道灌山 / 宮本百合子
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母方の祖父のお墓が養源寺という寺にある。うちの裏門を出て、夜になるとふくろうの鳴く
並んだせまいそのとおりをすこし行って左へ曲ると、じき養源寺があった。
養源寺には、二つ門がある。一つの門は手前にあって、それ
がした。それは気味がわるかった。石の門から養源寺に入ってゆくより、そのとなりについている黒い大きい柱のたった木の門
しいてあって、お寺の正面玄関につづいている。養源寺へ行ったとき、子供たちが一番によるのは、左手にある門番のところだっ
があり、そのそとうばは、昼間日のよくさしている養源寺の墓地にもやっぱりいっぱい古いのや新しいのが立っているのだった。
考えてみると、母はよくその頃、養源寺へお詣りに行った。子供たちの父親がロンドンに行っている留守でひまだっ
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道灌山
いるが、人のとおる道と、すぐそこからはじまっている道灌山との境は誰にもわからなかった。道は、道灌山そのものの崖ぷち
山との境は誰にもわからなかった。道は、道灌山そのものの崖ぷちにそって通っており、三人の子供がきまってそこへ
子供がきまってそこへゆく柵のところも、実はもう道灌山のはずれそのものだったのかもしれない。
た時代と、やっぱり大人の女と一緒ではあったが道灌山のなかで鬼ごっこなどした時代とは、同じでなかった。
道灌山へいっていい? と母にきいて、さておきまりの一隊が出発する
ここは都にするにいいところだと云った山が、道灌山だということだったが、わたしたちが行く道灌山で、見晴らしのきくのは
が、道灌山だということだったが、わたしたちが行く道灌山で、見晴らしのきくのは田端側の崖上だけだった。その崖からは
道灌山の深い草は、かけまわるにも、その中へしゃがんでかくれるにも好都合で気
たのに、こわいことがあって、わたしたち子供は、もう道灌山へは行かなくなってしまった。
じき自分の走る面白さに夢中になって弟をのこし、道灌山と崖ぶちの柵の道とを区切っているからたちのしげみに沿って、体を
、体を内側へすこし傾かせながら大迂廻をし、ずっと道灌山の入りぐち近く逃げて来た。肩よりも高くしげっている草の間を
道灌山の曇りない楽しさは、おびやかされた。青々とはれた空へ翔んでゆき
は、にょっきり草の中から半身あらわしたこわい人によって道灌山から遮断された。
田端へ汽車を見に行ったり、こうして道灌山で遊んだりしたとき、子供たちと一緒に来たのは、誰だったの
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太田道灌が、あっちからこっちへと武蔵野をみまわして、ここは都にするにいいところだと云った山が、道灌
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龍ちゃんと云われた母の甥は横浜のラシャ屋へ婿に行った。行ってみたらば姑に当る四十こした
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このはつは、ある朝いきなり北海道からうちへ来た。そして、富樫とひどい喧嘩をした。紫の紋羽二
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頃、養源寺へお詣りに行った。子供たちの父親がロンドンに行っている留守でひまだったからというばかりが動機ではなかったと
いう話をもち出していた。きっと、その前後、母はロンドンにいる父に相談するにも遠すぎるいろいろの心持から祖父の墓詣りをしばしばする
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二人の男の子と一人の女の子とが田端の汽車を見に、エナメル塗りのトランク型弁当箱をもって、誰だった
田端の汽車は、いつも動いているから目をはなせないし、牧田の牛は
、みんなずっとあとにおこったことがらだった。そのころはまだ田端の汽車や、牧田の牛や子供の生活をみたす豊富な単純さで、
たが、わたしたちが行く道灌山で、見晴らしのきくのは田端側の崖上だけだった。その崖からは三河島一帯が低く遠くまで霞ん
田端へ汽車を見に行ったり、こうして道灌山で遊んだりしたとき
母は美しく肥っていて、歩くのが下手だった。田端の駅まででも俥にのって来た。もとより祖母ではなかったし
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兄に当る一彰さんというひとも前から勘当されて神田の方に謡曲の師匠をしていた。