯が大阪侯に託して「頼信」と云ふ一流の画家に帝へ献上
だものだ。鹽谷判官が「大阪侯」高師直が「仙台侯」由良之助が「彌五郎」と作替へられ、仙台侯が大阪侯
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日本人も来て居た。僕が勧めて置いたので長野軍医正の顔も土間の方に見えて居た。
思つて居たら、独逸の留学を終つて日本へ帰る長野軍医正が立寄つたので、昼間は一緒に医科大学を訪ふやら、
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て海路を取り、予の妻は翌年五月五日に東京を立つてシベリヤ鉄道に由り、共に前後して欧洲に向つた。
予等は旅中の見聞記を毎月幾回か東京朝日新聞に寄せねばならぬ義務があつた。猶晶子は雑誌婦人画報などに
をなして居る土地だけに格別革命軍の影響は少い。東京での騒ぎの方が余程大きい様である。
のは何となく淋しい。※田丸記念会を数年後東京に開かうと云ふので会員簿に互に自署し、其れが蒟蒻版
のあるのは博物館と大植物園とだ。博物館の規模は東京のに比べて小さいが、馬来、印度、南洋諸島等の動植物、古噐物
も大規模に※帯植物の有らゆる種類を集めて居て、東京の植物園などは之に比べると不親切極まると云つてよい。少しは日本の
都」と称し、其他を「田舎」と称して恰も東京から千葉や埼玉へ出掛ける位の心持で便船毎に其等の遠国へ往復
な力の弱い血紅色をした小さい太陽を仰ぐ許、東京の様なからりと晴れて冴えた冬空を僕は未だ見ない。併しながら
歩いて人道から人道へ越すときの危険なさ。地方から東京へ初めて出た人が須田町の踏切でうろうろするのは巴里に比べると未だ
外へ出してよく病気に成らない物だと思ふが、東京の様に乾風が吹かないせいもあらう。又巴里の様に日当りの悪い
燻べても容易に温まらない部屋の中で僕はしみじみと東京の家を恋しいと思つて居た。併し夜になつて初めて家族と一緒
つて居る。女は大抵帽を被つて居ない。未だ東京で三年前に買つた儘のを被つて居る僕の帽も此連中
する程ドンゲンの絵が解つて居るのでもない。東京から巴里へ来る画かきが皆同じ老大家の所許へ集るのも気
納める所がある。狭い、穢い、薄暗い冷たい所だ。以前東京の神田あたりにあつた英漢数に国語簿記何んでも教へる随意科
僕は折折スルボン大学を覗きに行くが、東京の帝国大学の講師をして居た事のある、而して神道に関する書物を
両親の愛嬢である。日本語は英語程に話せないらしく、東京を「トオ、キ、ヨ」と発音するのが却て僕達には
来た女なども混つて居る。或一人の女は東京の実践女学校に居た者で先生の御講演を聴いた事があると
に配色が巧であるから見た眼の感じが快い。東京で演じる飜訳劇と云ふ物も西洋人が観たら定めて可笑しな物であらう
何が最も好くないかと云ふと音楽に東京で広目屋が遣るブカブカ調に似た物を用ひた事だ。先年貞奴
無いに違ない。巴里の市内小包は何うかと云ふと東京の様に迅速な配達制度は無く唯一日に三回配達する普通小包丈
だと思ふ。例へば日本の逓信省は去年あたりから東京市内の小包制度に繁雑な拡張を実施し、米俵から洋傘弁当に到る
東京の音楽学校を卒業した音楽家で併せて近年欧洲の飛行機界に名を
の分量を持つて居れば課税するのである。飛行場は東京の青山練兵場に少し広い位の場処で、大小二十幾所の格納庫が
東京の路の様で無く、目まぐるしい程自動車や其他雑多な車の行交
。硝子窓が二つ附いて居る。浦潮斯徳に駐在して居る東京朝日新聞社の通信員八十島氏から贈られた果物の籠、リモナアデの壜、寿司の
ながら朴氏と馬車に乗つて街へ出た。道路は東京より悪い様な処もある。浦潮斯徳程ではないが馬車から落ち相な
王子と王女との寝像の痛いけなのに晶子は東京に残して来た子供等を思ひ泛べて目を潤ませて居るらしい。
驚かずに下りて居る。フツクと云ふ家は何となく東京の王子の扇屋を聯想させる田舎の料理屋である。僕等は朝から
と云ふ事なしに一ヶ月程を送つて仕舞つた。東京に居た自分、殊に出立前三月程の間の忙しかつた自分に
。そんな処に近い※クトル・マツセ町の下宿住居が、東京にも見られない程静かな清清した処だとは自分も来る迄
逸んで居る心には腹も立たなかつた。晶子は東京の有島生馬君から貰つて来た紹介状に皆の名刺を添へて
さに由つては製作をも少しは送りたい。其れから東京以外にも開くべき都会があるか」と問ひ、「此前里昂で自分
如き大新聞社が必ず喜んで斡旋の労を取りませう。東京以外では京都大阪の両都会で開くでせう。場所も適当な宮殿
好い山の手ではあるが、随分車馬の往来の劇しい、一寸東京で言へば内幸町と言つた風の感じのする街で、詩人の住み相
の様な心細さは無いが、矢張気に掛るのは東京に残して来た子供等の上である。
其午後乗合自動車に乗つて東京の銀座と浅草とを一緒にした様に賑やかな、ピカデリイの大通りへ
の散歩に都合が好い。同じく街の中にあつても東京の公園は倫敦の程街に密接して居ないから市民に親しみが乏しく
ヤング氏は曾て日本の音楽と俗謡とを研究する為に東京や薩摩に半年程留まつて居た人で、驚く許り日本語が達者で
埃及模様で描いてあるのを面白いと思ふのである。東京の動物園でも熊の室をアイヌ模様で装飾する位の趣味を加へるが
にか其上に上つて坐る人の出来る事なども、東京の夏の夜の河岸の風情と同じ様である。両国の川開きである
何事に附けても東京に残した子供の思ひ出されるのが自分の思郷病の主な現象であり
年一度の賑ひであると云ふ十月祭の用意に、東京の青山練兵場を半分にした程の公園が見世物小屋の普請で一杯
の田舎へ入つて一週間も留りたいと思つたが、東京に残して来た子供等をひどく気にする晶子が此月の二十一日
時間を費すのは人生を空費する者である。自分が東京に居て台所に働く事を恰も書斎に働くと等しく楽しい事にして
。雨が降つて居ても快く明るい感じを受けるのは東京の郊外の灰がかつたのと異ふ。ムンツルツウ街の五番地も矢張
上陸し給ひケエブルカアに乗り給ひしよしに候。此処にても東京よりの文は手に致さず候ひき。書き難き節の起りつつあるに
峰一郎氏が引受けて東京へ帰つて居るが、翁は東京の有島氏とも協議して便宜に取計らふやう予に依頼され
開く相談は、目下日本大使館の安達峰一郎氏が引受けて東京へ帰つて居るが、翁は東京の有島氏とも協議して便宜に
。翁のデツサン二百余点と十幾個の製作とを東京に送つて展覧会を開く相談は、目下日本大使館の安達峰一郎氏が引受け
で「先年日本の書肆の希望に任せて小さな一書を東京で出版した事がある」と語られたのは予等に取つ
接して巴里へ帰つたシヤランソン嬢が再び予と前後して東京へ行く筈だ。シベリヤを経るのだから予よりも先に着くであらう
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絡繹としながら些の衝突も生じないのを見ると、神田の須田町や駿河台下でうろうろして電車に胆を冷すのはまだ余程呑気
がある。狭い、穢い、薄暗い冷たい所だ。以前東京の神田あたりにあつた英漢数に国語簿記何んでも教へる随意科の私立学校
に過ぎない都で、其れが麹町区の様な高台と神田日本橋両区程の低地とに際立つて区分され、高台の方に王宮初め
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其一人だ。南京路、四馬路などの繁華雑沓は銀座日本橋の大通を眺めて居た心持と大分に違ふ。コンクリイトで堅めた大通
過ぎない都で、其れが麹町区の様な高台と神田日本橋両区程の低地とに際立つて区分され、高台の方に王宮初め諸
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も其一人だ。南京路、四馬路などの繁華雑沓は銀座日本橋の大通を眺めて居た心持と大分に違ふ。コンクリイトで堅めた
其午後乗合自動車に乗つて東京の銀座と浅草とを一緒にした様に賑やかな、ピカデリイの大通りへ出て
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の庭石が目障りになる許りだ。愚園の方は小さな浅草の花屋敷で、動物の外に一寸法師や象皮病で片手が五十封度
其午後乗合自動車に乗つて東京の銀座と浅草とを一緒にした様に賑やかな、ピカデリイの大通りへ出て食事を
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はせて飲んで居たが※は降らない。医学士大久保榮君が一昨年此処の病院で腸窒扶斯で亡くなつたことや、此処
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あるが、随分車馬の往来の劇しい、一寸東京で言へば内幸町と言つた風の感じのする街で、詩人の住み相に思はれない
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ブリユツセルは京都程の大きさに過ぎない都で、其れが麹町区の様な高台と神田日本橋両区程の低地とに際立つて区分され
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河岸のマロニエの樹下道を歩いてトユイルリイ公園へ入つた。上野の動物園前の様な林の中の出茶屋で休んで居ると、傍で
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空に落ちる日の色は紫褐色を漲らして居た。隅田川の半分も無い運河の幅は、屡八千噸の※田丸を擱砂させ