泡鳴五部作 03 放浪 / 岩野泡鳴

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花園町

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松田の家は花園町にあり、四角に室をめぐらした二階建てで、中庭――冬になれ

樺太

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樺太で自分の力に餘る不慣れな事業をして、その着手前に友人ども

捕獲する機械に過ぎないかの樣に見爲してゐる樺太のことだから、番屋の親かた等がそこでの大名風を吹かせる勢ひ

のつきさうな補助もしくは借金もその人から出來ようから、再び樺太へ引ツ返すなり、自分は北海道にゐて、また別に何か一儲け出來る

何か一儲け出來る仕事を見附け、東京へ歸る前に、樺太に於ける失敗の埋め合はせをするなりしようと思つた。

袷と袷羽織とめりやすのシヤツとがある外には、樺太の夏に向きかかつた時拵らへた銘仙の單衣に對の銘仙の

札幌の眞夏は兎に角樺太のよりは暑い。人々がうす物一つで往來してゐる中を、渠

もう十年足らずも會はなかつたのを、渠が樺太へ渡る前に鳥渡立ち寄つて、その住まひは承知してゐた。

また生計上の心配をさしては濟まないと思つて、樺太の失敗はまだ全くの失敗でないこと。並に蟹――これを鑵詰に

東京出發を二ヶ月餘も後らしたうちに、さきへ樺太に行つたもの等が取り返しのつかないへまをやつてしまつた。

見てゐなかつたからだが、今年の成功と共に樺太を引きあげると、こんなところへ東京から愛妾を呼び寄せて暫く閑靜に住んで見

通り過ぎた湯屋に來た。他に客はない。そこで樺太の垢をおとしながら、この夏をいつまでこの湯に這入りに來なければなら

と胸にこたへて來た。弟と從兄弟とが樺太で餓ゑ死にするかも知れないが、かまはないか? 東京で

、勇はゆツたりと煙草の煙を吹きながら、「樺太の方はどうだ、ね?」

「小樽の人で、樺太の鰊取り――」

約し、その箱を製造する目的で、この結氷期に、樺太の山林から木材を切り出すことだ。

計畫がぐれてしまつたとすりやア、その時は樺太の事業が全然失敗と定るわけだが、それにしても僕は暫く東京

ら昔の萬朝記者じみたところがあるのを思ひ出す。樺太では、記者と云へば、殆ど全く北海道の惡習慣を帶びて來た

本場だと思へば、義雄には特に珍らしく感じられた。樺太の三ヶ月とはまた違つた生活がけふから初まるので、何となく愉快

といふ説明も聽いた。渠はひよつツとすると、樺太越年の代りに、北海道の冬を過すかも知れないと考へてゐるので

氣を取り直した。そして、どうしても、この冬は樺太か、北海道かで、どこかの女と共に越年しようといふことを考へ

送つてあるから、そこから稿料をいくらいくら取れ。そして、樺太へ來るなら來い、醫師もあれば、寫眞屋もあるからと、旅行途中

また浮氣をしてゐるのでしよう」とある。そして、樺太へ行くにはなほ更らかねが入る。自分は今持つてゐた不斷着

義雄は、勇にも話した通り、樺太で越年して、木材を切り出したり、創作をしたりするもくろみがあつたの

どうか分りもしないかねを當てにして、樺太へ來いとは氣違ひの云ふことだ。その上、自分を可愛いと思ふなら

上、自分を可愛いと思ふなら、早く歸つて來い、樺太などへ行くのはいやだ。お前の嬶アも氣違ひの樣になつて

その次ぎに、七月二十五日出のがある。それが樺太へ着した最後のものだ。

「ゐられるなら、當分ゐたいと思ふのだ。樺太を研究したから、北海道をもついでに研究したいと思ふし、また、

たり、起きたりさせて貰ひたい、ね――あんまり、樺太で精神を勞したから、その餘波だらう、考へると、この現在でも

方はまだ當てになるか、どうか分らないし、樺太から來るかねと云ふのもどうか分るまい――?」

たのだから、少し融通して呉れ給へ、な、いづれ樺太から來たら返すとして」と、義雄が云ひにくさうに、然し云ひ出せば

然し、これは、自分でも、樺太以來、殊に昨夜來の疲勞の爲めに、身心がゆるんでゐるのだらうと

ある代り、一度しくじれば、もう、立てない。義雄は、樺太で、ナヤシへ行つた時、或大漁業家が失敗して逃げた跡に

か都合をつけて呉れれば、僕も旅行好きだし、樺太をもまはつて來たついでだから、一つ北海道をもまはつて見たい

樺太へ 來たのか 分らない。

單調子な 樺太の 海へ

が、本年は「粗製濫造」が多いこと。品質は、樺太のも、北海道物に決して劣らないこと。「蟹といふ奴は、月夜

が雜誌に掲載されて出る頃にやア、僕の樺太に於ける第二期の仕事も、大分出來てゐるだらうよ」と氷

義雄は朝夕お鳥のことが氣にかかる如く、樺太の方も亦心配で、心配でたまらないのだ。

「せめて、小使だけでも早く樺太から送つて來ればいい。」かう思つて、夕飯後、弟の返電が來

義雄の最近殆ど忘れてゐた家の方から、渠が樺太で書いて、この二三年間、便りしないと云つてやつた最後の手紙―

ゐる樣な心持ちになり、その氣の中に浮ぶ東京、樺太、失敗、失戀、札幌の滯在等が、目がねでのぞく綺麗な景

實は、森本の關係ある漁場は樺太の西海岸に於いて多少勢力があるのを利用して、森本は西海岸の漁業

者は、名を出さないでもいいのなら、義雄が樺太にゐる片手間にやらうと云ふ相談になつてゐる。

上に、その雜誌の關係がつくとすれば、義雄の樺太に於ける位置は一層確かになるにきまつてゐるから、渠も一と

全體、樺太の西海岸と東海岸とは全く利害を異にしてゐる。西は鰊を專

ゐたが、叫んだには、「不都合だ、ねえ、樺太の郵便局は!」

内地や北海道では、滅多にそんなことがないのに、樺太に關する郵便物に不着や紛失の度々あるのは、實に不都合だ」と云ふ

木材に非常な趣味を持つて來た。且、また、樺太に歸れば、見積りした計畫通り、鱒箱や鑵入れ箱の製造かた/

、新主義運動の急先鋒であること。また、今囘、樺太に於ける蟹の鑵詰とかを製造する事業を起し、文壇の餘勢を事業

た「小説家田村氏の二十錢談判」といふのだ。樺太の新聞からの拔萃で、トマリオロの宿屋に於いて、隣室にとまつてゐ

多少その意氣込みが揚らないでもなかつた。そして、樺太滯在中にも、東京新滑稽や、東京朝日新聞などに、お鳥との關係

誰れか一人自分の愛婦に出來る婦人を見つけて呉れ。樺太へ一緒に行つて貰ひたいのだ。自分は、もとの愛婦に棄てられ

家を煩はせることもなく、そしてそのうちには樺太の方も何とか方針がきまつてしまふだらうと思ふ。

主人は、函館から歸つた翌日、直ぐまた樺太の大泊へ渡つたさうだ。同所に、九月一日から三日間、樺太建網

、林檎をむきながら、よも山のことを物語る――多くは樺太に關する話だ。

その話を聽き、また海上を浮ぶ汽船のうちには樺太へ往來するのもあると思へば、義雄の現事業地もたツた一

「僕も樺太は樺太として、北海道で一つ何かしたいと思つてゐる」と

「僕も樺太は樺太として、北海道で一つ何かしたいと思つてゐる」と、自分

晩とまり、翌朝になつて思ひ出したが、義雄が小樽から樺太へ渡る時、ふちの堅い麥藁帽と袷とを旅館に預けて置いた

にすべからざることを當てにしてゐるのだ。樺太のこともさうだ。小樽のこともさうだ。東京の家の處分のこと

新聞で見てゐたが――」加藤は云つて、樺太などよりも、北海道の方が仕事をすれば澤山出來る餘地があることを、

樺太からの便りも一向ないので、仕事の初まり次第云つてよこせといふハガキを

の方がどうなつたのか丸で音沙汰がなく、樺太からも送金して來ない。小樽漁業家の協同問題は駄目になる。すべて

の順序に從ひ、家も忘れ、妻子も忘れてゐる。樺太の事業をも忘れてゐる。そしてまたお鳥をも殆ど忘れてゐた。

樺太の方へは、また、癇癪まぎれの最後の手紙として、これから以後

のやつてゐる事業の進行とが明らかに目に見える。樺太から着した翌日には、氷峰に誇つて、渠のまだぐづ/

先般、樺太廳の或人に照會したことがある。樺太の木材を樺太以外へ輸出する目的で切れば、特別な保護があるので

の或人に照會したことがある。樺太の木材を樺太以外へ輸出する目的で切れば、特別な保護があるので、税も非常

北海道

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殆ど文なしの身になつて、逃げるが如くこそ/\と北海道まで歸つて來た田村義雄だ。

人から出來ようから、再び樺太へ引ツ返すなり、自分は北海道にゐて、また別に何か一儲け出來る仕事を見附け、東京へ歸る前

生えたままにしてある通りを行くと、左りに北海道廳の柵がまはしてある。その柵内に直立して、天を突くさかさ

多少囘復の報知が來ればよし、さうでなければ、北海道で一つ何かいい仕事を見附けなければならない。

然しまだ囘復策が出來さうなので、ちよツと北海道まで歸つて來ました。」

家には手紙を出さない。妻子には自分が二三年間北海道へ行つて、放浪の身となつたと思へと云ひ含めたつもりなのだ

、ジヤガ薯を買ふのと同じ樣な格だらう。北海道に來てから、所帶持ちの苦勞に親しんだ勇が、十餘町の

からかたづいて來たとは云へ、この七八年を、同じ北海道に於て、こんなみじめな状態で送るつもりではなかつた。結婚さへ承諾すれ

さ」と、義雄は半ば勇に同情すると同時に、北海道の新聞記者の多くがまだ專ら昔の萬朝記者じみたところがあるの

のを思ひ出す。樺太では、記者と云へば、殆ど全く北海道の惡習慣を帶びて來たものであるから、新たに記者を傭ふ

來たものであるから、新たに記者を傭ふにも北海道から採用するのを嫌ひ、或新聞などは直接に東京のものを世話して

だ)が這入る。かういふ物も、林檎と同樣、この北海道が本場だと思へば、義雄には特に珍らしく感じられた。樺太の三ヶ月

た。渠はひよつツとすると、樺太越年の代りに、北海道の冬を過すかも知れないと考へてゐるので、札幌の家の建て

た。そして、どうしても、この冬は樺太か、北海道かで、どこかの女と共に越年しようといふことを考へながら、

義雄は肉にカイベツのあしらひを、北海道の涼しい夜風と同樣、初めての如く珍らしく思つたと同時に、香の物代りに出

と枝豆の漬け物とを味はつて、それらを渠の北海道生活に於ける最初の知己であるかの如く思つた。

の間に評判がよく、その一人の如きは、渠が北海道の故郷に歸つたのを追ツかけて來て、慇懃を通じようとした

渠は人に信用される年齡の來るのを待つて、北海道の政治界にうつて出たいのである、それに思ひ附いた一昨年から昨年

分ゐたいと思ふのだ。樺太を研究したから、北海道をもついでに研究したいと思ふし、また、出來るなら、何かやるべき

「やり給へ、北海道は新開地だけに、僕等の樣なあんこにでも仕事をさして呉れる。

「さうだらう。僕は北海道が故郷も同前ぢやから、なつかしさも君のとは違ふだらうけれど

「兎に角、滯在してゐるうちに、どうかして、北海道を旅行して見なければ――」

給へ。有馬君は餘り出たことがない樣ぢやが、北海道を知るには、十勝原野を見なければならん。それも秋がよい。

を輕んずる向きがまだあるのぢや。――然し、北海道なるものを適切に歌つた短歌はおそらく僕のが初めだらう。○○氏

う。○○氏の如きがゐ坐わつてをつて北海道を歌つたのなどと來ては、實にお話にならん――槲の

「北海道の林檎はどうか、ね?」氷峰はそのひと切れを手に取りあげながら

「北海道の枝豆萬歳ぢや、な」と云ひながら、氷峰は立つて碁盤を持ち出し

「本當に今年は北海道の大入りぢや」と、北劍はまた浪人的な目つきをして、「後藤

さんも島田君や物集君の樣な知己を得て、北海道の旅行も寂しくはあるまい。」

會社の取締役の某氏を批評した物、一つは、北海道で有名な人々の逸事を書いた物だ。雜誌第一號に出るのだ

話す。その後家さんは鈴木玉壽と云つて、亭主と北海道へ移住して失敗したものだ。

北海道の風俗が亂れてゐることは兼て聽いてゐたが、その實際

「北海道でもそんなことは珍らしくない」と、氷峰が云ふ。

「急に出來た身代は急に倒れるのが北海道の原則らしい」と、呑牛は平氣だ。「僕等はその間にあつ

文壇の近状を談話して呉れろといふことや、一度北海道を巡遊して、その記事を新聞に出して呉れるといいがといふことなど

し、樺太をもまはつて來たついでだから、一つ北海道をもまはつて見たいが」と、渠は當つて見た。

興奮してゐて、なか/\眠られない。そして、北海道といふところは、僅かにまだ二三日の滯在だが、その間に見聞し

も容易く儲かれば、女も直ぐ得られる樣に思ふ――北海道は若々しい!

すると、北海道――と云つて、札幌だらうが――に人間はひとりもゐず、

「粗製濫造」が多いこと。品質は、樺太のも、北海道物に決して劣らないこと。「蟹といふ奴は、月夜には身が

「北海道物は不良品があつたら、製造家の怠慢もしくは不正行爲である。何となれ

製造家の怠慢もしくは不正行爲である。何となれば、北海道の製造家等は古くから良不良の經驗をしてゐるからである。(

の二重圈點。)然し樺太物に不良品が出れば、北海道のと同樣、製造家の知りつつ惡意的に手を省くところから來るの

所謂放浪とやらをおしなさい。妻子は東京で、あなたは北海道で、かつゑ死にをすれば、さぞ世の中でえらいと賞めましよう。世間はあなた

「内地や北海道では、滅多にそんなことがないのに、樺太に關する郵便物に不着や紛失

さ時雨』を聽くと非常に愉快になりますが、北海道の『追分』を聽くとその反對に非常に悲しくなる。好きな女が

は殘つてゐた。そしてその記者は義雄に向ひ、北海道を巡遊する機會があるから行かないかと語つた。紀行文さへ貰へば、

、義雄に向つて云つた、「けふの樣な會は北海道に初めてぢやぞ――東都文士の團體を歡迎したことはあるけれど、

そんな人間が多くあるのを、義雄は北海道に來てから知つてゐるので、呑牛がどちらであつても、

にたツた一個ある引き上げ蒸氣機械(所有主は今北海道の福島に歸つてゐる)を、本年の十一月から來年の漁業期前まで

へでも飛び歩けるが、結婚でもすれば、東京か北海道で定住する樣な仕事を見つけるつもりだとうち明けたのに答へて、義雄は

「僕も樺太は樺太として、北海道で一つ何かしたいと思つてゐる」と、自分は北海道を知らな

一つ何かしたいと思つてゐる」と、自分は北海道を知らなかつたから、あちらへ先づ手を出したが、知つてゐ

たが――」加藤は云つて、樺太などよりも、北海道の方が仕事をすれば澤山出來る餘地があることを、あれやこれやと

「北海道には、まだ不思議なことが多いよ」と、北劍は義雄の感服し

男爵後藤遞相を送り、駄句り屋子爵岡部法相を送つた北海道は、今また伊藤公爵と韓太子とを迎へた。

、少しもそれを旭川から取り寄せる手つづきを熱心にやらない。北海道巡遊も、もう、當てにはならないのだ。

したのだから」と、義雄は少し反抗的に、「北海道ではなほ更ら平氣だらうが――」勇の家、いや、札幌ばかりが

勇の家、いや、札幌ばかりが自分の好奇心を引いた北海道ではないことをほのめかして、「然し、兎に角、かう軍用金が不自由では、

「北海道の冬は」と、勇もこちらの土地不案内を諷ずる口調で、「來る

「北海道に於ける絶後ではないかも知れぬが、空前の大雜誌だらう」

團の引ツ張り合ひをした。そして、義雄は、北海道は夜中になると、夏でもなか/\寒いといふことを實驗し

でそれをあざ笑ひ、こんな種類の桂庵的がゐる爲め、北海道のをんなの風儀が亂れるのだと憤慨もしかねなかつた。

しない陶器が運賃やら割れやらを見込んでだらうが、北海道に來ると、實際、五十錢から六十錢する。それを運賃入らず、

なるのだらうから、早く引きあげるやうにしろ。自分は、北海道でも見込がつかないから、全然失敗と見て東京へ歸る。然し、いよ

、と義雄は思つてゐる。それを切り出して、一つ北海道の木材と競爭する計畫を立てて見たいので、それに關する問ひ合せの

有馬

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翌朝、義雄が有馬の家で目を覺ました時は、勇もお綱も食事を初める

置き通り、島田の家を訪問した。島田の家は有馬の家と同じ通り條の六七丁目違つたところにあり、札幌を一直線に南北

左りに曲れば有馬の家へ行くのだ。然し渠は右に曲つて、氷峰の家

そこで正午過ぎまで熟睡してから、義雄は有馬の家へ歸つて見た。餘り所在なさに、新聞を讀むばかりにも

、出した雜誌並に手帳をふところにして、直ぐまた有馬の家を出で、獨りでぶら/\歩いて見た。

、夕飯後、弟の返電が來てゐるだらうと、有馬の家をたづねた。

義雄は勇と共に有馬の家まで歸つたが、あがらないで、弟の返電が來てゐるか、

の手傳ひなどをしてやり、それに飽くと、有馬の家へ行くが、勇夫婦とは氣が合はないので、多くは

晝から有馬の家へ行けば、夫婦であすの月末拂ひを六ヶ敷さうに勘定して

然し義雄が行くつもりで夕飯後有馬の家からやつて來ると、氷峰はゐない。

こんな冗談の應對をした跡で、義雄はまた有馬の家へ引ツ返した。

久し振りだ、話さう」と、義雄は渠をつれて、有馬の家へあがつた。

義雄は加藤を有馬の客間に招じ、勝手にがらす窓を明けて涼しい夜風を通し、渠を勇に

と、義雄はそこへ行つて居候暮しも出來ないから、有馬の家に置いて貰ふことになつた。

獨りふら/\と有馬の家を出で、暗やみの道を、博物館わきに於いて、かのアカダモ――

義雄が有馬の家へ歸ると、原稿料がかはせで一と口、友人からの電報

それを郵便局へ行つて受け取つた歸り途で、有馬の子供にやるみやげや、夕飯の馳走を買つた。

晩酌のほろ醉ひにまかせて、義雄は有馬の家から二三町さきの巖本天聲を音づれた。

然し、まア、お休みなさい。」かう云つて、渠は再び有馬の家を出た。

旭川

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だ。パス/\と云つてゐながら、少しもそれを旭川から取り寄せる手つづきを熱心にやらない。北海道巡遊も、もう、當てにはならないの

法主に次いで、著明なものとなり、札幌、小樽、旭川、帶廣、函館等に於いては、直ぐ知らないものはないほどになつた

て、次號の材料並びに廣告を取る爲め、小樽、旭川、帶廣、釧路、室蘭地方へ、社員を分派したところだ。

にしなくてもよからう」と云つて、パスのことを旭川へ度々云つてやつて貰ふのだが、旭川の支局長がなか/\

ことを旭川へ度々云つてやつて貰ふのだが、旭川の支局長がなか/\ずぼらで、今囘に限らず、いつも滅多に返し

川崎

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、全體、この老人などをこの席へ招待したのは川崎の不注意であつて、酷に云へば、仲間を侮辱したのだと思は

ので渠に熱心な女が先づ飛び出して來たが、川崎のゐるのを見て、

「あら、兄さん」と、まごついた。川崎は暖簾をこぐつてあがる時、兩の袖で顏を隱してゐた。

酒の席では、川崎と氷峰とがどちらも感づいて、をかしな遠慮がちの鞘當てがあつた

感づいて、をかしな遠慮がちの鞘當てがあつたが、川崎は高見呑牛と同じ事情で女郎屋にとまつたことがない。然し請負師

岩沼町

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見ると、「宮城縣岩沼町――荒物商――平民――大野富藏次女、梅代――明治二十年九

宮城

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見ると、「宮城縣岩沼町――荒物商――平民――大野富藏次女、梅代――明治

札幌

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、船中で皆と一緒に相談してゐた通り、直ぐ札幌へ行つて、興行中の東京相撲を見ようと云ふ。そして、他の二人(

へ電話をかけたのだ。義雄も渠等と一緒に札幌へ來た。

札幌の眞夏は兎に角樺太のよりは暑い。人々がうす物一つで往來し

しては、苦しい事情があるかも知れない。兎に角、札幌へ來ての第一着は、自分のその日を送るに足るだけの定

の冬を過すかも知れないと考へてゐるので、札幌の家の建て方をも注意した。

の家と同じ通り條の六七丁目違つたところにあり、札幌を一直線に南北に仕切る水道の一つ手前の横町だ。柳やイタヤもみぢなど

、なか/\資本を出して呉れるものがない。半歳ばかり札幌に於て流浪してゐるうち、生活上の困難がつみ重つて來たの

つて見、「こんなに寫眞銅版が出來て來たが、札幌だけでは間に合はんので、仙臺まで材料を送つて拵へさすの

さア、散歩に出よう。」氷峰は渠を促す、「札幌の夏の夜景も見て置き給へ。」

て歩いてゐても、平氣なものだと思つた。札幌には、知つてゐる人もなく、自分の曾て教へた生徒もゐない

風が肌から沁み込むのに氣がつくと、自分は札幌の中央を南北に仕切る大通りの細長い散策地に出た。芝草の青々した

百姓馬子だ。アカダモやイタヤもみぢの影がつき添つてゐる札幌の市街を、かうして賣り歩くのかと思ふと、義雄には、それ

札幌は石狩原野の大開墾地に圍まれ、六萬の人口を抱擁する都會で

ふ限り、またもろこしの香ばしいにほひがしてゐる限り、札幌は自分の心に親しみがあつて、自分の滯在地と云ふよりも、寧ろ

すると、北海道――と云つて、札幌だらうが――に人間はひとりもゐず、内地のとは違つて樹木

その氣の中に浮ぶ東京、樺太、失敗、失戀、札幌の滯在等が、目がねでのぞく綺麗な景の樣に、自分の世界

だから、この手紙着次第直ぐ印刷上の見積りをどこか札幌の印刷屋でさして、郵送して呉れと云ふんだ。」かう云つて

たのかなど冷かされては、今度もしかの女を札幌へ呼んだ時の自分の威嚴に關すると思つたからである。

の濱野繁太郎、後藤遞相を室蘭へ送つて行つて、今札幌へ歸つて來た道會議員の松本雄次郎などだ。來ると云つて來なかつ

まぎらせるつもりであつたが、この會に依つてます/\札幌に親しみが出て來ただけ、自分もかの女を競爭することが出來

今は、その繁榮を小樽に奪はれてしまつた。札幌を純粹な官吏町とすれば、小樽は敏活な活動地である。

旅館に行き、帽子を取りかへ、袷を受け取つて、札幌に歸つた。然しいい首尾もないので、氷峰の家の敷居を跨ぎ

川上一座は、先月から函館へ來たついでに、小樽並びに札幌の大黒座で五日づつ、都合十日間、二萬五千圓で賣り込まう

附いて、漸く興行をしてゐるのである。そして、札幌での人氣はよくない。

然しただ、東京と札幌と、海山何百里の隔てがこの論戰の筆を渠に執らせるのだ

「せめて、札幌だけにでも、もツと親しんで見たいものだが」と思ふと、

た樣であつたが、充分の用意がなくつては、札幌の冬は寒いから、ね。」

なほ更ら平氣だらうが――」勇の家、いや、札幌ばかりが自分の好奇心を引いた北海道ではないことをほのめかして、「然し、

伊藤大師、本願寺法主に次いで、著明なものとなり、札幌、小樽、旭川、帶廣、函館等に於いては、直ぐ知らないものはない

があつたこと。などを話す。呑牛は、また、札幌の遊女や藝者の個人的内幕や、知名の人士の遊び振りを素ツ破拔く

福原

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そして、自分が十四の時神戸で初めて福原へつれて行かれ、こはいので、ただ眠つたばかりで歸つたあとの

小樽

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小樽直行の汽船へマオカから乘り込んだ時、義雄の知つてゐる料理屋の

てゐればいいからといふ考へである。その相談はどうせ小樽に着してからでなければ孰れとも定められない事情であつた。が

小樽へ着くと、直ぐ、お仙は獨りでどこかへ行つてしまつた。

小樽在住の番屋と共に同船して來たのは、小樽に着けば直ぐ來年の事業擴張の相談を濟ますつもりであつた。それ

處分することが出來る。然し渠自身はさうは行かない。小樽在住の番屋と共に同船して來たのは、小樽に着けば直ぐ

先づ、心に浮んだのは、今しがた、小樽の埠頭で別れたかのお仙はどこへ行つたか知らんといふこと

と現状とばかりでなく、來年の發展策として、小樽の漁業家と協同しようとする相談があることをもつけ加へた。

「小樽の人で、樺太の鰊取り――」

。」勇は相談でもかけるやうに云ひ出した、「小樽の方はまだ當てになるか、どうか分らないし、樺太から來る

峰が氣を利かせたやうに返事を引き受けた、「小樽の松田などア、兄の方は道會議員でも目に一丁字

炭山には、今、身持ちになつてゐるのがある。小樽に遊女をしてゐるのがある。それに、この寢卷きの主がゐる

次ぎは、「乘り込み」と云ふのだが、小樽で樺太行きの汽船に乘り込むと、今しも積み荷をおろす人夫の賑やかな

のまだ分らない成功を何ヶ月か待つてゐるよりも、小樽の松田の方を何とかまとめるのが近道だと思つてゐる。

氷峰の家の客の樣になつてしまつた。小樽へ出した手紙の宿所もここにしてあつたから、ここへその返事

北海實業雜誌の印刷屋で見積り書を取り、それを小樽へ郵送するついでに、

ほかに、集つたのは旬刊北海新聞の菅野雪影、小樽新報支社の北山孤雲。以上の諸氏は孰れもその部下二三名から五六名

義雄がそこを出る時、そこの電話を借りて、小樽の森本春雄と五分間の話をかはした。いよいよ明日頃は函館

「君は今朝の小樽新報を見たか」と聽かれたので、

、早速氷峰に從つて北海實業雜誌社に歸り、小樽新報を探してゐると、氷峰が、

、義雄がなほ探して見て、發見したのは小樽新報の欄外に出た「小説家田村氏の二十錢談判」といふのだ

八月二十九日の夕かた、小樽の森本が義雄を訪問して來た。義雄はその時生憎留守であつ

のに相違ないから、その翌日、義雄は樣子を見に小樽へ出かけた。

てしまつた。札幌を純粹な官吏町とすれば、小樽は敏活な活動地である。

繁華は昔の夢であつて、今は、その繁榮を小樽に奪はれてしまつた。札幌を純粹な官吏町とすれば、小樽

小樽は北海道中最も商業的な都會で、金融機關が最もよく備はり、

九十六圓、男五人、女十人の出面賃。運賃(小樽まで)――三十圓。計、六百六十三圓六十餞也。

「小樽の街でも歩いて見ようか」と、森本が云ひ出したのについ

それから、二人して小樽のでこぼこした有名な石ころ道を歩み、街をまはつてから、山

「小樽には、天然セメントの出る山があるので、築港にも非常な便利

一と晩とまり、翌朝になつて思ひ出したが、義雄が小樽から樺太へ渡る時、ふちの堅い麥藁帽と袷とを旅館に預け

てにしてゐるのだ。樺太のこともさうだ。小樽のこともさうだ。東京の家の處分のことも、賣れるか、賣れ

川上一座は、先月から函館へ來たついでに、小樽並びに札幌の大黒座で五日づつ、都合十日間、二萬五千圓

。都合いいものなら、それを目あてにして、手近くは小樽の森本に謀り、それで行かなければ、東京の一二の知人に相談を

、義雄は答へて、それもどうだか分らないが、小樽の松田へ先づ相談しようと自分だけで決める。

の未墾地に關して義雄が照會したその返事が小樽から來た。無論、森本の手紙である。

とあつて、先づ、義雄の最も多く望みを屬して、小樽までも念押しに出かけた協同問題はすツぱり斷わりだ。

成功調査を受ける爲め、雇ひ技師がその地に向つて小樽を出發したが、それが歸り次第、兎に角、一度書類を見ようと

で音沙汰がなく、樺太からも送金して來ない。小樽漁業家の協同問題は駄目になる。すべて初めに云つたこととは違

太子のよりも多く、諸新聞に出た。北海メールや小樽新報は勿論、高見呑牛の編輯する北星にも、渠の人物評や

前を、高砂樓のなじみやら、歡迎會の藝者やら、小樽の料理屋のや、路上で印象を得た女やらの記憶が、度々通り過ぎる

、三十錢に賣つても、利益は充分に望まれよう。小樽附近にも陶器原料にいい土があるさうだが、貞子の方では

全道各地の書店へ發送したのは勿論、北海メール、小樽新報、並びに北星に出た大きな廣告を見て、講讀を申し込んで

、本願寺法主に次いで、著明なものとなり、札幌、小樽、旭川、帶廣、函館等に於いては、直ぐ知らないものはないほど

ゐる矢さきに、禿安はどう感づいたのか、例の小樽新報の孤雲がまだ歌ひ出さないで、「アオウ、アオウ」を頻りに

分配して、次號の材料並びに廣告を取る爲め、小樽、旭川、帶廣、釧路、室蘭地方へ、社員を分派したところだ。

がをられるので、好都合ですが」と云つて、今度小樽に商業學校が設けられたが、その教頭になつて呉れないかといふ

に發見されてから、評判になつたのだ。今小樽にゐると云ふのが乃ちその主だ。

京都

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八九年前の同僚時代のことを思ひ出した。「一緒に京都や竹生島などへよく旅行や見物に出かけたりして、仲がよかつ

に圍まれ、六萬の人口を抱擁する都會で、古い京都のそれよりも一層正しく、東西南北に確實な井桁を刻み、それがこの

その事業とは、瀬戸物製造である。京都あたりで十五錢、二十錢しかしない陶器が運賃やら割れやらを見込んで

青森

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てゐて、それと手を切りたいと云つてゐた青森の女はどうしました?」かう云ふことを思ひ出して、その人で

前なものを世話することは出來ない。それに、あの青森生れの婦人はどこへ行つたか分らない。お望みの種類の女なら

福島

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ツた一個ある引き上げ蒸氣機械(所有主は今北海道の福島に歸つてゐる)を、本年の十一月から來年の漁業期前まで、

神戸

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そして、自分が十四の時神戸で初めて福原へつれて行かれ、こはいので、ただ眠つたばかりで

東京

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してゐた通り、直ぐ札幌へ行つて、興行中の東京相撲を見ようと云ふ。そして、他の二人(これは函館の人であつ

ゐて、また別に何か一儲け出來る仕事を見附け、東京へ歸る前に、樺太に於ける失敗の埋め合はせをするなりしよう

せざるを得ない。手にしてゐる風呂敷包みに、東京の雜誌二三册と手帳と、不斷衣の袷と袷羽織とめりやすのシヤツ

つて來る筈になつてゐるといふこと。さなくも、東京の家を賣る筈だから、今月中にはそツちからも金を送つて

、自分の所有になつた家を抵當にしてしまひ、東京では、それが今月中に流れてしまふかも知れないのである。そして

渠はそれツきり東京の家には手紙を出さない。妻子には自分が二三年間北海道へ行つ

整理やら、不足金の調達やら、愛妾の病氣介抱やらで、東京出發を二ヶ月餘も後らしたうちに、さきへ樺太に行つたもの

第一製造期の終りであつたが、利益どころか、東京の家を抵當にして拵らへた製造所が、諸機械ぐるみ、また抵當

、今年の成功と共に樺太を引きあげると、こんなところへ東京から愛妾を呼び寄せて暫く閑靜に住んで見たいと思つた。然しその

死にするかも知れないが、かまはないか? 東京で、妻子は心配の爲めに病氣になるかも知れないが、いいか

ア青くツても喰へるやつだ。」勇は生來の東京ツ子口調を出して、

のよりは十層倍も安いのに、義雄は驚いた。東京で、ジヤガ薯を買ふのと同じ樣な格だらう。北海道に來

いふ思案が附いてゐないのだ。「まかり間違へば、東京へ歸るだけのこと、さ。然し僕は眞實歸りたくない。」渠は

をつれて、再びあちらへ渡り、マオカで越年しながら、東京の或新聞に長篇の小説を書いて送りたいのだし――」

暫く東京へ歸りたくない――と云ふのは、だ、東京を出る時隨分盛んな意氣込みで出て來たのに、僅か三

失敗と定るわけだが、それにしても僕は暫く東京へ歸りたくない――と云ふのは、だ、東京を出る時隨分盛ん

ないもないことだ――今僕はどの面をさげて東京の友人等に會はれよう?」

送るつもりではなかつた。結婚さへ承諾すれば、望み通り東京の學校へ轉任運動をして、やがては都の生活をさせて貰

も北海道から採用するのを嫌ひ、或新聞などは直接に東京のものを世話して貰ひたいと、義雄にわざわざ頼み込んで來たことも

東京の或耶蘇教學校で同級にゐた時、西洋人の教師を夜に乘

ツとやればいいのにと思つた。そして、自分の東京に於ける書棚の澤山の書册が、今囘は、どうなるだらう

ながら、「どうしてゐるか分らないのだ。僕が東京を出る時は二ヶ月ばかりで歸るつもりであつたから、その間だけの

つて下さい。さうでなければ、越年など云はないで、早く東京へ歸つて來て下さい。お顏が見たくて見たくてたまりません

ます。話し相手も、相談相手もないからだで、廣い東京にどうしたらよいか途方にくれましよう。どうぞおかねを送つて下さい

渠はもと東京に於ける某歌人の門弟で、十七八歳の時、既に出藍の

た。そして、それが直り、病院を退くと同時に、東京の諸實業雜誌に似た樣なものを發刊するもくろみが立つたの

、渠は歌よみは勿論、新聞記者をもやめて、東京に於ける或私立大學の政治科へ入學してゐたが、その時期

ので、仙臺まで材料を送つて拵へさすのぢや。東京などと違つて、萬事が不自由で困る。」

」義雄は卷煙草をつけ換へながら、「その代り、東京の雜誌や新聞の競爭を受けないで、北海道專門のものを廣める

浮んだ。義雄はまた東京の妻子を見たくないこと、東京の友人に當分顏を會はせたくないことなどの意を氷峰

したといふ樣子がその顏に浮んだ。義雄はまた東京の妻子を見たくないこと、東京の友人に當分顏を會はせ

まいから、なア――普通の月ならよからうが、今月は東京のお客さんがたが、大臣やら、次官やら、隨分飛び込んで來たので、

もなく、自分の曾て教へた生徒もゐないので、東京に於けるが如く不意にお辭儀される恐れがないからである。

「燒きもろこしは」と、氷峰は微笑しながら、「東京の燒き芋の樣に、女の好くもの、さ。」

も飽き、風呂敷包みの中にある、趣味や早稻田文學の東京から送つて來たのを取りに來たのだ。

を應用されては困る」と、義雄は云ひながら、東京の諸新聞がこの語を洒落に惡用した結果を、この地に來

「東京を 去り、友輩に 遠ざかり、

やら、賣り込みさきとの談判やらの爲めに、函館、東京などへ出てしまふ。

義雄等は東京から來て、事業が小規模なので、マオカの問屋と直き取引に

義雄は全體碁よりも、玉突が好きだ。東京では毎日の樣にやつてゐたのが、マオカでは旅館に臺

でも、あなたの所謂放浪とやらをおしなさい。妻子は東京で、あなたは北海道で、かつゑ死にをすれば、さぞ世の中でえらいと賞め

吐いてゐる樣な心持ちになり、その氣の中に浮ぶ東京、樺太、失敗、失戀、札幌の滯在等が、目がねでのぞく

無謀過ぎるだらうと、義雄が忠告した。では、東京の一新聞を相當の金で抱き込まうかと云ふことであつた。それ

義雄は封書に「東京市京橋區木挽町二丁目三番地海老名方清水鳥子殿」の宛名を書き、それ

た。そして、樺太滯在中にも、東京新滑稽や、東京朝日新聞などに、お鳥との關係を書かれたことを思ひ出した。

揚らないでもなかつた。そして、樺太滯在中にも、東京新滑稽や、東京朝日新聞などに、お鳥との關係を書かれたこと

實は、お鳥の手紙を受け取る前に、渠は東京の友人なる或婦人に云つてやつたことがある。誰れか一人自分の

はどこへでも飛び歩けるが、結婚でもすれば、東京か北海道で定住する樣な仕事を見つけるつもりだとうち明けたのに答へて

。樺太のこともさうだ。小樽のこともさうだ。東京の家の處分のことも、賣れるか、賣れないか分らないから、さう

新らしい物を書き出す勇氣はないので、義雄は自分が東京出發前後に書きかけた小説――面白くないので、中絶してある

、手近くは小樽の森本に謀り、それで行かなければ、東京の一二の知人に相談をかけて見たいと思ふ。農業や牧畜などより

「あなたのことが東京の新聞に出てをります、なア」と云つて、お豐は前日の

た。心ではこんな復讎をされるには、自分の東京に於ける家がまだ賣れないで、借りた元金や利子を妻がまだ

し出したらしい。それが目に立つほどになつた。東京の家の方がどうなつたのか丸で音沙汰がなく、樺太から

失敗だらうから」と、勇は忠告がましく云つた。「東京へ歸つた方がよからう――こないだ出したといふ原稿料が來たら、それで

いツそのこと、思ひ切つて、東京の自由な友人間へ歸らうかとも思はないではない。然し、

然しただ、東京と札幌と、海山何百里の隔てがこの論戰の筆を渠に執ら

「この原稿を書き終はつて東京へ送つても、若し出すところがなくツて、稿料が取れないなら、當座

「なアに、それはけふ東京の友人二三名へ云つてやつたから、どれからか送つて來る、さ

ふと、思ひ附いたのは、そば屋といふ物だ。東京などとは違つて、云つて見れば、そこが仙臺なら汁粉屋と

てゐる。材料はすべて北海道專門だが、その體裁は東京のおもな實業雜誌にも劣つてゐない。廣告も澤山あつて、

、北海道でも見込がつかないから、全然失敗と見て東京へ歸る。然し、いよ/\出發となれば、電報を打つといふ

「或はさうかも知れない。」義雄は、東京へ歸つても、もとの如き立ち場が得られるか、どうかといふ

渠はもと或東京新聞の記者をしてゐたが、今は當地の或中學で、

の細君に強ひられて、ついその氣になつたこと。東京で石部金吉と云はれてゐた時、歌を縁にいろんな申し込みがあつ

のまだ飽かない燒けツ腹のこの放浪を――無理に東京などへは歸らないで――かの女と一緒につづけてもかまはない

上野

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/\と思ひ浮べられるのは、出發の際お鳥が上野まで見送つて來て、いよ/\汽車に乘り込むといふ場合に、

六月二日附のはお鳥が義雄に上野で別れた日の夜認めたもので、手を握られた時の嬉

京橋

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義雄は封書に「東京市京橋區木挽町二丁目三番地海老名方清水鳥子殿」の宛名を書き、それを手