泡鳴五部作 04 断橋 / 岩野泡鳴
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)を洲本の城に包圍した。そして、義雄の江戸から引きあげて來た父並びにすべての親戚は包圍軍の方に加はる關係で
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エストル川の名を聽くと、その川が廣がつた樺太一等の好風景なるライチシカ湖(アイノが死んで泣くと稱した水海だ)
、普通の建築材並びに板などとして出すのに、樺太の方の事情は、この返事に自分の實際の見聞と調査とを加へ
義雄は鶴次郎に樺太から來た返事を見せ、渠から、木材をいよ/\切り出すとなつた時
自分も浮れた唄を歌つてゐる。そして、自分が樺太で騷いだ時、度々親しみのあつた唄などが出ると、床の中
身受けをしてやり、都合によれば、來年は一緒に樺太へ行かうと受け合つた。女はまた、さうなれば、自分の持つ
ては、木材事業の計畫が駄目になつたと同時に、樺太の弟からまたハガキが來て――なぜ封書でよこさないのだと、義雄
義雄は、弟の所謂「一大事件」とは、樺太で抵當に這入つてゐる所有物件を取られてしまふことであるのを、
この事業であるから、早く切りあげてしまへ。萬一、樺太に於ける所有物件だけが來年まで安全になる相談が附けばよし、附かなけれ
かう云つて、義雄は多少忿懣の氣味で、自分が樺太の通信を東京の或新聞に引き受けた時でも、その三倍もしくは四倍
事業熱にかかつてゐるに等しい義雄には、樺太へ空しくつぎ込んだ自分の資本――而も東京の家宅を抵當にして拵へた
の實を澤山軒に釣るした農家があるのは、樺太で云へば、漁師の戸外におほ蟹を繩で結はへて釣るす
考へると、六月から家を出て、樺太並びに北海道に一と夏を送つたのである。都がなつかしい氣がし
見せる、さ。僕も子供の時乘つた切りだが、樺太にまた行くとすりやア、どうしても馬の稽古をして置かな
ものを嫌つて、一切着なかつたのだが、樺太にゐるとすれば、どうしても、馬と洋服とは避けられないと
。そして、却つて、新らしい物をつけたといふことは、樺太で銘仙の衣物が出來た時と同じ樣に、ちよツと氣持ちがよ
「ダイジオコルスグコイ」とあつた。樺太の弟からで、その大事とは製造事業に關する弟と從兄弟との衝突
渠の考へは、かうして、お鳥と敷島と樺太とを幾遍となく巡囘するので、ます/\睡魔の入り込む透きが
ない)ながら、農業をやつてゐるだけに、生活状態が樺太に於ける一般土人よりも多少進歩してゐる。家には立派な床板も
義雄は、樺太の奧山に入る時、熊よけに、汽船から借りて來た汽笛代用の喇叭
分を手帳に控へた材料から一時に書き出した。そして、樺太以來、見聞と取り調べとを控へて來た手帳が段々餘地のなくなつて
には、もう、雪が降り出しましたとある。「樺太ぢやア、もう、雪が降り出したのだ、ね」と、義雄は云つて
「樺太からのは」と、お綱が注意する。
實は、義雄が樺太にゐる頃から考へてゐたことで、空想の樣だが實行すれば
樺太の明治三十九年、四十年度に於ける過度の發達は驚くべきものであつた
あがり高はすべて海上から直ぐお暇してしまふので、樺太に落ちる金と云つては、ただ小資本家なる雜漁者の手から落ちるだけになつ
落ちてはゐないが、自分の父の遺産をつぎ込んだ樺太の事業が失敗になつた上、その協同相談も駄目になり、木材屋の
進んで渠自身の所謂適者獨存などいふ言葉と共に、樺太の山林が目の前に浮ぶ。
すると、また考へが人種問題ともつれ合つて來て、樺太のギリヤク人種やアイノ人種は白樺のたぐひで、同島に權力を振つて
床屋つきで、直ぐそばにある。而も、それは渠が樺太から有馬の家に着して、初めて、久し振りに、東京に於けると同じ樣な
入院する。その妾は置き去りにするかも分らない。然し樺太の事業が全く失敗だから、どうしても一と先づ東京へ引きあげるよりほか
ベンチの上へどツかり腰をおろす。八月十五日に樺太から一緒に小樽に着し、また一緒に汽車に乘り、この停車場前で別れた
て藝者お仙のことを思ひ出された。自分等と同船で樺太を逃げて來たり、自分等と小樽のはと場で別れてから、あの女放浪者
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夕張炭山線の分岐點なる追分を過ぎ、安平、早來、遠淺など云ふ驛を經て、膽振の沼の端
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伐木工賃及び運搬費の關係と利益少きとの爲め、北海道の栓、タモ等の枕木に及ばず。また、餘り大材少き爲め、
それに、運賃の多くかからない法も考へてあるし、北海道のこの種の木材の事情は、お鈴の弟、原口鶴次郎から調べて貰
にやめられた男だ。實業雜誌の初號にも北海道木材のことを書いたくらゐで、その方の智識は先づ信用出來ると、義雄
―高くなつたのであらう――甚だ少い。その代り、北海道の栗とも云ふべき胡桃やココア(ココのなまりだ)が這入つてゐる
こちらは北海道を巡歴して歸つて來たら、きツと何か一つの事業を握れるだらう
うん、先づ駄目と斷念してゐるから、何か一つ北海道でやりたいのだ。」
する陶器が、運賃と割れとを見込んでだらうが、北海道では、實際五十錢から六十錢する。それを運賃入らず、割れも
おほ蟹を繩で結はへて釣るす型を、北海道的百姓で行つたのだと考へたし、また、途中で葬式の行列に
考へると、六月から家を出て、樺太並びに北海道に一と夏を送つたのである。都がなつかしい氣がして來て
如何に北海道といふ自由な天地に來ても、金がなければ、何等の計畫も
「然し、北海道を囘るには、馬でなければ行かんので、君が馬に乘れる
見た樣なことをして金を儲けたのだ。北海道へ流れ込んだ、殆ど無職業の、勞働者等を客とし、自分が兵隊
峰の下宿に向つた。この日から、然し、義雄は北海道の古本屋に氣をつける樣になつた。
新聞に受け合つた經驗もあり、また、こないだで、多少北海道的な筆ならしをしてあるので、左ほど心配とも思はない。
を理由に水害の恐れなどはない筈だといふが、北海道の川はすべて事情を異にしてゐて、如何に深くとも、沖積土の
「北海道の地圖なら」と、遠藤は押へて、「わたくしが詳しいのを持つ
學校を出た頃)の兩度に、その城主に從つて北海道へ移住した。そして、渠等には淡路をなつかしい故郷と思ふ樣な氣
だけ(それが、現今では、僅かに三十戸)が北海道開拓の祖である。それが中下方にあるが、第二囘の五十戸
、同じ川添ひの碧蘂村にある。兩村は實に北海道の模範村になつてゐる。
、この邊の田園的風致は! わたくしの理想は、北海道中至るところにかういふ村を拵らへさせたいのです。」
太平洋に突出する北海道の東南端、襟裳岬は、幌泉の宿から僅かに三里だ。そして東海岸に出る
ないほど、近よつて見れば、まばらな紅葉林だ。北海道の特色なる十勝原野のそのまた特色は、曾て氷峰が云つた通り、この
樣な幻影だ。義雄はこの幻影によつて實際の北海道を内的に抱擁してしまつたと思ふ。
旭川は北海道中でも最も寒い處で、石油が凍る爲め火が消えることもあると聽
北海道で馬車鐵道の敷設されているのはこの旭川町だが、その鐵道に
幸ひにして、北海道の人士が土人に同情したから、土人は無事であつて、今では
兎に角、北海道の紅葉は槲でなければ、ナラだ。赤いよりは、黄ばみである。
とつけ加へた。義雄はこれを聽くと同時に、北海道の秋は短い、そして冬の來るのが早いと云はれてゐることを、
「さうでせう、北海道の秋は短いものだ。」
かの關係で渠との間をつづけてゐなければ、北海道にゐる以上は、心細いものだと思ふ。渠は北海道の山川、原野をその
、北海道にゐる以上は、心細いものだと思ふ。渠は北海道の山川、原野をその短い秋に迫はれて歸り來たり、而もまたこの室
於ける過度の發達は驚くべきものであつた。内地や北海道の資本家が、一攫千金の見込みで、おの/\數千、數萬金を投じ
、そのまま取り崩し、運賃の安い和船か何かに積み込み、北海道なり、内地なりの港灣地へ持つて行つて賣つたら、必らず儲かるにき
心よく出られただけ、義雄は、自分も亦單に北海道の新聞記者並みに取り扱はれてゐるのではないかと、多少、不面目
ことが矢ツ張り駄目となれば、もう、いよ/\北海道の秋に追はれて來た通り、また金の不足に追はれて一たび
頼みがあるのです」と、義雄はせめて一年なりとも北海道にとどまつて、アイノ並びにその文學を研究するだけの補助を見付けて呉れない
、遠藤を初め新進の人々がずん/\出て來た北海道に於いて、渠等の不得意な筆戰場裏に再び立つのなら知らず、
階級で競爭し、人間はまた獸類と競爭する。北海道には、狼がゐなくなつた。それは一時道廳が懸賞を以つて
たこと。十勝原野や神居古潭の紅葉がよかつたこと。北海道の智識は天聲よりも廣くなつただらうといふこと、などがあつた
「それくらゐに運動しなければ、北海道の樣な新開地では、生存競爭が烈しいから」と、また別な社員
「獨り北海道ばかりぢやアない。」義雄はそれに附け加へて、「人生はすべて新開地だ。
が段々冷淡になつて來たのをおぼえると同時に、北海道の天地も段々冷えて行くのをいよ/\切實に感じて來た。
は實際で、東京の去年あたりからの不景氣が、北海道では、やツとこの頃その絶頂に達してゐるのを思ひ合はせた
東京へ引きあげるよりほかに道がない。都合によると、北海道にとどまることが出來るかも知れないが、それにしても、妾と手
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それから、有馬の家に歸つて見ると、東京からまた原稿料と、樺太廳の知人で、
椎の實の味を思ひ出す樣な味がする。そして、有馬の子供にも與へたのを、渠等がちひさい手でその皮を彈じき
つきメリヤスのシヤツ、ズボン下、並びに附屬品を、義雄は有馬の家で受け取つた。すべてで、それでも、二十五圓か三十圓
てゐるのみではなく、自分がまた氷峰には、有馬の家と同樣に、もしくはそれ以上に、厄介をかけたので、この下宿屋
車を走らせる途中、旅かばんを取りに、ちよツと有馬の家へ寄り、靴を脱ぐのが面倒臭いから、障子が明いてゐるのを
といふものが載つてゐる雜誌を二三部取つて、有馬の家へ歸つた。
札幌區立病院は、――義雄が有馬の家から散歩がてら出ると直ぐ横手に當るので、這入つて時々瞑想に
で、直ぐそばにある。而も、それは渠が樺太から有馬の家に着して、初めて、久し振りに、東京に於けると同じ樣なくつろぎを
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出かけて貰ひたい」と云ふ。然し約束したパスはまだ旭川の支社から返つて來ないので、兎に角、社からそのつもりで預つてゐる
をそろ/\とくだり出すのである。夜に入つて旭川の宿に着し、義雄は心當てにした青年詩人で、そこの某
ゐるものに會ふと、あす早朝、新聞社に内證で旭川を家旅もろとも逃げ出し、先づ小樽へ行き、そこに興行中の雲右衞門の
旭川は北海道中でも最も寒い處で、石油が凍る爲め火が消えることもある
、ほかでは、決してそれを出さないで濟んだこと。旭川でも、メール支局の主任は既に陸軍演習の地に向つた留守で、却つて
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これで衝突の一段落がついたので、義雄は川崎に改めて挨拶すると、
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北海道で馬車鐵道の敷設されているのはこの旭川町だが、その鐵道によつて、師團裏なる新高臺の近所へ行き、
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として、「金」といふ、横濱の貧乏車夫がマニラの富くじに當つて狂死する實話を書いた切りである。今一と口の
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札幌に着いた當座は、羽織を脱いでも暑くツて仕やうがなかつた盛夏が
ココの實を籠に入れて賣りに來たので、札幌の秋にはいい聯想だと思つて、義雄はそれを買つて見た
椎とココア――故郷と札幌――秋と云ふ引き締つた感じが一刹那に強烈になつて來ると、
札幌に來てから早や一ヶ月と十日あまりになつた。義雄の放浪的諸
たところだ。暫らく自分を外へでも向けなければ、札幌の友人等に對しても、おめ/\とぶらついてゐることは出來ない
九月二十八日、義雄が札幌を出發したのは午後の汽車である。
縁として話し合ふのを聽くと、いづれも、札幌の病院へ行つた歸りで、
に着した。直ぐ北海メール支社の主任を訪ふと、札幌へ行つて留守だ。止むを得ず、或宿屋へ行つた。出早々この
最終列車で義雄は札幌へ向つたが、車窓からながめると、舊暦十五夜の月は廣漠たる
つたのである。都がなつかしい氣がして來て、札幌へ向ふのが東京へ歸る樣だ。
遠藤の札幌に於ける住宅は、南二條の七丁目にある。鐵柵をめぐらしたおほき
山に歸つてゐたお君さんがけふ母と共に札幌を通過して、相州鎌倉の親戚の方へ向ふのである。これは、
をつれて姉と姪との迎へに行き、一晩は札幌にとまらせようとして、それを勸めたが、「いツそ、おり
の人氣は川上の來た時よりも盛んである。札幌でも、小樽でも、函館でも、これまでは、浪花節と云へば奈良丸
座でたツた一週間打つたのに、それだけで札幌は後者を忘れてしまつたかの樣に賑はつた。メール社の社長
迎へに來いとあつたのです。然しこの場合、獨りで札幌まで來させるより仕方がないので、さう電報を打つつもりです。」
石狩原野の如きは、札幌でも、岩見澤でも、矢鱈に無考へで樹木を切り倒したり、燒き棄て
であつたから、敷島と左近とに出した。そして、札幌で薄野を殆ど一日もかかさなかつた習慣は、義雄をしてこの村の
に於ける立派な理由があつた。自分はあす歸れる札幌を放浪者の故郷の如く、そして到着してゐるに相違ないお鳥やすすき野
に立つてゐる一と本太いアカダモの高木を、自分の札幌以來外部的にもます/\育ちあがつた姿と仰いで見た。
現在にも、もう、ぐづついてゐる餘裕はない。札幌までの切符を除いてはたツた十錢銀貨と二十錢銀貨とが二三枚
渠が再び釣り橋を渡り、神居古潭の停車場から汽車に乘り、札幌へついたのは十月十六日の夜だ。
まだそんなことに進むまでの親しみを持つてゐるものは、札幌にはゐない。きツと、止むを得ず、兄のもとへ歸るにき
、義雄の歡迎會があつた中島遊園の料理屋で、その札幌の市中のはづれへ、南十數町の道を、渠はしよぼ
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ところで眠るか、若しくは、札幌區立病院へ行つた。小樽の森本春雄が兼ての鼻茸を治療して貰ふ爲め入院してゐるから
川上の來た時よりも盛んである。札幌でも、小樽でも、函館でも、これまでは、浪花節と云へば奈良丸より知らな
早朝、新聞社に内證で旭川を家旅もろとも逃げ出し、先づ小樽へ行き、そこに興行中の雲右衞門の補助にすがり、東京へ歸る
、さきに物集北劍の手から出た書類で、かの小樽の漁業家松田に照會して駄目であつた土地の件を持ち出し、
ひ初め、それをそのままにつぶして船につみ込み、小樽なり、函館なり、青森、酒田、新潟なりへ運ぶ順序と手段とを説明
「ぢやア、ぬかりなく頼む――僕も小樽の宅の方へ手紙をやつて置くから。」
ツかり腰をおろす。八月十五日に樺太から一緒に小樽に着し、また一緒に汽車に乘り、この停車場前で別れた切り、二人
たのにと思ふ。そして、氣を轉じて、「いつ小樽へお歸りです?」
。自分等と同船で樺太を逃げて來たり、自分等と小樽のはと場で別れてから、あの女放浪者はどこへ行つたらう? あの
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と思つて、そこに考へがついたのださうだ。京都あたりで十五錢、二十錢する陶器が、運賃と割れとを見込んでだら
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してをりましたですよ。お鳥さんから今行くから青森まで迎へに來いといふ電報が來ましたので――」
、實は、東京から電報が來て、こちらへ出向くから青森まで迎へに來いとあつたのです。然しこの場合、獨りで札幌まで來
「リヨカウチウユヘヒトリデコイ」といふのを、山形まはりの青森線に當る弘前停車場へ宛て、受信人を上野十二月二日正午發列車中
ままにつぶして船につみ込み、小樽なり、函館なり、青森、酒田、新潟なりへ運ぶ順序と手段とを説明する。そして、マオカなど
。室蘭線へまはつて、そんなことをしてゐれば、青森を出るのが、どうしても、あさつての晩になる。」
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かの女にはあるまいと思ひ直すと、あわて過ぎて、山形まはりのに乘つたかも知れないと考へられる。そして、義雄はそれと
見ると、電報を出したと同時に乘れば、米澤、山形まはりのである。まさか、それには乘るまい、夜中の海岸線であらう。
「リヨカウチウユヘヒトリデコイ」といふのを、山形まはりの青森線に當る弘前停車場へ宛て、受信人を上野十二月二日
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船につみ込み、小樽なり、函館なり、青森、酒田、新潟なりへ運ぶ順序と手段とを説明する。そして、マオカなどは自分が實
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それから、有馬の家に歸つて見ると、東京からまた原稿料と、樺太廳の知人で、第○部長をしてゐる
知人、寧ろ先輩で、石炭に關係してゐるものが一人東京にある。渠は、その人とは、曾て西貢米輸入――失敗で
、自分は、どうしても、生々複雜な自然界、東京といふ酒色と奮鬪との都に育つた人間であつて、呑氣な
はその入院料の安いのを知つて、お鳥を東京で醫師のもとに通はせるよりも、こんなところへ入れた方がよかつ
東京の石炭商なる知人に照會した木材事業に關する一件は、返事
仕込んで行つた釜、その他の機械を据ゑて、東京からつれて行つた人々と共に住んでゐる。テイヤには、從兄弟
ホロドマリには、義雄の弟が東京から仕込んで行つた釜、その他の機械を据ゑて、東京からつれ
の身になるだらう。お前もその覺悟で一先づ東京へ歸れ。――
して、お前一個の方針はお前一個で考へろ。東京に於いて抵當に這入つてゐる家のことも、自分にただ形式的な
義雄は多少忿懣の氣味で、自分が樺太の通信を東京の或新聞に引き受けた時でも、その三倍もしくは四倍分を受け
がもツと都合よく行くものと信じてゐたから、東京へ歸る旅費に拵らへた金を毎晩の井桁樓通ひに使ひ果して
義雄には、樺太へ空しくつぎ込んだ自分の資本――而も東京の家宅を抵當にして拵へた資本――のことが殘念に思ひ出され
都がなつかしい氣がして來て、札幌へ向ふのが東京へ歸る樣だ。
に安く借り受けて、事業の關係上、渠を音づれる東京、その他からの客に對して、見識張つてゐるのである。
と戰慄せざるを得ない。が、「樺太通信」を東京の新聞に受け合つた經驗もあり、また、こないだで、多少北海道的な
「ゆうべ、實は、東京から電報が來て、こちらへ出向くから青森まで迎へに來いとあつたの
如何に考へても、東京へは暫らく歸りたくないし、その上お鳥が來てゐるに相違ない
行き、そこに興行中の雲右衞門の補助にすがり、東京へ歸ると云ふ。
うどんの聲を聽くと、ここの十月十四日が東京の十一月を、もう、過ぎた樣な寒さを感ずる。そして、からころ
、思ひ出したのは、この部落のアイノの所有地を、東京の某富豪が本道の前長官と相謀り、土人等をたばかつて立ちのか
氣を轉じて、再び鐵道馬車に乘り、今度は、東京の砲兵工廠を除いては、わが國唯一のアルコール製造所なる神谷酒造合資會社
東京からよこしてゐたかの女の手紙で見ても、或時はその
義雄の承知してゐるところである。そして、お鳥の東京出發までに、加集その他の男が再び出來てゐたものとすれ
も、さう心配しないでをれと云うて呉れた。あの東京で質に這入つてゐる衣物がないので、どうしたと聽
、義雄は云ひにくかつたが、いつか話した通り、東京から關係者が一人來てゐて、それを病院に入れなければならない
殆ど全く無意味な費用を投じたことにならう。渠には東京の文學者を隨行させて行つたことが既に一つの名譽となつ
通した、またやり通すつもりでゐる學者がないこと。東京の帝國大學には、アイノ語學者を以て任ずる人もあるがすべて
に認めて呉れたら、それだけで先づ滿足だ――東京の一文士――僕は文士と云ふ名詞を嫌ひだが――それが
が樺太から有馬の家に着して、初めて、久し振りに、東京に於けると同じ樣なくつろぎを以つてそのからだを洗つたところである。
義雄は、學校時代を、東京では父の家からかよつたし、仙臺では多く自炊して
、さ」と、女の所謂不景氣は實際で、東京の去年あたりからの不景氣が、北海道では、やツとこの頃その絶頂
、急にからだに冷氣が増すをおぼえて、義雄は東京の歳の暮が來た樣に心細くなり、同時にまた氣が急に
つて、糠臭い氣を發してゐるが、日の光りは東京に於ける冬の日の樣に弱々しいので、急にからだに冷氣
の事業が全く失敗だから、どうしても一と先づ東京へ引きあげるよりほかに道がない。都合によると、北海道にとどまることが
つてから、洗ひ浚ひ云つてしまつたのである。東京から妾が來て、けふ、あすのうちに入院する。その妾は置き去り
森本春雄は、まだ病院を退ける場合でないが、東京にゐる父が卒中で死んだといふ電報を受け取つたので、
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と分らないことはないだらう。」義雄はこの電報が上野でお鳥から受け取られた時間を汽車の時間表に合はせて、どの
夜中の海岸線であらう。然しまた、晝頃から夜なかまで、上野の休息所か宿屋かにゐるだけの甲斐性がかの女にはあるまいと
然しかの女はどの列車で上野を出たらうと調べて見ると、電報を出したと同時に乘れば、
山形まはりの青森線に當る弘前停車場へ宛て、受信人を上野十二月二日正午發列車中の清水お鳥として打電した。